Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2022年06月

2022-06-30 | Weblog-Index



カオスのおもしろさ 2022-06-30 | 音
ヴェニスのシャルドネ 2022-06-29 | ワイン
殆ど定刻通りの往復 2022-06-28 | 生活
1968年革命の雰囲気 2022-06-27 | 文化一般
想定が進む列車旅 2022-06-26 | 生活
到底至らない精妙さ 2022-06-25 | 女
合理的に往路を創造 2022-06-24 | アウトドーア・環境
悪魔に取り憑かれるか 2022-06-23 | 文化一般
洗礼のような仮死化 2022-06-22 | 女
オペラのメソード 2022-06-21 | 女
神聖な炎に焦がされる 2022-06-20 | 女
秋から来年を計画する 2022-06-19 | 生活
二年間の歴史の経過 2022-06-18 | 生活
膝を打つ予定調和 2022-06-17 | 生活
盛夏の様にはならない 2022-06-16 | 暦
濃いの薄いのと質問 2022-06-15 | 生活
全面対決の終焉のレーベル 2022-06-14 | マスメディア批評
失われたユダヤ音楽世代 2022-06-13 | アウトドーア・環境
快便ならずの生からの別離 2022-06-12 | 暦
人魚姫からのトランス 2022-06-11 | マスメディア批評
初めてのDBティケット 2022-06-10 | 生活
乾くまでは一日掛かる 2022-06-09 | ワイン
年数回だけの指揮活動 2022-06-08 | 文化一
かっと眼を開いて聴く 2022-06-07 | 女
大喝采のそのゆくへ 2022-06-06 | 女
多様性の音楽芸術環境 2022-06-05 | 暦
造詣を深める為の体験 2022-06-04 | 文化一般
専門的な値踏み感覚 2022-06-03 | 音
視神経に訴えるウイルス 2022-06-02 | 生活
谷の見晴らしの良い所 2022-06-01 | 試飲百景
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カオスのおもしろさ

2022-06-30 | 
マンハイム中央駅の十五番線に14時10分過ぎには立っていた。30分発だったのでそれほど早い時刻ではなかったが、フランクフルトぐらいで大きな遅れがあれば対抗策を打つためである。暫く待っていると表示が出て来て、10分ほど遅れの感じだった。先ずは一等席の場所が印刷表示とは異なり電光表示では反対向きになっていた。そこから三本ぐらいが入る順番に入れ替わりになる。一つはTGVでバーデンバーデン経由のマルセイユ行きだった。流石にそれが出ると南仏の女性たちが前に出る。声を掛けてみないと確認はできないが、様子を見ていると雰囲気から地中海の人たちで嬉しかった。車で動いているとこれだけのインターナショナル性は無くて、精々ベネルクス諸国の人が多いぐらいだ。名俳優タチの映画ではないが、これを時間速度を変えて映し出すと人の列が前に行ったり後ろに行ったり交代するのが見えるだろう。

そしてその駅内放送が勿論フランス語でも英語でも流されるのだが、そのカオスさは素晴らしかった。ゲーテインスティテュートなどの語学学校の試験ではそれが聞き取れるようになると外国人として住むためのドイツ語力として認定される。しかし、あのカオスの全てを聞き取るのは余程頭が冴えていないと駄目だと確信した。勿論自分に関心があることだけをそこから自動的に掴み出すという作業が味噌なのだろうが、情報とはどのようなことだろう。

月曜日の新制作「ルードンの悪魔」の評が出てきた。その音の情報氾濫をどのように扱うのか扱えるのか、勿論ペンデレツキの楽譜は上のホームの上の拡声の様なカオスにはない。しかし、作曲家本人が後年には指揮者ユロウスキーに「改訂版で演奏して欲しい」と語っていたように、初版版にはそれなりの過激性があったのだ。指揮者はその時には面と向かって初版版の方がいいとは言えなかったようだが、作曲家本人の当時の自分はその通りだったとする言質を取っていると語っていた。

音楽的に今回の制作の評価をしようと思えば、この改正の意味合いも考えなければ片手落ちとなるだろう。概ね好評で、大絶賛にも近い、しかし音楽的にも芸術的にも切り込んでいる批評は数少ない。私自身もプログラムにまだ眼を通してはいない。しかし当日現場では立ち会えなかった演出家のストーンと指揮者ユロウスキーのインタヴューもオンデマンドで確認した。

そしてこの作品の上演としては、これ以上のものは存在しないとすることに関しては異論の余地はないであろう。少なくともその時点でオペラのメッカのミュンヘンでの音楽監督指揮公演としては成功している。更にこの座付き楽団が現時点では世界の頂点にいることも疑いようのない事実であって、丁度前任者のペトレンコがベルント・アロイス・ツィムマーマン「ディゾルダーテン」指揮で大絶賛を浴びた状況に酷似している。さてその相違は何なのか?今回の制作がバイエルン州文化相が音楽監督ユロウスキーを賞賛するように、今シーズン上演のハース作曲「ブルートハウス」等を凌いで、歌劇場の最高の出来となったのかは議論の余地が既に生じている。(続く

Bayerische Staatsoper DIE TEUFEL VON LOUDUN (EN) ― 英語字幕版




参照:
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
殆ど定刻通りの往復 2022-06-28 | 生活
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ヴェニスのシャルドネ

