Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年03月

2007-03-31 | Weblog-Index



インサイダー情報の価値 [ 試飲百景 ] / 2007-03-30 TB0,COM0
黄色の自動車で配送? [ 生活 ] / 2007-03-29 TB0,COM02
タールの石切り場訪問 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-03-28 TB0,COM02
初物ベアーラウフの美味 [ 料理 ] / 2007-03-27 TB0,COM0
ノアのワインのよい心地 [ ワイン ] / 2007-03-26 TB0,COM3
教義化された聖痕の治癒 [ 文化一般 ] / 2007-03-25 TB0,COM02
日常自然環境への触手 [ 音 ] / 2007-03-24 TB1,COM2
寒の戻りの観天望気 [ ワイン ] / 2007-03-23 TB0,COM5
18世紀啓蒙主義受難曲 [ 音 ] / 2007-03-22 TB0,COM3
役立たずの旧ヨーロッパ [ 雑感 ] / 2007-03-21 TB0,COM0
映像投稿ポータルの価値 [ マスメディア批評 ] / 2007-03-20 TB0,COM0
強かで天真爛漫な振舞 [ 女 ] / 2007-03-19 TB0,COM0
絵に画いた牡丹餅 [ BLOG研究 ] / 2007-03-18 TB0,COM0
滅私奉公と勧善懲悪 [ マスメディア批評 ] / 2007-03-17 TB1,COM0
アーモンドの咲く里に [ 試飲百景 ] / 2007-03-16 TB0,COM12
2006年産の買付け計画 [ ワイン ] / 2007-03-15 TB0,COM02
偉大なグランクリュを評価 [ 試飲百景 ] / 2007-03-14 TB0,COM4
迎撃構想の世界戦略 [ 歴史・時事 ] / 2007-03-13 TB1,COM6
ライカ社のエルンスト二世 [ 雑感 ] / 2007-03-12 TB0,COM0
イスラム帰化申請の踏絵 [ 生活 ] / 2007-03-11 TB1,COM0
臆病風に角笛が響く時 [ 雑感 ] / 2007-03-10 TB0,COM0
天使が喇叭を鳴らす所 [ 生活 ] / 2007-03-09 TB0,COM0
遊び心のエゴイズム賛 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-03-08 TB0,COM7
ドイツワイン三昧 I 2006年 [ ワイン ] / 2007-03-07 TB0,COM5
光を背にした紫色の唇 [ 雑感 ] / 2007-03-06 TB0,COM0
風が吹けば、気が付く [ 生活 ] / 2007-03-05 TB0,COM0
緑のシンプルライフ推奨 [ 女 ] / 2007-03-04 TB0,COM0
無色、要・取り扱い注意 [ 生活 ] / 2007-03-03 TB0,COM0
踊り場で逡巡する隣人 [ 女 ] / 2007-03-02 TB0,COM2
イエス家の三つ以上の棺 [ マスメディア批評 ] / 2007-03-01 TB0,COM2

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インサイダー情報の価値

2007-03-30 | 試飲百景
ドイツ語でヴァインプローべと呼ばれる試飲の価値は、様々なワインを試せることにある。同時に情報を得て、専門家から直接学ぶことが出来る。イタリアワインなどもインサイダーにしか分からない情報があり、それを見つけることが出来ないとなかなか良いワインに出会うのは難しい。これは、ドイツワインでも同じで、ネゴシアン制度が歴史的に発達して世界の津々浦々まで同じ情報を共有させられているフランスワインの世界とは大きく異なる。

そうしたヴィンテージとグランクリュとシャトーだけで価値が決まるフランスワインの単純さは、パーカーの点数システムと変わらず、それだから米国の富豪も中共の汚職高官も同じようにブルジュワージー精神を満喫できるのである。

最近も店先で、高名なワイン評論家ヒュー・ジョンソンが、寧ろその価格設定や彼個人の味の好みからして ― これらは我々愛好者にとっては心強い両視点である ― あまり話題にしないワインを特注して注目していると聞いた。やはり、独高級ワイン機構VDPのグランクリュの今後の評価の左右に繋がっているように感じた。

しかしながら、土壌を十分に把握することそれだけでは、その評価への取っ掛かりであって、その価値の評価にはあまり役立たない。なぜならば、醸造の技術やヴィンテージの影響さらに商品のコンセプトが、その出来を定めるからである。

そこには、インサーダー情報を知れなければ、専門業者でもなかなか判断がつかないものがある。文字通り門前の小僧として月謝を払い続けて初めて、リースリングにもボルドーやブルゴーニュワインの試飲以上の困難が伴うのを知るのである。その反面、投機的な価格高騰はある程度抑制されるだろうと期待している。況してやその収穫量からして、その売上高は限られており、その真価を広報して儲けに転化できる可能性は限られているようにも思われるがどうであろう。

以前は、細かくアインツェルラーゲとして指定されていた地所は無視されて来るようになっており、評判の悪かったと言われる情報過多のエチケットにはだんだんと提示されなくなる。つまり、醸造者のセカンドラベル化が進み、より大きな世界市場でブランドとしての売り込みが計られる。

試飲時に、そうした裏情報が出難くなる醸造所は、必ずや様々な問題があるようで、それらのラベルからはグランクリュであろうともあまり価値のあるワインは生まれてこない。

プファルツで最高の地所と呼ばれるキルヘンシュテュックですら、その自然の恵みを十分に運用出来るかどうかは別の問題である。甘口の長期保存のグランクリュ・リースリングを醸造することもあれば、エルステス・ゲヴァックスとする外国人には不親切な名前のカテゴリーで世界最高の辛口リースリングワインを醸造することもあれば、蔵出し酒場で郷土料理に華を咲かすこともあるのだ。

しかしこれらの地所は、ドイツ屈指の土壌であって、その製品価値とはまた異なるのである。

写真上:キルヘンシュッテュック上部からフォルストの教会を臨む。
写真下:イエズィーテンガルテンから、ウンゲホイヤーを止める壁を右にキルヘンシュッテュックを臨む。
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黄色の自動車で配送?

