Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

なにも顧みることなく

2019-12-02 | 文学・思想
マリス・ヤンソンスの訃報が新聞に載っている。文化欄一面の最下段で大きくも小さくもない。一方日本での人気は正直驚くほどで、とても興味深い。どうも2003年以降のバイエルンの放送交響楽団との活動で特別に日本で愛されたようだ。だから私は全く分からない。同時に分からなかったのがその放送交響楽団の日本での人気だったので辻褄が合う。

なるほど新聞にもその指揮の特徴として、その規律と継続性が挙がっている。勿論それは芸術でなくてもスポーツでも同じだが、またヤンソンス氏の人間性と言うか楽天的な感じがとても日本で愛されたのだろうと思う。それらが音楽として表現されていた。

相思相愛な感じがして、心臓さえ悪くなければNHK交響楽団を任せれればよかっただろうと思う。もし世界的に通用するザルツブルクの音楽祭に出るような楽団にするにはこの指揮者しかなかったのだろうと思う。斎藤記念よりもオスロの交響楽団よりも良くなったかもしれない。

ショスタコーヴィッチの交響曲全集は色々な意味でヤンソンス指揮の集大成だと思うが、この十五日に交響曲11番を聴くのでそのお勉強に使おうと思う。じっくりと聴かせて貰おう。因みに11番を担当しているのはフィラデルフィア管弦楽団である。

週明けの朝は零下1.5度まで下がった。しかし朝日が強く射したのでショーツ一つで走れた。短いコースだったが、目が覚めた。月曜日の朝はバタバタするのが嫌で控えることが多いが、朝早く済ませられるとこれはこれでまた活力が生まれて得したような気持になる。特に今回は月初めで特にである。

もう少しすると来年の日程が決定してくる。何かと物入りで、巧く都合したい。年末に決算して仕舞たいものもある。クリスマス前に税金の還付もあるだろうが、出来るだけ早めにして欲しい。やはり先に工面しておかないとやりくりがつかない。

ブルックナー交響曲八番ノヴァーク版に関して探していたバロック期のバラの絵が見つかった。あれは自身の頭脳の中にあった。存在しないバロックの名画だった。そのオリジナルは詩だった。

Angelus Silesius
(eigentlich Johannes Scheffler)
Die Rose ist ohne Warum.
Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.

それはアンゲリウス・シレシウスの詩で十七世紀中盤を生きた新教のブレスラウからシュトラスブルクへと医学と行政法を学んだ人で、更にライデンとパドュアで医学と哲学の博士号を習得している。その後、新教をそのドグマ性から反キリストと考え転向したことでルターからはルツィファーと呼ばれ旧教の守護に回った。

上の詩は、「智天使ケルビーム」集に入っているもので、ブルックナーにおける特にノヴァーク教授の視点からそれほど遠くないものであるとの印象はそれ程当て外れではない。作曲家ブルックナーの心的な神秘主義の恍惚などはまさにこうした宗教的な信条として同様である。ブルックナーの交響曲のバロック性でもある。

薔薇に理由はない。
咲く故に咲いている、
自らを気に掛けることも無く、
見られるかどうかなど顧みない。

私がイメージした図柄は真っ黒の背景で、どこからともなく薔薇の花がこちらを向いて咲いている。何色のバラだろうか?赤みのあるバラ色だろうか?

ズビン・メータ指揮のブルックナー交響曲八番は、そのものなにも顧みることなく鳴り響く。そのような音響芸術だと思ったのだった。それは、ブルックナーの神秘主義の核心でもある。



参照:
無情なまでの無常 2019-11-09 | 音
幕が掛かって湯煙 2019-12-01 | 文化一般



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思索の向かうところ

2019-09-19 | 文学・思想
ベートーヴェンの創作過程を思っていた。いつの間にかルツェルンでのガイダンスの感動が戻って来た。なにに感動したかも思い出してきた。8月28日19時30分始まりの演奏会の丁度一時間前から開かれたスザンヌ・シュテール女史の話しの内容だ。フェスティヴァルのテーマは権力だったので、プログラムにあるような社会学的な見地からの啓蒙思想の悪用だったかと思ったが、全く異なっていた。

既に触れたように子供の時から知っている聴覚の障害から第九の初演で指揮をしていて終わって拍手が一斉に湧いていても気が付かなかったというような話しがステレオタイプに染みついていて致し方が無いのだが、そのことを誰に充てたのか失念したが手紙の文章として手短に読み上げた。それで本会場の十分の一にも満たないような聴者が皆感動した。

どこに焦点があったかと言うと、聴覚障害で人とコミュニケーションを取るために大部残されたノートを使っていて、自身の発言は話せるので書かれていないような状況だった。そして益々内面へと創作の創造の世界が広がって行き、最終的には大変憂慮される創作者を取り巻く社会から環境から閉ざされ閉ざす形で創作が進んで行ったという事にある。一神教的な世界観を超えて、宇宙の果へと連なるような理想への恣意である ー まさしく心より出でてと言うのは、偽りの無い信条で、想いが通ずる。その意識が伸びて行く方向へと言葉が導く。そのことに皆が感動したのだった。

のちほどこの話しを纏めてみると、丁度指揮者のキリル・ペトレンコが楽団の前で話した内容と同じ方向へと意識を向かわせる内容だったのだ。実践を通したカント的美が問われる ー この間詳しく一連の公式ヴィデオを追ってきた人は、ここで指揮者が春から語り、そのブレーンの博士によって解説されていた悦び、ルル組曲への視座がここから発していて、指揮者の言葉の裏付けをそこに見出すだろう。そのインタヴューをシュテ―ル女史が予め知っていたのかどうかは分からないが、ベルリンの初日の演奏を聴いた耳には、この話しが妙にその演奏内容に通じていることを無意識に感じておかしな気持ちになったのだった。

こうした所謂「深い話し」は ― 嘗て日本の大木正興と言うベートーヴェンを得意にしていた音楽評論家が言うと「フカーイ」のだ ―、ボンのベートーヴェンフェストの監督ニケ・ヴァークナー博士のお得意の価値判断でもある。そして初日のその基調講演の報告が新聞文化欄に出ていた。そしてその内容が全く楽聖のそうした精神活動ではなく、以前ヴァイマールでやっていた彼女のお爺さんリストの話しになって仕舞うと批判されている。要するに楽聖についてその創作世界に付いて語っていなかったというのだ。

それは、なにもベートーヴェンだけでベートーヴェンを語る必要もないという事では矛盾しないのかもしれないが、全ては話し手の先入観念と独自の価値観でしか語られていないとあった。恐らく最早このヴァークナー家の人について語る必要もないのではなかろうか。座席占有率が新作演奏会でもないのに七割にしか届かない現実は、その会場難の問題があるにしても、少なくとも有名人演奏家を集めないというだけの興業上の問題ではない。

ペトレンコ指揮カウフマン登場のコルンコールト作「死の街」初日の一般発売が始まった。既に配券されていたので何となく十五分過ぎたぐらいに販売状況を見て驚いた。ベルリンへの就任が決まって以降の今までは音楽監督が振る新制作初日シリーズは、その時点では800超えくらいのウェイティング番号しか得られなかったが、400番超えを貰って、忘れてから一時間ほど経過した11時10分過ぎにもまだまだ配券されたものよりお得な券が買えた ― 「オテロ」までは30分以内で買えなければ完全に売り切れとなっていた。なるほど売り方を少し変えて、抽選外れの人に優先的に配券されるシステムに変わっている。しかしであるが、この珍しい曲の人気の無さである程度の低調ぶりは想定していたが、またシステムの変化があってもカウフマン人気でのこの出方は想定を遥かに下回っていた。正常化は喜ばしい。



