Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「デキる係長」の考え

2019-02-27 | SNS・BLOG研究
本日も暖かかった。パンツを脱いで走れた。それでも明け方は放射冷却で布団の中が寒かった。ここ暫く暖房を消している。昼の温もりを最大限利用している。ワイン街道は日差しが強いのがいい。

昨晩夕食前に指揮者ロート氏のガーディナン紙へのインタヴューの一部を引用して提示した。高級紙にしては通常の紙面らしくどんな音楽をどのように聞いているなどつまらない質問をしているが。一つだけいい質問をしていて、クラシックコンサートの改善点を一つというものだ。それに対して、「コンサートの開かれる時間と場所」と答えている。私などは彼の指揮で通常のコンサートそれも本来ならばギーレン指揮の筈が引退したのでメッツマッハーが振ったマーラーの六番のあとに無料でレートナイトを聞かせて貰ったのを思い出す。

それが付け足しの作品ではなくて二三年で最も成功した新曲としてハース作曲の数台のハーフトーンに調律されたピアノのための協奏曲となかなか手の込んだ演奏を始めたのだった。その後もレートナイトが最後だったが、確かにこの指揮者のプロジェクトでは普通のものよりもこうしたものの方が面白かった。要するにクラシックな作曲や様式ながらコンヴェンチョナルな作品ではないということになる。その点に関してはもう少しブレーンストーミングする必要があると思うが、具体的に休憩をはさむ必要もなく一時間でもよいと答えている。要するに自由自在で、今までの現代音楽コンサートを超えてということだろう。

その他では、この半世紀の作曲された最も価値のある曲としてレポーンを挙げたのは、フランス人としてブーレーズに近づいた人物としてはそれでいいのかもしれない。またタイムマシーンの目的地として20世紀初頭のなんでもありのパリを選んでいた。まあ、カラオケで歌う曲がエディットピアフの愛の賛歌で、スティングのアルバムが最初に買ったアルバムで、最後に買ったCDがブーレーズ指揮のマーラーの九番などはどちらでもよいだろうか。但しこの指揮者が今おかれている位置などがよく分かる。正直最後のフライブルクでのコンサートから暫く冷や飯を食わされるかと思ったが予想よりも早く脚光を浴びるようなところに近づいてきている。

通称「デキる係長」の風呂場の鼻歌を思い浮かべるよりも肝心な本題について頭を巡らせながら、台所に立っているとタブレットで音がするので、まさか数分のうちに反応してこないだろうとは思った。もしそうならば私よりも完全に暇人である。売れっ子の指揮者でそれはありえない。やはりそうではなかったが、起床すると夜中に一時間遅い英国からいいねが入っていた。オルドバラのスネープでの演奏会でもあったのだろう ― 私も忙しいので調べるのも面倒になっている。しかし、通常の情報ではなく恐らく係長のプロジェクトとしていつも考えていることなのだろうから一人にでも多く訴え掛けたいだろう。たとえ高級紙で話してもそれに本気で耳を傾ける興行師などはいない。精々音楽祭や、近場で言えばバーデンバーデンの新体制などで、ブーレーズの家構想ぐらいで議題に上がってくるプロジェクトである。フォロワーが二十人ほどのところで気の毒だと思った。

しかし分からないもので、フォロワーの数など以上に情報が必要なところに届けばよいので、何もマスに届く必要などは無い。実際のどのような経路でどのような人が見るかは分からないのだが、やはりその内容からターゲットへ自ずと届くというのはあるようだ。「音楽の友」のオペラ劇場ベストテンのリストが日本語しかなかったのでアドレスをリスト番号順に入れておいたら、不思議なことにドイツ語圏からばかり反応があった、元記事はトップのミュンヘンで英語で書いてあったにも拘らずである。せめて四位のコヴェントガーデンや七位のウンターデンリンデンぐらいからは来ても良いと思った。十位のチュッリッヒは不本意かも知れなかったが反応があり、二位のメトや三位のヴィーンはもっと不本意だったのだろうか。要するにミュンヘンのサイトをよく監視しているのは「チュッリッヒ」と「ゼンムパーオパー」なのかもしれない。

