第二に、経量部等を論破する。(経量部等の教義を論破し、会通する。)
「亦有漏種従り彼の善等を生ずるが故に、有漏と成るとは説く可からず。彼の種は、先より因として有漏と成る可きこと無きが故に。」(『論』第五・十五右)
(また、「有漏の種子より、有漏の善等を生ずる為に、有漏となる(善・無覆無記の心が)」とは、説いてはならない。彼(有漏)の種子は以前より因として有漏となっていることはないからである。)
経量部の説は、有部とは違って種子説を立てます。有漏の種子より有漏法が生じてくるという。「有漏の種子より、有漏の善等を生ずる為に、有漏となる(善・無覆無記の心が)」ということです。つまり有漏の善等の種子から、有漏の善等が生じる為に、末那識を説かなくても、六識の善心等が有漏となる、と主張しているのです。しかし護法は、このような経量部の説は理として成り立たないと指摘します。その論破の主旨が「彼(有漏)の種子は以前より因として有漏となっていることはないからである。」ということになります。善の種子がいつ有漏になったのかという問題です。
(この項 つづく)
「漏の種に由って彼いい有漏と成るものには非ず、勿(もつ)、学の無漏心いい亦有漏と成りなんが故に。」(『論』第五・十五右)
(有漏の種子に由って彼(善等)が有漏となるわけではない。有学の無漏心は勿(禁止の意味をあらわす語)、決して有漏とはならないからである。)
経量部の反論を予想しての『論』の論破の記述になります。反論の予想は『述記』に述べられています。これは前科段に対する経量部の反論になります。 (未完)
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