2022-06-29 | ワイン
久しぶりにホフブロイハウスに足を運んだ。その前にグリルで食事をしていたので、ビールを一杯飲んだだけだ。0.5Lだけである。しかしやはり味は悪くない。但しあの喧騒はワイン祭りで凝りている人間には御免である。特に劇場が引けてから飲むにしても喧し過ぎて堪らない。それでも行く人はいるようだが、余程神経の強い人だ。やはり次行くとしてもビアガルテンが開いている時間に行きたい。ビアガルテンならばまた素晴らしいとこもありそうなので考える所である。少なくとも車を使わないというのが前提だろうか。

食事はグリルで済ました。小牛肉にレモンソース、アンティチョ-クとトマトの付け合わせで、満足だった。26ユーロぐらいだが、その価値はあった。小さなビールを二杯、それでは残念なので食事に合わせてイタリアの白を選ばさせた。ヴェネチアのショルドネで素晴らしく辛口が良かった。冷やしていたこともあったが、重さがないが食事に合う柑橘風の味も欠かさなかった。この組み合わせだけで価値があったが、そのあとのスフレにアイスコーヒーも素晴らしく、結局一人で65ユーロ程を消費した。決して安くはないのだが、劇場が終わってから食事が出来るのがありがたい。

郊外に宿を取って、短い距離を車で移動するにも、解放的に飲むことも叶わず、梯子までは出来ないので、それが最大の成果だった。但し嘗ての様に酔うことが楽しみではなくなったので、深酒する機会は減った。まさしくレッシングが語ったように、「悪いワインを飲むには人生は短か過ぎる。」であり、質を求めると量が減るのは当然か。その点ではホフブロイのビールは美味かった。

ダルマイヤーで購入したコーヒーは、最初はジャワのブルーマウンテンを選んだら、払う段になって39ユーロもしたので止めた。嘗ては日本ではブルーマウンテンしか飲んでいなかったので、やはり高いと思った。その代わりに通常価格のペルーアマゾーナスを購入。もう一つはケニヤのトップガクユイニにした。前者は密閉パックになっているので長持ちするが、後者は四週間ぐらいとなっていたので、夏の間にこの二種類の南国風のコーヒーを愉しめるだろう。さて次の訪問はいつになるか。ワインのテロワーの違いの吟味を日々の営みするようになって、コーヒーでもそれが面白くなったのだ。

贅沢感を味わいたいならフランクフルトのような市民の街ではなくて矢張りミュンヘンやロンドンのような王族文化の街の方が使い甲斐がある。ヴィーンなどもそれなりのものがあるのだろうが、やはりその経済規模が違うだろう。

壊したサイドミラーの鏡を発注した。純正ではないがOEMもので比較的良さそうだ。一番安いものは8ユーロからあり、アマゾンで三倍の価格なのだが、問題があれば送り返しなどもあり合えるのでそれにした。助手席側のサイドミラーがないとなによりもガレージ入れが面倒になった。



参照:
殆ど定刻通りの往復 2022-06-28 | 生活
時間無く昇天しそうに 2022-05-25 | 暦
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殆ど定刻通りの往復

2022-06-28 | 生活
列車にはWLANが使えるので、タブレットに有用なアプリを入れた。なによりも先ず、ミュンヘンにぎりぎりについた時に最も早いルートで劇場に迎える様にオンタイムの所要時間を計算してくれるものを入れた。中央駅で遅れても最後のどこかに何とか入れそうな到着時間が出た。出来るならそのような汗の掻くことはしたくがないが、80分近く遅れた場合の最後の可能性に賭ける為である。

その他にもDBのお得意様割引お試しカードを36ユーロで購入した。もう一度有効期間中に使いたいがベルリンにはいかないことにしたので未定である。しかし一度使ってみていいと思えば、新たに計画もするかもしれない。

土曜日の朝に走ろうと思っていたが、金曜日の夕方に安い燃料が出ていたので、急いで出かけるついでに短く走ってきた。週のお勤めはそれで終わった。次の機会はミュンヘンから朝帰りする火曜日以降である。汗も掻いたが足も疲れて故障箇所の痛みが出てきたので、月曜日にも靴に足が入らない様にだけはなって欲しくない。燃料はウクライナ侵攻以降では一番安く少しだけ入れた。これで暫く入れないでいいかもしれない。

さて、夜行で帰って来て、ライン河を渡る工事中の橋の細いところでサイドミラーのガラスを飛ばしてしまった。アルコールが残っているよりもやはり覚醒が足りなかったのだろう。直進性に問題があったか。ネットで部品はありそうなので自分で安く直しておく。

結果からすると、ミュンヘン着は15分程で、マリエンプラッツへの乗り換えも問題なく進んだ。ダルマイヤーに立ち寄る時間にも余裕があった。但しやはり暑かったので、街を暫く歩くだけでも車でのそれとはやはり違った。

上の修理代が20ユーロとしても、マンハイムでの駐車料金が23ユーロ、まだそれでも車で行くよりは安く上がったが、飲み食いしてしまうので、最終的にはあまり変わらなかったであろう。

但し車中のマスク着用が義務があり、その車両や車掌等によっては可也細かな注意があったりする。やはり時間帯とかいろいろな条件で引き締めかたなんかも違うのだろう。結論からすると、休憩無しの上演だったので、車で帰って来ていたら、21時30分には車を出せていたので、帰宅は25時30分頃になっていただろう。列車で帰宅したのは三時間後であった。

今回のような上演の時は安くなる限りは価値があると思うが、ミュンヘン往復は車の方がやはり都合がいい。更に遠いパリやハムブルクやベルリンの時はまた異なると思う。マスク着用では駄目だろう。



