唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(11) 触の心所 (10)

2015-09-06 14:55:36 | 初能変 第三 心所相応門





 触についての説明がつづきます。
 「『集論』等に受が依とすると説けるは、触いい受を生ずるに近くして勝れたるを以ての故に、謂く触が所取の可意(かい)等の相と受が所取の順益(じゅんやく)等の相と、極めて相隣近し引発(いんぽつ)すること勝れたるが故に。」(『論』第三・二右)
 『集論』等に、受が所依となると説かれているのは、触が受を生ずるのに一番近く、他の想・思よりも勝れているからであると説明しています。触れたら、即受ですね。触れると同時に感情が沸き起こってきます。三受相応とか、五受相応といわれることなんですが、第八識に関しては無記性である。阿頼耶識は、触と相応し、ありのままを受け取るのが相なんですね。
 「近」とか「勝」とかと云われていますが、何故、近であり、勝であるのかという問いに対して、「謂く」とその理由が示されています。
 つまり、触の対象であるところの可意(好ましい事)と不可意(好ましくない事)の相と、受が対象とする順益(心にかなう対象、好ましい事。楽受)と違(損害の事。心にたがう対象、好ましくない事。苦受)との相は極めて近く、引発(引き起こすこと)することが勝れているからである、と。
 触が起こりますと、即座に、受という感情が起こってきます。朝、目を覚ましますと、ぼうっとしていましても、無記という感情が起こっているのですね。そして、目覚めがいいとか、目覚めが悪いとかと云う感情が起こってきます。そういうわけで、受が依となると述べています。
 可意等と順益とは相似の義であるというわけですね。
 「即ち可意等の相と、順益の相と、行相は極めて相似せる故に、名けて相隣と為す。世に此の物と彼の物と深極に相似せりと言うこと有るが如し。相似と相隣とは体一にして名は異なり。この解は即ち是れ境相近きに約せり。」(『述記』)
 二番目の解釈は、触は受を引き起こすこと(引発)他の心所よりも勝れているからである、と云いますね。つまり、触が苦・楽・捨という所触の境に触れる時は、受も苦等の受を受けるんだ、と。
 次科段は、経量部の説を破斥します。
 「然るに今大乗は一切有部に同じく触の体は是れ実なりと云う(『倶舎論』第十巻に説かれる)唯、経部の一師は三和して触を成ずと云う者、大乗を難じて(大乗を批判して)曰く、触は是れ三和と説かば、何が実体有ることを得んやと。彼が計を破さんとして、故に説いて云く。」(『述記』
 大乗の論破の要旨は、
 「然るに触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」(『論』第三・二右) と。
 経量部の主張は、三和の他に触はないんだと、いうわけですね。三和の他に触という実体は無いわけですから、触は仮ということになります。大乗は、触は仮ではなく、触の自性は実のものであると主張します。ここに三つの証拠を挙げて論証してきます。
 以下は次回に考究します。
 一、 六の六法の中に心所の性なるが故に。
 二、 是れ食(じき)に摂むるが故に。
 
 三、 能く縁となるが故に。

初能変 第三 心所相応門(10) 触の心所 (9)

2015-09-06 00:06:32 | 初能変 第三 心所相応門


 『瑜伽論』巻第三と五十五を教証として挙げられますが、その前に『述記』には問いが出されています。
 「問う、若し諸の心所は皆触に依って生ずといはば、何が故に『瑜伽』第三と五十五とに受・想・思が所依を以て業とすとのみ説いて、所余の心所法をば説かざるなり」と。
 『瑜伽論』を会通する一段になります。『論』の記述は、答えになります。
 「瑜伽に但だ受と想と思とが與(ため)に所依とするのみと説けるは、思いい行蘊に於て主たること勝れたるが故に、此れを挙げて余を摂めたり。」(『論』第三・初左)色は
 ここで注意が必要なのは、「但だ受と想と思とが與に所依とするのみ」と云って、等という言葉がありません。触はこの三つだけの為にだけ所依となると説かれているわけです。それはどういう意味をもっているのか。本当はその他の所依でもあるんですが、この三つだけが所依と為ると挙げているんですね。
 色・受・想・行・識の五蘊の中で主となるのが行蘊、遍行では思と云っていますが、思が行蘊の中で主である、と。思は意志です。意志には行為が働きます。行為がサンスカーラ、その背景にあるのが、意思決定、この場合の意志決定は有為法、一切の心所をあらわす概念になりますね。
 色は物質、識は心ですから、行を代表するのが思なんですね。受・想・行をもって心所法を表しているわけですが、主は行で、行の中でも思が主である。行は造作の義であって、思は業だといいます。「有漏の有為を造作するを行取蘊と名く」と云われています。
 造作の義は最強である故に、最勝というのだ、と。心所法のすべてが、行に関係してくるんですね。しかも、その他の心所、善の心所もあれば、煩悩の心所もあるわけです。そういうものが全部合わさって行為起こす。思の中にすべての心所を摂めて『瑜伽論』は説いている。
 境に触れることに於て、受・想・思の所依となる、それが触の心所である。触と作意、そして受・想・思が倶に生起する、故に五遍行と云う。
 「思は是れ行蘊に於て主なり。故に『集論』の初に云何ぞ行蘊なりや、謂く六思身なりと説けり。」(『述記』)
 触と思の関係ですね。六触に依って、六思が生ずるわけですから、思が主であることも頷けるわけです。
 「眼触所生の思、耳・鼻・舌・身・意触所生の思」(『瑜伽論』巻第二十七)と説かれています。つめり、六つの触から生ずる六つの思(意志)の集まりを、六思身(ろくししん)といわれます。阿頼耶識においてもですね、阿頼耶識は触等と倶に働くわけですから、触はすべての心心所を境に触れしめる働きをもっていて、その主になるのが思ですから、触は思の所依となると説かれているわけです。すべての心所は皆、触に依って生起するんだ、と。