「作意(さい)と云うは謂く能く心を警するを以て性と為す。所縁の境の於(うえ)に心を引くを以て業と為す。」(『論』第三・二右)
作意の性は警心。業は引心。
性は、心が動く、心が立ち上がって動き始めるということ。引心とは、心の立ち上がりです。『二巻鈔』に良遍は「心を驚かして起らしむる心なり。」と簡潔に述べておいでになります。
何に向かって動き始めるのかですが、対象に向かって、そこで初めて認識の立ち上がりが成り立つのです。いわば、エンジンのキーの働きですね。境に触れて立ち上がるのか、心が作動して境に触れるのかは微妙なところでわかりませんが、いずれにせよ、触・作意が相まって、境に触れ、境に向けしめる作用もあるものが、触・作意の心作用ですね。
「心を警する」ことが作意の用きをあらわしますが、「警する」とありますから、「驚される心」に対して作意の用きをあらわすのが、「心を引く」ということなんです。心を驚し、境に趣かしめるのが作意の心所であるのです。
「謂く此れが起こすべき心の種を警覚し、境に趣かしむる故に作意と名く。」(『論』第三・二右)
つまり、阿頼耶識のなかの種子を目覚めさせ、心を起こし、心を対象に趣かしめる用きを作意と名づけるのだ、と。
『述記』の釈は、
「作意の種は義を以て(縁に逢うて正しく)生ずべき心の種を警するなり。(心を)起こして境に趣かしむべきを曰う。一切の心の種子を警するには非ず。彼縁に逢わざれば定んで生ぜざるが故に。警
種子生現行の、現行を生みだしてくる縁生において心を目覚めさす、そして境に趣かしめるということなんですね。縁がなければ作意は動かないということになり、作意はすべての心を驚するものではないということなんです。
そして、作意の功力に二つあることを挙げています。
一つには、心をして起こらざるを正しく起らしめる。
二つには、心をして起こり已って境に趣かしめる。
この二つの功力を以て、「起こるべき心の種を警覚して引いて境に趣かしむと言う」と結んでいます。
「此警覚応起心種」(此れが起こすべき心の種を警覚し、)
作意の種子がよく心心所の種子を警覚すると云われています。このところはさらに読み込む必要がありそうです。又にします。