Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

持続する宗教的な気持ち

2019-02-24 | 文学・思想
金曜日の夜は、予定通り、二つの放送を同時に流していた。音楽はベルリンから、映像はミュンヘンからである。後者のハイティンク指揮の演奏風景を見ていると感動させられるものがあった。音楽は録画したものやところどころタブレットで確認しただけだが、視覚的なそれと実際の音に殆ど差異が無かった。本当に不思議なものだ。私は、まるで耳が聞こえなくなった楽聖の境地に至ったのだろうか?子供のころから楽聖と言えばこのエピソード無しにはこの作曲家のプロフィールに至らない。

しかしここに来て、ここに楽聖の音楽の核心があると思うようになった。上のハイティンク指揮の演奏をまだ吟味してはいないが、感動したのは僅か二回ほどその指揮に接して、一度は近くでそのたたずむ姿を見たからではないと思う。なるほど映像でも分かるようにこの放送交響楽団の弦楽器陣も決して優秀ではなくクーベリック監督時代からその冴えなさは変わっていない。そしてそれは音でも確かめられる。しかし、そのようなことではない、もはや私の呟きの隠れ取り巻きとなったジェラルド・フィンレーが歌う「このような音ではない」、ここに全てがある。

承前)楽聖の音楽に少しでも熱心になった者ならば誰でも、その音の設計図から打ち鳴らされる物理的な音響とは異なるところにこそ楽聖の精神が宿っていることに気が付く。音響自体はその精神を楽譜という形で書きとどめたものに過ぎないことを。

「ミサソレムニス」に戻ろう。楽聖が注文を受けてミサ曲の作曲に取り掛かる。1818年のことで構想から1819年4月には熱中した作曲へと取り掛かり、ルドルフ二世の式典には完成が間に合わなくなる。これも書簡からはっきりしていることで解説書に書いてある通りだ。その遅滞の大きな理由は規模が肥大化してしまったことも語られる。そこまで聞くとまさしく汲み尽きない創造力ゆえの事情を感じることが出来るのだが、そこからが面白い。楽聖はそこから盛んにこの楽譜を売りに出していたということだ。生活のためだが、マインツのショットに限らず、手当たり次第に十件から予約金を取って回ったらしい。しかし、つまり見本を渡して、全曲が完成しているのにも拘わらず、楽譜をコピーされてしまわないようにグロリアだけを抜いて予約を取り、表向きの完成を遅らせたというエピソードである。もう一つのエピソードは、ザンクトペテルスブルクで全曲初演された事情が、ヴィーンにおけるミサ曲の教会外での禁止から、第九交響曲と組み合されてクレドからサンクテュス、ベネディクスのミサの核心を除いた形でヴィーンで演奏された。この二つのエピソードから何を読み取るか?

なるほどグローリアだけは簡単に渡せなかったのもそれだけよく書けているからだろう。正しくこの曲を「合唱交響曲」と名付けようとした意図もそこに知れるところである。作曲技法的に、丁度後期の作品の特徴として、長短の和声法と対位法的な折衷となり、つまりその間に創作された中期の交響曲などのベートーヴェン的作曲技法のような完成度が無いともいえる。この曲が困難な事情はそうした技法的事情とそして第九のように付け足しではなく全体がミサ典礼のラテン語のテクストやフォームに縛られていることにもあるかもしれない。ところが、楽聖は友人に更に重要なことをこの曲について語っている。「歌うことにおいても、聞くことにおいても同様に宗教的な気持ちを目覚めさせる、それに持続性をもたせる」。この宗教性に関して劇場のマガジンに記載されていて、それはオーソドックスなカソリックの信仰ではなく、楽聖は多神教について言及していたという。このテーマを掘り下げると恐らく最も重要で近いヘーゲルの思索へと進むかもしれない。しかしもう一度この楽聖をプロファイルすると、全てが青年時代に即興ピアニストとして頭角を現したその前歴に浮かび上がってくる。

そもそも後世の作曲家や音楽学者はその作曲形態を理論として扱うことで分かり難くなるものが、突然見えては来ないだろうか。交響曲においても無駄の無いような進行や繰り返しそしてダイナミックスや和声的な流れを見るときに、その即興演奏の才能を思い浮かべると分かり易い。まさしくこの「ミサソレムニス」における全体の構造的な流れもそのように捉えるべきで、この合唱交響曲にはベートーヴェン的な作曲理論が通らないところでもある。勿論ミクロ構造において、しかるべきテーゼ・アンチテーゼに相当する音楽付けがあり、それがポリフォニー的に三次元に広がることも重要かもしれない。

ここまで来ると最後の疑問である唐突な軍楽隊のエピソードの謎も徐々に解けてくるかもしれない。中期の諸作の方をある枠組みに入れてしまうと、即興ピアニストベートーヴェンと後期の諸作における形態がとても上手く調和する。すると今度は「楽聖の精神」の飛翔する方向へと関心が移り、劇場のガイダンスでは「謙遜」という言葉をキーワードとした。そのままのカトリックにおけるそれから逸脱して、それどころか厭戦気分の漂う啓蒙思想の理想主義へと熱を上げたところに宿る精神とは、こうした公開演奏会の形で催されるイヴェントにこそ宿る。楽聖の音楽においての経験とは、歌うにしても聴くにしても繰り返されることでも継続的に宿るものなのである。

更に最初の疑問への答えを出しておこう。つまり演奏云々を言うのは間違いではないかという疑問である。しかし言及したように楽聖自身が宣言していて、演奏行為自体に意味があるとして、このミサ曲においてはアマチュア―の合唱団がその価値を引き継いだことになる。それが長続きする宗教的な気持ちにあたる。するともうそこに見えてくるのは第九の合唱だ。それを実現しているのは彼の極東の国ではないか。(続く)



参照:
ストリーミング週末始め 2019-02-23 | 生活
古典に取り付く島を求め 2007-10-23 | 文学・思想
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抑制の美の厳しい激しさ

2018-10-04 | 文学・思想
寒くなって来た。まだ暖房は要らないが夏のような井手達では風邪をひきそうになる。上手く移行したい。朝の森は霜こそ降りていなかったが、もうそこであった。いつまで裸で走れるだろうか。そろそろ身体を追い込んでいきたい。

「マイスタージンガー」のことを走りながら考えていた。動揺と書いたが未だにその漣が収まっていない。演奏実践による表現手段として明らかに新たな所へと関心が移った。この夏のルツェルンでのハックマン氏が言及したコムパクトネスへの言及が大きな転機となった。もしかするとそれを読んで指揮者キリル・ペトレンコもより意識するようになったかもしれない。良い批評とはそういう言語定着化にある。

今回の公演の特徴は、既に書いたが、その激しさがどのように表現されたかが重要で、その典型がミヒャエル・フォレの歌唱だった。殆どぶっつけ本番であったが、とてもいいところを示した。その歌唱が声量も圧倒的ながら基本的にはコムパクトネスによる節度ある歌が基本になっていて、そこに付ける音楽はペトレンコ指揮の座付き管弦楽しかありえないと思わせた。バイロイトでの楽団が絶対にジョルダンの指揮からは出せないコムパクトネスである。しかし2014年の「指輪」上演でペトレンコがどこまでそこで聞かせていたかというと、やはり今とは大分違う。それどころかこの夏のベルリナーフィルハーモニカーとのツアーがある前の「ジークフリート」では今回「マイスタージンガー」で示された程にはそれが意識されていなかったと思う。しかし今こうやって振り返って見れば、二月に試みていたあれほどのドライな演奏実践が今はこうして別な認識の下で捉えられるようになって、そこで初めてあれだけの激しい表現が可能になったと思う。まさしくバイロイトにおいてその表現方法が今回ほど確立していなかったと思っても間違いない。

