Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

大芸術の父とその末裔

2006-11-24 | 
ピアニスト・アルフレード・ブレンデルは、この十年間で無かったほど、元気そうであった。ミスタッチの有る無しではなくその気力と云い、その集中度は充実振りを示していた。当年七十五歳であるから、現代では高齢とは云えないが、体調によって大分違ってくるのだろう。

ハイドンのニ長調のHob.XVI42ソナタは、チェンバロではなくピアノのために作曲されているとされる。ニコラウス伯に嫁いだエステルハージ家の王女に献呈された二楽章三曲の曲集である。

テーマと変奏に、月並みならば和音が積み木崩しのように潰されるアルペジオが、通奏低音のように繰り返されるでもなく、累積される響きで塗りつぶされるでもない。左手から右手へと受け渡されてかけ合うのは、空間的な音楽的視界の動きを表わす以上に、そのフレーズの繋がり具合からあたかも小枝が風に揺らぎ枯れ葉が舞い上がるような純音楽的な精神の飛翔そのものである。また終楽章の半音階列がプレリュード紛いのように無為を示す事もない。あくまでも音楽を、その動機の扱いと特徴を個性として尊び、明確に奏されるこの繊細さは如何ほどのものであろうか。この曲は、その成功から弦楽三重奏曲としても出版されている。

それは、また後年のイングリッシュソナタの一品ハ長調Hob.XVI52の曲において、ヴィーン古典派の突出を示しているかのようである。つまり、その後の西洋近代音楽の伝統となるソナタ形式における各々の部分のキャラクター付けは、ここでの動機の展開や発展における妙味であり、調性的律動的探索の時であり、ユーモアに富み且つ知的な遊び心に満ちた、ヘーゲル的止揚であり、そして精神の飛翔と智の遊戯からの帰還である。疾風怒濤の嵐を越えて啓蒙精神は、ビーダーマイヤー風の生活感に引き継がれ、ブルジョワージーの教養となっていく。

それにしても、作曲家ハイドンのデリカシーと職人的な技巧の秀逸、趣味の良さとその知的な振る舞いは、聴き上手の貴族に半生をお抱えされた最後の巨匠のそれである。この父ハイドンを継承する者が絶えたのは近代の社会や歴史に証明される。

例えば、この夜休憩前に演奏されたシューベルトのト長調D894のソナタでは、そうした客観から主観へと音楽的視点が大きく移動していて、物理自然の中に存在していた素材があたかもどこかから作曲家の指を通して編み出されたかのような文字通り人文的な姿態を見せる。その精神と形態こそが作曲家兼評論家のロベルト・シューマンがこの曲をしてファンタジーソナタと名づけるロマンティックである。そこでは、大きなダイナミックスの中に音や響きの肌触りが認識されて、既にオーストリア交響文化の粋を現実化している。そこに継承される音楽こそが芸術音楽でそのものある。民謡風な歌心や趣に、若くして世を去った作曲家シューベルトの面影を見る事も出来るが、その庶民的な滾々と湧き出る感性と肥大化された楽曲を思うと、さらに長生きをしていたらと惜しまれる。深深として且つ引き締まったバスの響きに硬質な旋律線を対応させ、弱音の薄い響きにまろやかな高音を這わせたりと、手練手管な最高域のピアニズム的演奏実践をもって、シューベルトの音楽は一点の曇りも無いロマン的心像風景となる。

休憩後にモーツァルトの晩年の作品が取り上げられた。ハイドンセットを書き上げた当時のファンタジーハ短調と、後年友人の死に際して書き上げられたイ短調のロンドである。ある種裏寂れたと云うか、天才少年が大人になり、その時代の難しさにバロックなどを研究しながら、純音楽的な時代の変化に対応しようとあがいてた時期であったのかもしれない。すくなくともここにあるのは、高貴に飛翔した精神の芸術ではなく、地に這い蹲るような大変主情的な世界である。成果を上げる舞台音楽での情感の吐露の深みに至らなかったこの作曲家の数多の作品は、上の偉大な芸術の系譜には含まれない。そして、予期されたように若くして長い芸術家の寿命を終える。

既に故人となったヴィーン出身のピアニスト、フリードリッヒ・グルダがこの曲を得意としていたが、演奏前に「ある種の感情は音楽でしか表わされないものであって、時代や国境を越えて伝達される」と演説している。音楽文化の伝統の知的な部分への反発から、感性の世界で活動を試みた嫌いもあるこの演奏家がこうした発言をして、ジャズとのコラボレーションを試みたのは理解出来る。しかし、そうした主知的な要素である形態と素材無しに音楽美は存在しない。オーストリア交響文化はそれでは成立しなかった。アーノルド・シェーンベルクの云うような「ドイツ音楽の優位」は存在しなかった。

