唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(28)受の心所(4)

2015-09-25 23:16:41 | 初能変 第三 心所相応門
  
 
 自性受と境界受
 「有いい是の説を作さく、受に二種有り、一には境界受、謂く所縁を領するぞ。二には自性受、謂く倶なる触を領するぞ。」(『論』第三・二左)
 先ず、順正理論師の説を挙げられます。その主張は、ただ自性受を以て受の自相とする。認識対象を受け取るのが境界受ですが、受は随触を領納するんだと、つまり、受は境界を領納するのではなく、触を領納するのであるから領納随触が受の自相であると主張しています。
 所縁の境を領納するのを境界受と名づけ、同時の触を領納(領納随触)するのを自性を領納すとなづけ、触に苦・楽・捨があるのだというわけです。境界受という受のあり方もあるんだけれども、受は直ちに境を受けこむのではなく、境が触れたその触を受けこむのであると、苦境が触れると苦触を生じ、苦触を受けこむと苦受が生ずる。楽境が触れると楽触を生じ、楽触を受けこむと楽受を生ずる。このような理由から、受は随順する触を領納するというわけです。
『倶舎論』の立場も、自性受を以て受の本質としています。
 前後しますが、唯識の立場から順正理論の主張は間違いであるとしていますが、順正理論は、正しい理に順ずる論であると世親菩薩は認めておいでになるわけです。『倶舎論』は膨大な『大毘婆沙論』二百巻をまとめて六百の頌を作り、それに対して解釈をほどこしたのが『倶舎論』三十巻なんですね、それに対して反論を加えた書が衆賢の著作とされる仏教論書。『俱舎雹論』(くしゃばくろん)なんです。この書を『大乗阿毘達磨順正理論』と呼んでいます。
この主張に対して賛同する外の評価を次科段で述べられます。
 「唯だ自性受のみ是れ受の自相なり、境界受は余の相に共ずるを以ての故にと云う。」(『論』第三・二左)
 余の心所法は触を領納することが出来ないので、唯だ自性受のみが受の自相である。受そのものですが、それは何を領するのか、それは同時の触を領するのだ、というわけです。つまり、根・境・識が和合するところに生ずる触を感受するこころが受の自相であると言っているのです。認識対象を受け取る、見たり、聞いたり、触れたりするような、その対象に対してうけとるのが境界受であるが、そのような境界を領ずるのではなく、倶なる触を受け取るのが本当の受である。触れたものを受け取る、認識対象を受け取るのではなく、触れるのと同時の触を受け取る、それが自性受であり、受の心所のみにしかない働きである。それに対して、境界受は、他のどのような心所にも受け取るということは共通してある。他の心所であっても境界を受け取っていますから、それが本当の受というわけにはいかない。これが衆賢論師の主張ですね。
 『述記』は、
 「唯自性受のも是れ受の自相なり。余の心所法は触を領すること能わず。是の相な無きが故に。若し境界受は余の心・心所に通ず。彼は能く境界の相を領するを以ての故に。」と釈しています。
 「二に論主破して云く、」以下護法菩薩の正義が述べられます。「彼が説くこと理に非ず。」と。
  
 
 
  

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