唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(9) 触の心所 (8)

2015-09-04 23:47:18 | 初能変 第三 心所相応門



   

 『大乗阿毘達磨集論』等、(等は『大乗阿毘達磨雑集論』)には「但だ根が変異に分別すと」説かれていると述べられていましたが、「根の用勝れたるを以て、但だ根を分別すと云う」とですね。この、根の勢力が増強であるということは、『倶舎論』に依るところが大きいですね。第三能変に至って、随根得名・随境得名という問題が提起されていますが、この辺りを少し整理してみますと、本科段の読み解くヒントになるかもしれません。
 六識の名は根に依り、或いは境によるけれども、諸論には多く一切位に通じて五義を具す随根得名によって眼識乃至意識と名づけるのであることを説明します。
 「此の後の境に随って六識の名を立てたるは五色根が未自在なるに依りて説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用(しょこんごゆう)するを以て一根いい識を発して一切の境を縁じぬ、但根に随う可し、相濫ずる失無しを以て。」(『論』第五・十六左)
 この後の境(認識対象)に随って、六識の名を立てたのは。五色根が未自在位という位によって説いたのである。もし自在を得たときには、諸根互用するので、一根が識を発して一切の境を縁じることになる。
 随境得名はただ未自在位のみに限る。無漏の五識現在前する自在位にあっては五根が互有するから五識が自根に依って遍く五境を認識する、例えば眼識が眼根によって色境を縁ずるのみならず、余の四境をも縁ずることになり、自在位あって随境得名するならば、一識を色識乃至身識と名づけ五種の区別がなくなってしまうのである。そうなると境に随って名をたてると相濫ずることになる。六識の名はただ根に随うべきである。根に随って名を立てるならば、相濫ずる過失はないのである。)
 随境得名は未自在位のみに限って名をたてられたのであり、自在位では問題が起こることを示唆しています。「諸根互有」という問題です。
 諸根互有 - 諸根が互いに他の作用をもすること。眼根乃至身根が転依することに於て、その働きが自在となり、ある一つの感官、例えば眼根が色だけではなく、声・香・味・触をも感覚できるようになることをいう。
 自在位では問題ないが、自在位では、各識がそれぞれ五境の一切を認識することになり混乱がおこることになる。眼識が耳識とも乃至身識とも名づけ得ることになる、ということを指摘しています。
 従って、六識の名は未自在位・自在位に通じて五義を具する随根得名によって名づけられるべきであると結論づけているのです。
「六識というものを立てるについて、識というものは所依の根と所縁の境とをもったものであるが、その点から六識は一面は根により、一面は境によるから、六識の名は根による場合と、境による場合の二つが可能である。眼識乃至意識は根により、色識乃至法識は境による。根による場合に五義を具するということを理由にあげた。根は、増上なる作用である。眼根は見ること、意根は思量することである。そういう作用が六識というものを起こすのに増上なる力をもつ。五義を具することで増上なる力をあらわす。眼識というのは眼に依る識である。「依る」という中に、総じては「依る」であるが、その依ることの中に、発・属・助・如という義がある。これらの五義ということによって増上なる機能をあらわす。そういうところから根によって名を立てる。六識の名を立てるについては、随根立名と随境立名ということがあって、五義を具するのは随根立名である。五義を具することによって根の意義を明らかにする。全く六識は六根によって起こされたものであるから、六根と一つである。ところが、境によって名を立てる方は、「識の義に順ずるが故に」といわれる。そうすると実はこの方がむしろ、識の独自の意義をあらわしていると考えられる。識は了別である。了別が作用であり、識自体をあらわしている。了別作用が識作用である。境によって名を立てるのは、識の識たる所以をあらわす。識そのものの本質的な意義をあらわしている。根は識の前提である。根によって了別するというが、根はむしろ識の前提であり、識そのものは境の了別作用である。根を前提とする識そのものの識たる所以をあらわすのは、むしろ境である。了別が識法といわれるものの法相である。識の了別という意義を、境において立てられた名はあらわすわけである。」(『安田理深選集』第三巻p234~235)