アルフレッド・ブレンデルの楽器は、こうして継承されたオーストリア音楽文化を、明確なアーティクレーションやペダルを使った弱音や共鳴する響きで、現代の大ホール(今回は、数え切れない氏の演奏会体験の中でも音響的に最も精緻を極めた演奏会であったことを特記しておく。)の隅々の聴衆にまで漏れなく伝達する。明晰な和音の底辺を響かせたり多声的に 扱ったり、自由闊達で奔放ながら小節のテンポを維持しながら、上声部の驚くべき微妙なタッチとフーレージングの妙味に、その音楽文化の真髄を聞かせる。ハイドンの作品におけるここに来ての特筆すべき演奏実践は、現代欧州の第一人者である音楽家の辿り着いた境地でもある。

それは、近代精神としてのヒューマニズムの中欧における音楽的発露である。ユーモアの表現として、技法を越えてそれが音楽的に具象化される時、オーストリアの交響文化を中心とする近代音楽が商業化されてその終焉にある今日を如実に反射して映し出す。



参照:
ハイドンのユーモア
音楽の「言語性」とは?(9)
音楽の「言語性」とは?(10)
音楽の「言語性」とは?(11)
音楽の「言語性」とは?(12)
Musikant/komponistより)
そのもののために輝く [ 生活 ] / 2006-11-13
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17

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6 コメント

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岐阜へも・・・ (matsubara)
2006-11-24 08:40:37
15年ほど前、岐阜でブレンデルのピアノコンサートがありました。同じピアノが弾き手によってあんなにも違うものかと驚きました。
もう2度とこの町には来ていただくことはないと思い、迷わず行きました。あの時でもう足は弱られていたみたいで、ピアノの椅子に手をかけられて漸く立ち上がられていた姿を思い出します。
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見(聴き)違えるほどにお元気 (pfaelzerwein)
2006-11-24 09:31:18
上のリンク:音楽の「言語性」とは?(9)のコメント欄にあるように「許容の限界」があり近年は岐阜どころか日本でのリサイタルは殆ど無いと認識しています。

今回のツアープログラムで、ブレーメンやパリやロンドン公演について皆さんがBLOGで書かれています。ドイツの大都市と云えどもリサイタルの公演地は限られています。フランクフルトも我々の会とのお付き合いで、毎年最低一回は招聘出来ているようです。

15年前は私は丁度聴いていませんが、その後ご指摘のように一時年々と弱って来ていて、ここ数年はこれで最後かと云う雰囲気がありました。去年の十月は勘違いで券を無駄にしたのですが、今年は見(聴き)違えるほどにお元気そうで驚きました。

美しい響きを鳴らし、個性ある音作りが出来るピアニストは沢山いますが、猫が踏んでも同じ音高が出る楽器から音楽芸術を奏でるこうしたピアニストは殆どいませんね。
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TBありがとうございます。 (JUNSKY 観劇レビュー)
2006-11-24 09:32:44
この記事読ませていただきました。
哲学的思惟的かつ高尚でなかなか着いてゆけないお話ではありましたが、勉強になりました。
11月24日の記事ですが、ブレンデル氏の演奏会は幾日聴かれたのでしょうか?
ブレンデル氏は来日中ですか?

あっ!Germanyから投稿されているのですね。
(今、ちょうど左にあるプロフィールが目に入りました)
その名もワイン通りにお住まいですか?

酒・女の記事も折にふれ読ませていただきます。

ありがとうございました。
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嘗て無い事! (pfaelzerwein)
2006-11-25 22:09:15
JUNSKY 観劇レビューさん、コメント有難うございます。今年のザルツブルクの音楽祭で同じプログラムを聴かれたようですね。改築が済んでからの小ホールは知らないのですが、パリでも劇場と比較的小さな空間を演奏者が選んでいるようです。

フランクフルトは、天井桟敷でも、一部の和声の付けかたから圧倒的なバスが響いておりまして、三十年来聴き続けているのですが、このピアニストとしては嘗て無い事でした。

以前は、このレヴェルのピアノ演奏会は二千人以上の収容スペースで無いと儲からないと云うことでしたが、最近は状況が変わってきたのでしょうか。ザルツブルクも集客率が悪くなり残券が増えていますから高額な入場券に対して其れぐらいのサーヴィスは妥当かと思います。

ワイン街道に二桁の数字がつくだけで現住所です。また折りに触れコメントさせていただきます。
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夢想 (Musikant/komponist)
2006-11-25 23:34:06
ご無沙汰しております。ブレンデル健在の知らせを喜んでいた所、過去の自分の文章にも接する事になり、またも恐縮しております。
ハイドンについては、まだまだ語るべき事が多いのですが、現在は「思いもかけぬ発見」を楽しんでいる所で、「戻ってくる」までには時間がかかりそうです。
モーツァルトについてのご言及など、まさに私も感じる通りで、「メモリアル・イヤー」とかで今年やたらと耳にする機会の多かったこの作曲家の、ハイドンの「叡智」との「違い」が、器楽作品を聴くたび、これまた、感じられていた所でした。

