デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



今日は
夕方に乗ったバスは銀閣寺の傍を通るやつだった。京都は観光シーズンだから、いろんな観光客がバスに乗ってくる。当然混雑する。京都をたのしみにしている家族連れも乗っていたりする。
バスの中で二人の小学生前の子供が大きな声をあげて泣いていた。「眠たい!」と何度も大声で嘆き、ついに泣き出したのだ。親はなだめるのに必死だった。周囲の雰囲気はといえば、(本音をいえば)イラつきつつも同情していた。
この親子の気持ちは、とても分かる気がする。やっぱり雨の日曜日の観光地って、子供にとっても親にとっても「過酷」なものだ。
とはいえ、その子供もいつか大きくなって再び観光地を訪れてほしいものだ。いろんな意味で充実した旅行になる気がする。

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図書館で『ジャン=クリストフ』の続きを読んだ。鋭いと思った箇所、今も昔もさほど変らず、どこもかしこも同じことをやってるんだな、とおもった箇所を挙げておこう。

~(中略)~疲れている一時代――人生に直面する手間を他人にゆだねて、代理を通じて感じる習慣の一時代の兆候をみていた。~(中略)~自分だけが唯一無二の心理の占有者だと告げる人間がたくさん出てくると、人々はもう彼らを信じることができなくなる。そしてしまいには彼ら自身が自分の言っていることを信じなくなる。意気沮喪の時期が来た。彼らはフランス式な習わしにしたがって極端から極端へとしきりに移動をつづける。何もかも知っていると告げていた後で今度は、何一つ知らないと告げる。何にも知らないと告げることを彼らは名誉と感じていたが、これは全くたわけたことだった。ルナンは衰弱している同時代人たちに教えて言った――何事かを肯定したあとでたちまちそれを否定するか、あるいは少なくともそれを疑問に付すかしないのは、上品なことではないと。

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