Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2008年7月

2008-07-31 | Weblog-Index



世界を見極める知識経験 [ 文学・思想 ] / 2008-07-30 TB0,COM0
スーパーで新鮮な出会い [ 料理 ] / 2008-07-29 TB0,COM0
主夫業修行のスイート [ 生活 ] / 2008-07-28 TB0,COM2
WIR SIND OBAMA [ 歴史・時事 ] / 2008-07-27 TB0,COM4
勲章撫で回す自慰行為 [ BLOG研究 ] / 2008-07-26 TB0,COM4
二度目の挑戦のゲレンデ [ 生活 ] / 2008-07-25 TB0,COM0
二つの発見の大ニュース [ 歴史・時事 ] / 2008-07-24 TB0,COM0
受け継がれるモラール [ 文学・思想 ] / 2008-07-23 TB0,COM6
たとえ試飲が出来なくとも [ 試飲百景 ] / 2008-07-22 TB0,COM4
高峰の穏やかな天候に [ マスメディア批評 ] / 2008-07-21 TB0,COM0
自殺志願の名誉死選択 [ 歴史・時事 ] / 2008-07-20 TB0,COM0
どやしの宇宙の摂理 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-07-19 TB0,COM0
出来悪い企業の従業員 [ 生活 ] / 2008-07-18 TB0,COM0
男が多いスーパーで思う [ 生活 ] / 2008-07-17 TB0,COM7
人間味あるスパムメール [ 雑感 ] / 2008-07-16 TB0,COM0
我家のオーチャード [ 暦 ] / 2008-07-15 TB0,COM0
実感出来る資本主義の味 [ 文学・思想 ] / 2008-07-14 TB0,COM7
外人への機会均等違反 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-07-13 TB0,COM4
オバマ候補が演説する所 [ 歴史・時事 ] / 2008-07-12 TB0,COM2
腹筋を鍛える夕方の運動 [ 生活 ] / 2008-07-11 TB0,COM2
熟成濃厚味醂つけ切手 [ 暦 ] / 2008-07-10 TB0,COM2
呼び寄せ妻の所期の務め [ 女 ] / 2008-07-09 TB0,COM0
素晴らしい前菜の愉悦 [ 料理 ] / 2008-07-08 TB0,COM2
想像力を働かせろ! [ 文学・思想 ] / 2008-07-07 TB1,COM0
茶室跡に立って物思う [ ワイン ] / 2008-07-06 TB0,COM5
期限切れ偽装まぶし丼 [ 料理 ] / 2008-07-05 TB0,COM6
嘘のように涼しい水道水 [ 暦 ] / 2008-07-04 TB0,COM0
笑顔に想う社会の豊かさ [ アウトドーア・環境 ] / 2008-07-03 TB0,COM2
水で割る経済格差の味覚 [ 試飲百景 ] / 2008-07-02 TB0,COM4
二つ目のお詫び状が届く [ 生活 ] / 2008-07-01 TB0,COM2
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世界を見極める知識経験

2008-07-30 | 文学・思想
来シーズンの会員証が送られてきた。そんな予測をしながら、先日から少しづつ、アルフレード・ブレンデルのフランクフルト最終公演のプログラムなどをみて、手元にあるLPを幾つか鳴らしてみている。

取り分けシューベルトの遺作の変ロ長調ソナタは、今後これほど聞くことはないかもしれないと感じている。このピアニストがフィリップスで録音を始めて、その書籍などが日本語に翻訳されて紹介された1970年代に訪日して、この曲をとりにしてリサイタルを開いた覚えがある。

そのときの印象が今でも強く残っているのは、ここ十年間にフランクフルトでシューベルトのソナタが取り上げられても、当時のような軸になるような演奏は繰り返されていないからである。

そう思いながら当時制作のアナログ録音を聞いて、春に日本から送ったブレンデル著「楽想のひととき」に久しぶりに目を通していると、このピアニストが使命感を持って演奏していたのと現在では異なる理由が、その演奏実践からもよく聞きとれるのである。

フィリップスへの二度目の録音となるデジタルのシリーズものは、そららの録音と平行して殆ど生で聞いているので、あまり所持していなかったが、安売りされている自薦のシリーズなどを中心に幾つか購入した。今回も新たに棚卸のように安売りで販売されていたのでベートーヴェンとモーツァルトを五枚ほど注文したら本日届いた。

CDのクレジットをみて驚いたのは、フランクフルトのライヴ録音が二曲交じっていたことで、手元のプログラムを調べると珍しく丸印が付けられているベートーヴェンの作品10三部作ではないか。安物のライヴ録音は態々金を出して購入する気は毛頭ないのだが、あの演奏となれば少し話は違う。

それを鳴らす前に色々と思い出さなければいけないが、実は別に制作録音されている作品10第三番に二重丸がついているのである。このあたりから、上方落語の故桂枝雀の謂わんとする「緊張と緩和」ではないが、疾風怒濤の様式を借りたユーモア溢れる表現へとこのピアニストの晩年の芸風が前面に押し出されて来ている。

ベートーヴェンからハイドンへとまたハイドンからモーツァルトへとそしてベートーヴェンへとヴィーン古典派の創作の演奏行為と催し物自体が、こうして現代社会において新たな意味合いを獲得したと言っては大げさだろうか。それが記録されているのである。

上の著書を読んでいて、レーベル「ターナアバウト」に録音した最初のシリーズの話などで、「録音技術の限界のために十分にペダルなどを使って十分な弱音を弾けなかった」とあり、ある中欧の小国を代表する作曲家兼大校長先生が、自作の録音に際して同じような氏の知識と経験から「強めに演奏してくれ」と指示出ししたのを思い出した。