そのゼムパーオパーがいいねをしてから「ダンケシェーン」を書いてくるまでに数時間掛かっていた。十分に呟きをスクロールされた可能性がある。情報たっぷりだからついついリンクを読んでしまうものもある。ティーレマン関連はもはやこうした担当者はザルツブルクの方での私のコメントを目をしているだろからどこかで関連に気が付いただろう。どんでもなく危ないサイトである。寧ろ、ジルフェスタ―コンツェルトのメスト推しに気が付いて、ブロムシュテット爺の講話をついつい見てしまったのではなかろうか。

ブロムシュテットと言えば偶然にまた一つの演奏会の日程が目に入った。ハイティンク指揮のコンサート同様に行くつもりなどはなかったのだがどうしようかとカレンダーを見るようになっている。その対抗馬になっているのはケント・ナガノとロート指揮の演奏会だ。



参照:
Facing the music: François-Xavier Roth, The Guardian, Mon 30 May 2016
こまめなSNS生活 2019-02-12 | SNS・BLOG研究
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
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こまめなSNS生活

2019-02-12 | SNS・BLOG研究
バイエルンの放送局で放送された「ヴァルキューレ」の批評が出ている。そもそもラトルがなぜこの曲を振りたがるか分からないと、皆と同じことを言う。実際に散らかし放題で、管弦楽ばかりに拘って、歌はやらせ放題だと批判される。我々サイモン・ラトルファンからすると今更と思い、放送管弦楽団がこのようなプロジェクトに公共料金を払う意味が問われる ― それどころか映像も放映され、「指輪」プロジェクトは新ホールに持ち越されるというから恐ろしい。

一幕や三幕のハイライトに差し掛かると前のめりになり、こうしたコンサート形式の上演に、交響楽団に求められる精度に至ることが無く、お手本のペトレンコ指揮座付管弦楽団に及ばないとされる。歌手陣においても二幕で僅かしか歌わないクールマンのそれ比するだけのものはなかったとされる。

管弦楽団の楽器群がその行先を失っているのが、そのアインザッツ同様に総奏でも聞かれたたとされる。そこまで書くならば、なぜこの交響楽団がこうなっているかについて少なくとも示唆すべきだ。この書き手の名前は憶えがあるが、突込みが足りない。

客演ということはあるが、ラトルの指揮は当然のことながらしっかりしている。歌手が途方に暮れて歌い難くとも、管弦楽団はアンサムブルがしっかりしていればベルリンのフィルハーモニカーとまではいわないまでもそこそこの演奏が出来て当然なのである。

昨年引いた新しいネット回線が止められている。それどころか違う回線の電話も閉鎖されている。原因は、全て独テレコムにあって、どうも新回線の銀行引き落としが出来ていなかったようだ。警告書が届いて初めて気が付いた。だから先週の木曜日頃に引き落としの同意書をボンの本局に送ったが、処理できていないのだろう。いつものことながら請求書とその回線閉鎖で顧客の善良な市民を怒らす。それしか回線がないならば困るが、ラディオ放送ぐらいは古い回線でも録音できると思うので構わない。順番待ちまでしてテレフォンセンターで苦情するつもりもない。先ずは様子を見よう。そもそも関係の無い電話回線を止めて、問題の回線を活かしていることがおかしい。使い勝手が悪いのは新回線に合わせたNASストレージにしているからそれを使うにはいちいち切り替えなければなにも記録できないことだ。