参照:
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音
「平和を」の心は如何に? 2019-02-22 | 女
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輝く時へと譲るべき大人

2019-07-28 | 文学・思想
今晩はザルツブルクからの放送がある。ピーター・セラーズ演出「イドメネオ」の初日である。オープニングには初めてオーストリア首相が挨拶していた。初日にも多くのリーダーが集うのだろう。セレモニーから地球温暖化問題をセラーズが取り上げたことで、完全に政治的な催しとなっていた。そして「イドメネオ」でもそれが扱われる。

特に注目されるのが「ありのままの私」が再びここでも強調されていたことで、モーツァルトの作品から不要と思われるものを削除してある。セラーズと指揮者のクレンツィスが同意して削除したようだが、同様な改変は昨年の「ティートゥス」にもあったので驚きには当たらない。寧ろその理由の一つとしてナショナリズム的な「国のために死をも辞さない」とする"No, la morte io non pavento" をヒトラーの1936年ではないのだからとして、ごみとして、そしてヴォルフガンクをファザーコムプレックから救い出してやる作業をしたとするところが興味深い。

元々リベラルのセラーズの主張であり、次世代の為にこれからの社会への決定権を子供に更に多くとする主張は先頃日本の参議院選でれいわ新選組の主張として安富歩がアピールを繰り広げたモットーそのものである。

さて木曜日のバイロイト初日の新制作「タンホイザー」の新聞評が載っている。まさしくそのリベラリズム派にそこで描かれたアナーキズムがあり、それに対抗するものとして法があるとしている。自由と安全、革命家と巨匠ヴァークナー、アップデートされるレジーテアターと歴史的様相の歌劇とを対置させてエンターティメントにしたのがクラッツァーの演出だったとする。ルガトーショコラのフィギュア―にフォイヤーバッハならずマルクスの資本論を読む。

当日13時19分にヘリが緑の丘のバス停に降り立った。デビューを飾った指揮者ゲルギーエフである。終演には盛んにブーの洗礼を受けた。筆者は、多くはプーティン一派としてのまたは反同性愛者への抗議の一つとして理解する。その通りプーティンの義兄弟であるシュレーダー元首相が珍しく赤絨毯に五人目の奥さんと現れたのも指揮者にも招待されたからであろう。こちらも明らかに親ロシアの政治的表明でもあった。

既にペテルスブルクの白夜祭でこのドレスデン版を振って準備をしていて、「軽く、柔軟性に富み、能動的に攻撃的なスイングで、狙った通りのアクセントを付けて聴かせ、熱を放った」と全くバイエルン放送協会のコメントとは正反対の評である。要するに私に言わせると前日の記者会見でのカタリーナの談話から印象操作がされていたというのが事実だろう。なんと言っても新顔に手解きをしようとして手ぐすねを引いて待ち構えていた初代音楽監督の指導の時間をすっぽかしてしまったのだ。どんな嫌がらせがある事か。若干リテラシーの低いジャーナリズムは乗せられるのだろう。公平に見て、ここ十年にバイロイトの劇場で指揮した中では、キリル・ペトレンコは別格としても、このゲルギーエフの程度に匹敵する指揮者が思い浮かばない。あとは皆二流の指揮者ばかりだ。精々、今年から指揮するビュシュコフが指揮技術的にも上回るぐらいだろうか。

そして歌手陣に関しては、後を引く歌唱でもリリックな歌唱でもない自らの葛藤を表現したアイへを最初に挙げて全く私と同じだ。会場でも声が小さいところは無かったのだろう。少なくとも放送では十分な声が出ていた。そして主役のグールド、勿論文句は無い。個人的な印象ではまだ期間中に更にいい歌が歌えると確信する。更に会場で一番湧いていた代役のツィドコ―ヴァの安定した狙いを定めた歌唱とその晩の名人芸を披露した燃えるメゾソプラノ。同様な持ち役となる「影の無い女」の染屋の女房をハムブルクで歌い大変評判の良かったアメリカ人歌手よりも同じタイプながらこちらの方が断然良かった。そして見つけものとして挙げられるのはエリザベートを歌ったリサ・ダヴィットスンで、こちらはミュンヘンで既に予行練習をしていて評判も良かったので驚かない。ハルテロスの役だが、断然こちらが声も良く才能がある。但し放送でも批判されていたように何回か歌ってドイツ語がもう少し分かるようにならないといけないだろう、恐らくその批判が正しい。

さて、ゲルギーエフ氏、ブーを受けた公演後に再びヘリでザルツブルクに向かったようだ。まだ数回往復しながら指揮をして来年はいつものようなドイツの地方の音楽監督に指揮を譲る。バイロイトが少しだけ音楽的にも輝く時かもしれない。



参照:
Glanz und Elend der Libertinage, JAN BRACHMANN, FAZ vom 27.7.2019
ホモのチャイコフスキーは? 2013-12-24 | 文化一般
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
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破壊された壁画への観照

2019-07-13 | 文学・思想
承前)聖書の「サロメ」からキリスト教の影響を取り除く作業は、既に中世から盛んだったようだ。そこでは、異教的な魔女として親子が扱われる。ヨハネ祭の所謂ヴァルプリギスの夜の魔女である。これもまたグリム兄弟によって纏められていて、19世紀のドイツ語圏での伝説となっている。それが丁度世紀の変わった20世紀の新生国家ドイツにおいて、文化立国における共通認識の一つとなっていたとされる。つまり、オスカー・ワイルドの原作をリヒャルト・シュトラウスがオペラ化する時の時代背景がそこから考察される。

大きな要素は、ニッチェの「神は死んだ」神無き社会であり、それは丁度ヘロデの国と重ね合わされて、同時に終末思想と救済つまり死と生が隣り合わせの社会気風が表徴されているとされる。そこではサロメの踊りのヴェールこそは剥ぎ取られても何もそこにはないとされる虚無となる。第一次世界大戦後の変容は知られるところであり、またオカルトとして大戦間にあった動きも知られるところである。

同時にハインリッヒ・ハイネによる「アッタトロール ― 夏の夜の夢」におけるサロメの性化が俎上に上る。勿論ハイネの興味はキリスト教に教化され変化させられた信仰対象ではなく、そのもの民俗学的に粗野な営みとなるとされる。

前者においてはヨハナーンはタンホイザーとは反対にキリスト教原理主義者として、後者においてはサロメはアリアドネ神話などと同じ妖精のカタログに組み込まれるようだ。それらを総合して、ヨハナーンの首へのサロメのデュオニス的歓喜とされる。

こうした歴史的そして創作の時代的背景を前提として、映画「愛の嵐」にヒントを得て今回のヴァリコフスキーの演出となった。前回観劇した「影の無い女」においても演出家の最終的な視点は「死への扉が開くサナトリウム風景」だった。つまり、比較対象として「タンホイザー」を若しくは昨年ザルツブルクで「サロメ」を演出したカステルッチの沢山の記号を組み合わせたパズルのような謎解きではなく、寧ろ観照に富んだ演出をする。今回の演出においても破壊されたシナゴークにおける壁画のアニメーションが最も美しい情景となっていた。

ヴァリコフスキーの語る視点は「終末思想と救済」の対象化にあって、まさしくキリル・ペトレンコが作曲家の後年の芸術的な意思を音化したことに相似していた。死が何も意味を持たないその営みこそがこの舞台で問われた。ユダヤ人の集団自殺こそはまさしく、ナチスによって追いつめられながら、ガス室への道を歩んだユダヤ人の姿として象徴された。このことは誰も書くことは許されない。そしてある意味とても健全なブーイングとしてそれは意思表示された。

