唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(21) 作意の心所 (4)

2015-09-19 22:44:31 | 初能変 第三 心所相応門
 作意の心所について思考中ですが、参考文献として、共有して学んでいきたく思いましたので、コピーさせていただきました。
 『現象學と唯識論』
         玉置 知彦
はじめに
現象學は二十世紀の初頭に生まれた西洋哲學である。唯識論は古代インドに發した佛教の一派の教義であつて、一千三百年程まへに中國を經て日本に傳はつた法相宗の根本教義である。一見したところ両者を比べるにはかなり無理があると思はれる。時代も成立した背景も全く異つてゐるからである。
ところで兩者の共通性については、既に現象學の現在の到達點から論じられてゐるのである。1しかし、それらは現象學が現在當面してゐる先端的な問題意識から唯識論へ接近するという方式を採つてをり、また佛教の幅廣い學識をもとに論じられてゐるため初學者にはほとんど接近不可能である。
本稿では現象學の基本的な觀點から、兩者が如何に根本的な發想を共有してゐるかを檢證する。それが成功すれば、單に似た考へ方を拾ひ出すのではなく、兩者を系統的に眺めることが可能になり、先端的な問題への接近や、東西哲學の融合への道が開けるのではないかと思はれる。
1. 發想の原點 ― 志向性、地平 ―
現象學と唯識論とは發想が似てゐると、誰もが思ふに違ひない。片や嚴密學を目指す哲學であり、片や解脱が目的の宗教であるにもかかはらずである。發想が似てゐるのであれば、現象學の原點である「志向性」を共有してゐないだらうか。法相宗の大本山である藥師寺の松久保秀胤貫首かんすは次のやうに述べてゐる。
人は集中することによって阿頼耶識を活性的に働かせています。この対象に注意を向けさせる心作用を、唯識では「作意さいの心所」といいます。これが能藏でしょう。能動的かつ積極的に感受・認識しようとしているわけです。2
現象學の「志向性」に相當する概念がありさうである。が、松久保貫首かんすは「作意さい」を「注意」といふ程に考へてゐて、その重要性はあまり強調してゐない。しかし、「作意さい」を「能動的かつ積極的な感受・認識」の働きと考へてゐる事は確かである。この考へ方は「志向
本稿では引用に際しては原文の表記を尊重したが、本文は正漢字正假名遣ひを採用した。
1 新田義弘著『現代の問いとしての西田哲学』(岩波書店、1998)の第六章「現象概念」で、唯識論に關し發想の共通性の指摘がある。司馬春英著『現象学と比較哲学』(北樹出版、1998)及び「現象学と大乗仏教」(『思想No.916 現象学の100年』岩波書店、2000.10)は現象學と唯識論とを本格的に論じてゐる。
2 松久保秀胤『唯識初歩』、34頁、鈴木出版、2001。 69
性」と類似してゐないだらうか。法相宗の經典である『成じやう唯識論』には次のやうに書かれてゐる(なほ、『成じやう唯識論』からの引用は全て筆者の現代語譯)。
作意さいとは、心しんを立ち上がらせることが本性であり、外界の對象(ノエマ)に心しんを引きつける働きである。起るはずの心しんの種を目覺めさせ立ち上がらせ、外界に向はせるので作意さいと名付けてゐる。3
「作意さい」は、對象に向つて「心しんを引きつける」のであり、そして「對象」は原文では「所縁」であるから、認識の對象(所縁)は認識に依存される(縁

る)ものであるといふことである。從つて、すべての意識體驗といふものは「何かについて」の意識であつて、主觀と客觀が先にあり主觀が客觀を認識する體驗ではないといふ、次に引用する現象學の志向性と對應してゐるのである。
意識体験を私たちが志向的とも呼ぶ時、この志向性という言葉は、何かについての意識であること、すなわち思うコギことトとしてその思われたコギターものトウムを自らのうちに伴っていること、ほかならぬまさにこのことを意味している。4
