唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(19) 作意の心所 (2)

2015-09-16 23:33:18 | 初能変 第三 心所相応門

 昨日の投稿で、漢字のミスがありました、すみません。警が驚になっていました。気が付くのが遅くてすみません。訂正します。昨日の間違いの個所は訂正しました。
「一切心の種子を警するには非ず」と、作意の性について説かれていますが、ここには分別が働いているのですね。分別は非量ですから、第六識と第七識の働きに依るわけです。種子生現行は任運だといわれていましたが、種子より現行が生み出される時、まず触の心所が動き、根・境・識が和合して境に触れしめるわけです。そこに作意の心所が分別を起こし、「応に起こすべき心の種を警覚し」て、現行が生起してくるわけですね。ですから、種子が現行を生んでくる背景に、作意の心所が動いているということになります。触は因縁変ですが、作意は分別変なのです。現行の水面下で、激しい葛藤が繰り広げられ、過去の経験のすべてを凝縮して一瞬一瞬選び取っているのです。種子を可能性とするなら、作意は限定性といえましょうか。
 一切種子から現行する種子を選択してくる働きが作意というわけでしょう。「警覚応起心種」とはこういうことではないでしょうか。
 「いかなるふるまいもすべし」とは、一切種子として、あらゆる経験が可能であることを示しているわけですね。しかし、現実には何かの限定がつきます。それが「さるべき業縁のもよおし」ですね。自分が自分の現行を選択し、選択した現行によって迷悶している、それが私の姿なんですね。
 迷いも縁起、依他起であるといわれる所以です。現行する時には、必ず選びがあるのです。それが分別心としての作意の働きに依るのです。つまり、現行し、境に触れしめるには、ただ触だけでは現行は起こらないということになります。現行するためには、意識が働きます。触は指向作用だといわれています。
 安田先生は、「概念を思惟に方向せしめる、つまり意識に対象を与えるものでないかと思う。これに対して、作意は注意である。意識に中心点を与えるのである。」と教えておられます。
 整理しますと、「心を警覚す」、と云うのは、心をめざめさせる。心は放っておくと、目覚めることなく眠ってしまうのです。だから常に、作意の心所が働いて、心を目覚ましめるわけです。いるでも、どこでも。いかなる時にも、心を目覚めさせている働きをもったものが作意である。そして心が対象に触れるように、心を引っ張っていくのが作意の具体的は働きである。つまり、心が働く時には、同時に作意も起こって働いている。この時は未だ現行はしておりませんが、種子の段階に働きかけて、次の瞬間働きかけられた種子が現行する。常に種子に警覚しているのが作意の心所である。