ナチスによるユダヤ人抹殺計画は政治的に決して相対化されるものではないとするのは、ドイツ連邦共和国の理念にも等しい。しかしこうして恐らく芸術化によって歴史化への道を進んでいると思われる ― まさしくアドルノの「詩を読めない」に反抗している。少なくとも十数年前には考えられなかったことである。上で見たようにユダヤ主義の思想もドイツ文化の一部として強い意味を有していて、文化的には必ずしも加害者被害者の視点が明白ではないという事でもある。

今回の演出の過激性はまさしくその観照の視点にあった。首の入るべきブリキ箱には強制収容所で命を落としたとされる人数らしきものが書き込まれ、プログラムには同じ箱が積み重ねられた金庫室のような写真が挿入されていて、「死んだスイス人」の題のクリスティン・ボルタンスキの1990年の作品とある。こうして同時に強い政治的な主張ともなっている。

最早、嘗ての様にコンヴィチニーに代表されるような左翼イデオロギーの作為ある演出が何らかの意味を語ることは無くなった。ここまで腑分けしてしまうと、最早、作曲家によっても否定されるようなメローなリヒャルト・シュトラウス演奏が許される余地は無い。キリル・ペトレンコ指揮での新制作も数えるほどしかなくなった。支配人バッハラーの仕事として、バイエルン国立歌劇場のスタンダード作品「サロメ」としての制作として大成功だったと考える。そして今シーズンの大モットーこそ「歯には歯を、眼には眼を。」であった。ニコラウス・バッハラーの意志は固い。

1906年5月16日のグラーツ初演での新聞評がプログラムに載っている。書き手はブルックナーの弟子のデクセイと言うユダヤ人で、お手本のようなアナリーゼにブルックナーとの音楽的比較などもして、この作品の価値を問うている。そしてその初日に集まった名士マーラー夫妻、プッチーニ、ベルク、ツェムリンスキー、ヴィルヘルム・キェンツルのみならず若いアドルフ・ヒトラーが居たという事だ。(終わり)



参照:
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
バラの月曜日の想い 2018-02-16 | 暦
真夏のポストモダンの夢 2005-06-25 | 暦
闇が重いヘクセン・ナハト 2005-05-01 | 暦
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持続する宗教的な気持ち

2019-02-24 | 文学・思想
金曜日の夜は、予定通り、二つの放送を同時に流していた。音楽はベルリンから、映像はミュンヘンからである。後者のハイティンク指揮の演奏風景を見ていると感動させられるものがあった。音楽は録画したものやところどころタブレットで確認しただけだが、視覚的なそれと実際の音に殆ど差異が無かった。本当に不思議なものだ。私は、まるで耳が聞こえなくなった楽聖の境地に至ったのだろうか?子供のころから楽聖と言えばこのエピソード無しにはこの作曲家のプロフィールに至らない。

しかしここに来て、ここに楽聖の音楽の核心があると思うようになった。上のハイティンク指揮の演奏をまだ吟味してはいないが、感動したのは僅か二回ほどその指揮に接して、一度は近くでそのたたずむ姿を見たからではないと思う。なるほど映像でも分かるようにこの放送交響楽団の弦楽器陣も決して優秀ではなくクーベリック監督時代からその冴えなさは変わっていない。そしてそれは音でも確かめられる。しかし、そのようなことではない、もはや私の呟きの隠れ取り巻きとなったジェラルド・フィンレーが歌う「このような音ではない」、ここに全てがある。

承前)楽聖の音楽に少しでも熱心になった者ならば誰でも、その音の設計図から打ち鳴らされる物理的な音響とは異なるところにこそ楽聖の精神が宿っていることに気が付く。音響自体はその精神を楽譜という形で書きとどめたものに過ぎないことを。

「ミサソレムニス」に戻ろう。楽聖が注文を受けてミサ曲の作曲に取り掛かる。1818年のことで構想から1819年4月には熱中した作曲へと取り掛かり、ルドルフ二世の式典には完成が間に合わなくなる。これも書簡からはっきりしていることで解説書に書いてある通りだ。その遅滞の大きな理由は規模が肥大化してしまったことも語られる。そこまで聞くとまさしく汲み尽きない創造力ゆえの事情を感じることが出来るのだが、そこからが面白い。楽聖はそこから盛んにこの楽譜を売りに出していたということだ。生活のためだが、マインツのショットに限らず、手当たり次第に十件から予約金を取って回ったらしい。しかし、つまり見本を渡して、全曲が完成しているのにも拘わらず、楽譜をコピーされてしまわないようにグロリアだけを抜いて予約を取り、表向きの完成を遅らせたというエピソードである。もう一つのエピソードは、ザンクトペテルスブルクで全曲初演された事情が、ヴィーンにおけるミサ曲の教会外での禁止から、第九交響曲と組み合されてクレドからサンクテュス、ベネディクスのミサの核心を除いた形でヴィーンで演奏された。この二つのエピソードから何を読み取るか?

なるほどグローリアだけは簡単に渡せなかったのもそれだけよく書けているからだろう。正しくこの曲を「合唱交響曲」と名付けようとした意図もそこに知れるところである。作曲技法的に、丁度後期の作品の特徴として、長短の和声法と対位法的な折衷となり、つまりその間に創作された中期の交響曲などのベートーヴェン的作曲技法のような完成度が無いともいえる。この曲が困難な事情はそうした技法的事情とそして第九のように付け足しではなく全体がミサ典礼のラテン語のテクストやフォームに縛られていることにもあるかもしれない。ところが、楽聖は友人に更に重要なことをこの曲について語っている。「歌うことにおいても、聞くことにおいても同様に宗教的な気持ちを目覚めさせる、それに持続性をもたせる」。この宗教性に関して劇場のマガジンに記載されていて、それはオーソドックスなカソリックの信仰ではなく、楽聖は多神教について言及していたという。このテーマを掘り下げると恐らく最も重要で近いヘーゲルの思索へと進むかもしれない。しかしもう一度この楽聖をプロファイルすると、全てが青年時代に即興ピアニストとして頭角を現したその前歴に浮かび上がってくる。

そもそも後世の作曲家や音楽学者はその作曲形態を理論として扱うことで分かり難くなるものが、突然見えては来ないだろうか。交響曲においても無駄の無いような進行や繰り返しそしてダイナミックスや和声的な流れを見るときに、その即興演奏の才能を思い浮かべると分かり易い。まさしくこの「ミサソレムニス」における全体の構造的な流れもそのように捉えるべきで、この合唱交響曲にはベートーヴェン的な作曲理論が通らないところでもある。勿論ミクロ構造において、しかるべきテーゼ・アンチテーゼに相当する音楽付けがあり、それがポリフォニー的に三次元に広がることも重要かもしれない。

ここまで来ると最後の疑問である唐突な軍楽隊のエピソードの謎も徐々に解けてくるかもしれない。中期の諸作の方をある枠組みに入れてしまうと、即興ピアニストベートーヴェンと後期の諸作における形態がとても上手く調和する。すると今度は「楽聖の精神」の飛翔する方向へと関心が移り、劇場のガイダンスでは「謙遜」という言葉をキーワードとした。そのままのカトリックにおけるそれから逸脱して、それどころか厭戦気分の漂う啓蒙思想の理想主義へと熱を上げたところに宿る精神とは、こうした公開演奏会の形で催されるイヴェントにこそ宿る。楽聖の音楽においての経験とは、歌うにしても聴くにしても繰り返されることでも継続的に宿るものなのである。

更に最初の疑問への答えを出しておこう。つまり演奏云々を言うのは間違いではないかという疑問である。しかし言及したように楽聖自身が宣言していて、演奏行為自体に意味があるとして、このミサ曲においてはアマチュア―の合唱団がその価値を引き継いだことになる。それが長続きする宗教的な気持ちにあたる。するともうそこに見えてくるのは第九の合唱だ。それを実現しているのは彼の極東の国ではないか。(続く)



