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触は仮有のものではなく、実有であることの第三の証明として、十二支縁起で説かれている、触・受・愛を出していました。「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛(欲望・渇愛)の、取(執着行動)に縁ぜるが如し」(『述記』)と。
行相所縁門をうけて、心所相応門が展開されているわけですが、種子から現行を生起する時に、根・境・識が三和合し、境に触れしめる心所として、触が語られるわけです。触れたら、そこに新たな実種を生みます。それが「異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり、この識の性に摂めらるるが故に、是れ所縁なり。」と説かれていることなのですが、これに先立って『唯識二十論』には、次のような記述があります。
「識は自の種従り生じ、境の相に似て転ず。内・外の処を成ぜんが為に、仏は彼を説きて十と為す。(第八頌)
「論じて曰く、此れは何の義を説くや。色に似て現ずる識は自の種子の縁が合し転変差別すること従りして生ず。・・・」
つまり、阿頼耶識は阿頼耶識の中にインプットされた種子より生じ、外境に似て、似た相を顕現しているわけです。
「仮に由って我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る。」と、識の所現は、識の所変に依ることを明らかにしたわけです。
「識体転じて二分に似るを倶に自証に依っておこるが故に」と。
種子から現行が生じてくるのは、種子が自己内容となることなんです。ですから、いかなる種子を植え付けるかが問題となりますが、ここで問題となることは、縁生なんです。阿頼耶識の種子より現行を生じてくるのは、縁起されたものなんですね。
「任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの」が自己存在なんですね。ここには分別の入り込む余地はないんですね。蓮如上人は「仏教は無我にて候」と教えてくださっていますが、本来、似我・似法であって、実我・実法は存在しないのです。執して、謬って錯誤しているにすぎないのですが、私たちは、無常の風に流されながらも、生まれて死ぬまで、一貫して変わらない自分が存在していると思い込んで、自分に執着を起こして暮らしています。
ヒントになるのが、
「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り。心(第八識)と及び意(第七識)とに依止して、余の転識(六識)生ずることを得と云う。阿頼耶識の倶有所依も亦但一種なり。謂く第七識ぞ。彼の識無くば定めて転ぜざるが故に。論に蔵識は恒に末那と倶時に転ずと説くが故に。・・・」(『論』巻第四)
ここはしっかりと学ばなくてはいけないところです。課題として提起しておきます。
そこで問題提起されているのが、第四頌第三句です。
「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)
第八識は、間断することなく、恒に(無始以来・未来永劫に亘って)転じている。あたかも、ナイアガラの大瀑布のようにです。この科段は後に詳細を述べますが、第七・因果法喩門と呼ばれています。「相続」と「因・果」が課題として提起されています。
先ず、断見・常見の問題です。
「阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。」
輪廻と我の問題です。十二支縁起も、無我の道理を理解できませんと、「我」が存在して、それが輪廻するということになってしまいます。しかし、私たちは我を依り所として生命活動を起こしています。
自業自得という言葉がありますが。自らの造った種は自らが摘み取らなければならないということなんです。道理なんですね。縁起されたものなんですが、自らが引き受けることができないという問題が起きてきます。縁起に逆らうわけですね。本来は縁起されたものなんです。
「阿頼耶識は断にも非ず常にも非ず。」と。
ここで、一類相続という、無覆無記性として恒相続しているが明らかにされます。
横道にそれましたが、今日の課題はまた考えてみたいと思います。本論にもどります。