![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/54/2e/75a56b1f41b9a672b7c9886fe0763dcb_s.jpg)
触についての説明がつづきます。
「『集論』等に受が依とすると説けるは、触いい受を生ずるに近くして勝れたるを以ての故に、謂く触が所取の可意(かい)等の相と受が所取の順益(じゅんやく)等の相と、極めて相隣近し引発(いんぽつ)すること勝れたるが故に。」(『論』第三・二右)
『集論』等に、受が所依となると説かれているのは、触が受を生ずるのに一番近く、他の想・思よりも勝れているからであると説明しています。触れたら、即受ですね。触れると同時に感情が沸き起こってきます。三受相応とか、五受相応といわれることなんですが、第八識に関しては無記性である。阿頼耶識は、触と相応し、ありのままを受け取るのが相なんですね。
「近」とか「勝」とかと云われていますが、何故、近であり、勝であるのかという問いに対して、「謂く」とその理由が示されています。
つまり、触の対象であるところの可意(好ましい事)と不可意(好ましくない事)の相と、受が対象とする順益(心にかなう対象、好ましい事。楽受)と違(損害の事。心にたがう対象、好ましくない事。苦受)との相は極めて近く、引発(引き起こすこと)することが勝れているからである、と。
触が起こりますと、即座に、受という感情が起こってきます。朝、目を覚ましますと、ぼうっとしていましても、無記という感情が起こっているのですね。そして、目覚めがいいとか、目覚めが悪いとかと云う感情が起こってきます。そういうわけで、受が依となると述べています。
可意等と順益とは相似の義であるというわけですね。
「即ち可意等の相と、順益の相と、行相は極めて相似せる故に、名けて相隣と為す。世に此の物と彼の物と深極に相似せりと言うこと有るが如し。相似と相隣とは体一にして名は異なり。この解は即ち是れ境相近きに約せり。」(『述記』)
二番目の解釈は、触は受を引き起こすこと(引発)他の心所よりも勝れているからである、と云いますね。つまり、触が苦・楽・捨という所触の境に触れる時は、受も苦等の受を受けるんだ、と。
次科段は、経量部の説を破斥します。
「然るに今大乗は一切有部に同じく触の体は是れ実なりと云う(『倶舎論』第十巻に説かれる)唯、経部の一師は三和して触を成ずと云う者、大乗を難じて(大乗を批判して)曰く、触は是れ三和と説かば、何が実体有ることを得んやと。彼が計を破さんとして、故に説いて云く。」(『述記』
大乗の論破の要旨は、
「然るに触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」(『論』第三・二右) と。
経量部の主張は、三和の他に触はないんだと、いうわけですね。三和の他に触という実体は無いわけですから、触は仮ということになります。大乗は、触は仮ではなく、触の自性は実のものであると主張します。ここに三つの証拠を挙げて論証してきます。
以下は次回に考究します。
一、 六の六法の中に心所の性なるが故に。
二、 是れ食(じき)に摂むるが故に。
三、 能く縁となるが故に。