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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

よりよい理解の為に

2025-06-19 | 文学・思想
2025年6月17日火曜日にロンドンでピアニストのアルフレード・ブレンデルが亡くなった。今後とも舞台と客席で同じ時間をこれだけ長く過ごすピアニストはいないかもしれない。最初の出合いから相性が良かった。

1978年10月9日月曜日19時から大阪の更生年金会館大ホールで開かれたリサイタルでのことだった。シューベルトの即興曲三楽章をソナタの様に弾いて、最後は同じく遺作の変ロ長調ソナタで締めた。

2008年11月25日火曜日がお馴染みのフランクフルトのバッハコンサートでの最後の演奏会であった。アンコール前にはソナタ同曲を弾いた。ドイツでの最後のツアーだった。

何故最初のリサイタルに出かけたか。記憶にはないが当時フィリップスで新録音をリリースし続けていたので、直ぐに関心が向かったと思う。出かける前にお勉強を兼ねてそれらのLPを何枚か購入していたと思う。

即興曲などがピアノ稽古の教則本に載っていたりしているのは知っていたのだが、既に自分自身は弾くことを諦めていたが、それでも楽譜を乗せて音出しぐらいはしたかもしれない。それでもブレンデルが全く違った意志でそれらを弾くことが明らかだったので出かけた。

因みにこうした名曲は管弦楽にしてもこれぞという演奏でしか聴かない。同曲を二度目に聴いたのは数年前のアムランによる同アルテオパー中ホールでの演奏である。既にその意味は全く違っていた。

シューベルトにおける繰り返しなど今では当然とされる様なことよりもなによりも、その音楽の内包するドラマテュルギーと形式感を尊重して、大ホールを唸らす為のその近代的な楽器をとことん使い切った。決してキーワークの名人ではなくても調音からペダルの扱い方までその音楽的な表現意思に沿って表現の可能性を突き詰めて、音楽を聴かせた。

近代西洋音楽と啓蒙思想は切っても切り離せないが、ブレンデルの演奏はそのリサイタルは、少なくともそれらの創作に耳を傾けて作曲家の内声を聴きとろうとすることで必ず何か新たな境地に、昨日よりも今日、今日よりも明日より啓蒙された分かる人間として存在できるだろうと期待する聴衆が集ったと確信する。

ユーモアを愛し、ベートーヴェンの楽曲の至る所にそれを、ハイドンのウィットを慈しむような文化人であった。教養とはなにも浅く広いことを指すのではない。モラヴィアに生まれ、三歳で音楽的才能を示し、クロアティアで育ち、オーストリアで学んで、ロンドンに移住した。

まさしく西洋近代音楽における汎欧州を体現する音楽家であった。ブレンデルのリサイタルは欧州文化を体験することでもあった。現在それに匹敵する音楽家は、汎欧州の音楽の歴史を示し世界へと向かって、その芸術音楽の意味やその価値を体感させる音楽を指揮するキリル・ペトレンコではないか。共通点は過去へと視線を向けて、その真髄を仲介する能力に長けていることである。二人共必ずしもそうした文化的な中枢出身でなくて、学びつつ伝えることに努力を惜しまない点でも共通している。



参照:
とても そこが離れ難い 2008-11-28 | 音
十分に性的な疑似体験 2008-08-06 | 音
世界を見極める知識経験 2008-07-30 | 文学・思想
勲章撫で回す自慰行為 2008-07-26 | SNS・BLOG研究
形而上の音を奏でる文化 2007-12-21 | マスメディア批評
古典派ピアノ演奏の果て 2007-10-11 | 音
モスクを模した諧謔 2007-10-02 | 音
大芸術の父とその末裔 2006-11-24 | 音
本当に一番大切なもの? 2006-02-04 | 文学・思想
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恥じるべきはあなた

2025-04-13 | 文学・思想
初めての「蝶々さん」を楽しんだ。音楽的にはタイトルロールのエレオノーラ・ブラネットの歌唱は頗る立派なものだった。最近ではヤホとか何人かの十八番にもなっているが、これだけ声が出てベルリナーフィルハーモニカーにも負けない強さのペトレンコ指揮の繊細さと正確さで歌える歌手はいなかっただろう。素晴らしい歌声である。

そのようにペトレンコの指揮はあまりにも見事過ぎて会場は息を吞んだ。柔らかにどこまでも歌い繋げて、そして、メリハリを以てダイナミックに一瞬にして空気を変える。その指揮ぶりはますます磨きが掛かって来ていて、初日らしく疲れを見せない精力的且つ精妙で感受性に富んでいた。それゆえにフィルハーモニカーはコンツェルトマイスターのベルグレー以下とても素晴らしかったのだが、やはりスカラ座の座付きには到底及ばない。今回のような立派な奈落での指揮を聴くと、ベルリンでの定期を減らしてミュンヘンやミラノで定期的に指揮をして貰いたいとしか思えない。やはり交響楽団がたとえ奈落で演奏してもそこには限界がある。毎晩のように演奏して何世紀も続けている楽団とは訳が違う。

初日の主役は演出だった。演出家リヴェルモレの話しは態々聴きに出かけた。そのお陰で苦労したのだが、一時間に亘る話しの内容もプログラムに書いてあること以外は本当に一言二言だった。なによりも英語を話さない、イタリア語のみをベルリンからの下手な評論家のオヤジが通訳した。

そこで最後に三分ほどで語ったことは、蝶々さんの子供はケートに連れ帰られて合衆国のピンカートンの養子になって、そして大人になって日本に戻ってくる。プログラムには1978年の長崎とある。そこでおばあちゃんに会い、合衆国のケイトに「日高屋」の前のミドリの公衆電話から国際電話をかける。幕開けである、「どうしてケイトって?」。

ここだけであまりにも情動的な場面なのだ。道理でお話しでは抽象的にしか語らなかった筈だ。勿論蝶々さんの舞台は作曲年代の20世紀初頭となるのだが、78年に30歳としても1948年生まれである。そのように戦後日本が舞台となっている。進駐軍下の日本である。長崎であるかもしれない。然し原爆は落ちていないようだ。黒澤明の「八月のラプソディ―」を喚起させるかもしれない。時代考証は動いていて、背景に映されるあまりにも美しい日本の美は美学的であるだけかもしれない。大きな窓枠には嵌め殺しのガラスが張ってある。そこに障子の引き戸でブラインドにするようになっている。

