唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 失念 (1)

2015-12-09 22:48:39 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「護法の唯識ですと、「虚妄分別」として存在はあると。そこで「大悲」ということが出てくるのです。そして、やがてそれが『浄土論』には、大悲心とは平等心であると出てくる訳です。
 そういうことがありまして、これはただ単に何でも平等に見えるということではなく、「悲」ということが出てくるのは、逆に言いますと、「辺」に執われる。また「中」に執われるものとしてしか存在はないということです。
          高柳正裕述 預流の会『解深密経』講義より
  
 失念の心所ついて 
「諸の所縁に於いて明記(みょうき)すること能わざるを以て性と為し、能く正念を障えて散乱の所依たるを以て業と為す。」(『論』第六・三十右)
 (諸々の所縁(認識対象)に於いて明記(かって経験したことを心のなかに明らかに記憶せしめること。)することが出来ないことを以て本質とし、よく正念を障えて、散乱の所依となることを以て業とする心所である。)
 概略 
 あらゆる対象に於いてはっきりと記憶することが出来ないことを性とするのが失念の本性なのです。正しい思い(正念)を妨げ散乱の所依となる。念は明記不忘といわれ、記憶して忘れない。何を忘れないのかと云いますと正念という正しい道ですね。正見を得る目的を念じ忘れないことが、八正道の中で説かれています。八正道は正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という八種の実践法です。正しい道とは縁起を説いた仏法ですね。仏法を忘れないということ。仏に成る道があるということを忘れてしまうのが失念といわれています。そして失念は忘れるという念と道理が判らないという無明との一分に摂められるのです。年をとってきますとどんどん記憶が薄れて物忘れが激しくなるのです、実感しています。これも煩悩のなせることなのですが、失念は物忘れが激しくなるということではなく「後生の一大事」に眼を閉じていると云う事だと思います。生まれこのかた、そして死を迎えるまで一度も自己を問う事がない、このことが失念の内容ではないかと思われます。ですから失念しているという思いもないのでしょう。ものを忘れたということであれば、記憶をしていた時期があったはずですね。記憶をしていたが、いつの時からか忘れてしまったという事も失念でしょうが、仏教でいう失念は正念を忘れるという事なのです。正念を忘れると心が千千に乱れるのですね。散乱です。ですから散乱しているということは失念をしていることなのです。正念を忘れているから心が散乱するのですね。「失念に由るが故に、散乱を生起す。・・・明らかに善等の事を記すること能わざる故に名づけて失念と為す」(『述記』)
 広説
 「失念ハ。物忘レスル心ナリ。カカル人ハ多ク散乱セリ。」(『二巻鈔』)
 失念は、妄念ともいわれます。正しくない念で、対象をはっきりと記憶しつづけることが出来ない心作用をいいます。失はうしなうこと。妄は道理に合わないこと。念は明記不忘、記憶して忘れないこと。
 善の心所第三の諸門分別において、「失念は、癡の分、及び別境の念の一分。失念の体は念と癡であり、善の心所である正念を妨げ、心を散乱せしめる働きがある。これは、念が癡の影響を受け、染汚されて失念となっているということになります。癡が翻じて無癡になれば、失念は翻じて不失念となる。念は別境の心所であり、別境は三性にわたるので、失念を翻じた不失念は、善の心所に入れず、別境の善のものに含められるのである。」と説かれていますように、失念とは、大雑把にいえば、別境の念が染汚心で生起することですね。
 念は先程も述べましたが、明記不忘、過去のことを明らかに記憶して忘れないことなのですが、この念が癡の影響を受け、染汚心で生起してきたのが失念ですから、念を失うことではないのですね。
 そして、正念を障礙し、散乱の依り所となる。散乱が起こってくる因となるものが失念であるというこなのです。
 失念モまた念を翻じて知らなければならないと思いますが、念といいますと、憶念というお言葉が耳に聞こえてきます。「憶念の心つねにして」は明記不忘の心でしょうね。聞いたこと、聞いたことを忘れず、記憶しておけという厳しさがあります。しかし大丈夫なんです。阿頼耶識は明記不忘なんです。聞いたことと、阿頼耶識が相応する、感応するところにお念仏の働きがあるのでしょう。

浄土和讃
弥陀の名号となえつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり
正像末和讃
弥陀の尊号となえつつ
 信楽まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり
 御文
弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして、わすれざるを、本願たのむ決定心をえたる、信心の行人とはいうなり。
 太田久紀師が大切なことを語っておいでになります。三帰依文からですね、
 「「百千万劫難遭遇」です。今,私共はなかなか遇い難い仏教にふれているのです。こういうことが歳を取ってうると実感として解るものですね。「無上甚深微妙の法は」と云って、坊主が勝手にj分の所へ来れば助かるのだと云って、我田引水的に何となく宣伝的な、人を騙して連れてくるような気がして、若い時には何か嫌でしたが、歳を取ってきて仏様の教えに出会うということが、どんなに幸せなことかということが自分で多少でも頂けるのでしょうか。そうすると百千万劫にも遇い難い仏の縁にふれさせて頂いているという思いが強くなってきますね。これを忘れてはいけない。これを忘れると失念です。これを忘れてはいけないと思うのです。ここの失念はそういう意味で煩悩です。」
 と教えてくださっています。
 次科段からは失念も仮立されたものなのですが、何の上に仮立されたものかについて異論と正義が説かれてきます。(つづく)

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