唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(22) 作意の心所 (5)

2015-09-20 01:07:57 | 初能変 第三 心所相応門
   
 
 「此は亦能く心所をも引き起こすと雖も、心いい是れ主たる故に但だ心を引くとのみ説けり」(『論』第三・二右)
 本科段の前章として玉置氏の論文を引用させていただきましたが、作意の心所はそれほど理解しがたいものなんです。作意の種子が阿頼耶識の種子を警覚し、心を目覚ます、触だけでは、一切の心心所を境に触れしめるが、それは対象を指向するという意味であって、そこには一切の心心所が起こっているわけではないのです。そこに分別が働いて、特定のものを見聞きするわけですね。それは作意の働きに依るものです。『論』には「所縁の境の於に心を引くを以て業と為す」といわれ、つまり、「起こすべき心の種を警覚し、引いて境に趣かしむるが故に」と説かれているわけです。
 安田先生は、「作意というのは、マナスーカーラ、心(ママス)を用かせる、心を動かす(カーラ)という意味である。」と述べられていますが、玉置氏は松久保秀胤師の「人は集中することによって阿頼耶識を活性的に働かせています。この対象に注意を向けさせる心作用を、唯識では「作意の心所」といいます。これが能蔵でしょう。能動的かつ積極的に感受・認識しようとしているわけです。」を引用し、次のように述べれおられます。
 「現象学の「指向性」に相当する概念がありそうである。・・・「作意」は、対象に向かって「心をひきつける」のであり、、そして「対象」は原文では「所縁」であるから、認識の対象(所縁)は認識に依存される(縁る)ものであるということである。従って、すべての意識体験というものは「何かについて」の意識であって、主観と客観が先にあり主観が客観を認識する体験ではないという、次に引用する現象学の指向性と対応しているのである。」
 [補足しますと、認識が成り立つのは、心王である識体が、外境に似て現じたものを、自らの内に、認識対象である客観(認識されるもの・相分。ノエマ)と認識主体である主観(認識するもの・見分。ノエシス)を変現させて認識を成り立たせているのです。認識される対象が先ずあって、認識が起こるのではないということです。『論』には「識体転じて二分に似る」と説かれています。]
 「意識体験を私たちが指向性と呼ぶ時、この指向性という言葉は、何かについての意識であること、すなわちコギト(思うこと)としてそのコギタートウム(思われたもの)を自らのうちに伴っていること、ほかならぬまさにこのことを意味している。・・・「作意」は「種子」を介して「地平」に関係しているということが言えるのである。・・・「作意」というものは、何かについての意識であるとともに、地平をも伴っているということである。」と述べておおられます。
 つまり、作意の種子は阿頼耶識の種子と関係しつつ、現行を伴う地平をも持ち合わせているということなのだと思います。作意の種子は一切の心心所の起こる不可欠の条件になってはいますが、作意は種子と関りをもつのですね。
 例えば、眼識が起こる場合は、種子と第八識と第七、第六、作意、境、根、明、空の九縁をもって生起するわけです。
     耳識が起こる場合は、明を除いた八縁にあり、鼻識・舌識・身識には空は要りませんから七縁になります。
     第六意識では五縁、第八識は四縁、第七識は根・作意・種子の三縁で生起しますが、いずれも作意は一切の心心所が生起することの不可欠の条件になっています。
 
 「述して曰く、即ち是の作意は遍く能く警覚すれども、但だ心のみを説くことは是れ主たるが故なり」と釈しています。
 
 何かについての意識(指向性)を成り立たせるのが、触と作意の心所である。これが受・想・思の所依となり、なにかについての受・想・思が起こってくるのです。

初能変 第三 心所相応門(21) 作意の心所 (4)

2015-09-19 22:44:31 | 初能変 第三 心所相応門
 作意の心所について思考中ですが、参考文献として、共有して学んでいきたく思いましたので、コピーさせていただきました。
 『現象學と唯識論』
         玉置 知彦
はじめに
現象學は二十世紀の初頭に生まれた西洋哲學である。唯識論は古代インドに發した佛教の一派の教義であつて、一千三百年程まへに中國を經て日本に傳はつた法相宗の根本教義である。一見したところ両者を比べるにはかなり無理があると思はれる。時代も成立した背景も全く異つてゐるからである。
ところで兩者の共通性については、既に現象學の現在の到達點から論じられてゐるのである。1しかし、それらは現象學が現在當面してゐる先端的な問題意識から唯識論へ接近するという方式を採つてをり、また佛教の幅廣い學識をもとに論じられてゐるため初學者にはほとんど接近不可能である。
本稿では現象學の基本的な觀點から、兩者が如何に根本的な發想を共有してゐるかを檢證する。それが成功すれば、單に似た考へ方を拾ひ出すのではなく、兩者を系統的に眺めることが可能になり、先端的な問題への接近や、東西哲學の融合への道が開けるのではないかと思はれる。
1. 發想の原點 ― 志向性、地平 ―
現象學と唯識論とは發想が似てゐると、誰もが思ふに違ひない。片や嚴密學を目指す哲學であり、片や解脱が目的の宗教であるにもかかはらずである。發想が似てゐるのであれば、現象學の原點である「志向性」を共有してゐないだらうか。法相宗の大本山である藥師寺の松久保秀胤貫首かんすは次のやうに述べてゐる。
人は集中することによって阿頼耶識を活性的に働かせています。この対象に注意を向けさせる心作用を、唯識では「作意さいの心所」といいます。これが能藏でしょう。能動的かつ積極的に感受・認識しようとしているわけです。2
現象學の「志向性」に相當する概念がありさうである。が、松久保貫首かんすは「作意さい」を「注意」といふ程に考へてゐて、その重要性はあまり強調してゐない。しかし、「作意さい」を「能動的かつ積極的な感受・認識」の働きと考へてゐる事は確かである。この考へ方は「志向
本稿では引用に際しては原文の表記を尊重したが、本文は正漢字正假名遣ひを採用した。
1 新田義弘著『現代の問いとしての西田哲学』(岩波書店、1998)の第六章「現象概念」で、唯識論に關し發想の共通性の指摘がある。司馬春英著『現象学と比較哲学』(北樹出版、1998)及び「現象学と大乗仏教」(『思想No.916 現象学の100年』岩波書店、2000.10)は現象學と唯識論とを本格的に論じてゐる。
2 松久保秀胤『唯識初歩』、34頁、鈴木出版、2001。 69
性」と類似してゐないだらうか。法相宗の經典である『成じやう唯識論』には次のやうに書かれてゐる(なほ、『成じやう唯識論』からの引用は全て筆者の現代語譯)。
作意さいとは、心しんを立ち上がらせることが本性であり、外界の對象(ノエマ)に心しんを引きつける働きである。起るはずの心しんの種を目覺めさせ立ち上がらせ、外界に向はせるので作意さいと名付けてゐる。3
「作意さい」は、對象に向つて「心しんを引きつける」のであり、そして「對象」は原文では「所縁」であるから、認識の對象(所縁)は認識に依存される(縁