「作意さい」の定義に戻ると、前半の文は、すでに目覺めた意識についての志向性の記述である。後半の文中の「心しんの種」といふ表現は唯識論では正式には「種子しゆうじ」と呼ばれてをり、阿頼あら耶識やしきという潛在領域から立ち現れるものを示してゐる。松久保貫首かんすの説明にも阿頼あら耶識やしきが出てくる。すなわち、「作意さい」は「注意」と云つた意識の表面的な一機能ではなく、意識の全體的なありかたを意味してゐるといふことである。
ところで、この阿頼あら耶識やしきに相當する概念が現象學の志向性にあるのだらうか。フッサールは「地平」を次のやうに説明してゐる。
以上によって、志向性がもつ、もう一つの根本的な特徴が示唆されている。つまり、体験はすべて「地平」をもつており、これは、その意識の連関が変化し、自分に固有な流れの位相が変化するなかで移り変る。それは、志向的な地平であつて、意識の自分自身に属する潜在性への指示を伴っている。5(下線は筆者)
「志向性」に伴ふ「地平」は、潛在性に關係してゐるといふことである。ところで、唯識論の阿頼あら耶識やしきは潛在領域を表してゐるのであるから、「作意さい」は「種子しゆうじ」を介して「地平」に関係してゐるといふことが言へるのである。以上の対照によつて、「作意さい」が「志向性」の二つの概念を共有することが明らかとなつた。すなはち「作意さい」といふものは、何かについての意識であるとともに、地平をも伴つてゐるといふことである。
3『國譯一切經、瑜伽部七』、(57)頁、大東出版社、改訂5刷、1996。
4 浜渦辰二訳『デカルト的省察』、69頁、岩波書店、2001。
5『デカルト的省察』、87頁。 70
2. 檢證 ―知覺の現象學:ノエシス、ノエマ、同一性、運動キネス感覚テーゼ、外界 構成―
志向性の考へ方が共有されてゐるのであれば、知覺を對象にして系統的に調べて行くのが最良である。何故なら、現象學では知覺が原本的オリジナルであると考へられてゐるからである。以下、知覺の現象學の觀點から基本的概念を比較檢討する。
2-1.ノエシス、ノエマ
「ノエシス」と「ノエマ」は、唯識論ではそれぞれ「行相」、「所縁」と呼ばれ、認識を論じる際に必ず使はれる概念である。唯識論で知覺がどのやうに扱はれるか、富貴原章信は次のやうに述べてゐる。
今ここに筆がある。眼を以てその筆を見る場合、眼識の能縁面には、その筆の影像が写しだされるであろう。固より眼識は現量的なものであるから、その筆を他のもの、例えば傍らにあるインク壺、書籍などと区別することに於て、見るのではないにしても、併し兎に角その筆を現に見ている訳であるから、その筆の影像は眼識の能縁面に、端的に写し出されておらねばならない。而して今、若しその筆を見ていることを、眼識の行相(ノエシス)とすれば、見ていること、縁じていることに於て、写し出された筆の影像と、及び筆そのものとは、総じて所縁(ノエマ)となるであろう。6(ノエシス、ノエマは筆者が插入)
ここで使はれてゐる「現量」は、同書で次のやうに説明されてゐる。
現量とは分別一切を、一切の概念作用を離れて、初めて現れるのである7
フッサールは、これ等の唯識論の知覺の分析に對應するものとして次のやうに述べてゐる。
そのつどの思うコギことトがその思われたコギターものトウムを意識するのは、区別のない空虚のなかにではなく、或る記述的な多様性の構造をもって、つまり、まさにこの同一の思われたコギターものトウムに本質的に属する、特定のノエシス―ノエマ的な構造をもって、なのである。8
そしてフッサールは「現量」に相當する事として次のやうに述べてゐる。
経験のうちで或る具体的な対象が何かとしてそれだけで際立って来て、注意しながら捉える眼差しがそれに向けられる時、その対象は、この端的な把捉の段階では、単に
6『唯識の研究 -三性と四分-(富貴原章信仏教学選集第二巻)』、198-199頁、国書刊行会、1988。
7 同上、289頁。
8『デカルト的省察』、81頁。 71
「経験的直感の無規定の対象」として捉えられる。9
ここでは對象を明確に捉へる働きの一歩手前、すなはち能動的な把握ではなく寧ろ受動的な働きが述べられてゐる。この記述が「現量」のことであることが分れば、「現量」は潛在領域から立ち現はれる種子しゆうじの働き、すなはち作意さいの「心しんの種を目覺め」させる働きに關係してゐるのではないかといふことが逆に照らし出され得る。