技術的には、楽員が細かなところまで箸の上げ下ろしではないが、弓の上げ下ろしまで細かく検討して更っていたからに違いない。もしかすると確かコンツェルトマイスターを務めていたアルバン・シュパーイに腕があるのかもしれない。コントラバスまでとても素晴らしい仕事をしていて、これならばヴィーナーフィルハーモニカーより上だと思った。そうしたきっちりと固く振られるところと、激しく振られるところとの差も然ることながら、決して逸脱することなく矜持を正した表現によってこそ、途轍もない効果が生じるという技術的な面と、それと同じぐらいにその厳しさが自己抑制によってこそ初めて生じる ― またまた出ましたブロムシュテット氏のお言葉が。そうした抑制ゆえに、はち切れんばかりの情動的な音楽表現がドイツ音楽の深みのある美的表現へ昇華されるという美学がある。抑制の美である。

まさしくキリル・ペトレンコの音楽が激しさや厳しさ、そして同時に深みや端正さに彩られるようになって来たとすれば ― 勿論彼がベートーヴェンの音楽とより深く対峙するように成ったからでもあるかもしれないが -、その特性を示す表現とされるものであるだろうか。そうした美的表現の深化を目の辺りにするようなことが無かったので、普通ならば継続して観察していては少しの変化にはあまり気が付かなくなるものなので、驚いているのだ。そしてその情動的ともいえる厳しさの漣がひたひたと繰り返しおし寄せる。

旅行に出かける予定が変わったので、近々のコンサートカレンダーなどを覗いてみた。予定が空けてあるので、都合が良さそうなものを探してみた。チューリッヒでのヤルヴィ指揮のコンサートもあるが、今回は近場で更にいいのを見つけた。初めてのアンドリス・ネルソンズの指揮の会だ。カペルマイスターを務めるゲヴァントハウス管弦楽団が小欧州ツアーをする。指揮者の離婚した歌手のオプラウスがチャイコフスキーのオペラから二三曲歌う。これは座付き管弦楽団としての腕前を聞けるので価値がある。新曲で始めて、この楽団に合うかどうかというところのマーラーの第一交響曲が演奏される。プログラムが考えられていて、このネルソンズ指揮のヴィーナーフィルハーモニカーのようには期待出来ないが、大分いいところを突いて来ているのではないかなと思った。昨年の就任コンサートなどを放送で聞いて失望したが、生で体験して確かめられるだろう。勿論良くなっている可能性も大いに有る。

何時ものように金の事を書くが、どうしても市場を把握しておくことは芸術的にとても重要なのだ。本拠地では5ユーロの次が21ユーロで、まあ劇場価格だ。一晩のギャラは安めなのだろう。アルテオパーでも29ユーロと先日のヴィーナーフィルハーモニカーの22ユーロよりは高価であるが、2016年のミュンヘンの座付き管弦楽団よりは安い。あの時は36ユーロほど掛かったので断念したが、今回は手数料込みで31ユーロしない。ライプチッヒまでは遠いのでこの価格で充分嬉しい。兎に角、ザルツブルクで断然素晴らしかったネルソンズの指揮が楽しみである。



参照:
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
「憎悪され、愛されて」 2018-10-02 | 文化一般
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贖罪のカタリシスヘ

2018-09-24 | 文学・思想
久しぶりにとても怖い夢を見た。今まで記憶にある中でその怖さが特異だった。前後の関係はあまり分からなかったのだが、食事の席に合席する人が主役だった。殆ど水木しげるの世界だった。水木の妖怪辞典のフランス語版は購入したが、それ以上のオタクではない。しかしそのアニメ感などはまさにその世界だった。なぜ今頃そんなものを見るのかは分らなかった。しかしその背後への世界観は可成り社会学的なもので、これまた自分自身がそんなことも考えているのかと思って驚いた。

何気なく簡単な恐らく温泉宿のようなところで同席する人と色々と話しているうちに、こちらが加害者側の社会に属していて、途中からとても心苦しくなるというものだ。どうもここ最近の沖縄問題などが脳裏にあったようだ。そして息苦しくなって来て、首筋を掻き毟るようになって、ひょっと向かい側に座るその人を見ると、顔色から血の気が失せていてこの世の人ではなくなっているのだ。ここがそのもの鬼太郎のアニメに近い。すると更にそこに並んで同じ被害側にいた血の気の無い人達が勢揃いして対面している。ここがまた怖かった。

しかしそれだけでなく、次から次へと食卓の向こう側に座る人の民族やらがこちら側との関係の相違によってどんどんと変わってくる。勿論個人的な関係で対面する人も現われる。要するに私が加害者で、対面するのは皆被害者という関係になる。これは可成り恐ろしく、その都度私は胸を引きちがれるような苦しみを味わうのだが、その都度対面する人たちが苦悩を超えて血の気の失せた形相となる。

しかしそれがどうだろうこちら側の罪のような意識が芽生えると、その人々の群れが霧散していくのである。それは贖罪のようであり、ニルヴァーナのようであり、文化的な背景よりも社会学的な背景に興味が向かった。要するに被害者側の問題であるよりも加害者側の問題であり、それは個人の枠を超えて社会的な枠組みを意味した。夢物語であるからどうしてもスヴェーデンボリを想起するが、ベルイマンの映画も思い出す。

朝は霧雨の一歩手前といった感じだったが、パン屋のあと峠を攻めに行った。外気温は摂氏11度であるがそれ程冷やりとはしていない。峠から降りて来るといつものようなところでライヴァルの婆さんに出合った。今日は森の中に私たちだけだよと言われた。なるほどいつもの息子も着いて来ていない。午後から悪天候と予想されているから態々出かける人はもの好きである。

帰って来てからヴィーンからの生中継を聞いた。なんといってもベアヴァルトの交響曲が面白かった。これは少し調べてみても良いと思った。楽譜もDL出来たので、後半のドヴォルザークよりもこちらをお勉強しようかと思った。それほど後半は眠ったような演奏で ― ダイナミックスなども逆さになっていたから指揮におかしな動きがあったのだろうか ―、演奏旅行に出れば流石にもう少しまともに演奏するものと想定する。あのままでは二度とお座敷が掛からない。しかしどうしてもまたあのいつもの拍節のボケたような演奏でも差が出るのだろうか。まあ、どちらでもよいようなブリュッセルからルクセムブルクを経て、バーデンバーデンへと徐々に良くなってくるだろう。

来週の「マイスタージンガー」のネットストリームもオンデマンドでも流すようなので、帰宅後に直ぐ落としておけば少なくとも記録としては使えるだろう。一般的には生を聞いた後ではMP4などは当分聞く気にはならない。いい演奏になれば記念上演フィルムとしてまたどこかで編集後中継されるだろう。劇場が使っている写真が私が切り取ったところよりも悪い。なぜならば今回はデーフィットの役も配役が変わっているので、おかしいのだ。

ダブルブッキングになるもう一件のアウグスブルクの宿も今日明日のうちにキャンセルしておかないと忙しいと忘れて仕舞う。出来ればもう少しミュンヘン市内から近い都合のよい宿が見つかるとよいと思うが、さてどうなるか。