それに対して、デジタル技術で育った録音スタッフは、「今はそんな事はないから要らぬことを言わないでくれ」と叱ったのだったが、嘗てのSN比の優れないアナログ録音時代には常識になっていたノウハウだったのだろう。

それを考慮して、最後の制作録音シリーズとその前のアナログ録音のものなどとの差異が分かるばかりではなく、ネットで見つけたヨアヒム・カイザーとアルフレッド・ブレンデルの対談におけるジャズ畠の同業者故フリードリッヒ・グルダ批判などが鮮烈に響く。

アナログ録音のシューベルトシリーズも今後とも価値は薄れまいが、発売時から評価の定まらなかったベートーヴェンのハンマークラフィーアゾナータなども聞き直すととても面白い。

因みにグルダ演奏の古いLPで作品30を持っているのだが、そのように評価してしまえば無残に元も子もなくなって仕舞い、結局今回注文のCDの中に同曲が含まれることとなった。グルダのリサイタルは一度しか体験したことがないように思うが、舞台でズボンもパンツも脱がなかったように覚えている。今年は、謎の自作カセットテープなども商品化されて世界中で評判となったが、どうしてもその市場について目を向けさせる事象である。


PS.そのグルダと共演したことがある、去る日曜に死去した指揮者ホルスト・シュタインは、カール・ベームに代わってシュトラウスの「アリアドネ」を振って、遥かに繊細な音楽をヴィーナーフィルハーモニカーと舞台諸共奏でた。巨匠ベームが指揮した「フィガロの結婚」とは違ってその優れたアンサンブルは、今後ともなかなか聞けないレベルであった。どうもそれが最初で最後の生で接する機会であったようだ。「最後のカペルマイスター」などと死亡記事には書かれているが、カイルベルトやヴァントの薫陶を受けて、特に前者のようにスター指揮者と変わらぬもしくは以上の高い実力を身につけていたことは間違いない。



参照:
勲章撫で回す自慰行為 [ BLOG研究 ] / 2008-07-26
それは、なぜ難しい? [ 音 ] / 2007-11-10 01
音楽教師の熱狂と分析 [ 文学・思想 ] / 2007-10-12
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
大芸術の父とその末裔 [ 音 ] / 2006-11-24
噴水の鴨に弄ばれる [ 文化一般 ] / 2006-03-26
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
即物的な解釈の表現 [ 文化一般 ] / 2006-03-23
映画監督アーノルド・ファンク [ 文化一般 ] / 2004-11-23
桂枝雀とポリフォニー (社会学稼業、家族渡世
吉田秀和 季刊『音楽展望』 ブレンデルの引退 (日々雑録 または 魔法の竪琴)
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スーパーで新鮮な出会い

2008-07-29 | 料理
主夫業修行中に是非身につけて措きたいのは嗜好品のお安い買物であろう。消費量にもよるが、ワインやその他のものとメリハリをつけて探したいものにコーヒーなどがある。現在の所、貰い物のコーヒーマーカーが気に入っているので、それで何時も煎れている。

我家御用達商品は、ミュンヘン王室御用達のダルマイヤーの真空パックのプロドーモなのである。香りもよく、中欧のコーヒーとしては味が優しい。いつまでも飽きない。

それに比べて、緑色のヤコブスカフェーのものは、味が強めでドイツ語圏やオランダのそれに共通する酸味がおそらくモカから出ているようだ。味が強いのでミルクによく合う。

標準価格では双方ともよく似ていると思うが前者の方が大抵は高めである。他の商品がしばしばセール価格となるのである。そのようなとき他の商品が、一ユーロ安い三ユーロ台と安売りされると、どうしても浮気をしたくなる。

今回は、そこに新顔のフィルターなどで有名なメリタカフェーが参入した。幾つかの種類があったが、高地で採れる豆でエレガントな香りと洗練された酸などと書いてあると、どうしても試してみたくなった。

早速、真空パックを開け缶に移すと肌理が違う。豆の性質が違うようだ。飲んでみて、予想命中でブルーマウンテン味に久しぶりに出会え、とても嬉しかった。なんと言っても暑い夏の事清涼感のある飲みものが旨い。

次にコーヒーを買うときにはなにが安くなっているか判らないが、同じ安売り価格でこうした満足な出会いが出来るから、いつも頭脳を柔らかくして、物事に囚われずに、対応しなければいけないのである。
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主夫業修行のスイート

2008-07-28 | 生活
先日までは吉野葛を作っていたが、最近は毎日寒天を食べている。心太は試みていないが、ゼリーが旨い。コーヒーゼリーから初めて、ローズヒップなどを楽しんでいる。

十分に在庫があるので、夏の間は毎日飽きないように味を変えて楽しめる。白ワインを入れたり、パッパーミントを入れたりと、ヴァレーションは粉っぽくない分、葛よりありそうだ。

砂糖も分量が若干の多く必要なのがつらいが、間食も楽しい。

現時点では柔らかめのものしか出来ていないが、段々と塩などを加えて堅めに作って生きたいと思っている。心太風のものも作って生きたいと思う。

ただ、寒天はロベルト・コッホ博士の培養試験ではないが、細菌が繁殖し易いとなれば注意しなければいけないだろう。

毎日のスイートで、憧れの主夫業修行である。
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WIR SIND OBAMA

