唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(23) 作意の心所 (6)

2015-09-20 20:04:45 | 初能変 第三 心所相応門
  
 
 触・作意の二つを以て受・想・思の所依となるのは、意識は何かの意識であるのと同じ構造で、受(感情)・想(表象)・思(意志)は、触と作意をもとにして、何かについて生起してくるということなのですね。
 種子は可能性でしょう。可能性であっても、まだ現行していない格納庫に収まったままの状態ですね。そこに司令塔としての作意が発進せよと働きかける。そうしますと、触れているところに向かって発進していく。どこに行くかわからんと云うことはないのです。ちゃんと目的地は定まっているわけでしょう。心の種を警覚して、境の方に引っ張っていく。
 例えば、お彼岸の時節ですと、彼岸花が美しく咲き誇っています、これは彼岸花に触れて、彼岸花を認識したところに、触と作意の心所が働きかけて認識が起こったのですね。常に、何かについて働きかけているのが遍行の心所になります。
 心所も引起しているわけですが、心王の方が主でありますので、「心を引くとのみ」説かれているのです。心・心所も引き起こすわけですが、主をもって、主には随が付随しますから、「心いい是れ主たるが故に、但だ心を引きとのみ説けり」と釈しているのです。
 ここで作意の釈は終わりまして、次に異説(誤りの主張)を挙げて論破します。『述起』には「然るに」とし、異説があることを示して『論』が編纂されていることを明らかにしています。
 「然るに、『順正理』第十一巻を解して、謂く能く心をして異境に廻趣(えしゅ)せしむ、但だ此の境に住せるときは行相微隠(ぎょうそうみおん)なりと云えり。故に叙して云く、」(『述記』第三末・十三右)
 廻趣 ― めぐらしおもむかせること。
 『順正理』 ― 阿毘達磨順正理論』(あびだつまじゅんしょうりろん)、略して『順正理論』とは、衆賢(しゅげん)の著作とされる仏教論書。『俱舎雹論』(くしゃばくろん)とも。漢訳のみ現存し、大正蔵では第29巻毘曇部No.1562に収録。世親によって説一切有部の教理が批判的に書かれた『倶舎論』に対して、それに反論し、説一切有部の教理を擁護するために、12年を費やして書かれたとされる。世親が説一切有部にいたころの先輩にあたる方。
 二つ出されています。
 一つは、「心を異境に廻趣せしむ」
 もう一つは、「一境の於に心持して住せしむ」
 これが作意の働きであると主張している。これは間違いであると論破しますが、先ず二つの説を挙げ、後に論破します。
 異説
 「有るところには、心を異境に廻趣せしむと説く。」(『論』第三・二左) 
 心の対象を変えさせるのが作意の心所であると主張します。つまり、作意が心に働きかけて、対象を変えさせる、あっちだ、こっちだとですね。心をしてめぐらしおもむかせる働きを持つ。こういうことが『順正理論』に説かれているんだ、と。
 次は、『対法論』に、この主張は雑集師の説で、獅子覚の釈論を指すといっています。「集論初に説く、所縁の境に於て、心を持して住せしむ。故に論に叙して言う。」(『述記』)
 「或るところには、一境の於に心を持して住せしむが故に作意と名と云う。」(『論』第三・二左)
 一つのことに心を住せしむるように働きかけ、心がそのように向くようにするのが作意の心所であると云う。一境に心を集中せしめる、という解釈ですね。
 論破の主旨は、一つめに対しては、心を他の方に向けていくのだったら遍行の心所ではない。遍行は何もしなくても、ずっと起こっている。作意は心の種に常に働きかけているわけですから、「異境に廻趣せしむ」というのは遍行ではないということになります。
 「此の境に住せる時は、異境に廻趣すること無くなりぬるが故に。」(『述記』)
 此の境をAとし、Bという異境に移させるのが作意だとしますと、Aに縁じてている時は作意はないということになります。これは遍行ではありませんね。
 二つめに対しては、「一境に住せしむる」のであれば、これは定の心所であって、作意の心所ではないということになります。
 まとめて、
 「彼倶に理に非ず。遍行に非ず、定に異ならざるべきが故に。」(『論』第三・二左)
 「遍行に非ず」を以て、正理師を破し、「定に異ならざるべきが故に」を以て、雑集論師を破す。
 しかしながら、「正理師の説は、新たに起こる異縁の勝れたることに対して説かれたものであり、雑集論師の説は、修の中に定を得て勝れたる作意によって説かれたのである」と注意を喚起しています。

