唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(24) 作意の心所 (7)

2015-09-21 12:56:02 | 初能変 第三 心所相応門
 

 受の心所に入る前に、何故五遍行なのかを第三能変の遍行の項を参照に、繰り返しになりますが復習したいと思います。
 『倶舎論』に於ける大地法の記述
「心所に且く五有り、大地法等の意なり。(1)触と欲と慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず受と想と思と。(2)信と及び不放逸と軽安と捨と慚と愧と二根と及び不害と勤とは唯善心に遍ず。(3)癡と逸と怠と不信と 小と掉とは恆に唯染なり。(4)唯不善心に遍するは無慚と及び無愧となり。(5)忿と覆と慳と嫉と悩と害と恨と諂と誑と 鉦と、是の如き類を名づけて小煩悩地法と為す。」

 心所に五有り、とは(一)大地法、(二)大善地法、(三)大煩悩地法、(四)大不善地法、(五)小煩悩地法をいいます。どの心王にも必ず遍く倶生するので「大」という。反対に「小」はいつも倶生するに限らないことを示しています。地は心王を指し、心所は心王を自分の拠り所として、いつも心王について起こる故に、心王を地と名づける。『倶舎論』では一度心王が起これば此の十の心所はいつも必ずついて起こるといわれています。世親はこれに解釈を施しています。
•(1) 受 - 感覚で、苦楽等を感ずること。「受領納随触」(受は随触を領納す)
•(2) 想 - 想い考えること。「想取像為体」(想とは像を取るを体と為す)
•(3) 思 - 心を造作すること。
•(4) 触 - 根・境・識とが三和合してそこに触を生ずる。
•(5) 欲 - 境に於いて希求する。
•(6) 慧 - 簡択の義。道理を択び分ける。
•(7) 念 - 明記して忘れず。(記憶)
•(8) 作意 - 心を警覚せしめる義。(注意作用)
•(9) 勝解 - 境に於いて印可し、判断すること。
•(10) 三摩地(定) -Samadhiで等持と訳す。心を一境に集めることで、定とも訳する。

 (参照文献 『倶舎論』講義 舟橋水哉著 p114~117)

 これが有部が挙げている十地法ですが、十地法が説かれているのに、何故「五」のみが遍行というのであろうか、という問いに答えているわけです。
「論。此中教者至四是遍行 述曰。即是別答。初教答。後理答。瑜伽五十六卷五十六卷亦引此經破經部等。大小共許。即阿含經。前者亦言起盡經也。此是初經。何故此中但説四者擧觸爲依。如前第三云。瑜伽何故唯説觸與受・想・思三法爲依。擧蘊勝故。即是觸生三蘊。且隱作意不説。即行蘊攝故 若爾何義故知作意必有。」(『述記』第六上・二左。大正43・427c) 

 (「述して曰く。即ち是れ別して答す、後に理を以て答す。初に教を以て答す。瑜伽五十六卷にも亦此の経を引いて経部等を破す。大小共許なり。即ち阿含経なり。前者はまた起盡経ともいうなり。これはこれ初の経なり。何故にこれが中にただ四のみを説くとならば、触を依とするを挙げたり。前の第三に云うが如し。瑜伽には何故にただ触は受、想、思の三法がために依となると説けるや。蘊として勝れたるを挙げるが故にといえり。即ちこれは触が三蘊を生ずるなり。且く作意をかくして説かざることは、即ち行蘊に摂するが故なり。
 若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや。」)

 この科段は、大小乗共許の経典である『雑阿含経』を引用して証明の論拠としています。
 「触等は、四つ(触・受・想・思)とも、遍行である」と証明しています。根・境・識三和合して触がある。そして触と倶生して、受と想と思とがある、と。『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。「触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する」、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立する、と。

 「若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや」(『述記』) 

 後半の作意が遍行であるということを証明するにあたり、このような問いが投げかけられているのです。

 「又、契経に説かく。若し根壊せず、境界現前するときは、作意正く起こって、方に能く識を生ずという」(『論』第五・二十七右)

 「契経に説かく」という経は中阿含経第七を指しています。『述記』によりますと、中阿含経所収の『像跡喩経』に、「若し、根が壊れず、境界が現れる時は、作意が正しく起こって、よく識が生ずる」という、ことが記述されてあり、作意は、識が生ずる時に必ず存在する心所である、このことによって、作意は遍行であることが証明されると述べています。

 その二の証明は『起盡経』を引用して作意が遍行であることの証明です。

 「余の経に復言わく、若し此れが於に作意するときに、即ち此れが於に了別す。若し此れが於に了別するときに、即ち此れが於に作意す、是の故に此の二は恒に共に和合す。乃至広く説けり。此れに由って作意も亦是れ遍行なり」(『論』第五・二十七二右)

 また他の経にも、説かれている。「もし、此れ(認識対象を指す)に対し、作意する時には、認識対象に対して了別する。もし認識対象に対して、了別する時には、認識対象に対して作意する。この故に此の了別と作意は恒に共に和合する」そしてこのことは広く説かれている。此の理由に由って作意も遍行であるということがわかるというものです。

 「経にまた説くが故に、起尽経なり。前の第三巻、第八の遍行のうちに引くがごとし。顕揚論巻第一にも経を引いて、つねに共に和合す等といえり。および(瑜伽論)五十五にもまた四の無色の蘊は恒に和合す等といえり。即ち諸の経論は相乖返せず。相離せず相応するが故に和合と名づく。故に知る。(作意もまた遍行なり)ということを」(『述記』)