2008-07-27 | 歴史・時事
ベルリンでのオバマ候補を伝える報道の幾つかに目を通した。ベルリンに残された外交的な宿題やそれ以上にベルリンの政治の行方は益々容易ならざる舵取りが必要になってくるようである。

緑の党のトリティン元大臣のように、「オバマは決して聖人ではないから」と、死刑を含む人権や銃規制に不満を示すが、それはオバマ候補の演説の中に十分な回答があった。

必ずしも完璧ではない二百年の米国を認め、世界のあらゆる問題の例を挙げ、協力関係の中で解決して行くとする基本姿勢は米国大統領として、もしくは言われるように世界大統領としての支持を受けるに十分であったろう。

ロンドンで働いた祖父からの結びつきを導入として、自由主義経済の中での「幸福」を追求、それに立ち憚るあらゆる「壁」を取り払うためには、必ずしも軍事的な影響力のみならず冷戦下のエアーブルッジでを例示して爆弾ではなく食料やお菓子が投下された様にとする作文は大変よく出来ている。

次期米国大統領にとっては、先ずは何よりもブッシュ政権で四面楚歌となった信用の回復がなによりもの国際協調関係再建のための基礎となるに違いない。

いづれにしてもドイツの首相候補もフランスのそれも選挙戦前にその人脈を示すために主要同盟国に伺いをたてに行くのは普通であったが、今回こうして米国大統領候補がベルリンを訪れた意味はその選挙戦におけるイメージ戦略以上に大きいと考えても良いだろう。

その意味から、戦勝塔の前に集まった群衆も話し手の選挙戦の出汁にされたとは全く思わせない内容で、内容に熱心に聞き入っていた様子は、如何に反ブッシュ意識が強かったかを示していた。

ドイツの政治に戻れば、海外派兵や自由主義に関して特にベルリンあたりでは、三割以上がオバマの政治姿勢とは相容れないことも事実であり、「トランスアトランティックな政治」にEUの枠内で十分にベルリン政権が対応出来るかどうかは、今回の受け入れに距離をおいた首相府の反応をみてもその不透明さが示されていた。

オバマ候補が解決していかなければいけない同性愛者や母子家庭に関する国内政策と同じく、EU内での差異と同様に大西洋の両側では、今後より一層の意見の交換や活発な議論がなされる事が望ましい。環境問題においてもオバマ大統領が十二分に解決出来るかどうかは、本人の言う通り協力関係に依存しているのも間違いないだろう。

兎に角、最近はニッチェに端を発するような政治学上の定理である「権力構造への執着」とは一風変わった修辞法を有力政治家が使うようになったと言われて、「希望への演説」を繰り返すオバマ候補のあり方も、ブッシュ政権時代の反動とも思えなくはない。演台の感じもなんとなく教会臭く、飛行機の「チャレンジ」の意匠もなかなか笑わせてくれる。

今回も閲兵を除いては実質的に国賓並みの扱いだったと言われるが、可能性のあった世界最大米軍ベースのラムシュタインへの立ち寄りはなかった。それよりは、大統領になってからハムバッハー城を訪れるのが彼には似合いそうである。

We are Obama we can believe in.



参照:
Obama in Berlin  (ZDF)
オバマ、ベルリンに降臨、ドイツ大陶酔 (虹コンのサウダージ日記)
受け継がれるモラール [ 文学・思想 ] / 2008-07-23
オバマ候補が演説する所 [ 歴史・時事 ] / 2008-07-12
誤りの自覚と認識 [ マスメディア批評 ] / 2008-06-29
面白いパブリックレディオ [ マスメディア批評 ] / 2008-06-21
楽天主義が支配する時代 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-21
ブレッツェルピーの脚質 [ 生活 ] / 2008-02-07
Change! Yes, we can! [ マスメディア批評 ] / 2008-01-27
希望へ誘うオバマ候補 [ 雑感 ] / 2008-01-15
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勲章撫で回す自慰行為

2008-07-26 | BLOG研究
「吉田秀和 季刊『音楽展望』 ブレンデルの引退」と題した記事をBLOG「日々雑録 または 魔法の竪琴」で拝読する。この高名な文筆家には特別な想いがある。「今年も元気に渡欧されたときの模様」が掲載されていると知って、先ずは驚きと共になにも良い格好する訳ではないが、お元気なのを何よりと思う。

そうした素直な心情とは別に、やはりそうかと批判的にコメントするしかない。ヴィルトーゾピアニスト・ポリーニの演奏から何を聞くか?これは別なお話とは思うが、もし私が同じように高齢で態々遠くまで旅して何を聞きたいか?と考えると、容易に答えが浮かばない。

枕下にある若き吉田の「主題と変奏」というエッセイ集を読んで、そこに氏の全てが凝縮されていると考える。例えばベートヴェンの捉え方もベッティナ・フォン・ブレンターノなどを引用して「音楽は精神生活を感覚的に表現する」と語らせたり、ショーペンハウワーを下敷きに綴っている。

そうした生活は既に存在しないのか、それとも元々存在しなかったのか、それを諮るために伝達されるメッセージとして、氏はあくまでも古典的に対象物の「効果」に拘る。そして、その全身全霊に偽らず自己に与える効果を科学的に解析しようと語る。

そのように氏は、芸術作品の創造の過程から創造活動の創作者の知的活動やそれに纏わる再創造の営みやそれに対する社会の様相などよりも、自己に与える効果をなによりも重視する。そして、小林秀雄の心情をより唯物的に実証的に捉える立場を採る。そう、思い出そう小林の名言を:


