津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

旧主を考える-11 小早川秀秋(金吾中納言)

2007-09-21 16:39:55 | 歴史
 豊臣秀吉正室高台院の実兄・木下家定の子(五男)。幼くして秀吉の養子となり、9歳にて丹波亀山10万石、11歳で従二位・権中納言、二年後秀吉の命により小早川景勝養子、翌年豊臣秀次事件に連座領地没収、同年養父景勝死去によりその領地の一部を継承し、筑前名島城主(30万7000石)となった。石田三成により慶長の役や、伏見城攻めの功績が評価されず、関が原戦においては秀秋の裏切りにより東軍の圧勝となる。後岡山藩55万石の太守となるも僅か二年で病没、21歳であった。
■西川与助 小牧の戦いに於いて活躍し秀吉の感状を得ている。また忠興よりの加増が直ぐ行われた。後細川家を離れ金吾中納言に仕え、豊前に於いて帰参した。同名の与助の代、陽明学徒の故を以って追放され一時期不遇な時代があった。
■坂崎忠三郎 池田勝入--蒲生氏郷に仕えた後、小早川秀秋備頭を務め、秀秋没後牢人。弟・勝定、養嗣子成政の子成定も同様の経過をたどって忠興に仕えた。
■和田(高見)少五郎 元々は大納言秀長の小姓であったが、貰い受け忠隆(忠興嫡男)に近侍し、後筑前中納言(秀秋)臣となる。秀秋死去後浪人、慶長十三年帰参した。
阿部一族討手を仰せ付けられた高見権右衛門は孫である。
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