2007-03-29 | 生活
日本向きに荷物を二箱を発送した。60CM四方以下の大きさで、大小其々、16.4KG並びに9.5KG と、独ポストDHLの料金表では、82ユーロと52ユーロとなる。つまり5KG 以下ならば21ユーロで、それを越えて10KGまでと20KGまでの三種類の料金に分かれている。

この20KGの大きさは、一人の配達人が運べる重量であり、また客が郵便局へと持ち込める重さの限界であろう。飛行機のチェックイン荷物よりも軽めに設定されている。

以前は、郵便局も民営化されていなくて、何処の田舎町にも歩いていける範囲であった。実際、今の住居に移った時は、郵便局のある広場に面していたので、ご近所さんであった。しかし、今は殆ど統廃合されて、歩いて郵便局に辿り着ける市民の数は激減した。さらに、ポストも確か400M毎にあったのが今は無い。本年中に郵便独占事業も終了する。

そのような状況があって、独ポストはロギスティックのDHL社を吸収して、反対に郵貯部門を分離しても、総合輸送業界世界最大規模を誇っており、売り上げを伸ばし、海外でのそれが六割を越えている。反面、国内の人員整理が出来ないと、郵便サーヴィス事業部門を中心に収益率は落ちるとされて、先の総会以後 ― 約3%のなかなか良い株式配当直後 ― に売りが集中した。確かに他の輸送業者は、外国人労働者を中心に安い労働力を駆使しているのである。独ポストは、国外投資家の株式保有比率も高く、年末までの動きが注目される。

さて、今回トランクルーム一杯に郵便局に運ばれた荷物は、日本まで航空輸送され、その後は日本国内で陸送か、エクスプレスとは異なりユックリとした処理がされる。恐らく、東京駅前で見かけたように、エクスプレスであればそのままDHLもしくは提携の宅急便などの業者に渡されて、通関後は一両日中に配達されるのだろう。

しかしそれ以外の、以前であればSAL便と呼ばれた通常の配達は、日本の郵便局に渡されるのかも知れない。何れにせよ発送から約二週間の配達までの期間は見ておかなければいけない。また、引き取らせて通関業務までをさせると同様の荷物でも500ユーロ以上徴収されることを考えると安いとも言える。

東京都内ならば独ポストと同じ黄色の配送車が走り、それが届けられるのだろうか、何れにせよ、物によっては通関時間が掛かる場合があり価格ほど差が無いようにも思われる。今回は違うがワインなどを送ると、時々化学検査を要求する的外れな担当官もいるようだ。アイスヴァインか何かの高濃度硫化物を疑っているのである。しかし通常は、専門業者が予めドイツの担当局に書かせた化学分析表を添付するような手間なことは、通常は必要ない。
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タールの石切り場訪問

2007-03-28 | アウトドーア・環境
玄武岩の石切り場を訪ねた。以前に、草原の尾根筋へと至り、その崖の上から下を除き見て、その規模と突然現れた豪快な光景に驚いたことがあった。なぜならば街道筋からは全く見えないのであり、今回も探しても、どの谷に当たるか直ぐに判らなかった。

ワイン畑の中で腰掛ける親爺さんに聞くと、流石に良く知っていた。入口になる駐車スペースは良く知っていたのだが、その谷を詰めたことはなかったのである。謂わば、土地勘のある者にしか知られていない場所なのである。

暫らく登ると、網の柵が出てきて、転落注意を呼びかけている。露天掘りされたのだろう、対岸の黒っぽい柱状岩壁に対して、その根元に池を持った底が大きく深く開いている。足元まで行く積りはなかったものの、対岸からしか見学出来なかったのは予想外であった。



さて、帰りに地形を確かめながらワイン栽培地の上辺へと戻ってくる。そこはムーゼンハングと呼ばれる、傾斜の強いやや痩せた地所である。近々、ここのワインも試飲する予定である。

近くには、ビスマルク窟と呼ばれる岩小屋があり、やはり黒い岩を表出させている。そこからは斜面の下部に向かって右の方へと柔らかな尾根筋が街道筋まで下っている。正面は谷の続きなのであるが、そのふっくらとした広い尾根筋を支えるような形状となっている。

そのような地形は、グーグル・アースの写真を見ると分かり易い。つまり、山奥にマークしてあるのが石切り場であり、そこから谷を降りて、正面の中腹部がウンゲホイヤーと呼ばれる地所であり、雑食砂岩質に石灰のガレと玄武岩の岩が混ざっている。その下部の左側へと落ちて行く斜面がキルヘンシュトックであり、その右側がイエズイーテンガルテンである。

そして、尾根に向かって右側には中腹部から下部へと写真の右下縁へとかけて玄武岩質のペッヒシュタインが広がる。
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初物ベアーラウフの美味

2007-03-27 | 料理
今年は、冬野菜の代表であるローゼンコールよりも、春の野草ベーアラウフが、復活祭前に美味い。

この時期には、まだあまり量が出ないので、通常は高価で購入しないが、大きな房で99セントに食指が動いた。

寒暖の差のせいか、嘗て無いほどに甘みがあって、ニンニクの様な臭みが何時までも残る灰汁のようなものが少ない。

早速、ペストを作っておいたが、これまたヌードルに、フランス産の新鮮なトマトと大変絶妙であった。そう言えばスイスのアイガー北壁を遠くに臨みながら食したこの野草の本当の美味さを思い出した。寒暖の差が大切なのだろう。
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ノアのワインのよい心地

2007-03-26 | ワイン
地元ドイツアルペイン協会の年次総会が開かれた。月例会が開かれるケーニヒスバッハの葡萄農家協同組合の大ホールで開かれる。ここでは二回目の開催であった。それ以前は、ノイシュタットのハールト協同組合のレストランが取り壊されていなかった時であるが、そこの別間が使われていた。

昔は何処の協同組合にもお食事処が併設されていて、蔵出しワインが振舞われていた。しかし、最近は何処も収益率が悪いのか、老朽化した建造物の維持費や立替が費用が捻出出来ないのか、一つ一つ閉鎖され続けている。

協同組合のワインは、庶民的で農民が自己消費していたレヴェルの、レーマーグラスで飲みたい典型的な単純なワインである。これらが手ごろな価格で飲めて、郷土料理的な農民の食卓に近い物が提供されたので、一時は今よりも人気があったに違いない。