参照:
ストリーミング週末始め 2019-02-23 | 生活
古典に取り付く島を求め 2007-10-23 | 文学・思想
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抑制の美の厳しい激しさ

2018-10-04 | 文学・思想
寒くなって来た。まだ暖房は要らないが夏のような井手達では風邪をひきそうになる。上手く移行したい。朝の森は霜こそ降りていなかったが、もうそこであった。いつまで裸で走れるだろうか。そろそろ身体を追い込んでいきたい。

「マイスタージンガー」のことを走りながら考えていた。動揺と書いたが未だにその漣が収まっていない。演奏実践による表現手段として明らかに新たな所へと関心が移った。この夏のルツェルンでのハックマン氏が言及したコムパクトネスへの言及が大きな転機となった。もしかするとそれを読んで指揮者キリル・ペトレンコもより意識するようになったかもしれない。良い批評とはそういう言語定着化にある。

今回の公演の特徴は、既に書いたが、その激しさがどのように表現されたかが重要で、その典型がミヒャエル・フォレの歌唱だった。殆どぶっつけ本番であったが、とてもいいところを示した。その歌唱が声量も圧倒的ながら基本的にはコムパクトネスによる節度ある歌が基本になっていて、そこに付ける音楽はペトレンコ指揮の座付き管弦楽しかありえないと思わせた。バイロイトでの楽団が絶対にジョルダンの指揮からは出せないコムパクトネスである。しかし2014年の「指輪」上演でペトレンコがどこまでそこで聞かせていたかというと、やはり今とは大分違う。それどころかこの夏のベルリナーフィルハーモニカーとのツアーがある前の「ジークフリート」では今回「マイスタージンガー」で示された程にはそれが意識されていなかったと思う。しかし今こうやって振り返って見れば、二月に試みていたあれほどのドライな演奏実践が今はこうして別な認識の下で捉えられるようになって、そこで初めてあれだけの激しい表現が可能になったと思う。まさしくバイロイトにおいてその表現方法が今回ほど確立していなかったと思っても間違いない。

技術的には、楽員が細かなところまで箸の上げ下ろしではないが、弓の上げ下ろしまで細かく検討して更っていたからに違いない。もしかすると確かコンツェルトマイスターを務めていたアルバン・シュパーイに腕があるのかもしれない。コントラバスまでとても素晴らしい仕事をしていて、これならばヴィーナーフィルハーモニカーより上だと思った。そうしたきっちりと固く振られるところと、激しく振られるところとの差も然ることながら、決して逸脱することなく矜持を正した表現によってこそ、途轍もない効果が生じるという技術的な面と、それと同じぐらいにその厳しさが自己抑制によってこそ初めて生じる ― またまた出ましたブロムシュテット氏のお言葉が。そうした抑制ゆえに、はち切れんばかりの情動的な音楽表現がドイツ音楽の深みのある美的表現へ昇華されるという美学がある。抑制の美である。

まさしくキリル・ペトレンコの音楽が激しさや厳しさ、そして同時に深みや端正さに彩られるようになって来たとすれば ― 勿論彼がベートーヴェンの音楽とより深く対峙するように成ったからでもあるかもしれないが -、その特性を示す表現とされるものであるだろうか。そうした美的表現の深化を目の辺りにするようなことが無かったので、普通ならば継続して観察していては少しの変化にはあまり気が付かなくなるものなので、驚いているのだ。そしてその情動的ともいえる厳しさの漣がひたひたと繰り返しおし寄せる。

旅行に出かける予定が変わったので、近々のコンサートカレンダーなどを覗いてみた。予定が空けてあるので、都合が良さそうなものを探してみた。チューリッヒでのヤルヴィ指揮のコンサートもあるが、今回は近場で更にいいのを見つけた。初めてのアンドリス・ネルソンズの指揮の会だ。カペルマイスターを務めるゲヴァントハウス管弦楽団が小欧州ツアーをする。指揮者の離婚した歌手のオプラウスがチャイコフスキーのオペラから二三曲歌う。これは座付き管弦楽団としての腕前を聞けるので価値がある。新曲で始めて、この楽団に合うかどうかというところのマーラーの第一交響曲が演奏される。プログラムが考えられていて、このネルソンズ指揮のヴィーナーフィルハーモニカーのようには期待出来ないが、大分いいところを突いて来ているのではないかなと思った。昨年の就任コンサートなどを放送で聞いて失望したが、生で体験して確かめられるだろう。勿論良くなっている可能性も大いに有る。

何時ものように金の事を書くが、どうしても市場を把握しておくことは芸術的にとても重要なのだ。本拠地では5ユーロの次が21ユーロで、まあ劇場価格だ。一晩のギャラは安めなのだろう。アルテオパーでも29ユーロと先日のヴィーナーフィルハーモニカーの22ユーロよりは高価であるが、2016年のミュンヘンの座付き管弦楽団よりは安い。あの時は36ユーロほど掛かったので断念したが、今回は手数料込みで31ユーロしない。ライプチッヒまでは遠いのでこの価格で充分嬉しい。兎に角、ザルツブルクで断然素晴らしかったネルソンズの指揮が楽しみである。



参照:
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
「憎悪され、愛されて」 2018-10-02 | 文化一般
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贖罪のカタリシスヘ

2018-09-24 | 文学・思想
久しぶりにとても怖い夢を見た。今まで記憶にある中でその怖さが特異だった。前後の関係はあまり分からなかったのだが、食事の席に合席する人が主役だった。殆ど水木しげるの世界だった。水木の妖怪辞典のフランス語版は購入したが、それ以上のオタクではない。しかしそのアニメ感などはまさにその世界だった。なぜ今頃そんなものを見るのかは分らなかった。しかしその背後への世界観は可成り社会学的なもので、これまた自分自身がそんなことも考えているのかと思って驚いた。

何気なく簡単な恐らく温泉宿のようなところで同席する人と色々と話しているうちに、こちらが加害者側の社会に属していて、途中からとても心苦しくなるというものだ。どうもここ最近の沖縄問題などが脳裏にあったようだ。そして息苦しくなって来て、首筋を掻き毟るようになって、ひょっと向かい側に座るその人を見ると、顔色から血の気が失せていてこの世の人ではなくなっているのだ。ここがそのもの鬼太郎のアニメに近い。すると更にそこに並んで同じ被害側にいた血の気の無い人達が勢揃いして対面している。ここがまた怖かった。

しかしそれだけでなく、次から次へと食卓の向こう側に座る人の民族やらがこちら側との関係の相違によってどんどんと変わってくる。勿論個人的な関係で対面する人も現われる。要するに私が加害者で、対面するのは皆被害者という関係になる。これは可成り恐ろしく、その都度私は胸を引きちがれるような苦しみを味わうのだが、その都度対面する人たちが苦悩を超えて血の気の失せた形相となる。

しかしそれがどうだろうこちら側の罪のような意識が芽生えると、その人々の群れが霧散していくのである。それは贖罪のようであり、ニルヴァーナのようであり、文化的な背景よりも社会学的な背景に興味が向かった。要するに被害者側の問題であるよりも加害者側の問題であり、それは個人の枠を超えて社会的な枠組みを意味した。夢物語であるからどうしてもスヴェーデンボリを想起するが、ベルイマンの映画も思い出す。

朝は霧雨の一歩手前といった感じだったが、パン屋のあと峠を攻めに行った。外気温は摂氏11度であるがそれ程冷やりとはしていない。峠から降りて来るといつものようなところでライヴァルの婆さんに出合った。今日は森の中に私たちだけだよと言われた。なるほどいつもの息子も着いて来ていない。午後から悪天候と予想されているから態々出かける人はもの好きである。