個人的にはその風景は先の大戦で空襲に遭った昭和初期の母方の祖父の家がガラス張りになっていたと聞いていたが、それを想起させた。そして養子をとった合衆国遠縁の家庭のことも想起する。日本にやって来たそれとはまた異なる三世のことにも思いを馳せた。

恐らく各々の聴衆に皆其々の思いで情感を揺さぶられる舞台となっていた。そしてそれは全て音楽から導かれているものであり、それ以外に自身の主張や想いで演出するものではないと歌手出身のこの演出家は力説していた。

あまりにも稚拙な日本人はいつものように逆さになった文字にも言及していたが、それが天地逆を意味していたら彼らは死ぬ程恥じるのだろうか?プッチーニがこのパリ万博に影響されたジャポニズムに表現した制作意図はそうした音楽劇場の創作であったのだ。(続く



参照:
シン植民地主義者の恥 2025-04-08 | 文学・思想
おっぺけぺピンカートン 2025-04-07 | 文化一般
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シン植民地主義者の恥

2025-04-08 | 文学・思想
復活祭新制作「蝶々さん」制作に関して読む。ベルリナーフィルハーモニカーのサイトに既に出ていたことだった。一幕をざっと見て、気になることったことがそこにも特にペトレンコの言葉として触れられている。誰でも真面な人なら同じようなことを考えるからだろう。

あり得るべき思考としては、屡特に日本などで話題となる西欧から見た極東やアジアへのオリエンタリズムやこの場合はジャポニズムと呼ばれる東洋趣味としての見解に関するものではない。そうした至近で狭義の扱いの精々日本の人からの着物やその所作に関するような「月指す指を見るバカ」は論外としても、ジャポニズムの本質はどこにあったかということにもなる。それはそのものパリ万博に語られるようなグローバルな見識への広がりや所謂植民地政策とその後の世界戦争へとの歴史的展開の共通認識に終らない。そこの広義な意味がこのプッチーニの作品に読み取れるというものである。

既に記した様に「15歳の少女の人身売買」と語っていたペトレンコの真意がここで分かる。その状況をして作曲家プッチーニが1900年6月にロンドンで出合った原作のべラスコ作の芝居「日本の悲劇」が作曲の動機となり、1904年2月のスカラ座で二幕版初演となる。一幕に既に多くのことが語られていて、特にピンカートンの口から「合衆国に帰る前に、いつでも捨てられる日本の女」とそれに留意する領事のシャープレス。

そのシャープレスの受け身の態度こそに聴衆が曝されることを作曲家が意図したことで、ミラノでは折角のヤンキーの堂々とした男がケチつけられた様になって、成功とはならなかった為に、90分に及ぶ二幕の結末への大きな流れを三幕に別けることで誤魔化したことになる。ペトレンコは、この改訂をプッチーニはその死まで懐疑的に考えていたとしている。

そこで掻き鳴らされる「星条旗よ永遠なれ」への音楽的表現もまさにそれであり、上の場面が如何に重要かが分かる。音楽劇場における表現方法としては勿論どのような視線で聴衆がそれを受け取るかにその成功の可否が掛かっている。創作家プッチーニの表現意図も動機もそこにある。そのペンタゴナルの五音階の使い方やその終結などに関してはじっくりと観察して改めて味わうことになる。

近代芸術音楽の表現意図は啓蒙思想と切っても切り離せないが、そこにおいて劇場で少なくとも件の個所での決定的な視点は、そのもの植民地主義への支配者として歴史を顧みることで生じて、もしこのオペラを今日多大な費用と労力で新制作上演するときに我々が今そこに落とす視線こそが問われている — 「記憶の政治」という言葉に対して意味が重なるようでもあるが「記憶の芸術」と呼べるだろうか。

ピンカートンの口を借りて語られる男尊女卑の「三行半」の日本社会への視線は今でもまだまだ世界中にある「目覚めぬ民族」なるヘーゲル的世界観が根拠とはならない。然しペトレンコが自ら語る様に、「恥も外聞もない、ネオ植民地主義者のエゴイズムで攻撃する力を持つ者が為すことを、理性的な声で見識を示すところで、決して置き換えることが出来ないのが、上のシャープレスがその最後を分かりながら関わっているのと同様」としている。当然のことながらこれはプーティン独裁のロシア批判でもあるが、現在のワシントンとその仲間たちに考えを及ばさせない者はいまい。

先日の新制作「ランヴィジブル」フランクフルト公演の大好評で今年はと思ったのだが、ペトレンコ監督の復活祭はその芸術性でもとても手強い。



参照:
Puccinis »Madama Butterfly« - So klingt ein Aufschrei, Malte Krasting
おっぺけぺピンカートン 2025-04-07 | 文化一般
玄人を教育することから 2025-04-03 | マスメディア批評
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身体的運動で見出せる死

2025-03-30 | 文学・思想
日曜日の初日までにもう一度楽譜に目を通せるか。もう少しフランス語が出来れば定着したと思う。先ずは初日に行ってプログラムと字幕で前後関係を認識しないといけないかもしれない。とても容易なテキスト乍その真意は色々と迷う。

先日の指揮者エンゲルの解説を参考に先ず三部の完全な寓話のところから見た。一部の抽象性をより認識する為だ。音楽的には死の動機のような下降動機など非常に節約されているのだが、重ねられて、特に二部での混合音色は同じメーテルリンクの「青髭公」などを想起させる。

コントラバスまでも分奏となる一部ではより音列が扱われて、組み合わせて、力点をずらすなどの中世のホケテュス的な扱いで、素材の制限がなされている。同時に拍子も5、3が4に入れ込まれるなど、如何にもヴェテラン作曲家の書法であろう。速度も統一されて扱いで、演奏技術的な破綻を起こさない配慮がなされているように思われる。