現在でも、ワイン街道には、多くのこうしたレストランが存在するが、ここ十年ほどでも、閉鎖されたものは少なくない。想い出に残る給仕人や食事や酒もある。

日常消費用に比較的手ごろなワインを先日から試しているが、コルク抜栓直後も翌日も未だに飲みやすくて、今週末は昼から一杯引っ掛ける。辛口であるが旨味があるので癖になり、測ることもない血糖値が上がるのではないかとつい心配性になる。それのみならず、嘗ての不凍液騒動ではないが、何か良からぬものが混入していないだろうかと、神経症の人間は気になり出す。

示唆を与えられて硫黄酸化物の痕跡を嗅いでみる。すると十分に確認出来た。所謂貴腐ワインなどにより多く投入するのだが、これは飲酒後の頭痛の主原因となる。辛口でも、そうしたワインは上記されたような協同組合のワインにはしばしば見かける。特にアイスヴァインなどの極甘口ワインでなくとも、旨味で飲ませる果実風味の高いワインにより多く投入されている。

先ほど購入のワインは、その香りも含めて価格的にも十分に気に入っているので、もう暫らく自らの体を用いてスクリーニング調査を繰り返したいと思っている。現時点では、酔い心地も悪くは無いが、ある一定量を越えて接収するとどうなるかなどの実験課題がある。酒飲みであるならば、誰でも経験があると思うが、良い酒はその化学成分から悪酔いしない。大量に飲酒しても、快く二日酔いすることも出来る。もし良質のアルコールならば、酔いの高揚感と覚醒や飲酒後の倦怠感との心理的な変化も少なく、タミフルのようにはならないである。迎酒が楽しいアルコールが良質のワインである。

しかし、やはり飲み過ぎるといけないようだ。旧約聖書には次のように記載されている:

And Noah began to be an husbandman, and he planted a vineyard: And he drank of the wine, and was drunken; and he was uncovered within his tent. (GENESIS 9.20-21)

因みに、冒頭の協同組合のヴァインカルテをみると、ドイツ高級ワイン協会VDPではグランクリュに指定されるイディックやオェールベルクなどが何気なしにリストアップされているのが可笑しい。そうしたワインの嬉しい価格に目が眩んで調子良く飲むと、必ずや我が身の罪深さに慄かなければいけないのである。
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教義化された聖痕の治癒

2007-03-25 | 文化一般
ハンス・プフィッツナーの曲を含む、ミュンヘンのユダヤ協会における、室内楽演奏会のプログラム変更を余儀なくされた。それは先日シュトュンツ氏の記事として紹介した、ナチズムとの作曲家の個人的な係わりに対する見解である。

それに対しては、ナチの焚書や演奏禁止等の行為に類する、現在でも世界中で行われている文化検閲と言う野蛮行為との共通性を見る意見も存在する。つまり、ある種の裏返された技術・技巧優先の芸術文化至上主義がそこに存在する。

さて、そこで何度も繰り返されるこの議論に行き当たる。芸術文化行為自体が、どのような発言・思想の自由を有しているかとの問いかけである。

それは文化芸術行為が一体何をアウトプットして、一体何がインプットされるのかと言う問いかけでもある。

今回の場合、対象は最も抽象的とされる音楽芸術であり、その芸術的価値は作曲家の行動には関係しないとする見解も理論的には成立する。すると、その作曲行為が、作曲家の行動と矛盾するとすれば、一体その創作行為は何であったかが問われる。もしくは、作曲家の行動と平行した関係にあるのかが審議されるのである。

ミュンヒナーフィルハーモニカーの音楽監督でプッフィッツナー信奉者のティーレマンは、ナチ賞賛の作品を演奏するならば、「少なくとも、説明しなければいけない」と言明している。ここに音楽芸術の演奏行為と言う、創造行為を仲介する芸術行為が存在していて、だからこそその表現の可能性を駆使しなければいけない。

そこでは既存の創作に対して仲介の労を厭わぬ芸術的価値が存在するとの見解が前提となる。要するに、演奏行為(純粋な演奏実践以外にも舞台上でのパフォーマンスやレクチャーなどの表現方法を含む)を通じて、その見解を明快に示す義務が職業芸術家には生じている。

それを文化芸術的なアウトプットとするとき、インプットされるものは「今日の視点からの遠近法を伴った」批判でなければいけない。なぜならば、演奏行為と言う芸術行為は、現在の空間で執り行われ、それを受容するのは現在の聴衆であり社会であるからだ。同時に古典とされる芸術に対しては、繰り返し今更ながら再び受容される価値があるのか、無いのかが審議される。そして、喝采や拒絶の批評として再びアウトプットされる行為が、今日の古典の実質価値となる。

例えば、先日のヨハネ受難曲の演奏行為を、フランクフルトの聴衆として批評するとき、そこでアウトプットされた文化は、中部ドイツにおけるプロテスタント文化の伝統とかルター派の各共同体でのプロテスタント音楽の実践と、比較対照されることは避けて通れない。それだからこそ多文化主義の脱構造主義的な ― バッハにおける構造上の数字や象徴などの合理を無視することを必ずしも意味しない ― 視座を聴衆に要求する前に、それに対して古典を創造解釈する職業音楽家は、明快なヴィションを示し、その行為が価値あることを示す必要がある。

もし仮に、先日のあの指揮者が、十分な示唆も暗示もなく、ゴルゴタの丘でのイエス・キリストを舞台上で自ら体現して受難劇を演じていたとすれば、それはあまりにも思考的に 飛 躍 したシアターピースである。実際、その指揮者フランス・ブリュッヘンは、左手で脇腹の*スティグマを押さえ、倒れるばかりに台座へと辿り着き、十字の向こうの腰掛に固定される。その管弦楽の器楽的な正確さに対置する群集の合唱は、正確でふらつかない福音師を除く、不安定な人々の独唱とともに、絶望の不条理にその成就を見る。そして、それがシアターの枠組みを明かさずに、あくまでも本気でなされるところが、この音楽家をして「アムステルダムのイエスス」と呼ばせるに足りていた。