参照:
想定が進む列車旅 2022-06-26 | 生活
合理的に往路を創造 2022-06-24 | アウトドーア・環境
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1968年革命の雰囲気

2022-06-27 | 文化一般
「ルーダンの悪魔」の総稽古の報告が出ている。お勉強を進めて徐々に分かってきたのは、ペンデルツキ作のこれがハムブルクで初演された1968年の雰囲気が重要という事だ。物語は中世のフランスのジャンヌダルク様の魔女狩りでもあるが、勿論当時の権威主義を叩く68年革命精神が感じられる。既に結構な年齢であッた作曲家が前衛であろうとして様子が見て取れる。否聴きとれるのはエレキギターのサウンドなど全くのそれで、如何にも古臭く感じるのは当時を知っているからだろう。

今回の演出のサイモン・ストーンも1984年生まれであるから、当然それを知らない。そこで映されるのはMeTooなどで裁かれるネット魔女狩りのようである。

情報として1970年に実はシュトッツガルトの劇場の公演として二日間ミュンヘンで上演されたことがあるとなっている。二回目に上演した劇場の引っ越し公演になるだろうろうか。それで、この作品が旧来の道徳観念などに挑戦しているのでミュンヘンでは受け入れがたいとされていたのが、最終的にうけたというのである。そして制作報告マティネーではミュンヘンの聴衆の反応を試すようなことをユロウスキー共々語っている。このあたりも当時の雰囲気を分かっている者と知らない者では受け止め方が違うのを表していて若干危なっかしい。

またカトリック教会は、当時からペンデレツキが友人のパウロ二世のレクイエムを書いたように信心深い創作者ということで見逃していたという事情にも触れられている。要するに決してそうしたものでないという感覚が大切なのだが、分かり難いのだろう。

なるほど当時シュピーゲル誌が映画音楽をつけた芝居としていたように、その作曲への批判は強かったようだが、指揮者のユロウスキーはこの作品を最も重要なオペラとしているようで、これまた期待の反面、精緻な仕事にはなりえれないという不信感も既に漂っている。

お勉強を引き続きいているのが、未だどうも確信を持てるほどには作品の真骨頂は見えてこない。映画化されているサウンドトラックの演奏もよくないのだが、今回のユロウスキー指揮でどこまでよくなるのかである。一幕の一つの場が後に改訂版で付け加えられたのか映画では落ちているようだ。情景転換が早いのでそこも見どころらしい。

出かける準備は略整えた。最後に列車の中でその辺りに作品の核を見抜いていきたいと思う。留守録音の準備もしておかなければいけない。演出共々新音楽監督の真価を見せて欲しいものである。
Trailer zu DIE TEUFEL VON LOUDUN




参照:
Wenn man vom Teufel singt, Jutta Czeguhn, SZ vom 24.06.2022
想定が進む列車旅 2022-06-26 | 生活
悪魔に取り憑かれるか 2022-06-23 | 文化一般
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想定が進む列車旅

2022-06-26 | 生活
月曜日の計画である。列車で助かるのは往路にはじっくりお勉強できるので、その点では余裕がある。しかし列車の遅れに対応しなければいけない。ベルリンからやってくる列車を出かける前に先ずは運行状況をチェック。フラックフルト前で30分以上遅れているなら何らの手を打つ。マンハイムで20分程度ならまだどうなるか分からない。ミュンヘンで30分以内ならば何とかなる。18時着ならば、マリエンプラッツに向かってダルマイヤーで買い物をしてから劇場に向かっても、BR放送局の30分前の前番組には間に合う。

問題は一時間以上遅れた場合で、その時は一番早い方法で、劇場に直行である。オーデオンプラッツに下りりるか、チンチン電車で劇場前に降り立つか、マリエンプラッツから400m走るかだ。この一月中で最大の遅れは77分なので、その場合は開幕に間に合うかどうかとなる。前の列車の遅れで大分遅れていたようだ。

さて引けてからの食事も公共交通機関を見て考えていたら、劇場近くにも可能性はあるのだが、22時を過ぎていたら、ホフブロイハウスも候補の一つである。中央駅の周辺は月曜日には休みが多い。兎に角冬場と違って夏場は平日でもなんとかなりそうである。帰りはマリエンプラッツから中央駅に向かえば待ち時間もなく飲み過ぎで遅れることもなく順調に帰路に着けるだろう。零時発だからそれほどの時間もないことになる。四時間後の早朝には車を動かさないといけないので深酒も出来ない。

衣装はまだ決まっていないのだが、ミュンヘンは月曜日の予想はワイン街道よりも高温で落雷などが予想されているが、こうして行程が決まれば走る場合も何とか計算できる。手荷物もタブレットとノイズキャンセラーイヤフォーン、カメラ以外には最小で機動性を優先する。それで困ることはないだろう。全てが想定内で上手く運べば今後も列車を使う可能性が増える。慣れないので調べることは少なくないがピクニック迄の準備よりは楽である。

それ以外では、マンハイム往復の燃料を安く少し入れておくのと、タブレットの電源などももう一度確認する。恐らくタブレットだけ必要になるだろうか。イヤフォーンは往復の7時間や8時間は使える筈だ。