お聴きになられた演奏会ほどのものは、そう幾たびも立ち会えるものでもないでしょうが、手元のディスクから「その響き」を夢想しております。(ハイドンは是非、再録音して欲しいものです。)
それにしても、ブレンデルほどの「ハイドン弾き」の演奏を聴いてしまうと(グルダは、ついにハイドンのまとまった録音を残しませんでした)、古楽器による演奏など、むしろ「ニュアンスの足らない」ものとして感じられる面もあります。
オーケストラにせよ同様で、ブリュッヘンやクイケンなど聴いてみるものの、かつてのブルーノ・ワルターや老クレンペラーの演奏に自ずから漂う「フモール」との「差」に、「楽器の能力」の要素も関与しているような感じもあり、つまりは、やはり「表現の幅」と「演奏される場」との兼ね合いということでもありましょうか。

寒くなると何故か、シューベルトを聴くことが増えるのですが、ト長調ソナタは好きな作品の一つで、特にフィナーレは彼のソナタのそれの中では最も優れたものに感じます。
最晩年の、ベートーヴェンを意識した「肩肘張った」感もあるフィナーレと異なり、ハイドンから受け継いだかのようなユーモアがここにはあります。(マーラーが「第5」のフィナーレに使った自作の滑稽な歌曲「高邁なる知性への讃歌(Lob des hohen Verstandes)」で、このフィナーレからはっきりとした「引用」をしています。)
コーダで、一拍ずらされたドローンが響き、右手が徐々に高みへ昇っていくのですが、予想される主和音の強打はやって来ず、思いもかけず主題の冒頭が高音域で現れ、それがまるで「中断するだけ」のような結びには「優しいユーモア」が感じられ、彼特有の「いつまでも続く音楽」への指向を微笑みを持って確認させられる瞬間となっています。これを「どう弾くか」は「シューベルト弾き」足り得るか、の試金石のようにも思えますが、ブレンデルについては無論、周知の通りでしょう。(ちなみにグルダが最晩年、自宅のスタジオで「自主録音」した「即興曲 作品90」などを最近聴きましたが=ハイドンの件はともかく=彼がこれと向き合って「無事、生還したことに安堵した」というだけのことはある、素晴らしいものでした。彼がシューベルトをあまりやらなかったのは「それなりの理由」があったようです。)
仰る通り、シューベルトの早世は本当に惜しんでも余りある事で、既に何かが「飽和状態」に達していたモーツァルトと違い、「もっと生きていたら」と、様々な夢想にかられる所です。


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高邁なる知性への讃歌 (pfaelzerwein)
2006-11-26 09:14:33
上方落語の「緊張と解放」を謳った故桂枝雀ではないですが、あの常道曲風のロンドから最後の落ちへの運びは、主題と楽想の入れ替えと共に大変見事ですね。

そして、ブレンデルの演奏も嘗てはシューベルトでもベートーヴェン風で一世を風靡してそのように評価されたのを覚えています。そして、今ハイドンとのプログラムでこれを弾いているのです。

歌曲「高邁なる知性への讃歌」のナイチンゲールとカッコーの歌合戦の歌詞を確認してその「結果」と引用を見ると驚きです。五番のフィナーレへの声明にもなっていますね。そして、このコンサートプログラムへの解説にもなっているようで、まさかと思わせます。

ついでに本日、車の中でのラジオでモーツァルトのレクイエムのブラインド聴き比べをやっていましたが、そこである出場者は「作曲家は、マンハイムでメサイアを初めて聴いて退屈したのが、晩年はそしてここでもそこからの影響が強く表れている」と。

グルダの自主録音の音質はなぜか悪いようですが評判は良いですね。その事情を聞いてもなぜかなと不思議なのですが、「それなりの理由」のシューベルトまであるとなると、ますます解らなくなります。

ハイドンにおけるピアノフォルテでは、とても機構的に不可能に近いように思えてしまいます。確かにアットホームな宮殿の小さめのホールならば同じことを伝えるのは可能かとも想像出来ます。しかしCD録音等では、まだ残念ながら其れを確認出来ていません。古楽器の交響曲も可能なのでしょうが、フィルハーモニアやコンセルトヘボーのようにはなかなかいかないですね。

ブレンデルのハイドンはかなり古いエアーチェック録音とここ数年の変化(CDは未聴)を聴きますと、徹頭徹尾収まりが良くなって来ています。謂わば、無駄な音が無くなったかの様に、まるでヴェーベルンの曲のようになって来ております。本人もここまでハイドンを弾けるとは考えていなかったのではないかと思うほどです。演奏会の仕上げ具合からして、モーツァルテウムかどこかで合間に録音しているのではないかと思われます。まあ、打鍵上の少々の傷は問題なく修正出来ますし。

ハイドンについては「まだまだ語るべき事」はありそうで、興味深いです。
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