メシアンやベルクなども研究している。勿論フランス語の使い方はドビュシーもなのだろうが、その言葉の音節という事では当然そうなるのかもしれない。因みにフランクフルトではこの新制作に続いて同じエンゲル指揮でオネゲル作曲「ジャンヌダルク」とドビュシー作曲「選ばれし乙女」のオリエ演出の制作が再演される。偶然にこの二つの制作を組み合わせたものではないだろう。序乍そのジャンヌダルクを演じるのは映画「ノルトヴァント」でヒロインを務めた女優さんである。その映画の監督が昨年復活祭で「エレクトラ」を演出した人で、またもやペトレンコやエンゲルが同じような世界の面子と仕事をしるのが分かる。件の女優さんは、素手便器のナチの若い兵士を支える役だが、映画のアップでは決して魅力的ではないのだが、舞台では悪くなさそうだ。
Trailer zu »La Damoiselle élue / Jeanne d’Arc au bûcher« von Claude Debussy / Arthur Honegger

Nordwand (Philipp Stölzl, 2008) (Eng. The North face, SK - Severná stena) incl. ENG, SK Subs



抜歯のあとは薬も出されなかった。女医さんもこちらに慣れたのであまり心配していなかったのか、夕方にスポーツしてよいかと尋ねるぐらいの人間に考えも及ばなかったのか。寒気がして、今迄の抜歯よりも厳しかった。理由は化膿が活きているからだろう。それでも夕食もしてシャワーも浴びたが、痛みもあったので痛み止めを服用して、就寝前にも飲んだ。朝もあまり気分はよくなかったのだが、肉屋に行けた。それでも部屋に戻る階段は結構苦しかった。やはりまだ健康体でないことが分かった。それでも午後給油する燃料代が安くなったところで、走りに出かける準備で車を走らせた。

決して安くないスーパーで1.69ユーロで、15リットルだけ入れた。それでもタンク容量の48%となったので、十二分走れる。そこで帰りに走りに出かけた。ゆっくり走っていたので後ろから近づく音を聞いた。男女のペアーで、女性はアフリカ系の軽快な足取りのお姉さんで、追い抜かれてから後を着いてきたのは30代の独逸人男性だった。足取りが重かった。あのお姉さんについていくのがトレーニングになっているのが分かった。若い女性と走るといいトレーニングになるのは間違いない。

こちらは弱っていたのだが、この抜かれる経過がよくて、折り返しは20分台で全然悪くはなかった。そういうものである。やはり無理とは思っていても身体を動かすとすっきりする。其の儘であったなら日曜日のフランクフルト行にも元気が出るということはなかったであろう。



参照:
罰金を避ける時計板 2025-03-29 | 生活
明らかになる現象「死」 2025-03-28 | 文学・思想
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明らかになる現象「死」

2025-03-28 | 文学・思想
承前)興味深いのは二部への一部のアンテルーデが既に二部の楽器編成つまり木管合奏になっている事だ。歌詞からすれば一部の娘の魂が三人のカウンターテナーによって三次元的空間把握を以って放たれる。

これに関しては演出家は、地下、平野、天空の様な事を語っていたと思うが、舞台美術的にどのように再現されるのだろうか。ベルリンの初演の録音を聴いても空間タップリに録音されている。フランクフルトの三人のカウンターテノールは既に聴いたが、初演に比較して決して悪くはないと思う。ベルリンの限られた予算の中でどれぐらい力感をおいたのだろうとなる。初演の演出にもよるのだろう。音楽的には木管合奏の絡み合いの面白さが、その音列で空間に広がっていく。
Unterwegs zu einer neuen Oper: L'Invisible (Teaser 1)


今し方インタヴューを短く纏めたYouTubeが出た。未だ20クリックぐらいでお気に入り三人目である。マガジンに載っていた内容とは異なる。映像も舞台練習のものが入っている。総稽古は前日ぐらいに済んだろうか。

因みに復活祭のバーデンバーデンでもまず先に指揮者ペトレンコがやってきてピアノで舞台稽古が行われたと報じられている。つまり来週からベルリンで管弦楽の練習となり、最終的に歌手陣と合わせて一週間前から劇場へ前乗りで総稽古となる。

つまりエンゲルの話しは、その舞台稽古を通して、より音楽的な意味合いを語る。そこでは一部における最も抽象的な表現である。低弦を軸にした弦楽合奏での舞台である。先日の話しのように、一部における家庭の居間が自然の中に移されている。これで話が通じるのかどうか。恐らく居間は地上で、死の床は地下かもしれない、そしてカウンターテノールで上に抜けるように想像できる。

然しそこで重要なのは人によって語られることでの死の表徴かもしれない。これは輪廻となっていたヤナーチェック「利口な女狐」における最初の森の中で狐を狙う猟師、そして最後に一人ぼっちの猟師が再び森で見かけるのは女狐の子供とそれを囃す同じ蛙の孫だった。

死はそうした関係で存在している。三部を繋ぐのは高みのカウンターテノールなのだが、ライマンはこれの多くをアカペラで歌わせ、または二つのハープの伴奏で歌わせて、リヒャルト・シュトラウスやヴァ―クナーとは全く異なり、練習においても歌を除いては始まらないように書いている。
Interview mit Daniela Löffner und Titus Engel zu »L'invisible« | Oper Frankfurt


既に言及したようにこれらが拙いと作品を正しく劇化することは出来ないであろう。ライマンの作風はエンゲルに言わせるとそれ以前の作風とは大きく異なり、つまり大編成でそれと歌手が競い合わないといけないようなものではなく、繊細にそして明晰な精神の表現となっているとする。恐らくそれはよく言われるように作曲家の最晩年の様式に通じるものであり、一般に白鳥の歌と呼ばれるものに近いのだろう。奇しくも劇作品としては創作家の思いがけなく最後の作品となったのではある。

確かにざっと楽譜を観るだけでも無駄がないような気がするが、それは何も情景を音化したものではなく、時の流れのようなものなのだろうか。(続く)



参照:
十字を切る夕べの祈り 2025-03-10 | 文化一般
四旬節に香る春の響き 2009-03-15 | アウトドーア・環境
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見えざる手の人

