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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽経済を超える文化

2025-07-13 | マスメディア批評
木曜日の文化欄のトップ記事を読んだ。コロナ後に話題になったルートヴィッヒスハーフェンの州立管弦楽団に関することなので目を引いた。先日そこで新シーズンから主席を務めるという朗報を聴いたばかりであり、上の様な事情はSWRの放送を車内で聴いていたからである。

州立楽団でフィルハーモニーを名乗っているのだが、十年前にはマインツの州立劇場の楽団との合併が発表されていた。個人的にはワイン街道ノイシュタットの演奏会で、恐らく主席指揮者のクレーが振るので出かけたと思う。プログラムを探してみないといけない。

何故この楽団が最もドイツの中で注目を集めている交響楽団であるのか、それはリーヒテンシュタインの音楽学校の校長となる2018年からの支配人ベアト・フェールマンの手腕による。放送では、コロナ期間中の休演にも関わらずお便りを出したり、植物のタネを届けたり演奏会以外の心使いが話されていた。そのお陰で殆どアフターコロナの影響がなかったと評判であった。多くの楽団では回復に時間が掛かった。

そして今回の記事は、今シーズンで任から離れた支配人が、デンマークで成功した「楽団の為の道具箱」やニューヨークでの研究など所謂文化マネージメント分野でのバイブル自体のその内容よりも、その実践の成功に言及している。ネットではなく演奏会に行くことでの満足度等。

新シーズンからはハイデルベルクの春の音楽祭の芸術監督のゴスマンが後任となるようであるが、そこに書いてあるプロジェクトでも継続されるよう期待したい。

プロジェクト自体も楽員の三分の二以上による決定で中止可能となっていて、実質的に楽員の総意としてのプロジェクトとなっていることに留意したい。そこでは例えば勤務契約の中での勤務時間の20%までを創造的な活動時間として認定しているということである。

大管弦楽団のお勤めの中で、劇場でも同様であるが、如何にお勤め時間を熟す一方でその準備の練習時間を手短にという労働環境があるに違いない。そこにおいて創造的活動というのはそれとはまた異なる事象であろう。

楽団が如何に音楽的文化的な団体であり得るかは、嘗てバーデンバーデンでベルリナーフィルハーモニカーへのカラヤン賞授与の祝辞において作曲家リームが演説した内容であった。一世紀前とは異なり、楽師さんも高度な教育を受けていて、それ相応の給与を稼いでる状況において、音楽的に若しくは社会的に貢献しないということはありえないのである。

楽団自体の活動としては、移民の居住地域に行っての演奏会とか、地域の学校での試みとかの活動が為されている。それは潜在的な聴衆への誘いとなることは間違いがない。チョコレート会社とのタイアップなどのそれ以上に、最終的には音楽との関わり方の変化と作新、多くの指揮者は従来の演奏会場からの「遠足」を語るが、最終的には何を演奏するかではなかろうか。

一昨日書いたように、ポピュラーコンサートなどにはこうした文化団体の生き残りの道はない。フェールマンはそこまでは手を出さなかった様であるが、もし今後ルートヴィッヒスハーフェンでの活動が世界を先導するならばそうした音楽的な先駆性しかない筈である。



参照:
Es gibt Instrumente der Hörerfindung, Clemens Haustein, FAZ vom 10.07.2025
極東ツアーの裏事情 2025-07-11 | マスメディア批評
腰が張る今日この頃 2018-02-07 | 文化一般
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極東ツアーの裏事情

2025-07-11 | マスメディア批評
秋の入場券を購入した。その為にはクレディットカードを使うしかなかった。それでいいのだが、ここ二か月ほど問題があった。購入する時の認証システムで、タブレットなどで承認を出すのが叶わなかった。理由が分からなかったので銀行のホットラインなどで時間をかけたが埒が明かなかった。方法として、新たにスマートフォーンや新しいタブレットも登録した。現在二種類の口座で三台の端末機をPCに加えて使っている。オンラインバンキングがなければスマートフォーンも必要がなかった。

車載の為に購入したのだが古いアンドロイドがいつまで使えるか分らず、流石に最近はアンドロイド7「ヌガー」ではYouTubeでさえ使えなくなっていたので、その反応速度以上に限界を感じていて、殆ど使えるアプリが無くなって来ていたのだ。そこで先ずは車載用のスマートフォーンを登録して、今回新アンドロイドを登録した。

そのことと承認システムの成否は直接は関わらなかったので、新たにもう一つの口座に新しい15「バクラヴァー」を登録した。その機能を試すためにダブルブッキングとなるが、ハムブルクとドレスデンの宿を探してみた。双方とも評価点数は低いのだが半額から三割ぐらい様なより劇場に近い物件を見つけた。試しに予約の為のカード認証をしたら上手く運んだ。それで異なるカードを使うことなく入場券を買える可能性が見えて来た。以前通りである。その差額だけで入場券が買える。

日本でも話題になっていたバムベルク交響楽団極東公演に帯同した記者の記事が載っていた。通常にはない訃報二つ囲み以外の全面記事である。ざっと目を通した。知らない人が台北から書いているので、特派員かも知らない。

日本の人が興味あるのはカツーンが日本で共演してということのようで、それに関しては「技術的に弾いていても個性がない」の一言であるが、コンサート入賞者ならその程度という共通認識を出るものではない。勿論我々の興味があるのはその普段は見慣れないような客層やその反応がそしてその興行の裏こそがこの文化記事の本旨でもある。

そこで最早日本ではそのようなエンタメ興行にしなければ商売にならない事。それに比較して韓国ではボンソリというお国の奏者が全身全霊で魅せるという朝鮮文化と日本のそれとの差異が綴られ、その後のより洋楽事始めの台湾の状況を綴る。

勿論、日本が熟成してそのような交響楽団演奏会が音楽芸術的な意味をあまり持たない一方、韓国では本公演の前に三回も三星による自己演奏会が開かれて関係者が集ったということだ。これは、嘗ての東芝などの冠演奏会から、韓国のそれ、そして台湾へとその洋楽事始めの歴史が示されている。

交響楽団の支配人から、日本だけツアーというのは考えられなくなり、こうしたポピュラーコンサートの形でしかありえないことが語られる。それでも今回チェコのフィルハーモニーに就任することになった指揮者のフルシャが語るには、ツアーで最高到達点に達したと、昨年私が批判したことに対して答えとしている。それが日本人特有の両手を上げて拍手するそれを導き出したフルシャ指揮バムベルク交響楽団の実力となる。



