Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

落ち着き払ったメータ指揮

2019-04-16 | マスメディア批評
連日のフェスティヴァル訪問は近いと言っても大変だ。月曜日の新聞にベルリン、ザルツブルク、バーデンバーデンのフェスティヴァルの評が全面に別けて書かれている。見出しは空間内の巨象である。

地元のロッテ・ターラー女史の評は、中々上手く纏まっている。オペラ批評としてどうしてもウイルソンの演出に紙面が多く割かれるが、そのいつものような絵や意匠をして、特に地球儀などバロック的としている。同時に一人だけの純なデズデオーナは白塗りの白い衣装を与える ― 月曜日に登場したペコちゃんの衣裳やピエロ姿ではない。

そこに情景に合わせて赤い玉や線が出て来る背景にブルーとグレーがあり、生と死と感じられるとする。そして影の中で演技するような歌手には極度の集中力と身体の制御が求められて、主役たちはまるで運命に翻弄される操り人形のようだとしている。そして二人の愛情は、肉体的な制御の効かないものであるよりも、近づく近づかないの接近と遭遇以上のものではないとしていて、この見方は心理的にも劇場的にも面白い。

四幕で「柳の歌」が歌われるときに、ウイルソンが取ったゆっくりとした動きがここへと全て向けられてなされていたことに気が付いたとしている、つまり若い二人へのレクイエムとなる。それでも序曲代わりの巨象とその小象のプロジェクターの意味は読み切れないようだ。

そして最もこの演出の素晴らしさは音楽に全ての自由を与えていることであり、フィルハーモニーコーアの素晴らしさにも言及しつつ、メータの指揮について批評する。

落ち着き払ったその指揮は、ベルリナーフィルハーモニカーを演出に沿った完璧なレクイエムへと導き、後期のヴェルディのオペラを衝撃的にモダーンにしたという。そのヴァークナーの「トリスタン」のような管弦楽的質を四幕へのイングリッシュホルンで、そのあとでのオーボエのエコーで聴かせ、コントラバスの響きは ― 今回これは幾つかの重要な場面で音楽的に重要な意味を示していた ― 雷の場のブラス以上にスリル満点だったとする。そして弦のトレモロは、私たちの死への恐怖となったとしている。

中々上手な書き方をしている。地元のヴェテラン批評家として、来年以降もしっかり書いてもらいたいと思う。その内容に満足であり、出来るだけこうした劇場感覚が聴衆の共通感覚となって欲しい。



参照:
Zubin Mehta überwältigt mit den Berlinar Philharmoniker durch Subtilität. Lotte Thaler, FAZ vom 15.4.2019
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
ブラインド聞き比べ 2018-04-12 | マスメディア批評
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ポートレートの色合い

2019-04-11 | マスメディア批評
2019年バーデンバーデン復活祭からの中継が発表された。今年は無いかと思ったが、直前に決まったようだ。ベルリンでは演奏されない二つのエクスクルシーヴなプログラムから一つはランランの協奏曲だが、もう一つのリカルド・ムーティ指揮ヴェルディのレクイエムの二回目の演奏が時差中継される。SWR2のラディオ放送である。所謂聖土曜日の演奏会である。私も最初のコンサートでなくこの日に行く。本当なら二回の演奏会を聞き比べるのも悪くはないが、マイクが入るとなると一般的に演奏水準が上がる。独唱歌手四人の歌も楽しみになった。

これだけでも意気があがる。そこにペトレンコが現れるか?そして翌日復活祭日曜日には、恐らくペトレンコ初のポートレート番組が15時から同じ放送局で流される。話しをするのは、フランクフルターアルゲマイネ新聞で書いていたユリア・スピノラ女史である。日本ではブロムシュテット自伝のインタヴューアーとして有名になった人である。嘗てから彼女の書いたものはとても評価していたので、今回の放送も楽しみである。当日は18時からのコンサートである。彼女はベルリン在住の筈だから今後も追跡が続くのだろう。何を語るのか楽しみだ。

同時に新制作「オテロ」のロバート・ウィルソンの演出の写真が出だした。青い色合いとか光の使い方とかいつも同じだ。記憶にあるのはバルトークの「青髭」で何処が違うのか分からない。その前にドラマテュルクのコンラート・クーンがインタヴューを受けていた。それによると、そもそも凝縮した色合いの音楽から解体されていく過程と色合いが合わせられているようで邪魔にならない舞台というが大丈夫だろうか。ベルリンでの稽古から聴いていて、メータの微に入り細に入り各セクションを浮かび上がらせるのと同時に全体を平均させて音色を作る手腕と、そのヴェルディの管弦楽の交響楽的な響きがフィルハーモニカーから聞かれるようだ。

そして嬉しいことに、このクーン氏は現在フランクフルトに常駐していて、クラウス・グートと一緒に仕事をしている。そのもの昨年評判がよく出かけた「メリーウィドー」と今年同じようにワイン祭りの時に出かける「リデリンデ」も手掛けている。これはとても期待したい。ウイルソンはそのコンセプトがどうであろうと、その劇性に感心したことが無い。この人がいい仕事をしてくれることに期待したいのだ。




参照:
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
少年少女合唱団を推薦 2018-12-25 | 暦
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還暦おめでとうの誘い

2019-04-02 | マスメディア批評
ミュンヘンのオペラでお馴染のティール氏が還暦祝いの指揮者ティーレマンにインタヴューをしている。4月2日からのザルツブルクでのマイスタージンガーの稽古を前に、お休みするという。その楽劇について面白いことを話している。ニュルンベルクへの試験でも二回これを振って、バレンボイムに代わってバイロイトにもデビューしたのがこの曲だという。そして経験を付けたことを自負していて、自分の古い録音もところどころ聴くと吐露している。これも指揮者としてそれを認めるのもとても珍しい例である。そして今の方が早く流れるようになったと漏らす。昔は詰め込み過ぎて意気込んでいたという。

そして滑稽なのが、指揮が小さくなってきたことを指摘されて、それは一流の証拠で、それをバイロイトで習ったと話し始める。なぜならば、あそこの過酷な条件では体力を温存することが大事で、客に向かっては指揮しないぞという衒いも無くなったという。これを読んで思わず吹いてしまった。目に浮かぶのは猿股にピンクのポロシャツを着てガサガサやっている姿だけだ。その通り、一流の指揮である。

その他、十年前の五十歳の誕生日の時はミュンヘンで騒動に巻き込まれていたが、今は習って何にも怒らないようになったという。もうその歳になると、自分にバカバカと苛立つだけらしい。そして最後にジャーナリストとしては欠かせないザルツブルクの復活祭について触れる。

一言「それについては、何も知らないから、何も言えないよ」と答える。そして付け加えて「急場に、シュターツカペレドレスデンがとんでもなく上手く入った」ことを強調する。ティール氏はこれはまるでミカドゲームで先に動いたものが負けだなと今更の如く書き添える。そして再びインサイダー情報として、「バッハラーをそこに据えたのはバーデンバーデンとのスワッピングが目的だ」と同じことを繰り返す。

この説が繰り返し紙上を飾る意味をようやく考えるようになった。つまりティール氏も流石にバーデンバーデンでの状況は私の呟きを読んでいるぐらいだけで分かることなので知らない訳はない。2023年までと敢えて2022年を超える計画にまで言及しているのも知っている一方、「バーデンバーデンからはベルリンのフィルハーモニカーへの投資が血を流す結果になりかねないとの懸念が聞こえて、契約を延長しないでもそれほど悲しむことは無い」としている。

この記事を再三読んで、彼の文章の読者層は少し喜ぶかもしれない、しかしそれだけだ。一番影響を受けそうなのはやはりティーレマンではないか?鷹揚になったと自身は語るが、誰よりも裏工作には余念がないであろう。そして本気になればバーデンバーデンへと自らとシュターツカペレを組でと積極的に運動するのではなかろうか?保身も含めると最も安全な道と判断してもおかしくはない。そもそもバッハラーとペトレンコが口合せして動き始めることは無い。すると来年の「ドンカルロ」の予算をバッハラーが握っていると、疑心暗鬼が醸成されて、2021年の「テュ―ランドット」どころではなくなる。

