Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2006年05月

2006-05-31 | Weblog-Index



寿司ボンバーの二丁 [ 暦 ] / 2006-05-31 TB1,COM0
江戸っ子だってねー [ 生活 ] / 2006-05-30 TB0,COM0
ヒューマニズムの挑戦 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-29 TB0,COM5
自己紹介バトン [ BLOG研究 ] / 2006-05-28 TB0,COM11
違いが判る、濃くが違う [ 料理 ] / 2006-05-27 TB0,COM2
俺のものは俺のもの [ 歴史・時事 ] / 2006-05-26 TB1,COM6
求められる明快な宇宙観 [ 文学・思想 ] / 2006-05-25 TB0,COM2
ワインは押して引いてから [ 生活 ] / 2006-05-24 TB0,COM8
国際法における共謀罪 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-23 TB1,COM0
旅の終わりの2005年産 [ ワイン ] / 2006-05-22 TB0,COM0
恥の意識のモラール [ 文化一般 ] / 2006-05-21 TB0,COM0
毒にも薬にもならぬ話題 [ 文化一般 ] / 2006-05-20 TB1,COM4
出口の反対は入口か? [ 雑感 ] / 2006-05-19 TB0,COM6
減反政策と希少価値 [ ワイン ] / 2006-05-18 TB0,COM3
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17 TB0,COM0
脱資本主義へのモラール [ 歴史・時事 ] / 2006-05-16 TB0,COM0
魔女協会のチクリ本 [ 生活 ] / 2006-05-15 TB0,COM4
肌に馴染む雑色砂岩 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-14 TB0,COM4
グロバリズム下の欧州像 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-13 TB0,COM4
活字文化の東方見聞録 [ 文学・思想 ] / 2006-05-12 TB1,COM0
試飲会の醍醐味 [ 試飲百景 ] / 2006-05-11 TB0,COM2
マクロの見識を味わう [ 試飲百景 ] / 2006-05-10 TB0,COM0
土壌の地質学的考察 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-09 TB0,COM4
平均化を避ける意識 [ ワイン ] / 2006-05-08 TB1,COM0
ワイン三昧 第四話 '06 [ ワイン ] / 2006-05-07 TB0,COM0
そして白樺が終わる頃 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-07 TB0,COM7
考古学的発見か [ 雑感 ] / 2006-05-06 TB0,COM0
剰余商品価値の継承 [ BLOG研究 ] / 2006-05-05 TB1,COM0
近代科学の限界に向合う [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-04 TB0,COM2
逸脱してその実体に迫る [ 音 ] / 2006-05-03 TB0, COM0
逸脱して変性した芸術 [ 文化一般 ] / 2006-05-02 TB0,COM8
土耳古系人の信条告白 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-01 TB0,COM4
ファウスト博士のお楽しみ [ 暦 ] / 2006-05-01 TB1,COM0
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寿司ボンバーの二丁

2006-05-31 | ワールドカップ06・10・14

ドイツ(DEUTSCHLAND)対(GEGEN)日本(JAPAN)の友好親善試合である。ワールドカップ10日前にして、双方にとって良い試金石になる。怪我をしていたミヒャエル・バラックが出場するとかで、合宿先のスイスから朝からニュースが飛んでいた。昼飯時には、スイスからドイツ入りするとかで飛行場から中継されていたようだ。迎え撃つのは、ボンに合宿する日本チームである。

雨が心配されたので戦場(FELD)の滑りやすい平らな芝生に、VORSICHT ABSTURZGEFAHR(転落注意)を掲げた。先ずは、信頼と自信の転落の危険(GEFAHR)に注意(VORSICHT)である。

TV中継は、お馴染のニェツァー氏の解説である。さて日本チームの動きが印象に残ったと云うが、一方ドイツチームは前線・前野(VORFELD)への試合作りが問題になるだけでなく、守備においても些か幸運に恵まれたと云うコメントであった。フランクフルトへ移籍の寿司ボンバー高原直泰の二発が効いた。

敗退ムードで監督クリンツマンの責任問題が突出しようとしていたが、何とか取り返した。引き分けて、少なくともコンデション作りともども本番までの仕事が明白となった。他には打つ手が無いと云う訳で、このままドイツチームは先を(VOR)見ながら(SICHT)がら前へと進む。バラクも調子を上げてこれば、大分変わってくるとは云う。もともと日本なんかよりも本番に近いチームと対戦したかったクリンツマンのようだが、協会が契約しているのでいやいや承知したようだ。何れにせよ、負けていれば大変なスキャンダルとなったであろう。

何はともあれ、ミドルフィールド(MITTELFELD)での両チームの動きを楽しむ。日本チームを観るのは、コンフェデーションカップ以来だが、大分地に足がついて来て、FIFAランキング通りの印象である。

そう云えば駐車禁止の副標識に、入口(EINFAHRT)出口(AUSFAHRT)につきFREIHALTEN AUCH  GEGENÜBER(向かい側もスパースを空けておく)と云うのがある。この場合、サッカーと違いスペースを空けて(FREI)おく(HALTEN)のが大切である。(ピクトグラフィックな旅行ドイツ語IV-ワールドカップドイツ大会2006年協賛)

参照:江戸っ子だってねー [ 生活 ] / 2006-05-30
接頭語等:VOR 先へ、MITTEL 中間の、GEGEN 対して、ÜBER 向こう側、AUCH また
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江戸っ子だってねー

2006-05-30 | ワールドカップ06・10・14








もし、あなたが生粋の江戸っ子を気取る紳士なら、迷い戸惑うことはありません。WCの前に、こうして二つの戸口が開いています。そうです、ヘーレン(HERREN・殿方)です。間違っても他の戸口を開いてはいけません。ダーメン(DAMEN・淑女)と言っておばさんに叱られるでしょう。