聴衆は、こうした行為に何を見て、どのように反応するのか?少なくとも、管弦楽のハーモニーを一音たりとも聞き漏らすまいとして全身を耳にして、制御の効かない声楽に眉を顰めるのでは、何一つも体験しなかった事になるのである。そもそも、これは、そうした硬直した感受性と馴らされた感覚を伴う態度を意識させて、その自己欺瞞を突き放し、全てを懐疑へと落しいれる現象であるからだ。

その大きな否定の矛先は、オウトプットする側の、バプテストかなにかの、狂信的な態度にあるかも知れないが、しかし同じぐらい、現代の音楽会場にて演奏される受難曲オラトリオに不審を懐かない ― それがたとえ後期バロック以降の伝統だとしても ― インプットする側の、日常生活から分離して演奏される空間に覚醒しない近代文明信仰に向けられて、先ずはそれを断罪する。つまり、ある技術的な成果や洗練や精神的なもしくは感情的な高揚を芸術文化活動として、信じて止まない姿勢こそが無批判で狂信的な近代の無知と同義となる。

すると、改まって現在における芸術文化の価値を顧みるとき ― 当然の事ながら、その価値がそもそも存在しないなら、その行為も評価も無用である ― 、その対象や視野を狭めることなく批評して批評しつくす事にこそ意義がある。そしてそこに、定まった決まりや基準が固定された時点で、芸術文化は骨董品やドグマとなって、希少価値や需要供給によって値が決められる商品となりつつ、あるイデオロギーをプロパガンダする格好の道具となるのだ。

*そこで、兵士たちがやって来て、イエススといっしょに十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエススのところに来てみると、既に死んでいたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人がやりでイエススのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。それを目撃した者が証しており、その証は真実である。その者は、自分が真実を語っている事を知っている。それは、あなたたちも信じるようになるためである。これらのことがあって、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現した。また、聖書は別の所で、「彼らは、自分たちの突き刺したものを見る」とも言っている。(ヨハネスによる福音19章32-37)

In one house shall it be eaten; thou shalt not carry forth ought of the flesh abroad of the house; neither shall ye break a bone thereof. (EXODUS 12.46)

They shall leave none of it unto the morning, nor break any bone of it, according to all the ordinances of the Passover they shall keep it. (NUMBERS 9.12)

And I will pour upon the house of David, and upon the inhabitants of Jerusalem, the sprit of grace and of supplications: and they shall look upon me whom they have pierced, and they shall morn for him, as one mourneth for him only son, and shall be in bitterness for him, as one that is in bitterness for his firstborn. (ZECHARIAH 12.10)



参照:高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13
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日常自然環境への触手

2007-03-24 | 
物売りの声に興味を持つ筋は少なく無い。文化的な伝統や民俗学的な考察や社会学的な見地からだけでなく、言語その他音のランドスケープの世界、さらに環境へと意識は広がる。

この近辺では、屑屋が鉄製品を買い取りにやってくる。ハンドベルをちりんちりんと鳴らして、「アイ ゼーン」と叫ぶ。これなどは、売り声ならず、買い声とは呼ばないだろうが、もっとも単純な広報の手段である。

会話や歌と並んで、連絡や広報の発声は、根源的なコミュニケーション手段の一つであり、尚且つ必要に迫られての行為であり、その伝達される内容が十分に具体的で単純であることから、分析されたり再構成されたりして様々な基本概念が構築されていくようである。

古典落語などでも、物売りの声はその形状や情緒を表わすものとしてネタとなっているのはこのような背景があるからだろう。

またこうした情報の受け取りは、またそれを受け取った各々個人のインプットとアウトプットとの差異として表れる。伝言ゲームのようなものでもある。その差異の総和の集合が学問を含む文化となるのだろう。

その差異が生まれるブラックボックスのようなものが、多くの関心を呼ぶ対象として、ここ数日来幾つかの事象が話題となっている。

その一つが今日本で問題となっている音楽会場での「良識の議論」であるようで、端的に評せば、従来の「良き聴衆」が形作ってきた、娯楽だけに留まらない音楽文化の享受が、より広い層の聴衆が押しかけたことから「日常社会から音楽会堂へ伸ばされた触手」によって、その文化行為と社会との希薄で偽装された関係に今更ながら気付かされて、それに当惑した挙句、あたかも地下鉄内での良識と同じような新たな枠組みの有無に気付いた現象なのだろう。

しかし、これは何も極東における文化的な特殊事情と考える必要もなく、寧ろ各々の芸術や文化に対する認知の問題と考えると、このBLOGにおいて毎日のように繰り返されている話題に他ならない。引き続き様々な事象に注目して行く。



参照:
絵に画いた牡丹餅 [ BLOG研究 ] / 2007-03-18
教義化された聖痕の治癒 [ 文化一般 ] / 2007-03-25
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寒の戻りの観天望気

2007-03-23 | ワイン
本日は、雪がちらついている。月曜日も、霰が降ってニ三分は屋根が白くなった。この冬二度目の降雪であった。山は湿った雪だろう。

ついでがあったので帰りに、その近くの醸造所に寄った。2005年産の追加を購入しておこうと思ったからである。しかしキャビネットは、甘口を除いて全て売り切れていて、シュペートレーゼが残っているのみであった。さらに2006年産以降は、個別畑ではシュペートレーゼが主になって、キャビネットクラスは殆ど地所の名が付けられなくなる事を知った。2005年産が最後であった。一月中に再訪しなければいけなかった。

仕方なく、帰路今年は避けていた醸造所へと向かった。単純なリッターワインも試飲したがそれほど悪くはなかった。それなりに手間隙かけて葡萄を採取している事が知れた。それでかやはりダイデスハイマー・ヘアゴットザッカーは旨味があり尚且つ、果実風味の特徴が遺憾なく発揮されていた。

醸造上の癖が気になる醸造所であるが、2006年は前身をワイン農家とする畑仕事と摘み取りの選別能力にものを言わせてか、完成度が高くなり、醸造の癖が帳消しとなっている。あれだけそれとなく文句を付けた価値があったのだろうか?その分、若干甘さに傾き、昨年より一割かた価格は上がっているが、大変魅力ある価格と品質に仕上がっている。