この記事には二か所注目する表現が隠されている。一つはティーレマンの立場に関して、バイロイトでは企業家としていることと、もう一つはシュターツカペレの方が先に動いて然るべきとしていることで、そもそもシュターツカペレは動く必要が無いので、まさしく動くのはミカドゲームでティーレマンとなる。恐らくこれが全体の構図であり、外堀が完全に埋められている限り動くのはティーレマンでしかない。

実際にはバーデンバーデンの方も懇意の興業師の支配人が引退を表明していて、当初の予定のような勘定方をすることが無いとなると、やはりカラヤン未亡人を通じて、奥へと手を伸ばして打診してくるということだろう。今年になってからも代表の連邦共和国元副首相、現連邦議会議長のショイブレ博士がバーデンバーデンに顔を出していたが、流石にそこは取り合わないでもその周辺の有力者へと手を伸ばしてくるということになるのだろう。
Sir John Eliot Gardiner & LSO im Festspielhaus Baden-Baden




参照:
Christian Thielemann über seinen 60. Geburtstag: „Ein tolles Alter“, Markus Thiel, Merkur vom 1.4.2019
真剣に音楽を分かち合う 2019-03-17 | 文化一般
利益背反のドレスナー 2018-11-17 | 文化一般
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オーケストラがやって来た

2019-03-12 | マスメディア批評
新聞に木曜日の初日の評が載っている。「再び街にオーケストラがやって来た」とはじめている。その旨は、「熱く音楽をする者と聴衆がある定められた方向へと結びつく音楽を提供するという意味においてだ」としている。そしてシェーンベルクの演奏に関して、「ペトレンコが凄い集中力と身体を制したところでやって見せたもの」をジャーナルしている。

「インタヴューを拒絶するだけの身体的な限界となるもので、最初の子守唄のような微小の波からの経験したことの無いような動きで ― 動きが無ければ音楽ではない」と書いて、「それでも技術的に欠点なく、指揮台の人間の意思を伝播することと、実際に音楽をして天上で心身一体となることはまた異なる」としている。要するにミュンヘンのようにはまだ行かないということだ。

チャイコフスキーに関しては、「やや通り過ぎたヴァルツァーや空回りした二楽章や苦行のような始まりよりも最後のフィナーレのファンファーレの力強いアッチェランドの方が印象に残った」としていて、全く私と同じ感想だ。この記者がペトレンコを追っているならば、三日目でも私と同じことを言うだろう。そしてこのフィナーレの解決を「独語では表現の難しいFull of himself」としている ― インタヴューでの「影の無い女」言及に相当するか。

それでも面白いのは、「デジタルコンサートホールと熱心なツィッターのお蔭でベルリナーフィルハーモニカーがグローバル世界市場で位置を築き、そして欧州に、その所謂メインレパートリーに戻ってきた。」としていることである。これはどいうことかと言えば、伝統的独配置の音楽とシェーンベルクの言う独音楽の優位性が、ストリーミング技術などで世界に伝播されるということでもある。楽団が熱心に呟きをしているのも、フェースブックよりも力を入れているのも知らないが、SNSとせずにツィッターとしたのは興味深い。

嫌われることを臆せず書くならば、せめて音楽ジャーナリズムというならばこれぐらいのことは書きなさい。日本語でこの程度の新聞評も読んだ記憶が無い。だから金だけ自由になるようなあまりお利口そうでもない聴衆を増殖させるだけなのだ。

土曜日にミュンヘンの劇場からアンケートが入っていた。ドイツ語の質問だったから、国内向けのメールだったのだろう。先着500名から抽選で、国立管弦楽団ツアー写真集を10名様に、また見学ツアーの券を全回答者の中から20名様にということで、メールが入っていたのが9時過ぎ、答えたのが12時過ぎだったから先着に乗り遅れたかもしれない。書いてあった通り15分ぐらい時間が掛かった。この12カ月に関する質問は多岐に亘っていたが、それまでの最初の訪問時期、そしてオペラなどジャンル別の訪問回数、またその訪問理由、その他の劇場やフェスティヴァルのリストアップや ― バーデンバーデンの劇場をオペラ劇場として書き加えておいた ―、車で出かけて車で帰ること、ガイダンスの参加やその評価、また五ユーロでの椅子予約の利用可能性、字幕の評価に、クロークやお客様対応窓口の利用、またプログラムや会場案内の評価、レストランの評価などに答えた。その他自身が水準以上の見識があるかなどの自己評価なども興味深かった。



参照:
Ein Athlet beim Wiegenlied, Christiane Tewinkel, FAZ vom 9.3.2019
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
フランクフルトにやってくる 2019-03-09 | 音
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知らぬ存ぜぬジャーナル!

2019-03-06 | マスメディア批評
レイフ・オヴェ・アンスネスと称するピアニストが日本でのリサイタルをキャンセルした。更に協奏曲を演奏するベルリンの放送交響楽団との協奏曲の曲目を変更した。これは3月5日に日本の招聘元から正式発表された。ピアニストが故障していて、弾けても三流のピアノしか弾けないことは2月22日の生中継で確認されていた。しかし放送局のサイトにもまた放送局の批評にも地元の新聞等にもその故障に関しては触れられていなかった。なぜか?

日本公演の曲目が変更されたモーツァルトになることは22日の放送の中で言及されていた。つまりその時点で曲目変更は決定していた。そもそも交響楽団と初共演で、更に日本公演をするのに本番無しで出かけるなどということはありえない。よって、管弦楽団の準備ものあるので少なくとも2月の中旬には曲目変更は決まっていた筈だ。調べられていないが、私が2月7日にコピーして掲示した放送計画の「モーツァルト付き」プログラムは遅くとも1月の終わりに出ているので、恐らくその時点から偽りが通っていたことになる。

さて、ここで注目したいのは、最初に日本での演奏曲に言及した放送のアナウンスである。実は私もその口調がおかしいと思った。たとえベルリン方言でもあの語尾の濁し方は放送関係者としてはありえないと思った。つまり、最後がwenn …. machen würde.で濁らしていたのだ。普通は綺麗にwird.で明快になる筈だった。その意味するところが実は分からなかった。

そして今、「ああ、あの時点でピアニストが同行するのかしないのか、まだ揉めていたな」と理解した。つまり日本でのリサイタルだけでなく、協奏曲もご破算にして、プログラム変更の可能性もあったということだ。その後の批評も放送局では批判的であっても「アンコールで聞かせたので、悪かったのは選曲違いだろう」とまた言葉を濁していた。

こうした状況を見ると、差別的に「やはり奴らは所謂オッスィーだな」となる。要するに東ドイツの官僚主義の最たるもので、放送局は嘘をつかないという最低のアリバイを作り、モーツァルトの演奏を批判した。自らの正義を守るためだ。誰かに似ていませんか?その通り日本社会そのもので、関連する音楽ジャーナリストでこの件に言及した人は何人いたのだろうか?アリバイを呟いた人はいるだろうか?恐らく知らぬ存ぜぬを通す筈だ。なにも報道だけでなく官僚組織の無謬性さえも誰も信じないから当然である。

ジャーナリズムを名乗るならば、二本電話を掛ければ済む。一本は放送局に番組担当者恐らく話していた人から言質を取り、そして交響楽団かピアニストに確認を取れば全て裏を取れたことになる。なぜ誰もそれをしないか。糊代を凌いで、ジャーナリズムとは名ばかりだからである。

ここからは推測でしかないが、地元ノルウェーでの1月末の記者会見の伝えるところによると夏には盛大に名手を読んで室内楽音楽祭を催してピアニストは自らも毎日弾くと豪語していたいう。地元は経済効果もあるのでそれで満足だが、音楽業界やその市場はそれに肖ることになる。そもそも初共演のピアニストを要求したのは日本の招聘元ではないか?年がら年中「この程度の楽団」に日本の人気演奏家ばかり宛がうのではという「専門的な市場判断」だったのだろう。それならば帯同をキャンセルということは招聘側が認めなかったことは想像可能だ。それがベルリン側の歯切れの悪さだった。そもそも新シーズン発表のヴィデオにこのピアニストの名前が入っていないではないか。