る)ものであるといふことである。從つて、すべての意識體驗といふものは「何かについて」の意識であつて、主觀と客觀が先にあり主觀が客觀を認識する體驗ではないといふ、次に引用する現象學の志向性と對應してゐるのである。
意識体験を私たちが志向的とも呼ぶ時、この志向性という言葉は、何かについての意識であること、すなわち思うコギことトとしてその思われたコギターものトウムを自らのうちに伴っていること、ほかならぬまさにこのことを意味している。4
「作意さい」の定義に戻ると、前半の文は、すでに目覺めた意識についての志向性の記述である。後半の文中の「心しんの種」といふ表現は唯識論では正式には「種子しゆうじ」と呼ばれてをり、阿頼あら耶識やしきという潛在領域から立ち現れるものを示してゐる。松久保貫首かんすの説明にも阿頼あら耶識やしきが出てくる。すなわち、「作意さい」は「注意」と云つた意識の表面的な一機能ではなく、意識の全體的なありかたを意味してゐるといふことである。
ところで、この阿頼あら耶識やしきに相當する概念が現象學の志向性にあるのだらうか。フッサールは「地平」を次のやうに説明してゐる。
以上によって、志向性がもつ、もう一つの根本的な特徴が示唆されている。つまり、体験はすべて「地平」をもつており、これは、その意識の連関が変化し、自分に固有な流れの位相が変化するなかで移り変る。それは、志向的な地平であつて、意識の自分自身に属する潜在性への指示を伴っている。5(下線は筆者)
「志向性」に伴ふ「地平」は、潛在性に關係してゐるといふことである。ところで、唯識論の阿頼あら耶識やしきは潛在領域を表してゐるのであるから、「作意さい」は「種子しゆうじ」を介して「地平」に関係してゐるといふことが言へるのである。以上の対照によつて、「作意さい」が「志向性」の二つの概念を共有することが明らかとなつた。すなはち「作意さい」といふものは、何かについての意識であるとともに、地平をも伴つてゐるといふことである。
3『國譯一切經、瑜伽部七』、(57)頁、大東出版社、改訂5刷、1996。
4 浜渦辰二訳『デカルト的省察』、69頁、岩波書店、2001。
5『デカルト的省察』、87頁。 70
2. 檢證 ―知覺の現象學:ノエシス、ノエマ、同一性、運動キネス感覚テーゼ、外界 構成―
志向性の考へ方が共有されてゐるのであれば、知覺を對象にして系統的に調べて行くのが最良である。何故なら、現象學では知覺が原本的オリジナルであると考へられてゐるからである。以下、知覺の現象學の觀點から基本的概念を比較檢討する。
2-1.ノエシス、ノエマ
「ノエシス」と「ノエマ」は、唯識論ではそれぞれ「行相」、「所縁」と呼ばれ、認識を論じる際に必ず使はれる概念である。唯識論で知覺がどのやうに扱はれるか、富貴原章信は次のやうに述べてゐる。
今ここに筆がある。眼を以てその筆を見る場合、眼識の能縁面には、その筆の影像が写しだされるであろう。固より眼識は現量的なものであるから、その筆を他のもの、例えば傍らにあるインク壺、書籍などと区別することに於て、見るのではないにしても、併し兎に角その筆を現に見ている訳であるから、その筆の影像は眼識の能縁面に、端的に写し出されておらねばならない。而して今、若しその筆を見ていることを、眼識の行相(ノエシス)とすれば、見ていること、縁じていることに於て、写し出された筆の影像と、及び筆そのものとは、総じて所縁(ノエマ)となるであろう。6(ノエシス、ノエマは筆者が插入)
ここで使はれてゐる「現量」は、同書で次のやうに説明されてゐる。
現量とは分別一切を、一切の概念作用を離れて、初めて現れるのである7
フッサールは、これ等の唯識論の知覺の分析に對應するものとして次のやうに述べてゐる。
そのつどの思うコギことトがその思われたコギターものトウムを意識するのは、区別のない空虚のなかにではなく、或る記述的な多様性の構造をもって、つまり、まさにこの同一の思われたコギターものトウムに本質的に属する、特定のノエシス―ノエマ的な構造をもって、なのである。8
そしてフッサールは「現量」に相當する事として次のやうに述べてゐる。
経験のうちで或る具体的な対象が何かとしてそれだけで際立って来て、注意しながら捉える眼差しがそれに向けられる時、その対象は、この端的な把捉の段階では、単に
6『唯識の研究 -三性と四分-(富貴原章信仏教学選集第二巻)』、198-199頁、国書刊行会、1988。
7 同上、289頁。
8『デカルト的省察』、81頁。 71
「経験的直感の無規定の対象」として捉えられる。9
ここでは對象を明確に捉へる働きの一歩手前、すなはち能動的な把握ではなく寧ろ受動的な働きが述べられてゐる。この記述が「現量」のことであることが分れば、「現量」は潛在領域から立ち現はれる種子しゆうじの働き、すなはち作意さいの「心しんの種を目覺め」させる働きに關係してゐるのではないかといふことが逆に照らし出され得る。
知覺の志向性分析とはノエシス―ノエマ的構造を分析することであるから、「行相」、「所縁」による唯識論と同じ發想であることが分る。さらに知覺が能動的に働き始める前の状態である「原量」を、兩者が同樣に捉へてゐることは強調されるべきところである。
2-2.同一性
次に、知覺がさらに進行してゆく状態に關する富貴原章信の記述を見てみる。
その筆は見る位置が変ると、その形も亦変る。窓を開いて光線が強くなれば、古そうに見えたものが、急に新しくもなる。かくの如く筆は転変するのであるが、併しそれにも関らず、目前の筆は同一の筆として、その姿を持続するのである。若しその筆が、かくの如くその筆としての像を取るのでなければ、その筆はそこにあることは出来ない。してみるとこの筆は像を取ること(想)に於て、初めてそこにあるのである。10(下線は筆者)
ここでは、心所しんじよのなかの偏行(作意さい、觸そく、受じゆ、想さう、思し)が次々に働く樣が述べられてゐる。先づ識によつて志向され(作意さい)、見られ(觸そく)、次いで感受され(受じゆ)、そして對象物は同一の自體存在として見られる(想さう)。ここまでくれば對象物を直接知覺する場面から離れて、心像を思ひ浮べたり言葉を使ひ對象物について考へること(思し)が出來るのである。
それでは、フッサールは知覺における對象の同一性を、どう説明してゐるのであらうか。
私は純粹な反省において、このサイコロが、特定の現出の仕方の、さまざまに形成され変化する多様なもののなかにありながら、対象的に一つのものとして与えられていることに気付く。これらの現出は、その流のなかで、体験が関連のないまま並列していることではない。それらはむしろ、綜合の統一のうちで流れており、したがって、それらのなかで、同一のものが現出するものとして意識されている。11(下線は筆者)
この同一のサイコロは、知覺の場面を離れても知覺とは異なる意識の仕方で、すなはち想起、豫期、價値づけなどのうちで現はれるとされる。このフッサールからの引用などは、富貴原章信への指示を傳へる指令文書であるかのやうである。
9『デカルト的省察』、181頁。
10『唯識の研究 -三性と四分-(富貴原章信佛教学選集第二巻)』、199頁。
11『デカルト的省察』、80頁。 72
2-3.運動キネス感覺テーゼ
