唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(27)受の心所(3)

2015-09-24 22:44:53 | 初能変 第三 心所相応門


 受 ― 境(対象)を領納すること。
 境の相 ― 順・違・倶非がある。

 順境の相を領納すれば ― 楽受
 違境の相を領納すれば ― 苦受   }であり、
 いずれでもない場合は ― 捨受

 境を領納するのは、受の見分(行相)である。そこに苦・楽・捨が成り立つ。三受相応、開けば五受(苦・憂受。楽・喜受。捨受)になる。
 さらに、「受に二種有り」と。
   境界受 ― 外のものを受け入れる。(外のものを受け入れるという心の働き。「己に属する」)
 {
   自性受 ― 受が起こる同時の、触・作意の心の働きを受け入れること。(順正理論師の説で論破されます。)

 受の心所を概略しますと上記のようになります。
 
 「受と云うは、謂く順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す。」(『論』第三・二右)
 「対象が己に関係する、対象の性質を主体に関係させるところに感情が成り立つ。快・不快は感情の範疇である。領納するのは受がそれ自身にもっている作用である。受の行相、感情独自の作用、それをもって「愛を起こすを業と為す」という。」(安田理深師。傍線は筆者)
 感情が「愛を起こす」条件なんですね。己自身の感情なんです。境は縁ですが、この場合の縁は無条件です。無条件の縁を以て、そこに己の感情が移入されるのですね。感情が移入されますと、それが条件となって起愛です。愛にとって受は不可欠の条件となっています。そのことを『論』には、
 「能く合と離と非二との欲を起こすが故に。」(『論』第三・二左)
 「起愛為業」の釈です。
 つまり、「楽受に於て未だ得ざるは合を希い、已に得るは復た乖離せずと云う欲有り。苦に於は未だ得ざるは合せざらんと云う欲あり。已に得たるが中には乖離せんと云う欲あり。欲と云うは欣求するなり。」(『述起』第三末・十五右)
 愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦の行相の的を得た説明です。この三苦は五蘊盛苦を縁として起こってくるのですね。どこまでも己の都合が最優先して起こってくる感情なんですね。
 さらに、『述起』はつづけます。
 「此の業は有漏と無漏とに通ずべけれども、今は唯だ無明と触とに生ぜられたる受に依って説く。ここに唯だ是れ愛とは染分に依って説く。いま縁起の中に受は愛に縁ぜらるるが故に、有漏の受は能く愛が縁となるが故に。」と。
欲なんですが、
 順境に対してですね、まだ順の境でないとするならば、順の境に合(領納)しようと欲し、既に順の境であれば、離れまいと欲するわけです。
 逆境に対しては、順境の反対の欲望を起こします、逆境でないならば、逆境にならないように欲し、逆境であるならば、離れたいと希求する。
 倶非の境に対しては、ここがわかりにくいですが、非二の欲を起こすと述べられていますから、いうなれば無の欲ですね、己の欲から発せられない中庸の欲とでもいうのでしょうか、例えばですね、講義終了後に黒板がよごれていますと、まあ誰かしかです、黒板を拭きに来られます。このような行為を非二の欲とでもいうのでしょうか。本当は、ここが問題なのですね。非二の欲は、善法欲であり、如来の願心、欲生心なのでしょう。そこに親鸞聖人は気づかれたのだと思います。如来の欲生心に触れられて、自分から出るすべての善行には我執という毒が混じっているのだと。身・口・意の三業の所修、ことごとく雑毒の善であり、虚仮の行だと慚愧の心をいただかれました。
 ですから、私たちからは、順か違かの二つしか選択肢はないのでしょう。ノンセクトという在り方もあるではないかと思われるかもしれませんが、それはノンセクトと云うセクトであって、そこで、順か違かの判断を下し、迷妄しているのですね。阿頼耶識は無記であり、倶非であるというのは如来の願心を表しているのであろうと思いますね。願心が具体化した相が阿頼耶識である、と。阿頼耶識は私を超えて、私の阿頼耶識として、私を支え続けている菩薩なんでしょうね。ここを忘れると、頼りになるのは我執しかないわけです。私たちはいかに阿頼耶識と対話することが大事であるのかが教えられます。