帰って来てからヴィーンからの生中継を聞いた。なんといってもベアヴァルトの交響曲が面白かった。これは少し調べてみても良いと思った。楽譜もDL出来たので、後半のドヴォルザークよりもこちらをお勉強しようかと思った。それほど後半は眠ったような演奏で ― ダイナミックスなども逆さになっていたから指揮におかしな動きがあったのだろうか ―、演奏旅行に出れば流石にもう少しまともに演奏するものと想定する。あのままでは二度とお座敷が掛からない。しかしどうしてもまたあのいつもの拍節のボケたような演奏でも差が出るのだろうか。まあ、どちらでもよいようなブリュッセルからルクセムブルクを経て、バーデンバーデンへと徐々に良くなってくるだろう。

来週の「マイスタージンガー」のネットストリームもオンデマンドでも流すようなので、帰宅後に直ぐ落としておけば少なくとも記録としては使えるだろう。一般的には生を聞いた後ではMP4などは当分聞く気にはならない。いい演奏になれば記念上演フィルムとしてまたどこかで編集後中継されるだろう。劇場が使っている写真が私が切り取ったところよりも悪い。なぜならば今回はデーフィットの役も配役が変わっているので、おかしいのだ。

ダブルブッキングになるもう一件のアウグスブルクの宿も今日明日のうちにキャンセルしておかないと忙しいと忘れて仕舞う。出来ればもう少しミュンヘン市内から近い都合のよい宿が見つかるとよいと思うが、さてどうなるか。



参照:
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
杖の無い爺に導かれる 2018-09-18 | 文化一般
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神無しに美は存在しない

2017-12-06 | 文学・思想
承前)伝道者ブロムシュテットの第四回目のお話しだ。四楽章がシンメトリーの中間にあたってとても重要で、いつものように全く素晴らしいテクストだと始まる。そしてこの詩編84のダヴィデの置かれていた状況を端緒とする。

1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください。
4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。

息子のソロモンによって追われて難民となったダヴィデは、エルサレムを想うのだが、そこには戻れない。息子が統治しているからである。「あなたのお住まい」というのだが、そんな神殿などはどこにもない、それどころかテント生活をしているのである。一方息子はその後に立派な神殿を建てたというのだが、しかし彼はそこに神の存在を身近に感じている。象徴的なことなのだが、それはただの美しさではない。

ルターのドイツ語訳の美しさを語る。Wie lieblich sindの母音の響き、Seele verlangt und sehnt sichのsの響き。そして「前庭」とのまさしく神殿への印象を夢見ながら、身近に感じる生き生きとした神こそが喜ばしいのであって、そのような岩石などの建造物では決してないのだ。

そしてブラームスの音化について触れていく。「先ずは美しい音色を聴いて貰ってから話を続けましょう」と四楽章の一回目の放映がされる。

音楽が終わって、先ずは放送局のメディア提供に謝辞を述べてから、「ただ簡単な歌に聞こえるのだが」と前置きして、芸術音楽として詳しく見ていく。これまた山なりの旋律線でと歌い始めて、「ツェバオート」が二回繰り返されるところにやってくる。ツェバオート自体がその大きな存在を意味するだけなのだが、言語での二回繰り返しと音楽は異なって、その繰り返しに意味を持たせることが可能となる。そもそもWie lieblichのテノールは、一拍目から二拍目とスラーが伸ばすように掛けられているように、変化されて歌われており、「もしこれを牧師がそのように伸ばして説教したらおかしんじゃないかと思われるのだが、こうした可能性の組み合わせが音楽表現なのだ」と。

更に良く聞けば、弦楽器が弓で擦るだけでなく、ピチカートで弾いているのは、間違いなくダヴィデの持っていた単純な5弦のハープに違いない。そして「この響きはブラームスらしくなくてダヴィデでしょう」と語る。

そして憧憬へのところの繰り返しつつの高揚が、ハーモニーに伴われての素晴らしい音化になっていて、そして心身共の喜びに至り、活動的になって、そして静まる。ソプラノが「フロイデ」と長く伸ばすと、他の声部はそこに掛け合うように輪が広がっていく。まさに天使が呼応するかのような情景だ。そしてまるで身体に感じるかのような喜びで楽章を閉じる。

「こうした表現し尽くしがたい音楽というものにどうしても神の存在を感じるのではなかろうか?、朽ち行く人類にこうした創造が可能なのか」、同僚のハーノンクールが語ったように、「音楽とは神と臍を繋ぐ緒」だと。

たいへんに高名な神学者がコンサートの後に訪れた時のことだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲とシベリウスの交響曲で宗教的な作品ではなかったのだが、「三十年この方、これほど神を身近に感じたことがなかった」とその神学者が語ったという。また有名な神学者と待降節の集まりで知り合い、本人は全くクラシックには興味が無くてロックファンということだったのだが、伝手で訪れたコンサートでリヒャルト・シュトラウスの交響詩とベートーヴェンの協奏曲などを聞いた。その後病気で入院していた時にベットでヘッドフォンのラディオから流れるべート―ヴェンやブラームスを聞き出して、「今まで聞いていたものはあまりにも日常的で無意味だった、ブラームスなどは神の存在無しにはあり得ない。」と論文を新聞に投稿した。

「こうして宗教的なテキストに作曲された創作があることがとても有り難く、美というのは神の意匠であり、神とは創造主であり、これは再び六楽章で触れますが、「神無しには美は存在しない。こうした気持ちは、例えば美しい自然に感じるときも、例えば美しいアルプスの峰を眺め、美しい音楽を聴き、または美しい絵画を見るときでも同じでしょう。」

神学者パウル・ティリッヒの第一次世界大戦での壮絶な経験をして、「そこの野戦図書館で簡単な本にボッティチェッリなどの挿絵を見て、ベルリンに戻ってきて直ぐに美術館に駆け込んでの絵画がとても重要な神的な体験になった」、それは、聖書ではなく、音楽でもある。



参照:
Wie lieblich sind deine Wohnungen (HappyChannel)
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
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「誇りを取り戻そう」の戯け

2016-11-19 | 文学・思想
水曜日の新聞文化欄を見た。クライスト賞の授賞式がこの日曜日にあり多和田葉子が受賞するので彼女の書籍が紹介されている。クライストに関する書籍が多い筈なので驚かないが、賞与理由はそうした研究に関係するだろうか。二冊の新著が紹介されている。

ヴァイマール共和国下でのこの文学賞はその受賞者リストを見ただけでその意味が分かる。ブレヒトやツックマイヤー、ムズィルなどドイツ文学の馴染みの名前が挙がる。1984年からの再授与はその意味合いは変わったといっても、ハイナー・ミュラーなどのお馴染みの名前も見られる。財政的にはドイツェバンクの二万ユーロが支えのようだ。

朝のラディオは前夜のオバマ大統領ベルリン滞在初日の話題があった。それによるとメルケル首相の招待で食事をしたようで、通訳も誰も付かなかったようだ。これは色々と想像させて面白い。もちろんメルケル首相にとっては来年の総選挙でも大統領ではなく首相候補になるということなので政治的に重要な情報を得る機会だったろう。なんら力のない辞める大統領でもその情報と政治的視点はとても重要である。先ずはねぎらいから、今後の合衆国外交の向かう方向に関しての話題となったのだろうか。

新聞には分裂騒ぎのAfDバーデンヴュルテムベルク議会での連中の締め括りの言葉が英語で出ていた。「再び誇りあるドイツにする」というトラムプ次期大統領の言葉を捩ったものだ。連中は気がくるっているとしか思えないのはこうしたところで、職業的にはそこそこの社会を代表する立場に居ながらこうした見解が生まれてくるところである。一体連邦共和国をどのように、敢えて言えばトルコ人二世などにとっても誇りあるものにしようというのだろうか?