 『倶舎論』 分別界品第一 第四十四頌を見ますと、
 「随根変識異 故眼等名依 彼及不共因 故随根説識」(「根変に随って識異る、故に眼等を依と名く。彼と及び不共因との故に、根に随って識を説く。」)
 識の依りどころは、境ではなく、根であること。識をその根の名で呼び、その境の名では呼ばない、ことを説明しています。根を所依とするということの理由を明らかにしているのです。
 説一切有部は五位七十五法の法体系を説きます。あらゆる事象を七十五種の実体に分け、それを五つに分類しているのです、この分類法が『倶舎論』に説かれています。
 概略しますと、
• (1) 色法(十一)、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官と、その対象である色・声・香・味・触の対境、および表示できない実体である無表色の十一種。(「色とは唯だ五根と五境       及び無表となり。」)
• (2) 心法、心の働きの主体で、心王という。(「識は謂く各了別す、此れを即ち意処と、及び七界と名づく。応に知るべし、六識転ずるを意となす。」)
• (3) 心所有法(略して心所という。四十六)。これが大地法(十)・大善地法(十)・大煩悩地法(六)・大不善地法(二)・小煩悩地法(十)・不定地法(八)に分けられて      います。大とは、どの心王にも必ず遍く倶生するということ、小は常に倶生するとは限らないという意味です。地とは所依をあらわします。心王です。心王を地と名付づ      けているのです。大地であるところの心王が所有する法が心所といわれる所以です。
• (4) 心不相応法(色法でも、心・心所でもない存在のありかた。)で、十四種数えられる。)
• (5) 無為法(生滅の変化がなく、はたらきを起こすものがないもので、三種あり。)
 説一切有部によると、実体としての個人というものは存在しない。真に存在するものは、個人を構成しているもろもろのダルマdharmaと呼ばれる要素―その大部分は心理現象である―だけである。個人pudgalaというものは、もろもろのダルマによって仮に構成されている虚構にすぎない。その構成要素は七十五種あり、それは大きく二つに区別される。その一は、つくり出されるもの(有為法)、その二は、つくりだされないもの(無為法)。
(一) 有為法 - 創りだされるものとは、変化するものとなって現われ出る諸要素のこと。
1.色法 - 物質的なもの。場所を占有して他のものを入らせない性質を持っている。
   ①眼根 - 視覚器官
   ②耳根 - 聴覚
   ③鼻根 - 嗅覚
   ④舌根 - 味覚
   ⑤身根 - 触覚。触覚は身体全体にわたって存在するので、身体による器官とする。
   ⑥色境 - いろかたち、眼に対応するもの
   ⑦声境 - 音声、聴覚に対応するもの
   ⑧香境 - 香り、嗅覚に対応するもの
   ⑨味境 - 味、味覚に対応するもの
   ⑩触境 - 触れられるもの、触角に対応するもの
   ⑪無表色 - 表示されることのない物質、感覚器官では知覚されない特殊な物質。善悪の行為が心に潜在的影響を残し、未来に報いを生ずる、そのための媒体となるもの。
2.心法 - 人間の精神作用の中心となる機能。心・意・識は、同一の機能を指す。
3.心所有法 - 心作用。心と結びついている精神作用。心理現象のこと。これらは心と結びついてはいるが、心とは別のダルマであり、それぞれの精神作用が個人を構成する独立     の要素となっている。個々の精神作用は心の属性でもないし、また、心の現象でもない。 