そのあたりの戸口には、類似の表札が見つかります。最も多いのは、KÜCHE(厨房)やPRIVAT(プライヴェート)もしくはZUTRITT VERBOTEN(立ち入り禁止)の表示です。禁止(VERBOTEN)は、様々な言葉と組み合わされて禁止表記の代表格です。赤丸白抜きのピクトグラフと用いられるのが一般的です。

立ち入るためには、右足左足(もしくは左足右足)と交互に前へと踏み出して、歩み(TRITT)をそこへ(ZU)向けて進まなければいけません。健康な?若者ならば、それからディスコに行って有料で入場(EINTRITT)して尚且つお立ち台の上に登場(AUFTRITT)するでしょう。その一方旅の疲れの出た年配者は、いつの間にか先に退出(ABTRETTEN・TRITTの動詞形TRETTEN)してベットへと向かいます。早起きして明朝の町を歩くと、教会コンサートやギャラリーのEINTRITT FREI(入場無料)のポスターが見つかるかもしれないからです。

もう一度繰り返します。駄目はVERBOTENで、自由はFREIです。(ピクトグラフィックな旅行ドイツ語III-ワールドカップドイツ大会2006年協賛)

参照:ワインは押して引いてから [ 生活 ] / 2006-05-24
接頭語等:FREI 自由・解放、ZU そこへ

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ヒューマニズムの挑戦

2006-05-29 | アウトドーア・環境
身体障害者がエヴェレストに登頂して、頂上直下の動けない他の登山者を見殺しにしたと批判されている。批判しているのが初登頂者のエドモンド・ヒラリー卿で、批判の矢面に立たされているのも同じニュージーランド人の男性である。

似たような不条理は頻繁に発生しているだろうが、今回の例は、亡くなった英国人にはお気の毒であるが、現代の娯楽社会を顕著に映し出している。また、アルピニズムスと云うような古の概念が存在していた半世紀前の証人が、こうした現状に当惑して発するその苦言に、我々は目を覚まされる。

ヒラリー卿の活躍時代は、ヒマラヤにおける第三の極地征服が従来のアルピニズムスの「鉄の時代」の延長線上にあって、その課題はヒマラヤの奥深くに存在していた。世界の最高峰エヴェレストなどに挑戦するのは、云わば登山界のエリートであって、一般大衆ではなかった。この変遷は、ヒマラヤに於ける課題が殆ど無くなったここ四半世紀の間により一層顕著になった。現地の入山料稼ぎのため許可数の増大と多くの事業主による高峰頂上ツアーが盛んになって、アルプス並みに観光化が進んだ。

「そういうツアーに参加すれば、高年齢でも普通の条件の時には公募隊によってエヴェレストの頂上に立たせてくれるようになった。…登山は商売になり、…快適登山になった。…」と、紹介済みの書籍「山-西洋人のアンソロジー」に触れられている通りである。

そしてそれでは何が変わったのか。登山行為がアルピニズムスに別離するとき、それはスポーツでも無く、少々物好きな娯楽となる。人々は、パンフレットに定めてあったような支払った額に見合う「見返り」を受け取る事を目的とする。

自己の満足や投資の前には、他人の不幸などはどちらでも良いのである。そのような輩を責めるには及ばない。彼らは地下鉄のホームに溢れる群集そのもので、誰かがプラットホームから落ちようがどうでも良いのである。亡くなった登山者の母親が語る通りである。彼らは、「手助けしようがしまいが」、自らに問うた自らの責任感で行動するだけである。賞賛される行いなどは一切考えず、賞賛されるようなモラルなども持ち合わせないのである。当然のことである。求める方が間違いだ。

それでは、登山が全て大衆の観光登山になったかと云うと必ずしもそうではない。今日でも僅かながらでも、エリート登山家やプロフェッショナルまたスポーツ精神に漲った活動が存在する。今回の身障者の行為もそういった視点から混同して報じられたのが、ヒラリー卿の逆鱗に触れたのだろう。

例えば現在最も注目される女流登山家であるゲルリンデ・カルテンブルナー嬢は、所謂アルペンスタイルによる酸素吸入無しの登山を志している。昨年度のエヴェレスト北壁日本クロワールを登攀中に同行の竹内洋岳氏が脳水腫に見舞われ、看護婦である彼女の徹夜の看護で一命を取り留め下山をしている。

こうしたエリートの先鋭的な行為にこそモラルを見るのは偶然であろうか。オーストリア・アルペンスキーのナショナル・ジュニアチームにいた時、その仲間たちの競争に失望したという彼女に云わせれば、「…友の命を救うためにエヴェレストから引き返して来て、私たちはまたもう一つ豊かな気持になる。」となる。それどころか、「酸素吸入をしてエヴェレストに登攀するのは6500メートル峰へ登るのと変わらない」と主張する、彼女の8000M峰における無酸素での行動が、医学的に新たな女性の高度順応の可能性を示す期待さえ存在する。こうして田部井淳子さんなどの女流登山の歴史を推し進めている。

身体障害者の肉体的な活動が評価される時、必ずやそのモラルが賞賛される。精神的な活動こそが求められている。その点からすると、登山ガイド舟橋健氏の嘗ての活動は、如何に当時から三十年ほど先を見据えていたかが分かる。しかし氏の活動は、その当時の故長谷川恒夫氏などの活動と比べると我々「アマチュアー」には十分に理解されなかった。まだ日本国内で最大規模の岩壁のルート開拓や冬季単独の連続登攀が話題となっていた時代が終わったばかりだからである。フリークライミングは、依然曙の時にあった。

そうした先鋭的な環境に居た舟橋氏であったからこそ、欧州修行中に「今更、夏の三大北壁を登るでも無し」とまだ幾らかは続いていた神風アルプス登山を尻目に、まだ当時十分に社会認知されていなかった山岳ガイドへの活動を始めている。

