唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(26)受の心所(2)

2015-09-23 18:05:09 | 初能変 第三 心所相応門
   

 概略をしますと、受の心所は、自分の感情に応じた所縁の境(順境)にたいしては楽(適悦・歓)を感じ、それに違う所縁の境(違境)に対しては苦(逼悩・慼)を感じる。どちらのものでもない所縁の境(中庸)に対しては非楽・非苦である捨の作用を本質とするものであると説かれています。
 「受は能く順・違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し愛を起こすを以て業と為す。」(『論』第三・二右)
 第三能変になりますと、第六意識で受け取る受は、
 「受は能く順と違と中との境を領納して、心等をして歓と慼と捨との相を起こさしむ。心が起こる時に随一無きことは無きが故に。」(『論』第五・二十七右)と説かれているのですね。
 「述して曰く、歓等の三相は、次の如く順と違と中との三境を配す。即ち是れ三受なり。余文は知るべし。」(『述記』第六本上・四右)と。
 ともかくですね、受の本質(本性)は領納すること。受け入れることです。触・作意によって起こってくるところの感情を受け入れることに三相があると述べているわけです。
 順境は、自分が気にいったものですね。違境は、自分が気に入らないものになります。倶非はどちらでもないものです。これを、順を楽、違を苦、倶非を捨というわけです。そして阿頼耶識に於る受は倶非、つまり捨受である、ということなのですね。業が「愛を起こす」とありますが、愛は渇愛、或は貪愛ですね。かえりますと、作意において我愛ですね、我愛が働いているところに色付けされたものが所依となって起こってくる感情は順か違なんです。捨という感情は、阿頼耶識の三位でいいますと、善悪業果位であるところの異熟識ですね。因は善か悪であるけれども、果は無記である。現行は無記性なんです。無記性というところで転依が語られます。つまり、いつでも、染汚が智慧に変化する機会を与えられているということなのですね。末那識転じて平等性智に転依する。だから、無始以来の我執が大事なんです。愛現行蔵位の我執ですね。我執が縁となりというのは、我執のところに、円融至徳の嘉号が働いている、働いているから、我執の自覚が起こり、我執の自覚が即、転じて徳と成す正智に転依(パリナーマ)するのでしよう。そこに頷きを得たのが、難信金剛の信楽でしょう。だからして、現行されていることがいかに大事かと云うことになります。
 「愛を起こす」とありますが、本来は慈愛、慈しみの心が起こるということなんでしょう。渇愛は慈愛を覆っているんですね。渇愛が求めているのは、慈愛なんです。足論ではないんですね。取り合えず今はこれを満足させたいということではないんです。もっと深いものを求めているのが渇愛なんでしょうね。慈愛、如来に触れたい、自己の本来性であるところのアーダーナに触れたい、でも直接的に触れることはできませんから、阿頼耶識を縁として、阿頼耶識の現行である見・相二分を行相・所縁として本来の自己に目覚めていく、そういう作業をしていかなくてはならないのではないでしょうか。真宗は横超だとはいいますが、やはり日々の聞法の積み重ねが横超の大菩提心を生起してくるのではないでしょうか。間違っているかもしれませんが,今の僕にはこれしか言いようがありません。
 元に戻りますが、受の心所そのことの直接の意味ではありませんが、『泉鈔』には、喩ですね、
 「或る人云う、譬は机を我が前に取らんとするは合の欲であり。此の机を余処へ押しのけるのは離の欲である。我が処へ取ることのせず、余処へ押しのけるとも思わず、人の前にあるのを、そのまんま受け取るとするのは非二の欲である。」(取意)と述べています。
 受は間髪を入れずですね、ある意味、法爾自然です。正直なんです、正直であるが為に、私たちは誤魔化すのですね。誤魔化しは自我の色付けです。正直な感情が働いているのに、正直になれない自分がいます。任運に法爾にというのは分水嶺ですね。有漏と無漏の分岐点と云ってもいいのでしょうね。仏法に触れているのか、触れていないのか、ここで触れるというのは聞法です。聞法は智慧の光ですから、光に照らされて闇が晴れる、晴れてみれば闇無きが如し。闇があっても障りにはならない、不断煩悩得涅槃です。ここが阿頼耶識の現行なんでしょう。
 受から受ける思いを綴ってみました。 明日から本論に戻ります。