さて、ところで富貴原章信の先程の知覺の分析では、唯識論でいふ「觸そく」の分析が省略されてゐたので、ここで「觸そく」について檢討する。「觸そく」とは何かは、『成じやう唯識論』に次のやうに書かれてゐる。
觸そくとは、感覺器官(根)と對象(境)と主體(識)の三者を統合して、それぞれを元とは違つた状態にし、主體を外界に觸れさせるものであり、受・想・思の源となるものである。12(下線は筆者)
一讀しただけでは何が言はれてゐるのか良く分らない。『成じやう唯識論』は、簡潔な定義のやうな表現になつてゐるため、讀む側に理解の準備がない場合には分らないといふ典型的な例である。しかし、この一節を現象學の觀點から眺めると、運動キネス感覚テーゼのことであると推定できるのである。フッサールに説明して貰はう。
これら器官がもつ運動キネス感覚テーゼは、「私はする」という仕方で経過し、私の「私はできる」に従うことになる。さらに私は、この運動キネス感覚テーゼを働かせることによつて、突き当たる、押しやる、といったことをすることができ、それによつてまず直接に、ついで間接に身体的に「行為する」ことができる。さらにまた、知覚することによってあらゆる自然を活動的に経験し(あるいは、経験することができ)、そのうちで自分自身に振り返って関係している自分固有の身体性をも経験する。13(下線は筆者)
この「運動キネス感覺テーゼ」についての記述は、そのまま「觸そく」の定義についての解説と見做してもよい程である。「感覺器官(根)」は「器官」であり、「對象(境)」は「自然」であり、「主體(識)」には「私」が対応する。さらに、「元とは違つた状態に」するとは「行為する」といふことである。「外界に觸れさせる」は「自然を活動的に経験し」であり、「受・想・思の源」とは「自分固有の身体性」に相當する。先程の富貴原章信の知覺の分析では、感覺器官が對象を感受する側面は説明されてゐるのであるが、身體を動かしあるいは首を囘し、眼球を對象に同定させ、焦點を合せるといふ主體の働き(志向性)のゆゑに知覺が成立つといふ「觸そく」の觀點が省略されてゐたのである。しかし、『成じやう唯識論』では、それが世界と我々との接觸の原點であり、行爲が繼續出來る出發點であることが把握されてゐるやうである。
以上、知覺について比較してみたのだが、同樣の考へ方である事が示せたのではないかと思ふ。
2-4.外界、現象學的還元、構成
唯識論に關しては、「唯だ識のみ」とか、「唯識無境」と云はれるやうに、外界無視の觀念論と考へられがちである。ところで唯識論における外界の扱ひは、現象學的還元ではな
12『國譯一切經、瑜伽部七』、(56)頁。
13『デカルト的省察』、174-175頁。 73
いかと考へられる。そこで、外界に關して『成じやう唯識論』でどのやうに扱はれてゐるかを檢證する。
外的對象物を直接的に體驗するといふことは原的な體驗である。そのことを否定したり存在しないとは見做せないのではないか、それをどう考へるのか。原的に體驗してゐる時には、外的對象物を自體存在としては考へない。知覺した後に、認識の働きとして外部の自體存在を措定してしまふのである。この對象物は意識の構成によつて生じたものとして存在する。意識は、執着してゐる對象物を、意識の固有の働きによつて外部に存在してゐると見なす故に、唯識論では外的對象物の存在は無だと結論づけるのである。對象物は、對象物ではないのにそのやうに見える。外部は、外部ではないのにそのやうに見える。14
ここで言はれてゐることは、1:原的な體驗、2:認識は自體存在を措定する、3:外部は無である、の三つである。1については、原文では「現量」のことでありすでに確認した。2は、原文では「分別」とか「識の所變」のことであり、これは現象學では「構成」に對應する概念である。『成じやう唯識論』には次のやうに「變」を定義している。
變とは、識そのものが二分に轉じることに似てゐる。見られる事(ノエマ)と見る事(ノエシス)は共に自證によつて起るためである。この二分により自我と世界を構成するのである。15(下線は筆者)
この「變」の定義は、ノエシス、ノエマによる志向性分析によつて、「構成」を理解しようとする現象學と同じ發想である事を示してゐる。だだ、唯識論では「構成」による對象への執着から解脱するのが目的であり、そのためにこそ「構成」についての自覺が説かれるのである。現象學では「構成」を理解することが目指され、その爲に現象學的還元が遂行される。フッサールは次のやうに述べてゐる。
現象学は次のことを理解できるようにすることができる。(略)そして特に、同一の対象の構成というこの驚嘆すべき機能が、それぞれの対象の範疇カテゴリーについてどのようにして生じるのか、要するに、それぞれの対象の範疇に対して構成的に働く、意識の生は、同一の対象についての、相関するノエシス的およびノエマ的な変化に応じてどのように見え、またどのように見えなければならないか、こられのことである。16(下線は筆者)
殘る問題は、3をどう考へるかである。外部の扱に關しここでまたフッサールに登場して貰はう。
14『國譯一切經、瑜伽部七』、(182)頁。
15 同上、(12)頁。
16『デカルト的省察』、94-95頁。 74
考えられる意味のすべて、考えられる存在のすべては、それが内在的であれ超越的であれ、意味と存在を構成するものとしての超越論的主観性の場に入ってくる。真なる存在の全体ウニヴェルスムを、可能な意識、可能な認識、可能な明証、これらからなる全体ウニヴェルスムの外部にあるものとして捉え、両者をまつたく外的に硬直した法則によって互に結び附けようとするのは、まつたく無意味なことだ。両者は本質的に互いに連関しており、本質的に連関しているものはまた具体的にも一つであり、超越論的主観性という唯一の絶対的でありながら具体的なものにおいて、一つとなっている。超越論的主観性が可能な意味からなる全体であるとすれば、その外部というものはまさに無意味である。17(下線は筆者)
超越論的主觀から物事をみた場合、外部は無意味であるといふ言ひ方は、唯識論の阿頼耶識縁起からは「識のみ」といふ言ひ方、あるいは「唯識無境」といふ言ひ方に對應してゐる。即ち、識のみといふ觀點からは外部といふものは無なのであるが、それは外部が存在してゐないと言つてゐるのではなく、實は無意味であるといふことなのである。それは、次の『成じやう唯識論』の記述から明らかである。
識は唯だ内にのみあり、外界の事物はまた、外部に行き渡つてゐる。外部に沒入してしまふことを配慮して、もつぱら唯だ識のみと言ふのである。18
あらゆる事物は、それが實在するものであれ、想像上のものであれ、識を離れてはあり得ない。唯識論で「唯」といふ表現を使ふのは、識とは獨立した實體について判斷停止するためである。19
ここから外部は無だといふ唯識論の主張、即ち識のみといふ教義は、現象學的還元を行ふ場合の超越論的主觀性からの命題であつたことが分る。すなはち「識のみ」とは、自然的態度から超越論的態度への態度移行のことであり、同じ事であるが現象學的還元を行なふことなのである。
司場春英は次のやうに唯識無境について述べることで、唯識論を現象學から捉へる立場を明確に打出してゐる。