瓶詰め後四週間未満なので、新鮮であり飲みどきでもあり、暫らくは期待出来るワインとなっている。このまま楽しめるようであるならば、買い足す必要がある。

このような按配でこちらは充分な観天望気が出来ずに、その醸造技術を見縊って、畑仕事や摘み取りへの労働力配分の成果を危うく見逃すところであった。

因みに去る三月二十一日ベネディクトの日の百姓諺には、「ベネディクトの日のあとの一週間のお天気が、夏中のお天気じゃ」とある。すると雨交じりの冷夏になるのだろうか。基本には春分の日の天候が、夏の天候を制すとある。
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18世紀啓蒙主義受難曲

2007-03-22 | 
バッハのヨハネス・パッションは、その内容からアンチユダヤ主義の疑惑がかかる受難劇オラトリオである。フランクフルトの定例会へ向かう途上、ラジオは演奏会場として復興したアルテオパーが、昨年度嘗てないほどの集客率に達したと報じていた。85%の座席占有率であるから、クラッシックブームと呼ばれるものなのだろうか?それに係わらず、予想通り今回も天井桟敷は疎らで、全体でも六割の入りであった。天候や出し物としてやや時期尚早であるなどの影響もあるが、バッハの受難曲としてはかなり入りが悪かった。

前回は、英国のガーディナー指揮のモンテヴェルディー合唱団のヨハン受難曲であったが、今回はオランダから以前はリコーダーを吹いていた音楽家が、主兵の古典派専門の演奏団体を引き連れてのツアーの一貫として催されたようだ。この音楽家の室内楽などは馴染みがあったが、古典派交響楽のコンサートに出かける事も殆どなく、録音なども他にも様々とあるので、名称からして「18世紀」や「啓蒙」と押し付けがましい名称の団体を初めて体験する結果となった。

漣がさざめくヴァイオリンの開始はバッハの数ある曲の中でも、強く印象に残る掴みであるが、流石に開演前三十分まえから舞台で音合わせし続けていただけのことあって(飛行機の到着が遅れての会場での音だしリハーサルが出来なかったのか?)、効果的な管弦楽を聞かせる。特に木管がハーモニーを織り成す綾はまさに古典派交響楽そのもので、それに弦が合唱をしっかりと音楽付けして模る。この音楽的彫塑がこの演奏解釈の頂点であった。それに比べ芸術的統率の効かない合唱がヘア(主よ)と叫ぶ、それがなんら音価以上の意味を持たないのも、当日の音楽解釈の全てを物語っていた。

そうした、器楽的正確さの古典的機能和声への芸術的信仰告白が、プロテスタント精神をバロック期に体現するバッハの音楽を汚染する。そのような結果、声楽の特にカウンターテノール等のソリストの不安定な音程が否応無く強調される。まさに大オーケストラと共演する嘗ての平均率的ハーモニを発する優等生スター歌手がどうしても必要と思わせるのである。

コラールにおいても、田舎の共同体の合唱団による言葉の表情にさえ至らないと思わせる、アーティクレーションへの無配慮は、今時珍しい楽譜の読みであって、偏狭なイデオロギーすらを感じさせる。だから、もし音楽的に何かが起こると、それを拡大してあざとく聴衆に見せるのである。その反対に、一曲目などのように合唱の交差する不協和なぶつかりは、大枠である協和の中に否応無く塗り込まれてしまう。これは、アーティクレーションへの軽視と無頓着の矛盾を意味して、それがドグマとさえなっている。

そうした矛盾は、レチタティーヴ部分にも散見されて、そのドラマトュルギーとしての抑揚が抑制される一方、モーツァルトのオペラに現れるようにゲネラルバッソが音楽的に強調されたりする。一種のネオ新古典主義的表現主義と呼べようか。

奇しくも、枯れ木のようにお腹を押さえながらよれよれと舞台に登場して指揮台の椅子に座り込み、朽ちた木造仏さんのような朴念仁の姿は、晩年の巨匠カール・ベーム博士がピットで寝ていたと言われるよりも遥かに意志薄弱で、その長い指二本を蟹の鋏ように広げてひらひらとさせる風景を以って、しばしば起こるテンポのゆれを伴い、舞台上の心配そうな楽員表情を双眼鏡で覗くこちらの眠気をも奪う。

26曲のコラール「私の心の奥底に」などは、その内容からして十分に実体感のあるソノリティーを得ているのは理解出来るのだが、逆にそうした箇所では和声進行が容易な協和に塗りつぶされる。同様にフガートとなると、本来の声部が逃げて行くのではなく、古典的な秩序の中で対立を作るように解釈される。28曲のコラール「彼は全てに良く心を配られた」の嘆きは、上のような演奏実践の特徴から、いかにも乾いたこせこせとした嘆きであって、あたかもいざこざを家庭裁判所に訴え出るような趣となる。

35曲「融けて流れよ私の心」のマイン・ヘルツ(私の心)のレラの四度音程は、39曲「憩え、安らかに。聖なるかばねよ」の冒頭の下降するファレラー、ソミラーで、この受難オラトリオの信仰告白ともなるが、その歌詞であるルート・ヴォール(安らかに眠りたまえ)へと引き継がれる。そして、1曲目と並んでマルティン・ルターから引き継いでいる要素が強くここに表れる。特にこの終曲コラール「ああ主よ、あなたの御使いに命じ」へと続くこの合唱曲で、このフレーズは変化されて何度も繰り返されることで、また上行する中間部をもって、特にシューマン以降のドイツロマン派へ与えた影響は無視出来ないだろう。

宗教改革からバロックへと、また後期バロックからロマン派へと引き渡される文化の歴史の中で、「18世紀の啓蒙」を名乗る音楽集団が、それ故に奇妙な事をしていても可笑しくはないのだが、番号付き通奏低音の豊かな流れがかき消されて、古典的調性システムの中に狭苦しく押し込まれるとき、我々は近代社会の構造の中に閉じ込められたような息苦しさを感じる。

それは同時に、杓子定規な正確な音程への希求から跳躍の経過を否定する、そもそも声楽などでは実現不可能な潔癖さや完璧さを目指していて、こうした音楽趣味がオランダという欧州でも文化先進国の内に、未だに行われている事に驚きを禁じえない。ある種の伝達情報を圧縮して、コミュニケーションを単純化したアイポットの聴視のようなものかもしれない。もちろん、そこに我々が求めている日常的な精神などは存在しないのは当然であろう。