日曜日はオランダからの放送があった。それを紹介して、特にそこでのコンセルトヘボーでの「英雄の生涯」は期待していた。なぜかというと、日本でも活躍していた指揮のロート氏は元手兵だったSWF放送管弦楽団で全集を録音していて、その紹介に放送で語っていたからだ。それによると「カラヤンやティーレマン指揮の湯船の鼻歌は間違いだ」という意見で、それは間違いなく正しい。それでもあのコンセルトヘボーでどれほどSWFのようなシャープな演奏が可能かどうかが疑問で、聞いてみたかった。それでも前半のエマールの「皇帝」などちっとも聴きたくもないものがあって、適当に考えていたら、またまた指揮者のロート氏が登場した。放送は一月末の録音なので恐らく本日ケルンでの演奏会もあってケルン近郊の自宅にいたのだと思う。前回「ディゾルターテン」でいいねを貰った時も同じような状況だった。この人も私の呟きファンではないかと思うぐらいだ。フライブルクに住んでいたぐらいだからプファルツにも一定の印象を持っている人かもしれない。

そこまでは普通で、更にリツイートしてくれたお蔭で、情報が不完全で更なるスレッドを開けないと分からなかったのだろう、フランスのおばさんが「今日か?何時?」と尋ねてきた。放っておいてもよいのだが、ロート氏本人にも質問していることになって、こちらも言いだしっぺなので、急いで14時と答えておいた。暫くすると恐らくそのコンサートに出かけていたオランダの親爺が14時15分だと正確な時刻を書き添えた。調べて分かっていたが、いつもその放送を聴いているのではないので餅は餅屋の情報で助かった。

演奏は案の定「皇帝」はあまり聴く価値もないばかりか、良くもこのピアニストをインレジデンス演奏家に選んだなと、この楽団の人選などはいったいどういう組織でやっているのだろうと改めて思った。お待ちかねの「英雄の生涯」は中々面白かった。やはりああいう風に演奏することで楽劇と交響詩との間にある創作過程の端々を知ることが可能となる。

それなりに満足していると、先ほどのオランダ親爺がグレートコンサートと書き込みをしてきた。いいねだけは二つ付けておいたが、暫くしてからロート氏がそれまでリツィートしていた。結構熱心にSNS活動をしている人だと分かる。コンセルトヘボーも後任探しがまだ決定していないのだろうから、客演する人は皆色気を持つのは当然だろう。少なくとも打診ぐらいは受けたいと思うのが人の常だ。当然地元で熱烈に応援してくれる人は力になる。一時のメディア戦略によるマスの時代がこの業界では異例で、コツコツとどぶ板選挙のような活動をするのが大切である。



参照:
音が鳴り響く環境の考査 2015-04-01 | 音
広島訪問と米日関係のあや 2016-05-16 | 歴史・時事
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一流の催し物の周辺

2019-02-10 | SNS・BLOG研究
日本からの呟きを見ていたら消去されていた。理由は法律に抵触するのでドイツでアカウントが消去されたというものだ。内容はそれ程のものではなかったと思うが、アカウント名からしてクライズライターと恐らくナチか東独の社会統一党でしか使われない言葉を名乗っており、そのアイコンを見るとなんと総統らしき写真が載っている。勿論ドイツ国内では禁止どころか訴追されかねないが、更に怖いのはユダヤ人組織である。日本でも有名になったヴィーゼンタールセンターなどを筆頭にそれこそモサドまでが世界中に網を張っている。マンの「ファウストュス博士」の人物像ではないが呵責容赦ない追求である ― 私のような横着な人間でも確認したが敢えて写真の部分は消す。そんなものを晒しても誰も喜ばない。

そもそもその手の連中が何を呟こうが無知を曝け出しているようなもので耳を傾けるに値しないのだが、無知が無知を呼ぶような構造がSNSの世界で、ホワイトハウスからの呟きが最もその頂点にいるかと思うと殆ど正夢だろうかと頬を抓らなければいけない。それにしてもそもそもああしたカウント名を付けて何を主張したいのだろうか?タブー破りの面白さなのか、ちっとも面白くないのである。とても趣味が悪く幼稚なだけである。誰も見たくはない。要するに黒いコートを羽織った露出狂のオヤジと変わらない。