初能変 第三 心所相応門(22) 作意の心所 (5)

2015-09-20 01:07:57 | 初能変 第三 心所相応門
   
 
 「此は亦能く心所をも引き起こすと雖も、心いい是れ主たる故に但だ心を引くとのみ説けり」(『論』第三・二右)
 本科段の前章として玉置氏の論文を引用させていただきましたが、作意の心所はそれほど理解しがたいものなんです。作意の種子が阿頼耶識の種子を警覚し、心を目覚ます、触だけでは、一切の心心所を境に触れしめるが、それは対象を指向するという意味であって、そこには一切の心心所が起こっているわけではないのです。そこに分別が働いて、特定のものを見聞きするわけですね。それは作意の働きに依るものです。『論』には「所縁の境の於に心を引くを以て業と為す」といわれ、つまり、「起こすべき心の種を警覚し、引いて境に趣かしむるが故に」と説かれているわけです。
 安田先生は、「作意というのは、マナスーカーラ、心(ママス)を用かせる、心を動かす(カーラ)という意味である。」と述べられていますが、玉置氏は松久保秀胤師の「人は集中することによって阿頼耶識を活性的に働かせています。この対象に注意を向けさせる心作用を、唯識では「作意の心所」といいます。これが能蔵でしょう。能動的かつ積極的に感受・認識しようとしているわけです。」を引用し、次のように述べれおられます。
 「現象学の「指向性」に相当する概念がありそうである。・・・「作意」は、対象に向かって「心をひきつける」のであり、、そして「対象」は原文では「所縁」であるから、認識の対象(所縁)は認識に依存される(縁る)ものであるということである。従って、すべての意識体験というものは「何かについて」の意識であって、主観と客観が先にあり主観が客観を認識する体験ではないという、次に引用する現象学の指向性と対応しているのである。」
 [補足しますと、認識が成り立つのは、心王である識体が、外境に似て現じたものを、自らの内に、認識対象である客観(認識されるもの・相分。ノエマ)と認識主体である主観(認識するもの・見分。ノエシス)を変現させて認識を成り立たせているのです。認識される対象が先ずあって、認識が起こるのではないということです。『論』には「識体転じて二分に似る」と説かれています。]
 「意識体験を私たちが指向性と呼ぶ時、この指向性という言葉は、何かについての意識であること、すなわちコギト(思うこと)としてそのコギタートウム(思われたもの)を自らのうちに伴っていること、ほかならぬまさにこのことを意味している。・・・「作意」は「種子」を介して「地平」に関係しているということが言えるのである。・・・「作意」というものは、何かについての意識であるとともに、地平をも伴っているということである。」と述べておおられます。
 つまり、作意の種子は阿頼耶識の種子と関係しつつ、現行を伴う地平をも持ち合わせているということなのだと思います。作意の種子は一切の心心所の起こる不可欠の条件になってはいますが、作意は種子と関りをもつのですね。
 例えば、眼識が起こる場合は、種子と第八識と第七、第六、作意、境、根、明、空の九縁をもって生起するわけです。
     耳識が起こる場合は、明を除いた八縁にあり、鼻識・舌識・身識には空は要りませんから七縁になります。
     第六意識では五縁、第八識は四縁、第七識は根・作意・種子の三縁で生起しますが、いずれも作意は一切の心心所が生起することの不可欠の条件になっています。
 
 「述して曰く、即ち是の作意は遍く能く警覚すれども、但だ心のみを説くことは是れ主たるが故なり」と釈しています。
 
 何かについての意識(指向性)を成り立たせるのが、触と作意の心所である。これが受・想・思の所依となり、なにかについての受・想・思が起こってくるのです。