参照:
Asien liebt Alt-Europa, Robin Passon, FAZ vom 26.6.2025
シーズンオフの片付け 2025-07-08 | 雑感
深圳の道格が安く 2025-06-27 | 雑感
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
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音楽家比較で番付け

2025-06-21 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ新聞の追悼記事を読む。二人が書いているので文化欄第一面の9割ほどを使っている。恐らく音楽関係でも最大規模だ。

然し、一つは個人的な繋がりから作家が書いていて、音楽のことではない。通常の音楽記事は、アルフレード・ブレンデルの位置づけを他の同年輩のピアニストと比較して試みている。

引退した時点では、ポリーニ、バレンボイムそしてアルゲリッチが活躍していて、過去の記憶として幾つかは年長のヴィーン三羽烏のスコダ、デームスが挙げられている。同年輩として、フリードリッヒ•グルダとグレン•グールドに焦点が当てられる。前者は本物のヴィーン子であり、ブレンデルはモラヴィア出身となる。後者のその早くからの伝説化したそのマニエーレンの極であり、そのフィンガーワークともスタディオ作業とも異なるのだが、同じ空気を吸って、同じ聴衆を分かち、同じ市場を得ていたのではないかという、この追悼記事の最大のテーゼとなる。

勿論そこにはヴァンガードでの最初の録音群とその瞠目される活動があって、グールドと比較されるところとなる。そこで70年代から90年代へのより保守的な活動に光が当てられることになっている。そこでのマリナ―指揮でのピアノ協奏曲やそうしたものへの懐疑があり — この筆者は知らないようだが、本当は本人がSWRで語る様に東京でのブラームス協奏曲一番での事故があって —、レパートリーを集中していくと考えている様だ。

個人的にも古典的なピアノ作品から参考になる録音をとして音盤を選ぶ段になると、ブレンデルのハイドンに対してそれに匹敵する現代的なピアノの演奏としてはグールドの録音しかないのである。ブラームスの小曲などにグールドの演奏が挙がるのと事情は等しい。

祝日は無事過ごせた。なによりもそれ程暑くなかったのが良かった。週末の準備もあるが、その後の予定も考える。祭りが終わると移動が自由になる分、忙しい面もある。月曜日から完全に平常に戻したい。週末日曜日は摂氏36度まで上昇する。土曜日が夏至であるからその通りである。週明けは涼しくなるようであるが、その後は普通に夏になるので、パジャマも半袖仕様となる。今日中に衣料の虫除けも設置しておくべきか。そして一挙に夏から秋へと進む。昨年の経理整理も終えないといけない。

歯医者があるのでジーンズも洗濯する都合を考えないといけない。同時に新しいものの物色も始めないと間に合わなくなる。兎に角土曜日の再演初日に出かけて、もう一度はいく計画をしているのだが、それが終わると9月への準備だけとなる。本格的な夏休みである。

来年一月末のハムブルクの二泊も予約しておいた。ガンツマルクトの劇場とは30kmあって近くはないので考えものだが、一度だけの往復なら55平米ほどの部屋で225ユーロ程ならゆったりできる筈だ。兎に角遠いので、二泊しないと意味がない。もう少し近いか、価格が安くて都合の良いところがあればとまだ探してみる心算である。



参照:
Verletzliche Schönheit, Gerald Felber, FAZ vom 17.6.2025
よりよい理解の為に 2025-06-19 | 文学・思想
制作再演への期待 2025-06-20 | 文化一般
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玄人を教育することから

2025-04-03 | マスメディア批評
承前)演出に関しては軒並み好評である。地面が上がってマングローブ状の見えない世界を使うところがやはり効果をあげているのだろう。地上地下天空の次元をそのコンセプトと語っていて、なるほどそれは音楽的にも上下感にそれらを繋ぐ地平線などがイメージ可能となる。

殆どの主要な批評は出揃った。重要な地元のフランクフルターアルゲマイネ紙を除いては明らかに指揮者への注目度は増していて、通常の批評で済ましているものはなくなった。それは、知名度が増して、特にフランクフルトではブルーレイ化された「マスケラーダ」の成功のみならず、やはり辞める支配人の一推しがあるように感じる。プレス向けの情報もそれ程量は変わらない筈であるが、エンゲル本人が出しているヴィデオなど音楽的な言及もそこにある。そこでは一部ではポンティチェロやコルレニョ等、コントラバスを弓で叩きつけるところは弓を保護する為にも他の物を代用して音量を確保したりと試してみたと語っていて、二部では20世紀に存在する木管楽器の組み合わせ、三部で金管を加えた調音されたゴングとティムパニーの一人の奏者での叩き分けと詳しく語っている。

こうしたレクチューアこそが玄人の書き手に、その多くは新しい音楽に詳しくない音楽ジャーナリストでもあるのだが、材料を分かりやすく提供する事で音楽劇場指揮者の仕事の質を教えることになっている。先ずはなによりも素人の聴衆よりも玄人の書き手を教育しなければいけないということでもある。

それによって今回はエンゲルのした仕事を形作ったとかの表現が見られて、SWRでは「私たちにそのまま関すること、それが大音楽劇場だ。」と結んでいる。放送局が三部の音響も使用して紹介しているので、少なくともマイクは入れていたという事だろう。これが意外に上手に録られていて、その重なりの深みは多層的に取られ、私の席からでは十分なミキシングがなされていなかった。その辺りも個人的な批判点だったのだが、そうした批判は一つも見つからない。

新しい音楽を特に初演などを印象深く鳴らすことに長けた指揮者が幾らでもいる。然しギネスになるほどの数を熟しているエンゲルの指揮では、特にこうした音楽劇場作品に期待するものはそれだけでは終わらない。今回も第三演なので、ここでこの制作が成功するかどうかでこの作品の生命が殆ど定まる。それどころかこの作曲家の歴史的な評価に大きく関わる。だからこそエンゲルはこの作曲家を称してモダーンの古典の作曲家としていて、その殿にいるような芸術家だと思っているのだろう。

それゆえに、一部での低弦の響きが決して甘く流れないことを、正しく初演の録音と比較していて、二部の木管合奏の組み合わせの妙が書き込まれているものだという信頼感をバランスを取りながらニュアンス豊かにと評しているのだ。三部の編成が膨らんでいく部分においてもその明瞭さと透明感を失わないとしているので、私の厳しい視線からすれば大分甘い批評である。

当然のことながらこちらは比較するものがペトレンコ指揮のそれであるので、決して二三流の尺度では一切考えない。同時に、これからまだ六夜上演されるその中での進化に大きな期待を寄せるのである。さもなければ前回賞を別け合ったペトレンコを蹴落としての単独授賞とはならないからである。(続く



参照:
Glühend wie ein schwarzer Diamant: „L'invisible“ von Aribert Reimann, Bernd Künzig, SWR2 vom 31.3.2025
昔の若者たちの日曜日 2025-04-02 | 生活
そこにいるのは「死」 2025-03-26 | 音
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死の足音が聞こえたか?