「唯識無境」とはしたがって、現出と現出者の区別において、現出者の存在措定をエポケーし(無境)、現出そのもの(識)へ----厳密に言へば、現出と現出者との差異の生起そのものへ----と向う還元の運動(Zu den Sachen selbst)と言えよう。20
ここで改めて、志向性の發想といふものが、ノエシス、ノエマ、外部(自體存在)、構成、
17 同上、152-153頁。
18『國譯一切經、瑜伽部七』、(265)頁。
19 同上、(177)頁。
20 司馬春英『現象学と比較哲学』、102頁、北樹出版、1998。 75
現象學的還元などの他の基本的な概念が緊密に織込まれたものであり、一つだけを獨立に取りだすことなど出來ないものであると分る。そして、それは同じく唯識論にも當てはまることである。ただ、インドの地で一千五百年ほど前に佛教思想が同じ發想をしてゐた事、さらに、日本に傳はつたその經典に則り、現在ただ今説教をしてゐる僧侶のことを思ふと、まつたく驚嘆してしまふのである。
3.さらなる發想の共通性:發生的現象學―地平、受動的發生―
現象學では、志向性に伴ふ「地平」は潛在性に關係するといふことであつた。これまで檢討してきた發想の共通性に鑑みれば、唯識論で潛在性と考へられるものがあれば、それが唯識論での「地平」と言つてもよさそうである。それを次に檢證する。
ここで、もう一方の法相宗の大本山興福寺の多川俊英貫首かんすに登場して貰はう。現象學の話しを聞いてゐる錯覺を覺えるくだりであるが、しかし、妄執に囚はれてゐる人間存在が色濃くあぶりだされる佛教の世界でもある。
端的にいえば、阿頼あら耶識やしきとは、私たちの今までして来たことのすべてを記憶にとどめる心的領域であります。そして、そのように心底に残存してひそかに蓄積されたわが日常のさまざまな行為・行動の気分がおのずからにじみでてくる-----。それが私たちの心のメカニズムなのだ、というのが唯識の言い分です。そして、そういうものが、ものごとの認識ということにおいておのずとにじみでてくるのを、初能変というのです。過去のあらゆる体験・経験の気分をとどめる阿頼あら耶識やしきが、まず第一に認識の対象を能変していく----、それが初能変であります。このおのずとにじみでてくるものを、私たちは意識的に操作することは出来ません。21
多川貫首かんすのこの一節も、現象學的還元にもとづく發言だと、今では躊躇なく云へさうである。「意識的に操作すること」が出來ない状態で物事を認識してゐるなどとは、自然的態度で生活する分にはあずかり知らないことである。ここでは「阿頼あら耶識やしき」は潜在意識に類似するものと考へられてゐる。そして、「初能変」といふのは作意さい(=「志向性」)の定義の中に出てきた種子しゆうじ(=「意識の自分自身に属する潜在性への指示」)が、「阿頼耶あらやし識き」から立ち現れることなのである。すなわち、認識する(=志向性をはたらかせる)ということは、單に對象との相關關係に入るのみならず、自らの潛在意識との相關關係にも絡めとられてしまふと言つてゐるのである。フッサールに「地平」を説明してもらはう。
この地平には、たいていはまったく暗い自分の過去や、自我に含まれる超越論的な能力や、習慣によつて固有なさまざまなもの、が属している。22
「阿頼耶あらや識しき」は、「地平」とみなせさうである。ここで言はれてゐる「地平」を、「阿頼あら
21 多川俊英『はじめての唯識』、58頁、春秋社、2001。
22『デカルト的省察』、52頁。 76
耶識やしき」と置きかへて讀んでも何の不都合も無いばかりか、「阿頼あら耶識やしき」についての見方が開けて來るやうな記述である。次に、『成じやう唯識論』ではどの樣に定義されてゐるか確認する。この定義が、現象學の「地平」と同じか否かが問はれなければならない。
阿頼耶識は因と縁の力で、内に種子と肉體を生じさせ、外には世界を生じさせる。即ち、阿頼耶識がみづから構成した種子と肉體と世界とを對象(ノエマ)とし、主觀(ノエシス)はこれによつて起るのである。23(下線は筆者)
この定義も、「觸そく」の意味が現象學の觀點から氷解したのと同じやうに、現象學の觀點から理解出來るのである。フッサールに説明してもらはう。
この志向的な指示が「歴史」へと導き、(略)自分固有の習慣のうちで持続して形成されたものである多様な把握の働きが、受動的に発生してくるということである。こうした把握の働は中心的な自我にとってはあらかじめ形成されて与えられたもののように見え、それが顕在的になれば、自我を触発し、活動へと動機づけることになる。自我はこのような受動的綜合(そこにはそれゆえまた、能動的綜合の働も入り込んでいる)のおかげで、「諸対象」から成る周囲を常にもつことになる。24(下線は筆者)
一讀して分るやうに、多川貫首かんすが語つてゐたのは受動的發生についてである。また、『成じやう唯識論』の記述の「内に種子と肉體を生じさせ、外には世界を生じさせる」は、現象學の「自我はこのような受動的綜合のおかげで、「諸対象」から成る周囲を常にもつことになる。」との説明で理解できるのである。潛在性といふ言葉を手がかりに「阿頼あら耶識やしき」を「地平」と見做せるのではと考へたのであるが、自我や世界が自覺に先立つて實現してゐるとしてゐる點で兩者が共通してゐる。すなはち兩者は同じものの別名と考へてよい。司馬春英は阿頼あら耶識やしきを次のやうに述べて、現象學の立場から唯識論を理解してゐる。
マナ識が自我統覚とみなされ得るとすれば、アーラヤ識はその自我統覚の背景として、あるいは奧行きとしての地平領域をなしていると考えられる。それはフッサールの言葉で言えば、「この統覚の意味能作、妥当能作が究極的にそこに由来するところの超越論的歴史性」という地平である。25
このやうな對應關係が明確になれば、自我統覺を行ふ超越論的主觀とマナ識との關係や、さらには佛教哲學での無我との關係が具體的に論じられなくてはならないが、ここでは次のやうに述べるにとどめる。受動的綜合を論じ始めた發生的現象學は唯識論との對話を可能ならしめると。
23『國譯一切經、瑜伽部七』、(50)頁。
24『デカルト的省察』、144-145頁。
25『現象学と比較哲学』、103頁。 77
78
おはりに
志向性といふ現象學の根本概念を手がかりに唯識論を探つてみたが、志向性と密接に關係してゐる他の基本的な概念も、首尾一貫して共通してゐることが確認できた。現象學の考へ方を參考にすれば唯識論の分り難い概念が氷解するのであり、唯識論の阿頼あら耶識やしきや種子しゆうじなどの荒唐無稽に思はれる概念も實は西洋哲學で理解できるといふことでもある。ここでは發想の共通性を檢證することを目指したため、西洋哲學と東洋の宗教といふ明らかな違ひには注目しなかつた。また、似てゐるにもかかはらずそれぞれが當然有する固有の考へかたを具體的に究明することも出來てゐない。しかしながら、本稿で示したやうな系統的な對應が可能ならば、唯識論の方から逆に現象學の問題點に照明を當てることができ、そして實りある東西哲學の對話ができるのではなからうか。
附記
本稿は「第2囘フッサール研究會」で發表した原稿を要約して『融合文化研究』第2號に掲載したものをさらに見直し、加筆訂正を加へたものである。