「一切が疑はしい。さういう時になっても、何故疑へば疑へる様な概念の端くれや、イデオロギーのぼろ屑を信ずる様な信じない様な顔をしているのであろうか。疑はしいものは一切疑つて見よ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだろう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心というものが見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。」(神風といふ言葉について)昭和十四年*


ここで気がつくだろう。一つの事象に対して、どのように己が興奮したかを分析する。そして、それに他者の共感を感じて、より興奮する。これは、5W1Hの表現でしかない痴漢を激励する似非ジャーナリズムの卑猥な自己満足の終わり無きルーティンのポルノ表現でしかありえない。

被害者を哀れみて涙するのと、無差別殺人に喚起されて模倣するのと幾ばかりの差異もない。誰もが共鳴するものとは、いとも容易に同じ程の共感を持って反感を引き起こす。そこには、討議の方法としてのディベートによって即物的で複雑な問題の縺れを糸を解すように明確化して行く場合や、高度な政治問題を分かり安く大衆に問う二大政党制における二項対立による構造的な視野がある。

生殖でも何でもない行為とは、まさに大衆に向って投げ掛けられた娯楽と呼ばれる同情・哀れむ行為ではないだろうか。

同情とは、そもそも自己の感覚の中に、情報を自らのフィルターを通して変換して、疑似体験して勝手に思い込む行為でしかない。つまり、そこからは新たな知覚は生じないのである。それほど無駄な活動はないからこそ、これを大衆娯楽と呼ぶ。そうした疑似体験は、視覚でも、触覚でも、臭覚でも、味覚でも、聴覚でもそれは変わらない。

さて、上の今年限りの引退を表明したピアニストの件に戻れば、このピアニストのリサイタルが一体何を意味したかは、ここにて何度も綴っており、最後のフランクフルトの演奏会をも報告する事になっている。

しかし、今回の記事との関連で一言だけコメントしてみよう。想像するに吉田氏がタイトルをつけたらしい「明暗の世界が生む深み 律儀な演奏に境地を見る」事などは、どうでもよいのだ。それがベートーヴェンのものであれ、解釈者のものあれ、文化勲章受章者のものであれ、他者の疑似体験など気持ち悪くて仕方がない。

もし氏が一流のジャーナリストであったなら、もし日本に本当のジャーナリズムがあったなら、少なくとも伝えようとするだろう。なんら自らの感覚や心情では判らない、主義主張や世界観が理解できないところでの営みを:


「そして己の性慾以上に、疑えない他者のエゴイズム即ち反照が見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを平常時という。」(2008年)


共感などが生まれないからこそ、その対象の思考や行動を備に観察して、想像しなければいけないのである。その差異にこそ、創造の可能性が介在している。ステレオタイプな思考や観察には、創造力の飛躍する間隙など初めから存在しない。

そもそも、他者の行動を解釈して共感できる方がおかしいのではないか?効果に己が感じる結果よりも、行為者の思考や過程を尊重するのは何故なのか?そこにこそ精神の営みがあるからこそ、我々は時間を前に進む事が出来るからではないのか。

知的好奇心とは一体何なのか?



参照:
人為的ではない理想像 [ ワイン ] / 2008-06-20
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14
自己確立無き利己主義 [ 歴史・時事 ] / 2008-04-28
女子供文化の先祖帰り [ 文化一般 ] / 2008-04-20
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
形而上の音を奏でる文化 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-21
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
大芸術の父とその末裔 [ 音 ] / 2006-11-24
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
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二度目の挑戦のゲレンデ

2008-07-25 | 生活
昨晩、一週間空いて二度目のホームゲレンデ挑戦となった。今回は、アプローチなど準備を全て整えていた筈であるが、歩く靴を忘れてしまった。仕方がないので旅行用の靴で砂道を登る。

15分ほど登って、五時半過ぎには辿り着いた。既に、二桁以上のクライマーが岩に取り付いていた。二週間前に付きあってもらった岩場開発者はいなかったが、何人かは事情通のようであった。

挨拶などしている内に、痩せた男が声をかけてきた。顔を見て直ぐに、二三年前にバーデンバーデンで会の講習会に参加していた菜食主義者の男だと分かった。ユルゲンという名は忘れていたが。

停めた車の横にあった黒塗りのBMW5シリーズに道理で見覚えがあったと話した。四月あたりから頻繁に来ているようだ。

早速、確保をしてもらい、初めてのルートを試みる。*カンテラインあり、凹角あり、最後には外に貼り出した垂壁ありでなかなか変化に飛んでいる。

最後の所は、断念しようかと思ったぐらいであったが、なんとか乗り越えた。その後、ローティンの女の子が完登したのを見て、諦めずに良かったと安する。

驚くことに、今回もあまり腕の力を酷使していない。やはり足腰が日頃の散歩のお蔭で落ち着いてきたような感じがする。結局、力をもてあましながらも、上の男が壁の清掃作業などをしはじめたので、その日は終了とした。また来週がある。


*典型的な和製登山用語である。最近は独語誤用から英語化されているだりうから、エッジラインというのだろう。



参照:腹筋を鍛える夕方の運動 [ 生活 ] / 2008-07-11
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二つの発見の大ニュース

2008-07-24 | 歴史・時事
二つほど発見のニュースが紙面を賑している。一つ目は、ボスニア・セルニアの将軍カラドチチの逮捕である。EU各国は諸手を挙げて喜んでいる。