2025-04-01 | マスメディア批評
初日の評が数時間後に出ている。当然ながら総稽古を観てからの評であろう。書いてあることは、ドレスデンの州立劇場に所属している演出家の舞台美術的な展開と三部での配役の分け方など事前資料で分かることを手短にまとめて、それらがどのような印象を与えたかについて言及している。つまり根の張った地下を見せて、それを上下させることで、その気持ちの悪い雰囲気など、死を扱った三部作として明白に初日の聴衆から肯定的な反応を受けたとしている。

つまり、殆どの行を既に用意してあったところで、初日の反響から数行を書き加えたものだとしてよいだろう。それも複数の著者によって書かれている。マガジンムジークホイテはある意味業界の情報誌として長くあって、同時に広報にもなっている。日本の音楽の友社の雑誌の様であり、玄人の業界に向けられているものである。

然しそれでも音楽的な特徴を五音階のペンタゴンに半音を一つ加えた六音階組織の拡大と分析解説してあって、これはまさしく先日からここでも述べておいた上行・下行において変化をもたらすものであることで間違いがない。

そこで今回ライマンを初めて指揮するとするエンゲルの音楽を称して、エレガントにそれを処理する一方、これまたここでも強く短い密な動機のダイナミックスの正確さが初演指揮には欠けていたとしたスタッカートが死への恐怖として印象を与えるように釈然としていたと評価してある。そしてこれまた想定されたように三人の流暢なカウンターテノールがものにしていたと特筆評価している。

この点に関しては公演前のレクチューアでエンゲルについて特に言及されていたのだが、遠く喧しくて聴き洩らしたが、作曲家が死の前に頻繁に接触していたとあったので、次回にこの点も確認しておきたいと思っている。

なぜならば、今回の演奏では実は不明確な点が幾つも生じていたからだ。アンサムブルが充分に練れていなかったことも事実で、先ずは無事に初日を修了したという感じもしないではない。個人的にはそこで不満も少なくなかったが、後ろの列にいつも陣取っているおばさんに最後に尋ねると「よくやっていた。」と満足げだったのだが、私がエンゲルの友人だと知っているのでまあ悪く言う理由もなかっただろう。そのおばさんには前回はニールセン作曲「マスケラーデ」初日の時に隣に座ってお話しをしたのだった。

それは前述の上下行やその展開が、聴いていて納得させるだけの表現が出来ていなかったことで、明らかに古典的なドイツェオパーベルリンではより和声的な派生としての調性感が基調になっているからこそ表現が不足していて、今回はよりそこの色付けによっての表現が演奏技術的により難しい演奏を求められていたことも分かる。抑々コントラバスまで分奏させるので、並大抵でないことは分かる。

更にプログラムにテキストが載っていなかったことで、字幕をどうしても一通り見ておきたかった理由もある。独逸語と英語だけだったので、そこから仏蘭西語を想像して聴くしかなかった。後ろのおばさんに声かけたように何回か来ないと駄目だというのは正直なところで、勿論楽員が慣れることで意味づけの確りした演奏をして欲しいと思っている。さて、録音はされるだろうが、これだけ評判がいい演出となると映像でないと駄目だろう。(続く



参照:
L’Invisible" begeistert in Frankfurt, Musikheute vom 30. März 2025 - 22:58 Uhr
身体的運動で見出せる死 2025-03-30 | 文学・思想
そこにいるのは「死」 2025-03-26 | 音
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おこちゃまライスの響

2024-12-31 | マスメディア批評
大晦日のジルフェスタ―コンツェルト初日の批評が出ている。やはり目玉はトリフォノフのピアニズムであって、目立つどころかドールらのソロに反応して音を出していたようだ。まさしくペトレンコが本来ならばヴァルトビューネでもラフマニノフを合わせて期待していたその音楽性である。

地元放送局RBBの評のそのような大絶賛に対して、同じ演奏を地元のベルリナー新聞ではどうしてこんなに木っ端で曇った音しか出なかったのだろうと、後半の「マイスタージンガー」前奏曲を聴いてからの感想を漏らしている。そのようなおこちゃまには芸術など分からないと言いたい。同じような批評を日本でもしている人がいたが、要するにそこで求められているのは粒だった平均化されたまるでヤマハのピアノの様なもので、それ以上の音楽の内容はどうでもいいということでしかない。ベルリンでも同じ様な「玄人の批評」があるということは、恐らく前世紀の音響の音楽から逃れられていないからであろう。

アルザスへ買い物から無事帰宅した。往復140kmにワイン街道で給油や買い物にも寄ったので全160km程の走行だった。然し、車を引き取りに行った帰り以外では初めての中距離走行で、とても沢山のことを得た。機能としては自動追い越し装置を初めて使った。それ以外にも対面交通でのトラックとのすれ違いや前車追走など得ることが多かった。若干センターラインに合わして半自動に走るので、大きな車輛の場合は若干外側へとハンドルを動かす必要があった。逆に言うとそれだけで安全運転に繋がる。その他、機械と人工知能との協調つまりシステムを可也把握していないと恐らく事故率の大激減への機能を使い果たせないと実感した。殆ど飛行機操縦の少なくとも計器飛行若しくは小型ジェット機並みのコックピット認識が無いと使いこなせないと思った。情報量があまりに多いので、ぐずぐずしていると余計に危ない。残り数週間ぐらいで身につけたい。