 ①大地法 - あまねくゆきわたる心作用、意識のいかなる瞬間にも現存するはたらき。
  (1)受 - 感受の働き。快感・不快感・快でも不快でもないの三種。
  (2)想 - 表象作用。対象の特殊な特徴を把握すること。
  (3)思 - 意志作用。心を起動させる働き。
  (4)触 - 接触作用。感官と対象と心の三つが合すること。根境識の和合。
  (5)欲 -欲望の働き。行為主体が何ものかを欲すること。
  (6)慧 - 知慧。もろもろのダルマを区別して知る知恵。これがやがて解脱をもたらす。
  (7)念 - 記憶。ぼうっとしないではっきり思い続けること。
  (8)作意 - 注意。気をつけること。
  (9)勝解 ー 明確に認めること。対象を確認すること。
  (10)三摩地 ー 精神統一。心の統一作用で、精神を一点に集中し続けること。三昧。
 ②大善地法 ー 心が善である場合に常に現存する心作用。
  (1)信 - 心の澄みきって喜びに充ちている状態。教えを説かれたままに認めること。仏教では、信仰が最も重要なものではなくて、信はさとりを得るための入り口なのであ         る。
  (2)勤 ー 勇気。努め励み、善の行為をなすための勇気。
  (3)捨 - 心の平静。心が落ち着いて乱されないこと。
  (4)慚 ー 慚じること。自ら自分を省みて恥じること。
  (5)愧 ー 愧じること。他人の悪行をみて、嫌悪を感じて愧じること。
  (6)無貪 ー 貪りのないこと。
  (7)無瞋 ー 怒らないこと。怒り、憎しみのないこと。
  (8)不害 ー 不傷害。他人を傷つけ、悩まさないこと。
  (9)軽安 ー 軽やかさ。心が軽やかで快適なこと。
  (10)不放逸 - 不怠惰。怠けないで、善い性質を体得しようと努めること。
 ③大煩悩地法 - あまねく煩悩にゆきわたる心作用。煩悩が起こったとき常に現存する心作用。
  (1)無明 - 無知、迷い。知慧の反対、すなわち、迷いの生存の根源。
  (2)放逸 - 怠惰。なおざり。善の実行を怠けること。不怠惰の反対。
  (3)懈怠 - 勇み立たぬこと。勇気のないこと。勇気の反対。
  (4)不信 - 心のにごり汚れていること。信の反対。
  (5) 小沈 - 身心の物憂いこと。善を行なうのに軽やかでないこと。
  (6)掉挙 ー 心が浮つくこと。心が静まらないで軽躁であること。
 ④大不善地法 - 悪心にあまねく存する心作用。善の反対の悪、悪心が起こったときに常に存する心作用。
  (1)無慚 - 慚じないこと。慚じることの反対。
  (2)無愧 - 愧じないこと。愧じることの反対。
 ⑤小煩悩地法 ー 付随的な煩悩にともなって起る心作用。これらの心作用は、悪心および有覆無記心ウブクムキシン(善でも悪でもないが、煩悩に覆われている心)に結びついて起り、そ          れぞれ別々に現われる。
  (1)忿 - いかり。心に憤りを起こすこと。
  (2)覆 - みずからの罪を隠すこと。
  (3)慳 - ものおしみ。他人に教えを授けるのを惜しみ、財を与えることを惜しみ、など。
  (4)嫉 - ねたみ。嫉妬。他人の幸運、繁栄を喜ばないこと。
  (5)悩 - かくたくなに悪事に固執すること。他人の道理にかなった諫言を容れられない。悪事に執着して心身をを悩ます。
  (6)害 - 害すること。この心作用が起ると、他人を殴打し罵ったりする。
  (7)恨 - 恨み。忿りの対象となることを思い起こして怨みを結ぶ。
  (8)誑 - 欺く。だます。
  (9)諂 - 心が曲がっていて、自分をあるがままに顕わさず、偽り、つくろったり、手段を弄したりして、誤魔化すこと。
  (10) 鉦 - 驕り高ぶること。
 ⑥不定地法 - いずれの心作用とも結合しうる心作用。
   (1)悪作 - 後悔。後で後悔すること。
   (2)睡眠 - 放心させる働き。心をぼおっとさせる働き。
   (3)尋 - 粗雑な思考作用。
   (4)伺 - 微細な思考作用。