ベルリンでの共演曲目が1月中には決定していたとして、その時点で日本での公演プログラム変更が出来なかった理由は2月22日の演奏会を待って、その様子で帯同の可否まで最終判断ということはあったかもしれない。そしてあの演奏で更に危うくなった訳だが、同様に怪我をしたランランの例を見れば分かるように、三流のピアノでも大衆市場は売り込んだ名前ついてくるという専門的な見地が働いたのだろう。

宜しい、市場があってこその招聘であり、プログラム構成であるから餅は餅屋にお任せしよう。しかし放送の時点2月22日以前に日本公演での曲目変更は決定していたので、少なくともその放送直後にリサイタル中止とは別にその情報を出さなかったのは商道徳上の問題であり ― 勿論売れ残りをブラームスの協奏曲で捌こうとしたと批判されても反論できないだろう ―、だから放送局周辺もお茶を濁してアリバイ作りに躍起になったのであった。また当然のことながらユロウスキー監督がアルペン交響曲をやろうと思っても通らない世界である。尚更20分もの著作権料を新曲に誰が払うか!これが現実である。

だから、これだけは批判しておこう。そうした裏事情を上手に伝えることこそが音楽ジャーナリズムで、そこに注意を向けさせないことには何ら批判的で建設的な活動とはならない。それが出来ないような者が深遠な芸術について墨を垂らすなどおこがましい限りだ。この背後事情がただの舞台裏話だけでないことは音楽通ならば皆感じている筈だ。必要な知見を聴衆も共有しないことには芸術の需要とはならない。せめて、ベルリンの放送局がやったようなアリバイ作りに薬を盛るぐらいのことはして欲しい。知らぬ存ぜぬでは一体何を伝えようというのだろうか?宣伝媒体としての商業ジャーナリズムは認めよう、同様の市場がある限りは。しかし、そこにジャーナリストなどは存在しない。



参照:
謎多い麗女が決めるもの 2019-02-26 | 女
怒る影にある男 2019-03-05 | 雑感
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「ナチは出て行け」の呟き

2019-02-07 | マスメディア批評
先週気になる記事が出ていた。流行り言葉「Natzis raus」が見出しになっている。第一面横の所謂社説コラムなので目を引く。この言葉が意味するものは誰にも明らかで、所謂外国人排斥のパロール「Ausländer raus」つまり「外国人出て行け」と叫ぶレイシストのそれを裏返したものだ。新聞によるとその言葉が公共文化波ドィチュラントクルテューアの呟きとして書かれているらしい。要するに社会的に少なくともネット上は認知された表現となる。

新聞は同じ状況として「右翼」というのはもはや健全な保守派を指すのではなくて同時に「極右」を指すようになっていると状況を説明する。つまりネット住民にとっては最初のパロールを以って「私はそこに属することの無い真っ当な人間」であると主張することと同意義らしい。編集者は、ラディオ局の呟きは、そもそもネットにおける荒らし右翼に対して、「ナチは出て行け」となっていると説明する。

一体どこに、ポーランドかフランスかデンマークかベルギーかオーストリアへと追い払うのかという疑問は別にして、そもそものナチにおける外国人を人種的に差別した暴力的排斥は刑に問われて、rausではなくrein、即ち追放でなく拘束による治安だと書く。つまりネット上での匿名のそれはナチの方法ではなく、身を隠しているのでそれではないとしている。

寧ろ問題点は軽々にナチ呼ばわりすることで喜ぶのは正々堂々と出てくる本物のネオナチであり、政治的には右翼が悪いとされるのも例えばキリスト教社会主義の民主主義的な価値観の欠落に起因するとしていて、要するに「右翼も極右変わらず」悪くされるその背景について説明する。

否定されるナチ自体が他の意見を封殺するそのやり方の方が、過去への評価の問題以上に悪いとする。当然のことながら思想の自由とそれを担保する憲法の解釈への議論、そうした現在世界中で顕著な動きが大まかに示唆される。ここまで読めばどうもこれは呟き問題でもあり言語表現の問題でもあるように思う。

この高級紙は第二の勢力である政党AfDに対して厳しくその実態を暴き、糾弾し続けているが、ここではとても慎重にそれらに対するカウンターの在り方を諌めている。ネットでは音楽家ではイゴール・レヴィットなどが最も激しくそのカウンターとして活動しているが、それ以上にやはり監視することによる牽制も重要だ。

連邦共和国の音楽家では何人かはこの新聞紙上でも注目に値するその言動が問われた。最も有名なのは指揮者クリスティアン・ティーレマンだ。この指揮者に関しては、その演奏会は一度行けば十分だったが、最も長くウォチャーを続けていて、キリル・ペトレンコなんかよりも長いお付き合いである。そのような切っ掛けになる新聞記事があったのは、同じ指揮者インゴ・メッツマッハーである。これは20世紀の音楽も得意にしていてアンサムブルモデルなども指揮していたので、誰もがリベラルな音楽家として疑わない。ベルリンの演奏会で、プフィッツナーとこともあろうにリストの前奏曲を前後のコンサートで取り上げて十分な釈明が出来ていないというものだった。その方の組織ではリストアップされているに違いない。その他過去の人では歌手エッダ・モーザーなども明らかにこの範疇に入る先導者である。

そのティーレマン指揮の演奏会には人が入らなくなった。エルブフィルハーモニーでは当日まで前売り券が出ていた。戻り券かどうかは分からないが、ラトル指揮ロンドン交響楽団などではそうした余剰券がそもそも存在せずありえない。そして同じ興行師プロアルテが扱っていて、なんと驚くことに224ユーロも徴収している。同じ時期にベルリナーフィルハーモニカーをネゼセガンが指揮してもまともに興行すれば180ユーロほどしか請求されない。興業師の儲けが如何ほどかは直ぐに算出可能だ。「広告費や手間などを掛けなければ君たちの演奏会など誰も来ないよ」と、彼らに言わせたらこうなる。つまり売れ残るのは当然かもしれないが、それでもラトルの指揮や知名度にはそれなりの価値があるのだろう。

エルブフィルハーモニーも一巡二巡したので、通常の売れ方の近づいてきている。偶然にもティーレマン登場の後はNDR管弦楽団を振ってメッツマッハーが出る。NDRは「ユダヤの小さなグノーム如きで、アルベリヒのようだ」と、ペトレンコを散々侮辱したが、なにかハムブルク周辺にはその手の根が蔓延っているのだろうか。街の印象では昔からそのような感じはないのだが、南と比較して根暗で開放的な感じは薄く、丁度大阪のおっさんが笑いながら反対の方向に指して道を教える雰囲気に近い。シュピーゲル社の本拠地でもあるSPDの牙城だが、長期低落傾向の左派の虚飾のようなものをそこに感じる ― まさしくそれがAfDを育んだ。



参照:
独精神についての疑問視 2007-10-13 | 音
言葉の乱れ、心の乱れ 2006-10-28 | 女
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
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ミュージカル指揮の意味

2019-01-27 | マスメディア批評
ミュンヘンのオパーフェストの日程を見ていた。今回は二回野外での公開ものがある。いつものオペラと野外コンサートの二本立てということで、来年はペトレンコ指揮の最後の年でどうなるのかとも思った。それよりも発表されたプログラムが示唆するものの方が興味ある。

先ず歌手は、ゴルダ・シュルツとトーマス・ハムプソンが新たに挙がっていて、曲目もガーシュインとブロードウェーミュージカルとなっている。つまりガーシュイン以外にも何かを振るということだ。コルンゴールトかも知れないしほかの何かかもしれない、不案内なので分からない。そして、上の二人を採用したのも気が利いている。私のツイッター仲間ではないか。

そして本当の関心所は違うところにある。恐らくヴァルトビューネは来年もまだ登場しないと思うが、今年のジルフェスタ―コンツェルトはミュージカルプログラムになってこの二人の登場もあり得るかもしれない。そうなれば私もベルリンまで出かける必要はなくなるが、さてどうなるのか。今迄の経験から四月の発表で、コロムブスの卵のように「何だそんなことだったのか」とそれほど捻りがないことが殆どだったので、そのまま行くかもしれない。