最も関心事であった蓄電池の使い方は分かった。70%蓄電に出かけ前のヒーターで、少し補給して出発したが、何時ものスタンドで既に若干減っていて、56%でバイパス幹線道路となった。そこからは蓄電一定保持モードで走ると、最後まで僅かに上下しながら保てて、最後の車庫入れで2%消費し52%で終えた。燃料は15リットル給油で175kmが今は残量が82kmになっているので、上の数値からすると、30kmぐらいは回生エネルギーで走れたことになるか。ハノーファーへは蓄電量を80%から上にして、宿で残り70%、ハノーファーの市街迄往復で、40%残量ぐらいで、翌朝発進出来ると、帰宅しても残りは10%を超えている筈だ。やはり少し残していおくと、燃料の注油にも余裕が生じる。冬場の渋滞や休憩の時の暖房にも余裕は欲しい。

自動追い越し装置は自分自身の判断よりも出る方も戻る方も慎重で判断は若干遅いが、自動的に指示器が出てから自分自身で目視できる安心感がある。要するにそれを全て自分で行うよりも遥かに楽で安全度が高い。教習で助手席に乗っている感覚である。その感じで走れば間違いなく疲れなく、疲れていても巡航速度を上げられることが確認された。最高速度の状況よりもそちらの方が有効かもしれない。現時点でのアクティヴセーフティーの最高峰のシステムの車輛であることを認識して投資したつもりなので、これを最大限引き出すのが責務でしかない。

出かけ前にギャラクシーのフォイルが届いた。三つ組で価格を上げて細かな配慮のある中共製であるが、作業枠までついていて懇切丁寧な割に直感的に経験でやって全く問題がなかった。余程わけの分からない客層を考えているのだろうと分かる。



参照:
Mit Kirill Petrenko und Daniil Trifonov, Silvesterkonzert, Antje Bonhage, RBB Drei vom 30.12.2024
Lohnt sich das Silvesterkonzert mit Kirill Petrenko und Daniil Trifonov?, Peter Uehling, Berliner Zeitung vom 30.12.2024
歳末の片づけを一通り 2024-12-30 | 生活
永く記憶に残る熱狂ど 2024-09-19 | 音
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そのオーラをそっと出し

2024-12-17 | マスメディア批評
ザニューヨーカーに記事が載っている。書いてある内容はベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアーに関して、シカゴやボストンで評されていたり、コメント欄に書き込まれていたことと共通していて、そこにあったカーネギーからボストンへと追っかけて回った筆者の記事である。

これは時間をおいた記事だけにその後の若い指揮者とコンセルトヘボ楽団の演奏会も扱って、如何にその世界が異なるかでそのペトレンコ指揮の芸術に光を当てるような記事となっている。

それどころか前任者ラトルとの差異を浮かび上がらせている。その完璧さを求めての日本で頻繁に評される「猛獣使い」指揮とその彼に楽団との関係を「論争好きで自尊心強く、インテリ」だと語らせ、何故上手くいかなかったか、それに対してそれ程期待されていなかったペトレンコがどのように指揮をしているかを綴る。

そして今の現状は、フルトヴァングラーのその哲学的なオーラを今に伝える同一的な群としての有機体というよりも融和同化しない声な楽団だとしている。その例として最初の曲「死の島」でのそれは計算された不一致だとして、オールを漕ぐようにチェロ、コントラバス、ヴェンツェルのティムパニ、ラングラメのハープが入ってくる受け渡しの繋がりだという。

このことは特にスカラ座デビュー後の顕著な音楽表現でありなによりもアーティキュレーションを活かしたその歌い口とここで再三再度評している指揮の進化である。

更に新入りの曾韵がホルンソロを担って、深く暗い音を出して、人気奏者ドールと張り合っているというのである。高く低く三次元的な音響として特筆されている。まさしくフルトヴェングラー時代の音響を引き継いでいるというのだろうか。正しくドールにはないものだ。

そのホルンとオーボエ、クラリネットの私で嚙んだというやつである。然しその理解の難しいブルックナー交響曲五番がボストンでの演奏でははっきりしてきて、漸く呑み込めたというのだ。まさしく指揮者が何度も演奏して真面に演奏できるようになる目標として定めたところにたどり着いたという証になっている。

それはパズルのようにブルックナーが嵌め込んだ楽想がフックスのクラリネットによって終楽章で表されるように、コメディーとして理解されたという。それはまさしく自笑ではなく突き放した自己省察となる知的な演奏行為ということで、オクターヴ下降がフガートとなり、祝祭的なチェロとバスの再現部はラグビーのスクラムの様に押出し、管の総奏はブラスバンド途への咆哮へと突き進む。そこでティムパニーのフォーゲルの記譜されていないスタンドプレーが大フィナーレへと推し進める。

ペトレンコの指揮が如何に奏者の各々の音楽性の発露を引き出し、それが一つになる時に自ずから超越していくのだという説明にもなっている。そしてその歌い口こそがベルリナーフィルハーモニカーであって、ラトルの様に派手にではなく20世紀音楽においてもより深く、独墺音楽においても為しているものだということを語っている。夏からの成果が漸く合衆国で正しく評価されている。



参照:
The Berlin Philharmonic Doesn’t Need a Star Conductor, Alex Ross, The New Yorker of Dec.9, 2024
誠心誠意に演奏する 2024-11-30 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評

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quaque nocte?

2024-12-11 | マスメディア批評
予定外で買い物に出かけた。前日となると最早警察に停められてもお願いしかないと考えた。新車で天候関係なしにスーパーに停めるよりも気が楽だ。燃料も余っているので本当は時間があって安全域なら車を走らせたいぐらいである。

トランクルームも片付けた。車内も一通り私物を除去した。塵まではもう掃除しない。ミラノ行前のその儘である。流石に歯の欠けたやつは回収した。なんだか車が動くとまだ使っていたくなるのが不思議で、操縦性走行性が悪くなっても此の侭使いたいと思わせる。前の車では直進安定性まで失ったのもあるが、全くそのような感情は生じなかった。やはり新車から注文生産させて長く走らせると思い入れが違うようだ。あとはボードコムピュータ―を初期化するのみ。