特に障害者を「チャレンジド」と呼んで、氏の「山が唯一 冒 険 の代名詞だった時代は過ぎている。」とのモットーを、バリアフリーの概念に広義のアウトドーア活動として先鋭的に実践している。つまり、今日見られるようなセンセーショナルな活字として踊るような「成果」ではなくて、その行為の内容と過程こそを、チャレンジャー各々に問うている様である。

奇しくもこの精神こそが嘗てのアルピニズムの中核であって、モラルでありスプリットであった。今日、「なぜにこうも我々の精神が蝕まれているのか?」、さもなくばアルピニズムを生み出したような「土壌にこそ、こうした矛盾の萌芽が存在したのではないか?」と、歴史や文化背景を紐解きながら引き続き考えてみたい。



参照:
恥の意識のモラール [ 文化一般 ] / 2006-05-21
81年後の初演(ベルリン、2004年12月9日)[ 音 ] / 2005-01-15
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自己紹介バトン

2006-05-28 | SNS・BLOG研究
・回す人を最初に書いておく(5人)。
終わりに候補を考える。先ず、ご指名頂いた「うさたろうのフランス生活」のうさたろうさんの紹介。「兎」に角、フットワークが良さそうだ。バレーの経験があると言うから、身動きも洗練して姿勢が良いと想像する。突然の跳躍に、時々翻弄されてしまうが、それがまた小動物を見ている様で愛らしい。

・お名前は?
Pfaelzerwein(プフェルツァーヴァイン)、パファルツ地方(Pfalz)のヴァイン(Wein)の意味。一般的にこの地域のワインを指すPfalzwein とのニュアンスの違いは、プフェルツァー(Pfälzer) の男性人称によるところが大きいだろうか。二重母音化äした響きが訛りの様で好い。野暮ったく、どこか間抜けな感じが良いのだ。それをaeと万国語綴りとしている。

・おいくつですか?
十代前半から殆ど考え方も文章の内容も変わらないので、その思い出話から年齢を想像すると、十年ぐらいの誤差が生じている可能性がある。ここの文章を読んでから、実際に会うと「落ち着いた文章から思ったのとは随分と若い」と言われる事を密かな喜びとする。

・ご職業は?
「なにしてる人なのか不明な感じがいいです」とブックマークに書かれ、これが本望となっている。残念ながらワインには投資しても見返りが無い。

・ご趣味は?
どうも最近は山登り関連の記事が続いて、趣味のような感じがするが、将棋とチェスの比較などにも興味を持つ。碁も勉強したいと思っているが、ネットを使って始めるほどの気力も無い。凝り性で深入りし過ぎ、直に趣味の領域を超えてしまうので、決して多趣味とはならない。

・好きな異性のタイプは?
カテゴリー「女」に表れる、講評がそれを語っている。要は、シックリ行くか行かないかの微妙な相違で、そうなると外見・内面別に評価基準を切り離す事が出来ない。絶対的な基準は無くて、相対的なものらしい。外見に固執すると、絶世の美女は存在しない。

・特技は?
特技は、水の中で禅を組まずに禅を続けられる事。人呼んで「水禅」と云う。既に教祖の域に入っているので、弟子入り希望者に教授可。入門前提条件として、大きな肺活量が挙げられる。

・資格、何か持っていますか?
文章の内容から察せられるように、議論の前提となるような資格や権威が全く無い。そのためか、反権威主義のような姿勢が時々見苦しい。逆に、発言資格があるような話題にはどうしても慎重にならざるを得ない。発言が固定された上位からの視点にならないように留意すべきだからである。そもそもBLOGの内容に正論や結論を期待する人は少ないだろうから、その方が良い。

・悩みが何かありますか?
恐らく生きる事は悩みではないが、希望を持ち続ける事は悩みを持ち続ける事に等しい。悩みがある方が幸せである。

・お好きな食べ物とお嫌いな食べ物は?
好き嫌いが無い事が自慢で、それで得をしていると信じているが、実際は特別に好きなものが無いのはつまらない。嫌いな食べ物が見つかれば、それを旨く食べるコツを会得するのが楽しみである。

・貴方が愛する人へ一言。
愛は忍耐強く、愛は親切です。ねたみません。愛は自慢せず、また、高ぶりません。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱きません。(コリントの使徒への手紙I 第13章4,5 愛の雅歌から)

・回す人5人を指名するとともに、その人の他者紹介を簡単にお願いします。
指名というよりも、この機に常連コメンテータリストから、五件を紹介・他薦する。

☆・。.・☆写真エッセイ&工房「木馬」のロードスターさんは、近頃「岩国エッセイサロン」を創立、地元紙に紹介されている。頓知の効いた文章と悠々自適の生活の中でもその行動力が魅力。

無精庵徒然草の国見弥一さんは、その読書量と思索の時から、独自の弥一の世界を展開。ロッキングチェアーに揺られての幻とも正夢とも判断のつかない思索の世界にも注目。

Mani_Maniのmanimaniさんは、既に七つのバトンに参加しているバトンの大家。喫茶店での「読書の一時」が何よりもの「至福の時」のようである。鑑賞する映画の質と批評は、秀逸。

ちょこばすのちょこばすさんは、スウイーツのある「喫茶の時」をこよなく愛している。其々のカフェーの雰囲気がまるでそこにいるかのように伝わる。雪国の外界と室内のほんのりとした空気感が楽しめる。

たるブログのたるさんは、集中したリサーチと思考の流れが分かる記事が特徴。それらは、感興を綴った「つれづれ日記」の間に挟まる。物事を因果律として考察していくのが科学的である。


回す人を最初に書いておく(5人)。
お名前は?
おいくつですか?
ご職業は?
ご趣味は?
好きな異性のタイプは?
特技は?
資格、何か持っていますか?
悩みが何かありますか?
お好きな食べ物とお嫌いな食べ物は?
貴方が愛する人へ一言。
回す人5人を指名するとともに、その人の他者紹介を簡単にお願いします。
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違いが判る、濃くが違う