参照:
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
杖の無い爺に導かれる 2018-09-18 | 文化一般
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神無しに美は存在しない

2017-12-06 | 文学・思想
承前)伝道者ブロムシュテットの第四回目のお話しだ。四楽章がシンメトリーの中間にあたってとても重要で、いつものように全く素晴らしいテクストだと始まる。そしてこの詩編84のダヴィデの置かれていた状況を端緒とする。

1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください。
4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。

息子のソロモンによって追われて難民となったダヴィデは、エルサレムを想うのだが、そこには戻れない。息子が統治しているからである。「あなたのお住まい」というのだが、そんな神殿などはどこにもない、それどころかテント生活をしているのである。一方息子はその後に立派な神殿を建てたというのだが、しかし彼はそこに神の存在を身近に感じている。象徴的なことなのだが、それはただの美しさではない。

ルターのドイツ語訳の美しさを語る。Wie lieblich sindの母音の響き、Seele verlangt und sehnt sichのsの響き。そして「前庭」とのまさしく神殿への印象を夢見ながら、身近に感じる生き生きとした神こそが喜ばしいのであって、そのような岩石などの建造物では決してないのだ。

そしてブラームスの音化について触れていく。「先ずは美しい音色を聴いて貰ってから話を続けましょう」と四楽章の一回目の放映がされる。

音楽が終わって、先ずは放送局のメディア提供に謝辞を述べてから、「ただ簡単な歌に聞こえるのだが」と前置きして、芸術音楽として詳しく見ていく。これまた山なりの旋律線でと歌い始めて、「ツェバオート」が二回繰り返されるところにやってくる。ツェバオート自体がその大きな存在を意味するだけなのだが、言語での二回繰り返しと音楽は異なって、その繰り返しに意味を持たせることが可能となる。そもそもWie lieblichのテノールは、一拍目から二拍目とスラーが伸ばすように掛けられているように、変化されて歌われており、「もしこれを牧師がそのように伸ばして説教したらおかしんじゃないかと思われるのだが、こうした可能性の組み合わせが音楽表現なのだ」と。

更に良く聞けば、弦楽器が弓で擦るだけでなく、ピチカートで弾いているのは、間違いなくダヴィデの持っていた単純な5弦のハープに違いない。そして「この響きはブラームスらしくなくてダヴィデでしょう」と語る。

そして憧憬へのところの繰り返しつつの高揚が、ハーモニーに伴われての素晴らしい音化になっていて、そして心身共の喜びに至り、活動的になって、そして静まる。ソプラノが「フロイデ」と長く伸ばすと、他の声部はそこに掛け合うように輪が広がっていく。まさに天使が呼応するかのような情景だ。そしてまるで身体に感じるかのような喜びで楽章を閉じる。

「こうした表現し尽くしがたい音楽というものにどうしても神の存在を感じるのではなかろうか?、朽ち行く人類にこうした創造が可能なのか」、同僚のハーノンクールが語ったように、「音楽とは神と臍を繋ぐ緒」だと。

たいへんに高名な神学者がコンサートの後に訪れた時のことだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲とシベリウスの交響曲で宗教的な作品ではなかったのだが、「三十年この方、これほど神を身近に感じたことがなかった」とその神学者が語ったという。また有名な神学者と待降節の集まりで知り合い、本人は全くクラシックには興味が無くてロックファンということだったのだが、伝手で訪れたコンサートでリヒャルト・シュトラウスの交響詩とベートーヴェンの協奏曲などを聞いた。その後病気で入院していた時にベットでヘッドフォンのラディオから流れるべート―ヴェンやブラームスを聞き出して、「今まで聞いていたものはあまりにも日常的で無意味だった、ブラームスなどは神の存在無しにはあり得ない。」と論文を新聞に投稿した。

「こうして宗教的なテキストに作曲された創作があることがとても有り難く、美というのは神の意匠であり、神とは創造主であり、これは再び六楽章で触れますが、「神無しには美は存在しない。こうした気持ちは、例えば美しい自然に感じるときも、例えば美しいアルプスの峰を眺め、美しい音楽を聴き、または美しい絵画を見るときでも同じでしょう。」

神学者パウル・ティリッヒの第一次世界大戦での壮絶な経験をして、「そこの野戦図書館で簡単な本にボッティチェッリなどの挿絵を見て、ベルリンに戻ってきて直ぐに美術館に駆け込んでの絵画がとても重要な神的な体験になった」、それは、聖書ではなく、音楽でもある。



参照:
Wie lieblich sind deine Wohnungen (HappyChannel)
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
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「誇りを取り戻そう」の戯け

2016-11-19 | 文学・思想
水曜日の新聞文化欄を見た。クライスト賞の授賞式がこの日曜日にあり多和田葉子が受賞するので彼女の書籍が紹介されている。クライストに関する書籍が多い筈なので驚かないが、賞与理由はそうした研究に関係するだろうか。二冊の新著が紹介されている。

ヴァイマール共和国下でのこの文学賞はその受賞者リストを見ただけでその意味が分かる。ブレヒトやツックマイヤー、ムズィルなどドイツ文学の馴染みの名前が挙がる。1984年からの再授与はその意味合いは変わったといっても、ハイナー・ミュラーなどのお馴染みの名前も見られる。財政的にはドイツェバンクの二万ユーロが支えのようだ。

朝のラディオは前夜のオバマ大統領ベルリン滞在初日の話題があった。それによるとメルケル首相の招待で食事をしたようで、通訳も誰も付かなかったようだ。これは色々と想像させて面白い。もちろんメルケル首相にとっては来年の総選挙でも大統領ではなく首相候補になるということなので政治的に重要な情報を得る機会だったろう。なんら力のない辞める大統領でもその情報と政治的視点はとても重要である。先ずはねぎらいから、今後の合衆国外交の向かう方向に関しての話題となったのだろうか。

新聞には分裂騒ぎのAfDバーデンヴュルテムベルク議会での連中の締め括りの言葉が英語で出ていた。「再び誇りあるドイツにする」というトラムプ次期大統領の言葉を捩ったものだ。連中は気がくるっているとしか思えないのはこうしたところで、職業的にはそこそこの社会を代表する立場に居ながらこうした見解が生まれてくるところである。一体連邦共和国をどのように、敢えて言えばトルコ人二世などにとっても誇りあるものにしようというのだろうか?

日本の人には分からないかもしれないが、現在の連邦共和国の何処をどのようにしたら誇りに結びつくのだろうと大変不思議に思う。彼らの視座では現在のこの社会を恥ということなのだろう。どこが一体?である。

同じようなおかしな視座と思考を持つのは世界中この手の政治勢力層では変わらないようで、そうした政治情勢を作っているのは有権者でしかない。要するに社会に不満があるということなのだろうが、連邦共和国は日本とは異なって合衆国から独立しており政治的にも経済的にも世界の優等生であり続けている。グローバル化に対しても主体的に動ける立場であり、治安などに関してもアンダーコントロールであり、制御不可には陥ってはいない。なるほど急激に押し寄せた難民問題はあっても、国民の生活を脅かしているものではなく、制御さえ出来ていれば問題がない。

1990年代前半の外国人排斥や襲撃などの時と現在の状況は大分異なるというのが実感で、あの当時の「仕事が奪われる」とか言った切実なスローガンの方が現在の「誇りを取り戻す」よりも凄みも実感も強かった。



参照:
国際的競争力が無い実証 2016-09-09 | 雑感
ありのままを受容する 2016-09-24 | 歴史・時事
青い鳥が、飛び交うところ 2007-06-22 | 女
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近代天皇の意味、国体