特に芸術、更に音楽関連などになるとユダヤ系の人の活躍無しには一流の催し物は成り立たない。何が言いたいかと言えば、無関係であるからなどと言えるのは余程の鎖国された島国の人か孤立している人なのだが、そういう人種に限ってこうした無配慮な言動が目立つのである。所謂スピナーと呼ばれる人種だろうか。

先日車中のラディオで、シナのドイツ企業買占めの話しが出ていた。ドイツ工業協会理事の声明だと思ったが、同時に本国の景気の鈍化からそもそも買占め数が減ってきているというのである。恐らくその方が正しいのだろうが、そもそも生産拠点や貿易の問題ではなく、技術への興味から盛んな買占めに走っていた訳だから、技術さえ移転してしまえばあとはお払い箱である。そうしたことから寧ろ社会的にはシナへのアレルギーはまだ今後広がるのではなかろうか。

先日のヴァイオリニストのカプサンではないが反応が思わぬところから来ると、どうしようかなと思っているストリーミングプログラムも紹介した責任で聴かなければと思うことが少なくない。メトからの中継は、「青髭」と「イランタ」を組み合わせたプログラムで、最初に後者を未知のソニア・ヨンツェヴァの歌で聴きたかった。四月には一月のメトに続いてバーデンバーデンでデズデモーナを歌うからだ。そもそもMeTooガッティ指揮だから券を購入していなかったが、メータ指揮で歌うことになり興味津々だ。それもチャイコフスキーのオペラとなると嘗て大屋政子プロデュースで食中り状態のロシアオペラをこの辺りで正常に戻したいのだ。メトデビューの指揮者は先ごろまでペトレンコの後々任としてコーミッシェオパーで振っていたナナーシという名のある人だ。勿論この二作品の組み合わせと後半の「青髭」をフィンレーが歌うとなっては外せない生中継である。そのように紹介したら本番前にフィンレーがいいねをしてきた。もう殆ど私の呟きのファンではないかと思わせる。番組は風邪気味とアナウンスのあったヨンツェヴァなどで無事始まって、それを聴いて録音する価値はあったと喜んでいると、休憩時間にそのフィンレーとイディト役のドイツ人のデノーケという歌手が出てきていた。

私などはメトからの中継もNHKで殆ど聞いたことが無く、今のようなこのライヴ感覚は夢のようにしか思えない。それだけでなく実際にインターアクティヴな関係が築かれるとすれば、考え方を変えなければ話しにならなくなってきている。なるほど日本などの地理的にも島国にいることからすればニューヨークは一寸異なるのかもしれないが、ここからすれば海の向こう側で時差六時間はそれほど遠くはない。

そして「青髭」の管弦楽が良く鳴っていて、指揮者の実力もあるのかもしれないが驚くほどである。なるほど監督のネゼサガンが振ればこれぐらいはと思うが、これだけ座付楽団が鳴らせるところは無いと思った。やはり監督が言うようにメトが世界一の座付で、フラデルフィアは世界一の管弦楽団というのもそれほど間違ってはいない。そしてお待ちかねのフィンレーの歌はハンガリー語のニュアンスは評価できないがとても良かった。所謂銭をとれる歌手で、まだまだキャリアーも相当するギャラも上るかもしれない。そして相手役も全然悪くはなかった。この辺りがメトの実力でそれが次から次への演目でそれぐらいの歌手が続いている。ロンドンのコヴェントガーデン劇場とは違うのは当たり前かもしれないが、これがオペラの殿堂だ。



参照:
「ナチは出て行け」の呟き 2019-02-07 | マスメディア批評
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
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リツイートされた影響