初能変 第三 心所相応門(20) 作意の心所 (3)

2015-09-17 23:38:35 | 初能変 第三 心所相応門

 種子生現行は、阿頼耶識の具体的な働きを示して」いますが、種子としての阿頼耶識を種子頼耶.現行としての阿頼耶識を現行頼耶と云っていますが、作意は「警覚してまさに心の種を起こすべし」ということから、警覚についても二種あることを明らかにしています。
 一つは、種子警覚。
   作意の種子がその他の心心所を警覚して現行せしめること。
 二つは、現行警覚。
   作意が現行して、その他の心心所の現行を警覚し、所縁の境に趣かしめること。
 『同学鈔』(大日本仏教全書七十六巻 『唯識論第三巻同学鈔第一』p407下段後より四行目から408上段)の釈によりますと、先ず問いが出されています。
 「問。作意の心所の警覚の用は、現行位と為すや如何ぞ。答。種子位なり。・・・作意の心所は種子の位に在って警覚の用を起こすなり。故に『論』には「謂此警覚応起心種引令趣境故名作意」文なり。既に警覚応起心種と云うは、定めて種子の位に警覚の用を起こすなり。心所は心の勢力に依って生ずるが故にの道理に任せて、心所の現行を生ずることは必ず心王の現行を生ずる勢力に依る。既に起こすべき心種を警覚すと云う。知んぬ、作意の警覚の用は種子の位に在るなり。是を以て疏の中に二釈を作して、種子位なりと云う義をば(作意の種子は能く心種を警す)此の解は文に依る。現行の位なりと云う釈をば(現行の作意と識と同時なる時、義を以て彼の生ずべき心種を警(いまし)め起こして境に趣かしめると説くとも理は亦違することなし。起き已って方に警しむと云はば、警する理見(り、あらわれ)難し。)故に論に作さず云々。既に種子の位なりと云う義をばこの解は文に依ると云う。現行の位の釈をば、故に論に作さずと述ぶ。これに依って人師多く初めの釈を存し後の釈を非するなり。但し義難に至らば、種子は沈隠(ちんおん)なりと雖も用を起さざるには非ず。煩悩の種子に依って發業潤生(ほつごうじゅんしょう)し、厭心の種子を遮防(しゃぼう)する用を起こして、思種の三業(審慮思・決定思・動發思の三種)の非を防ぐ等なり。若し事を種子に寄せば、此等の種子またその能なからんや。・・・」
 種子は不可知なんですね。阿頼耶識の具体相である所縁(相分)の種子は沈隠(しずみかくれているさま)していますから、理解することは容易ではありませんが、作意の種子は心心所の種子を警覚して現行を生ぜしめることを本質とし、そしてその心心所を所縁の境に趣かしめることを業用としている、と解釈されます。
 私たちの深層のこころの在りようは知る由もないのですが、阿頼耶識が過去の経験の貯蔵庫であるとしますと、過去の経験を貯蔵せしめてきた七転識の業果が種子として阿頼耶識の中にインプットされ、折に触れ、縁に随って種子が警覚され、現行という、自他分別の境に向かわしめることになるのでしょうね。それが作意の働きであると言っているのだと思います。
 阿頼耶識現行の二重構造といっていいのではないでしょうか。
 種子は、種子生種子で一類相続してきますが、無覆無記として、受は捨受として現行してきます。無覆無記であり、捨受である阿頼耶識は、名前が示していますように、迷いの識の名であるわけです。阿頼耶識を本識として転じた七転識の行相を阿頼耶識は引きずるわけですね。
 ここにですね、深層の領域である阿頼耶識の層は無覆無記でありながら、表層の領域では煩悩によって發業し潤生された相を展開しているわけです。私たちは、いついかなる時でも、阿頼耶識からの信号を聞き取っていかなければ、煩悩が独り歩きをします。独り歩きした煩悩は自他分別を起こし、自尊損他として、他を隷属させようと奔走して暴走します。それは、阿頼耶識との通信手段が遮断されたからに他ならないのですね。それは自の問題ではないのです。いかなる作意が働いているのか、「仏法聞き難し、いますでに聞く」という業縁に依ることなのでしょう。
 作意は分別だといいました。その分別にも、善(浄土)に向かわしめる作意と、悪(五悪趣)に向かわしめる作意があるのではないですか。善に向かうと、煩悩の火は鎮まり、悪に向かうと煩悩に火は燃え盛るのだと思います。
 不断煩悩得涅槃とは、仏法は聴聞に尽きるという善業が煩悩の火を鎮めて涅槃に向かわしめるのでしょう。煩悩の火を自らが消すのではなく、浄土に触れた、浄土の功徳(現生十種の利益)が瞋恚の業火を鎮め、柔軟心を生みだしてくるのではありませんか。それを親鸞聖人は往相回向と表現されたのではないでしょうか。