2016-08-11 | 文学・思想
ツィッターなどを見ていると、日本国民の多くはどのような職業についていてもあまり変わらないと思った。天皇を知らない、もしくは自国の権力構造というものに無頓着という事だ。要するに少々学問をしていると自ら信じている人たちが、先にも書いたように科学的な思考に達していないという事なのである。

「天皇が個人であり、それを尊重する」などという論調はどうしたことか?ここが分かっていないと、立憲君主制も美濃部の天皇機関説も分からないだろう。王権などの支配権を盤石とする権力の正統性つまり権威がどこからやって来るかは西欧のその歴史をみれば明白である。同じように古いプロシア憲法を参考にしながら天皇制を取り込んだ訳であるから、その天皇の権威にはそれなりの根拠がある。要するに天皇は決して個人ではない。このようなことは子供の時に考えたことがあるが、その時の共和主義者としての解決方法は「選挙権を持った皇居煎餅の元祖として平民化して貰う」というアイデアだった。それに近いような論調には本当に呆れた。

それに関して、フランクフルターアルゲマイネの特派員パトリック・ヴェルターが流石に上手に纏めている。老舗のズルヒャーツァイトュングの記者もしているようで、なにか慣れないような感じもみられたが、流石に超高級紙に書くジャーナリストは伊達ではない。

彼は書く、その生中継を観る日本人を観察していて、必ずしも皆が何を差し置いても耳を傾けるようなことはなくて、だから天皇は市井の人々に直接訴えかけるために人間的なお面を被り、馴染みやすいように努力する必要があったとする。多くの人、特に若い日本人にとっては天皇などは生活において余白でしかないのだからと観察する。

しかし、そのように装って今回為された明仁天皇の発言こそは、今までの就任直後からの品行方正な「役人の操り人形」のような、そして親しみやすい一つ目の天皇像だけではなく、それ以上に二つ目の顔である民主主義的な、アジアでの戦後の日本像や、右翼修正主義者に対抗する戦争責任への言及の平和主義日本の天皇像を示す以外の何ものでもなかったとする。同時に、世論調査から、「象徴天皇」への支持は85%に達しており、「天皇不要論」は10%を割って、「天皇主権」はそれ以下の支持しかない状況が長く安定的に続いている事実を挙げる。

そして、生前退位への希望を可能にするとは、侵略戦争と共にあったを戦前の超権力の天皇への回帰から撤退することを意味するとある。だから、日本は今週の世界のスペクタクルなニュースとなったのだとしている。同時に、明治以降近代日本の立憲君主制の天皇の意味合いを知らしめて、その区切りとしたとする。それは、右翼筋には、天皇の希望に沿わないようなありとあらゆる努力させることを意味することになると社説を締めくくっている。

カトリック教会においてもフランシスコ教皇などが同様の努力をしているが、どちらも秘儀があってこその権威である。その点においても、明仁天皇の思考は当然のことながらそこまで熟慮されているものと想像される。同時に今回「市井」との言葉が使われた。安倍政権などに50数パーセントの支持率があり、首都東京にポピュリスト知事が当選したように、改憲提議そして国民投票への危機感からも日本津々浦々の人々に呼びかけたのだろう。あとは本当のジャーナリズムや文化学識に携わる人々の科学的な思考とその表現力に掛かっている。象徴天皇におんぶにだっこばかりの生かされている日本人では、一体何のために近代化の歴史があったのかさえも分からなくなる。



参照:
Japanische Scharade, Patrick Welter, FAZ vom 10.8.2016
象徴天皇を庇護するとは 2016-08-10 | 文学・思想
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
期待する三宅洋平効果 2016-07-10 | マスメディア批評
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
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象徴天皇を庇護するとは

2016-08-10 | 文学・思想
週明けの車中のラディオはお昼のニュースで明仁天皇のヴィデオメッセージについて報じていた。東北震災以来の異例の二度目の語り掛けであるという事である。私も朝から生を観ようと思っていたが最初の数十秒は欠けた。文字起こしで内容を再確認した。

「始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する機能を有しません。」の「始め」が気になったからだ。どうもメッセージの題目の「象徴としての天皇」を指すらしい  ― これに関しては、宮内庁の公式文書で再確認すると、「天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,」もしくは「本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇…」となり、題目は「象徴としてのお務めについて」である。そして、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,」と締める。つまり、「これを弄るようなことは認めがたいが、それに対して発言することが出来ない。」という事である。最高級の形で護憲を声明したことになる。

新聞は第一面の二大トップニュースとして伝えている。因みにもう一つは先週から続いている当局のリーク情報の続きで ― 電話で、人の殺し方を車でひき殺ろせとアドヴァイスしたが、アフガニスタン難民の方は免許を持っていなかったという電話会話の中身であった ―、ヴュルツブルクとアンスバッハのイスラム国テロ犯罪とサウディアラビアの関係についてである。その一面で、「(これまでのように、全身全霊をもって、象徴の務めを果たしていくことが、)難しくなるのではと案じています」と言葉を引用して副見出しを付けて、先ずは「右翼日本政権自民党は天皇の退任希望に拘わらず、憲法改正で象徴天皇を元首としようとしている。」と書いて、第三面の写真入りの記事に繋いでいる。

そこでは、病後に長く考えていたことが今回七月の予告に続いて公にされたことで、必要で困難な法改正などに迫られるが、二つの対処法があって、一つは時限立法にするという方策で、これも時間が掛かるという、そしてもう一つは一切無視して、これまでの様に負担軽減で誤魔化すという方法だったが、今回のヴィデオメッセージでそれが明白に否定されているので、これも儘ならなくなったとする。

つまり象徴天皇制が議論される。ここでも七月に伝えられていたように、そこで右翼筋が問題にするのが、空位になる皇太子に女子を選ぶかどうかの議論を再び呼び起こすことだとされる。日本のネットメディアも今回漸くこれを扱った。どうも女子の継承権は日本ではもはやタブー視されているようで、小泉政権から安倍政権への性質の変化がここにもみられる。

しかし女子継承権の議論は、何も男女平等の問題だけではなくて、今後の天皇家の維持を考える場合の重要策だとする。つまり、次世代の男子ヒサヒトはまだ九才であり、それでは危ういとされる。一部の見解として、政治的発言を許されない明仁天皇が平和主義を堅守して、修正主義や民族主義の大きな流れの防波堤となっていて、日本国の良心とされていると書く。

そうした良心も責任も天皇に担保出来ないのが象徴天皇なのだ。つまり、天皇の政治利用を認めないという根拠で天皇発言を無視したり、そもそも象徴天皇をも認めないというならば、私の様に移民するしかないのである。さもなければ自身の科学的な立場に懐疑せよ。男女同権を語る前に女子の継承権を語るのがそれを専門とする学者の仕事であり、市井のものは象徴天皇制の下でこうした発言に真摯に向かい合うことが求められているのである。

新聞には、放送のモニターの前で頭を垂れる者もいたという。戦時戦争世代の人だと思うが、どうなのだろうか。少なくとも私の周りにはそうした人はいなかったので分からない。震災時にも労い、時間を掛けて率直に話しかける姿は、映像を意識する政治家とは全く違うと書いてあったが、象徴制を排して元首としたい人たちの立ち振る舞いをしっかり見届けろと言いたい。