追記:似たような楽団が異なる名称で営業をしているのでそれらを混同しているが、基本的には「古典」や「啓蒙」や「18世紀」を名乗るのは芸術的に殆ど変わらない行為であろう。

追記:教義化された聖痕の治癒 [ 文化一般 ] / 2007-03-24


参考録音・映像:
コルボ指揮ローザンヌ楽団、1984年アクサン・プリヴァンス、ラジオ中継
コープマン指揮アムステルダムバロック楽団
トーマスカントライ、ライプツィッヒ
カール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ楽団
鈴木指揮バッハコレギウム東京 ―
1. Herr unser Herrscher
12. Von den Stricken meiner Sünden
14. Ich folge Dir
20. Ach mein Sinn
28. Ach grosser Konig
49. Eilt Ihr angefochtnen Seelen
59. Es ist vollbracht
アーノンクール指揮テルツ少年合唱団(1985, ORF制作) ―
1.Herr unser Herscher
7.Von den Stricken meiner Sünden
20.Erwäge wie sein blutgefärbter
24.Eilt, ihr angefochtnen Seelen
30.Es ist vollbracht
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役立たずの旧ヨーロッパ

2007-03-21 | 雑感
ミサイル防御網構築問題は、ベルリンの最も大きな政治課題の一つとなった。外相シュタインマイヤーがワシントンにてライス女史に対して、欧州分断への試みとして警告を発したのは当然であるが、防衛を建前とする欧州の新たな軍拡と定義してこれを否定した意味は大きい。

前者においては、2003年にラムスフェルド米国防相が、米国が強行したイラク派兵を否定した欧州の盟主を評した以下の発言に読み取れる、旧ヨーロッパを米国追従のポーランドを代表とする新ヨーロッパに対照させた概念が真意とされる:

― You're thinking of Europe as Germany and France. I don't. I think that's old Europe. ―

この定義自体は、マルクスの共産党宣言で弾劾される旧社会を指すようだが、東西欧州の冷戦下における地政的区分けに、反対に英国を含む中欧の盟主を浮き上がらせる。大西洋を挟んだ新旧大陸の対峙の関係でもある。

また、「防衛の名の下の軍拡」に対する社会民主党のアレルギーと反応は、相変わらず些か観念的であまりにも正直過ぎるともみられる。しかし、これもこの政党の持ち味であり、メルケル首相のポーランド訪問での成果を踏まえた政策には違いない。

一方、キリスト教民主同盟の対応は、NATOとEUさらにロシアとの関係を抑えていく事が政策の軸となっている。外交担当の、名門ワイン醸造所ファン・ブール、もしくはミュンヘンの指揮者のツ・グッテンブルク家のカール・テオドールは、「防衛システムはロシアと共同で構築する事が出来たのに、軍拡として扱われるのは不幸なこと」として、「当面の議論では形容動詞的に軍縮が論議されるべき」と正論を述べている。

しかし、役に立たない防衛システムを売りつける軍需産業の詐欺の手口のように見られるミサイル防御構想に、北京が衛星破壊の実験を行い、各国が抑止核の傘を離れて戦略核保持への意向を見せる中で、核大国の抑止核への信頼は徐々に崩れてきている。
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映像投稿ポータルの価値

2007-03-20 | マスメディア批評
先日もユーテューブにリンクを張った。パロディーとして、もともとの映像に、自主制作の映像をつけたした制作VIDEOであった。その出来は悪くはなかったが、クレジットが入っていたとしても、制作者が投稿したのか、それとも許可無く投稿したのかなどの確認が出来ない。どこかをクリックすると、投稿へのクレジットが出てくるのだろうか?

ここから有名になった映像作家が生まれたのは、短編映画領域では今まででも珍しい事では無かったので特に驚かない。つまり、映像作家は、専門の学生を含めて膨大な数であり、こうした発表の場を有効に利用するのは当然で、設立目的でもあったのだろう。

さて個人的にはあまり関心を持っていないが、何れ投稿することもあるかと登録は済ませた。しかし、参考となるような感心するオリジナル制作品も記録映像もまだお目にかかっていない。

またこのポータルを維持するために、月々百万ダラーの維持費がかかっていると知ると、今後どのような意味を持つのか大きな疑問もある。既に対抗馬として挙げられるレィヴァードットコムなどは、投稿者に広告費の分け前を支払いたいとするので、制作発表の場としては今後こちらの方に分があるかもしれない。

お色気映像を除いたところがユーテューブの良さであるが、制作映像も上の例のようにパロディーが主体となっているとされ、無料でのオリジナル制作作品の提供には限界があることを示しているのだろう。元来、録音にしろ映像にしろ、制作費がその制作の価値を裏打ちしていて、逆に制作費がかからない記録はそのものの価値は存在しないとされる。

しかし、個人の記録映像は、ニュース性や社会告発などのジャーナリスティックな意味合いを持つ時もあろうが、その時も肖像権やプライヴァシーに係わる問題を解決する必要が生じるなど、様々な制限が存在する。

また、TVなどの映像が宣伝目的で流されることが増えそうで、その最たる例としてBBCがユーテューブと契約を交わした。これは、公共的な利用に違いない。その一方、トルコの例に見るように、共和国の開祖アタテュルクを同性愛者としたVIDEOが原因で、ユーテューブはトルコでのアクセスが禁止された。とは言ってもネットは幾らでも方法がある。

映像の感覚的な効用を決して過小評価してはいけない。しかし、優れた制作品でない限り知的思考に訴える事は皆無であり、他方、記録は絶えずその視点の立ち位置を背後から探るような読み深さが無ければ何一つ語らない。

最も我々が試みるべきは、どんな映像でも良いからどんどんとアップロードして、内容を淘汰させる事にあると思われる。
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強かで天真爛漫な振舞

2007-03-19 | 
アンゲラ・メルケル首相がご主人を伴って、ポーランド旅行に出かけた。詳しくは追っていないが、盛んに笑顔を振り撒いて、先日からのヴァルシャウァの戦略的米国追従に対してのEU内でのギクシャクした関係を修復するのみならず、具体的な譲歩を引き出したようである。

