唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(12) 触の心所 (11)

2015-09-07 23:25:20 | 初能変 第三 心所相応門
 触は仮のものではなく、触の自性は実であることを、三因を以て証明します。第一が、六の六法の中の心所に摂められる。
 「六の六法の中に心所の性なるが故に」(『論』第三・二右)
 ここでいう、六の六法は、『界身足論』の説です。『界身足論』は、説一切有部における六つの論書の中の一つで、六つ合わせて、『六足論』と呼ばれています。足は各論という意味ですね。『界身足論』は、『(阿毘達磨)界身足論』(あびだつま かいしんそくろん、Abhidharma-dhātukāya-pāda-śāstra, アビダルマ・ダートゥカーヤ・パーダ・シャーストラ)と呼ばれているものです。
 『倶舎論』や『阿毘達磨順正理論』等で言うところの、六内処・六外処・六識身・六愛身・六触身・六受身とでは少し違って説かれています。
 『界身足論』には、六識・六触・六受・六想・六思・六愛の六の六法を表しています。
 六識は、六識身のことで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの集まり。
 六触は、六触身のことで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六つの集まり。
  触とは、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三つが和合したところに生じ、生じたところから逆に和合せしめる心所をいい、根・境・識とのそれぞれ六つあ  り、三者の結合から生じる触にも六つあることになります。
 六受とは、六触から生じる六つの受の集まりことで、まとめて六受身と云う。
 六想とは、六触から生じる六つの想の集まりことで、まとめて六想身と云う。
 六思とは、六触から生じる六つの思の集まりことで、まとめて六思身と云う。
 六愛とは、六触から生じる六つの貪愛の集まりのことで、まとめて六愛身と云う。
 この場合の身とは、触所生の受身・想身・思身・愛身のことですが、すべて触から生じるということで、これが触れが自性あるという根拠になるわけです。個の根拠を以て、経量部の仮法であるという主張を論破してきます。
 「触は別に体有るべし。六の六法の中に心所の性なるが故に」(『述記』)が結論として説かれてきます。
 第二の因は、食(じき)に関してです。 
 「是れ食に摂むるが故に。」(『論』第三・二右)
 食は四食を指しますが、食が体を支えている。つまり、身を養う段食・触食・意思食・識食の食事をいいますが、この四つは身体を維持する支えとなる食なんですね。例えば触食ですが、触れるという食事という意味なのですが、私はあなたとの触れ合いの中で私の身を養っているし、養われていることなんですね。触ることにおいて身体を作っていることは、仮のものではないという証明になるわけです。
 段食(だんじき)は、食べ物一般のことですが、私と関係する時には、口の中に入れて噛み砕き、段々と食べることから段食といわれます。これも私の身体、命を支えているものですから仮のものではありませんね。
 意思食(いしじき)とは、意志と云う食事。意思を食事に喩というわけですが、浄土に生まれようと意欲を起こし希望することが心によい影響を与え、それが身体を養うことにつながるのですね。
 識食(しきじき)とは、心の深層識である阿頼耶識によって身体が生理的に維持され、寿命全うするまで腐食することなく存続されていることから、識を食に喩て識食といっているわけです。
 『成唯識論』では巻第四冒頭に、四食の証明が引かれてあります。『選注』ではp69~p71になります。
 「この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむるが故に名けて食と為す。」と説明されています、つまり、有情の身命を保って、身命を壊さないで保持していく働きを持つのが食だというわけです。
 冒頭の文章は、
 「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。若しこの識無くば彼の識食の体有るべからざるが故に。謂く契経に説ける食に四種あり。」ここから説かれるわけです。本科段の本旨ではありませんが、四食についての『論』の所論を伺ってみたいと思います。  (つづく)