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承前)リカルド・ムーティ監督下でのシカゴ交響楽団の実力は?
二曲目のエルガー作曲「南国で」は、未知の作品であったが、その通りベルカントに歌う局面のみならず、音色豊かな木管類や金管の抑制の効いた響きがとても美しかった。この交響楽団からこれ程美しい響きを聞いたことはなかったので、なるほど楽団はこのマエストロにこれを期待したのは明白だった。なるほど大都市シカゴにおいて、エンターティメントとシリアスを、新世界と旧世界を、丁度良い具合にバランスをとった上質な音楽を提供するということではショルティーもバレンボイムでも叶わなかったことだ。エルガーの交響的な書法も余すことなく響かせながら、「威風堂々」の月並みやイタリア趣味のそれになってしまわない演奏実践はやはり見事としか思えない。実際に会場でもブラスバンドを期待していた向きも音楽を知っている向きも同じように反応していたことでもその効果のほどが良く知れた。
これを書きながら、フィラデルフィア管弦楽団監督時代に録音されたショスタコーヴィッチの五番交響曲のCDを流している。その響きはオーマンディ時代のグラマラスなそれを引き継いでいるものだろうが、実際ネーティヴなドイツ語を喋る先任の録音が典型的な所謂カラヤン世代のムーディーな音響にしか至らなかったことからすると、ムーティ―指揮演奏はその世代が異なるだけでなく充分に欧州風である。充分に音価をとって歌わせるようにテムポ設定してあるのも今現在と全く変わらないのであるが、それはそれなりに簡略して情報量を落とすようなことをしていない。オーマンディ―がその才能を見染めたのだった。
後半のムソルグスキー作曲の二曲からコルサコフ編曲「禿山の一夜」は唯一勉強していった作品で存分に聞き分けることが可能だった。先ずはリズムが全くなっていなかった。一カ所だけ、鐘が鳴って終結部への弱音器付きのヴァイオリンが出るところで、それに続く終結におけるソロクラリネットのmeno mosso, tranquilloを先取りするかのようにテムポを落としていた。それによって本来は印象的な筈の木管のソロがもたつくこととなっていた。なるほど音色の妙としては印象的だったのだが、益々ムソルグスキーの音楽の土着的な強さから離れる結果となっていた。エルブフィルハーモニーでのFAZ批評ではおしゃれなリムスキーコルサフ編曲と呼ばれた所以だ。
それは同じように次のラヴェル編曲「展覧会の絵」にも如実に表れていて、もはやムソルグスキーなどどちらでも良くて、フランスの新古典主義の管弦楽法の微細さを堪能するだけとなっていた。プロムナード主題も押しつけがましくなく、至ってバランスの取れた軽妙な音楽となっていて、名画を堪能するに尽きるのであった。久しぶりにラヴェルの管弦楽を生で聞いた思いであり、昨年聞いたフライブルクの「ラヴァルス」とは次元が異なった。なるほどこれだけ上質な音楽はこの交響楽団からもなかなか聞けないものだったかもしれない。こうなるとロシア音楽なんてどうでもよいとなる。
つまり芸術性と呼ばれるものでもあるが、マエストロがベルカントで魅力的に歌おうとなると同じようにテムポを落として歌うことになるのである。モーリス・ラヴェルの楽譜にそのようなロシア的な表記があるだろうか?楽譜を調べないまでも違和感を覚えた。アンコールのヴェルディ、そしてマエストロの若い時と全く変わらないキャラクターは、なるほど魅力的なもので、銭をとれる極上のエンターティメントであり、それなりの芸術的な愉悦もありヴェルディなどのオペラの楽譜への見識や批判的な解釈には定評がある。しかしそれだけに余計にこの南イタリアのマエストロが他の立派なイタリア出身のコンサート指揮者とは全く異質な存在であることを感じさせた。
シカゴ交響楽団は、バレンボイムの指揮では背後に追い遣られていたショルティー時代のようなあの締まり切った快い低音も、それにバランスをとるグラスファイバーのように鋭い高弦の超合奏を披露した。ヴィオラトップを中心にコーリアン主体の更に数的に支配的になったアジア人達の弦合奏もとても立派で、管とのバランスを含めて斎藤記念管弦楽団とは似て非なるその芸術性は圧倒的だった。
余談であるが、入りはとても悪かった。指揮者楽団共に人気が無いのである。ティーレマン指揮シュターツカペレよりも人気が無い。折角マエストロが自己評価を自己認識してその長短をバランスとったプログラムであったが、一般的な聴衆にはその面白さや意欲が理解できなかったのかもしれない。また、案の定2017年は間違った座席が間違った価格で発売されていて、どうも二列目の人たちに補償があったような様子はなかった。(終わり)
参照:
復活祭音楽祭の記録 2017-01-21 | 文化一般
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
今言を以って古言を視る 2006-11-02 | 暦