   (5)貪 - 快適なものを貪り愛すること。
   (6)瞋 - 嫌悪。不快なものを嫌う。他のものを恨み嫌う。
   (7)慢 - 慢心。自分が高く構えて、自分が他人より優れていると思いなすこと。
   (8)疑 - 疑い。疑うということは、善い場合も悪い場合もある。だから不定。
4.心不相応行法 ー 心と結びつかない要素。物質でもなく、心作用でもない原理(ダルマ)。
   ①得 - もろもろのダルマを身に得させるダルマ。人が修養をして心を清め澄ませるというような善い性質を身に体得する場合には、この得させるという原理が働くと言うの        である。
   ②非得 ー 前述と反対。もろもろのダルマを身から離れさせるダルマ。人が善い性質を体得しない時は、この得させないという原理が働いているとする。
   ③同分 - 生きものの同類性。犬なら犬が、同類の生物として生まれ育つのは、そこに、生きものの同類性という原理が働くからと考える。
   ④無想果 - 外道のニルヴァーナ。無想天という境地に生まれること。
   ⑤無想定 - 外道の瞑想法。外道が無想果を得るための瞑想。そこにおいては、心も心の働きも全くなくなる。
   ⑥滅尽定 - 聖者がしばらく休息するために入る無心の精神統一(禅定)。個々では心や心の働きを全く滅し尽くしている。
   ⑦命根 - 生命原理。寿命。生きものがいきているかぎり、そこに生命原理が働いている。それは、体温と意識作用のよりどころとなっている。
   ⑧生 - ⑧から⑪までは、四有為相。生は、ものを生ぜしめる原理。
   ⑨住 - ものをとどまらせる原理。
   ⑩異 -ものを変化させ、衰えさせる原理。
   ⑪滅 - ものを滅びさせる原理。
   ⑫名身 - 以下三つは、言語表現の要素。名身は、名称の集合。概念自体。
   ⑬句身 ー 文章の集合。命題自体。
   ⑭文身 - 音節の集合。字母自体。
(二)無為法 - 創られたものではない原理。変化することのない原理。
   ①虚空無為 - 場所一般。もろもろのダルマが現われるためには、それらに妨げを与えない場所の存在が前提される。
   ②択滅無為 - 正智の明確に知る力による消滅。われわれが正智に達すると、その明確に知る力(簡択力ケンチャクリョク)によって、ひとつひとつのダルマの本性を知ると、その「知            る」働きの不思議な力により、個々のダルマが起らなくなる。そうしてすべてのダルマが消滅すると、やがてニルヴァーナに達する。
   ③非択滅無為 ー 明確に知る力によるのではない消滅。あらゆるものごとは因縁によって生ずるのであるが、生ぜしめる縁が欠けると、もろもろのダルマも生じないで滅びて            しまう。この消滅そのものを実体視して、こう呼んでいるのである。それは明確に知る力によって消滅するのではないから、「非択滅」とよぶ。簡単にいえ            ば、ものや現象がひとりでになくなることである。(「にほんブログ村 仏教」よりシェアーしました。)

 『倶舎論』における心王・心所論は、心王は総相を、心所は別相を取ると云っています。境の相を取ると。六識の所依は六根、その所縁は六境をもって一切の心所法を立てています。つまり、六根・六境・六識を以て十八界と云い、六根・六境を以て十二処と云う。五蘊・十二処・十八界が有部が立てた人間観になります。

 五蘊に関係するということでは、一昨日のブログで述べていますが、「受は随触を領納す」と。随順する触を説明しています。受は境を領納するのではなく、触を領納するのである、と。これを領納随触と云う。「想は像を取るを体と為す」、想蘊は心の中に、いろいろな相状(想い考える)を造り出す。そして、色・受・想・識を除いたのを行蘊というのだ、と。行は遍行でいうところの思にあたるわけです。

 『論』に説かれます小乗を破す段はやはり『倶舎論』を学んでおかなければならないと思います。この『倶舎論』に説かれます、五位七十五法に対し、この有部の教説を破斥して大乗では五位百法が説かれます。大きく異なるのは有部は心王は一の識しか認めていませんが、唯識は八識別体の並起を承認しているところです。