そのスーパーの駐車場で1番の番号を見た。その前は二文字でQNだった。Qの姓はあるが、それでも珍しい組み合わせだったのかもしれない。然し1番は流石に容易に見つからないだろう。特別な番号であるが、それを見た時に頭を巡ったのは、数字1が先にある様に見えたことだ。なぜかは分からないが、数字一桁はどうも先に読ませる力があるらしい。だから1NQとかいう風に読んだ。何回か見直した。その可能性があるなら自分自身もすればよかったと勘違いしたぐらいだ。それにしても1番はやはり特殊な感じがする。但し視覚的には若干落ち着かない。最後にEがついていたらどうだろうかとも思った。

自分自身ならば、その前の文字が特に優れていたら考えただろう。今調べるとなるほどQNは余っている。何故だろう。考えられるのは日本語の9と似ていてQualとかの文字が浮かぶからか。q.n.は毎晩とか水量の意味。すると3が着くと余計に立方になる。

さて、引き取りの準備は整った。地元の降雨確率は20%で最低気温摂氏3度、シュトッツガルトで2度、途中のプフォルツハイムも同じと降雪の影響は皆無だろう。最後のドライヴでマンハイムに向かい、お昼にマンハイムから電車に乗って最寄り駅まで向かう。少し高くなったが34ユーロで切符を購入できた。帰宅は何時になるか分かりにくいが、視界は悪くないだろう。世界的最新式のヘッドライプも試したい。

バイロイトからの記事が出ている。2006年以降の財政縮小での計画変更で、初めてそこで上演される初期の「リェンツィ」以外には再演のタンホイザーと毎年上演されるべき「パルジファル」以外は演奏会形式の「指環」しかできないということらしい。原因はギャラの高騰と補助金の縮小で、今後は規模が小さくなり、再演と数少ない公演数で賄っていくということになりそうだとなる。

そもそも「リェンツィ」初上演で現在までのルーティン化を壊して迄新機軸を出したのも、より脚光を浴びる為の手段であって、弦楽合奏などで人が集まる訳がない。まだ秋のバロックフェスティヴァルとの連携を取った方が可能性が高まるのではなかろうか。

全体として歴史的なバイロイト音楽祭の規模を縮小していくのは間違いないだろう。それは発券状況などを見ていれば、如何にも二流の催し物へと人気も低下してきている様であって、大衆動員型の出し物にすればするほどその質は落ちていく。

要するに芸術監督が実力のある人でないと務まらないということで、現在のカタリーナ・ヴァ―クナーには荷が重すぎる。



参照:
„Natürlich bin ich enttäuscht“: Katharina Wagner über das Bayreuther Streichkonzert, Markus Thiel, Markur vom 9.12.2024
時代のテールランプ 2024-12-10 | アウトドーア・環境
3Eの意味するところ 2024-12-02 | 生活
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ライヴエレクトロの奔り

2024-12-05 | マスメディア批評
ジャージの寝具は暖かい。重量は増えて、その上にベットカヴァーを掛けるので寝返りは打ちにくくなる。それでも朝の寒気を感じないので熟睡度は違うようだ。その分床を離れ難さは更に高まった。布団カヴァーの内側に余分に掛けたカヴァーが破れていたので替えた。以前から使っていた古いカヴァーをそのように使っている。枕もこれでより清潔感が。

びくびくしながら車を動かした。パトカーとすれ違うとびくっとする。後ろにつけられると場合によっては停止を命じられる。車検の色が12月までしか残っていないから、じっくり観察したら4カ月を超えていることが分かり、罰金をとれる可能性が強いからだ。

それ以外は走る時にワイン地所に立ち寄るだけだ。アウトバーンならば後ろにつけられない様に上手に立ち回れるかもしれないが普通の街道では無理だ。減点も嫌だが罰金も嫌である。あと三回乗るかどうか。それでも燃料を15リットル入れた。どこかで余分に使ってもう一度給油に行くのもやばい。出来れば夜道を走りたいぐらいだ。折角100kmぐらい走れる燃料も入れたので一寸余分に走らせたい思いもある。

駐車場に停めると以前よりも車を一瞥して語る人が増えて来た。もう数年でオールドタイマーとして趣味の車になるからだが、こちらはびくびくする。車検ぐらいで通報する人もいないだろうが気になるのだ。

先日から淹れる紅茶が急においしくなった気がする。セカンドフラッシュで最初の半分はそれ程感動的ではなかった。色はいいのだが、何かコクが足りなかった。然しここにきてセカンドらしく紅茶臭い味が強くなって来た。あれは酵素による酸化熟成の味だと思うのだが、敢えて冷蔵庫の中で保管しているがやはりそれがなぜか強くなっている。以前はお茶は常温で缶の中で保管していたが、やはり異なって、いつまでも新鮮さが愉しめるのは、紅茶も同じである。煎茶も抹茶の様に冷蔵庫で保存するようにしている。然しそれでも熟成が進む可能性は予想していなかった。兎に角、今はとても美味く、安くて大満足だ。

先月のベルリンのコンツェルトハウスでの批評を見つけた。内容は曲が分かるともう少し想像できるが、ドイツ初演でオリジナル「スティルポイント」は1948/49年のBBCの女性エンジニアのダフネ―・オラームの電子音楽で、2018年に今回もLPを回したイラン系の女性DJフェシャカレキによって復刻再演されていたようだ。管弦楽を録音したLPを変調させて、生の管弦楽団のそれとで更に変調させていくという所謂ライヴエレクトロニクス音楽の奔りの曲らしい。50分もある大曲である。

短い映像はインスタグラムなどで紹介されていてマルチメディアでの表現としてその空間が芸術されたのは分かった。あの中に使われ演奏されたルネッサンスのデプレの曲がそこまでの空間効果を生み出さなかたっと指摘されているが、書き手もいうようにそれは自然と限界もあるということだろう。

DJとの共演ということでケルンでセクハラで下りたロート氏の企画を急遽エンゲルが代わりに振った「メルティングポット」と同じようにクロスオーヴァーものかと思っていたら全然違うバリバリの試みだったようだ。さて車があったら態々出かけたかどうかは分からない。その質は高かったようであるが。
Daphne Oram - Still Point(1948)(2016)(Avant-Garde)(Early Electronics)(Musique Concrete)




参照:
Unterwegs in Ätherwelten – Berliner Konzerthaus, Alexander Keuk, NMZ vom 25.11.2024
Experimentelle Musik, immersive Elektronik und Lichteffekte, Marleen Hoffmann, Berliner Morgenpost vom 23.11.2024
今後へ問いかけインタヴュー 2024-06-13 | マスメディア批評
生で接する慣れ親しみ 2021-12-07 | 生活
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フルトヴァングラーに倣い