「フィデリオ」にもう一つ新聞評が出た。殆ど異常な再演への関心の高さである。短いながらも南ドイツ新聞が報じている。面白いと思ったのは出だしで、「僅かばかりの音で、彼は本当の指揮者だと分かった。強打、そして奈落から湧き起る弦楽の音で、舞台の一人の女の孤独を感じさせた」とまるで日本で活躍のライターが書いているようなそのものの書き様である。なるほど何が起こっているかを報じるジャーナリスト的な視線も感じられるが同時に、吉田秀和から小林秀雄へと遡れるような私小説系のコラムである。名前を見るとヘンリック・オェルディンクとなっていて日本人でも女性でもなかった。若い人かもしれない。NZZやFAZでは考えられない書きようであるが面白いと思った。続いて「クレッシェンドが男装へと着替える女性を下打ちして」と描写を試みる。

しかし次の段落からは、「この再演が容易なものではなくて、ガッティ指揮の時は音楽的に評価できるものでなく、今回も長いレオノーレ三番の序曲からプラスティック板の迷路に佇む主役の女性に付き添い演出の嫌味に翻弄されなければいけなかった」と音楽監督キリル・ペトレンコの最初のフィデリオに期待させられたとしている。「直ぐに緊張感を作り、音色とダイナミックスへの賢いセンスでもって、彼がどんなに音色の魔術師であるかを証明した」と絶賛する。

更に「ペトレンコの強みは、楽員との信頼関係でもあり、二幕の弦楽四重奏132のアダージョでの泣かせてくれて、バカバカしく駕籠に入って演奏していることも直に忘れさせてくれた」とこれまた故大木正興が書いているのかと思ってしまった。歌手の成果にも一寸触れて、最終的にはペトレンコが持って行ったと御馴染の締め方をしている。恐らくこの書き手は音楽ジャーナリストではなく普通の社会記者みたいな人かもしれない。所謂音楽オタクかもしれない。恐らく私が今まで見かけた中でドイツ語で音楽に書いてあるものの中で最も日本のそれに近いものだった。一度ご本人に会ってみたいぐらいに興味深い。広大ぐらいに留学して修士でも取っているのだろうか?

またまたフィンレー氏のいいねが付いていた。ジュリアードでのセミナー中継を紹介したからだが、中々マメで偉いと思う。オックスフォードに留学していた筈で、流石にSNSの使い方やその意味をよく分かっている証拠である。私個人としては現在オペラ劇場関係の話題を扱うことが多いのでどうしても偏るのだが、本来ならば声楽部門とはそれほど関係がなかったのでとても不思議に思う。

兎に角、自身のサポーターのような人を10人ぐらいつけていれば、利害関係なしで無料で広報してくれるのだから、こんないいことはない。そもそもキリル・ペトレンコがメディアの支援を受けずにつまり芸術的に不利になりかねない関係を断つことが可能になったのもSNSのお蔭であることは賢い者は皆認識している。更にそこに公共的な資財を利用出来るようになればもはや商業的な援助は全く必要が無くなる。

ARTEでゲヴァントハウスのブルックナーの七番が放送されるが、既にオンデマンドになっている。放送されるものはもう少し質が高いのかどうか?少なくともMP4自体はサウンドが126kBitしか出ていない。あまり音源としては使えない。



参照:
Endlich er, Kirill Petrenko dirigiert erstmals "Fidelio" an der Staatsoper, SZ vom 25.1.2019
LadyBird、天道虫の歌 2018-07-01 | 女
そこに滲む業界の常識 2019-01-16 | 雑感
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週末に考えること

2019-01-26 | マスメディア批評
この週末は幾つか片付けないといけないことがある。先ずは来週末のミュンヘンからチューリッヒを繋ぐ途上のホテルをキャンセルすること、若しくは天候などを見て判断すること。また木曜日に劇場の食堂で忘れたマフラーの紛失を届けておくこと、また「ミサソレムニス」への準備を開始することなどである。また来週頭に会計士に依頼するメールなども整えておくこと。三月は余裕が出来るが、そこまでは流してしまわないと駄目だ。

金曜日に朝寝して森を走ったが、帰宅の車中のラディオがペトレンコのアシスタントを務めていて、今度シュトッツガルトにデビューする女流指揮者のインタヴューを流していた。「サウスポール」世界初演でアシスタントを務めていたというから、現在グラーツの監督をしているリニヴの後任のフランス人ジャコーである。女流ばかりになるのだが、コンサート活動もしていて、丁度現代の音楽もクラングフォーフムで振り慣れているらしく、世界初演には役に立つ助手だったのだろう。大体どの程度のアシスタントが選ばれたかは、彼女らのその後の経歴を見ればよく分かる。どこかで見た顔だと思えば昨年の座付管弦楽団のカーネギーホール初公演の時にも同行していて、プレプログラムなどを振っていた。

ペトレンコのアシスタントは、「全てが音楽に向けられていて、どこが良いのか駄目なのか、殆ど授業のような感じで、今でもその教えに感謝している」と話す。もともとトロンボーン奏者として楽団でも吹いていたようで、28歳の若さにしては経験豊富な感じである。力があれば直ぐにコンサート会場でも馴染みの顔になるかもしれない。

「フィデリオ」再演の批評が二種類出ている。再演としては話題だ。一つはDPAの通信社で流されたもので誰が書いているか分からない。内容は短く、簡潔としても報告を超えていて批評をしているのでなぜ匿名扱いのなるのだろう。もう一つは地元紙であり、その名前にも記憶がある。

このあまりにも厳密に行う指揮者が初めて指揮をするとなれば、十二分に考慮したと考えられるわけだが、それもこの特別な多面的な作品「フィデリオ」となればとなる。となると、この再演に当たって、特に性格的に特別でなく作品に向かうとすれば少し驚きとなるとして、レオノーレ三番が序曲におかれた導入においても、過剰に重く深刻になることなく軽妙さを失わずに、無重力なヴィヴァ―ツェと、彼のいつもの流れの早いテムポを保ったとなる。

絶えず弦を張りつめながら、管楽器の音色が輝き、「フィデリオ」のオペラ的な開始に見合う。しかしそれがこの作品の傷でもあり、喜劇的なその導入からの管弦楽の力強い叫びへと、ペトレンコの仮借なさはこの作品において限定的なあり方とされる。

また穴掘り強制の希望の無い場面からフィナーレへと暴力的にとげとげしく解放されるのではなく、ペトレンコの帰来の音楽性によって無理なく繋ぎ合わされたとしつつも、この断面が平坦化されたとも書く。

若いペアーの魅力的なミュラーとパワーを誉め、グロイスボックのベルカントのその総唱でも低音が浮かび立つほどの声はロッコ役には期待されないほどとして、ナズミの信頼置ける以上の歌と評価する。そして、カウフマンがセンセーショナルな声のコントロールで無からの不信の叫びへと歌い上げたとした。そうした最高度の歌で、パートナーのカムペの歌を望まざらず難しくして、声自体が高い領域で厳しそうなのを、賢明なフレージングと表現力豊かなセリフで部分的にのみ対抗するに至ったと書く。

コッホの不安定な低音でドンピッツァロを疲れた事務職にしてと、この再演の落ち着かない暗い要素を、声楽的にも管弦楽的にも軽くしたように思えたと、ジャーナリスト的な報告としている。恐らく当晩の公演からその満足度六点中五点を含めて、批評できることはざっとしているかと思う。詳しくは各々の読者に問うか、若しくは何回か続けて聞いてからで、早々に結論じみたことをいうというのは早急で、これぐらいが正しい纏め方だろうと思う。



参照:
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音
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貧相なエンタメを嘆く

2019-01-03 | マスメディア批評
年末年始の批評を幾つか目にする。なぜか最もエキサイティングで今後とも重要で話題となるベルリンでの第九があまり触れられていない。昨年のマーラー版への反響は就任初めての第九ということでそれなりにあった。恐らく今回のはより楽譜に当たらなければいけなかったかもしれない。どちらにしてもこの二回の第九コンサートの録音は第九の録音の比較ということでこれ以上の喜びは無いものだ。なるほど合唱団や独奏者はライプチッヒのそれには至らないかもしれないが、これほど興味深いものは知らない。

