津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

信長が見た戦国京都―城塞に囲まれた異貌の都

2010-08-26 22:29:58 | 歴史
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
河内 将芳
洋泉社

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金春流肥後中村家文書

2010-08-26 09:06:26 | 熊本
 今日の熊本日日新聞は、「能」金春流の中村家が所蔵する文書が熊本市の有形文化財に指定されたことを報じている。その数は319点に及ぶという。御当主中村勝氏は、わが「熊本史談会」の実質リーダーとして御世話いただいているし、多方面に渡り精力的に活動されている。ご子息は金春流シテ方中村一路氏である。中村庄右衛門が書き残した膨大な日記は、「肥後・中村恕齋日録」として二巻が刊行され、熊本近世史の研究に欠くべからざる史料となっている。全十二巻が刊行の予定である。 

       金春流肥後中村家 www1.odn.ne.jp/higo-nakamura

 かって私は中村氏のご自宅で、文書の一部を拝見した事がある。高名な大名諸氏の「起請文」など、国レベルの指定があってもおかしくない様な文書がたくさんあった。今般の文化財指定を通じ、これらの貴重な文書を市民が間近に目にできる機会が近いことを期待している。
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綱利と側室安住院

2010-08-26 08:09:16 | 歴史
 細川家菩提寺妙解寺跡(現・北岡自然公園)近くには、古いお寺が建ち並んでいる。その中の一つに妙立寺があるが、ここに綱利の側室・安住院のお墓がある。細川家記によると綱利の生母・清高院と同様、池上本門寺に葬ったとある。

 綱利の正室・本源院は、松平讃岐守頼重養女 実水戸中納言頼房息女・久姫である。五人の子をなしたが全て女子であった。延宝三年二月、三十二歳で亡くなった。

 正室存命の間、綱利は側室に子をなさせていない。天和二年熊本で側室仁田氏(安住院)が女子を生んだ。この女子はのちに、綱利の生母・清高院の実家・清水家(勝貞)に嫁いだが、廿一歳で亡くなった。安住院は江戸へ登り、長男・與一郎、二男・千次郎吉利の二人の男子を産んだ。しかし與一郎は十四歳で死去、千次郎は従四位侍従に叙任されて継嗣として水戸宰相息女との婚約も調ったが十八歳で死去した。綱利の無念さが如何ばかりであったかが伺われる。
安住院は元禄十五年に亡くなっているが、吉利が次ぎの藩主となることを信じて疑わなかったろう。安住院の実家・仁田家の先祖附をみると、初代市左衛門の項にただ一行「安住院様御實父ニ而御座候」とある。妙立寺のお墓は仁田家が建立したものであろうか。

 綱利が弟・利重の二男利武(のちの宣紀)を養子とするのは、千次郎が亡くなってから二年後(宝永五年)のことである。

 
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細川興秋の子孫について (二)

2010-08-26 08:08:21 | 歴史
 細川與五郎源興秋入道宗專--------+
                              |
 +-------------------+
 |  大庄屋初代
 +-■興季 中村五郎右衛門
        幼名與吉。母者天草伊佐津村金濱ノ城主、関主水之女也。法名、月山妙雲大姉。
        寛永十二乙亥年七月十日卒。
       家傳に云、右の関主水は、立家彦之進と申し候ものなり、若年の時分數度の軍功
       有之しものゝよし。寺澤志摩守の手に属し、名を得たる武士なり。元和年中大坂へ
       出陣いたし、終に不歸候に付、其女之なにがし、中村半太夫養育いたしてゐたりし
       を宗專様被召寄、妾と被成候て一男子を生ませ給ふ。則ち與吉と名を御附被成候。
       成長之後興季と名乗り申候。
        謹而按ずるに、與吉と名を御附け被成候は、則ち與一郎忠興公の御子が與一郎
        忠澄(ママ)公、二男與五郎興秋公なり。依之與吉、興季と御名乗を相成候ことゝ相
        見え候。
    一、又云、寛永十八年巳の春、興季を江戸より天草の大庄屋役に被仰付候。依之興季よ
       り、其儀此度如此役儀を被仰付候へども、苗字無之候而は難相成御座候。某本姓は
       何と申候やと、宗專様へ御尋申上候へば、我等が家其系圖等無之ものにて候間、何
       なりと苗字は名乗り申候様にと被仰聞候ゆゑ、不得巳事、母の育叔父中村半太夫の
       苗字を取り候て、中村五郎左衛門興季と名乗申候よし。
    一、右之通寛永十八年に、江戸より大庄屋役被仰付候により、五郎左衛門を始め家僕近
       隣のもの集り大悦び致し候を、宗專様被聞召候て、大庄屋役被仰付候とて、さほど難
       有がり悦び申候事の笑止千萬よと、大いに御笑被成候事。
    一、宗專様御臨終の時分に、右之通り忠興公之御二男のよし御咄に付、中村の名を改め、
       長岡の長の字を取り候而、長野と改め申候。されども孫の宗左衛門興茂より、長野と
       名乗申候事。□□松□英枝居士。寛文十庚戌年□月十七日卒。

      二代
  +-■興茂 長野宗左衛門
  |     父興季の家督を續ぎ大庄屋となる。幼名五郎太と云ふ。母は長崎町年寄高木勘
  |     兵衛の叔母、法名、潤相妙徳大妹(ママ)、□□□□年十一月七日卒。
  |    或年天草郡中馬多く死し、農業成り難く申すにより江戸より金千両拝借いたし、薩摩
  |    國へ馬かひに参りし時、薩摩より五百石にて可被召出候旨、被仰聞候へども、五百
  |    石より、天草の大庄屋相勤候方勝手宜敷旨申候而、被断申候由申傳奏老也。
  |    法名、瑞龍庵一翁□□居士。享保六辛丑年九月十五日、行年八十歳にて卒す。
  |    禅宗芳證寺に葬る。
  |
  +-■中村藤右衛門
  |    佐伊津村庄屋となる。今の中村宗兵衛先祖也。系圖在別紙。
  |
  +-女子 半次郎祖母なり。
  |
  +-女子 利右衛門祖母なり。
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