この民族主義政党の創立者であり、米国コロンビア大学で研究歴のある医学者は、既に1994年に国際裁判所へと訴追されていたようだが、紛争終了後も地下に隠れていた。

一説には、その当時米国との取引をしていた事実がニューヨークタイムズで1998年に流され、フランス政府もこれを囲まっているとの噂が絶えなかったことから、所謂ユーゴスラヴィア紛争陰謀説の元凶であり鍵を握っている人物といわれている。

さらに、セルビニアの国内の政治意識の変化の表れとして、EUはこれを受け取っているため、一挙に大きな山が動いた事になる。

これにて、ニュルンベルク・東京裁判後半世紀して起訴された将軍が正式にハーグの法廷で裁かれる事から、紛争へと至った「民族への罪」が慎重に裁かれることになるようだ。その要点は、人道に背く犯罪は、その実行犯ならず、その組織を司る高官まであらゆるレベルで裁かれることである。要約すれば、指揮権を持っていた人物がそのような犯罪を認知していながら、阻止する手段を講じなかった罪である。

もう一つの発見は、そうした官僚組織や政治組織の問題を扱ったマックス・ヴェーバーの「職業としての政治」の手書きスケッチがこのほど再発見されたことである。その存在は知られていて、ファクシミリとして研究者には馴染みのあるもののようであるが、この度スイスの古文書商の中継ぎで、現在の匿名の持ち主よりドイツのアーカイヴにオファーが出されたようである。

ファクシミリに写されていなかった頁の裏面などもあって、この文章の土台となる1919年のミュンヘンにおける講演の内容を知る重要な文献となるようだ。作者の愛人に関する個人研究のみならず、鉛筆で消されているようなスケッチは、社会学におけるセンセーショナルな発見と評価されている。

「職業として」のシリーズは、知的創造活動をも社会学的に考察するが、別の記事に眼が行く。ライプッチッヒシューレと呼ばれる代表画家のネオ・ラウフが高等専門学校を辞職すると言う。理由はそのマスプロダクトのシステムが気に食わないからだ。

芸術畠のことなので当然と思い詳しくは追わないが、ヴェーバーの時代にはまだ十分に現実化していなかった教育現場という創造性を欠く職業としての一般的な問題に違いない。
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受け継がれるモラール

2008-07-23 | 文学・思想
オバマ候補が選出されてから、その現場が見える記事「会えなかった・・・(涙)」が面白い。常連コメンテーターのヘルメスさんが伝える選挙戦の熱気は広範囲な読者に興味を抱かせる。

男性が多数のフェミニスト達のヒラリーからオバマへの乗換えがインタヴューされている。

「今の若者はなんだ。我々が若いときは、ベトナム反戦、公民権運動、ウーマンリブ、セックス革命、五月革命と学生が中心になって運動で社会を変革していった。しかし、今の若者には、パッションが感じられない。」

このように始まる活動的な米68世代の現状がそこに伝えれていて興味深い。

更に、

「団塊世代フェミニストは、驚くべきことに徴兵制度を復活されるべきだと言いました。とても極右的な発言だったので、驚いてしまいました」、

とあるように世代間の乖離では説明出来ないほどの政治的主張の差異が示されていく。一体、これは民主党支持者の中に見られるもしくはその世代のリベラルなグループに見られるどのような現象なのかと目が離せない。

「コミュニティーの奉仕ということで、公民権運動に携わって来て、デモとかに参加してきた。あの時の若者は、誇りを持っていたんだ。社会正義のために社会を変えようとする運動は、愛国心、またはコミュニティー精神から来るものだったんだ」

そして、このように60年代の解放への動きへの評価と共に、「自分のレガシーにしがみつく」歳を重ねた者の「最近の若いのは」への「回帰」を、一般的な評価として捉えられていく。

詳しくは、原文を読んで頂くとして、偶々机の傍らにあった先週の新聞の書評欄が目に入った。それはまさにそうした解放を運動した超一流の社会学者の言葉で始まっている。

「自分自身、歳を重ねれば信心深くなる疑いがある」

折りにふれこうコメントしているのは、ユルゲン・ハーバーマスである。そうした「疑い」は、彼の解放された主観的視点を持ったポスト形而上学的思考においても解かれる訳でもなく、世界認知と啓示認知の断裂が不可逆となるものではないと記事は続く。

批評されている書物は、ハーバーマス本人が後付けをするもので、イエズス教徒や有名なラッティンガー教授との議論を扱っている。そこでは、上記した米国の現状を十分に説明するだけの討議がされているようだ。

「宗教の理性」と「世俗の理性」の対照において、ハーバーマスは、「宗教を不可知論と学習の可能性として見る行為は宗教を道具化した敵対吸収行為とする事が出来るが、同時に世俗のポストモダーンの啓蒙的弁証法や自然主義的科学信仰としての理性敗北主義」をもって、自らの主観主義の立場を正当化する。

それは、現代哲学における新たな地平線へと至る「行為の反照」によって齎される世俗的理性への言及であり、同時にプロテスタンティズムにおいての、敗北が自立した自己肯定意識を目覚めと自己意識を先行する超越的存在を語る。

しかし、「戒律を離れた宗教学的理性」と「キリスト教的に伝達されるポスト形而上学的思考」とを明確に別けて考える事で、モラルの道具化した宗教がその世俗における行為である政治的結果として、「現実的世俗理性」が表れるのを外部の立場から観察している。

そうした世俗における理性が、歴史的視点を持たないところでは自己発展の力を失い、天人とも許さぬものにより覚醒されてこそ、また欠けるものによってこそ自意識を目覚めさせるとする構造が浮かび上がる。