2025-03-18 | 文学・思想
地下駐車場は使えなかった。それでも丁度いい時刻に劇場に入れた。思ったより多くの熱心な聴衆が集まっていた。入り口で貰ったプログラムには、残念ながら指揮者エンゲルの名はなかった。その代わり三人のカウンターテノールとテノール、バリトンがピアノで歌った。ピアノを弾いたのはカペルマイスターや合唱指揮をやっているスパソフという人で、練習のピアノも受け持っているのだろう。主役はレフナーという女性の演出家で、今回がオペラデビューらしい。元々語学の先生らしいが、芝居の畠で経験を積んできている人の様だ。それでもライマンの最後のオペラをデビュ―制作と出来ることを喜んでいた。そこには、昨年亡くした彼女の父親のことなどこの作品が扱う死に対峙した個人的な感情があるようだった。

作曲家ライマンは、このメーテルリンクの三部のドラマの最初の二つに1985年にベルリンの劇場で出合い、最後の「ティンタジルの死」を見つけたことで2011年から作曲に取り掛かり2016年に終えた。その三つのドラマがどのように関わっているのか、それがこのオペラの本筋の様だ。

三つのドラマがどのように関わっているのか、その音楽が低弦主体の一部、管楽器主体の二部、そして合わさる三部と色付けされていてと、当日二部での盲目の祖父と叔父さんのディアローグが紹介された。そして三部の完結の三人のカウンターテノールの歌として紹介された。

音楽に関しては、3月4月号のマガジンに指揮者エンゲルの言葉として紹介されている。やはり予想していた様にライマンの作品を指揮するのは今回が初めてで、その作曲家を「現代の古典」とまるで活きた天然記念物のように呼んでいる ― これに関しては全く同意見だが、それに続くことも全く同じ視線で話している。

勿論その作品はドレスデンでのお勉強時代に沢山習ったがとなって、音楽的にそのオペラが人声から導かれていて、歌曲の伴奏者としてのライフワークにおける活躍、生涯の芸術的真髄だとしている。

その声楽的な「見えざるもの」の作りは、演者にとっては終始大変難しいのだが、可能な限界を超えることはないと述べる。

今回はベルリンにいるようで来ていなかったのだが、会場のホワイエには前回登場の時のクラッツァー演出ニールセン作「マスカラーデ」の写真などが所狭しと壁に吊られていた。そしてカウンターテノールの三重唱からはとても重要なのは指揮者で、それが合わせることの全てだと語っていた。名を挙げることはなかったのだが、正しく指揮者エンゲルが「見えざる人」ともなっていて興味深かった。

兎も角、公演前にあるレクチューアと同じ数の100人分ほどの椅子があって、結構に埋まっていて、その最後列の人の多くはノートを持って熱心にメモ取りをしていた半世紀に近い前の学生さんたちだった。

中には若い人もいたのだが、関係者とかそのようにしか思えなかった。(続く



参照:
草臥れる巡行運転免許取得 2025-03-17 | 雑感
一番辛い時に楽しいものを 2021-12-04 | 文化一般
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創作美への観照

2024-12-03 | 文学・思想
承前)指揮技術の卓越はなにも見た目だけではないだろう。そこで筆者はシカゴから報告している。そこでバランスを崩しそうになったところで、この楽団らしくなかったのは、マーラーかのようにティムパニーがとどろき管が吠えるスケルツォノ部分で、我々もフランクフルトで気が付いたところだ。

それをしてこの管弦楽団らしくないとしていて、最初のパユとマイヤーの出だしの延長でもあって ― メムバー表にないからジャコーをパユと取り違えているようだ ―、ヴィオラセクションの後ろで掛け合っていると特記している。筆者は舞台後ろに座っていてあまり確認できなかったのか。

そして彼らは好きで演奏しているだけではない。それは言うが易しであると語り、語らないよりも語り合うように音楽をしていると注釈している。

正しくペトレンコの言葉として挙がっている「誠心誠意に演奏するようになるように」の意味であった。その言葉は四楽章のベートーヴェンに準えたフガートや二重フーガ―として凝縮して為されるところである。それでもその表情は優しくと記しているので舞台奥からだろうとの推測となる。

合衆国ではベルリンの経費削減などに関しての関心が高く、そのことをしっかりと報告している。それは合衆国のビッグファイヴの経営状況が悪いからだろう。ベルリンにおいてもそれは当然のことのように営まれているのではなく、シカゴで火曜日に2452席を売り切ったのでもそうではないとしている。

前のズーム会見の記事でも言及されていたのだが、ストリーミングの時代にライヴ中継を受けていてもそれはライブの実演には至らないものである様に、脱メディア化を越えて如何に世界に向けてのアピールと同時にお客さんに来て貰うかがビッグファイヴでも課題になっているということだ。

今回の合衆国ツアーでのペトレンコ指揮の特徴は構造的でそして奏者への自由度が高く、テムポは早いがあまり窮屈ではなかったとなるだろうか。その反面、一部の聴衆が求めていた主観的な情感の期待にそぐわなかったという批判もあっただろう。

そのことに関してもベルリンでの初日から続くティーレマン指揮との比較ということで語られた。玄人の批評でもベルリンでよりも明らかに評価が高かったのは、その壮行演奏会でのフランクフルトからの流れ則ち「誠心誠意演奏できるようになった」楽員の慣れが大きい。そのことは8月の初日の演奏会前に支配人ツェッチマン女史が放送で語っていた通りである。まだ完成していなくてもペトレンコの言葉通り「ブルックナーは発展する」のその(合衆国ツアーに向けて)目標は見えていると語っていたことだ。

改めて付け加えると、交響曲五番でブルックナーの浪漫派から後期浪漫派への道は定まり、より形式的な伽藍が出来上がった。それに関してチャペルと評される所以は、それはまさしく浪漫的独白に対しての後期浪漫的な形式に則った美の観照ということだろう。残念乍らこれを上手に表現していた書き手はいなかった。(終わり)



参照:
フルトヴァングラーに倣い 2024-12-01 | マスメディア批評
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
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寂寥感溢れる心像風景

2024-11-14 | 文学・思想
ペトレンコの指揮は変わった。スカラ座以降は少なくとも変わった。11月12日のフランクフルトでの合衆国ツアー壮行演奏前には前の週の定期演奏会最終日でのもう一つのツアープログラムのラディオ中継しか聴いていない。然しそこに共通したものはあったかもしれない。最も変わったのは拍の刻みのゆったり感で、そこで楽団のアンサムブルの自発性が引き出されているようだ。的確さはあってもやはり呼吸感がより演奏者のものになってきている。