パン屋のプラムのトルテを購入した。酸味が効いていて、冷蔵庫に入れても食せたのが良かった。なぜかリースリングを開けて一人で大分飲んでしまった。なぜそこ迄酌が進んだのかは分からないのだが、一瓶を一人で二回以上に分けて飲むようになってから大分経つ。その前にビールを飲んだりはまた別口である。要するに味わって食事と飲む量は一定量を超えないようになっていた。勿論旨ければ止まらないのだが、特にコロナ禍に入ってからはそこ迄進むことは稀だったのである。お陰で食事も含めて少し胃を荒らした。これもここ数年なかったことである。



参照:
合理的に往路を創造 2022-06-24 | アウトドーア・環境
秋から来年を計画する 2022-06-19 | 生活
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到底至らない精妙さ

2022-06-25 | 
承前)初日に合わせて役作りをする。役に入るのには苦労しないが、自分自身を維持するのが難しくなるというのがアスミク・グリゴーリアンだ。即ち冷静に自らの表現を制御できる理性を保持する為の技術となる。彼女の舞台を経験している若しくはその稀有なタレントに関心を持っている者ならばそれが如何に大きな力の均衡の中で生じているのかを実感している筈だ。

当日朝は新たな遭遇となる事を、少なくとも六時間は準備時間を空けて、避けると話すのは、カナダ人のバーバラ・ハニンガンだ。彼女の飽く迄も精妙でクールな声の制御とその技術力を知っていれば、その様な心掛けは彼女の場合には殆どお呪いぐらいにしか感じないだろう。しかし新たなことは一切しない、新たなレストランにも行かないという。

彼女の公演に挑む態度は、その先生にならったように、プランAにBを必ず考えておくというのだ。容易に想像できるのは例えばその音程や経過のあり方で、精密機械以上に精妙にその声帯を制御するとなれば到底全てが思い通りには行かない。しかし、最初から目標をBの水準に合わせておいていたら到底Aには至らないというのだ。彼女の歌唱はそういうものである。

同時に映画の中で神経障害の老ピアニストをオールドバラで引退演奏会に引き出し、それに付き合う姿も映されている。要するにそれ程の細やかな神経が無ければ到底あのような芸術歌唱にはならないのだ。これは全く意外性もなく、楽屋には若いお兄さんのボーイフレンドが入っていて送り出している。そうした艶にも欠かない。

そのお兄さんがは彼女のお気に入りの衣装をまるで裁判官のガウンのようで好まないというのに対して、それだからいいと「ソクラテスが11人の裁判官に死を言わされるような儀式」であるので演奏会の衣装とは感じないとしている。繰り返すようだが彼女の舞台にそうしたオカルト的なものを感じる者は皆無だろうが、そのどこまでものクールな音楽への集中はそうして生じていることが知らされる。だから当日には全てに対してオープンに感受性を開いて最大級の集中で以て本番を迎えていることになる。

三人のソプラノを扱ったこの映画、当然の事乍ら三人の女性である。各々があまり競合する事の無い歌手で、其々に強みがあって、他の二人が真似のできない能力を芸を持っている。同時に各々がその限界領域で戦っていることは疑い様がない。それは最早業界でのキャリアとは無関係のところでの営みとなっている。

それは全て歌の炎を燃やすための営みとなる。やはり男性はそこ迄の情感との乖離と統合には至らないことが知れるような映像となっている。そもそもそこ迄細やかに表現を追求する男性は皆無であろう。芸術表現一般への新たな視野を拓いてくれる映画となっている。期間限定でネット公開中(英語インタヴュー、独仏字幕付き)。



参照:
管弦楽練習の立ち合い 2019-09-11 | 音
ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音
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合理的に往路を創造

2022-06-24 | アウトドーア・環境
来週のミュンヘン旅行準備を検討する。衣装の事が話題になっていたので、気が付いた。通常の様に車で往復するだけならば、無難に薄目のスーツを着て薄目のシャツで往復するだけだ。但しピクニックの用意などが重要になる。しかし今回は初めて列車を使うので、先ずは汚れも酷いのでラフな服装で出かける。ジーンズは必ずしも楽ではなく涼しくはないのだが、いざとなれば使い易い。

なによりも往路で列車の遅れから走るぐらいに機動性が要求される。その場合の靴とジーンズはやはり使い易い。地下鉄にも乗らなければいけない。汗も掻きそうなのでハンカチも重要だ。天候具合では帽子も欲しい。傘は要らないだろう。

考えないでいいのはピクニックやアイスボックスやおやつ類である。その代わり引けてから列車に乗るまでの間にゆっくり食事が出来るところを探しておかないといけない。早くても22時前からになる。出かける前にブランチとするのでその間は何でもあるだろう。

荷物は、書類鞄にタブレットやノイズキャンセリングイヤフォーンを入れて行けば事足りる。電源コードだけは考えておかないといけない。列車の座席を見ると帰路のコンヴァ―トメントは現時点で自分一人なのでそれに関しては心配していない。

上着は以前ならばダークなものを主にしたが、今回は天候に拘わらず明るいものでよい。服装コード撤廃でやはり可能性は増えた。出しものに合わせての考慮はまだできない。

発注したファクシミリ本が届いた。20ユーロもしたのでそれ程安くはなく、どこかでコピーした方が安いだろうが、取捨選択して読むよりも、作曲家ジンガリアのアルピニストとしてのその人となりを掴みたいのでぱらぱらと読んでいく方がいい。更に19世紀終わりごろのアルピニズムを実感として感じたい。古いものではマッターホルン登頂とかその手のものしか読んだことはないので、その時代の雰囲気も知りたい。