参照:
Beginn einer neuen Zeitrechnung, Patrick Welter, FAZ vom 9.8.2016
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
天皇の「悔恨」の意を酌む 2015-08-16 | 歴史・時事
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ツケを残し利子を払う税制

2016-07-09 | 文学・思想
正月以来初めてTV受信機に電源を流した。サッカー観戦である。前回のイタリア戦は翌日パン屋のおばさんに話しかけれたが観てなかったのでいい加減に誤魔化した。イタリア戦は興味が無かったがフランス戦は違う。付き合いもあって話の種としても観ておきたかった。フランスのそれが好きなのもある。結果は見事だと思った。ドイツ側もそもそも人材に欠けることもあるが、恐らく今が過渡期なのだろう。継続して王者であるのは不可能だ。そして、AfDに屈辱されたボーティング選手の試合ぶりをみて、更に腹が立った。ああした人種主義者を政界に送る連中はやはり叩かなければいけなと強く感じた。EU市民として非常に情けないことである。

文化欄に緑の党の元環境大臣ユルゲン・トリティンが超金満家税の恩恵について書いている。要約すると、金満家に財産を任せていても1991年と2011年を比較してその投資が増えていないことが実証されているとして、悪の公共投資よりも善の個人の投資とするネオリベラリズムを送別することで、いかに多くの公共投資が必要かがハッキリするとしている。つまり、傷んだ交通網や環境や教育に回せて、そこに仕事を生み出し、付加価値も生じるというのだ。

しかしこれは決して強引な経済成長へと向けられるものではなく、人口減少と高齢化の社会へのつまり成長無き経済への提言として、同時に次世代への継承としての環境の持続性を重視する考え方として語っている。

それならばアベノミクスの様な大規模の財政出動はどうなのか?これに関しては冒頭から国の財政として1928年の合衆国における一割の収入が全体の半分を稼いでいた時、その極一部が四分の一を稼いでいた時恐慌が起きた。それは2007年にも繰り返されて、未だにEUはそこから抜けきれておらず、アイルランドの予算の六倍の負債などの原因として、金融経済としての財政出動を指摘する。つまり赤字国債自体は、財政の悪化であり次世代に借金を残すだけでなく、その反対側で利子収入として財産を増やす資産家の存在を明らかにする。その資産は、借金を次世代に残した人々同様に次世代に受け継がれていくのである。

そこで何千億円相当の企業資本を相続として受け継ぐことが現在の新興貴族たる家族資本の大企業の資本家であり、その不公平さを知らしめる。同時に、連邦共和国においては下から上への富の分配はもう充分になされたとして、今は戦後のエアハルト首相時の「全てに豊かさを」の時代とは異なることを明示する。つまり、金融収入と勤労収入の分離課税についてである。今や二十年前には14倍だったサラリーマンと重役の収入の差は50倍に広がっていて、益々労働賃金の割合は小さくなっているというのだ。これを下から上への富の再分配と呼んでいる。そこで総合課税が前記の問題を解決する方法ということらしい。こうして、緑の党は、迫る総選挙で必要な議席を獲得すれば、メルケル首相と連立内閣を形成する準備をしている。

ここで東京に目を向けてみると、分離課税の問題点を指摘しているのは三宅洋平候補である。そして驚くことに、私よりも自由主義者である古賀茂明が、生まれて初めてと言う候補者応援をしているではないか。少なくとも三宅候補の主張は最も先端な議論の叩き台を用意している。それは確かである。正直、今までは東京選挙区の有権者だったら小川敏夫に入れるかどうしようか分からなかった。しかし、三宅洋平で間違いないだろうと今は確信する。

もし、分離課税で恩恵を受けていると思う人は考えてみるべきだ。アベノミクスの期間に数億円を利益確保として換金したかどうかである。それが出来ていないならば、儲けより子孫へのツケを増やしているに過ぎないと考えるべきだろう。



参照:
Vom Segen einer Superreichensteuer, Jürgen Trittin, FAZ vom 6.7.2016
月2500スイスフランの魅力 2016-06-05 | マスメディア批評
ポストデモクラシーの今 2016-07-08 | 文学・思想
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
富の再配分より機会均等! 2016-05-13 | マスメディア批評
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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ポストデモクラシーの今

2016-07-08 | 文学・思想
今朝のSWR2トップニュースはハーンフランクフルト空港の身売り話しだった。この話題はラインラント・プファルツ州では最も熱い政治話題となっている。今回も緊急会議が開かれた。そもそも上海の会社が投資することになっていたのだが、送金出来なかったことでご破算になった。この話で面白いのは、比較的払い易い額であったので、その裏にはマネーロンダリングがあるだろうということである。要するに個人の恐らく中共の高官の賄賂がその資金だろう。そして今日のニュースによると新たにワイン街道のダイデスハイムの独中企業ADCがオファーを出したというのだ。裏事情を想像するに同じ資金源ではないかと思う。

また、新興勢力AfDのアンチモスレムキャムペーンに関して、一種のアンチセミティズムであるとする見解が話されていた。この話の背後には、AfD発祥地であるバーデン・ヴュルテムベルクでの分裂騒動がある。正直うんざりする話なのだが、これらの話には一般化可能なものがある。

要するに中道右派から極右までを巻き込むPEGIDAやAfDなどに代表されるポピュリズムであるが、なるほど彼らの主張やスローガンには広く大衆を共感させるものがある一方、彼らがやっているのは広い有権者層のための政治ではなくて、権力掌握と集中への活動であって、当然のことながらそこに自ずから権力闘争が発生する ― ナチが好例である。

大阪のやくざ政党が主張している議会の縮小や報酬の削減などは一般受けするが、その背後には修正主義的な主張や、タブー視されている言動を起こすことで、如何にもエスタブリッシュな社会に風穴を開けるかのような錯覚を有権者に与え続けているなど、合衆国大統領候補トラムプや失脚したボリス・ジョンソンまたは左翼コービンなど全く同じ手法を採っている。

なるほど英国の脱EUの旗手だったフェラージュの退任は任を為したとしてのものであったようだが、それ以外の政治家の無責任さこそが、こうしたポピュリズムの正体である。ポピュリスト達の口車に乗せられて一票を投じて、梯子を外されるのはいつも有権者である。何回も騙されていては救いようがない。

三宅洋平の選挙フェスでやすとみあゆみこと安富歩東大教授が話していた ― 奥様と兼用のブラジャーにパッドを入れては無理か。本郷や駒場の学生と品川港南口の聴衆を区別しない内容は流石で、結構な拍手が生じていたのには驚いた。いつもは泡沫候補のマック赤坂を応援しているのだが今回は違う泡沫候補までに手を伸ばしたのか?ここに来て第二集団の背が見えてきているという情報もあり、小川敏夫候補、自民党候補など混戦になっているのだろうか。東京選挙区で容易に改憲勢力を勝たせてしまうようではもはや東京オリムピックはヒットラー政権下でのベルリンオリムピックと同じようになってしまうかもしれない。

歯痛で数週間休んでいたボールダーに出かけた。天気も良く、涼しくて、岩肌も乾いていたのだが、久しぶりで十分には力が入らなかった。なによりも歯を強く食いしばるようなことは出来るだけ避けたので、完全に力を出し切るまではいかない。続けて通わないとそれは難しい。午後からは暑くなりそうだが、朝は陽射しは暑くとも気温は低かった。体解しに準備体操して、軽く走った。とても気持ちが良く、心配の歯の調子も歯ブラシしても寧ろ違和感が少なかった。