こうした政治的譲歩が話題となるだけでも米国追従は戦略的に成功なのか、それともミサイル防衛網をNATOの枠内事項とはしないと主張するワシントンとの綱引きは今後も盛んになるのだろうか。

ポーランドのナショナリスト勢力は、― ドイツ東方領地からの引き揚げドイツ人団体による先日話題となったポーランド政府批判を除いても ― 反ヴァチカンのカトリック放送局マリアなどが有名であるが、経済的に希望無き国民にとってはこうした動きは当然といえるのかもしれない。

何れにせよ、旧兄弟国の同志同士は話が弾んだようである。

先日、ポーランドの若い娘が、数字を数えられないので、ドイツ語が出来なくとも少なくとも数字ぐらいはさっさと覚えなさいと言って、数えさせると、どうも算数の力が不足しているのに気がついた。

千以上の数になると手に負えなくなりそうである。「あんたそれじゃ、千ユーロ以上の収入は絶対稼げないってことになるよ」と窘めた。

勿論少し教えると理解するのだが、そんな単純なことでも出来ると、「良いぞ、やったぞ、何々ちゃん」と自らを褒め称えるのである。それは構わないが、事が事だけに、「大丈夫かな」と思わせる。

一方ドイツを顧みると、確かに、最近減ってはいるが、算数の出来無いドイツ人もカトリック圏を中心に居ないことは無い。流石に教育が違うのか、社会が違うのか、ドイツ人ならばそれを少なくとも恥じる。

だから、学力の内容は兎も角、勉学が出来ないからといって、自信を無くして何も発言出来なくなり自主性を阻害された市民と、ドイツ人のように学力は無くとも平静は大きな顔をして、権利の行使と自尊心を叩き込まれた市民と、どちらの方が良い民主的社会が出来るかと言えば後者の集まりに違いない。しかし、一旦高圧的な支配を受けると、従順になり全体主義に導き易いのは後者であると、アドルフ・ヒットラーが「我が闘争」で語っている通りである。前者の方が遥かに強かに振る舞うに違いない。

上記の彼女の父親は、失業していて、母親が働いているので、主夫をしていると言う。羨ましい限りである。娘が二人居て、孫が二人もいると言うから、幸せ者なのである。

そしてドイツでは、少々金があっても年金やらなにやら齷齪と暮らしているのである。ご気楽なお隣さんを横目に、悩みは一生尽きないのだ。



参照:
知っていたに違いない [ 歴史・時事 ] / 2006-08-24
歴史政治の遠近法 [ 歴史・時事 ] / 2005-04-17
遺憾に思う、奴隷売買 [ 歴史・時事 ] / 2006-12-05
滅私奉公と勧善懲悪 [ マスメディア批評 ] / 2007-03-17
矮小化された神話の英霊 [ 文学・思想 ] / 2006-08-21
行進しても喉が渇かない [ 生活 ] / 2005-04-25
対波蘭戦に忠誠を示すか [ ワールドカップ06 ] / 2006-06-15
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絵に画いた牡丹餅

2007-03-18 | SNS・BLOG研究
cocolog-nifty.comにて日本国以外からのコメントが禁止されたようなので、BLOG研究として二つの記事を読んでコメントとする。

先ずは、一度ここに批判したように日本食認定制度が頓挫した記事を扱った「ザ大衆食つまみぐい」さんの ― 硬直した官僚主義の末路「正しい日本食」 ― と題した文章である。「悪いジョーダンと受け流すわけにはいかないとおもうよ」が、私もここで書きたいことである。産業振興を文化振興として建前を繕ったところが悪質であり、「正しい文化」とされると批判せずにはいられない。それに対して、こうした切り口で調理出来ないジャーナリズムが存在するとすれば、そのようなものは無用である。不味いばかりか、一向に役に立たない。

さて、投稿記事でも多文化主義と正統性の問題としても捉えられているが、まさにこれはここ数年移民法との絡みでドイツ連邦共和国を揺るがした、各党が真剣に取り組む、大政治問題の一つなのである。行政を執り行うためには、先ずその正統性が点検されなければいけないが、尚のことそれが「正しい」文化を定義するのは至難の業である。十年以上経っても、正しい「ドイツ文化」の回答は生まれていなければ、必要ならば今後もこれは繰り返し問い返される。

驚いたことに、上の報道記事を読むと「評価にあたる民間組織は現地の料理研究家などで構成」などと執拗に発言している。産業振興ならばそのロビー活動をする業界が資金を持ち寄って普及活動して、尚且つもし必要ならば産業育成の公的援助をすれば良いのである。先ずは、なんら答申の必要が生じようか。

食文化の普及活動とするならば、判りやすく親切な 正 し い レシピーと写真等をデーターベース化してホームページで ― 既に海外向け広報誌には小まめに紹介されている ― 普及に務めるのが先決であろう。もともと、それに近いものを食していなければイメージなどは湧かないから、問題があるとされる点から片付ければ良い。

しかし、それを未だにミシュランの星制度の紛いものとして、文化振興として公的に議論されるのは、明らかに自由主義経済精神に反する。そうした認証システムが、商売になるか、それとも親会社の広告となるかの問題だけなのである。

蛇足ながら、こうした星制度を悪用して、調査と称する無銭飲食詐欺やマフィアが所場代を脅す手口も伝統的である。もちろん、誰も関心の無い星には、誰も一銭も出さないのであるけれど。

さて、もう少し文化行政に拘って、「文化芸術暴論」さんの「音楽と政治」と題した記事を読む。ここでは、「山田耕筰の音楽を通してのプロパガンダ」に、文化と行政の関係を考えている。まさにこれは、文化・音楽ジャーナリズムが為していないことをここに問うている。すなわち、「経済と文化は車の両輪のように作用し合う」とする経済論理に対して、永続性を正統性と主張する文化政策部会の見解報告があり、それに疑問を投げ掛けて、尚且つ文化政策の根本とされる「市場原理だけに委ねることが出来ない文化振興」のための助成金のあり方に ― 既に定まっているかに見える文化的価値観に ―、違和感を表明している。

記事のこのあたりを少しでも読むと気が付くのだが、文化行政が、全く文化受容者にとって異質なものどころか、評論家によってすらマスメディアで議論がされていないことが知らされる。そしていよいよ、助成しなければいけない文化とは何かの議論となってくるが、「商業的にも価値がなく伝統ともなっていない文化が西洋文化である」と定義されると、あまりにもそのお粗末な百年以上に及ぶ歴史のある文化行政に驚愕するしかない。一体、膨大な公共資金を使って、つまらないお遊びに投資していることか?何処が経済と両輪となっているのだろう?