先ずはちらちらの山名や写真などを見て、そのコースの多くは現在はアルプスのクレッターシュタイクのクラシックコースになっているようなところが多い。クレッターシュタイクとは既に登路が整備されていて、ワイヤーに身体を結び付けて、梯子や杭の上を動けるところである。しかし一目ルート取りなどもよい感じで、作曲家としてのセンスもそこからなんとなく分かるような気がする。登攀の新ルート開拓も先ずはそこに路を拓いていく動機づけと、そして下からの観測で想像を逞しくして合理的な路を拓いていく創造性が必要となる。



参照:
失われたユダヤ音楽世代 2022-06-13 | アウトドーア・環境
悪魔に取り憑かれるか 2022-06-23 | 文化一般
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悪魔に取り憑かれるか

2022-06-23 | 文化一般
「ルードンの悪魔」のお勉強を始めた。現在のところ総稽古の写真等が出ていて、演出にもある程度の予想が付くようになった。

先ずはショットの見本楽譜を捲る。クラスターの使い方が目に付く。そして歌詞と台詞をぶっつけてくる書法である。微分音に関しては先月のハースの2010年代の作品と1968年の作品では四十数年の間隔が空いていて比較のしようがない。

前者もハースが語っていた長短音楽システムの中で解決され得なかったディアローグの瞬時の変化が大きな課題とされていたが、ここでは台詞として上手にそれを逃げている。その分バス音が残るだけの繋ぎとなっていて、些か粗っぽい解決法にしか思えない。

Krzysztof Penderecki: Die Teufel von Loudun / The Devils of Loudun (1968-9)

初演が委嘱作品としたハムブルクで1968年に初演されている。そして映画化されてヤノフスキー指揮の演奏で残っている。その映画化では歌手のトロイヤノスの大きな眼が主役になっている。Wikiによるとその歌謡の書法に関して非難していたとあるが、今回の歌手ステユンディーテには問題がないように思った。演出写真を見ると中々当たり役になりそうな気がする。それはザルツブルクでのエレクトラでも同じだったので、役作りをしてしまうと歌よりも独特の雰囲気で役よりも歌手が前に出てくるようなキャラクターがあるからだ。病的な感じが悪魔に憑りつかれたり、エクソシストの話しには似合う。

ポーランドのペンデルツキがドイツ語で書いているのだが、初演後にも改正されて出版されているようで、実際に初演されて様々な問題が見つかったのではなかろうか。その一部始終を想像させるような映像制作であって、今回はそれを流した。今でもそれが代表的な映像のようだ。その直後の再演はシュトッツガルトで成功していて、可也再演されている作品のようである。

しかしそのヤノフスキー指揮の音楽は、その指揮者の代表的な仕事であるのだろうが、その演奏を聴くとまるで今の一発芸の出所はここにあるような演奏をしている。やはりペンデレツキとの近親性があるのか、音楽表現がそのままの感じだ。

そして今回支配人のドルニーがどうしてこの作品のミュンヘン初演を行わないといけないとしたのか、まさしくそれが今回の公演の要旨であろう。なるほど五月のハース作品でオペラの歴史の現在までの頂点として最初と最後を囲んだことになる。今後はその間にモーツァルトとかの他の頂点と共に中継点を打っていきそれを繋いでいくようなコンセプトになるのだろう。その中で一体この作品がどのような位置づけになるのか皆目分からない。

オペラのメッカミュンヘンで上演する限りは、再演ものならば少なくとも音楽監督が指揮するとなるならば、その作品演奏の最高峰となるようなものが求められる。しかしどう考えても、ユロウスキー指揮でそこまで精妙な演奏が期待されるでもなく、そのような楽譜でもないだろう。ここが最大の疑問点。



参照:
バタバタしないように 2022-05-11 | 料理
「シーズン最高の初日」の意 2022-05-24 | 文化一般
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洗礼のような仮死化

2022-06-22 | 
承前)女性の音楽家は何人も知己がある。正直よく分からないところもあった。それは今回の映画で描かれるオペラ歌手の仕事ぶりを観ると納得できる。なによりも役作りというところで、殆どトラップして仕舞っていて、カーテンコールがあって打ち上げでも戻っていないというエルモネーラ・ヤホの語りがある。

舞台では、蝶々さんの自らの動きをその場面に入りながら距離感を測ったりしているのだが、座って床の手触りや足でその風合いを感じている。それをしてまるで動物のようでテリトリーなんだと語っている。

ここで考えてみれば分かる。彼女が扮する役柄である。スタニスラフスキーシステムなどを出さなくても、イタリアの往年の歌手が語る様に炎を燃やして、自らがその役に憑依しない事には聴衆にはその信憑性や迫真性には及ばないことになる。

その炎によって自らも焼き焦がすこともあり得るだろう。まさしく復活祭の「スペードの女王」をキャンセルしたアスミク・グリゴーリアンの事情はこれで察することが可能になる。その演じるべきリザは、バーデンバーデンの演出ではナイフを持ったヘルマンを受け入れ、許婚とベットで縛りプレーをして、その後にヘルマンにバスの中で絞殺される。その間にサロンでロココ劇を演じる。それが全て音楽的な要求として求められた。求めるのはキリル・ペトレンコだ。自らを保つのが難しいと語るグリゴーリアン、一体どれほどの心理的な負担が掛かることか。要するに、その都度洗礼で水に沈められる様に、一度仮死化されるようなものだろう。