2018-05-14 | SNS・BLOG研究
晩の予定が変わった。フランソワ・サヴィエル・ロートさんからの接触があったからだ。氏は、日本でも有名な指揮者のようだが、私にはなによりも同士である。SWF管弦楽団を一緒に見送ったおくり人仲間である。今回は19時からのケルンの劇場からの中継録音放送を私が紹介したのに対して一時間以内に反応してくれた。そもそもそれ自体をインターナショナルなアカウントで紹介せずに日本語の方で紹介したのは、その公演の質に懐疑を持っていたからだ。片方の方は業界関係者の目に留まり易く、ある意味吟味してある。しかし日本語の方は、所謂まとめサイトにも紹介されていなかった放送だったようなので軽い気持ちで紹介しただけである。他のことを調べていて偶々遭遇しただけだった。だから紹介しておきながら腰を下ろして放送を聞くかどうかも決まっていなかった。ブラームスのお勉強があったからだ。

しかし、指揮者が紹介したいほどの録音となるとこれは聞き逃せない。正直な話し、放送管弦楽団からケルンのオペラ劇場に否応無く移って不満もあるだろうと思っていたので、こうして反応して貰ってお元気でよかったと思った。なるほど著名な中堅指揮者で各地の音楽祭でも様々な楽団を指揮して活躍していて、草っているのではないことは知っていたが、ルツェルンにおいても態々出かけるほどの気持ちは湧かなかった。理由はやはりあの頃の新曲などをセンス良く捌いていく手腕をなによリも評価しているからだ。

そういう事情で楽譜も無く、録音の音飛びがしないようにPCに触らないように食後にタブレットを手にソファーで寝そべって流していただけだが、予想以上に綺麗に鳴っていて驚いた。初日に拘わらずここまで仕上げる腕は大したものである。そして何よりも軽やかに美しく鳴る。ペトレンコの名演におけるその密度の高い響きが本当に正しいのか、このように鳴るのが正しいのかは、恐らく多極的な側面におけるアシスタント指揮を使った箇所での鳴りでは、敢えて詰めていない作曲の意図もあっただろうから、必ずしもペトレンコの「偶然性の厳密さ」は不必要な部分もあるだろう ― これは詳しく見ると、一概に多極化の中でも統一的な音空間を前提とすると、美学としての偶然性とはここでは異なる概念である、乃ちその響きの蓋然性。その反面ロート氏はある意味硬派であり、カラヤンやティーレマンに代表されるリヒャルト・シュトラウス演奏を公然と「湯船の鼻歌」と批判している位なのだが、基本的にはフランス的な響きを作る指揮者で緩い面もあり、それが新曲を美しく聞きやすい音楽にしている。

また、意外にも歌手のドイツ語などが美しく、これならば必ずしもミュンヘンの演出もバーバラ・ハニンガンに再演して貰う必要はないと気が付いた。これも大収穫で、ペトレンコは再演することはないだろうが、是非後任のヤロウスキー監督に指揮して貰いたくなった。リームとの組み合わせなどとても期待される。何はともあれ早速ロート氏のフォロワーになっておいたので、その活動も追える。土曜日は翌日の本番前の完全休養日だったのだろうか。放送終了時に公演の日程に触れていたので早速覗くと通常のネットでは売り切れていた。ケルンの劇場は車で行くとケルン南の渋滞があってボンのようには気軽に走れない。だから距離的には30分ほどの次の町には違いないのだが、片道で一時間ほど余分に時間が掛かる。ミュンヘンとあまり変わらないとなるとやはり厳しい。

氏の呟きを見ると、ベルリンの新プログラム発表に合わせて、再びの招聘を光栄に思うと書いてあって、その素直な気持ちと同時に、新体制の中で一定のレパートリーに関する奨励があるのかなとも思う。ベルリンのようなもはや古風となった交響楽団でどんな新曲でも馴染みやすく一筆書きの様に響かしてくれる指揮者はとても貴重である。今後バーデンバーデンなどでもブーレーズだけでなく、新しい曲を演奏する機会などがあれば、必ずしもペトレンコが指揮する必要もないので、登場する可能性もあるのではなかろうか。