 根に変化が起こる(五根が衰えて変化すること)と識にも変化が起こる。しかし、色等の境が変化を起こしても、(能縁の)識に変化は現れない、よって、識は根に随って、眼等の根を所依と名ける。
 ① その所依に随って眼識等という。
 ② 不共因に依る。眼等の根は他と共通ではない因を共にしない、眼根は眼識の所依であり、耳根は耳識の所依である等々。
 この『倶舎論』の説明は、後に唯識にも引き継がれ、「三十頌」第三能変に於いて、随根得名・随境得名の理由が示され、共相・不共相を以て、識の所依は根であることから、随根得名を以て眼識乃至意識と名けると述べています。
 第一句は、眼は身より下ではない(同又は上である)。
 第二句は、色と識とを眼根に対するに、等または下とであって、上ではない。これは、眼根が下地であれば、上地の色を見ることは出来ない、それと上地の識は下地の眼根には依ら      ないからである、と。
 第三句は、色は識に対して一切(同・上・下)に通ずる。
 第四句は、「二を」(色と識)身に対するに、これも同じく一切に通ずる。
 第五句は、耳根も眼根と同じである。
 第六句は、「次の三」(鼻・舌・身)の三根は、根・境・識いずれも同地である。
 第七句は、第六句をうけて、同地ではあるけれども、異なっていることもあることを明らかにしています。身と触とは同地であるが、識を触と身とに対すると、同地または下地であ      +る。上三静慮に生じた場合を下地とする。
 第八句は、意根は四事不定である。種々に変化する。同の場合もあるが、種々に変化しているものである、と。
根は増上の義であることを述べています。樹木は根を張りますね、根は樹木を生長さす作用をもっています、それを根と名づくといわれているのです。
 「伝説五於四 四根於二種 五八染浄中 各別為増上」(第一頌)(伝説すらく、五は四に於いてし、四根は二種に於いてし、五と八とは染と浄との中に、各別に増上と為す。)
 染は雑染の略。浄は清浄の略。「染と浄との中」とは、煩悩に雑染されている法と、そうではない清浄の法、ということになります。
 この科段は二十二根について説明されているところですが、八は、信等五根と三無漏根とを合わせて八といわれています。二十二根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六内根、女・男の二根、命根、憂・喜・苦・楽・捨の五受根、信・勤・念・定・慧の五作根、及び未知当知・已知・具知の三無漏根を指しますが、すべて根と呼ばれて、根の意義を見出そうとしています。そして、「増上」こそが根の意義であると述べているのです。
 先ず始めに、「伝説」という言葉が置かれていますが、これは有部の説を挙げて不信を表す為に置かれているといわれています。第一句の「伝説五於四」は、眼等の五根は四事に於いて(四つの点)で、増上を為す、と。一に身を荘厳する、二に身を導養する、三に識等を生ぜしめる、四に不共事を為す。第二句の「四根」は、「男女二根及び命根意根の四」ですが、これが二事に於いて増上を為す、と。二の増上とは、一に有情異、二に分別異をいいます。有情異とは、此の二根において男女の類別が出来る。分別異とは、形相、言音、乳房などが全く異なる。命根の二は、同分をよく続け、よく保たたしめる。意根の二とは、よく後有を続け、及び諸法に対し自在に行ずる。第三句の「染と浄との中」とは、楽等の五受根と信等の八根とは、染と浄との間に於いて各別に増上す、と説明されています。

 僕は思うのですが、根・境・識の三和合において、境に触れしめる作用が、触の心所ですね。触の心所は、根によ依るころが大きいわけですが、根も種子の中に摂められるものですね。種子が現行を生ずるところに、三和合が結実しているわけです。現行が受を生み、想・思の所依となる。心所法は殆どが行蘊に摂められていますから、思の働きが大きく作用していることがみてとれます。