ここにおいても文化行政を具体例を以って考えてきたが、繰り返すが、専門家であろうが学者であろうが容易に解答が出せる問題で無いからこそ、平素から議論を繰り返して下から上へと合意されて行くようなものでなければいけない。それを民主主義と呼ぶのである。商業マスメディアが、不要な三面記事を止めて「文化」を記事に出来るように、それらに助成しなければいけないと言うのだろうか?

最後に、正統的な本物の芸術の価値は何処にあるかとするヴァルター・ベンヤミンの有名な問いかけは、産業化された文化市場には複製品が大量供給されると言う意味合いからは存在しないことになる。なぜならば近くて遠く、遠くて近いものにこそオーラがあるからだ。ブランド化されて、大量消費されるものに価値を認めるのは容易くない、手の届く任意の近さにあるからだ。

要するに本物は、伝統的に継承された手技で以って拵えられなければいけないとなるが、一体全体そうしたものが、仮に存在したとしても、想像されるファーストフード紛いの日本食に存在する訳がなくて、権威を持った正統性はそもそもこうした産業振興策とは端から相容れないのである。

再び、文芸一般にこれを当てはめると、批判出来ない権威がどこかに存在しているとすると、これを伝統として積み重ね、そこから学んでいくことすら不可能である。そうしたものに与えられた ― まるで広告で生じた様な ― 仮想の権威は、極東で売買され、先ほども中共政府によって品質不良品として廃棄された、極東向きに大量 複 製 された 本 物 の 欧州ブランド商品と変わらないのである。
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滅私奉公と勧善懲悪

2007-03-17 | マスメディア批評
三月五日は零鋒の日と知った。ここ暫らくの「美しい国を、精神から復興させよう」とする傾向の表れである。そして、現在の中華人民共和国において、ビル・ゲートと双璧と言われる人民の鑑なのである。片やテクノロジーと市場独占を以って世界を制する人民の憧れであって、片や、五人組み批判と共に消え伏せた、今再び汚職と腐敗に朽ちる党役員や官僚批判として復活した、社会に奉仕する公僕を絵に描いたような人物なのである。

つまり共産党にとって零鋒は、大日本帝国の修身教科書にあった「死んでも喇叭を口から離しませんでした」の木口小平と同じく、滅私奉公を勧善する存在なのである。勿論、赤軍における零峰は、文革の最中に毛同志によって作られた模範的人民像であった。

嘗て大日本帝国が木口小平を祭り上げたように、現在の中共が文革時代を象徴する零鋒を態々引っ張り出して来るのは、富国強兵から植民地競争へと遅れてやって来た帝国が、日中戦争(八年抗戦)から太平洋戦争へと進んだ経過を思い出させる。

そうした情勢に注意を向けて批評する事こそが本来のジャーナリズムと思われるのだが、ドイツで言えばシュレーダー前首相のような親中派と呼ばれる輩は、嘗ての遼東・満州経営と比較できる経済的な野心を懐き、それを後押ししている。それどころか、昨今は中国語学習熱などが若い世代にあるようで、全てはBRICと言われるG7を越える世界最大の市場への関心に向けられている。表現は悪いが、大日本帝国の所謂満州ゴロツキ(満州ゴロ)と呼ばれるような輩は、いまや世界中から中国に集まった。

全人代を睨んで、人民共和国の私有財産法が話題となっていたが、意見が別れているために国内では報道規制されていたされる。人民は、七十年間の期限を持ってアパートメントなどを所有出来るとするが、それが失効したらどうなるのかなど、不動産業などを中心に市場至上主義へと弾みをつけたいのを困難にしている。当然のことながら、西側の投資家にとって、私有財産の法制化は少なくとも更なる投資活動への礎となる。将来的には民法の整備を踏まえての動きとされるが、共産党首脳陣の手綱捌きの見せどころとなるのであろう。

農地の貸借などは、不耕地化を避けるために必要とされるが、農民を中心に地方では大規模な紛争が起こっているように、都市部と地方の権利格差などが広まってきている。一方、官僚などの不正貯蓄から不要不足の贅沢品消費は伸びて、海外でのマネーロンダリングは膨大な額となっているとされる。

さらに、人民元は、かなりの比率で偽札が流通していると知ると、かなり不確かな国民経済であるのが知れる。北京政府が、今後海外証券投資のプロジェクトを組んで、世界最大規模のヘッジフォンドグループとなるようだが、政治的な形態を含めて、世界は北京を今以上に注目しなければいけない。

ゴールドマン・サックスが目論むように、BRIC(ブラジル、ロシア、インド、チァイナ) 、G7に対して、NEXT11となるメキシコ、インドネシア、ナイジェリア、韓国、ヴェトナム、トルコ、フィリッピン、エジプト、イラン、パキスタン、バッグラディッシュを一括りにして投資商品化する方法も、バランスを採るにはあまりに小さな規模でしかないように思われるがどうなのだろう。

西洋のシステムに対する信仰と自らが立脚するシステム自体を破壊しようとする衝動が、極東における精神構造の特徴となっているように見受けられる。そもそもシステム自体が自身の権利の保障をしているものであって、義務を主軸に置いていないものとすれば、上のような滅私奉公は、そもそも遵法精神に相応しくない。そうしたシステムの破れや信仰を指摘して批判出来ないのは、よって当然とも思われる。

エゴの未発達を表わす「赤信号を皆で渡る」は、一体どうした思考で、どうした世界観なのかと考えると、これまた大変興味深い。



参照:
世界の災いと慈善活動 [ マスメディア批評 ] / 2005-11-29
雷锋的初恋女友/You Tube
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