知覺の志向性分析とはノエシス―ノエマ的構造を分析することであるから、「行相」、「所縁」による唯識論と同じ發想であることが分る。さらに知覺が能動的に働き始める前の状態である「原量」を、兩者が同樣に捉へてゐることは強調されるべきところである。
2-2.同一性
次に、知覺がさらに進行してゆく状態に關する富貴原章信の記述を見てみる。
その筆は見る位置が変ると、その形も亦変る。窓を開いて光線が強くなれば、古そうに見えたものが、急に新しくもなる。かくの如く筆は転変するのであるが、併しそれにも関らず、目前の筆は同一の筆として、その姿を持続するのである。若しその筆が、かくの如くその筆としての像を取るのでなければ、その筆はそこにあることは出来ない。してみるとこの筆は像を取ること(想)に於て、初めてそこにあるのである。10(下線は筆者)
ここでは、心所しんじよのなかの偏行(作意さい、觸そく、受じゆ、想さう、思し)が次々に働く樣が述べられてゐる。先づ識によつて志向され(作意さい)、見られ(觸そく)、次いで感受され(受じゆ)、そして對象物は同一の自體存在として見られる(想さう)。ここまでくれば對象物を直接知覺する場面から離れて、心像を思ひ浮べたり言葉を使ひ對象物について考へること(思し)が出來るのである。
それでは、フッサールは知覺における對象の同一性を、どう説明してゐるのであらうか。
私は純粹な反省において、このサイコロが、特定の現出の仕方の、さまざまに形成され変化する多様なもののなかにありながら、対象的に一つのものとして与えられていることに気付く。これらの現出は、その流のなかで、体験が関連のないまま並列していることではない。それらはむしろ、綜合の統一のうちで流れており、したがって、それらのなかで、同一のものが現出するものとして意識されている。11(下線は筆者)
この同一のサイコロは、知覺の場面を離れても知覺とは異なる意識の仕方で、すなはち想起、豫期、價値づけなどのうちで現はれるとされる。このフッサールからの引用などは、富貴原章信への指示を傳へる指令文書であるかのやうである。
9『デカルト的省察』、181頁。
10『唯識の研究 -三性と四分-(富貴原章信佛教学選集第二巻)』、199頁。
11『デカルト的省察』、80頁。 72
2-3.運動キネス感覺テーゼ
さて、ところで富貴原章信の先程の知覺の分析では、唯識論でいふ「觸そく」の分析が省略されてゐたので、ここで「觸そく」について檢討する。「觸そく」とは何かは、『成じやう唯識論』に次のやうに書かれてゐる。
觸そくとは、感覺器官(根)と對象(境)と主體(識)の三者を統合して、それぞれを元とは違つた状態にし、主體を外界に觸れさせるものであり、受・想・思の源となるものである。12(下線は筆者)
一讀しただけでは何が言はれてゐるのか良く分らない。『成じやう唯識論』は、簡潔な定義のやうな表現になつてゐるため、讀む側に理解の準備がない場合には分らないといふ典型的な例である。しかし、この一節を現象學の觀點から眺めると、運動キネス感覚テーゼのことであると推定できるのである。フッサールに説明して貰はう。
これら器官がもつ運動キネス感覚テーゼは、「私はする」という仕方で経過し、私の「私はできる」に従うことになる。さらに私は、この運動キネス感覚テーゼを働かせることによつて、突き当たる、押しやる、といったことをすることができ、それによつてまず直接に、ついで間接に身体的に「行為する」ことができる。さらにまた、知覚することによってあらゆる自然を活動的に経験し(あるいは、経験することができ)、そのうちで自分自身に振り返って関係している自分固有の身体性をも経験する。13(下線は筆者)
この「運動キネス感覺テーゼ」についての記述は、そのまま「觸そく」の定義についての解説と見做してもよい程である。「感覺器官(根)」は「器官」であり、「對象(境)」は「自然」であり、「主體(識)」には「私」が対応する。さらに、「元とは違つた状態に」するとは「行為する」といふことである。「外界に觸れさせる」は「自然を活動的に経験し」であり、「受・想・思の源」とは「自分固有の身体性」に相當する。先程の富貴原章信の知覺の分析では、感覺器官が對象を感受する側面は説明されてゐるのであるが、身體を動かしあるいは首を囘し、眼球を對象に同定させ、焦點を合せるといふ主體の働き(志向性)のゆゑに知覺が成立つといふ「觸そく」の觀點が省略されてゐたのである。しかし、『成じやう唯識論』では、それが世界と我々との接觸の原點であり、行爲が繼續出來る出發點であることが把握されてゐるやうである。
