「度支彙凾」の文化七年の項の「七一六」に訃報が二つ記されている。
一、有吉主膳殿病死ニ付、六月十六日より日數三日穏便觸有之候事
一、於江戸おらく御方五月廿日卒去二付、六月十七日より日數十日
繕作事五日相止可申旨御觸有之候事
有吉家のことについては「七一九」にその後の事が記されている。
一、有吉主膳殿儀、有吉七郎殿を養子奉願置被相果候、依之名跡相
續被仰付、主然殿へ御預被置候組をも直ニ御預被遊、座順代々
之通被仰付旨今日申渡有之候、此段觸支配方へも相知可申旨御
用番被申聞候條、已下例文
九月廿三日 御奉行中
「七二四」には改名の事が記されている。
一、有吉七郎殿儀、将監殿と改名之達十一月廿五日有之候事
さて「おらく殿」についてはよく判らない。齊護の末娘「喜久姫」の生母に「羅久」という人があるが時代があわない。喜久姫は米沢藩の上杉龍千代(のち十四代茂憲)に嫁いだ人だが「弘化元年甲辰九月廿日龍口邸二生ル」とある。となると細川家の関係者では無さそうである。徳川家の人であろうか?。
一、有吉主膳殿病死ニ付、六月十六日より日數三日穏便觸有之候事
一、於江戸おらく御方五月廿日卒去二付、六月十七日より日數十日
繕作事五日相止可申旨御觸有之候事
有吉家のことについては「七一九」にその後の事が記されている。
一、有吉主膳殿儀、有吉七郎殿を養子奉願置被相果候、依之名跡相
續被仰付、主然殿へ御預被置候組をも直ニ御預被遊、座順代々
之通被仰付旨今日申渡有之候、此段觸支配方へも相知可申旨御
用番被申聞候條、已下例文
九月廿三日 御奉行中
「七二四」には改名の事が記されている。
一、有吉七郎殿儀、将監殿と改名之達十一月廿五日有之候事
さて「おらく殿」についてはよく判らない。齊護の末娘「喜久姫」の生母に「羅久」という人があるが時代があわない。喜久姫は米沢藩の上杉龍千代(のち十四代茂憲)に嫁いだ人だが「弘化元年甲辰九月廿日龍口邸二生ル」とある。となると細川家の関係者では無さそうである。徳川家の人であろうか?。