今迄中々実感が難しかったのはまさしくそこで、舞台での芝居ならば台詞によるその効果しかないのであるが、オペラの場合は更に強く直截に働きかける音楽の力がある。その効力も、ヤホが上で示していたように聴覚のみならず触覚とか、視覚や臭覚全てにおいてよリ敏感な傾向のある女性歌手においては男性が感じるよりも強く影響している可能性が高いのである。

だから先頃のヴィーンの「マノンレスコー」での登場で、謂われるほどの声ではなくてメディアが作った虚像とするような批評には真向から反論して、こちらはそれだけ準備してその都度全身全霊で演じているのだから評論する方も少しは準備をしろとSNSに書き込んだ。

ミュンヘンの「椿姫」の最終日の幕の裏では当時の支配人バッハラーが迎えて、ヤホが「キャンセルするぐらいなら死んでいた」というのは職業的な倫理観で上述の炎とは異なるかもしれない。しかし、精神的な活動としてこうした大舞台で主役を演ずる歌手は全身全霊の活動であるとともに、そうした職業的な責任感を担っていることは間違いがない。

そして、バーバラ・ハニンガンがやはり同じ初日当日について語っていて、我々は余計にそうした拘りを感じることが出来るのがこの制作である。(続く)



参照:
日本趣味とか極東ミックス 2021-04-14 | 文化一般
根源のフェークニュース 2022-05-10 | 文化一般
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オペラのメソード

2022-06-21 | 
承前)三人のスター歌手を描いている。その導入に嘗ての名歌手カラ・ガヴァッツィを扱いそのインタヴューを最後に持って来ている。そこで彼女は語っている「舞台の上で自ら全身全霊でなければ聴衆は泣かない」と、それが音楽に奉仕するということと話す。聴衆を泣かせるためには歌手が泣かないと駄目、でもしゃくっては駄目で、言葉で泣くのだと語っていて、同じことを「声が出なくなるから要注意」とカラヤンの「バラの騎士」を観ながらにアンナ・ブロハスカが語っていた。

この一連の行いはスタニスラフスキーシステムと呼ばれる演劇メソードにも準拠している。芸術音楽表現であるからそのフォームを重視していけば表現されるという考え方の対極にある。正直オペラにおける音楽表現と舞台演出表現との関連の中で、歌謡表現が至らないのは作曲家が悪いと思っていた。しかし、それが部分否定されるのも先に言及した「スノークイーン」でのハニンガンによるイントネーションの修正でも証明されていた。

そうした演劇の処方がオペラ舞台で活かされているのは、同じハニンガムが歌ったパリでの「ペレアスとメリザンド」の演出家ヴァリスキーの稽古指導風景にも捉えられていた。または「修道女アンジェリカ」の稽古時に演出家でヴィーンのフォルクスオパーの支配人になるロッテデベーアの仕事ぶりが当時の新聞にも書かれていた。コンヴィチニ―の弟子乍新機軸による演出を良しとしないとあり、ここでも指揮者と歌手の間での裁定が大きな意味を占めたことが分かる映像となっている。そもそもハニンガムまでの読み込み歌い込みをすれば、少々の演出アイデアでは到底その探求には追っつかないに違いない。ハニンガムは、ミュンヘンのペトレンコ体制初期に「ディソルダーテン」で大成功をした。

さて三人目のグリゴーリアンは、数週間後にザルツブルク音楽祭で「三部作」を通して歌うことになっていて、既に稽古が始まっているだろうか。そこでは通常とは異なり「ジャンニスキッキ」から初めて「修道女アンジェリカ」で終える。ロイの演出以前にその声の使い方を考えたが、この映画を観てまた別の視野が生まれた。

それ以前に、こちらは深い痛みを味わった復活祭「スペードの女王」キャンセルの意味合いを改めて考えることにもなった。なるほどそのあと5月のストックホルムに続くフランクフルトでの「フェドーラ」再演もキャンセルとなった。しかし復活祭の方は新制作なので新たに役作りをするので心理的に出来ないと断りを入れたと聞こえた。その場合は、この映画のタイトル通り「炎を燃やす」となると、それは大変な投身となることが示されている。

以前に制作されていた「オペラ、仮借の無い世界」で描かれていたように、ここでもその舞台恐怖心が語られている。「サロメ」で一躍世界に名前が響き渡ったあとの最初の新制作「イオランタ」をフランクフルトで初日を為した節、初めてメタブロック錠無しに成し遂げたというのであった。(続く
Oper - Das knallharte Geschäft




参照:
どっちでもよかったんだ~ 2022-03-10 | 女
プロ中のプロの呟き 2021-08-23 | 女
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神聖な炎に焦がされる

2022-06-20 | 
「神聖な炎」と題された映画がネット公開された。独公共放送局などが制作としていてまたもNHKが入っている。予告編などは観て三人のスター歌手を扱っているとは知っていたが、全編を観て驚いた。先ず1時間30分を超える本格的な尺である。最後に明かされるのはアルバニア出身のエルモネーラ・ヤホを軸に、2017年から2019年頃にカメラを回している。2021年制作になっているのはコロナ期間で公開が遅れたのではなかろうか。そしてなによりもヤホの大きなプロジェクトを軸にしようと思っていたようだが病気で取り止めになったとあった。