そこにおいて意味論によって世俗的理性の限界が例示されるのは必然であり、不可知論者マックス・フレッシュの非宗教的葬儀の有名な経緯が挙げられる。

この辺りまでおぼろげながら、繰り返しあれやこれやと想像しながら読み進むと、ここ数年米国で生じていた社会現象がある構造を持って認識されてくるかもしれない。

そうして紹介した上のBLOG「虹コンのサウダージ日記」の記事に再び眼を移すと、なるほど「オバマの肖像画です。なんか、政治家というより、宗教家ですね、こんな絵だと。」と、その印象が綴られているではないか。



参照:
ハーバーマスと宗教 (Von TK)
教皇無用論のアカデミスト [ マスメディア批評 ] / 2007-05-10
教皇の信仰病理学講座 [ 文学・思想 ] / 2006-09-18
68年への総括の道程 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-20
近代物理教の使徒の死 [ 文化一般 ] / 2007-05-02
誤りの自覚と認識 [ マスメディア批評 ] / 2008-06-29
楽天主義が支配する時代 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-21
ブレッツェルピーの脚質 [ 生活 ] / 2008-02-07
Change! Yes, we can! [ マスメディア批評 ] / 2008-01-27
希望へ誘うオバマ候補 [ 雑感 ] / 2008-01-15
どやしの宇宙の摂理 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-07-19
コメント (6)

たとえ試飲が出来なくとも

2008-07-22 | 試飲百景
ギメルディンゲンの地所を五月以来初めて歩いた。ワイン地所散策した時以来である。その時同様、A・クリストマン醸造所に車を停めて歩き出した。強い風が吹く中、古城の表示を見つけて少し寄り道をしてみた。

チャペルほどの土台があるだけで本当に小さな場所が開いているだけだが、ハムバッハ城への見晴らしは良かった。

少しカペーレンベルクの地所を行くと背後にイーディックの地所が見えた。なかなか盆地状の土地が修道所などの建物の間に厳かに見える。

それから、メーアシュピンネンのマンデルガルテンの地所をかすめて戻ってくる。約三十分ほどの散歩である。予約してあったケーニヒスバッハSCと呼ばれる新商品とお気に入りのカペーレンベルク産の2005年シュペートブルグンダーを引き取る。

後者は予想通り既に売りきれていて、五月に試飲出来なかったので試飲無しの購入である。仕方がないので、近い内に一本を開けよう。2003年の実力を知っているので迷いはないが、只で飲めなかったのが少し残念である。

先代に尋ねると2008年も今までの推移はよいので、2007年の程度まで至るかどうかは判らないが十分に期待出来ると言う。今まで天候がハッキリしないのは問題ではなく、この調子で八月も晴れて陽が照れば良いのだと言う。今年は、九月まで長い夏になるとすれば問題ないだろう。

リッターヴァインの在庫がまだあってこれを試飲して購入した。今でもなかなか新鮮味があってミネラルの濃くが出て来ていて旨い。煮豚との今晩の一杯が楽しみである。

五月に茶室跡でピクニックした時にとても印象に残ったギメルディンゲンのオルツヴァインも購入した。とても食事に合わせ易そうで、9.2ユーロの価格だけが少し辛い。

ケーニッヒスバッハーSCは、上の一等地所イーディックのワインなのでその土壌の味が大変深みがあって、宇治茶のようだ。比較にギメルディンゲンSCを試飲させてもらったが、これも大変旨味があってよいが、食事には少し甘い。

いづれにせよ、2007年産のリースリングはとても素晴らしい。




参照:
ドイツ旅行記2008年5月(第6日目:5月8日)その1
(DTDな日々)
熟成する力関係の面白味 [ ワイン ] / 2008-05-30
期待十分な独赤ワイン [ ワイン ] / 2007-07-10
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高峰の穏やかな天候に

2008-07-21 | マスメディア批評
土曜日は何度も雨がちらついたが日曜日は好天となった。部屋の中に吹き込む清々しい風を青空の下で浴びていると、四千メートルの高峰の麓にいるような気持ちである。日差しが優しいのだけが違う。

昨日辺りからヒマラヤでの遭難が臨時ニュースで流れている。ドイツ人にとっての宿命の山ナンガパルバットでの遭難騒ぎである。

アルプス式の軽装備で挑んだ三人組みの隊長カール・ウンターヒルヒャーのクレパス墜落による死は既に報じられているが、残り二人の救出が出来ないので、茶の間をやきもきさせているらしい。

本来の計画からすると、新ルートからの登頂後スキーでヘルマン・ブール初登頂のルートを一気にスキーで下ってくる計画だったようだが、*それはならなかった。チロル出身のこの登山ガイドのホームページには彼の不安が綴られている。

ヘリコプターが着陸出来ないようだが、岩壁でもないので天候が悪いのだろう。

写真:ライン平原を望むフォルストのワイン地所の上のベンチ

*最新の情報では、残された二人は、ヘリコプターの援助に対して、一歩も引かず頂上に至った。そこからの大滑降は悪天候のために時間待ちとなった。睡眠用の酸素は使っているのだろうか?