初能変 第三 心所相応門(19) 作意の心所 (2)

2015-09-16 23:33:18 | 初能変 第三 心所相応門

 昨日の投稿で、漢字のミスがありました、すみません。警が驚になっていました。気が付くのが遅くてすみません。訂正します。昨日の間違いの個所は訂正しました。
「一切心の種子を警するには非ず」と、作意の性について説かれていますが、ここには分別が働いているのですね。分別は非量ですから、第六識と第七識の働きに依るわけです。種子生現行は任運だといわれていましたが、種子より現行が生み出される時、まず触の心所が動き、根・境・識が和合して境に触れしめるわけです。そこに作意の心所が分別を起こし、「応に起こすべき心の種を警覚し」て、現行が生起してくるわけですね。ですから、種子が現行を生んでくる背景に、作意の心所が動いているということになります。触は因縁変ですが、作意は分別変なのです。現行の水面下で、激しい葛藤が繰り広げられ、過去の経験のすべてを凝縮して一瞬一瞬選び取っているのです。種子を可能性とするなら、作意は限定性といえましょうか。
 一切種子から現行する種子を選択してくる働きが作意というわけでしょう。「警覚応起心種」とはこういうことではないでしょうか。
 「いかなるふるまいもすべし」とは、一切種子として、あらゆる経験が可能であることを示しているわけですね。しかし、現実には何かの限定がつきます。それが「さるべき業縁のもよおし」ですね。自分が自分の現行を選択し、選択した現行によって迷悶している、それが私の姿なんですね。
 迷いも縁起、依他起であるといわれる所以です。現行する時には、必ず選びがあるのです。それが分別心としての作意の働きに依るのです。つまり、現行し、境に触れしめるには、ただ触だけでは現行は起こらないということになります。現行するためには、意識が働きます。触は指向作用だといわれています。
 安田先生は、「概念を思惟に方向せしめる、つまり意識に対象を与えるものでないかと思う。これに対して、作意は注意である。意識に中心点を与えるのである。」と教えておられます。
 整理しますと、「心を警覚す」、と云うのは、心をめざめさせる。心は放っておくと、目覚めることなく眠ってしまうのです。だから常に、作意の心所が働いて、心を目覚ましめるわけです。いるでも、どこでも。いかなる時にも、心を目覚めさせている働きをもったものが作意である。そして心が対象に触れるように、心を引っ張っていくのが作意の具体的は働きである。つまり、心が働く時には、同時に作意も起こって働いている。この時は未だ現行はしておりませんが、種子の段階に働きかけて、次の瞬間働きかけられた種子が現行する。常に種子に警覚しているのが作意の心所である。

初能変 第三 心所相応門(18) 作意の心所 (1)

2015-09-15 23:04:58 | 初能変 第三 心所相応門
    

 「作意(さい)と云うは謂く能く心を警するを以て性と為す。所縁の境の於(うえ)に心を引くを以て業と為す。」(『論』第三・二右)
  作意の性は警心。業は引心。
 性は、心が動く、心が立ち上がって動き始めるということ。引心とは、心の立ち上がりです。『二巻鈔』に良遍は「心を驚かして起らしむる心なり。」と簡潔に述べておいでになります。
 何に向かって動き始めるのかですが、対象に向かって、そこで初めて認識の立ち上がりが成り立つのです。いわば、エンジンのキーの働きですね。境に触れて立ち上がるのか、心が作動して境に触れるのかは微妙なところでわかりませんが、いずれにせよ、触・作意が相まって、境に触れ、境に向けしめる作用もあるものが、触・作意の心作用ですね。
 「心を警する」ことが作意の用きをあらわしますが、「警する」とありますから、「驚される心」に対して作意の用きをあらわすのが、「心を引く」ということなんです。心を驚し、境に趣かしめるのが作意の心所であるのです。
 「謂く此れが起こすべき心の種を警覚し、境に趣かしむる故に作意と名く。」(『論』第三・二右)
 つまり、阿頼耶識のなかの種子を目覚めさせ、心を起こし、心を対象に趣かしめる用きを作意と名づけるのだ、と。
 『述記』の釈は、
 「作意の種は義を以て(縁に逢うて正しく)生ずべき心の種を警するなり。(心を)起こして境に趣かしむべきを曰う。一切の心の種子を警するには非ず。彼縁に逢わざれば定んで生ぜざるが故に。警
 種子生現行の、現行を生みだしてくる縁生において心を目覚めさす、そして境に趣かしめるということなんですね。縁がなければ作意は動かないということになり、作意はすべての心を驚するものではないということなんです。
 そして、作意の功力に二つあることを挙げています。
 一つには、心をして起こらざるを正しく起らしめる。
 二つには、心をして起こり已って境に趣かしめる。
 この二つの功力を以て、「起こるべき心の種を警覚して引いて境に趣かしむと言う」と結んでいます。
 「此警覚応起心種」(此れが起こすべき心の種を警覚し、)
 作意の種子がよく心心所の種子を警覚すると云われています。このところはさらに読み込む必要がありそうです。又にします。

