唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(30)受の心所(6) 護法正義 (2)

2015-09-27 15:33:50 | 初能変 第三 心所相応門
   
 
 お知らせです。高柳正裕師が『往生礼賛』の講義を隔月に聞成防において講義をされておいでになりますが、今月は30日午後3時からの開講となります。5月度と7月度は十二光についての講義でしたが、その述中に於て師は次のように教えてくださいました。(案内文より抜粋)
 「・・・私というものに対する執着があるということは、私と私でないものという構造です。・・・逆に言うと私と私のものということです。親子関係にしても夫婦関係にしても、私の親とか・・・やはり根本的な分別と言ってもいいわけです。唯識では・・・分別は超えられる、分別みたいなものは超えられると、こういう言い方になりがちなのですが、むしろ親鸞聖人とか浄土教ではどこまでも深い分別というか執着を見ているのです。ここが大きな特徴だと思います。だからこそ無辺ということが光なのです。私たちは何処までいっても深い分別に閉ざされているというか囚われている。それを照らしてくる光なのです。もしもこれが解けていくのなら仏さまはいらないわけです。ですからどこまでも光を蒙ることにおいて、その深い執着、根本的な分別が照らし出されて離れられるということなのです。これは分別が破れたということではなく、そこが真宗の大きな特徴なのです。特徴というのか、どこまで皆さんが格闘するのか、深まるか、にかかっているのです。・・・自分が、分別が破れたとなると、非常に自分の中でゆがんだ葛藤が必ず起こってきます。もう終わったとなると。お釈迦さまも苦しんだのです。私は悟ったというところから歩まれたということがお釈迦さまのすごいところなのです。・・・我々の中に、これは気づいてないけれども、深い奥行きに何かの深い飢えがあって、そういうものが自分でも気がつかないような闇と言われるわけなのです。今日はあちこち出てくるのですが、闇というものはもちろん智、智慧に対してです。智慧に対して無明ということがあるのです。でも暗闇というのはただ単に知恵が無いことだと、ものが見えていなにのだという、こういう問題ではないわけです。そのへんは真宗というか仏教というのは非常に深いですね。ただものが見えていない、智慧がないのだ、というのではなくて、それは渇愛ということと重なっている。渇愛というのは深い欲望なのですけれども、その地として本願に出てくる、「欲生願国」なのです。「わが国に生まれんとおもえ」というのにやはり繋がっているのです。・・・」
 
 本願と私は別々のものではなく、本願によって私は繋がれている、そこに救済の事実があるのでしょう。聞法によって開かれてくる世界ですね、そんなことを感じました。

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 ちょっと前に戻りまして、心王と心所有法(心・心所)の相応関係につきまして簡単に整理をしたいと思います。『成唯識論』巻第二に「彼の相応法も応に知るべし亦爾なり。」と述べられ、心王と心所の相応について示され、心所法も心王と同じように、能縁・所縁という形を以て現ずることが明らかにされていました。
 心王は八識ですが、この八識には必ず相応する心所があるわけです。初能変の第三・心所相応門に於いては、第八識に相応する心所は何かを明らかにされていますが、それはただ五遍行である、と。
 心王 ― 八識
 八識に付随する心所を挙げますと、
 第八識 ― 五遍行(触・作意・受・想・思)
 第七識 ― 十八の心所と相応する。遍行の五と別境の慧と四煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)と随煩悩の不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知・散乱と相応する。
 第六識 ― 五十一の心所すべてと相応する。
 前五識 ― 三十四の心所と相応する。遍行の五と別境の五(欲・勝解・念・定・慧)と善の十一(信・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・勤・安・
不放逸・行捨・不害)と貪・       瞋・痴の三と随煩悩の無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知・散乱と相応する 
   「中秋の名月」(旧暦の8月15日)の27日は、関東地方は夜も曇りがちとなる見込みだが、翌28日は全国的に夜も晴れ間が広がり、今年最大の満月「スーパームーン」が見られそうだ。

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