以上、知覺について比較してみたのだが、同樣の考へ方である事が示せたのではないかと思ふ。
2-4.外界、現象學的還元、構成
唯識論に關しては、「唯だ識のみ」とか、「唯識無境」と云はれるやうに、外界無視の觀念論と考へられがちである。ところで唯識論における外界の扱ひは、現象學的還元ではな
12『國譯一切經、瑜伽部七』、(56)頁。
13『デカルト的省察』、174-175頁。 73
いかと考へられる。そこで、外界に關して『成じやう唯識論』でどのやうに扱はれてゐるかを檢證する。
外的對象物を直接的に體驗するといふことは原的な體驗である。そのことを否定したり存在しないとは見做せないのではないか、それをどう考へるのか。原的に體驗してゐる時には、外的對象物を自體存在としては考へない。知覺した後に、認識の働きとして外部の自體存在を措定してしまふのである。この對象物は意識の構成によつて生じたものとして存在する。意識は、執着してゐる對象物を、意識の固有の働きによつて外部に存在してゐると見なす故に、唯識論では外的對象物の存在は無だと結論づけるのである。對象物は、對象物ではないのにそのやうに見える。外部は、外部ではないのにそのやうに見える。14
ここで言はれてゐることは、1:原的な體驗、2:認識は自體存在を措定する、3:外部は無である、の三つである。1については、原文では「現量」のことでありすでに確認した。2は、原文では「分別」とか「識の所變」のことであり、これは現象學では「構成」に對應する概念である。『成じやう唯識論』には次のやうに「變」を定義している。
變とは、識そのものが二分に轉じることに似てゐる。見られる事(ノエマ)と見る事(ノエシス)は共に自證によつて起るためである。この二分により自我と世界を構成するのである。15(下線は筆者)
この「變」の定義は、ノエシス、ノエマによる志向性分析によつて、「構成」を理解しようとする現象學と同じ發想である事を示してゐる。だだ、唯識論では「構成」による對象への執着から解脱するのが目的であり、そのためにこそ「構成」についての自覺が説かれるのである。現象學では「構成」を理解することが目指され、その爲に現象學的還元が遂行される。フッサールは次のやうに述べてゐる。
現象学は次のことを理解できるようにすることができる。(略)そして特に、同一の対象の構成というこの驚嘆すべき機能が、それぞれの対象の範疇カテゴリーについてどのようにして生じるのか、要するに、それぞれの対象の範疇に対して構成的に働く、意識の生は、同一の対象についての、相関するノエシス的およびノエマ的な変化に応じてどのように見え、またどのように見えなければならないか、こられのことである。16(下線は筆者)
殘る問題は、3をどう考へるかである。外部の扱に關しここでまたフッサールに登場して貰はう。
14『國譯一切經、瑜伽部七』、(182)頁。
15 同上、(12)頁。
16『デカルト的省察』、94-95頁。 74
考えられる意味のすべて、考えられる存在のすべては、それが内在的であれ超越的であれ、意味と存在を構成するものとしての超越論的主観性の場に入ってくる。真なる存在の全体ウニヴェルスムを、可能な意識、可能な認識、可能な明証、これらからなる全体ウニヴェルスムの外部にあるものとして捉え、両者をまつたく外的に硬直した法則によって互に結び附けようとするのは、まつたく無意味なことだ。両者は本質的に互いに連関しており、本質的に連関しているものはまた具体的にも一つであり、超越論的主観性という唯一の絶対的でありながら具体的なものにおいて、一つとなっている。超越論的主観性が可能な意味からなる全体であるとすれば、その外部というものはまさに無意味である。17(下線は筆者)