2006-05-27 | 料理
ここ暫らくの天候は、とっても美しき五月を謳歌出来るものではない。最高気温が14度以下であったり、雷と風と雨を齎す不安定な大気の層が存在している。そのような日は、アルプスの高みは豪雪であったのだろう。少なくとも新雪スキーが楽しめただろう。

ここ二三日は温度こそ最低気温摂氏12度で最高気温は19度前後まで上がるが、雨で日差しがないので、寒くはないが今ひとつである。明るいとは言え幾分初秋のような気配すらする。

バイオウェザーによると、「本日は低気圧の影響を受けた西から南西へと大気の流れが続き、降雨が更にある。天候に準じて、落ち着かない、眠れないなどの傾向があるかもしれない。同様に頭痛、関節痛、心肺系の不調が普通以上に頻繁に起きる。多くの人が、つや消しのような投げやりな感じを持つ。太陽がないので憂鬱な感じもありえる。集中力や能率は個人の平均以下にしか至らない。」。その通りで付け加える事は無い。

さて、BLOGで教わったアスパラガスの茹で方を試す。剥いた皮を一緒に煮る方法である。灰汁抜きが決め手となる。結論は、野菜の煮物風で濃くが出る反面、最大の問題である苦味が出やすくなるような気がする。苦味は皮を厚めに綺麗に剥けば避ける事が出来るが、必ずしも完璧に剥けているとは限らないので、これがなかなか難しい。そのような理由で、皮を一緒に煮込む方法は上級者向きである。灰汁取りの手間をかけてたその分風味が濃くなるのは、確かである。

それゆえか剥いた皮を煮汁スープに入れると言う方法もある。確かにこれは濃くが出て、二倍ぐらいの味になる。深みが違い、お得である。
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俺のものは俺のもの

2006-05-26 | 歴史・時事
ドイツ連邦共和国政府の対中華人民共和国政策は正常化して来ている。先日の首相の腰掛訪問は、経済界から非難されていたが、前任者のようにセールスマンを務めるわけにはいかない。個人的な胡錦濤主席との朝食会と食後の散歩も執り行われたようだが、終始事務的な雰囲気で日程終了したようだ。同行を希望した企業家も、その切り詰められた日程から半数以下に絞られた。

特にジーメンス社などの超特急列車には、これ以上一億ユーロ相当の税金を無駄にするべきではないので慎重な構えは当然であろう。BASF社の天津基地などよりもイランなどからのエネルギー供給安全保障に関わる問題は、政治的な重要課題であるに違いなく、「中国は国益以上に国際貢献を考えなければいけない」とする表明は重要である。シュレーダー前首相の市場経済重視の取り組みよりも遥かに国民経済重視である。

それほどに、中国の野望となりふりかまわずの手法を無視出来なくなって来ている。今回の訪問に先駆けてドイツ連邦工業会が会員に示した中国投資・貿易のガイドラインが全てを語っている:
  • 十分に完成したテクノロジーを供給する事。
  • テクノロジーを供給しても肝心な特許は控える事。
  • 中国でのプロジェクトに限った、時間的制限のあるテクノロジーを移植する事。
  • 製品は部分集合形態として、下請けは各々の部分のノウハウを受け取るようにする。
  • 下請けがその製品を第三者に売却出来ない旨を契約書に謳う事。
  • 肝心の構成要素の機能は、本社のみによって開発・完成されて、全体のシステムに統合されて受け渡されるべきである。
  • 部分集合の統合化とシステム全体のテストは、本社でのみ履行される事。
  • ノウハウや資料、取引先、コンセプト、戦略、アップデートの情報などは、どうしても必要なときにだけ下請けに引き継げ。
  • 技術的資料にはロゴなどを付けるな。設計図などを、コード化しないメールで送るような事はするな。
  • データの集積はドイツ国内で行う事。中国からの社内アクセスをさせるな。
  • デザインの施設は自社社員が常置する部屋を用意する事。多く違った施設や営業所で仕事をさせて、全体像を見せないようにする事。
  • 技術的質問に対して技術者は細心である事。
  • 注文を選ぶ事。
  • 自己のテクノロジーの保護を旨とした注文不成立の営業を責めてはいけない。
これらの注意書きで、首相が咎める中国の技術泥棒を防ぐようにしようと言うのである。この声明が今回の中国訪問を事前に決定していた。

知的創造権保護に関して、胡錦濤主席は、「我々も重視しているんですよ、なんせ我々の技術が、いづれ守られるようになるのですから。」とニヤニヤとしたようだ。

何れにせよEUだけでなく、各企業がこうした基準を協調一貫して守っていくべきであろう。中国は、イラン石油の一人締めをして、国際的な政治的配慮を潰して行く国家であるから注意が必要である。

また、営利優先の企業家にそのような倫理を期待するのは間違えで、特に雇われ企業家には、将来の経済など全く関心がないのは当然である。



参照:
脱資本主義へのモラール [ 歴史・時事 ] / 2006-05-16
終わり無き近代主義 [ 文学・思想 ] / 2005-09-03
三角測量的アシストとゴール [ 歴史・時事 ] / 2005-07-01
根気強く語りかける [ 文化一般 ] / 2005-11-17
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求められる明快な宇宙観

2006-05-25 | マスメディア批評
オプス・デイについて調べる。ダ・ヴィンチ・コードで有名になったカトリック教団の団体である。今回の映画化にあたり、その描かれ方から最もソニーグループに食いついたセクトである。

興味を持たれるのはその秘密結社ぶりであり、原理主義者でありかつ、マキャブリズム的な政治力である。あるサイトには、スペインフランコ政権での多数の大臣参加など、その反マルキズムスの教義とともに、極右勢力として注意されている。南米チリでの政治介入やヴァチカンでの勢力も事実であろう。先の法王の身辺どころか当時のラッティンガー大司教とは、確かに良く結びつく。ドイツにおけるヴァイカーハイムでの青少年へのセミナーなどが極右への道を開いているとの批判が存在する。

