ランシモ

ランニングからツチノコカメラや時事まで興味あるすべて

昭和の暮らし博物館から新宿へランニング

2016-06-17 19:42:13 | 日記・エッセイ・コラム

昭和の学校給食の記事を見て、東急池上線の久が原にある昭和の暮らし博物館を見学。

博物館と言っても、公的な立派な建物に昭和グッツを展示しているんじゃなくて、本当に使っていて極標準的な昭和の家をそのまま残しているだけ。

表札からお庭や台所、居間に2階の書生室などなど。

昭和26年ごろの建築だそうです。

建坪が18坪と国から住宅金融烏公庫から融資を受け建築された規模の家です。これより建坪が広いと融資が受けられなかったそうです。当時の建築基準と考えて間違いない、、、。

でもなー、私に記憶では私が生まれた家は、こんな立派じゃなかった。これより数年前ですがあばら家か番屋みたいだった。戦後間もない頃のどさくさに紛れて、新宿の戸山ヶ原の練兵場あとを不法占拠してあばら家をおやじは建てて住んでいた。食糧難だったので、家の前を耕して畑にしても、軍隊が訓練に長年使った土は固く締まってやせていた。そんな話をよく聞かされました。

この家は、当時では立派な家の部類に入るだろう。持ち主はきっと知識人、文化人だったんだろう。

たらいと洗濯板ですよ~~~。

昭和26年の大田区のこの辺りは、電気は来ていたがガス、水道はまだだった。

だから、この井戸は貴重な水源だった。

たぶん、あちこちに井戸があったのではないか。

この井戸も、生きている井戸です。

からからに乾いていると、呼び水を足してキコキコすると水があふれだしてきます。

家の中が撮影禁止だったので、皆さんにお見せできないのが残念。

別に目づらしい物じゃなく、昔は当たり前のグッツがそのまま存在しているだけです。

板塀の家は昭和初期ではデフォのような建築方法です。

これが、火災に弱かったので以後はモルタルづくりになりました。

戦後はこの板塀とモルタル建築が主流でした。

館内には、当時そのままの台所があって、私らには懐かしい。

パンの歴史展と言ってよいと思う展示がありました。日本でパンが復旧したのは、海軍が乾パンを支給したからだそうです。しかし、乾パンを軍人の腹を満たすぐらい食べるには、、、膨大な乾パンを食べなきゃいけなくて、その一食分を見たら私だってひるむくらいです。スープとジュースがなきゃ、、、これは食べられません。だから海軍の兵士さんには不評だったそうです。その後だいぶ改良されたそうですが、、、パン焼き器なるものが昭和の初期に作られて、、、ずいぶん簡単な造りです。その変遷も見ていると懐かしい。

小学校の給食の話もあり、、、ほんと、嫌だった粉ミルクのことも展示していた。読むと懐かしくも何故あんなにまずかったのかわかった。米国から支給された粉ミルクは、赤道を通りパナマ運河を通り、本来は粉である粉ミルクが変質してガチガチに固形化していたそうです。それを給食の人たちが、学校なので大鍋で溶かすのだが、固形化した粉ミルクは溶けないで大鍋の底にこびりついて焦げていたそうです。それが毎日だったので、かび臭くなったり焦げが混じったりして、あんなにまずくなったそうです。今だったら食品安全ではねられるぐらいのレベルです。でも、戦後間もない頃は、日本全体が食糧不足で飢えていましたから、あれでずいぶんに日本人の子供の命が助かったのでしょう。

日本の給食の始まりはアメリカからのララ物質(救援)だそうです。それは粉ミルクも缶詰で送られてきて、じつに美味しい物だったそうです。のちの固化した粉ミルクとは品質が違った。ララは米国からの援助物質と言われていたが、実際は米国や南米で成功した日系人たちからの援助だったそうです。本国を心配した日系人からの贈り物だった。

そんな戦後のいきさつも、グッツと一緒に展示してあります。

これは、私にはわかりません。

少なくとも、新宿にはありませんでした。

新宿の私の家の隣は、今では信じられないでしょうが、昭和60年代までトウモロコシ畑だったんです。

新宿から一駅の大久保北新宿(昔の柏木)ですが、隣はトウモロコシ畑で正面にはは竹林があって池があった。昭和50年代には小山のような空き地があって、そこの中腹に防空壕がありました。空き地では何に使ったかわからないような、大きなボイラーのような鉄の塊が転がっていた。

今日はこの年一番の暑さで32℃ぐらいあった。

こっから、ランニングで新宿まで戻ったが、暑くて暑くて干からびそうだった。

 

30℃を越えたら外で走っちゃいけないと言われているが、私らランナーは水分補給しながら走っていますね。場所は環八の少し内側で、ほぼ環八に沿って北上します。

なるべく大きな道は使わないで、路地と日陰をを選んでランニング。

武蔵の丘陵が終わる東京には湧き水がでる箇所が多くあります。

同心円状で有名なところでは井之頭公園、善福寺公園、妙正寺川など都内の川の源流は、たいてい武蔵野の伏流水が湧き水となって出てきた池が最初です。

洗足池は新宿から遠いので初めて来ました。

洗足池は湧き水の流れをせき止めて作った人造湖だそうです。

頃は江戸時代で、田畑への灌漑の意味合いもあって、作ったそうです。

多摩川から水を分けた6号水路で今の大田区のあたりを灌漑して、この洗足池は目黒区でも灌漑したのかしら。

有名な玉川上水に比べると距離も短く川幅も小さいけど、江戸時代にはひんぱんに治水がされたんだな。

行先は新宿なんで方角はアバウトで北西に向かった。

大きな街道はつまらないので、細い路地ばかりを選んでランニング。

時々大きな知った町に出る。

湖畔の神社です。

池の西側にいたコイやカメさん。

カメに餌をあげるけど、コイの勢いに負けて、くわえたエサを毎回取られてしまう。

カメさんはやっぱりカメだなーーー。

コイの大きな口でカメにかぶりついて、えさを取ってしまうのだ。鳩だって狙っているもの。

人造の池にしては趣があります。

いくら給水しても干からびた状態で渋谷に出ました。そこからは地元ですのでゆっくり止まらずに走って戻った。

家に着く前に地元のパン屋さんで遅い昼飯になった。

当時の標準的な家と言っても、裕福な方に属します。

中をお見せできないのが残念。

URLは

http://www.showanokurashi.com/

先月、健康友の会で歩こう会の終点の所ですね。

暑い暑いランニング15km~20kmでした。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エンディング・ノートなるもの | トップ | 小平の紫陽花公園で紫陽花祭り »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
昭和世代 (KIM)
2016-06-18 15:47:30
shimoさん

戦後のゆとりある一軒家ですね。
父の両親、いわゆる祖父母は、戦後朝鮮半島から新潟高田へ引き揚げて、雁木長屋に住んだ後、花小金井に住みました。
その住まいが似ているようです。井戸はなかったですが、階段は急な坂のようでした。壁は煙草でくすんでました。
風呂は浴槽にガス着火が備え付けでした。今は更地ですが、祖父母は50年くらい暮らしたかも知れないです。
懐かしくなりました。
返信する
Unknown (shimo)
2016-06-19 16:44:22
懐かしいような昭和の家でしょう。
どんどん壊されていきます。
返信する

コメントを投稿

日記・エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事