初能変 第三 心所相応門(18) 触の心所 (17)

2015-09-14 23:26:58 | 初能変 第三 心所相応門



 受等の性の如く即三和に非ざるべし」(『論』第三・二右)
 「触」は仮のものではなく、実の用きがあるものであることの結論を述べます。
 経量部の一師は「三和成触」という、触は即ち三和のことであって、触は仮に説かれたもので実のものだはないという主張します。。それが先に述べました、三因に由って実であることの証明をしてきたわけです。
 また経量部の一師は、三和して触を生ず(「三和生触」)と主張する。三和して触を生ずる触は三和ではないと説いているわけです。
 また説一切有部の主張は、触の体は実であるけれども、変異に分別して心心所等を生ずることはなく、ただ受等の所依になることを業とするものであると説きます。
 これらの主張を、前段では、三因を以て論破したわけです。結論の言葉が「如受等性非三和」という本科段になります。本科段の意味するところは、受等が実であるように、経量部の一師が主張する「三和が即ち触であり、三和以外に触というものはないから、三和=触であり、触という実はなく、三和そのものが触であるから、触は仮のものである。」ということはないんだと云っているわけですね。
 三和と触との関係は大変難しいところではありますが、大乗は「触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」と説きます。そして有部との違いは「三和して変異に分別す。心心所を境に触れしむるを以て性と為す」と。
 触は実のものであり、境に触れしめる作用があるんだと主張しています。触・受・愛ですね。触れたその時は、受の所依となることはあっても、それほどの執着はみられないのですが、触・受となりますと、受は愛着の所依となりますから執着が深くなってくるわけですね。五受相応とみましても、迷いがだんだんと深くなってきます。
 触・受は実の作用あるものですから、十二縁起の中に入っているわけですし、遍行の心所にも入っているということになります。仮に説かれたものではないということなんですね。
 やっぱり、触は因縁変なんでしょうね。考えて触れることはないんでしょう。触れた瞬間に、同時にバラバラであった根・境・識が三和して認識が起こる、触れても、認識が起こらない場合がある、その時は三和していないということであって、三和していないと対象を認識しませんから、触の心所は動いていないということになるのでしょう。
 
  尚、学問的に興味がある方は、
 印度学佛教学研究(Vo1.29(1980-1981)No.1p273-276)に所収の『触について・三和生触・成触論を中心にして』小川宏著を参考に学んでください。ネット検索「三和生触」でヒットします。


 明日からは、作意(さい)の心所に入ります。
 

初能変 第三 心所相応門(17) 触の心所 (16)

2015-09-13 12:09:57 | 初能変 第三 心所相応門
   「鶏寒くして樹に上り、鴨、寒くして水に入る」

 触は仮有のものではなく、実有であることの第三の証明として、十二支縁起で説かれている、触・受・愛を出していました。「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛(欲望・渇愛)の、取(執着行動)に縁ぜるが如し」(『述記』)と。
 行相所縁門をうけて、心所相応門が展開されているわけですが、種子から現行を生起する時に、根・境・識が三和合し、境に触れしめる心所として、触が語られるわけです。触れたら、そこに新たな実種を生みます。それが「異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり、この識の性に摂めらるるが故に、是れ所縁なり。」と説かれていることなのですが、これに先立って『唯識二十論』には、次のような記述があります。
 「識は自の種従り生じ、境の相に似て転ず。内・外の処を成ぜんが為に、仏は彼を説きて十と為す。(第八頌)
 「論じて曰く、此れは何の義を説くや。色に似て現ずる識は自の種子の縁が合し転変差別すること従りして生ず。・・・」
 つまり、阿頼耶識は阿頼耶識の中にインプットされた種子より生じ、外境に似て、似た相を顕現しているわけです。
 「仮に由って我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る。」と、識の所現は、識の所変に依ることを明らかにしたわけです。
 「識体転じて二分に似るを倶に自証に依っておこるが故に」と。
 種子から現行が生じてくるのは、種子が自己内容となることなんです。ですから、いかなる種子を植え付けるかが問題となりますが、ここで問題となることは、縁生なんです。阿頼耶識の種子より現行を生じてくるのは、縁起されたものなんですね。
 「任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの」が自己存在なんですね。ここには分別の入り込む余地はないんですね。蓮如上人は「仏教は無我にて候」と教えてくださっていますが、本来、似我・似法であって、実我・実法は存在しないのです。執して、謬って錯誤しているにすぎないのですが、私たちは、無常の風に流されながらも、生まれて死ぬまで、一貫して変わらない自分が存在していると思い込んで、自分に執着を起こして暮らしています。
 ヒントになるのが、
 「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り。心(第八識)と及び意(第七識)とに依止して、余の転識(六識)生ずることを得と云う。阿頼耶識の倶有所依も亦但一種なり。謂く第七識ぞ。彼の識無くば定めて転ぜざるが故に。論に蔵識は恒に末那と倶時に転ずと説くが故に。・・・」(『論』巻第四)
 ここはしっかりと学ばなくてはいけないところです。課題として提起しておきます。
 そこで問題提起されているのが、第四頌第三句です。
   「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)
 第八識は、間断することなく、恒に(無始以来・未来永劫に亘って)転じている。あたかも、ナイアガラの大瀑布のようにです。この科段は後に詳細を述べますが、第七・因果法喩門と呼ばれています。「相続」と「因・果」が課題として提起されています。
 先ず、断見・常見の問題です。
 「阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。」
 輪廻と我の問題です。十二支縁起も、無我の道理を理解できませんと、「我」が存在して、それが輪廻するということになってしまいます。しかし、私たちは我を依り所として生命活動を起こしています。
 自業自得という言葉がありますが。自らの造った種は自らが摘み取らなければならないということなんです。道理なんですね。縁起されたものなんですが、自らが引き受けることができないという問題が起きてきます。縁起に逆らうわけですね。本来は縁起されたものなんです。
 「阿頼耶識は断にも非ず常にも非ず。」と。
 ここで、一類相続という、無覆無記性として恒相続しているが明らかにされます。
 横道にそれましたが、今日の課題はまた考えてみたいと思います。本論にもどります。

初能変 第三 心所相応門(16) 触の心所 (15)