車を当夜のアルテオパーの地下駐車場に入れて、片付けものをしてから、二楽章の楽譜をもう一度確認した。往路では一楽章からの二楽章迄を何回か繰り返していた。渋滞などもあってあまり集中できなかったので二楽章を繰り返した。四楽章での動機の扱い方で不明確なことがあったからだ。そして座席に着く前に初めてプログラムを2,50ユーロで購入して捲ってみた。そこで初めて知った、二楽章が最初に書かれていたことを。

この交響曲の難しさはそこにあって、各楽章間の連関がそれほど単純ではなくて、その意味合いが捉えられなくて、一貫した印象を持ちえなくしている。それもこの二楽章の内容自体がファンタジーに飛んだものであるという指摘は正しい。

プログラムには「トリスタンとイゾルテ」の三幕との関連にも振れてあるのだが、やはり最初の始まりのニ短調こそは今回の公演での迫真に迫る表現あった ― 危ぶまれた一楽章終了時に静まり返っていたのだが、二楽章終了時に少しだけ拍手が始まりかけた所以である。モーツァルトのレクイエムのそのものの響きである。それはそのアンサムブルの慣れと試行錯誤によって為されたものであると同時に指揮者の指導の下で掴んだ核心でもあった。それは「嘆きの調べ」である。

そしてそれが第二主題の慰めによって解消される。そうした構造でしかないのだが、それが浪漫派の真骨頂であるとともに、則ち新ドイツ派とされるヴァ―クナーやリストの純音楽から離れたその流派に対して、後期浪漫派への重要な転機にもなっている交響曲ではないかという仮説が生ずる。

同時にこうした作曲家の心像風景こそは、クラシックオタクの元祖宇野功芳が開拓したブルックナー人気の核にあったものだ。そしてそこでのハンス・クナッパーツブッシュ指揮による交響曲八番を評した「真実の詠嘆と自然の寂しさ」、「本当の寂寥」などそこでの記述がここで全てがこのペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの壮行演奏会で表現されていた。

そうした受け留められ方は決して日本での心情だけではないということは、既に先月のリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のヨーデルの使い方などでも紹介した通りである。それが慰めによってエクスタシーへと高まるとすれば孤高の男寡たちにウケること間違いなしである。そしてその高揚感こそがカトリック信仰でもある。

この二楽章を書き上げた時には既に終楽章と一楽章の構想は決まっていたというのが、論文などを見るとあるのだが、この二楽章と一楽章の導入部との繋がりにおいて作曲の過程を知ると合点がいく。つまりなぜ唯一無二の中世的な風情の序奏が付けられているのかが、そこから導き出されていて、恐らく終楽章での構成に沿って完成されたものだろうという予想がつく。(続く)



参照:
大らかに響き亘る伽藍 2024-09-03 | 音
アウトバーン走り絞め 2024-11-13 | 雑感
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大団円のその意味

2024-10-25 | 文学・思想
承前)今回の演出においてオックスがリアルな姿で舞台化された。その背景にはそもそものこの楽劇のタイトルロールであったことがある。実際に今回の公演では現在のタイトルロールのばらの騎士則ちオクタヴィアンはそのキャスティングと存在感からして三番目以下でしかなかった。

そこで度々引用されている作曲家と台本のホフマンスタールとの度重なる往復書籍にその創作過程を見る。そして100年間この楽劇の音楽的若しくは内容が十分に聴衆に伝わっていなかった状況の原因をそこに迫れる。

その前提である作曲家がモーツァルトのダポンテオペラに拘っていたことはよく知られる。その一方10年ほど若い作家の方は各幕が静かに終わることで危機感を抱いていた。専らドラマテュルギーによる様だが、そうなると現在のような形はつまり次作の「アリアドネ」のプロローグに繋がるトリックは最後のアフリカのお小姓がマルシャリンのハンカチを拾う所のユーモアにあるとなる。

このことに気が付いたのは、今回の公演においても演出家ハリー・クッパ―が特に変更したというお小姓からインド人らしき運転手への書き換え、そして一幕では部屋の使いをしていた男性がハンカチをを拾って嗅ぐということから「オクタヴィアンの次の若い恋人になる」という書き物が幾つか見られたからである。勿論この楽劇が「フィガロの結婚」や「ドンジョヴァンニ」のオペラブッファのパロディーであることから、ケルビーノがアルマヴィーヴァに、ドンジョヴァンニに、そしてオクタヴィアンがオックスにという繋がりは百年間語り続けられていたであろう。然しここでそうした大団円に掛けた様式的な創作であるったことが分かる。要するにそうした嘗ての楽劇のフィナーレとは異なった新古典的な様式感であったとも説明されよう。

このクッパ―演出では、表面上は子使いのアフリカ人の子供を使いたくないので綺麗なインド人としたと読み取り、其の儘本来の形式は守られる。然し実際の印象はどうであろう。なるほど一幕の歌詞にもあるようなそうした植民地的な状況をここではアフリカからアジアに置き換えただけとなる。

2014年のザルツブルクでの批評などを読むと、嘗ては東ベルリンのコーミッシュェオパーで活躍して2019年に同地で亡くなった社会派の演出家としてあまりにもそうした要素が見つからない演出だと書かれていた。さてどうだろう。20世紀の初頭にあったアフリカへの眼差しを丁度植民政策の末期にあったアジアに移して、そして今日の聴衆にはそのことに気が付かせるギャグとしたのではないか。そしてこれまた月並みに語られるマルシャリンの次の若い男という観想を少なくとも今回の再演で感じただろうか?これが三幕の前半から後半への音楽であり舞台であった。

そこからこうしたスタイリッシュな作りを「アリアドネ」の前作の本格的な楽劇から進めていた。そこで改めての本格的楽劇挑戦が「影のない女」によって為される。同時に最初の作曲家の構想におけるトリオそしてデュエットで終えるというあまりにも容易な解決によって、大衆向けの創作となってしまう作家の危惧がどのように避けられたのか、それともドレスデンでの初演成功から戦後のカラヤン指揮による録音やザルツブルクでの上演から愈々ミュージカル作品となる、それを引き継いだカルロス・クライバー指揮によって決定的な不理解へと至ったことを示すことになったというのが今回の再演での大きな回答でもあった。(続く