先日の映画公開の機会に記者発表をしたが、オプス・デイのサイトにも詳しく主張が掲載されている。発表のコメントを受けて、FAZ新聞はこの問題を取り扱う。端的に言えば、「架空の物語にて実在と偶々一致した」と言う宗教セクトが「架空オプス・ディ」の断り書きをソニーに求めた訳であるが、実際のオプス・ディが生きる「世界の神聖化への道」の実世界が存在するのかと言う問いになっている。

つまり、受益型文化の典型として挙がる作品「ダ・ヴィンチ・コード」にたとえオプス・ディの願い通り「架空として額縁」が嵌められても、実際のオプス・ディが世界に存在する時、彼らが掲げる「生命の統一」、「日常生活における完成」に、神聖ともども文化と言う包みで人間性を統括できるかと問われる。あるいは文化の中なら神聖なものを小さくプレパラートの上に取り出して標本とするような「文化的形態」としてではなく、ダン・ブラウンに「小商いの組織」として描かれたオプス・ディの姿は、事実と離れずで決して驚きでもなんでもないのだとしている。

その実体は、CNNのジョン・アラン特派員の研究に詳しいと言う。そして、こうした宗教原理主義的な傾向は、文化と言う文脈において決して宗教的世界観には限らないと考えるのが妥当では無いだろうか?同様な例を社会や思想、政治における「俗物主義」と「理想主義」の世界観の相違として見る事が出来る。

後者を机上の理想主義として一笑するものは前者の主義に知らぬ間に毒されていて、現実主義と言う金科玉条をもとに果てしなく暗い世界に投影される影を現実と認識している洞窟の住人である。

前者を俗物の大衆主義として上位から見下す後者の主張を唱えるのは、架空の理想に夢見る 知 識 人 で、宗教者と隔たりが無い。彼らは、彼らの思惑とは別に俗物が議会制民主主義に則って現実世界を構築して行くことに留意しない。

どちらも他方を補っている二元論の世界観の中に存在していて、これらの議論から自然の標本を採取して、分析的に覗き見る事は不可能なのである。そもそも、こうしたディヴェートとかの言葉に代表される文化的洗脳が民主主義の虚構を形成している。

顕微鏡を覗いてガラスとガラスの間に挟まる薄い小宇宙の見本を観察するためには、その基礎となる明快な宇宙観が必要になると言うお話である。



参照:
脱資本主義へのモラール [ 歴史・時事 ] / 2006-05-16
国際法における共謀罪 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-23
土耳古系人の信条告白 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-01
権力抗争と自浄作用 [ 文学・思想 ] / 2005-11-03
多数連合と少数の不可侵権 [ 歴史・時事 ] / 2005-09-12
平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
BLOG 対 旧マスメディア [ 歴史・時事 ] / 2005-06-07
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ワインは押して引いてから

2006-05-24 | ワールドカップ06・10・14

地下鉄に乗ろう。ハンマーや非常停止ブレーキの横辺りに、NOTAUSSTIEG(非常脱出口)などと書いてあるかもしれない。車両は駅に着くが、ドアはボタンを押さなければ、外側からも内側からも開かない筈である。そうしたボタンに必ず書いてあるのが、DRÜCKEN(押す)であろう。

これはホテル等の屋内でも頻繁に見かける。引き戸は自動ドアーである可能性が強いが、それ以外は押して駄目ならZIEHEN(引く)を素早く見つけて引いてみよう。恋の駆け引きのように、AUSDRÜCKEN(気持ちを表)してDRÜCKEN(押)しても駄目なら、さっさとAUSZIEHEN(退却)した方が良い。そして、自らが人をANZIEHEN(魅了する)個性があるかどうかも自省しよう。そして初めて、心の裃もAUSZIEHEN(脱ぐ)ことが出来るのだ。

さて上着をANZIEHEN(羽織って)レストランへと出向き、ビンでワインを注文すると、給仕人がコルクをHERAUSZIEHEN(引き抜き)する。ワインをEINSCHENKEN(つが)させて、先ずはPROBIEREN(試飲)しよう。(ピクトグラフィックな旅行ドイツ語II-ワールドカップドイツ大会2006年協賛)

参照:出口の反対は入口か? [ 雑感 ] / 2006-05-19
接頭語等:HERAUS(中から外へ)、AN(接触へ)

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国際法における共謀罪

2006-05-23 | 歴史・時事
ハーグの国際刑事裁判所を承認する国際刑事法の存在は重い。昨今の米政府への公的な非難はここに集約されるのかも知れない。CIAを代表とするテロリスト諜報活動やイラク人捕虜に対する非人道的犯罪は、その政治的イデオロギーの正否や国際的秩序維持における政治軍事力の優劣を超えて、ひっきりなしに国際的な場において議論される。

集団虐殺や人道に対する罪、戦争犯罪や侵略戦争は、国際刑事法によって裁かれる。このような考えが持ち上がったのは、ヴェルサイユ条約時の第一次世界大戦時の敗戦国ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世の身柄搬送要求と書かれている。結局、オランダ人の反対で法廷へと呼び出されることは無かった。

その後のニュルンベルク軍事法廷や東京軍事法廷における勝者の正義は、未だに論争となる。こうした影響を、過去の視点を交えて2003年にザールブリュッケン州の「第三回慶応デェー」にて講演「東京軍事法廷とその日本における受容」したフィリップ・オステン氏の原稿が同地の法学部のサイトにある。首相ミュラーが名誉博士号を慶応大学から授与された記念だろうか。