それに比べるまでもなく、その他の催し物の批評を書く評論家には、仕事とはいえながらご苦労さまと言いたい。ヴィーンの新聞はノイヤースコンツェルトはドレスデンのそれを睨みながらとなっている。しかしそれよりもARD対ZDFがドイツのメディアの構造の作り方だ。つまり、ミュンヘン対ドレスデンとなる。ミュンヘンのティーレ氏がそれについても言及している。

New Year's Eve Concert of BRSO


Die Fledermaus Aus Der Semperoper


つまりナレーションでのゴチャルクの実力と腰の曲がらないデョモンでは勝負ありで、寧ろ疑問を呈しているのはプログラミングだ。そもそもそれほどのものかとは思うが、どうも私同様な感想を得たようだ。そもそもこのようなエンターティメント企画だからどうでもよいようなものだが、会場のライティングなどにも言及していて全く私と同じ気持ちが伝わる。そしてそのプログラムで何を示しても、結局キッチュになりかねないという恐れが実はヤンソンス指揮のこの放送管弦楽団にないかということが意識に上ってしまうのだ。

それに輪を掛けてランランが出てくるものだから、そんな高額なソリストが本当に必要なのだろうかと訝る。まさしくモーツァルトの楽章とあの「黄河」まで、アンダンテに続いてアダージョを弾いたランランが示したものだ。キッチュ以外の何ものでもないとなる。

それどころかランランは前日にも出演予定だったのを取り止めて、大晦日だけにしたらしい。代わりは流石にユジャワンではなく、スンジチョウだったようだ。ゴオチャルクもアンコールで長くなるのを見て、次の番組出演に早退したことにも触れている。全体の印象として貧相さは免れなかった。

一方新聞にはヴィーンのノイヤースコンツェルトの申し込みが直に始まり、その桟敷価格が千ユーロを超えていると知って驚いた。社交でその額を払うならもっといい使い道がありそうなものだ。だからNHK単独で8Kで中継録画を試みるというのだろうか?一体どのような経済効果があるのだろう。NHK小役人の容易な企画だろう。

今晩は再びプロムスの再放送で、ユジャワンの弾くプロコフィエフの協奏曲三番が楽しみだ。ラペリもよかったか。シュミットの方は会場の音響がもう一つだったような印象があるが、再度確かめてみたい。



参照:
ヴァルツァーの躍動感 2019-01-02 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
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玄人の話題になる評論

2018-11-27 | マスメディア批評
最も権威のある独語新聞ノイエズルヒャー新聞がオテロ初日の批評を書いている。オペラ批評としては秀逸で、音楽的にここまで演者と聴衆双方にとって参考になる記事は少ない。比較的長めなので全訳はしないが、音楽ジャーナリズムに興味のある人は読んで欲しい。理由は書いたように参考になるからだ、これを読めばお客さんも含めて全て係わりのある人が何かを考える切っ掛けになるからだ。高級紙はどちらかというと高踏的になり過ぎて哲学的な社会学的な考察へと進んでしまうのがオペラ批評の常であるが、この昨年日本へも同行したマルコ・フライ記者のザッハリッヒでとても具体的な記事は音楽的で更に専門的な考察を促す。

実はアバド指揮のオテロ上演を二幕まで聞いて、色々とつまりその重要なイアーゴのクレドのシーンが上手くいかずにチグハグニなっていたのに驚いていた。考えられるのはアバドの指揮があやふやになってきていたとしか考えられなかった。当時はまだそれほど体調を崩していなかったと思うのだが、どうなのだろう。折角のライモンディーのイタリア語の輝く声も役に立たず、勿論若いクーラが支えられる筈もない。森を走りながらもオペラ指揮者の職人技とも関係がないなと考えていた。そして先週の初日のそこを聞き返すとあれ程声の威力が足りないと思っていたフィンレーのイアーゴとの音楽運びがばっちり決まっていることを発見した。

なにも贔屓の引き倒しのために一度下げてから上げようなんて思っていないが、まさしくフライ氏がそこから書き始める。「二幕のそこまで聞けばこのカナダ人フィンレーの歌唱がこの制作の抜き出た存在でまさに新発見だった」とまで賞賛している。そこまでの確信は私は持てなかったので更に読み進むと、ペトレンコの指揮とも深く係っていることが分かってくる。その点に関しては上のクレドにおける難しさをアバド指揮で知り、同時に恐らくフォンカラヤンならば強引にべとべとにペイントを塗り込むような演奏をしているのが想像されるからだ。

しかしペトレンコの指揮は、殆ど印象派風の音色で - つまり筆者はヴァークナーと異なりヴェルディーはライトモティーフではなく、それによって楽曲を構成しているとしている、敢えて私のように調性と言わずにに色のコムポジションでってところだろうか - イタリアの楽曲をミュンヘンの座付楽団に深いところで引き寄せたとしている。私などはこれを読むとぞくぞくとして、生ではどのように響くのだろうと興奮してしまうのだ。似通った例はプッチーニの「三部作」にもあったが、あれの方がむしろ放送でもよく分かった。

そしてフィンレーが有効に使った指揮者の与えた表現空間を、二人の現在最高のペアーが使い切れていなかったと鋭く迫る。つまりデズデモーナのハルテロスとオテロのカウフマンについてである。前者に関しては「声がでか過ぎる」というような馬鹿な評論も見かけたので、それは流石に「何も分からないおばさんがジャーナリスト顔して書いているわい」と玄人筋には思われるだけだが、少なくとも本人も目を通すと気分もよくないが気になる筈だ。それでも全く参考にはならない。

しかし高品質なジャーナリズムはポイントをつく。今までの期待からすると明らかに色褪せていて、特にハルテロスは頂点を超えたとする。「バイロイトのエルザでも中音域が危なく、暖かく色気のあるヴィブラートも色あせていた」としっかりと聞いているからこそ批判できることを書く。そしてミュンヘンの「オテロ」では、前半で可成りのイントネーションの問題が表出したと批判する - まさしくアーティキュレーションの問題で、声を作るために問題化していたと私が指摘したその通りだ。

そしてカウフマンの問題を分析する。「こちらはロンドンでも既に問題化していた通りだが」と前置きしながらも、バリトンに近いつまりドミンゴに近い暗めの声ながら、ドミンゴがバランスの取れた技術と中音域の稀なる色彩に依存したのに対して、カウフマンは柔らかな高音に苦労して殆どニュアンス豊かな透明な表現が出来ないとバッサリ切る。そしてカウフマンのオテロには求められないとしている。それは暗い声質のカウフマンのディレンマであり、この二人の劇での夫婦の亀裂が音として聞こえるようだとどこまでも辛辣だ。しかし、この記事をお二人とも読んで嫌だなとは思いながらも恐らく本人たちが実感していることであり、今後の仕事への方向性にも関することなので破り捨てはしないだろう。そのような二人ならば歌手としてあそこまでの域に達していないのは当然だからである。そしてここまで書ける記者の取材ぶりには敬意しかない。問題点を明らかにすることこそが次への可能性を開く唯一の方法であるからだ。

そして、ペトレンコのイタリアものレパートリーについて2015年の「ルチア」との比較で、あの時はまだまだブレーキを掛ける手綱捌きがあったのだがとその問題点を指摘しつつ、今回はあらゆる面への自由を与えつつ、決して統率を失うことなく、イタリアものの時には本当に気持ちよく指揮していると完全に克服したとしている ― ヴェルト紙の阿保おやじに限らず「鞭を入れ」とかの表現が目立った中でとても明白な反論をしていて溜飲が下がる。これに関しては私は本番まで時間があるのでコメントは避けたいが、氏が書くようにイタリアものへのこのようなプロフィールを強化すべきかどうかも先ずは保留したい。正直、放送だけではまだ聞き取れていないことがまだまだありそうだ。