日本の人には分からないかもしれないが、現在の連邦共和国の何処をどのようにしたら誇りに結びつくのだろうと大変不思議に思う。彼らの視座では現在のこの社会を恥ということなのだろう。どこが一体?である。

同じようなおかしな視座と思考を持つのは世界中この手の政治勢力層では変わらないようで、そうした政治情勢を作っているのは有権者でしかない。要するに社会に不満があるということなのだろうが、連邦共和国は日本とは異なって合衆国から独立しており政治的にも経済的にも世界の優等生であり続けている。グローバル化に対しても主体的に動ける立場であり、治安などに関してもアンダーコントロールであり、制御不可には陥ってはいない。なるほど急激に押し寄せた難民問題はあっても、国民の生活を脅かしているものではなく、制御さえ出来ていれば問題がない。

1990年代前半の外国人排斥や襲撃などの時と現在の状況は大分異なるというのが実感で、あの当時の「仕事が奪われる」とか言った切実なスローガンの方が現在の「誇りを取り戻す」よりも凄みも実感も強かった。



参照:
国際的競争力が無い実証 2016-09-09 | 雑感
ありのままを受容する 2016-09-24 | 歴史・時事
青い鳥が、飛び交うところ 2007-06-22 | 女
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近代天皇の意味、国体

2016-08-11 | 文学・思想
ツィッターなどを見ていると、日本国民の多くはどのような職業についていてもあまり変わらないと思った。天皇を知らない、もしくは自国の権力構造というものに無頓着という事だ。要するに少々学問をしていると自ら信じている人たちが、先にも書いたように科学的な思考に達していないという事なのである。

「天皇が個人であり、それを尊重する」などという論調はどうしたことか?ここが分かっていないと、立憲君主制も美濃部の天皇機関説も分からないだろう。王権などの支配権を盤石とする権力の正統性つまり権威がどこからやって来るかは西欧のその歴史をみれば明白である。同じように古いプロシア憲法を参考にしながら天皇制を取り込んだ訳であるから、その天皇の権威にはそれなりの根拠がある。要するに天皇は決して個人ではない。このようなことは子供の時に考えたことがあるが、その時の共和主義者としての解決方法は「選挙権を持った皇居煎餅の元祖として平民化して貰う」というアイデアだった。それに近いような論調には本当に呆れた。

それに関して、フランクフルターアルゲマイネの特派員パトリック・ヴェルターが流石に上手に纏めている。老舗のズルヒャーツァイトュングの記者もしているようで、なにか慣れないような感じもみられたが、流石に超高級紙に書くジャーナリストは伊達ではない。

彼は書く、その生中継を観る日本人を観察していて、必ずしも皆が何を差し置いても耳を傾けるようなことはなくて、だから天皇は市井の人々に直接訴えかけるために人間的なお面を被り、馴染みやすいように努力する必要があったとする。多くの人、特に若い日本人にとっては天皇などは生活において余白でしかないのだからと観察する。

しかし、そのように装って今回為された明仁天皇の発言こそは、今までの就任直後からの品行方正な「役人の操り人形」のような、そして親しみやすい一つ目の天皇像だけではなく、それ以上に二つ目の顔である民主主義的な、アジアでの戦後の日本像や、右翼修正主義者に対抗する戦争責任への言及の平和主義日本の天皇像を示す以外の何ものでもなかったとする。同時に、世論調査から、「象徴天皇」への支持は85%に達しており、「天皇不要論」は10%を割って、「天皇主権」はそれ以下の支持しかない状況が長く安定的に続いている事実を挙げる。

そして、生前退位への希望を可能にするとは、侵略戦争と共にあったを戦前の超権力の天皇への回帰から撤退することを意味するとある。だから、日本は今週の世界のスペクタクルなニュースとなったのだとしている。同時に、明治以降近代日本の立憲君主制の天皇の意味合いを知らしめて、その区切りとしたとする。それは、右翼筋には、天皇の希望に沿わないようなありとあらゆる努力させることを意味することになると社説を締めくくっている。

カトリック教会においてもフランシスコ教皇などが同様の努力をしているが、どちらも秘儀があってこその権威である。その点においても、明仁天皇の思考は当然のことながらそこまで熟慮されているものと想像される。同時に今回「市井」との言葉が使われた。安倍政権などに50数パーセントの支持率があり、首都東京にポピュリスト知事が当選したように、改憲提議そして国民投票への危機感からも日本津々浦々の人々に呼びかけたのだろう。あとは本当のジャーナリズムや文化学識に携わる人々の科学的な思考とその表現力に掛かっている。象徴天皇におんぶにだっこばかりの生かされている日本人では、一体何のために近代化の歴史があったのかさえも分からなくなる。



参照:
Japanische Scharade, Patrick Welter, FAZ vom 10.8.2016
象徴天皇を庇護するとは 2016-08-10 | 文学・思想
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
期待する三宅洋平効果 2016-07-10 | マスメディア批評
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
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象徴天皇を庇護するとは

2016-08-10 | 文学・思想
週明けの車中のラディオはお昼のニュースで明仁天皇のヴィデオメッセージについて報じていた。東北震災以来の異例の二度目の語り掛けであるという事である。私も朝から生を観ようと思っていたが最初の数十秒は欠けた。文字起こしで内容を再確認した。

「始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する機能を有しません。」の「始め」が気になったからだ。どうもメッセージの題目の「象徴としての天皇」を指すらしい  ― これに関しては、宮内庁の公式文書で再確認すると、「天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,」もしくは「本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇…」となり、題目は「象徴としてのお務めについて」である。そして、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,」と締める。つまり、「これを弄るようなことは認めがたいが、それに対して発言することが出来ない。」という事である。最高級の形で護憲を声明したことになる。

新聞は第一面の二大トップニュースとして伝えている。因みにもう一つは先週から続いている当局のリーク情報の続きで ― 電話で、人の殺し方を車でひき殺ろせとアドヴァイスしたが、アフガニスタン難民の方は免許を持っていなかったという電話会話の中身であった ―、ヴュルツブルクとアンスバッハのイスラム国テロ犯罪とサウディアラビアの関係についてである。その一面で、「(これまでのように、全身全霊をもって、象徴の務めを果たしていくことが、)難しくなるのではと案じています」と言葉を引用して副見出しを付けて、先ずは「右翼日本政権自民党は天皇の退任希望に拘わらず、憲法改正で象徴天皇を元首としようとしている。」と書いて、第三面の写真入りの記事に繋いでいる。

そこでは、病後に長く考えていたことが今回七月の予告に続いて公にされたことで、必要で困難な法改正などに迫られるが、二つの対処法があって、一つは時限立法にするという方策で、これも時間が掛かるという、そしてもう一つは一切無視して、これまでの様に負担軽減で誤魔化すという方法だったが、今回のヴィデオメッセージでそれが明白に否定されているので、これも儘ならなくなったとする。

つまり象徴天皇制が議論される。ここでも七月に伝えられていたように、そこで右翼筋が問題にするのが、空位になる皇太子に女子を選ぶかどうかの議論を再び呼び起こすことだとされる。日本のネットメディアも今回漸くこれを扱った。どうも女子の継承権は日本ではもはやタブー視されているようで、小泉政権から安倍政権への性質の変化がここにもみられる。

しかし女子継承権の議論は、何も男女平等の問題だけではなくて、今後の天皇家の維持を考える場合の重要策だとする。つまり、次世代の男子ヒサヒトはまだ九才であり、それでは危ういとされる。一部の見解として、政治的発言を許されない明仁天皇が平和主義を堅守して、修正主義や民族主義の大きな流れの防波堤となっていて、日本国の良心とされていると書く。