参照:
壁を乗り越えて進もう 2020-01-03 | 文化一般
過去を学ばなければいけない 2016-12-17 | 文化一般
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欧州文化での進化

2024-01-23 | 文学・思想
資料音源などを調べている。先ず、ブーレーズ指揮BBC饗の録音は使い物になりそうにない。もともとブーレーズ指揮シェーンベルクは不評であったのだが、この録音に至ってはバランスがとてもぎこちない。なぜこのようになって仕舞ったのかは、ギーレン指揮SWR饗の名録音と比較すると、やはり声楽の扱い方ではないかと思った。それ程ギーレン指揮の器楽声楽のバランスが絶妙で、もしかするとこの指揮者の代表的な録音ではないかと思うぐらいだ。勿論、ペトレンコ指揮は全てにおいて軽く超えてくるだろう。

PDF化されているプログラム冊子を読むと最後にベルリナーフィルハーモニカーで指揮したのは1985年6月のドホナーニのようで、その前にはギーレンが1970年2月が初めてだったらしい。

やはり難物である。音楽的に詳しくは更に見ていくとして、解説のクラスティング氏がユダヤ人がプロテスタントに改宗して、更にユダヤ教に戻った過程をユダヤ人の視線から捉えていてとても興味深い。勿論ここでは作品の旧約聖書のモーゼの章のエザウの兄弟葛藤のことから創作の宗教性への言及となる。

非宗教的なリベラルな家庭から23歳で急に離脱して、その後カンディンスキーの影響などを受けたようだが、大きなきっかけになったのは1921年6月ザルツブルクに近いマット湖でユダヤ人逗留者が締め出された事件に遭遇して、欧州人として育ったのにドイツ人でも、欧州人でも殆ど人でもないと初めて気が付いたのだというのである。それによってユダヤ人は国が必要と考えるようになって、シオニズム同等の考え方にいたり、自身の政党を作る準備までしたとある。

ここでは、既に1912年に構想があって、1917年から準備を始めて、1922年に殆どのスケッチを書き終えた作品における宗教性が語られている。無神論者がどうしての説明となっていて、このことがこうして書かれているのを初めて読んだ。

古代宗教を残す一神教の源泉への触れることは難しい。そこに全ての根源があるからだが、シェーンベルクのその宗教性としてここで描かれていると同時に、ここでは一つの未完の作品の中にその音楽的な芸術的な進化が観察されるということになる ― その音楽的な姿を見届けるというのが今回のベルリン紀行の個人的な目的である。

そして上の解説文から分かるように、そうした進化論的な干渉が現実世界ではシオニズムからイスラエル建国へとの政治歴史にも観察されて、それがまさしく今日の世界であり、それは同時にこうした精神社会的な芸術行為に反映される。

このプログラムは早くから、先日のデュテュユーなどのプログラムに続いて演奏されることになっていた。10月7日のハマスによるテロ事件とは一切関係がない。しかし、それはなにもそれ以前から何一つも変わっておらず、何故アンチセミティズムが欧州社会の大きな問題になるのかは、ここに説明されている — ポストコロニアズム的な見解は一つのイデオロギーでしかない。

ソヴィエト出身の指揮者ペトレンコが宗教については今迄十分に考えて来なかったということで、この楽曲について語っていたのも当然のことながらこうした欧州文化の根幹に触れるという意味でもある。



参照:
世界の実相が描かれる 2022-03-06 | 文化一般
拍手喝采する意義 2023-11-22 | 文化一般
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非合法的な自由な発言

2024-01-07 | 文学・思想
ドイツ連邦共和国におけるアンチユダヤ主義は近東の紛争で明確になった。そこで様々な独芸術文化界での議論となる。先ずは連邦政府文教委員会長のSPDのブッデ議員は、その立場から対外独文化施設はどのように対処するべきかとなる。そこで皆がこぞって考えるべきだとして、協調作業は可能だとの見解を通信社に語る。

対外的にも独団体がアンチユダヤ主義への疑いをもたれるべきではないが、それまでの友好な関係を遮断してということではなく、協調作業は可能だとの旨を語る。

つまり、白黒つけられるものではなくて、抑々文化芸術は多彩であるべきなのだと答える。我々が反ユダヤ主義と思う諸国においての協調作業もそれは可能にする。そしてその協調作業を通してユダヤ文化をそれらの諸国でも仲介する。即ちそこでは架橋が破壊されていても文化的な架け橋で繋ぐことが出来る。誤りは生じるかもしれないが修正すればよい、今がその時だと。

緑の党の文化大臣ロートは、文化界において議論が窮屈になることは危険であるとしても、表現の自由の憲法精神に則っても、人権蹂躙である場合は明らかに制限される。モスリム嫌悪、排他主義の形での人種差別、反ユダヤ主義がそこに含まれる。アンチユダヤ主義の勃興が疑われるところでは警鐘が鳴らさなければならず、多くの文化団体ではユダヤ人の生活の支援を検討した。

だから、文化界ではその議論内容に関しての不確かさが生じた。しかし一方で独文化は論争から成り立っていて、それが容易な解決を見ていないという。そして在独の文化関係者には、その議論が制限されていることに驚き、誤解が生じていると観られている。

そしてドイツは植民地主義を統括している国としての世界的な定評があるとの認知があり、文化団体がそうしたドイツにおける政治的な危険性を指し示す任務があるとする。

こうした事情と議論が歴史的過去の上に立脚するドイツにおいては、イスラエル存続に懐疑を持つことの無い国是があり、アンチユダヤ主義こそが表現の自由の名のもとに人種主義として全面的に否定されるものとなっている。

同時にドイツ連邦共和国においては、宗教的な原理主義、差別、人種主義、そしてあらゆる反ユダヤ主義には議論の場がないということである。

アンチユダヤ主義への対応は既に触れているが、ドイツにおけるユダヤ文化は重要な独文化の一部であり、その隣人としてのユダヤ人におけるシオニズムは近代思想の一部として捉えられていることから、その枠内でユダヤ人の宗教原理主義も扱われる。これはなにもドイツゆえではなくて、欧州におけるポストコロニアズムを通しての近代主義の延長に存在する。

それらは独連邦議会第三党のAfDも議会で会派として扱われない事にも相当していて、新たな視点への議論の叩き台となることはあっても憲法に則り非合法的な活動に相当するということでしかない。



参照:
Kulturszene: "Zusammenarbeit muss machbar sein", dpa vom 3. Januar 2024
不死鳥の音楽的シオニズム 2023-12-17 | 文化一般
大洪水の後で鳩は 2023-12-21 | 文化一般
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生きているだけでいい?