こうした過去の軍事法廷への判断は、実はどちらでも良いのだが、これこそが国際刑事法が否定される裏の原因ともなっていると言うのである。つまり、国際法の正当性を認めることは、表向きの理由である国内刑事法上との整合だけではなくて、半世紀以上前の軍事法廷における「戦争犯罪追及の理」を認めることにもなると言うのである。

逐一深入りはしたくないが、戦争への共謀罪が問われた事に対して「頭を残して尻尾を切った」、慣れぬ英米法に法廷における「国家弁護」の弁護方針などの叙述とともに、その東京裁判への法学上の議論が世論とともに纏められている。つまり、大日本帝国は、1907年のハーグ条約や1929年のジュネーブ協定に「署名していながら、批准していなかった」と言う、その後の意志的な展開を証明するような記述も面白い。

そして1998年成立の国際刑法裁判所への国際刑事法の署名や批准への日本国法務省の否定的な態度が説明されている。ローマ規約と言われる会議に代表もしくは見学者として参加した専門家が1998年12月の「法律家」特別号に寄稿していて、記述的な抽象論に終始していて、具体的な国内法との調整に一切踏み込んでいないと言う。

2000年のバンベルクでのシンポジウムで西原春夫は、「国際刑事法は、超国家的組織の不備によってまだ時期的に十分に熟していない」と言い、「兵器のリストに核兵器が記されていないのは、日本からみるとおかしい」と刑事法学的に決まりが悪いと否定的とある。また西原氏の立場は、否定的な反応を続け、東京裁判の評価へと繋がると危惧を示す法務当局の態度に一致しているとする。

平川宗信名大名誉教授はこれとは逆に、国際刑事法への流れの中で両軍事法廷の果した役割を積極的に評価しているようである。法務当局の言う国内法改正の必要の検討などに対して、国際刑事法の国内法への移植どころか日本国憲法九条が十分にこれを抱合していると言う考えらしい。また安藤泰子博士は2002年の学位論文の中で、国際刑事法が国内刑事法を補完する意味での、裁判権のテリトリーについても考慮している。

しかしそれとは別に日本国憲法九条との兼ね合いもあるようだ。防衛や秩序維持のための軍事介入に備えての基本的な考え方が、この国際刑事法の根拠となるローマ規約に違いないからである。しかし、国連との組織的融合の具体的時期は未定のままである。

こうして自主的な国家の枠組みを超えて、集団的防衛体制を超えて、国際刑事法廷へと権限を委譲して行く。勝てば官軍の軍事的な権力の移管が予め国際法に定まるのは正しい。こうする事によって、国際テロリズムや戦争犯罪における責任はそれがビン・ラーディンであろうと、ホワイトハウスの住人であろうとも、共謀や侵略性があればそのように同じように裁かれる機構が必要であろう。

そうすると、ナチズム下のヒットラー暗殺計画共謀も歴史の中で復権の根拠が出来、今日から見たフランス革命の評価も変わってくるのだろう。

さらに推し進めると議会制民主主義の機構の中で、各々が選択した過程を文書化して(投票用紙のコピーのような)記録して、責任の免除を証明する必要があると考えると可笑しいだろうか?これは、コソヴォ紛争介入で学んだ事でもある。そのように議会制民主主義の発展への様々な可能性が存在する。
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旅の終わりの2005年産

2006-05-22 | ワイン
プファルツ1Bと云われる醸造所のワインを試飲する。その名門の頭文字から三つのBと並び賞されたのは過去の事で、その資本・経営や品質・規模から比較すると名門同士の競合は無くなった。近頃、日本の輸入業者も訪れたようだが、2005年産のワインはここ二三週間の内に瓶詰めされて、キャビネットクラスは公的検査が済みここ二三日で漸くエチケットが貼られるようになった。このプリミエー・クリュと格付けされた2005年産ワインの試飲記は、先ず世界初であろう。

ワイン畑のスロープに上下左右に並んでいる三つの上下二つの土壌とその下部の土壌から小さな小川を越えた三つ目の土壌と、それぞれの特徴は違う。上部は比較的似ているが、一つの下部の土壌は若干違うようである。そのワインの味の違いは、グレープフル-ツ風でもあり、藁の様な味覚でもある。この癖が他のワインのクリアーな構築的な味覚と比べて、今後どのように発展して行くかである。

蔵出しの段階であるので、半年後には幾らか蕾が開くように花となる。その時点で、どんな華となるのか、二年後には六年後はと考えると、現在の評価は覆ることすらある。

昨年も同じワインを特別割引で試し、初めはそれほど気に入らなかったのだが、後にはその割引価格ではなくてその質に魅了されるようになった。こうしたワインの成長を初めから見つめられるのは望外の喜びである。

現時点での評価は、ベーリック、ゲリュンペル、レッヒベヒャルとメモしておく。最初のものが蒸留水のように最も閉じているが、それでも構築感が素晴らしかった。真ん中のミネラル風味に更なる華が加わるのが期待出来る。最後のものは独特の柔らか味と後味がある。

これらとは別に今年から一リッターワインとして、一般的に思われている「単純なワイン」では無く、「単純で無いワイン」が提供されるようになった。醸造長の意志も「良い日常ワイン」を提供することにあるようで、大変興味あるワインとなっている。半年後にはさらに良くなりそうである。これも割引価格での提供となると、殆ど価格的にも競争出来るワインは存在しないのでは無いかと思わせる。

冬の寒い時期から様々なミッテルハールトの2005年産ワインを試してきたが、どうも趨勢は定まってきたようで、我がワイン冬の旅も懐かしい郷愁に包まれたものとなりそうである。
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恥の意識のモラール

2006-05-21 | 文化一般
恥の文化、罪の文化について最近耳にする。何時もの車中ラジオの文化波で、恥の文化等と話されると意外な感じがするのは致し方ない。罪の方は、遵法精神や宗教的戒律を破ることであるので分かり易い。それに対して、それに含まれない規範や規律といったものが存在して、そういった曖昧な定まりを逸脱した際に発生するのが恥の感情なのだろうか。偶に、優劣に関わるのもこの自己規定と無意識下のコンプレックスに源を発するようだ。ゆえに罪に対して、恥は定義し難い。