この記事を読んで、シリーズ残りの上演のなかで何か対処可能なことは殆どないかもしれない。しかし、少なくとも次の公演からはやはり心理的にとても影響される。こういう玄人筋の話題に上るようなものであると同時に、一般の聴衆にとっても色々と音楽のことを考えさせてくれるジャーナリズムでなければいけないというとても好例だと思う。




参照:
Wenn Kirill Petrenko am Werk ist, lauscht man ganz genau:, Marco Frei, NZZ vom 25.11.2018
ドライさとかカンタービレが 2018-11-25 | 音
初日に間にあったSSD 2018-11-23 | 生活
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
ARD真夜中の音楽会 2018-02-09 | 音
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新支配人選出の政治

2018-11-13 | マスメディア批評
先週のニュースの反応が不思議である。ヴェルト新聞のヘイトアホ親仁が書いている通りだ。SWR2などの関係する報道機関のみは事実関係だけを短報として伝えている。だから週末まで気が付かなった。ザルツブルクの復活祭はそれなりに催し物として公認されていて、そこの新支配人が決まるというのは文化ニュースとしてそれなりの価値がある。ヘイト親仁は肝に据えかねたのか今になって報じた。周りを見ていた臆病者に違いない。狐に包まれた感じとはこういうことを指すのか。

日程は事前から報じられていてショー的効果がお膳立てされた中で、ティーレマン監督を州政府関係者が訪問して直接その意思を確かめて、次期支配人には、芸術監督がその就任に強く反対した現ミュンヘンの劇場支配人バッハラー氏が推挙された。これによって2022年からの就任と復活祭プログラムの同意権行使が決定した。それに先立って2020年7月1日付けで経営権を握る。同意権はないかもしれないが、予算を握ることになるので大きな影響を与えるのは間違いない。

ザルツブルク州の音楽祭諮問委員会を辞任した緑の党を代表する作曲家のダンツマイール氏から背後事情が漏らされている。ザルツブルガーナハリヒテン紙が伝えるところによると、益々減少する後援者数と関心の減少が、不正経営のスキャンダラスを何とか耐え抜いた祝祭を圧迫しており、経営上も立て直しが諮られているらしい。その一つとして、支配人の重要性と同時にティーレマン監督祝祭の人気の無さが拍車を掛けているという現状認識のようである。つまり、バッハラー支配人とは協調できないと明言した芸術監督の辞任は予め読み込まれていることになる。

通常ならばこれでティーレマンが退陣して、ザルツブルクから椅子を蹴って出て行くのだが、バーデンバーデンへと移ったベルリナーフィルハーモニカーに代わって音楽祭の中心となったシュターツカペレドレスデンにとってはこのザルツブルク公演があるからこそのティーレマンという。つまり音楽祭の監督を投げ出すと同時にシュターツカペレの指揮者としての 地位も揺らぐとされる。

正直シュターツカペレとティーレマンの関係はよくわからない。一度しか聞いたことがなく指揮者の実力からすれば可もなく不可もなくの凡演だった。そもそもこの指揮者のどこがよいのか全く分からないので判断に困る。但しハッキリしているのは客が入らないことだ。座付管弦楽団でもミュンヘンのツアーのコンサートの方が売り切れになる。ペトレンコと比較しても仕方がないがこのオペラ指揮者には人気がないのだろう。

この件は当初から政治事件として捉えられた。そもそもバッハラーが次期監督に名乗り出たということ自体が驚きであり、真偽のほどが疑われた。しかしこうして結論が出るとティーレマンの天敵としての意思で応募したことになる。バイロイト音楽祭の場合は最初から抗争の構図が明らかだったが、ザルツブルクにおいては敢えて打ち落としに行くとは思わなかった。ミュンヘンにおいてもケントナガノから辞表を出させるような形で首を取り換えた実績があり、そこまで待たずともティーレマンが自滅をするようにここまで慎重に進められた様子がある。なるほどザルツブルク州は「ティーレマンを追い出すことはしない」と外交的な姿勢を崩していないが、シュターツカペレドレスデンと音楽祭の関係は保全されるとの感触なくしてはこのような結論には至らなかったのは当然で、まさか交換可能なゲヴァントハウスとの密約が成立しているとは思えない。つまり、ドレスデンでのティーレマン切りの憶測が立っているということだろうか。

確かに今晩二度目のコンサートとなる共生のための催し物はシュターツカペレが明白にティーレマンのペギーダへの関与を責めるものであり、そこで政治と芸術を混同しないというような言論は成立しない。へートに繋がるような発言や行動はMeToo以上に厳しく対処される姿勢を示すと同時に、様々な外見や思想などに関わらず寛容を訴えていることからAfDに相当するティーレマンの政治姿勢を排除することもできない。ここでもバッハラーのような政治手腕が要求されるので、まさしく新支配人はゴーストバスターのような任を与えられる。それが同意権であり、経営権なのだ。

復活祭運営の背景には、やはりああした政治姿勢の文化活動には経済支援ができないという企業などのカムパニーポリシーがあり、残るのはもともとフォン・カラヤンが自費を費やして創立した芸術祭であった故にそれに賛同する金満家からの支援がある。本人の死亡後にその援助はじり貧となり、観光事業として州政府が管轄するように、未亡人のカラヤン財団がバーデンバーデンへとパートナーを変えた事情があった。そしてティーレマンの手引きもあってかカラヤン財団が再びザルツブルクへと乗り換えたのは二三年前のことである。我々にとってはどちらでもよいことなのだが、カラヤン財団にとっては口出しする場所がしっかりしていないと意味がなく、ザルツブルク州はその関与を迷惑に思っているとされている。なるほど「ヴァルキューレ」のリヴァイヴァル上演は少なくとも興行的には成功したのだろうが、芸術性という意味でも分岐点になったのかもしれない。カラヤン財団のみならずカラヤンの芸術的業績が洗い直されて、その意味合いが変わってきたこともそこに反映されていると思われる。

ブログには来年のベルリナーフィルハーモニカーの日本公演にはメーターが指揮するとあった。真偽のほどは分からないが、もともとはペトレンコ指揮以前に誰かが変わって指揮するのであろうと考えたが、今年の出来からすれば東京で現状を問うだけの形は出来つつある。キリル・ペトレンコが同行できない理由はもっぱら日程上の都合であり、12月のジルフェスタ―コンツェルトのプログラムにも関わっているかもしれない。いずれにしてもペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの日本初公演は2021年となるのだろう。しかし最初から日本では人気の無いズビン・メーターが指揮をする計画が立てられていたとすると驚きである。メータ氏は治療を日本でしているのかと思わせる。



参照:
Bachler oder Thielemann: Es kann zu Ostern nur einen geben, Ljubisa Tosic, Der Standard vom 11.11.2018
"Wir vergraulen Thielemann nicht!", HEDWIG KAINBERGER, Salzburger Nachrichten vom 10.11.2018
釈然としないネット記事 2018-10-03 | マスメディア批評
平和、寛容への合同演奏 2018-09-11 | 歴史・時事
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釈然としないネット記事

2018-10-03 | マスメディア批評
もはや指揮者ティーレマンについて語ろうとは思わなかった。それがたまたま隣席に座った北イタリアの女性に話しかけて、ゼムパーオーパーファンと話すことになってしまった。バイロイトの話しから、私の訪問がブーレーズの「パルシファル」とペトレンコの「指輪」で、その趣味が分るだろうと言っておいたのだが、あの人たちはその意味が分からない可能性もある。共通に良かったというのがラトルの「パルシファル」で、「トリスタン」は喧し過ぎたと言ったのは理解したが、満足した様子だった。それがペトレンコのミュンヘンの座付きではお話しにならないというので、ああ、ラトル指揮のバルリナーフィルハーモニカーは市場ではそういう位置づけだったのかと改めて習った。勿論彼女はバーデンバーデンでのペトレンコのヴァークナーに期待していて、カウフマンはヴァ―クナー向きではなくて、明らかにフロリアンフォークト派だったようだ。