参照:
英国EU離脱を観察する 2016-06-25 | 歴史・時事
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
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自分らしくあれる社会

2016-07-03 | 文学・思想
歯を磨いた。歯ブラシで問題のところを振動させた。違和感は無くなった。歯根がしっかりしてきたようだ。買い物に出かけるときに朝の静けさを感じながら考えた。確かべート―ヴェンの晩年の四重奏曲に「病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」とかあったなと、脳裏に響いた。そしてまさしくそうした世界観こそが啓蒙主義のそれだったと思い起こした。そうした精神世界が今でも教養として活きている一方、私たちの今日も刻々と動いでいる。

秋のボンでの音楽会まで二月に迫っていたことを思い出した。プログラムのチャイコフスキー第五交響曲しか頭になかったが、他の重要な二曲を思い出して焦った。幸い、十分ほどの間に、注目のリゲティ―作曲ロンターノとバルトークの第一ヴァィオリン協奏曲の資料を集めることが出来た。リゲティ―はポケット版ぐらいがあれば価格次第では購入してもよいかと思ったが、ショット社のサイトでそれどころか貸し譜しか無いことが分かった。さらに調べてみるとpdfコピーがあったので落とした。これはとても助かる。チャイコフスキーにはそれほど時間を掛けることはあり得ないと見積もっていたが、他の二曲は関心が深まると演奏時間の割にはお勉強に時間が掛かるかもしれないので要注意である。

秋のベートーヴェン祭のこのコンサートは会場の小ささから完売していた。初めの発券の出だしは悪かったが、ある程度の関心ある向きには聞き逃せないプログラムである。バーデンバーデンのベルリナーフィルハーモニカ―演奏会の方はまだ完売していなかった。

山本太郎の外国特派員クラブでの会見を観た。日本の政治家でここまで立派に世界に向けて話をすることが出来る人がどれぐらいいるのかと思った。やはりこの人も現在東京選挙区で格闘中の三宅洋平に決して引けを取らないタレントだと確信した。ここでも初当選後の時期に元俳優というのは、その習った職人的なものに加えて役者ということでは文化人でもあると書いたが、本人は大した俳優などではないと語り続けていた。それがどうだろう、やはりその喋りの確かさだけでなくて、下手な通訳を通じてでも聴衆に合せて話の要旨を伝える能力は抜群である。以前にも役者としてのレトリックやそうしたものこそタレントであると書いたのだが、こうした外国向きによく練られた脈絡と内容を臨機応変に滔々と語る。それどころか耳が良いのか英語にも十分に反応していて驚いた。これほどの日本の現役の政治家を知らない。目標は総理大臣だと冗談めかして言うが、この人たちが政治力を持つようになれば、そのような選挙制度や選挙がなされるようになれば日本は変わるだろう。二世、三世の盆暗よりも、本当の意味でのタレントが政界で働くようにならなければ駄目である。

ネットでは三宅洋平の選挙フェスに鳩山由紀夫が登場するかもしれないと流れていたが、本当に登場するのだろうか?まさしくこの人は三宅洋平が指す累進課税で納税して貰って、相応の尊敬を集めなければいけない一パーセントの人である。その財産は日本の政治を変えたが、その使い道は本人の意思次第である。現在の巨大な対米従属の官僚組織に自らの財産を委ねようとするのだるうか?自己矛盾とはならないか?国の使命の一つに富の分配があるのは間違いないが、その組織が富を食ってしまうのではどうしようもない。だからこそドイツの緑の党は秋の選挙でのキリスト教民主同盟との連立に配慮しながら「機会の均衡」を上げ出したのである。これは正しい。機会均衡で目指すのものは「自分らしくあれる社会」であるべきだ。



参照:
ボンで「ロンターノ」1967 2016-04-24 | 雑感
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
選挙フェス020716 (Lignponto)
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脱資本主義社会への加速

2016-02-15 | 文学・思想
足を引きずりながら買い物をした。前日のスーパーや眼鏡店、パン屋に続き、負傷後三回目の買い物である。靴履きの時に左足に力が入らないのでもたもたする。駐車場までもやはり左足を引きずる感じだ。まだまだであるが、大分動きは良くなってきた。

前夜からもう一つの膏薬を貼ってみた。同じように期限切れの十五年ほど前のものであるが、冷シップ感があって十分に効果がある。薄めのものなので剥がれにくく、動き回る時には大変役に立つ。

同じように軟膏を見つけた。それをじっくり塗り込んで、ひと眠りする。目が覚めて、足に神経を巡らすと何か違う。軽くなっていて、足が無くなってしまっている感じすらする。動かしてみると抵抗が無くて、意識と神経の違いが明らかに薄くなっている。如何に平常時には身体の動きと能が直結しているかということであろう。それでも歩き出すと違和感が戻って来た。それでも一時間ほどで快方に向かっている。これで大分明るい光が見えてきた。

車中のラディオでは、重力波などの話題があったが、資本主義が十年以内に終焉を告げるという話題もあった。旅行前には、現金払い5000ユーロまで規制のことも話題になっていたが、資本主義の終焉は、合衆国でサンダース候補が一勝したことからオキュパイ運動が世界を変えることに繋がるというもので全く次元が異なるものであろう。

5000ユーロ以上の売買などは現金では出来なくすることで、マネーロンダリングを抑えるということで発議されたものであるが、最初からその効果には否定的な見解が押し寄せたが、金融工学的なものを完全に打ち切ることが可能ならばまた違う意味合いで捉えられるのだろうか。

欧州では決してこうした話題は絵空事でもなく、重力波の実証に一世紀が掛かったことと比較しても、二世紀ほどの資本主義を大転換させてもなにも不思議ではないのである。こうしたEU的な考えの基礎には次の時代を開拓していくことで如何に現在の社会の富などを維持しつつ、文化的文明的にもそのリーダーであり続けるかという基本理念がそこにある。

現在のままの金融世界にいる限りそれが不可能となれば、なによりも率先して次のシステムを構築してしまえば有利に立てる訳で、合衆国にそうした動きが出てくることで大きく一歩を踏み出せるとなる。脱資本主義が社会の話題になって十年以上経ち、オキャパイ運動などがある程度の伝播をしたところで今政治社会的にも徐々に現実化してきているということかもしれない。

トラムプ候補の勝利を誰も信じていなかったようにサンダース候補の勝利もあり得ないと考えられていた。現在の金融世界の在り方がフェアーだと思っている人は殆ど居ない。真っ当な経済を取り返さなければいけないと思っている人々の意思を正しい方向へと向けることが出来れば世界は思うよりも簡単に変わってしまうであろう。



参照:
保守系経済高級新聞から 2015-10-06 | マスメディア批評
脱資本主義へのモラール 2006-05-16 | マスメディア批評
剰余商品価値の継承 2006-05-05 | BLOG研究
ブロキュパイの果てに 2015-03-23 | 歴史・時事
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無用な台詞へのその視線

2015-05-21 | 文学・思想
先日購入したヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を読み始めている。ベルク作曲の「ルル」のヴォーカルスコアの勉強と並行しての作業である。原作自体が二つの作品名があって、オペラ化に当たって適当にアイデア流用したような印象を持っていた。しかしこうして作曲家が当時原作に創作力を刺激されたのと同じように原作を読んでみて、明らかに思い違いしていたことに気がついた。