それにしても一応スター指揮者と呼ばれるのかフォロワー数も多いのだが、自身が書き込んでいるものが少ない一方、そのリツィートも自身がやるしかないというほどのなかなか絶妙な選択だが、意外にフォロワーの反応が鈍い。公演の「ディ・ゾルダーテン」は完売していると言っても定期とそれに加えてという程度で、やはりべルント・アロイス・ツィンマーマンの人気などはその程度だろう。ギュンター・ヴァントの敵討ちとして初めて現音楽監督ロートが再公演に成功して雪辱を果たしたが、その関心は一定の域を超えないのかもしれない。また歴史的にマンハイムの劇場の方が上かと思っていたが、今回の演奏を聞くとその人口の多さに比例して、ケルンの響きやアンセムブルは到底マンハイムでは不可能なものだった。連邦共和国の上位四劇場は誰も異論はなく、シュトッツガルト、フランクフルト、ライプチッヒなどを含む、第五位から第十位までは順不同になりそうだ。辛うじてマンハイムは歴史的にも入るとは思うのだが。
Oper Köln – DIE SOLDATEN von Bernd Alois Zimmermann




参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
デジタル演奏会の品定め 2016-09-21 | マスメディア批評
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隠されている問題

2018-04-19 | SNS・BLOG研究
比較的早い時間に走った。折り返し点で汗を掻いた。陽射しが充分だ。まだまだ本調子ではないのだが、前夜も煮豚のスープにニンニクとショウガをおろして、コラーゲンラーメンとしたので満腹度以上に効果があった。気管支の炎症も治まって来ていて、木曜日でのオペラ公演中の鼻水と咳は何とか抑えられるかもしれない。しかし、のど飴だけは忘れてはならない。

そのような塩梅で「ポッペアの戴冠」を水曜日中に最後まで通しておかなければいけない。天気が良く摂氏27度ほどまで上がりそうで、Tシャツの生活が始まった。まだ風が冷たいので半ズボンは必要が無いが、気持ちの良い季節になった。そのお陰で窓を開け放って仕事することになる。すると流石に市の役所前に住んでいるので町が騒がしい。週末にも反対側のシャンペン工場でお祭り騒ぎの喧しい音楽が流れていた。あれは音楽というよりもただのリズムボックスの野蛮なものでしかない。今回ノイズキャンセリングのイヤーフォーンを購入する心算なので、自宅でもワイン祭りの時にどれぐらい効果があるのかと旅行時以外の使用の可能性に気が付いた。あのリズムボックスと喧噪がどれぐらいキャンセルされるのだろう。キャンセルされて圧迫感があると生活にならないので適当に音楽を聞けるぐらいの感じが良い。高等な耳栓替わりである。

ネットで様々な音楽に関する話題が飛び交っている。エルブフィルハーモニーでのカーネギー公演への壮行演奏会のクリップが上がった。最初に上がった時には二時間もしないうちに消去された。どこが問題だったのかは調べると分かった。見出しのテロップの演奏会の期日が23日のところが24日と間違っていたのだった。その映像の鮮烈さと座付き管弦楽団らしくない分析的な響きが聞ける貴重なヴィデオである。会場が違い、管弦楽団の並び方も違い、楽員がお互いに目が効くので、全く違う指揮捌きと演奏が出来たと話題の演奏会であった。なるほどこの鳴り方は今までこの座付き管弦楽団が経験したことが無いアンサムブルとなったことが分かる響きである。一体地元のハムブルクの管弦楽団はどんな響きを奏でているのだろう?
Kirill Petrenko and the Bayerisches Staatsorchester: Tschaikowsky's Manfred Symphony (Clip)


日本の音楽評論家と名乗る教授がお話しにならない音楽会の感想を書いている。益々日本人の教養や学術的な程度が落ちてきているのを感じさせる。吉田秀和の文化勲章でさえ可成りスキャンダルなものだと思うが、まだ彼の場合は自身はただの物書きだと自己弁護していたので救いようがあったが、少なくとも学問をする者が非科学的な思考でなぐり書きをしているのが日本の文化で芸術の程度である。