九月の中旬にザルツブルクの復活祭にミュンヘンの現支配人バッハラーが2020年からの支配人に推挙された。同時にバーデンバーデンの退任する支配人メーリッヒズェップハウザ―が応募していたというからクロスしている ― この情報はにわかに信じられない、なぜならばバーデンバーデンで金蔓を管理すると表明していたからで、その方が悠々自適となる。後者を焚き付けたのは音楽監督ティーレマンで、それでも誰がどうしてザルツブルクにバッハラーを呼んで再びべルリナーフィルハーモニカーをバーデンバーデンから奪い返す画策をしたのか?これが不思議だ。勿論ティーレマンは、「それなら辞める」と言い出した ― この言葉を皆が待っていたのだ。少なくとも2019年は楽劇「マイスタージンガー」上演となっているが、その先は怪しい。そこでこの10日にザルツブルクの関係者がティーレマン詣をする。機嫌を取ることが目的だが、なにかそこにまるでヴィーンでのような得体の知れない陰謀を見てしまう。それどころか指揮者とシュターツカペレの契約も一年ごとの延長となっているので、あまり安定していないらしい ― 次は東京に行くのだろうか。そして何よりも不思議なことにバッハラーの意向について触れている記事は一つも無い。つまり電話一本の取材もしていない。どうも、おかしい。

バッハラーがオーストリア人でその関係からよりよい発展をザルツブルクは目指しているとしても、よほどティーレマンが邪魔になっているようで ― 「トスカ」の演出家変更でゼムパーオパーとの共同制作を没にしたことが恨まれているようだ ―、指揮としても一つのコンサートプログラムを一度しか指揮しないようになるなど、やはりこちらもおかしい。そしてこのようなおかしな情報が北ドイツのメディアにまで流されているのも不思議である。この状況を整理して、テーレマン・シュターツカペレとペトレンコ・ベルリナーでスワッピングしろというのまである。それらの情報のいい加減さは、「2020年にザルツブルクへペトレンコと戻ってくる」としていて、ベルリナーフィルハーモニカ―が新たに締結したバーデンバーデンでの五年間の契約の存在のみならず、ベルリンのツェッチマン女史の対応などが全く無視されていることで分かる。

恐らく画策しているのはザルツブルクのフォンカラヤン財団だと思う。この積み木崩しのリセットを見ると序にここでティーレマンを切ってしまおうという魂胆ではないか。今から考えるとカラヤン財団が再びザルツブルクに戻ってしまったのもペトレンコがベルリンを継承することが決まってからであるから、何かそこに政治があり、またここで新たな動きがあったとみるのが正しい。その裏にはソニーなどのメディアの戦略などもあるかもしれない。強引にペトレンコをものにしたいのだろう。ティーレマンではやはり具合が悪いようだ。ヴィーンでのノイヤースコンツェルトもそろそろメディアの準備に入るので、この10日辺りに何かあるかもしれない。ブロムシュテットという強い助っ人がいて、来年以降のスケデュールにフィルハーモニカーの支配人が言及していたのはただの偶然だろうか?

隣のおばさんのその「趣向は理解しているよ」と言ったが、やはりオペラにはああしたジンタみたいな楽団の方が手回しオルガンで歌うみたいなのが気持ちが良いのかもしれない。その意味からは今回ツェッペンフェルトがポーグナーを一幕で歌った声などはマイクで拾ったものよりも些か弱く感じた。三幕の高台での声が通ったのとは対照的だった。バルコンの視角は悪くは無かったが最初に貰った席の券も返して貰いながらも譲ることも無く試しもしなかったが、指揮者を横から見る形だった。音響は真ん中横はサイドからの反射があって最高ではなかった。但し管弦楽は、特に今回の場合はヴァイオリンが左右に別れて壁の向こうで、ヴィオラとチェロが右左に見えるのは悪くなかった。もう少し上の方がやはり楽しいかもしれない。視角も悪くなかったが一寸遠いかもしれない。今後の参考にしたい。王のロージュも少し遠いかなという気もする。隣のおばさんも普段は上階にいるらしく、カメラ設置で私と同じように移動したので、お互いに笑った。



参照:
職人の技が導くところ 2018-10-01 | 音
解klassisch gegen rechts 2018-09-14 | マスメディア批評
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解klassisch gegen rechts

2018-09-14 | マスメディア批評
土曜日のカウンターコンサートが生中継されることになった。それも地元のMDRでなくSWRからである。そして見出しにはクラシック対ライトとなっている。この意味は説明の必要がある。恐らくこれについて言及することは、今回の一連の事象を日本語で書いたものの中では一番本質に結びついたものになると確信している。それはこの恐らくバーデンバーデンの支局が作成した企画がそこに迫っているからだ。

先ず、我々、自身右翼と思うような人は「見出しに戸惑う」。どうして対象とされるのが極右でなくて右翼なのか。クラシック音楽が反右翼であるのか。これはケムニッツからバッハの活躍したケーテンへとその動きが広がったことで言うのではない。勿論こうして話題に挙げられる。しかし、それは本質ではなく、一連の連邦共和国での現象つまり野党第一党AfDによって裏打ちされている西部劇紛いの状況を説明する重要な視点を示唆したとても高水準なジャーナリスティックなタイトルである。

現実にコンサートを中継することになったのは近々のことでありジャーナリズム的な判断がそこに存在する。地元のMDRが恐らく放送車を出しながら中継できない意味を強調することにもなる。そしてこのタイトルで、連邦共和国で否ドイツ語放送で最もリベラルな文化放送波が「左翼のスタッフに牛耳られていて、右というだけで敵にされるのか」と思うリスナーは殆ど居ないとする信頼関係がそこに存在する。要するにハイブローな教養豊かなリスナーを想定している。

先ず言葉通りに、形容詞でクラシックとなるとまさに啓蒙思想から導かれる我々の教養やその価値観でしかない。それが右に対するのだ。つまり、それは従来の左右のイデオロギー対決ではないことを示している。それならばとその対象を一顧する。そこで見えてくるのは、例えば元民主党だったトラムプ大統領であったり、その支持層、そしてAfDとその主張や支持層である。高学歴化の中で基礎教養が無く、こうしたタイトルの意味するところを捉える知的能力も無い大衆である。それらを総称した所謂ポピュリズムがここで謂わんとする右となることをこの見出しは契機する。要するに保守とか、嘗ての社会主義に対する右ではないのだ。

何を隠そう、何回か述べているが私自身もPEGIDAに付和雷同して参加しようかと思ったぐらいだが、その扇動者が指揮者のティーレマンとか以前から思想的に問題のある人物であったり、直ぐにカウンター行動が報じられるにあたって、留まるに至った。要するに当然の事を何ら縛られることも無く本音を声を出して主張するというポピュリズムに陥るのは容易いという自省の念がある。

これで、その実態を明白にしたと同時に、土曜日に宗教者でもあるブロムシュテットの発言を待ちたいと思う。恐らくそれ以前に色々とノイズが飛んでくると思っているので、そこにも注目したい。このイヴェントはなるほど限られた芸術音楽畠の催し物でしかないかもしれない。しかし、「クラシック」という、PEGIDAこそが主張しているかに見える「キリスト教的な近代主義」のその根幹を問う催し物であり、注目するに値する。そして膨大な紙面数を費やしてエリート向け新聞フランクフルターアルゲマイネがAfDの危険性を教養のある人たちに問うてきたことが、このイヴェントでそれ以上に力強く訴えかける力があるかもしれない。ステーツメントにあったように、音楽の情感的な力をもう一度信じてみようではないか。ブロムシュテット爺のプログラミングの意を解く糸口が見えて来ないか?