2024-12-01 | マスメディア批評
この冬初の零下となった。放射冷却である。屋根に霜が着いていた。零下四度となっている。

ベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアー前のズーム会見の記事を読んだ。初めは知らなかったがAPの記事が各地で複製されていたので読めた。昨年の日本公演前にも同じような会見をしていたので、もっとも手っ取り早い広報なのだろう。

英語で行われたのか若干その引用が曖昧であるが、要旨はよく分かった。52歳と語って、二年前にそこで演奏したマーラーへの考えから今回のプログラムであるブルックナーへと繋いでいる。

ユダヤ系とあって、十年二十年前はより興味があって、マーラーのその疎外感や何処にも家がなくて故郷がなくてと語り、きっと変わったのかもしれないと、恐らく自身の家庭事情を思い浮かべている。そこでブルックナーへと傾倒したと。

ソヴィエトでは無縁だったが、第二の故郷オーストリアでの青年時代に出合って、そこの山々、そして料理など知って少しづつ身近になって行ったと語る。要するに自分の住処と感じるようになったということだろう。

具体的には、1942年のフルトヴェングラー指揮の五番交響曲を参考にした様である。このことは此処でも言及した語り口の巧さがそのものであって、改めて比較してい見ると面白いかもしれない。
BRUCKNER: Symphony No. 5 in B flat major / Furtwängler · Berliner Philharmoniker


その他にも、マーラーをブルーノ・ヴァルター指揮、「ばらの騎士」をエーリッヒ・クライバー、クレメンス・クラウス指揮と挙げていて、成程前者の冒頭のテムポ運びはスカラ座で指揮したそのものである。
Richard Strauss - Der Rosenkavalier (Erich Kleiber - 1952)

Richard Strauss - Der Rosenkavalier (Clemens Krauss – 1953, 1936)


管弦楽団との関係において、100人の楽員が寄れば100通りの考えがあって、100通りの望みがあると答えると、楽団長でホルンのドールが楽員各々に更に多くの考えがあると口を挟む。

そしてそこでは信頼して多くを語らないと、そして見ていて、止めずに練習すると語る。ブルックナーはそして発展するのだと語る。それは奏者が全身全霊で演奏できるようになるというルーティン化の成果だろう。

そして過去の録音でその伝統を記録するの容易ではなくて、ステップアンドステップで試みていくしかないと語っている。それが楽団によって引き継がれるものと考えている様だ。やはりベルリンのフィルハーモニーをシューボックス型にしなければいけないという考えに至るだろう。

何はともあれ25回目の合衆国ツアーを二度目のペトレンコ指揮で大成功裏に終えたと言えるだろう。



参照:
Kirill Petrenko Finds Leading the Berlin Philharmonic Means 100 Opinions and 100 Expectations, AP
全身全霊で演奏する 2024-11-30 | マスメディア批評
音楽の楽しみ方の教示 2023-11-16 | 文化一般
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誠心誠意に演奏する

2024-11-30 | マスメディア批評
ベルリナーフィルハーモニカーがシカゴに来るとなると皆がメモ片手となる。火曜日の聴衆の中には多くのシカゴ交響楽団のメムバーが楽譜を手に混じる。同地でのメインイヴェントのオペラ公演などよりも注目を集める。

ブルックナーの演奏は様々な、どこに山谷を持ってくるかが決め手で、ペトレンコの場合は何処で落とすかで、ペトレンコの場合はマーラーでと同じように決して独白的ではなく、ディスカッションなのだと書く。これはブルックナーの交響曲において、ピチカートが戻ってくるときの扱い方に表れるということらしい。

つまり、ベルリナーフィルハーモニカーのその精妙な演奏は周知として、チェロの最初の歌の微妙さは、通路を挟んだ隣人の息が聞こえるような演奏で、そのように繰り返されてピアニッシモとなればドールのそれとが囁きでしかないと改めて驚愕している。大げさではなく、そしてそれらの模様を奏者が詩の一節を歌うようなものとしている。

ここは他の批評にもあった一楽章導入出だしの扱い方があったが、恐らく他のボストンの聴者が書き込んでいた様に、フランクフルトからも繰り返すことで更に精妙になると共に、奏者自体が全身全霊で同じイメージを持って音が出されていることが分かる。

特に二楽章での次から次へと沖の波を越えてのサーフィンでの残照の様なものを記しているのは、正しく私が時の芸術としたものであり、その発想自体は動機のポリリズム的な扱い方に端を発するだろう。

ここで一昨年にシカゴ交響楽団でブルックナーを得意としているとされるティーレマン指揮の八番交響曲との比較が為される。それは多かれ少なかれ独白的であり、それが強いられたとするのは、曲は異なっても同様に終楽章で回帰する第九交響曲の形式をとっていることからの比較としている。この点に関してはこのブルックナーの交響曲を十八番としていたドレスデンのシュターツカペレでの演奏で二楽章の浪漫的な歌い込みだけに賭けていて、その方向感が分からない主観的なそれを批評しているので、正しくそれは浪漫的独白としてもよいだろう。

そのスケルツォの早いテムポではまるでマーラーの様なグロテスクさでティムパニーとブラスが吠えて、バランスも昔のフィルハーモニカーにあった様に最終的に崩れたりしたが、とても興味深かったとしている。

然し他では見られないぐらい管弦楽団は指揮を見るのと同じぐらい他のきかっけに気を配っていて、ペトレンコは抑えるのではなくて、腕を脇に付けて微笑むとある。正しく特にスカラ座デビュー後に変わったと指摘する「抜き」であって、指揮の名人域に入ってきている。

それ以前の公演地でも最小限の動きで指揮と言及されていて、明らかに二年前の怪我で椅子に座っての指揮のその秋の合衆国初公演の時とは大きく異なっていることに気が付かれた様である。

そして、11月初めとされるペトレンコの言葉、「この交響曲を誠心誠意に演奏できるようになる様に」が引用されている。(続く



参照:
Review: Berlin Philharmonic makes another sublime stand at Symphony Center, Hannah Edgar, Chicago Tribune of Nov. 27, 2024
歴史的交響楽ホールの実践 2024-11-29 | 音
見事なシカゴの音楽会批評 2022-11-20 | マスメディア批評
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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早めに振り返る四季