超越論的主觀から物事をみた場合、外部は無意味であるといふ言ひ方は、唯識論の阿頼耶識縁起からは「識のみ」といふ言ひ方、あるいは「唯識無境」といふ言ひ方に對應してゐる。即ち、識のみといふ觀點からは外部といふものは無なのであるが、それは外部が存在してゐないと言つてゐるのではなく、實は無意味であるといふことなのである。それは、次の『成じやう唯識論』の記述から明らかである。
識は唯だ内にのみあり、外界の事物はまた、外部に行き渡つてゐる。外部に沒入してしまふことを配慮して、もつぱら唯だ識のみと言ふのである。18
あらゆる事物は、それが實在するものであれ、想像上のものであれ、識を離れてはあり得ない。唯識論で「唯」といふ表現を使ふのは、識とは獨立した實體について判斷停止するためである。19
ここから外部は無だといふ唯識論の主張、即ち識のみといふ教義は、現象學的還元を行ふ場合の超越論的主觀性からの命題であつたことが分る。すなはち「識のみ」とは、自然的態度から超越論的態度への態度移行のことであり、同じ事であるが現象學的還元を行なふことなのである。
司場春英は次のやうに唯識無境について述べることで、唯識論を現象學から捉へる立場を明確に打出してゐる。
「唯識無境」とはしたがって、現出と現出者の区別において、現出者の存在措定をエポケーし(無境)、現出そのもの(識)へ----厳密に言へば、現出と現出者との差異の生起そのものへ----と向う還元の運動(Zu den Sachen selbst)と言えよう。20
ここで改めて、志向性の發想といふものが、ノエシス、ノエマ、外部(自體存在)、構成、
17 同上、152-153頁。
18『國譯一切經、瑜伽部七』、(265)頁。
19 同上、(177)頁。
20 司馬春英『現象学と比較哲学』、102頁、北樹出版、1998。 75
現象學的還元などの他の基本的な概念が緊密に織込まれたものであり、一つだけを獨立に取りだすことなど出來ないものであると分る。そして、それは同じく唯識論にも當てはまることである。ただ、インドの地で一千五百年ほど前に佛教思想が同じ發想をしてゐた事、さらに、日本に傳はつたその經典に則り、現在ただ今説教をしてゐる僧侶のことを思ふと、まつたく驚嘆してしまふのである。
3.さらなる發想の共通性:發生的現象學―地平、受動的發生―
現象學では、志向性に伴ふ「地平」は潛在性に關係するといふことであつた。これまで檢討してきた發想の共通性に鑑みれば、唯識論で潛在性と考へられるものがあれば、それが唯識論での「地平」と言つてもよさそうである。それを次に檢證する。
ここで、もう一方の法相宗の大本山興福寺の多川俊英貫首かんすに登場して貰はう。現象學の話しを聞いてゐる錯覺を覺えるくだりであるが、しかし、妄執に囚はれてゐる人間存在が色濃くあぶりだされる佛教の世界でもある。
端的にいえば、阿頼あら耶識やしきとは、私たちの今までして来たことのすべてを記憶にとどめる心的領域であります。そして、そのように心底に残存してひそかに蓄積されたわが日常のさまざまな行為・行動の気分がおのずからにじみでてくる-----。それが私たちの心のメカニズムなのだ、というのが唯識の言い分です。そして、そういうものが、ものごとの認識ということにおいておのずとにじみでてくるのを、初能変というのです。過去のあらゆる体験・経験の気分をとどめる阿頼あら耶識やしきが、まず第一に認識の対象を能変していく----、それが初能変であります。このおのずとにじみでてくるものを、私たちは意識的に操作することは出来ません。21
多川貫首かんすのこの一節も、現象學的還元にもとづく發言だと、今では躊躇なく云へさうである。「意識的に操作すること」が出來ない状態で物事を認識してゐるなどとは、自然的態度で生活する分にはあずかり知らないことである。ここでは「阿頼あら耶識やしき」は潜在意識に類似するものと考へられてゐる。そして、「初能変」といふのは作意さい(=「志向性」)の定義の中に出てきた種子しゆうじ(=「意識の自分自身に属する潜在性への指示」)が、「阿頼耶あらやし識き」から立ち現れることなのである。すなわち、認識する(=志向性をはたらかせる)ということは、單に對象との相關關係に入るのみならず、自らの潛在意識との相關關係にも絡めとられてしまふと言つてゐるのである。フッサールに「地平」を説明してもらはう。
