蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

雑文集(村上春樹 新潮社)

2015年12月10日 | 映画の感想
雑文集(村上春樹 新潮社)

題名通り、これまで未収録の講演原稿や(音楽・小説などの)作品解説を集めたエッセイ集。

この手の本を出す場合、せいぜい前書きくらいを付け加えて執筆時期順に並べて出版するのが関の山だとおもうのだが、本書では、前書きはもちろん、一編ごとにその文章の来歴などが書かれ、テーマごとに細かにグループ分けされている。
世界的な名声を得ている大作家にもかかわらず、ここまで読者サービス?に労をいとわないところがすごいと思った(もっとも大家でないと(出版社にとってめんどくさい)こんなことはできないのかもしれないが)。

最近、福島県で催されたイベントで登壇した著者は、本を書くことは牡蠣フライをあげる作業に似ている、といった主旨の講演をしたという。

本書の冒頭でも牡蠣フライが登場する。一人でなじみのレストランに行き、ビール中瓶一本と牡蠣フライを食べる話。
「村上さんってホントに牡蠣フライが好きなんだ」と、あらためて思った。
最近本書は文庫化されたので、文庫のゲラを読んでいて牡蠣フライの話を思い出しただけかもしれないが。

実は私も牡蠣フライが好物なのだが、最近おいしい牡蠣フライを食べた記憶がない。
昔はどんな料理店でも季節になれば牡蠣フライがメニューに載ったものだが、最近はあまり見ないような気がする(気のせいだと思う。ただ、私が食べた最もうまい牡蠣フライは寿司屋のメニューだった。今、牡蠣フライがメニューに(特定の季節だけとはいえ)出現する寿司屋って見かけないよなあ)。

かといって自分でほどよく揚げるのはとても難しい(大抵、加熱しすぎる)し、家族の中で牡蠣フライが好きなのは私だけなので、家でもめったに食べられない。
そうなると、村上さんご贔屓の牡蠣フライのレストランがどこにあるのかとても知りたくなってきた。
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紙の月

2015年12月09日 | 本の感想
紙の月(角田光代 角川春樹事務所) 映画&小説

日本のような比較的穏やかな統治の法治国家においては、社会は三つの層からできているように思います。

一番表面の層は、常識や相互信頼によって成り立っている世界で、ほとんどの人はこの層に属しています。ここでは社会や国家が人々をがっちりガードしています。

二番目の層は、法に支配されている所、本来の意味での法治国家です。第一の層にいても時々この第二の層に足を踏み入れてしまうことがあります。例えば、今まで仲良しだった家族が相続をきっかけにして対立し仲裁を裁判所に求める場合、交通事故を起こしてしまった場合、などです。こうなってしまうと、法令という冷徹な国家のルールが容赦なく適用され、最終的には司法が定めた結論に否応なく従わなければなりません。

三番目の層は、アウトローの世界です。
刑法に触れるようなことをすれば、国家は暴力的な手段を持ってその人を拘束し処断します。反面、ルールに反することを気にしない人(ギャングのような人ですね)もいて、いろいろな意味でのシバリはないのですが、この層では相互信頼はもちろんなく、社会や国家のガードは極めて薄いので、自分の力や判断だけを信じて生きていかねばなりません。

3つの層には普通は確固とした区分けがあるのですが、時には境界を超える穴にはまってしまうこともあります。例えば、消費者金融のATMなんかは穴の一つでしょう。第2層にとどまる(例えば破産する)うちはいいのですが、債権が第3層に流れたりすると怖いことになったりするでしょう。

****

主人公は銀行で外回りをする契約社員。顧客に信頼され営業成績はよかったが、若い恋人ができて顧客の預金に手を付け始める。恋人に時計や車を送るくらいではとどまらず、高級マンションの部屋まで与えてしまう・・・という話。

映画(DVD)を見てから原作を読みました。
筋書としては両者は筋書きとしてはかなり異なっていて、原作ではほとんど登場しない銀行内部が映画では中心の舞台となっていて、銀行一筋といった感じのベテラン行員(小林聡美)が主人公(宮沢りえ)が対峙する展開になっています(このベテラン行員は原作では登場すらしません)。
原作は心理描写がほとんどなので映像表現がしにくかったためなのかもしれませんが、「桐島、部活やめるってよ」もそうだったのですが、吉田監督は原作から離れることを恐れませんね。

原作に比べて映画版がすぐれていると思えた点は、主人公が(やがてヒモとなる)若い男と知り合うプロセス。
駅のプラットフォームで男を振り返ろうかどうか迷う主人公、
男と会うために跨線橋を超えて階段を降りてくる主人公、
ごくごく短いシーンの積み重ねで主人公が恋に落ちてしまった様子がとてもうまく表現されていたと思います。