なるほど原作自体が数年の間を挟んで、各々全四幕と全三幕の戯曲として1900年前後に創作されていて、後にルルとして統一化されている。そのような原作の創作過程から、原作から作曲家がイマジネーションを強くして音楽化されていると誤解しやすいのだが、とても丁寧に描かれている戯曲であって、作曲家は入念に台詞を割愛しているに過ぎない。こうして読書してみると、必ずしも台本にかあけているところを感じるわけではないのだが、作曲者の創作過程に少しでも近づくには決して欠かせない作業であると認識を新たにする。

オペラの一幕に相当するのは、「地霊」の第四幕三場までである。面白いと思ったのは、画家が印象主義をして、「現代芸術が嘗ての大芸術に引けをとらないで済むことだ」と語らしていることである。1900年前の芸術的な状況を思うと同時に、所謂表現主義的な創作時期とされるようなその現場での視座を示している。これに作曲家が三十年後には全く視座から視線を投げかけていたことを感じさせる「無用な台詞」である。



参照:
燃え尽きそうな味わい 2015-05-02 | 文化一般
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
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啓蒙されるのは誰なのか

2015-01-16 | 文学・思想
シャーリ・エブドの最新刊のカリカチュア―がエジプトのスンニ派から批判された ― イスラムの国で最高の文化を誇るシーア派のペルシャも批判した、世俗のトルコはカヴァーの画像のあるサイトを見れないようにして、大統領はPEGIDAとISISを同一視した。批判されるのは想定内であろう。トルコ語やアラブ語でも出版する確信的な行動である。それによって啓蒙されていない人々に何かを訴えかけることが出来ていると信じているのだろう。そうした希望がなければできない行為であり、ドン・キホーテ的な英雄行為である。

その記者会見ぶりや仕事ぶりを見て、我々啓蒙された近代人はその姿に感動する。そしてその雑誌のカヴァーの表現に全てを読み取る。そして連帯を誓うのだ。少なくとも何らかのものを表現したり、創造したりする人々は、こうした英雄的な活動を無視したり、第三者的に中立的な立場では報じたりできない筈である。

この件に関して文化欄が解説をしている。この預言者が誰のことを嘆いているか?と単刀直入に問うている。人殺しにか、命を存えた人にか、これならばあまりにも軽薄すぎる。それならば、残された人々にか、そのもの殺された人々にか?緑の背景はイスラムの色であり、希望の色であると分析する。我々世俗の人々にとっては、その穏やかな預言者はキリスト教的隣人愛に満ちていて、描くこと自体が問題としてもこれ自体が挑発などとは考えられないと確信するのだ。しかしイスラム社会の反応は「世界的な共通認識としての宗教的権威への尊重があるべきだ」と違っていた。そして、今回の事件を通して、預言者を描くことを禁止することの表現の自由の考察で落着するのではなく、宗教的権威にまたは不当な死罪に疑問を抱くところが問題になるのだとする。要するに預言者の具象化などは一つの軋轢でしかないとされる。

テレグラム紙は、そもそもカリカチューアの表現が攻撃の目標ではなくて、イスラミズムが夢想するモスリム対非モスリムの世界市民戦争が目標だと書いたようだが、そもそもイスラム社会での表現への制限は布かれていて全く繰り返す必要のないものであるとして、その事例を挙げる。西側のジャーナリストに対するもの以上に厳しく罰せられたり、凄惨な現状が書き連ねられる。カヴァー以外の内容の紹介もあるが、結局はこの表紙で語り掛けられたものは、我々の連帯へのメッセージであるとする結論に他ならないだろう。

水曜日IWJの生中継で辺野古ゲート前の闘争を見た。五六台のバスがやって来て、一時間半ほどで牛蒡抜きとなった。沖縄県警が行った反対派のゲート封鎖に対する強制撤去である。トレーラーがゲート内に入ると中での作業を阻止する方法がないらしい。夜の22時に遂行する抜き打ちの方法がとられた。どうしても市民の数が少なく、手薄な割にはかなり抵抗していた。大飯原発の時の抵抗運動との違いは、警察力を指揮する知事が市民運動の背後にあることで、警察権力の暴走を露わにしたことだろうか。その後、沖縄県知事の一言を観たが、「残念」としか漏らしておらず、県警に関しては一言も言及はなかったのではないか。東京の政府と沖縄の「自治政府」の間に対話がなされていない状況は異常であり、この状況からすれば東京の政府が独裁政権であることが明らかだ。諸外国がそのように認識していても、気が付いていないのは日本人だけだという指摘が木魂する。

なるほど、24時間体制で作業阻止を企てた100人ほどの住民や支援者は立派であるが、情報が流れて、メディアや二人の参議院議員が駆けつけているのにも拘らず数百人規模にもなっていなかった。学生などは幾らでも時間がある筈で、その示唆行為の価値つまり表現の価値を理解しているならば当然のごとく集合する筈なのだ。ここにイスラム社会との共通点がある。モスリムとして生まれ育って、その社会の中で一生を暮していると、なんら疑問も覚えずに、預言者の像に憤慨するのである。そして、そこでは日常茶飯に悲惨な人権の蹂躙がなされている。

これを許してならないとするのが西欧であり、こうした価値観を戦略として、世界を指導していくのである。新聞が書くように、今回のシャーリー・エブドの再刊で、更なる攻撃に晒されて、世界中でそれが流されて、さてなにが変わるだろうかとの問いかけがある。その通り、このカヴァーやこの雑誌の手法で啓蒙されるのは西欧人でしかない。ムスリムの反感を煽るだけかもしれない。それでもさまざまな方法を通して、我々の連帯を通じて、語り掛けていくしか方法はないのである。それは、ロシアに対しても、中共に対しても、日本に対しても全く同じことなのである。それがジャーナリズムと呼ばれるものなのだ。

毎日新聞編集部の見解などを読んだ。また今回の件は以前のデンマークのそれよりも判断を日本で難しくしているという論文も目にした ― 私の場合は全く正反対であった。前者は、ムスリムの心情を害したくないとする論調で、ジャーナリズムとは一切関係のない表明を編集者がしている。後者は、サイードの言葉などを例にとっての脱構造主義からの視座を想起させているが、まさしくこれが戦後レジームからの脱却と叫ばれるような社会の低脳化の典型に収斂されることになっている。一体日本人はなにを学んでいるのだろう?科学をどのように考えているのだろうと改めてその付け焼き刃の近代文化を確認することになる。文化人がこれでは、神道も天皇制などの扱いも明治の宰相の知恵の域を一つも出ておらず、まともな対話が出来ない元凶となっている。


今日の音楽:モーツァルト作曲「後宮からの逃走」



参照:
Um wen weint Mohammed?, Michael Hanfeld, FAZ vom 15.1.2015
己の文化程度を試す踏み絵 2015-01-14 | 文化一般
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
不可逆な我々の現代環境 2014-10-12 | 歴史・時事
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想
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年末年始のプローザ一抹

2015-01-11 | 文学・思想
年末年始で一冊の本しか読めなかった。それでも流し読むのとは異なり、じっくりとその著作の意図などに迫れた。昨年逝去したジェラール・モルティエの遺稿集として出版された、それ以前にフランス語で出ていた短い書き物と新たに付け加えたドイツ語版のための前書きなどで構成されている。七部に前書きやフィナーレ、コーダなどが付け加えられた構成となっている。

