蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

紙の月

2015年12月09日 | 本の感想
紙の月(角田光代 角川春樹事務所) 映画&小説

日本のような比較的穏やかな統治の法治国家においては、社会は三つの層からできているように思います。

一番表面の層は、常識や相互信頼によって成り立っている世界で、ほとんどの人はこの層に属しています。ここでは社会や国家が人々をがっちりガードしています。

二番目の層は、法に支配されている所、本来の意味での法治国家です。第一の層にいても時々この第二の層に足を踏み入れてしまうことがあります。例えば、今まで仲良しだった家族が相続をきっかけにして対立し仲裁を裁判所に求める場合、交通事故を起こしてしまった場合、などです。こうなってしまうと、法令という冷徹な国家のルールが容赦なく適用され、最終的には司法が定めた結論に否応なく従わなければなりません。

三番目の層は、アウトローの世界です。
刑法に触れるようなことをすれば、国家は暴力的な手段を持ってその人を拘束し処断します。反面、ルールに反することを気にしない人(ギャングのような人ですね)もいて、いろいろな意味でのシバリはないのですが、この層では相互信頼はもちろんなく、社会や国家のガードは極めて薄いので、自分の力や判断だけを信じて生きていかねばなりません。

3つの層には普通は確固とした区分けがあるのですが、時には境界を超える穴にはまってしまうこともあります。例えば、消費者金融のATMなんかは穴の一つでしょう。第2層にとどまる(例えば破産する)うちはいいのですが、債権が第3層に流れたりすると怖いことになったりするでしょう。

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主人公は銀行で外回りをする契約社員。顧客に信頼され営業成績はよかったが、若い恋人ができて顧客の預金に手を付け始める。恋人に時計や車を送るくらいではとどまらず、高級マンションの部屋まで与えてしまう・・・という話。

映画(DVD)を見てから原作を読みました。
筋書としては両者は筋書きとしてはかなり異なっていて、原作ではほとんど登場しない銀行内部が映画では中心の舞台となっていて、銀行一筋といった感じのベテラン行員(小林聡美)が主人公(宮沢りえ)が対峙する展開になっています(このベテラン行員は原作では登場すらしません)。
原作は心理描写がほとんどなので映像表現がしにくかったためなのかもしれませんが、「桐島、部活やめるってよ」もそうだったのですが、吉田監督は原作から離れることを恐れませんね。

原作に比べて映画版がすぐれていると思えた点は、主人公が(やがてヒモとなる)若い男と知り合うプロセス。
駅のプラットフォームで男を振り返ろうかどうか迷う主人公、
男と会うために跨線橋を超えて階段を降りてくる主人公、
ごくごく短いシーンの積み重ねで主人公が恋に落ちてしまった様子がとてもうまく表現されていたと思います。

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原作、映画とも、テーマは「人の欲望の恐ろしさ」でしょうか?
若い恋人、友人、果てはショップの店員にまでいいカッコがしたくて(原作を読んで初めて気づいたのですが、見栄っ張りの人って、クレジットカードを使う時に、店員に「分割払いで」ということすらイヤなものなのですね。あ、だから後から分割なんて機能があるのか)、欲望が暴走し始めた時、第一の層の固いガードの中にいた人までが、あっという間に第3層のアウトローの世界にまでまっすぐに落ちてしまう、そんな恐ろしさが生々しい描かれていて(整理整頓ができなくて散らかりまくった部屋の中で、主人公が預金証書を偽造するために悪戦苦闘するシーン、壁一面にアングラ金融のチラシが貼られた公衆電話ボックスからサラ金に電話するシーンにはホントにぞっとしました)、逆に「オレはまだだ1層にとどまっているなあ。そう思うと今感じている日々の屈託なんてたいしたことないなあ」などと、ウラハラの安心感を持ってしまいました。
コメント
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