唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 放逸(ほういつ)(4)

2015-12-08 21:42:09 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「慢と疑との等(ごと)きも亦此の能有りと雖も、而も彼の四に方(たくらぶる)に勢用微劣(せいゆうみれつ)なり、三の善根と遍策(へんさく)の法とを障うるが故に。此が相を推究(すいく)せむことは不放逸の如し。」(『論』第六・三十右)
 今日は傍線の部分、後半を読みます。
 放逸が懈怠・貪・瞋・痴の上に仮立されるのは、四(懈怠・貪・瞋・痴)の用が慢・疑等よりも勝れているからであると、その理由を述べています。具体的には、傍線の部分になりますが、「三の善根と遍策(へんさく)の法とを障うるが故に」、三の善根(無貪・無瞋・無痴)と及び遍策の法を障えるからである、と。遍策の法とは何か、解りにくいのですが、『述記』には「遍策の法とは、即ち是れ精進なり。」と解釈されていますので、此の四は三善根と精進の法を障える、妨害するからである。また、どのようにして知られるべきかも「善に翻じて説くべし。此は唯だ是れ仮なり。」と釈しています。
 つまりですね、善の中でも特に強い力を持つ三善根と精進をを障礙するのであるから、これに翻じて、これらの法を障礙する懈怠と貪・瞋・痴もまた強い力を持っていると推測されるのです。
 「善に翻じて説くべし」と『述記』は述べていますが、放逸は、不放逸を障礙するわけですから、不放逸の心所から翻って知られるべきことであるということなんですね。
 不放逸の心所は、
 「不放逸とは、精進と三根(三善根)との、所断修の於(うえ)に防し修するを以て性と為し、放逸を対治し、一切の世・出世間の善事を成満するを以て業と為す。」(『論』第六・六右)
 「不放逸ノ心所ハ、罪ヲフセギ善ヲ修スル心ナリ。恒ニホシキママニ罪ヲ作ヲバ、放逸ト申。是ニ相違シテ、殊ニ罪ヲバ恐レ憚リ、功徳ヲバ造ラント思フ心ナリ。」(『二巻鈔』)
 『二巻鈔』には不放逸の心所は、「罪をふせぎ善を修する心なり」と説かれています、「ふせぎ」は犯さずということになるのでしょうか。どちらかというと、怠けているほうが楽ですからね、怠け心を放逸というのでしょう、放逸が因となれば、果は極苦ですね、ですから放逸すべからず、不放逸でなければならないと教えているのでしょう。不放逸とは、怠けようとしない心なのですね。
また、不放逸とは、精進と三善根が断つ対象(断ずる対象=所断)である悪と、修むべき対象(所修)に対し、その悪を防ぎ、その善を修めることを以て性とする働きをもつ。不放逸は放逸を対治し、すべての善事を成満(成し遂げること。完成)することを以て業とし、精進と三善根の心所の四つの作用の上に仮に立てられたもの、分位仮立法なんです。詳細は、不放逸の心所の項を参照してください。
 「不放逸とは、精進と無貪・無瞋・無癡の三善根」を体(善の心所の四つの心所の上に仮に立てられたもの)として、防悪修善を本質的な働きとする心所であり、その結果として、放逸を対治し、世・出世(有漏・無漏)を通じて善事を完成させるという働きを持つということなのです。
 防悪修善と廃悪修善とは同義語だと思うのですが、この廃悪修善は散善ですね。定散二善といわれている内の散善がこの防悪修善に通ずるところの心所である、といっていいのではないでしょうか。『観経』における観法・十六の観法が説かれているわけですが、善導大師は初めの十三観を定善・後の三観を散善と分けられたのですね。何故定散二善と分けられたのでしょうか、ここは課題ですね。定散二善は廻向発願心釈で述べられているところですが、『化身土巻』(真聖p336・340)に「定善は観を示す縁・散善は行を顕す縁なり、」と押さえられて「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」と結んでおいでになります。そして、定散二善をですね、「定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」(『信巻』)と、心の問題として、教行証の背景にある信を問われているのではないでしょうか。だから、行に就いて信が問われている、就行立信ですね。散善、特に下品下生の衆生の救済は如何にしたら成り立つのか、若しすでにして救済されているならば、その証明はどこで成り立つのかが問題とされたのでしょうね。本願の念仏ですね、念仏は行だけれども、本願の念仏だと。この展開が正行・雑行の問題ですね。そこで、正行には五正行が備わっているということですね。「一に一心に專読誦・二に一心に專観察・三に一心に專礼仏・四に一心に專称仏名・五に一心に專讃嘆供養」ですが、この一心です。この一心が廻向を表わしているのでしょう。
 「上よりこのかた一切定散諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人天菩薩等の解行雑するがゆえに雑と曰うなり。元よりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、かるがゆえに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おおよそ聖道・浄土、正・雑・定・散みなこれ回心の行なりと、知るべし。」(真聖p449)
 回向ということが非常に大事な問題として語られているのですが、やはり、この善の心所で語られていることも、護法菩薩は学としての唯識というだけではなく、発菩提心と大涅槃ですね。私たちの一挙手一投足すべて回向の行であるという自覚が救済であることを明らかにされているのではないかと思うんですね。そこに安楽土、身と土は一体ですから、すべては無駄ではない、縁起されたものとして受け取っていける世界が開かれてくるのではないかと思うのです。自然災害・人為災害を通して問題とされること、「人」を問うということが大事なことなのではないでしょうか。社会問題に携わりながら、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。」(真聖p215)ということに気づきを得ることが要となってくるように思います。表裏の問題ですね。表の問題を通して、その背景を知る、家庭の問題・仕事の問題・社会問題・災害ボランテイア等々を通すということが大事なことですね、生きて働いていることがなければ、廻向ということも成り立ちません。身近なこと、これが一番大きな問題なのでしょう。私が出来ること、身近なことに眼を開くことなのではないでしょうか。往還二回向というけれども、親鸞聖人は現実の目の当たりに見る光景に憂慮されたのでしょう。内には関東の御同行の造悪無碍の問題、外には大飢饉・疫病の問題ですね。これらの問題が背景となって多くの書簡が残されているのではないでしょうか。
 不放逸の心所から学ばせていただく時に、「常に没している自分」に対して策励と勧められているのですが、策励を通して何者かになるのではないのでしょう、常没の凡愚の自覚が回向されているということで、そこに菩薩の働き、この菩薩の働きを業と名づけていいのではないかと思いますが、業として与えられているということなのではないでしょうかね。
 横道にそれましたが、放逸もまた、懈怠と貪・瞋・痴の上に仮立されたものであることが解りますね。

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