二人目で登場するのがバーバラ・ハニンガンで作曲家のアブラハムセンの「スノークイーン」初演の稽古風景が素晴らしい。「アイス」のイントネーションをアメリカ人の彼女が直して、作曲家が膝を打つ。そこ迄は楽譜化出来ない。そしてそこ迄やるから、ラトル指揮でルツェルンの音楽祭であんちょこに合わされると作曲家も怒り、歌手もついて行けなかったと思う。ラトルの堕落でしかなかった。

よって取材の多くはミュンヘンの歌劇場で行われているが、三人目のアスミク・グリゴーリアンは来年デビューするので映像は大成功のザルツブルクの「サロメ」とフランクフルトの「イオランタ」が軸になっていた。

つまり映像では制作の切っ掛けはCD録音を聴いてとなっているが、最終的にはキリル・ペトレンコ指揮「三部作」から「修道女アンジェリカ」にフォーカスが当たっている。そこで三場面程はペトレンコ指揮のピアノ舞台練習風景が映されている。これだけ長尺でペトレンコがヤホと英語で話し合っている内容まで紹介されていて貴重であり、とても興味深い。

その公演は、オペラ上演として初めて二回観たものだったのだ。それ程気になっていたからである。なんと言っても初日のラディオ放送でもヤホの歌が伝える感情的な訴えかけがただものではなくて、そのような体験は初めてのものだったからである。

だから彼女の歌から映画が出来たことは、それを知っている者は誰も驚かないだろう。制作者はいいセンスをしている。そして初日シリーズ二日目に出かけた時は、弱って声が出ていなかった。その時はペトレンコが管弦楽指揮でカラオケぐらいに歌っていた。だから翌年の再演でも出かけたのであった。

練習風景では、「ピアニッシモが舞台でも聴こえる」と大劇場のミュンヘンでの不安を語る歌手。それに、「勿論だよ、僕は引き下がるから」と答える指揮者。「アイラブユー、ファンタスティック」と喜ぶ歌手に相好を崩す指揮者。「私達理解し得ているわね」と歌手。ここだけでもあの公演の成功を知っていれば、納得させられるものである。勿論当時はそんな舞台裏の事などは一切出ていなかったのである。(続く
Ermonela Jaho interpreton “Sour Angelica” në Mynih - Top Channel Albania - News - Lajme



参照:
ミュンヘンに通った甲斐 2022-01-26 | 文化一般
不覚にも嗚咽が漏れる 2017-12-19 | ワイン
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秋から来年を計画する

2022-06-19 | 生活
秋にベルリンに行く計画をしていた。列車のパス割引を使ってである。音楽祭があるから、ベルリナーフィルハーモニカーをキリル・ペトレンコが指揮するようになってからシーズンで一つの山椒のような小さな寂びとなっていた。今年もダルラピッコラの小オペラ曲を演奏会上演するので興味があった。それ以上に最終日のフィルハーモニーでティテュス・エンゲルがジャズメンとと座付き楽団との実験的なフュージョンをするのでこれほどの機会はないと思った。しかし前者が土曜日に三晩目を終えて日曜日の夜が空いてしまう。劇場でバレーとかあるのだが、昼間美術館などを歩き回って疲れるだけだと思う。

なによりも二泊四日にしても列車が時間が掛かり過ぎる。往路は五時間足らずでも、復路は八時間などはありえない。そもそも列車で行こうかと思ったのは車を飛ばしても650kmをどんなに頑張っても七時間ほど掛かるからで、ワイン街道からはロンドンとかリヨンとかヴィーン並みに遠い。そもそも先週末にも出かける準備もしていた。

費用も滞在費が嵩み、旅費も150ユーロ近く掛かる。要するにミュンヘンに行くよりも余程価値ががなければ遊びには行けない。慣れではなくて実際に遠い。飛行機で飛んでも日帰りが出来ないのがベルリンで、ミュンヘンは行動時間14時間ぐらいのお出かけで済ませられるが、睡眠時間を考えると日帰りできるのは15時間超が限度だ。即ちそれよりも遠いところに出かけるには、宿泊しても睡眠時間などに影響を与え、それなりの無駄な時間が出来るということである。やはり二泊ぐらいでの往復も負担が大きい。年に一度ぐらいはと思うが日程などが合わないと難しいと思った。ミュンヘン通いも遠いと思ったが、やはりそれは大分違う。

もしエンゲルの演奏会が日曜日ならばなんの躊躇もなかった。フィルハーモニーのサイトにはミンガスの写真しか出ていない。ドイツェオパーの方には同じ大きさでエンゲルの写真が出ている。主催者がフィルハーモニーとは違うからだが、来シーズンにでももう少し大きな出番が欲しい。

更なる定期演奏会の予定を見て、来シーズンの夏のツアーの裏プログラムを探った。一番の可能性は、復活祭で一日だけやるシェーンベルクの変奏曲のプロだと思う。その次にはリゲティの二曲とスルンカの新曲とドビュシーの「海」があるが、これは新曲の出来が分からないと他所にはもっていけない。

メンデルスゾーンのエリアスもあるが、これならば千人の交響曲などのプログラムにも繋がるか、しかしペトレンコがメンデルスゾーンをレパートリーにしたのは支配人に言われたからでしかなく、その解釈に不安定さがある。シェーンベルクのプログラムはベートーヴェンも入るのでベルリンで一月に三回、バーデンバーデンで一回だけの演奏では勿体ない。これが裏プログラムとすると表は何になるのか?極東旅行も考えれば「英雄の生涯」辺りとなるのか?



