唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(20) 作意の心所 (3)

2015-09-17 23:38:35 | 初能変 第三 心所相応門

 種子生現行は、阿頼耶識の具体的な働きを示して」いますが、種子としての阿頼耶識を種子頼耶.現行としての阿頼耶識を現行頼耶と云っていますが、作意は「警覚してまさに心の種を起こすべし」ということから、警覚についても二種あることを明らかにしています。
 一つは、種子警覚。
   作意の種子がその他の心心所を警覚して現行せしめること。
 二つは、現行警覚。
   作意が現行して、その他の心心所の現行を警覚し、所縁の境に趣かしめること。
 『同学鈔』(大日本仏教全書七十六巻 『唯識論第三巻同学鈔第一』p407下段後より四行目から408上段)の釈によりますと、先ず問いが出されています。
 「問。作意の心所の警覚の用は、現行位と為すや如何ぞ。答。種子位なり。・・・作意の心所は種子の位に在って警覚の用を起こすなり。故に『論』には「謂此警覚応起心種引令趣境故名作意」文なり。既に警覚応起心種と云うは、定めて種子の位に警覚の用を起こすなり。心所は心の勢力に依って生ずるが故にの道理に任せて、心所の現行を生ずることは必ず心王の現行を生ずる勢力に依る。既に起こすべき心種を警覚すと云う。知んぬ、作意の警覚の用は種子の位に在るなり。是を以て疏の中に二釈を作して、種子位なりと云う義をば(作意の種子は能く心種を警す)此の解は文に依る。現行の位なりと云う釈をば(現行の作意と識と同時なる時、義を以て彼の生ずべき心種を警(いまし)め起こして境に趣かしめると説くとも理は亦違することなし。起き已って方に警しむと云はば、警する理見(り、あらわれ)難し。)故に論に作さず云々。既に種子の位なりと云う義をばこの解は文に依ると云う。現行の位の釈をば、故に論に作さずと述ぶ。これに依って人師多く初めの釈を存し後の釈を非するなり。但し義難に至らば、種子は沈隠(ちんおん)なりと雖も用を起さざるには非ず。煩悩の種子に依って發業潤生(ほつごうじゅんしょう)し、厭心の種子を遮防(しゃぼう)する用を起こして、思種の三業(審慮思・決定思・動發思の三種)の非を防ぐ等なり。若し事を種子に寄せば、此等の種子またその能なからんや。・・・」
 種子は不可知なんですね。阿頼耶識の具体相である所縁(相分)の種子は沈隠(しずみかくれているさま)していますから、理解することは容易ではありませんが、作意の種子は心心所の種子を警覚して現行を生ぜしめることを本質とし、そしてその心心所を所縁の境に趣かしめることを業用としている、と解釈されます。
 私たちの深層のこころの在りようは知る由もないのですが、阿頼耶識が過去の経験の貯蔵庫であるとしますと、過去の経験を貯蔵せしめてきた七転識の業果が種子として阿頼耶識の中にインプットされ、折に触れ、縁に随って種子が警覚され、現行という、自他分別の境に向かわしめることになるのでしょうね。それが作意の働きであると言っているのだと思います。
 阿頼耶識現行の二重構造といっていいのではないでしょうか。
 種子は、種子生種子で一類相続してきますが、無覆無記として、受は捨受として現行してきます。無覆無記であり、捨受である阿頼耶識は、名前が示していますように、迷いの識の名であるわけです。阿頼耶識を本識として転じた七転識の行相を阿頼耶識は引きずるわけですね。
 ここにですね、深層の領域である阿頼耶識の層は無覆無記でありながら、表層の領域では煩悩によって發業し潤生された相を展開しているわけです。私たちは、いついかなる時でも、阿頼耶識からの信号を聞き取っていかなければ、煩悩が独り歩きをします。独り歩きした煩悩は自他分別を起こし、自尊損他として、他を隷属させようと奔走して暴走します。それは、阿頼耶識との通信手段が遮断されたからに他ならないのですね。それは自の問題ではないのです。いかなる作意が働いているのか、「仏法聞き難し、いますでに聞く」という業縁に依ることなのでしょう。
 作意は分別だといいました。その分別にも、善(浄土)に向かわしめる作意と、悪(五悪趣)に向かわしめる作意があるのではないですか。善に向かうと、煩悩の火は鎮まり、悪に向かうと煩悩に火は燃え盛るのだと思います。
 不断煩悩得涅槃とは、仏法は聴聞に尽きるという善業が煩悩の火を鎮めて涅槃に向かわしめるのでしょう。煩悩の火を自らが消すのではなく、浄土に触れた、浄土の功徳(現生十種の利益)が瞋恚の業火を鎮め、柔軟心を生みだしてくるのではありませんか。それを親鸞聖人は往相回向と表現されたのではないでしょうか。