そうした良心も責任も天皇に担保出来ないのが象徴天皇なのだ。つまり、天皇の政治利用を認めないという根拠で天皇発言を無視したり、そもそも象徴天皇をも認めないというならば、私の様に移民するしかないのである。さもなければ自身の科学的な立場に懐疑せよ。男女同権を語る前に女子の継承権を語るのがそれを専門とする学者の仕事であり、市井のものは象徴天皇制の下でこうした発言に真摯に向かい合うことが求められているのである。

新聞には、放送のモニターの前で頭を垂れる者もいたという。戦時戦争世代の人だと思うが、どうなのだろうか。少なくとも私の周りにはそうした人はいなかったので分からない。震災時にも労い、時間を掛けて率直に話しかける姿は、映像を意識する政治家とは全く違うと書いてあったが、象徴制を排して元首としたい人たちの立ち振る舞いをしっかり見届けろと言いたい。



参照:
Beginn einer neuen Zeitrechnung, Patrick Welter, FAZ vom 9.8.2016
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
天皇の「悔恨」の意を酌む 2015-08-16 | 歴史・時事
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ツケを残し利子を払う税制

2016-07-09 | 文学・思想
正月以来初めてTV受信機に電源を流した。サッカー観戦である。前回のイタリア戦は翌日パン屋のおばさんに話しかけれたが観てなかったのでいい加減に誤魔化した。イタリア戦は興味が無かったがフランス戦は違う。付き合いもあって話の種としても観ておきたかった。フランスのそれが好きなのもある。結果は見事だと思った。ドイツ側もそもそも人材に欠けることもあるが、恐らく今が過渡期なのだろう。継続して王者であるのは不可能だ。そして、AfDに屈辱されたボーティング選手の試合ぶりをみて、更に腹が立った。ああした人種主義者を政界に送る連中はやはり叩かなければいけなと強く感じた。EU市民として非常に情けないことである。

文化欄に緑の党の元環境大臣ユルゲン・トリティンが超金満家税の恩恵について書いている。要約すると、金満家に財産を任せていても1991年と2011年を比較してその投資が増えていないことが実証されているとして、悪の公共投資よりも善の個人の投資とするネオリベラリズムを送別することで、いかに多くの公共投資が必要かがハッキリするとしている。つまり、傷んだ交通網や環境や教育に回せて、そこに仕事を生み出し、付加価値も生じるというのだ。

しかしこれは決して強引な経済成長へと向けられるものではなく、人口減少と高齢化の社会へのつまり成長無き経済への提言として、同時に次世代への継承としての環境の持続性を重視する考え方として語っている。

それならばアベノミクスの様な大規模の財政出動はどうなのか?これに関しては冒頭から国の財政として1928年の合衆国における一割の収入が全体の半分を稼いでいた時、その極一部が四分の一を稼いでいた時恐慌が起きた。それは2007年にも繰り返されて、未だにEUはそこから抜けきれておらず、アイルランドの予算の六倍の負債などの原因として、金融経済としての財政出動を指摘する。つまり赤字国債自体は、財政の悪化であり次世代に借金を残すだけでなく、その反対側で利子収入として財産を増やす資産家の存在を明らかにする。その資産は、借金を次世代に残した人々同様に次世代に受け継がれていくのである。

そこで何千億円相当の企業資本を相続として受け継ぐことが現在の新興貴族たる家族資本の大企業の資本家であり、その不公平さを知らしめる。同時に、連邦共和国においては下から上への富の分配はもう充分になされたとして、今は戦後のエアハルト首相時の「全てに豊かさを」の時代とは異なることを明示する。つまり、金融収入と勤労収入の分離課税についてである。今や二十年前には14倍だったサラリーマンと重役の収入の差は50倍に広がっていて、益々労働賃金の割合は小さくなっているというのだ。これを下から上への富の再分配と呼んでいる。そこで総合課税が前記の問題を解決する方法ということらしい。こうして、緑の党は、迫る総選挙で必要な議席を獲得すれば、メルケル首相と連立内閣を形成する準備をしている。

ここで東京に目を向けてみると、分離課税の問題点を指摘しているのは三宅洋平候補である。そして驚くことに、私よりも自由主義者である古賀茂明が、生まれて初めてと言う候補者応援をしているではないか。少なくとも三宅候補の主張は最も先端な議論の叩き台を用意している。それは確かである。正直、今までは東京選挙区の有権者だったら小川敏夫に入れるかどうしようか分からなかった。しかし、三宅洋平で間違いないだろうと今は確信する。

もし、分離課税で恩恵を受けていると思う人は考えてみるべきだ。アベノミクスの期間に数億円を利益確保として換金したかどうかである。それが出来ていないならば、儲けより子孫へのツケを増やしているに過ぎないと考えるべきだろう。



参照:
Vom Segen einer Superreichensteuer, Jürgen Trittin, FAZ vom 6.7.2016
月2500スイスフランの魅力 2016-06-05 | マスメディア批評
ポストデモクラシーの今 2016-07-08 | 文学・思想
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
富の再配分より機会均等! 2016-05-13 | マスメディア批評
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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ポストデモクラシーの今

2016-07-08 | 文学・思想
今朝のSWR2トップニュースはハーンフランクフルト空港の身売り話しだった。この話題はラインラント・プファルツ州では最も熱い政治話題となっている。今回も緊急会議が開かれた。そもそも上海の会社が投資することになっていたのだが、送金出来なかったことでご破算になった。この話で面白いのは、比較的払い易い額であったので、その裏にはマネーロンダリングがあるだろうということである。要するに個人の恐らく中共の高官の賄賂がその資金だろう。そして今日のニュースによると新たにワイン街道のダイデスハイムの独中企業ADCがオファーを出したというのだ。裏事情を想像するに同じ資金源ではないかと思う。

また、新興勢力AfDのアンチモスレムキャムペーンに関して、一種のアンチセミティズムであるとする見解が話されていた。この話の背後には、AfD発祥地であるバーデン・ヴュルテムベルクでの分裂騒動がある。正直うんざりする話なのだが、これらの話には一般化可能なものがある。

要するに中道右派から極右までを巻き込むPEGIDAやAfDなどに代表されるポピュリズムであるが、なるほど彼らの主張やスローガンには広く大衆を共感させるものがある一方、彼らがやっているのは広い有権者層のための政治ではなくて、権力掌握と集中への活動であって、当然のことながらそこに自ずから権力闘争が発生する ― ナチが好例である。

大阪のやくざ政党が主張している議会の縮小や報酬の削減などは一般受けするが、その背後には修正主義的な主張や、タブー視されている言動を起こすことで、如何にもエスタブリッシュな社会に風穴を開けるかのような錯覚を有権者に与え続けているなど、合衆国大統領候補トラムプや失脚したボリス・ジョンソンまたは左翼コービンなど全く同じ手法を採っている。

なるほど英国の脱EUの旗手だったフェラージュの退任は任を為したとしてのものであったようだが、それ以外の政治家の無責任さこそが、こうしたポピュリズムの正体である。ポピュリスト達の口車に乗せられて一票を投じて、梯子を外されるのはいつも有権者である。何回も騙されていては救いようがない。

三宅洋平の選挙フェスでやすとみあゆみこと安富歩東大教授が話していた ― 奥様と兼用のブラジャーにパッドを入れては無理か。本郷や駒場の学生と品川港南口の聴衆を区別しない内容は流石で、結構な拍手が生じていたのには驚いた。いつもは泡沫候補のマック赤坂を応援しているのだが今回は違う泡沫候補までに手を伸ばしたのか?ここに来て第二集団の背が見えてきているという情報もあり、小川敏夫候補、自民党候補など混戦になっているのだろうか。東京選挙区で容易に改憲勢力を勝たせてしまうようではもはや東京オリムピックはヒットラー政権下でのベルリンオリムピックと同じようになってしまうかもしれない。