参照:
Nanga Parabat Expedition (Karl Unterkirchner)
Rettungsversuch im Himalaya (ZDF)
精神錯乱狂想の神の座 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-10-25
エゴの覚醒と弁証の喧騒 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-08-19
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自殺志願の名誉死選択

2008-07-20 | 歴史・時事
先日来ドイツの自殺援助業者の違法性が連邦会議で討論されていた。その結果、違法性から商業化されることはスイスの場合のように今後ともない。

自殺援助と聞いて、多くの人は安楽死援助と混同するだろう。オランダでは人間の尊厳を尊重するために安楽死が合法化されているのは周知である。

今回の議論の対象となったケースは、裕福な比較的元気なご婦人の自殺の請け負い例であったようだ。当然の事ながら請け負い側の主張は、個人の自由を最大限に尊重する自由主義的主張のようである。しかし、実際にはそこでは個人の自由は抹殺されると反論がある。

つまり、安楽死の場合とは多く異なり、この場合高齢化社会における名誉の死が問題となっているという主張である。そしてその根拠となるのが合衆国の保健相が90年代前半に語った名言であるとされる:

人が死を迎えるときそれはその人にとって最も高くつく日なのである。老人に対して税金から14ダラー支出するが、赤ん坊に対しては僅か一ダラーしか支払われない。そしてその七割から九割は、最後の数か月に支出されるのだ。

要するに老人の自殺は絶えず、こうした社会に対する名誉の死であり、支払った年金も医療費の回収を期待しない。エルンスト・ユンガーが、フランスでは今回重要な文庫に納められた。この二つをして、2014年がまもなくやってくる高齢化の始まったばかりの今、1914年を想像してそうした名誉の死への憧憬を如何に避けるべきかが問われていても不思議ではない。

そうした名誉の死を、商業化することは出来ないのは当然として、それが社会の目的となる時を指すのである。

死を選ぶ若者を、公衆衛生と称して税金で補助して十三段階段に送り込むことも全く同じ功利性を目的とする行為ではないだろうか?



参照:
誤りの自覚と認識 [ マスメディア批評 ] / 2008-06-29
笑顔に想う社会の豊かさ [ アウトドーア・環境 ] / 2008-07-03
永遠に続く生の苦しみ [ 文学・思想 ] / 2007-12-09
吹雪から冷気への三十年 [ 暦 ] / 2007-11-11
親愛なるキーファー様 [ 文学・思想 ] / 2007-11-09
菩提樹の強い影に潜む [ 文学・思想 ] / 2007-06-16
暖冬の末に灯火親しむ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-18
即物的な解釈の表現 [ 文化一般 ] / 2006-03-23
高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13
キルケゴールの考え方 [ 雑感 ] / 2005-11-07
ここにいたか、売国奴よ! [ 歴史・時事 ] / 2007-01-17
海の潮は藍より青し [ 文学・思想 ] / 2005-08-28
ワイン商の倅&ワイン酒場で [ 文学・思想 ] / 2005-02-04
「ある若き詩人のためのレクイエム」 [ 文化一般 ] / 2005-01-30
鋼の如く頑丈で、革よりも [ 生活 ] / 2005-01-25
終わり無き近代主義 [ マスメディア批評 ] / 2005-09-03
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どやしの宇宙の摂理

2008-07-19 | アウトドーア・環境
今月は「どやす」記事から入った。やはり色々考察する事がある。それほどでなくとも自分がどやされた経験はどれほどあるかと考えた。雷オヤジに相当する父親はやはり誰でも最もどやされた相手であるだろう。

しかし、実際は具体例をあまりよく覚えていない。数が多かったのか少なかったのかなんとも云えないが、あまり印象には残っていない。寧ろ他人にどやされた事の方が印象に残っている。その当初は厭な印象を覚えたのは当然であるが、今は懐かしい。本人のいらち*な性格は変わっていないだろう。

その状況を考えれば、その怒鳴った人物の性質や気持ちがよく理解出来るからである。十代のその当時は、なんとせっかちな可笑しな男と思ったのだが、なんとなくその心情が分かるのである。それどころか懐かしく思うのは、彼がどやしてくれたお蔭で自分を取り巻く環境が少なくとも幾らかは今でも見えるからである。

それはどういうことかと云えば、その個人の性格や生い立ちによって家庭の中で口煩く云われていることでさえ、実際は自分の行動が他人にどのような影響を与えているかが分からないからである。謂わば、音の跳ね返らない無饗室の中で幾ら喋ろうが歌おうが暖簾に腕押しで頼りないのである。

特に何気無しにやっていることが、他人にどのような影響を与えているかを知るのは意外に難しい。自覚のない罪である。それが直接な形で感情渦巻くどやしとして反照されることによって、初めて自らの起こした影響を感じ取る事が出来る。

近代社会は、そうした感情的な反照を法秩序の中で、罰として反照する事で複雑化しているが、個人的な次元ではそれでは不十分な場合が多い。そのような感情的な反照を欠き些細な規約が数多く作られる社会になればばるほど、無饗室の頼りなさを感じて大声で叫ばなければいけない。

規約などはそもそも破るために存在するようなもので、自らの行動に対する反照を欠いた社会にあればこそ、出来る限り注目を集める大反響を期待した凶悪犯罪が好まれて履行される。

世界の何処の大都市においても他人への無関心は、その社会の寛大さとしてはかられる一方、自己存在の希薄さへの原因ともなっている。如何に他人と係わるかの方法は様々であるが、最も確実で価値があるのは自己の感情をぶつけることに他ならないだろう。

それがよいかどうかは、必ずや反照として戻ってくるのであり、宇宙の掟はそうしたものなのであろう。そもそも反照のない、ガスの抜けたビールのような、宇宙空間などは考えられない。そのようなものなら無い方が良い。