この地平には、たいていはまったく暗い自分の過去や、自我に含まれる超越論的な能力や、習慣によつて固有なさまざまなもの、が属している。22
「阿頼耶あらや識しき」は、「地平」とみなせさうである。ここで言はれてゐる「地平」を、「阿頼あら
21 多川俊英『はじめての唯識』、58頁、春秋社、2001。
22『デカルト的省察』、52頁。 76
耶識やしき」と置きかへて讀んでも何の不都合も無いばかりか、「阿頼あら耶識やしき」についての見方が開けて來るやうな記述である。次に、『成じやう唯識論』ではどの樣に定義されてゐるか確認する。この定義が、現象學の「地平」と同じか否かが問はれなければならない。
阿頼耶識は因と縁の力で、内に種子と肉體を生じさせ、外には世界を生じさせる。即ち、阿頼耶識がみづから構成した種子と肉體と世界とを對象(ノエマ)とし、主觀(ノエシス)はこれによつて起るのである。23(下線は筆者)
この定義も、「觸そく」の意味が現象學の觀點から氷解したのと同じやうに、現象學の觀點から理解出來るのである。フッサールに説明してもらはう。
この志向的な指示が「歴史」へと導き、(略)自分固有の習慣のうちで持続して形成されたものである多様な把握の働きが、受動的に発生してくるということである。こうした把握の働は中心的な自我にとってはあらかじめ形成されて与えられたもののように見え、それが顕在的になれば、自我を触発し、活動へと動機づけることになる。自我はこのような受動的綜合(そこにはそれゆえまた、能動的綜合の働も入り込んでいる)のおかげで、「諸対象」から成る周囲を常にもつことになる。24(下線は筆者)
一讀して分るやうに、多川貫首かんすが語つてゐたのは受動的發生についてである。また、『成じやう唯識論』の記述の「内に種子と肉體を生じさせ、外には世界を生じさせる」は、現象學の「自我はこのような受動的綜合のおかげで、「諸対象」から成る周囲を常にもつことになる。」との説明で理解できるのである。潛在性といふ言葉を手がかりに「阿頼あら耶識やしき」を「地平」と見做せるのではと考へたのであるが、自我や世界が自覺に先立つて實現してゐるとしてゐる點で兩者が共通してゐる。すなはち兩者は同じものの別名と考へてよい。司馬春英は阿頼あら耶識やしきを次のやうに述べて、現象學の立場から唯識論を理解してゐる。
マナ識が自我統覚とみなされ得るとすれば、アーラヤ識はその自我統覚の背景として、あるいは奧行きとしての地平領域をなしていると考えられる。それはフッサールの言葉で言えば、「この統覚の意味能作、妥当能作が究極的にそこに由来するところの超越論的歴史性」という地平である。25
このやうな對應關係が明確になれば、自我統覺を行ふ超越論的主觀とマナ識との關係や、さらには佛教哲學での無我との關係が具體的に論じられなくてはならないが、ここでは次のやうに述べるにとどめる。受動的綜合を論じ始めた發生的現象學は唯識論との對話を可能ならしめると。
23『國譯一切經、瑜伽部七』、(50)頁。
24『デカルト的省察』、144-145頁。
25『現象学と比較哲学』、103頁。 77
78
おはりに
志向性といふ現象學の根本概念を手がかりに唯識論を探つてみたが、志向性と密接に關係してゐる他の基本的な概念も、首尾一貫して共通してゐることが確認できた。現象學の考へ方を參考にすれば唯識論の分り難い概念が氷解するのであり、唯識論の阿頼あら耶識やしきや種子しゆうじなどの荒唐無稽に思はれる概念も實は西洋哲學で理解できるといふことでもある。ここでは發想の共通性を檢證することを目指したため、西洋哲學と東洋の宗教といふ明らかな違ひには注目しなかつた。また、似てゐるにもかかはらずそれぞれが當然有する固有の考へかたを具體的に究明することも出來てゐない。しかしながら、本稿で示したやうな系統的な對應が可能ならば、唯識論の方から逆に現象學の問題點に照明を當てることができ、そして實りある東西哲學の對話ができるのではなからうか。
附記
本稿は「第2囘フッサール研究會」で發表した原稿を要約して『融合文化研究』第2號に掲載したものをさらに見直し、加筆訂正を加へたものである。