歯痛で数週間休んでいたボールダーに出かけた。天気も良く、涼しくて、岩肌も乾いていたのだが、久しぶりで十分には力が入らなかった。なによりも歯を強く食いしばるようなことは出来るだけ避けたので、完全に力を出し切るまではいかない。続けて通わないとそれは難しい。午後からは暑くなりそうだが、朝は陽射しは暑くとも気温は低かった。体解しに準備体操して、軽く走った。とても気持ちが良く、心配の歯の調子も歯ブラシしても寧ろ違和感が少なかった。



参照:
英国EU離脱を観察する 2016-06-25 | 歴史・時事
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
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自分らしくあれる社会

2016-07-03 | 文学・思想
歯を磨いた。歯ブラシで問題のところを振動させた。違和感は無くなった。歯根がしっかりしてきたようだ。買い物に出かけるときに朝の静けさを感じながら考えた。確かべート―ヴェンの晩年の四重奏曲に「病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」とかあったなと、脳裏に響いた。そしてまさしくそうした世界観こそが啓蒙主義のそれだったと思い起こした。そうした精神世界が今でも教養として活きている一方、私たちの今日も刻々と動いでいる。

秋のボンでの音楽会まで二月に迫っていたことを思い出した。プログラムのチャイコフスキー第五交響曲しか頭になかったが、他の重要な二曲を思い出して焦った。幸い、十分ほどの間に、注目のリゲティ―作曲ロンターノとバルトークの第一ヴァィオリン協奏曲の資料を集めることが出来た。リゲティ―はポケット版ぐらいがあれば価格次第では購入してもよいかと思ったが、ショット社のサイトでそれどころか貸し譜しか無いことが分かった。さらに調べてみるとpdfコピーがあったので落とした。これはとても助かる。チャイコフスキーにはそれほど時間を掛けることはあり得ないと見積もっていたが、他の二曲は関心が深まると演奏時間の割にはお勉強に時間が掛かるかもしれないので要注意である。

秋のベートーヴェン祭のこのコンサートは会場の小ささから完売していた。初めの発券の出だしは悪かったが、ある程度の関心ある向きには聞き逃せないプログラムである。バーデンバーデンのベルリナーフィルハーモニカ―演奏会の方はまだ完売していなかった。

山本太郎の外国特派員クラブでの会見を観た。日本の政治家でここまで立派に世界に向けて話をすることが出来る人がどれぐらいいるのかと思った。やはりこの人も現在東京選挙区で格闘中の三宅洋平に決して引けを取らないタレントだと確信した。ここでも初当選後の時期に元俳優というのは、その習った職人的なものに加えて役者ということでは文化人でもあると書いたが、本人は大した俳優などではないと語り続けていた。それがどうだろう、やはりその喋りの確かさだけでなくて、下手な通訳を通じてでも聴衆に合せて話の要旨を伝える能力は抜群である。以前にも役者としてのレトリックやそうしたものこそタレントであると書いたのだが、こうした外国向きによく練られた脈絡と内容を臨機応変に滔々と語る。それどころか耳が良いのか英語にも十分に反応していて驚いた。これほどの日本の現役の政治家を知らない。目標は総理大臣だと冗談めかして言うが、この人たちが政治力を持つようになれば、そのような選挙制度や選挙がなされるようになれば日本は変わるだろう。二世、三世の盆暗よりも、本当の意味でのタレントが政界で働くようにならなければ駄目である。

ネットでは三宅洋平の選挙フェスに鳩山由紀夫が登場するかもしれないと流れていたが、本当に登場するのだろうか?まさしくこの人は三宅洋平が指す累進課税で納税して貰って、相応の尊敬を集めなければいけない一パーセントの人である。その財産は日本の政治を変えたが、その使い道は本人の意思次第である。現在の巨大な対米従属の官僚組織に自らの財産を委ねようとするのだるうか?自己矛盾とはならないか?国の使命の一つに富の分配があるのは間違いないが、その組織が富を食ってしまうのではどうしようもない。だからこそドイツの緑の党は秋の選挙でのキリスト教民主同盟との連立に配慮しながら「機会の均衡」を上げ出したのである。これは正しい。機会均衡で目指すのものは「自分らしくあれる社会」であるべきだ。



参照:
ボンで「ロンターノ」1967 2016-04-24 | 雑感
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
選挙フェス020716 (Lignponto)
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脱資本主義社会への加速

2016-02-15 | 文学・思想
足を引きずりながら買い物をした。前日のスーパーや眼鏡店、パン屋に続き、負傷後三回目の買い物である。靴履きの時に左足に力が入らないのでもたもたする。駐車場までもやはり左足を引きずる感じだ。まだまだであるが、大分動きは良くなってきた。

前夜からもう一つの膏薬を貼ってみた。同じように期限切れの十五年ほど前のものであるが、冷シップ感があって十分に効果がある。薄めのものなので剥がれにくく、動き回る時には大変役に立つ。

同じように軟膏を見つけた。それをじっくり塗り込んで、ひと眠りする。目が覚めて、足に神経を巡らすと何か違う。軽くなっていて、足が無くなってしまっている感じすらする。動かしてみると抵抗が無くて、意識と神経の違いが明らかに薄くなっている。如何に平常時には身体の動きと能が直結しているかということであろう。それでも歩き出すと違和感が戻って来た。それでも一時間ほどで快方に向かっている。これで大分明るい光が見えてきた。

車中のラディオでは、重力波などの話題があったが、資本主義が十年以内に終焉を告げるという話題もあった。旅行前には、現金払い5000ユーロまで規制のことも話題になっていたが、資本主義の終焉は、合衆国でサンダース候補が一勝したことからオキュパイ運動が世界を変えることに繋がるというもので全く次元が異なるものであろう。

5000ユーロ以上の売買などは現金では出来なくすることで、マネーロンダリングを抑えるということで発議されたものであるが、最初からその効果には否定的な見解が押し寄せたが、金融工学的なものを完全に打ち切ることが可能ならばまた違う意味合いで捉えられるのだろうか。

欧州では決してこうした話題は絵空事でもなく、重力波の実証に一世紀が掛かったことと比較しても、二世紀ほどの資本主義を大転換させてもなにも不思議ではないのである。こうしたEU的な考えの基礎には次の時代を開拓していくことで如何に現在の社会の富などを維持しつつ、文化的文明的にもそのリーダーであり続けるかという基本理念がそこにある。

現在のままの金融世界にいる限りそれが不可能となれば、なによりも率先して次のシステムを構築してしまえば有利に立てる訳で、合衆国にそうした動きが出てくることで大きく一歩を踏み出せるとなる。脱資本主義が社会の話題になって十年以上経ち、オキャパイ運動などがある程度の伝播をしたところで今政治社会的にも徐々に現実化してきているということかもしれない。

トラムプ候補の勝利を誰も信じていなかったようにサンダース候補の勝利もあり得ないと考えられていた。現在の金融世界の在り方がフェアーだと思っている人は殆ど居ない。真っ当な経済を取り返さなければいけないと思っている人々の意思を正しい方向へと向けることが出来れば世界は思うよりも簡単に変わってしまうであろう。



参照:
保守系経済高級新聞から 2015-10-06 | マスメディア批評
脱資本主義へのモラール 2006-05-16 | マスメディア批評
剰余商品価値の継承 2006-05-05 | BLOG研究
ブロキュパイの果てに 2015-03-23 | 歴史・時事
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