2024-11-25 | マスメディア批評
ロキソニンなどの服用を止めた、土曜日からである。日曜日は気温が上がったこともあってベットで熱っぽく感じた。なかなか体温調整が難しく、腰痛もあってまだおかしい。それでも食事も十分摂れているので、上手く行けば月曜日には一週間ぶりに走れるかと思う。コロナ期間もこれ程開けたことはないので明らかに二回のコロナ感染よりも重篤だった。

インフルエンザにどこで罹ったかというとやはりアルテオパーだと思う。12日に出かけて、17日に熱が出ているので潜伏期間としては正しいか?コロナ初期にもそこでうつされているので会場は違ってもやはりフランクフルトの空気が悪いのだろう。

薬なしでも外出は可能だった。それでもまだふらふら気味である。関節などにまだスカスカズキズキ感がある。運動を再開するかどうかの目印になる。

10月2日に出かけたクロンベルクでの「四季」演奏会の一部と二部のハイライトが街頭放送局HR2から流れた。最初にアルフレード・シュニトケ作コンツェルトグロッソ6番が最初に流された。この曲では当夜のスターであるヤンセン、クレメル、ムストーネンの三人が共演した唯一の曲で、これを放送するだけの価値はあった。その他の楽曲は別途放送されるようだが、先ずは正しい選曲だろう。最初の二人の競演でムストーネン指揮ではバッハのドッペル協奏曲も演奏されたが、出来としてはやはり落ちる。

コンツェルトグロッソだが改めて何回も聴き返したいとは思うのだが、ムストーネンのピアノが秀逸で、この曲のチェンバロ紛いでもあるのだが所謂プリペアードピアノ風のそのピアニズム、こういう風に演奏できる人はあまり知らない。作曲家としてはそれほどの人ではないと思うが演奏家としては一流の人である。

二曲目は、例の楽譜に書いてある情景を四季の合間合間にアナウンサーが朗読するという構成にしていた。決して悪くはないのだが、ライヴ性はその曲間の調音とかお客さんの雰囲気とかにあるので、その点は物足りない。

もう一つ仕事しながら流していると観ながら真剣に聴いていたものよりも短く終ってしまう。やはりそれなりにテムポも早かったのだろう。クレメルの録音などはそこで濃淡をつけていた。

そうした細やかなところでの音楽性は、ライヴではより技術的な細部への拘りと感じたのだが、やはり音だけで聴くと我々門外漢ではそこまでは分かりにくい。寧ろ淡々とした印象が強くなる。こうした音楽性は意外に先頃のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏での早いテムポと聴き逃しにも通じる。

そして放送時間が余ったので、ピアツォラの作品から夏と秋が放送された。南半球であるから北半球とは反対だという断られていた。やはりこの辺りも、この組み合わせの面白sだの一つでヴェネツィアと大都市との対照にも繋がっている。



参照:
春以来のクロンベルク 2024-10-05 | 音
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
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祝祭的でないブルックナー

2024-11-24 | マスメディア批評
承前)フィルハーモニカ―は響きは筋肉質だが二楽章のラプソディでの温かみ、スケルツォのエレガントなダンスの脚、田舎舞踊の田舎のすごやかさを表現に余すことはない豪放なフィナーレにおいてはアップビートの第二主題が無表情なやさしさにあったとしている。ベルリンの定期からの放送で流し聴いただけなのでその旨はよく分からない。然し少なくとも音楽的な表現力が楽団の音響や指揮者の個性によって潰されているということでは無しに、その反対に豊かであることの裏返しの表現力なのだろう。

どうも言及の箇所は例のリズム的な精査に根源があるようで、ブルックナーの演奏においてもとても重要な時間的な表現となる。それでも翌日のブルックナーに関しては我々がマイクを通して聴いていた様にそうした間が十分に発揮されていたかどうかには疑問がある。

その証拠にここでもティーレマンの言葉を使って、ただ一つこの交響曲における殆ど幸福感がと引用して、ペトレンコ指揮においては愉しくとあって、これ程の意祝祭的でないブルックナーはあまり聴いたことがないとしている。

これは、ブルックナーにおける抹香臭さを避けることを嘗てのブルックナー指揮者ヴァントの様にモットーとしているペトレンコからすればパトスへ奔る表現は採らない。すれば所謂宗教的な「祝祭的」とならないのは当然であろう。

田園的な遊びに満ちていて、ペトレンコは腕を脇につけて穏やかに揺らし、二楽章のレントラーへとチャーミングに殆ど呟かせる。そして四楽章のおどけたクラリネットによって巨大なフーガが剛直ではない悦びを誘う。

ペトレンコは巨大なブルックナーとはしなかった。そこに急峻なクライマックスがあろうとも、大聖堂ではなくてチャペルでのブルックナーとして響くというのだ。ダンシーで驚くべき豊かな音色で、最後のフルートへの収斂に運ぶとしている。

放送でも感じたが、やはりアルテオパーでの名演の様に豊かな宇宙観へと想像を齎すことはあまりなかったようである。サウンドチェックでその音価などには配慮があったようだが、やはりカーネギーホールの音響は中域の張りが大きくて後期浪漫派の音楽にはあまり向かないような感じがする。

その一方一楽章における豊かな和声と軽やかな流れ、二桁三桁の二楽章の間の中間楽章の単調さは全く以ってサブコンシャス的でと記している。正しく私が非ユークリッド空間の認識としたものである。もうこれだけでブルックナーの真意が漸く後世に初めて伝わったのではないか!