2023-10-04 | 文学・思想
承前)10月3日ドイツ統一の祝日である。この日のベルリンでの新制作「メデューサの筏」追加最終公演ほど相応しいイヴェントはないものと思う。「68年には未だ狭窄があった時よりも、今日においてのように、この作品がより豊かに現実政治であって、本質的なことはない。」と2025年からミュンヘンで新制作「指環」を演出するトビアス・クラッツァーはバイエルン放送協会に語った。

この作品はこの数年間においてもより政治的な事として上演されてきているのだが、ここでは敢えて具体性が避けられて、この演出家特有のとても考えられた中でのやりっ放しの演出となっている。勿論そうしたコンセプトはこの会場の音響などを含めての指揮者の判断ともなっている。

しかし同時に報告者は、この上演で現在の難民問題そして植民地への航海の往きはよいよいの船旅の中での様々な社会層そして水遊びの風景などを観て、行楽地に行くと地中海の大規模水葬場で泳いでいると感じるだろうと書くように情動的に揺すぶられている。その様に音楽が書かれているのだが、それは激しさを増す環境運動へであったり、資源不足へと聴者を引き込むことになる。

それ以上に演奏はとても未だに刺激的な音楽を為しながらも演出がという評も初日からあったのだが、最初の評者はより大きな観想を語っている。

即ち、如何により快適な自己選択をしていても、それでも戦うことに意味があるというテーゼを導き出している。座礁した船からの逃避、そして曳航するボートからの切り離し。
Das Floß der Medusa | Trailer | Komische Oper Berlin


それは最終場面での格納庫の大きな扉が開き、滑走路へと生き残りが導かれる時に明らかになる。そこでの問いかけであった。個人的にはマルタ―ラー演出のアイヴスの最終作「宇宙」のボッフムのトリエンナーレのヴィデオから人々が吸い込まれていく「ガス室」を思い浮かべたのだが、ここでは生き残りが故郷フランスに戻った時の社会が語られている。
Trailer: Universe Incomplete, Ruhrtriennale 2018


難民問題は、環境問題は、資源の問題は、そのもの「より快適な住処」にいる我々のそのものであるということだ。その為に生存競争があり、その社会の構造を目の辺りに実感させることがこの音楽劇場のコンセプトであった。

前記の「狭窄」に示唆されていたようにその冷戦時代には別の政治文化的な要素から到底気が付かなかった世界の秩序が現実政治においても環境問題においても資源問題においても実感可能な課題となって来ていて、そもそもその社会自体が機能していないということに気付くということである。

選択的に生かされていて、最終的に何処に連れていかれるのか?クラッツァー演出は昨年フランクフルトで同じエンゲル指揮の「マスケラータ」で「有りの侭の自分」を示していたが、今回はより広く、インテリ層ではなく、東ベルリン出身者や移民の背景のある人たちにもエンタメを装いながらも同じように音楽的な効果から実感してもらい、更にそこからありうるべき姿勢が問われている。創作者の意図を顧みれば、これ以上な上演の効果はないように思われる。同時にその作曲の価値と真意が漸く顧みられることになった。(続く)



参照:
"Kämpfen lohnt sich": Polit-Oper "Floß der Medusa" begeistert, Peter Jungblut, BR24 vom 17.9.2023
オペラの前に揚がる花火 2023-09-19 | 雑感
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評
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聖人の趣の人々

2023-07-01 | 文学・思想
この辺りでチャットパートナーの彼女にもなにか書いておかないといけないかもしれない。口説くということもあるのだが、それ以前にこの間に体験したことを上手に短く纏めて伝えておきたい。

なによりも新制作「アシジの聖フランシスコ」においての感慨は彼女の活動無しには理解に至らなかった面が少なくあるからだ。なによりも後ろ手縛りで足の裏を羽根で擽られてのその動物の様な動きのセクエンスに言及しておきたい。その情景はまさしく聖フランシスコの動物振りであって、天使が蟷螂というのにも通じる。

そこで示されたのは獣医志望である彼女の万物への愛が聖人のそれそのものであるようで同じような表現になるのは自明なのだ。そして蔑まれる様なそれどころか自身の健康を危険に曝す行いによって弱者に目線を等しくして手を差し伸べる。聖女でなければ為されない。

勿論その様なことは言及に値しないが、恐らく彼女自身の自らの行いが明文化されていないところがあると思うので、それを指摘する為にも「アシジの聖フランシスコ」の短いセクエンスのリンクを付けたい。表現としての洗練は別としても彼女がやることはやはり神懸っている。

音楽芸術においても全く同様で、評論家とか玄人の仕事はそうした表現に対して何らかの認識をする事が批評であり、そこで起こっていることを伝える事こそがジャーナリズムである。そうしたフィードバックによってのみ表現は洗練されていく。

シュトッツガルトの駐車場から劇場への地下通路にいつも同じ物乞いのオヤジがいる。先日初めて1ユーロも献金した。駐車料金は日曜価格で僅か4ユーロ、それぐらいはしてもいい。そしてコインを落とすとこちらの顔をしっかりと見る。普段から普通に丁寧に挨拶するオヤジさんなので誰も嫌な気はしないのだが、流石に1日に何回も通ると知らぬ顔が出来なくなる「アシジの聖フランシスコ」の公演である。

その顔つきからユダヤ系の人だと思われる。結構な収入があるのではないかと思うぐらいなのだ。文化的な催しものに行く人をターゲットにしている。キャムピングチェアーみたいなものも使っている。少なくとも今回の音楽劇場制作「アシジの聖フランシスコ」においてはまるでそこに配置されているかのようにさえ感じた。