2015-09-12 00:21:58 | 初能変 第三 心所相応門



 触の心所は実で有ることの証明をしているところですが、十二支縁起をみましても、「触を縁として受あり、受を縁として愛あり」といわれていますように、触は直接受の基礎になっている、受の所依は触であることを語っています。このことは、五遍行においても、触が、受・想・思の所依であることを明かししているものと思います。
 『論』の「能く縁となるが故に」ということは、触が実有であり、受・想・思の所依と為ることを明らかにしているわけですね。
 『述記』にも、
 「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛は取に縁たるが如し。愛は思の分位なるが故に彼も亦実なりと許す。諸の心所の支は皆是れ実有なるを以てなり。・・・」と。
 受(感受作用・感情)は触が元になっており、触は処が元になっているわけです。処は根・境・識ですね。つまり、十二処・十八界が触の背景になっている。六根・六境と六識の三和から触が生起してくることが解ります。しかし、触ということが、すでにして三和しているということなのです。三和が因として、果は触。触を因として三和が果という構図になります。
 ここも、因縁変として説かれ、分別変ではないということです。考えられたものではなく、事実を事実たらしめているもの、それが触であるということ。三和して触が生まれると云うけれども、触という事実が、三和しているという事実になるわけです。説明すれば、交互因果関係になります。
 種子としてあるときは、三は和合していないのですが、種子が縁に触れて現行する時に、変異して分別(ぶんべつ)
するわけです。もの柄が違ってきます。種子が相をもつわけです。それが三和生触ということなのですね。
 安田先生は、 
 「かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声として境に触れれば、声というものについての感情が起こる。
 かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の根拠になるのである。」(『選集』巻第二、p211)
 と教えてくださっています。

 

初能変 第三 心所相応門(15) 触の心所 (14)

2015-09-10 23:58:25 | 初能変 第三 心所相応門
 十二支縁起について
1.無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。(人生の真実相についての無   知)
2.行(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業。無知に基づく心身の行為とその潜在的影響力)
3.識(しき、巴: viññāna, 梵: vijñāna) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元。認識主観。
4.名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
5.六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意。六入とも云う。
6.触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
7.受(じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。
8.愛(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛。欲望。
9.取(しゅ、upādāna) - 執着。
10.有(う、bhava) - 存在。迷いの生存。
11.生(しょう、jāti) - 生まれること。
12.老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死をもつ存在。
 資料より
 「ものごとのあり方の関係的成立を考察した仏教教理に縁起説がる。縁起とは、「縁って起きる」・「なにかとの関係に依処しょいて、ものごとが成立している」という意味である。
 縁起説はわれわれの現実の生存が老病死などの苦に纏綿(てんめん)されている事実を直視して、このような苦としての人間のあり方が何故現れるのか、その原因を明らかにする。そしてその原因が生まれる根本条件を滅することによって、われわれの苦を滅し、迷いの生存からの離脱を図ることを教えた教理である。もっとも整備された形式の縁起説は、上記に示し他受にの構成部分からなる。
 縁起説は、現実にあるものの生起を解説するものではなく、何故にこのようにあるかの仕組み(論理関係)を観想する観念の方策である。順観・逆観・並観の三方向の観想を経て、縁起の理法の正しい納得に悟入するとされた。」 (『インドの思想』川崎信定著より)
 
 第三の因を挙げます。
 「能く縁となるが故に。」(『論』第三・二右)
 十二縁起説を挙げましたが、十二縁起を見ますと、愛は、渇愛、煩悩の心所である。感受作用は触が基になり、触は処が基になっている。処は器世間、十二処十八界が触の背景になっているわけです。  (つづく)
 








初能変 第三 心所相応門(14) 触の心所 (13) 食について

2015-09-09 23:16:09 | 初能変 第三 心所相応門


   
  四食証 (第八識の存在証明。五教十理の第八の証)
 「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。・・・謂く契経に説けるに食(じき)に四種有り。一には段食(だんじき)。…二には触食(そくじき)。・・・三には意思食(いしじき)。・・・四には識食(しきじき)。・・・此の四は能く有情の身命を持して壊断(えだん)せざらしむが故に名けて食(じき)と為す。」
 食に四つあげられています。この四つは、有情の身命を保って、身命を養い壊断(断ち切ること)することがない、それが食であるということ、つまり私たちの命を支えてくものであるということです。また食の根底には「愛楽仏法味 禅三昧為食」という、命をいただいているんだという恩徳がはたらいているのですね。
 養っていく働きのあるものが食であると『述記』は釈しています。「資養し生長す」と。
 初めに、段食が挙げられます。
 「変壊するを以って相と為す。」 段食とは、私たちの食べ物のことを云っています。私たちの食べ物は変化し壊れていくもの、つまり魚や野菜は口の中に入り、噛み砕いて胃の中にはいり、そこで胃の中で分化され、いろんなものに変化する。食べたものは栄養分となって私たちの身体を養うのですね。これが一つ。
 私たちは、身を養うために食事をしますから、誰にでもあてはまることです。
 次kらの三つが大変重要な食物になります。
 ・ 第一が触食です。
 「境に触するを以って相と為す。」
 触るというのは、単に対象に触れるということではなく、六触ということが云われていましたように、眼で触れる、耳で触れる、鼻で触れる、舌で触れる、身で触れる、意で触れる、あらゆるものと触れることにおいて私たちは成長していくのですね。成長とは、やはり身が養われていくということでしょうね。
 ・ 第二が意思食、思食とも云います。
 「希望(けもう)するを以って相と為す。」
 思とは、希い望むことである。自分の意志の力で、何かを求め、何かを望んでいくことなんですが、自分の意志の力が身を養っていくことになるんですね。
 聖書に、有名な「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉が言われていますが、まさに、仏教もまた、パンのみにて生きるにあらずと、パンのみではなく、もっと大切な食があるということを教えているんですね。
 ・ 第三、最後に識食が挙げられます。
 「執持(しょうじ)するを以って相と為す。」
 命を執持するのは阿頼耶識であることをはっきりさせているわけです。私の命を根底から支え、養っているのが阿頼耶識である。ここは本当に大事なところです。私のいのちはを育て育んでくるのは、阿頼耶識である、と。
『論』には、
 「謂く有漏の識は段と触と思との勢力(せいりき)に由って増長し能く食と為る。此の識は諸識の自体に通ずと雖も、而も第八識は、食の義偏に勝れ、一類に相続して執持すること勝るるが故に。」
 と説いています。
 私たち日頃の食事が身につくかつかないかは、どんなものを食べたかに依るのではないということなんです。本当に感謝の気持ちをもって、手を合わせ、いただきます、ありがとうございましたという心の働きが、身をやしない、成長させていく糧になるんですね。心しなければならないと思います。