話題のダ・ヴィンチ・コードの米国の読者に、「恥を知れ」と叫んだのは彼のサルマン・ラシュディーで、「詰まらない書籍が影響を与えるのが不敬なのだ。」と直截に語っている。

「恥を言うのは、政治家や公人であり、ここ数十年一般市民の心理からは後退して行った。」と、政治学者エリック・マイヤーはZDFのインタヴューに答えている。真偽は判らないが、少なくとも軽微な罪は金銭で弁済出来るものであり、清算以後は、恥の意識から開放されることを善しとしている風潮と考えても良い。恥の意識こそは、家庭の教育や環境、教養から導き出されるようである。金銭や法廷闘争では解決されないものなのである。言い換えれば、道義的な責任を感ずる意識である。このインタヴューは、ベルリンのホロコースト石碑に対して2005年5月に話題となったものであって、石碑によって全てを清算しようとした希望は満たさられなかったとする意見である。

友人の言葉で思い出すのは、「彼は、マトモナ人間だから」と言う表現である。これなどは、計り知れない、定義出来ない表現であるが、信頼関係の基本となる概念である。信頼関係を他者の実体の知れない道義的な意識に期待するのは、大変興味のある事象である。

恥の文化として、著作「菊と刀」の中で日本の特徴を示したのは、ルース・ベネディクト女史であった。現在でもその実体に関わらず、オランダ人のイアン・ブルマは、独日の戦後処理の差異をその文化の特徴に注意しながら示した。1994年の出版で1991年の湾岸戦争時に両国で取材された結果であった。その内容もさることながら、日独の心理を恥の文化、罪の文化として対称させることに異議を唱えている。その心理を個人的なものとするか集団のものとするかも、同じような二元化による物事の簡素化でしかないのかもしれない。

恥の意識こそが、自尊心の基礎ともなる無意識下の規範であるとすると、故意にそうした束縛を無視しようとする姿勢も、解放されること無く得体の知れぬものに縛られ続けるのもその意識の両面を示しているだけで、希求する状態に至るモラルという原動力になっているのだろう。そのように考えると、意識下に明確に規定される罪の意識よりも、恥の意識の方が遥かに大きな潜在力を持つのかもしれない。



参照:
資本主義再考-モーゼとアロン(3)[ 歴史・時事 ] / 2005-05-04
IDの危機と確立の好機 [ 文学・思想 ] / 2005-04-20
木を見て森を見ず [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-28
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毒にも薬にもならぬ話題

2006-05-20 | 文化一般
「ダ・ヴィンチ・コード」と言うベストセラー小説の映画が封切りされたらしい。二月には、思わせぶりのつまみ食いの上映会がベルリンでも開かれたと言う。いずれにせよベストセラーであり、然るべき手による映画化と言うことで、十分な営業成功が見込まれている。

ラジオで耳にすると、原作者ダン・ブラウンの他の作品の方が良く書けているので、ブームはまだまだ去らないだろうと言う、証券指標のようなコメントがされていた。ここ十年ほどは中世を舞台にした小説などは、目白押しで、エンターテーメントとしても成功しているものも多い。今回の現象も米国人による、欧州コンプレックスとも言われているが、それだけではこうした世界的成功を説明していないのは明らかである。

この小説の粗筋を垣間見るだけで、その辺りにマーケティングが絶妙に組み合わされているのが知れる。何よりも、レオナルド・ダ・ヴィンチやアイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴーと来れば世界中の少なくとも中等教育を受けた現代人には大変馴染みがあって、モナリザの絵なども有名な西洋絵画の代表である。もちろんイエス・キリストや教会は、最も有名だ。

新聞評を読んでも、元高校教師の原作者がこうした読者層を熟知していて、精神性と確信と教養志向の作家活動を目指しているのが良く分かる。映画化での米国内の宗教原理主義者の反応などは、実際は思うままに制御可能なほど極一部で、話題作りのためにピックアップされている事は周知であるが、この映画の影響は「信じられないほど、毒にも薬にもならねえ」とされる。

原作を片手にロンドンやパリへと旅して、以前は誰も知らなかったような教会の絨毯を剥がしても、聖杯どころかダヴィデの星もキーストーンも見つからず、失望した読者たちは、それでも今後も懲りずにこの作者の後を追うのだろうとしている。

こうした絶大な反響から、全世界の知識スタンダード化と俗物化の、商業主義の中での、侵攻を留意すべきである。半世紀前ならば素朴に希求さていたようなこうした話題の地球共通化が、現在はサテライト映像通信やネットの発達や様々なTVゲームやコミックなどの媒体を以って、人類を、その文化を均質化の危機へと招いている。そもそも教育の場で学力をPISAという指標で国際比較する時代なのである。それも日常生活に根ざした固有の感覚では無しに、-一体現代のどれだけの人がキリストの子孫に興味があるだろうか-教育で一般教養として習った文化のコードに対応している事が問題なのである。ここには個人や共同体が、民主主義のイデオロギーの中に、各々の個性を失いかねない 共 通 認 識 が存在する。

このコードの謎解きを古典的な教養への謎解きとして、その「不敬罪」へのウイットを示したのではないかとする記者は、「事実にフィクションを上塗りした」とされる非常に良く出来た原作やその映像化に対して、「ちっとも心配することなぞありませんよ。」と大人に訴えかけるが、所詮エンターテイメント界やハリウッドの出来事として軽視して、 真 の 影 響 を見落としているのではないだろうか?ジャーナリストのこうした書き手が、本人も知らぬ間に「テンプル騎士団」に洗脳されているとしたら、これほどの戦慄もあるまい。足の肉深く食い込む鉄の棘が痛い。
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出口の反対は入口か?