氏の音楽劇場支配人としての半生や生い立ちなどにも若干触れられているが、飽く迄もこれを読んで分かるのは演出劇場とそれを可能とするオペラへの情熱である。それは副題として「人類教としての劇場への情熱のドラマ構成」に十二分に表されている。そしてその出典は様々ながらも一貫して実務屋の文章であり、こうした形で出版されているものに期待されるような書き方はされていない。つまり、最初のオペラである「魔笛」と少年ジェラールの繋がりにおいてももう少し主観的な記述があり得るかと予想するのだが、決してそうはならずにどこまでも劇場支配人なのである。想像するに病が発覚してからもプロジェクトなどの実務に最後まで動いていたのではないかと思わせる人物像である。

それでも音楽愛好家もしくは音楽劇場訪問者にとっては、必ずしも氏の支援者でなくとも、興味深く勉強になる書物に違いない。それは、なによりもこの様々な当局と真っ向から戦ったオペラ支配人が、オペラにおける感情的なものにとても強く揺るがされて、そこに音楽劇場の影響力を見ているからである。それが、通常の芝居よりも音楽芝居であるというのは、音楽の本質的な側面でもあると考えている。その一方、数々の新作上演のプロジェクトの経験から、作曲家と演出家もしくは美術家を加えてと指揮者の協調作業の重要性を例示している。

そもそもこの支配人にとっては厳選されたオペラがあり、そこに価値を見出しているのだが、その中でも比較的問題になっているのが昨年末にここでも触れた「影の無い女」なのである。氏は、そこで話題とした問題点として、ドラマテュルギー上の欠陥を上げていて、彼の作家ホフマンスタールもこの問題を解決できていなかったことを指摘している。そうした視点をもとにこの作品をザルツブルクやパリで取り上げていたようである。

協調作業つまり、指揮者も実務的に音合わせをするのだけではなく、最初から舞台化のプロセスに参与すると、フランクフルトで指揮者ドホナーニと経験したようなスムーズな運びになると、これに時間を費やした指揮者のカムブレランとともに実例を挙げている。もちろん前者は有数の譜読み能力の高い音楽家であって、それが舞台化に関わることの意味を解いているのである。

その対極として、目を瞑って音楽に耳を傾けるもしくは所謂コンツェルタンテな舞台無し上演で十分な音楽体験としてカルロス・クライーバーやムーティ―などの指揮者のゼッフィレッリ風演出の舞台実演が挙がるが、後者に関してはミラノで盛んに野次られながらも常習的なフォルテッシモで終わらせるのではなくて楽譜通りにヴェルディ―の狙いを正しく演奏するその実践を評価していていて、おもしろい。

「楽譜通り」の危なさは、作曲家自体がモーツァルトにおいても指揮者として上演するうちに修正していった経過などが出版とはならないなどの事象に触れるとともに、舞台背景や衣装の選定などにも話が及ぶ。そこで批判の矛先となるのは、張子の縦割りのニュルンベルクの家並みで満足する「マイスタージンガー」やルネサンス衣装もデズニーのイメージ以上でも以下でもない米国の劇場などでの意味合いである。

これは、同時に作曲家もしくは作家が活きた時代から見た中世であったりその創作の表現意図が同時に問われていることになる。最後のコーダを飾るフランクフルターアルゲマイネ紙に掲載されたヴェルディーに関する文章は、その視点で詳しく語られていて、19世紀後半のリベラリズムの作曲家とその作品として鋭い光を当てている。リコルディ出版社の地下で手書きの楽譜を見せてもらい、また作曲家の時代背景をみて、独裁者の圧制への抵抗をその人物像としている。つまり芸術的心情告発の自由へ検閲などへの戦いである。それは、本人も上院議員となったようにイタリア統一への動きの中で議会制君主制や共和制への動きの中での関与を指す。

それが直截な形で表れているのがナブッコの合唱であり、それどころか社会の周辺にあるアウトサイダーへの眼差しとなり、何もシラー原作の「盗賊」を出すまでもなくほとんどのヒーロー、ヒロインがこの範疇に当てはまるとする。「ドン・カルロス」における教会権力の悪用における作曲家の反教権主義、もしくは「シモン・ボッカネグラ」における市民と貴族階級の対置などがある反面、僅かながらの宗教的な心情としての「オテロ」のアヴェマリアや「運命の力」の僧もしくはレクイエムのリヴェラメを例外として挙げる。

「ボッカネグラ」や「マクベス」の形式感がなぜ後期の成功作にはあまり感じられないか?これに関して、リヒャルト・シュトラウスの「影の無い女」の問題点よりも具体的に、ルーティンによる演奏実践やプロダクションの問題として扱っている。この文章がコーダーとしてドイツ版を閉じていることを興味深く思う。そして、その遺作「ファルスタッフ」で以てあれほど期待していた1848年の革命の結果が期待を描いたようには運ばずに、第一次世界大戦を招き、ムッソーリーニ、ヒトラーそしてスターリンへと繋がっていく市民社会の歴史をそこに見ていたのだとしている。

まさしく、モルティエー氏がヴィーンの極右政党のハイダーらの入ったヴィーン政府と向かい合った歴史でもあったのだ。法学博士の氏が、作曲家モンテヴェルディをして、その長年にわたるマドリガルの精華をオペラとして、オルフェウスのミトースとして芸術化するところに、そうした普遍的な感情移入の力と同じように権力や表現としての力関係を冷静に腑分けするところにその学徒の思考が垣間見えるのである。



参照:
Dramaturgie einer Leidenschaft, Gerard Mortier, Metzler/Bärenreiter
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
迫る清金曜日の音楽 2008-08-27 | 文化一般
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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十分検討に値するやり方

2014-12-13 | 文学・思想
金曜日はシーズン二回目の室内登攀であった。前回の反省に立って力を温存しながら、チョークも持たずに二人で休みなく二時間登り続けた。最後から二本目で完全に腕に来た。その前に両手でぶら下がってしまったのが効いたのか?昨年と比較してどうかは言えないが、腕の疲れ方が異なってきているのも事実である。技術的な向上があるだけに最終的に腕に限界が来る。決して難しい場所を登っているのではないが、量を増やすとやはり疲れる。

日本の総選挙でベーシックインカムについての主張がある。京都一区の無所属立候補平智之だけであると思うが ― 大人一人月五万円、子供二万五千円を計算している ―、まさしくこれは「日本共産党のロマン」などとは違って遥かに現実的で夢のある近未来の社会形態なのである。最近になってようやく、キリスト教民主同盟総裁アンゲラ・メルケルがシュレーダー社会民主党党首に挑んだ選挙の財務大臣候補キルヒホッフ教授の主張の多くが理解できるようになった。この間、海賊党の勃興に並行してその案件が公約となって、同じようにベーシックインカムの基本的な考え方を、改めて税制の簡素化と付加価値税の意味を解いたハイデルベルクの教授に重ね合わせた人が少なくない。

調べてみると、教授の意見、即ちメルケル首相候補が当時熱を上げていた見解は、所謂新自由主義における小さな政府であったのだが、当然のことながら円熟した先進工業国特有の社会の高齢化や年金制度や社会保障への不安感が社会背景としてあったことは間違いない。もちろんそこには行政の肥大化による無駄が挙げられていて、新たなYOUTUBEヴィデオでは質問に答えて、社会保障の給付の問題化などにも触れながら、バーシックインカムを様々な社会保障に振り替えることで十分な資金は連邦共和国にもあると言う。当時はそこまでは考えていなかったようだが、十分に検討に値するとしている。



参照:
ネット相性診断を試す 2014-12-08 | 生活
外国人に手厚い社会保障 2014-12-05 | 文学・思想
Paul Kirchhof zum Grundeinkommen (YouTube)
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