 『瑜伽論』五十五には、識が生ずる時、どのような遍行とともに起こるのか、という問いに答えて、それは作意・触・受・想・思である、と。そして不遍行の心法は(多種あるけれども、勝れたものとして)欲・勝解・念・三摩地(定)・慧の五である。

 作意(さい)とは能く心を引発する法であり、所縁に於いて心を引くを本質としている。私の関心事に心が引かれるのですね。いろんなことに触れるわけですが、私の認識は私が興味のあること、関心のあることにしか心が引かれません。触れたものすべてに心が引かれるとはいえません。作意が働くところに、同時に自我意識である末那識が働いているのです。作意と触の関係は触があって作意が働くのか、作意が先で触が機能するのかは難しい問題を残していますが、『瑜伽論』五十五では作意が先に説かれています。

 『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する、と説かれています。
 先にも述べましたが、私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になり、遍行であるということがわかるのです。
「作意は心を引いて自境に趣か令む。此れ若し無くんば、心も無かる応きが故に」(『論』第五・二十七左)
 作意は心を引いて(応に起すべき心の種を警覚(きょうかく・目覚めさせること)し境に趣か令むるが故に作意と名づく)自らが対象に働かせる心の働きである。もしこれがなかったならば、心もないことになる。このことからもわかるように、作意は心王が起こり活動するときには、必ず一緒になって活動する心の働きである。故に作意は遍行であることがわかる。『述記』には「種子なしというにあらず」と注意をされています。作意がなかったならば、「心も則ち起こらず」と。心の現行はなくなるけれども、種子まで無くなるのではないと云う事です。心の種子は存在するけれども、作意がそれを呼び覚まさなければ心の現行がないということになります。心・心所の種子を警覚するのは、作意の現行ではなく、作意の種子なのです。作意の種子がよく心・心所の種子を警して現行せしめ、自境に趣かせるわけです。従って心・心所が働くためには、作意は必然なわけですから、作意は遍行である、と。
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 昨日のFBより
 岩田さんが、お彼岸なのになんでシルバーweekとぼやいておられましたが、本当にそう思います。そんなことを思いつつ安田先生の著作を読んでいましたら、ほんまやなぁと思う箇所に出会いました。
 「・・・だからして、西田さんの宿は田中というところにありますが、あの、百万遍のちかくですわ。そこへ行くというと、外から見えるんですわ、西田さんの家が。と、二階の廊下を行ったり来たりする西田さんが。そういう人間の姿勢をとる場合に一番自然な形は逍遥するということじゃないかね。そういうことが言えると思う。
 仏教の方でもそういうことがあったんでしょう。
 だからして、それで遊行というような字があっあんだけども、長い散歩のことを遊行というんです。散歩的な旅行やね。これは商売の事件を片付けるというような旅行じゃない。だから今や、自動車が増えたり汽車が増えたり飛行機が増えたり、これは日本全体が商業が支配しとる。文化を。資本主義が支配しとるから忙しんだ。全部、経済が、あらゆる生活をですね、一貫しとる。それが日本の現状でしょう。だから、こんなようなところでは、ものは考えられやせん。宗教問題とか、そんなもの、飛行機に乗っとっては出て来ない。内面性というものが全く失われておるのが今の日本なんです。
 だから、遊行。仏陀の最後の旅行やね。それをあのう、その到着点を皆さん知っとられるように、クシナーラという所で入滅されたと。こういう具合に伝えられておりますわね。
 仏陀にはですね、摩訶迦葉とか舎利弗とかいろんな弟子があったけど、決して一つの道を二人で歩いちゃならんと。一つの道をですね。二人で行ってはならん、一人ずつ行けと。こういうのが仏陀の教えですわね。それで、インドでは雨期というもがありますから、それで安居というものがあってですね。
 形式的には日本にも安居があるけれども、向こうでは雨期というのが大変長い。乾燥地帯が全部、ガンジス河の水で埋もってしまう。普通の雨じゃないです。それだから外出できないんですね。それで、そういう時期を採用して一人一人が、散らばっとる仏弟子達が一ヶ所に集まるんですわね。それで安居というものが開かれてくる。その時に初めて皆な顔を合わせるわけです。ふだんは一人一人が別々の道を行っとる。ガヤガヤ騒いで旅行をしとる者は居らんのです。つまり、それは、個人の趣味だとか家族生活というものを捨てとる。そして、人類の為に法を語るということに、世の中に生きとる。自分の為に生きとりゃせんのです。自分に死んで法に生きとる。それだからして、そういう為に旅行しとるわけですわね。何か用事があって旅行しとるわけじゃない。それで遊行という字を付けるんですわね。遊ぶという字が付いていますが。・・・
 その最後の旅行記をまとめられたのをまとめたのが経典になっとる。『遊行経』です。最後のニルバーナ、涅槃に入られる時の経典ですから『涅槃経』と。『涅槃経』という名前も付いてとるけどもですね、『遊行経』という名前が付いとる。その最後の説法やね、その旅行の間に語られていったかというとですね、「法に依って他に依るな」と、それから「自己に依って他によるな」と。「法に依り、法を灯とせよ。他に依り、他を灯としてはならない」。それから、法と同時に我ということが言うてある。「我に依り我を灯をせよ。我以外のものを灯としてはならぬ」と。そいうことですね。法と自己との関係、こういうのが最後の旅行記の主題だ。そういう問題で旅行されたんでしょう。」
 この講義は1974年代のものです、今から30年ほど前のものですが、今でも瑞々しさをもって訴えてきますね。今ほど、仏教に我が身を聞く環境に身を置いている者にとって、「人類の為に法を語る」という姿勢が問われているのでは、と思いますね。
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