参照:
klassisch gegen rechts (SWR2)
「軍隊は殺人者」の罪 2018-09-12 | 歴史・時事
平和、寛容への合同演奏 2018-09-11 | 歴史・時事
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ホールの長短を聞き取る

2018-09-10 | マスメディア批評
ヴィーンからの放送を聞いた。一番良かったのは一曲目「ドンファン」だった。如何にも旅行疲れのような眠ったままの感じで始まったが、それでも今回の一連の演奏の中で最も精緻で、前日に野外で演奏したことなどから可成り抑えて、丁寧さが要求されていたようだ。しかしクラリネットのフックスが前打音を噛ませた後、主題が戻るところのストリジェンドで完全に目が醒める ― なんとスリリングな、楽員も血圧急上昇だったのではなかろうか。この辺りの活の入れ方は素晴らしい ― ルツェルンではベートーヴェンでこれをやってのけた。しかし会場の雰囲気には意外にそれ程の反応を感じなかった。この辺りが聴衆の質で、ミュンヒェンからやって来ている人などがどれぐらい雰囲気を作れるかだと思う。曲後の拍手の仕方でも全体の比率からすると核になっているのは少数だったようだ。

二曲目「死と変容」も精緻さでは負けずに、会場の鳴りもフォンカラヤンが旧大阪フェスティヴァルホールを参考としたようにその影響も感じられて、シュトラウス向きの会場だと感じた。この辺りの曲ならば毎年三回目で一回目のフィルハーモニーよりも聞く価値があるのは間違いない。但し後半のベートーヴェン向きのホールではないことは明らかで、声部が潰れてしまって、折角のドイツ配置が活きていない。これならば遥かにフィルハーモニーが良い。

そして三日後のルツェルンと比較では、ベートーヴェンでは全く利点は無かった。但し一曲目の「ドンファン」だけでなくて、このザルツブルクの音響には太刀打ちできないと思う。精度も始まりがあまり良くなく、不安定だったホルンの妙技などでザルツブルクと同じようにぶり返したが、ルツェルンでは最初から喧し過ぎた。

ざっと聞いた印象では、「ドンファン」はザルツブルクでが最高の出来で、「死と変容」も精度でも棄て難く弦の響きも格別だ、だが演奏の精度は落ちても壮大さでロンドンも良かったかもしれない。ベートーヴェンはアゴーギクの入れ方や多層な響きでルツェルンで、その次にベルリナーシュロースの公演だと思う。その場の演奏の出来がその音響とか環境と深く係りあっているので容易に分離するのは難しいが、録音から聞いても明らかな各々のロケーションの音響の違いは聴衆の質よりもその差の影響が大きそうだ。

ザルツブルクが意外に明るく大編成が精妙さに聞こえ、箱型とワインヤードの中間の扇型で、横に広い箱型のバーデンバーデンはこのザルツブルクとルツェルンの間だろうか。ルツェルンは小さめの編成ではその古典派の和音の乗りがピカイチで、ザルツブルクは大編成の鳴り切る透明さで優れる。フィルハーモニーも透明度など優等生的だが、初回は毎年演奏上間違いなく不利に違いない。反対にロンドンのドームはやや大雑把になるのは致し方ない。価格や旅行費用などを考慮すると更に人其々の選択となるのだろう。二年に一度のブカレストも仕事を兼ねて早めに一度試してみたいと思っている。まあ、今回の経験から何処も一長一短だと思うが、全部を通して聞いた専門家の評も出て来ると思うが、大枠ではあまり変わらないだろう。

朝の森は11度だったので涼しかったが、太陽が射して寒くは無かった。今週は忙しく一日しか走ってなかったことから、どうしても体を動かしたかった。車中のラディオは、スェーデンの総選挙、北朝鮮のパレード、米国の南米介入控えなどに続いて日本女性初のテニスチャムピオンが紹介されていた。やはり世界的に注目されることなのだと知った。出来れば週初めにも走りたいと思うがどうなるか。少しでもサボっているとやはり体の切れも悪くなった感じで気分も良くない。運転している時間も長くて腰にも張りが残っていたぐらいだった。



参照:
ずぶ濡れの野良犬の様 2018-09-03 | 音
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
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19世紀管弦楽の芸術

2018-09-04 | マスメディア批評
週末のプロムス中継放送については何度か呟いているので充分だ。予想以上でも以下でもなかった。但しどこででもその生を体験した人にだけは録音や映像を観れば、密かな新たな呟きが生じるようなイヴェントだったと思う。もしそうならば大成功極まると思う。ロイヤルアルバートホールは、土曜日のフランツ・シュミットや日曜日のベートーヴェンのような緻密なアンサムブルを響かす会場ではないが、デュカやシュトラウスはよかったのではなかろうか、それでも一番の出来はプロコフィエフではなかったかと思う。

ルツェルンでの老舗ノイエズルヒャー紙の批評の概略を紹介しておく。我々がみな同じように感じていても中々文章化出来ないと思うことが書かれていて、流石に本格的なジャーナリストの技能は違うと感じさせた。以前の続きで、キリル・ペトレンコとヤニック・ネゼセガンの演奏会の比較として書かれているところもその目の付け方が狂っていないと気づかせたが、その成績表発表である。比較に関しては、どんなに立派に指揮してもそもそもロッテルダムとベルリンの管弦楽団では比較にならないことが触れられていて、ただのランク付けなどではない実質として敢えて書くのも悪くはないと思う。余分だが、同じことをもし市場価値の差として疑問を呈するならば、先ずその前提として例えば前任者ラトルが移籍したロンドン饗との比較にも触れなければまともなジャーナリズムではないことは明らかだ。市場の人気などに言及するのを良しとしているのは到底ジャーナリズムとは思えない。それは広告コピーライターではないか?

先ず新任として、垣根を取り去って全てを入れて来ているペトレンコに対し、楽団の方もまるでラトル時代の重圧から解放されるかのように全身を投げ打っているという相思相愛状態を見る。これは、ラトルの練習姿勢とそれが本番でも要求される息苦しさと淀みからの解放を指すのだろう。ラトル自身は、セル時代のクリーヴランドとその死後にユダヤ人髭まで伸ばし始めたコンサートマスターについて言及していて、反面教師としていることを告白しているが、この言及はその自意識があった裏返しとなる。

そうして生じたのがルツェルン第一日の七番の革命的な響きとして、「フィデリオ」までをそこに聞いている。これはこれで大変なことだ。またそれがオリジナル楽器の演奏実践の影響とも出来るとしている。
Beethoven: Symphony No. 7 / Petrenko · Berliner Philharmoniker


熱狂で音が大きくなり過ぎても当然ペトレンコが手綱を緩めることは無く、早めのテムポを保持しながらも、一流のソリストたちに自由に対応して、歴史的ドイツ配置である第一、チェロ、ヴィオラ、第二で以って本当に素晴らしいステレオ効果であると報告する。そして丁度その熱狂の渦の収まる淵のところで、コムパクトで固い音を出していて、観察するとしっかり指示を出して振るところとそうでないところがあるというのだ。つまり、19世紀の管弦楽を振ることで得られる響きの芸術、空間を広く、深い響きで、より自由なリズムを、柔らかい打ちで、あまり直截にならないように指揮するのが分るというのだ。そしてそれは、今日ヴィーナーフィルハーモニカーにしかない純芸術をベルリナーも再び獲得するに違いないと断定する。その例として「ドンファン」の最初のプロシア風から愛の情景への変化としているようだ。

これは私が強奏としたところから柔らかい響きでそして、記者はゲネラルパウゼにも触れる。そして「死と変容」でダイナミックスを下げたことでよかったとしていて、要するに「ドンファン」は喧し過ぎたという事だ。私の席でなくてもそうであったことを確認出来てよかった。そしてそのような繊細さは、「ラぺリ」と第四交響曲の後期ロマン派の音楽で明らかで、再び到底そこではロッテルダムが太刀打ちできるところではないとしている。そして、プロコフィエフではショー的効果が抑えられているところにネゼセガンとの世界の違いが横たわっているとしている。

この批評で私が最も価値があると思ったのは、ヴィーナーフィルハーモニカーと比較したように、その音響に注目したことで、これはある意味ラトル時代に磨きに磨いてツルツルになった楽団のあり方を考えるときの重要な明文化された記録となる。キリル・ペトレンコがこれを読んでも、楽団員が読んでもそこを聴かれて認識されたと知ることに価値があるのだ。批評とは誉めたり批判することだけではないというジャーナリズム的にとてもよい勉強材料である。



参照:
Lucerne Festival: Zwischen diesen Dirigenten liegen Welten, Christian Wildhagen, NZZ vom 2.9.2018
ずぶ濡れの野良犬の様 2018-09-03 | 音
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
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