参照:
動物のミミックな動機表現 2023-06-20 | 音
聖女の嘘の様な物語 2023-06-08 | 女
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愛する者のみが赦される

2023-06-13 | 文学・思想
新制作「アシジの聖フランシスコ」初日について備忘録。一部冒頭から、その舞台奥に位置する管弦楽は御簾の後で指揮者の前に三人のシロフォン奏者が広がる。これだけでこの一部終了後の尋常ならざる聴衆の熱狂が導かれる。

つまりこの曲の最大の問題点であるその細かなリズムの核をこの三人のソリスツが指揮者と共に舞台上に収まらない120人の大管弦楽を律することになった。これだけで指揮者エンゲルが与えるリズムの妙味が音楽を明晰にすることになり、初演の小澤の天才的ながらある意味一本調子なそれを超える演奏とした。個人的にも喜ばしい以上にその音楽は直ぐにカトリックの確信へと進んで行く。

その前提として、演出家アナゾフィー・マーラーのヨゼフボイスのウサギを使った演出は、その歌詞内容と音楽的な主題の反復の意味を際立たせた。一景「十字架」でも如何に宗教的な意匠を避けて舞台とするかがこうした芸術には求めれるとしている。その一方、管弦楽を舞台奥にすると、オペラであるよりもこの作品自体が有しているよりオラトリオ的な特性をと演出家は語っている。つまり、中世の受難劇などがモデルとされる。

その歌詞は冒頭から、つまり作曲家メシアンが自ら編集したカトリック文学から編集したものであり、「完成された悦び」はどうしたものであるか、つまりそこには苦しみや痛みがないと至れないと教えることになる。光に対して夜への恐れが語られる一方、舞台前面に横たわるボイスのウサギの死体と紗に拡大されて映されるウサギがそこにある。

それは死であると同時に私たちはその肉体に想いを馳せ、「このウサギにこの情景を説明す方法は如何に」の有名な言葉が今回のプログラム冊子にも呈示されているように、その肉体はとなる。

キリストにおいても十字架に朽ちて初めて復活することで永遠の生命となる様に、それに値する価値があるのかどうかへの自省となり、可能な出来ることをするのが使命という結論へと結びつくのかもしれない。

人を愛する者のみが赦されると、カトリックにおけるモットーが謳い上げられて、十字架を背負う者がこそがという、我々もそのウサギのように肉体化されているものでしかないということが示される。(続く



参照:
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
下向き▼の意味合い 2023-05-23 | 文学・思想
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退屈させないかマサオ

2023-05-31 | 文学・思想
眼鏡を発注した。結果的に10年前よりも二割五分ほど高くついて、1800ユーロを超えた。車以外でこの価格で購入するものはあまりない。歯医者の抜歯ブリッジ等の費用よりは安いが、やはり大金だ。オーディオ機器等でも自宅での一品で3600マルクを越えた機器はあまりなかったと思う。ソファーがもしかしたらとは思うが、そんなにいいものでもない。20年前のワークステーション、あと思い当たるのはカシミアのコートとか、他にはそんなに高価な買い物はしない。確かに最高級のグローセスゲヴェックスをダース以上買えばそれに届く。ルツェルン音楽祭の最高級券や昨年のミュンヘンでのプラティナティケットを6枚ほど買えばその額に至る。

製品保証は二年しかついていないようだ。ティタンの塗装が気になる所でもある。最低五年は完璧に使いたい。それでも月30ユーロとなる、毎日1ユーロの勘定だ。現状では仕事が捗らない。つまり文字を読むのが億劫な状況から苦もなく読めて作業効率以前に出来るだけ文字を避けてという状況から脱却して、まさしくMASAOのコンセプトであるコムペテントとなる訳だ。しかし一体何時頃から億劫になってきたかというとコロナ前の2018年に歯が欠けているのでその頃から弱り目だったと思う。五年ぐらいかもしれない。スポーツ用の眼鏡を作ったのが2015年であるからまたその前。要するに三年ぐらいはとても快調に使っていたことになる。

ネットでも調べたら書いてるように、眼鏡矯正した眼の不調は殆どが過矯正の影響とあった。それも近視の過補正と近場の矯正不足で最悪の状況である。これはやはり逸早くなんとかしないと厳しい。フライブルクに研磨を発注して一週間ぐらい掛るらしいが、出来るだけ早い方がいい。

聖霊降臨祭月曜日の中継録音放送は、既に終わったシュヴェツィンゲン音楽祭から、エベーヌ四重奏団の演奏会でフレンチプログラムだったから流した。残念ながらチェロ奏者が故障で代理のオランダ人が弾いていた。その影響ははっきりは聴いていなかったが、全体の印象としていつもの密な印象はなかった。こういうことはあり得る。通常の出来のコンサートだった。

眼鏡のコンセプトの「アンダーステートメント」は普通の言葉だと思うが、アカデミックな背景があって、ギリシャからのレトリックの中での表現方法だとはあまり考えていなかった。英語圏でのそれとして代表的に挙がっているのは「モンティーパイソン」の運びだとされている。レトリックにおいては過剰の表現によって違う意味を表出させる二重の意味とかも広義には含まれるそうだが、その二つは厳密には異なるだろう。

例えばショスタコーヴィッチの交響曲などにおけるそれは昨今は二重の意味を其の儘に表現されることが多いように思うが、冷戦時代の特にヴォルコフの「ショスタコーヴィッチの思い出」が出版された頃迄はどちらかというとその裏の意味をアンダーステートメントとして行間を読むという言葉で表現されていたものに近かったと思う。

上の「コムペテント」に対するアンダーステートメントはまさしく、そこで表現されるものは「コムペテント」を客観視した視座であるともいえる。「マサオ」の名前が意味する「本物の男性」に対するアンダーステートメントというのが面白味になる筈なのだ。それは「退屈するのかしないのか」、それに尽きるかもしれない。



参照:
相好を崩す愛嬌次第 2023-05-30 | 雑感
膝を打つ予定調和 2022-06-17 | 生活
コメント (2)
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