参照:
年数回だけの指揮活動 2022-06-08 | 文化一般
髭剃って書き替えよ 2021-01-18 | 音
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二年間の歴史の経過

2022-06-18 | 生活
夜中は窓を開けて就寝した。寝室だけ閉めておいた。それでも明け方までトイレに立つ用もなかったので、それ程冷えなかったのか、それとも汗を十分に掻いていたかだろう。ヴルストサラーダにしたのヴァイツェンで喉を潤した。リースリングのいいのも一口飲んだがやはり甘さを感じたので魚貝の方が合うだろう。カレーを利かした沢蟹とヌードルぐらいに合わせてみるか。

二年も経たないうちに歴史化することもあるようだ。2020年11月のベルリンでの演奏会だった。そして自分自身の記憶にも誤りがあった。中継されたのロックダウン最後の演奏会で、定期演奏会ではないアンコールとしてジョンケージ作曲4分33秒が演奏された。その映像が公開されてが世界的にとても話題になった。特に音楽舞台関係者への共感はとても大きかったようだ。

コロナ禍最初の夏を越えて、そして何とか秋頃からは徐々に活動を始めようとしていた時に、次の大波がやってきていたのであった。ペトレンコは、音楽家が聴衆の前で演奏してこその音楽表現であるということをもう一度この曲で「聴衆がいなくなった、演奏家もいなくなる、誰も音を出す人がいなくなる。」とするメッセージを一つも音が鳴らされないこの曲で示した。世界中で大きな反響があった。

しかしこの間に記憶も薄れ、この事象に正しくコメントできる人が少なくなってくる。その背後事情も定かでなくなってくる。如何に記録が、ジャーナリズムが大切かが分かる。アーカイヴとして、第一時資料が残っているだけではフェークニュースを駆逐不可能なことが分かる。

上の演奏会10月31日の数日中に次の演奏会が開かれる予定だった。フランクフルトでの合衆国お披露目ツアーへの壮行音楽会が予定されていた。プログラムは、ヴェーベルン作「パッサカリア」に続いてメンデルスゾーン作交響曲一番、ブラームス作交響曲四番がオリジナルで、コロナ配置の制約からシェーンベルク作「浄夜」に続いてブラームスの初演版に替えられて演奏される筈だった。

結局2020年2月のラフマニノフ作交響的舞曲の最後の銅鑼の音を最後にペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの生演奏を再び聴いたのは2021年11月の同じフランクフルトのアルテオパーでの「オベロン序曲、ヒンデミートのメタモルフォーゼン、シューベルトの大ハ長調」あった。その時は、それを壮行演奏会として東京を含む極東演奏会に出かける予定だったのである。



参照:
ロックダウン前最後の演奏 2020-11-01 | 音
響くやり場のない怒り 2020-11-05 | 音
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膝を打つ予定調和

2022-06-17 | 生活
前夜は気温が落ちなかった。それで小走りを断念した。翌朝を狙った。予報では一時お湿りがあって八時ごろまでは摂氏20度以下だったが、直ぐに晴れ上がり帰りの車では28度になっていた。しかし陽の射す角度は背中からなので、林の間の坂道でも結構陰があった。お陰でそれ程熱く感じることもなく、発汗も適当な量であった。これならば土曜日の早朝も大丈夫かもしれない。

久しぶりの朝走りだった。最後は丁度一年前ほどだった。どのような感じかを忘れていたが、準備体操をしていると走れる感じになってきた。勿論ベットの中で十分に目を覚ましておいた。ペースも落としているので心肺系に大きな負担がかかることもない運動量であった。この程度の小走りなら問題がないだろう。それでも朝走りは腸に活力を与える。便意を催して、朝からすっきり快便である。これは明らかに利点で、早朝に時間さえあれば午前中から気力十分だ。

反対に夕方走ると、食事も遅くなり、就寝も遅めになって、どうしても午前中には調子が出ない。両方いいところ取り出来ればいいのだが。

走りながら考えていた。チャイコフスキーの交響曲五番が予定調和的に最後の運命の動機で伏線回収されると読んだからだ。昨今多く使われている交響曲で伏線回収というのに違和感がある。どこがおかしなのだろうと考えた。勿論創作者は動機が浮かんで、フィナーレが決まって構成に頭を働かせば、伏線を巡らすことにもなる。当然である。

交響曲の構成があって、構想があって、でもこの劇用語はおかしく感じる。気が付いたのは、チャイコフスキーが初演からとても評判だったのにこの交響曲を失敗と考えた事実である。恐らくこの交響曲ではその形式主義とも思われるようなその落とし方があまりにも「回収」と感じられることで失敗と考えたのだろう。

それをTVドラマと比較すると分かり易い。一時間とか二時間のドラマなどを観終った後、膝を打って、ああそうだと思うようなエンターテイメント性がある。舞台での芝居を考えれば更に分かり易いかもしれない。膝を打つような芝居は商業芝居ぐらいだろう。

劇場映画になるとやはりそれだけでは済まないだろう。エンタメ音楽の場合でも、「ああ、期待したものが楽しめた」で上出来なのだ。所謂名曲コンサートなんて言うのはそういうものである。チャイコフスキーがそれだけの交響曲を書こうとしたとは思われない。

このことは古典や名作などの繰り返しの上演にも付き纏うもので、最初から期待通りに上演されるようなものならば、何ら劇場効果などはそこに存在しない、再演の必要などないということに相当する。



参照:
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
最期に開かれたのか? 2022-05-16 | 文化一般
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