それに起動する管弦楽は、吠え狂いから輝くコラール、そし渦巻、沈黙そして精密、たおやかさへと対応するとして称賛している。

既にボストンでのブルックナーを終えてミシガンに行き、火曜日のシカゴでブルックナーで締める。さてどのような批評が続くだろうか。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
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有機的合奏の原動力

2024-11-23 | マスメディア批評
合衆国公演からワシントンに続きニューヨークでの三晩の公演から最初に買いの批評が出ている。丁度一週間前になるがカーネギーホールから二晩目は夜中に録音したものである。

初日のプログラムの最初のラフマニノフ「死の島」から始まる。三晩の演奏会でポピュラーコンサートではないものが愉しめるとして、キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーはその力強さと同時に繊細さを兼ね備えていて唯一無二の存在であり、永遠の古典に光を当てるドヴォルジャークとブルックナーのツアーでの七番と五番に言及。そのアンサンブルはあまり真っ当に捉えられていない予期せぬ深み聴かせるとしている。

何時も繰り返している事象ではあるが、このように屡欧州の重要な公演に振れるこの新聞はアメリカで最もよい文化欄を持っているのだろう。「死の島」ではパルジファルと同じく真剣なペトレンコの指揮から重くならない柔軟で趣溢れる音楽となる。船出の近場から崩壊よりも流れが収斂する水煙へとまるで気流が渦を作って各々が散っていくようだとその中間部を表現している。その渦のそれ自体に流動性があるのではなく無為にあるかのようにである。最後にはヴァイオリンのエレジーが、時にはただムード音楽であるかのようなものが、引き剥がされるように醸し出される。

此処での文学的な表現自体にはその文字への言語への共通の感性が必要となるのだが、謂わんとしようとしているのは弦楽陣においても細心のアーティキュレーションとそしてそこにあるべきリズム的な力が与えられて通常ではあり得ない効果を醸し出していたということに他ならない。然し乍らペトレンコ指揮の音楽芸術の聴きどころを文章化しようとした試みである。

コルンゴールトの協奏曲に関してはいつもシュービズ的なものと考えることがあるのだが、日曜日においてのラフマニノフとドヴヴォルジャークに間に挟まれて火曜日にも演奏される、それはペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーによって全く洗練されたものとなったと、当初のハーンに代わって演奏したフランクの抑えた表現は二楽章での感情を書くことはない一方、決してべとべとしたものにならなかったとして、ペトレンコ指揮のそれに合っていたと評価する。

同じような印象は初めて聴いた9月のフランクフルトでも感じていたのでこの筆者の言いたいことはよく分かる。こうしたところがいい書き手いい読み手の通じるところで、所謂玄人は皆よく分かる点でもある。

そして楽員がお互いによく聴き合っていてと、最後のドヴォルジャークの一楽章では暖まった弦がフルートのラインの受け取りと正しく現在のベルリナーフィルハーモニカーが至ろうとしている室内楽団的なそのアンサムブルの在り方であり、音楽的な表現力の緻密さへと通じる観察である。勿論そうした合奏はペトレンコの指揮だけで齎されるものではなく、所謂有機的なアンサムブルの賜物であり、現在の特にスカラ座以降のペトレンコ指揮によって明らかに飛翔させられる音楽の原動力でもあるのだ。(続く



参照:
The Berlin Philharmonic Is the Best in the Business, Zachary Woolfe, The New York Times of Nov. 20 2024
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
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歴史上唯一無二の可能性

2024-11-18 | マスメディア批評
合衆国ツアー初日金曜日のワシントン公演の評が出ている。ベルリナーフィルハーモニカーとしては21年ぶりの首都訪問らしい。ケネディーセンターでの貸し興行であったようだが、2500席のシューボックス型のホールで欧州と同じような価格で出ている。

プログラムは11月の最後の定期公演の三曲で、その評に従えば最初のラフマニノフ作曲「死の島」がハイライトだったようだ。二曲目はヴァイオリン協奏曲で本来は合衆国のヒラリー・ハーンがペトレンコ指揮で初共演する予定だったが数日前にキャンセルした。そこで急遽飛び込んだフィルハーモニカーとも初共演で偶々コルンゴールトの協奏曲をレパートリーにしている合衆国の奏者が共演した。

評によるとデルジュスの「イザーイ」の高弦の木の響きが美しかったようで、初合衆国ツアーにおいても交響曲を指揮したペトレンコの指揮を取りつかみどころのない曲をそのそのコードの読み替えしてフィナーレへと高めたとしている。ヴァイオリニストのコントロールされたヴィブラートと書かれているので相性は悪くなかったのではないか。予めそのヴィデオを観ていたが、若干表現力は弱い感じがするが、結局その後の日程で代わりに入ることになった定期演奏会でのヴェルデ・フランクと比較的方向性は似ていると思われる。恐らく楽器はシカゴ出身の彼の方が良く鳴っただろう。

「死の島」への注目はやはりそのシュトラウスに影響を受けた管弦楽法への再認識を与えたようで、5拍子のそれが波の重ね合わせとなる所でも音を落とすでもなく、ソフトに出すことで巨大な効果を上げていたとしている。こうした奏法上の卓越は本年の春からペトレンコから楽団に求められていたことで、ブルックナーの交響曲を含めて悉く成功している。昨年までとは大違いである。

そしてそのモメントの音楽と特筆されているように、リズムによる時間を非ユークリッド空間としている手法はミラノ以来ペトレンコ指揮にて顕著になって来た未だ嘗てなかった効果である。その一方その弦楽陣の一心な姿勢で弾くクライマックスへと持ち込まれ、通常ならば金切り声の高弦は低減によって滲まされてしまうのだが、とても素晴らしいバランスがとられていると、正しく現在のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの前代未聞の美しさを記述している。

最後のドヴォルジャーク七番では、左右に対抗して配置されたヴァイオリンから行ったり来たりの効果が生じて、作曲家のアクセントが、それが舞曲にも拘らず恐ろしい精度で為されたと、そこに僅かばかりの疑問が生じているのだろうか。然しその答えは、冒頭楽章におけるその部分部分の音楽の意味への意識にあるのではないか。二楽章においてはドヴォルジャークの牧歌的な香りをベルリンの木管群が醸し出したとなる。そして突然のニ長調コーダが開き、その熱量は白熱のようだったと記している。要するに筆者はその全体像を失っているのだろう。並のお勉強をしていては歴史上唯一無二にしかない可能性のある名曲の正しい演奏で創作の全てを掴みそこなうことになるのである。

抑々大管弦楽の通常レパートリーに遠くまで出かけることのない私が熱心に車を走らせて出かけるのは歴史的に一期一会の機会であることを正しく認識しているからに過ぎない。
Benjamin Beilman and the Minnesota Orchestra: Korngold Violin Concerto




参照:
After 21-year absence, the Berlin Philharmonic more than lives up to its name, Andrew Lindemann Malone, Washington Classic Review of November 16, 2024
前世紀に生きる人達 2024-11-17 | SNS・BLOG研究
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
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