****

原作、映画とも、テーマは「人の欲望の恐ろしさ」でしょうか?
若い恋人、友人、果てはショップの店員にまでいいカッコがしたくて(原作を読んで初めて気づいたのですが、見栄っ張りの人って、クレジットカードを使う時に、店員に「分割払いで」ということすらイヤなものなのですね。あ、だから後から分割なんて機能があるのか)、欲望が暴走し始めた時、第一の層の固いガードの中にいた人までが、あっという間に第3層のアウトローの世界にまでまっすぐに落ちてしまう、そんな恐ろしさが生々しい描かれていて(整理整頓ができなくて散らかりまくった部屋の中で、主人公が預金証書を偽造するために悪戦苦闘するシーン、壁一面にアングラ金融のチラシが貼られた公衆電話ボックスからサラ金に電話するシーンにはホントにぞっとしました)、逆に「オレはまだだ1層にとどまっているなあ。そう思うと今感じている日々の屈託なんてたいしたことないなあ」などと、ウラハラの安心感を持ってしまいました。
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生きて帰ってきた男

2015年12月06日 | 本の感想
生きて帰ってきた男(岩波新書 小熊英二)

著者の父親(以下、主人公)からの聞き語りによる、戦中から現在に至るまでの人生記録。

主人公は、主として祖父母に育てられ旧制中学を出て通信機会社へ就職する。
終戦間際に徴兵され満州へ派遣され、ソ連軍の捕虜となってシベリアのチタで3年にわたり収容される。
日本に帰国して、結核にかかり5年近く入院する。退院後は様々な職を転々とした後、学校なでにスポーツ用品を販売する卸売のような商売を始めて成功する。

主人公のきょうだいは結核などで次々に死亡する。やっと育て上げたと思った著者を徴兵された(育ての親である)祖父母が嘆くシーンが印象的だった。
以下引用(P59)
***
近所の人たちは空襲におびえ、すでに日常の風景になった一青年の入営などに、かまう者はいなかった。勇ましい雰囲気などかけらもない。入営を示すタスキもない。カーキ色の国民服を着た謙二は、「立派に奉公してまいります」といった型通りの挨拶のあと、祖父母に「行ってくるね」と告げた。
そのとき祖父の伊七は、大声で泣きくずれた。ともに暮らした三人の孫がつぎつぎと病死し、最後に残った謙二が軍隊に徴兵される。おそらく生還は期しがたい。孫たちの死にも、商店の廃業にも、自身の脳梗塞にも、いちども愚痴をこぼさず、ただ耐え続けていた伊七が、このとき初めて大声で泣いた。
入営の見送りにあたって家族が泣くなど、当時はありえない光景だった。祖母の小千代は、「謙、行け!」と言い、伊七を自宅の中に押し込んだ。
***
(ここだけでなく終始一貫して)淡々とした客観的な描写に徹した文章なのに、なんとも豊かな情感が湧き出ていることに感心した箇所でもあった。

主人公の子供時代からまだ百年は経過していなくて、歴史的視点から見ると、まだついこのあいだ、というところだと思うが、子供たち(それもある程度成長した子供)があっけなく結核などで死んでいくのがあたりまえだった時代が、すぐにそこにあったということが経験のない者としてはなかなか信じられない。

主人公は結核の療養所を出た後、さまざまな地域で転職を繰り返す。
多くの場合、自宅を持たず親戚などのツテをたどって居候させてもらうのだが、居候させる親戚の方も極めて狭い住宅に住んでいるのに、あっさりと主人公を同居させることに同意している(ように思えた)。
こうした家族や血族の結びつきの強さは、そのように協力しあわないと生き延びていけなかった厳しい社会環境のせいでもあるのだろうか。私自身の記憶でも、幼い頃は親戚同士の交流がずっと盛んだったような気がするし、そもそも最近は少子化でおじさんやおばさん、おい、めい、がいない人も多いのだろう。

もう一つ印象に残ったのは、ソ連軍は案外民主的だった?という点。シベリアの収容所に来ても厳しい階級制を維持していた(旧)日本軍では、食糧などを優先して上級者に配給したりして、軍隊経歴の短い人の死亡率が目立って高かったそうだ。しかし、ソ連軍は(時と場合にもよるらしいが)、軍隊内での階級格差はあまりなく、収容所運営も概ね中央の指示通りに行われていたようだという。
日本人による直訴?も場合によっては取り上げられ調査と処分が行われたというし、他国の収容所に比べればシベリアの収容所での捕虜の死亡率は低いという。
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