*関西方言



参照:
スーパーのレジにて (壺中山紫庵)
二つ目のお詫び状が届く [ 生活 ] / 2008-07-01
誤りの自覚と認識 [ マスメディア批評 ] / 2008-06-29
豚とソクラテス、無知の知 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-14
春雨じゃ,濡れて参ろう [ 雑感 ] / 2008-04-11
生への懐疑の反照 [ 雑感 ] / 2005-11-15
求められる明快な宇宙観 [ マスメディア批評 ] / 2006-05-25
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出来悪い企業の従業員

2008-07-18 | 生活
商業の最前線はよく知らないが、それでも英国ビジネスマンを初めとする西欧先進国のビジネスマンと接する機会は、生産業を中心に少なくはなかった。それらの多くは、独自のノウハウや技術力を背景に、その顧客の現場や問題をよく心得ていて、如何に需要を掘り起こせるかにその経験と知識がつぎ込まれていて、独特の立ち位置を確保していた。

久しぶりに、日本からの依頼を受けて、研究用の民生用機器を日本へと送る事になった。日本にて輸出入の全ての手配を整えていたので、日本の運送屋のフランクフルトの代理店から連絡を受けた。どうも、朝から昼までひっきりなしに電話を鳴らしたようだ。私は、こちらが必要とないと思う借金取りや未知の者からの電話には一切出ない習慣をつけているので、それでもあまりに鳴らすので電話線をぬいたりして措いたが、その後「依頼と連絡がある旨」のファックスが入り、こちらから電話を掛けた。

何かこちらが、物を送りたくて引き取りにくるのを待ち構えているようなそぶりで話が通じない。時期尚早だが、段取りを決めておこうと思ったので、電話口の頭の悪そうなふにゃふにゃ女が自ら言うように同じ事を五回も繰り返している。ちっとも埒が明かないので、こちらから質問するのだが、まるで聞く耳を持たんと言わんばかりに、また同じ事を繰り返す。こうなると読者も期待するように、筆者の何時もの癇癪球が弾ける。

「あんたがそんな説明も出来ない態度を取るなら、仕事はやらんよ」と声を荒立てる。すると「注文を受けるように日本とさっさと話してくれ」と言ってまた同じ事を繰り返す。こちらも馬鹿らしくなってきたので「決まったら、また話しましょう」と電話を切った。

何処の禄でもない日本の電鉄系の運送屋とはその名称は書かないが、実力のない運送屋がまた力のない代理店を使って、それなりの料金を日本で請求している事が窺い知れた。その背後事情は、フランクフルトの代理店が金にしたい部分を当方が手配してしまい、面倒な部分をやらされるのであまり収益が上がらないのだなと分かった。

顧客の要求に応えられるかどうかより以前に十分な料金を取りながら面倒な事は引き受けたがらない態度に、当方は直接の依頼主ではないが、その業務に対する信用など微塵も感じられない。早速、十五年以上前に使ったことのある業者に電話して、当方が他のフランクフルトの業者を使った場合の日本まで搬送の見積もりを出させた。

その電話口の男性は、当方の名前を尋ね、状況を認知すると直ぐに折り返し電話をしてきた。十分に事務的で、必要な質問に答える事が出来るこれぞ専門家である。想像するに、幾らユーロ高とは言っても日本の運送屋が出した見積もりよりも安くなっているだろう。

荷物の注文主には、こちらの代理店を「叩いた」事実と同時に日本の運送屋に価格の圧力をかけることを命じたが、どうなったであろうか?こうした顧客対応は、特に手配やサーヴィス業の場合、如何に仕事内容を熟知経験しているかの問題である。商業以外のいかなる世界でも習ったことしかない出来の悪い者ほど、まるで自分が日常営んでいるルーティン仕事の流れこそが世界の法則の全てだと言うかのように、その隠語の社会で生きているのである。

実力のない企業は結局こうした似非経験者を顧客の係りとしておくことになり、ますます売り上げは落ちて行くのである。未だに返事がないところをみると、日本の運送屋は改めてオファーを出す羽目になり、フランクフルトの代理店に見積もりをさせているのだろう。

運送屋などは山ほどあるのである。これをして独禁法は幾ら厳しくても厳し過ぎないと言う証明になっているだろうか?
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男が多いスーパーで思う

2008-07-17 | 生活
本日夕方に買いものに行ってある事に気がついた。春に日本でスーパーに行った事を思い出したからである。日本のスーパーはやはり圧倒的に女性客が多い。その理由を少し考えてみた。

やはり、都市部においても職場を持たない女性が多く俗に云う「主婦業」と呼ばれる専業主婦が多いのからだろう。ドイツにも決していないことはないが、日本でパートタイムと呼ばれるものをやっている人が多い。

それよりも何よりも、男性客が日本では少ないのが目立つ。しかし、ここ郊外型のスーパーでは勤め帰りの勤め人は少なくとも、夕方のスーパーはやはり男が多い。

その理由は判らないが、以下のような考察がなされた。

日本の男性は、時代が変わったとは云え、会社人間が多く、帰宅が遅く、飲み屋などに寄り道して帰りが遅いので、スーパに行く時間などない。

日本の女性は、仕事をもっている人が多くなったとは云え、やはりキャリアー職は少なく、多くはOLと呼ばれるものなので、社会的なそれ以上に家庭的な役割を担っている。

日本の独身男性などは、惣菜物を求めて寧ろコンヴィニエントストアーで多く見かける。

人の意見を聞いても、大体こうした社会的な特徴が浮かぶのだが、私など個人的には専業主夫を理想像に想う男性からすると、やはり日本は不思議な社会である。
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