唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(25)受の心所(1)

2015-09-22 19:49:11 | 初能変 第三 心所相応門
 

 このブログは第三能変から書き出しましたので、第三能変における遍行の説明も先にしておりました。初能変における遍行は無覆無記ですべて捨のみとなりますが、現行の意識になりますと、五受と相応することになります。この辺も比較しながら読みますと、いろんなことが見えてきます。
 現行された意識の上で、受はどのように動いているのか、そして水面下で受はどのような働きをもっているのかを探っていければと思います。
 今日は第三能変から少し読みます。
 この受の心所について、『法相二巻抄』における良遍の領解は「受ノ心所ト云ハ、楽ヲモ苦ヲモ、心ノ中ノウレヘ悦ビヲモ、何ニモアラザル事ヲモ心ニウケトル心ナリ」と述べています。『論』には「受とは謂く、順と違と倶非との境を領納するを以て性と為し、愛を起すを以て業と為す」と。「楽をも、苦をも」といわれていますように、私たちにはさまざまな感情があるのですが、その中で、楽と苦に関しての感情を受という、ということがわかります。三受・五受につきましては後述しますが、ただ大事な点は「愛をもって業となす」ということです。苦も楽も自我愛を生ずるということでは同じであるということです。苦からは逃れたい(違境)・楽からは離れたくない(順境)という愛執を起します。十二支縁起に於いてもですね、受→愛→取と、受を所依として愛がおこり、そこに執着を催す取が起こると定義されています。
 『述記』にはこの間の事情を簡潔に述べています。愛を起すを業とするのはなぜかと云う問いを出し「謂わく、楽受に於いて未だ得ざるときには合せんと希ひ、已に得するときには後乖離せざらんと云う欲あり、苦に於いては未だ得せざるには合せざらんとする欲あり。已に得たるが中には乖離せむと云う欲あり」と。
 第三能変では倶非を中といっていますが、中庸を得るという感情が大切であることを物語っているようです。中庸に於いて愛執から離れる事が出来るということを示唆しているからです。捨に三義有りといわれているのも頷けます。苦・楽・捨と言われる場合の〝捨〟(苦でも楽でもないという捨)・行捨の〝捨〟(平等・無功用という善の心)・煩悩の習気を総て捨てる場合の〝捨〟(煩悩との関わりを断っていくときの捨)、自分の中に捨という感情があるということ、これは大切に見て行かなければなりません。
 第三能変における受の心所の説明には、
「受は能く順と違と中(ちゅう)との境を領納して、心等をして歓と慼(しゃく)と捨との相を起さ令む。心が起こる時随一無きことは無きが故に」(『論』第五・二十七右)
『述記』の記述も巻三で詳しく述べていますので、ここは簡略に記述されています。「歓等の三相は、次の如く、順・違・中の三の境に配す。即ちこれ三受なり。余文は知るベし」と。
 受は順境と違境と中境(倶非境)との境を領納して、心等をして順境には歓(楽受)と、違境には慼(苦受)と中境には捨受の相を起させる。心が起こる時、歓と慼と捨等の中の(五受の中の)一つは必ず存在するのである。心が起こる時、即ち心王が生起し、働く時には必ず五受の中のどれかが遍するのであるから、受は遍行であると証明しています。
 慼(しゃく) ― うれうこと。苦受と相応する。
 この中で云われる「随一」という意味は「多くの中の一つ」ということで、ここでは五受の中の一つと云う意味です。「領納」は自分の心の中にしっかりと受け止めることです。自分にとっての問題であり、他人事ではないということですね。大雑把にいってしまいますと、社会問題とか、環境問題、自分を抜きにして、客観的にそれらの問題を考えてしまいますと、抽象論に始終するのではないではないでしょうか。問題の中心人物は、「私」なのですね。社会問題もですね。考えればネット社会では人と人との繋がりが遮断されていますし、人間関係を持ちたくない、独人でありたいという人が増えているようなのです。社会との関わりを断絶しながら生きていくというスタイルが徐徐に浸透しているといわれて久しいのですが、その傾向はますます強くなっているようです。問題は、他人事ではないのですね。あなたはどうなのかが問われているのです。他人事だと何でも言えるわけですが、自分の問題として受け止めるとそうはいかないのです。自分の心の中に〝自分さえよければ〟という愛執(我執)が白日のもとに晒し出さなければ問題解決の糸口にはならないのでしょう。