津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

訃報二件

2010-08-02 14:02:49 | 歴史
「度支彙凾」の文化七年の項の「七一六」に訃報が二つ記されている。

 一、有吉主膳殿病死ニ付、六月十六日より日數三日穏便觸有之候事
 一、於江戸おらく御方五月廿日卒去二付、六月十七日より日數十日
   繕作事五日相止可申旨御觸有之候事

 有吉家のことについては「七一九」にその後の事が記されている。
 一、有吉主膳殿儀、有吉七郎殿を養子奉願置被相果候、依之名跡相
   續被仰付、主然殿へ御預被置候組をも直ニ御預被遊、座順代々
   之通被仰付旨今日申渡有之候、此段觸支配方へも相知可申旨御
   用番被申聞候條、已下例文
      九月廿三日            御奉行中

 「七二四」には改名の事が記されている。
 一、有吉七郎殿儀、将監殿と改名之達十一月廿五日有之候事

 さて「おらく殿」についてはよく判らない。齊護の末娘「喜久姫」の生母に「羅久」という人があるが時代があわない。喜久姫は米沢藩の上杉龍千代(のち十四代茂憲)に嫁いだ人だが「弘化元年甲辰九月廿日龍口邸二生ル」とある。となると細川家の関係者では無さそうである。徳川家の人であろうか?。
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落書き

2010-08-02 08:02:01 | 歴史
 何所の町でも見受けられるのが、スプレーによる落書きである。藩政時代に於いても同様の不埒者がいたらしい。

   寛政九年十二月御達

御城下御侍屋敷之内、外向之壁ニ戯書等いたし候儀有之、折角修復被致候詮も無之、小児又は卑賤之者之致方とハ乍申不埒之事ニ付、一統申付候間、家来/\ハ不及申屋敷番等之者へも堅被申付候様、萬一右躰之儀候ハゝ見逢次第何者たり共捕候て、其名を承届相達候様、廻役之者へ申付置候間、其段被申付候様ニとの趣、天明七年及達置候處、近比相弛候哉、外向壁ニ戯書いたし、折角新規作事之所も無程不見分ニ相成、其詮も無之、不埒之致方ニ付、猶又廻役之者より屹ト致吟味候様及達候、右躰之様子定て無辨卑賤之者之仕業ニて可有之候得共、萬一ニも御侍子弟之内ニ有之、廻役より姓名等承糺候様之儀等有之候得は、苦々敷儀ニ有之候得共、右御達之筋を背候輩ハ吟味之場二至、用捨可有之様も無之事ニ付、自然之儀も可有之哉、依之兼て父兄よりも精々心を被附、勿論家来/\えも彌心屹ト可被申付候、此段一統可及達旨候條左様御心得、御同役へ御達、御組々えも可被成御達候、以上
   十二月廿九日                御奉行中
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