2006-05-19 | ワールドカップ06・10・14

ワールドカップドイツ大会2006が迫ってきた。これを機に旅行ドイツ語などを、ピクトグラフィックな象形とロジカルな文字を組み合わせて見ていくと、面白そうである。

率直に言い換えると、緑の避難誘導灯などよりも文字の割合の多い標識などに注目したい。特にアルファベットを母国語としない旅行者は、文字が素直に音声として自動的に響かないため、図示してあるのにも関わらず、寧ろ文字情報として受け取る。しかし、道路標識等の色使いや図表が利用されているから、禁止や注意や喚起を呼びかけているのは理解出来るので、その分文字情報を読み取る必要が出てくる。

そのような、街中で頻繁に見かける標識を見て行こう。まず一回目は、飛行場などでも見られる表示である。非常口でお馴染みの緑の表示であれば、大抵はそちらへ進むだろうか。AUSGANGは出口であるから、少なくともゲートやドアを開けて、向こう側へと移れば出てしまう。出口が分からずにうろうろすることも結構多いので、これだけは覚えておきたい。しかしその前にNOTが付くとNOTAUSGANG(非常出口)なので注意した方が良いだろう。その裏側に必ずしもEINGANG(入口)が開いているとは限らないからである。寧ろKEIN EINGANG (入口に非ず)と書いてあって、戻れないでAUSGESCHLOSSEN(締め出される)される可能性の方が強い。

GANG(歩み)は、GEHEN(行く)の名詞形であるが、食事の時にも重要である。お品書きが判らなくて、ホテルレストランなどで、本日のお勧めMENÜ(定食)を採ろうとすれば、GÄNGE(複数・コースの段数)に注意しなければいけない。(ピクトグラフィックな旅行ドイツ語)
参照:ワインは押して引いてから [ 生活 ] / 2006-05-24
接頭語等:AUS(外へ)、EIN(中へ)、NOT(危機) 、KEIN(一つもない)
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減反政策と希少価値

2006-05-18 | ワイン
ワインの経済。フランスのシャトーワインがスーパーに並んでいる。ドイツ国内では、フランスワインはここ数年20%近い消費の落ち込みがあるようだ。特にボルドーは、同時にその生産力から日常消費ワインの王国でもあるので、その最低価格を減産で探っていたが、どうも思わしくないらしい。

オーストラリアと南米ワインの成長が、過去十年間で1900%の輸出拡大とあるのに対して、同じ期間欧州からの輸出の伸び率は僅か20%に留まっている。また、EU内でも輸入が伸びる反面ワイン消費は、僅か年間0.65%の伸びとなっており、輸入超過の傾向は続いている。

EU内消費量128Mioヘクトリッター中、フランスの26%、イタリアの22%、ドイツの16%の消費に対して、生産量174Mioヘクトリッターの内訳は、32%はフランス産、29%はイタリア産、24%はスペイン産、因みに6%のドイツ産となっている。このことから最もグローバル化の影響を受けているのはフランスなのだろう。

そこで、ブリュッセルのEU本部で最大の問題となっているのが、来年早々から施行されるワインに関するEUの新規制である。現在も様々な思惑から政治的調整が進められている。新世界が求めるコカコーラワインがワイン文化を崩壊させる事を憂慮している。特に加糖によるアルコールの添加は「果実酒化」への道を開くとして、ドイツ語圏からの批判が強い。注目の新提案は、現在まで許されていた全体のアルコール度数の4%分までの加糖を、2%へと引き下げると言うものである。こうする事によって、太陽の恵みの薄い北方の白ワインが、 本 物 のワイン醸造酒として、EU市場にも残り続ける事が出来ると言う思惑である。

EU全域としては、こうした事から減産を実施して、国際的競争力を維持したいところである。そうなると、量で有利に立っていたワイン王国は苦労が多いだけでなく、高級ワイン市場への影響も無視出来ない。その際たるものが、ブルゴーニュやボルドーの名門シャトーワインで、永くネゴシアン制度の商業網を支えて来たワインでもある。これらの多くの末裔のユダヤ資本は、現在のグローバリズムの権化でもある。因みに独前首相シュレーダーは、現在ロートシルト・インヴェスティメントの欧州相談役に納まっている。

しかしそれらのグランクリュワインは、生産量に限りがあり、尚且つ新鮮な内には消費出来ない事から、資本の投下と回収の効率からすると、近代の経済になんらの意味を持たないだけでなく、そのワインの質と供給量から価格の上限は計算される。品質と希少価値は元来異なるが、品質も条件に恵まれた南米などのワインと比較されることで、その希少価値すらが瓦解して来ている。これは、昨今のスーパーでの安売り投売りの現象に現れている。

具体的にもともとの価格が上限100ユーロ程度までなので、その質が10ユーロの商品とあまり変わらない場合、その商品が流通する事で実質価値が正しく値踏みされる事となって、そのブランドの希少価値さえ危うくする。こうしたネットの情報網が広まると、ネット競などの投機的な煽りも淘汰されて効力を失うだろう。

ドイツワインの半世紀以上前のヴィンテージにも関心が集まっているようであるが、こうなると長持ちするワインの醸造にもよりいっそう留意されるようになる。つまり減反出来ない醸造所には将来は無くて、既に質への転換が成功裏に完了出来て居なければ見通しは暗い。

今後の進展を大まかに予想すると、一般消費ワインの需要は中国などの人口の多い新市場に依存する形となり、高級ワインは従来の小さな市場へと収斂して行き淘汰が進む。中堅の醸造所はだけでなく、伝統的な名門の醸造所も、隅々までの資本主義化が進んだ今日、その存続は厳しい。



参照:
平均化を避ける意識 [ ワイン ] / 2006-05-08
政治的棲み分けの土壌 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-09-22
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