しかし、フランスでもドイツでも音楽芸術特にオペラ上演に関してはあまりその程度は変わらない。フランス人でヴァンダラーと名乗る人の書いたもので分るのだが、特に注目したのは「バーデンバーデンの聴衆」について触れた部分だ。その聴衆の質で容易にザルツブルクと比較されているが、なるほど夏や復活祭の音楽祭とバーデンバーデンの都市圏の地元民とは大分違う。

しかしここにもう一つの問題が隠されていて、それは日本からの聴衆が経験したことと共通していて初日以降のこのフランス人の経験した聖金曜日と最終の復活の日曜の上演などは初日の地元の人たちは殆ど居らず、もしいるとすればバーデンバーデン周辺で地元の無関心層に捌いたようなティケットを安く購入した人が多かったと思われる。それは初日でも第一幕が終わってからザイテンバルコンのみならず正面のバルコンからも人が沢山消えた現象が物語っていた。経済的には成り立っているようだが、有効入場者数には幾らかの偽りがある感じさえするのである。

La question des productions de Baden-Baden se pose à plusieurs niveaux, aussi bien artistiques qu’économiques et sociologiques. Le public du Festival de Baden-Baden est moins habitué que celui de Salzbourg aux productions un peu décoiffantes.

もう一つの問題として、今シーズンで勇退するメーリッヒ・ツェブホイザー支配人の責任について触れているが、これはある意味正しいのだが、つまらない演出に金を掛けるぐらいならば適当にした方が良いだろうという言い訳も成り立つ。大問題はその芸術的コンセプトを描くことの出来るような人物ではなくて、なにはともあれ破産した劇場を今後の可能性を期待出来るほどまでに経済的に立て直した功労を語るべき人物である。

Enfin au niveau artistique, l’énormité du théâtre et du plateau déterminent des choix, mais le directeur artistique, Andreas Mölich-Zebhauser qui n’a jamais été trop intéressé par la question scénique. Baden-Baden est un Festival d ‘ « events » où les mises en scènes trop problématiques ou idéologiques ne semblent pas trop bienvenues.

その他のアコースティックやラトルのオペラ指揮に関しては態々触れるまでもないことだが、結局ヴァークナーの音楽劇場作品に関してはそもそも音楽劇場効果を期待していく人間の方に落ち度がある。本当にその効果を信じている人が居るのが不思議でたまらないのである。セリフ芝居を音楽劇場と比較すれば一目瞭然であるが、どうしてこうもヴァークナー愛好家はなんとも非理知的なのだろうと感じるだけだ。要するに音楽だけでなくて劇場空間もよく理解出来ていない人たちなのだ。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評




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Digitalisierung ändert Alles!?

2017-09-08 | SNS・BLOG研究
文化や芸術については書いても、殆んど政治については語らない。それでも総選挙も近づいてきたことであり、最新の世論調査と新聞記事を読んで一言。最も興味深いのは、難民大量流入問題以前の状況に戻ってメルケル首相の人気が復活したことだろう。その背景には、ハンガリーのオーバン首相やオーストリアの右翼やトルコのエルドアン独裁の様な悪い連中のお陰がある。メルケル首相は女性的な狡さで天才的な政治をしているように思えてきた。

そして国民の主要話題は、お天気だけでなくて、トラムプ、難民、トルコ問題、ディーゼル、アンゲラ・メルケルと四年前よりもより政治的になっているというが ― 実際政治談議ではなくてもこの辺りの話題は立ち話に上るようになっているが、それは身近な切羽詰まった問題であるよりもTVワイドショー的な世間話しでしかない。

それでも数少ないSPD支持者の中では、社会の公平、若い子育て世代への政策、年金と所謂社会民主的な政策も期待される。しかしリアル政治の中では、ドイツ経済の景気とか社会の全体の楽天的な気分の方が大切なので、誰もSPD政権に期待していない。実際に自由党と緑の党の所謂ジャマイカ連立政権となるのかどうかは分からないが、メルケル政権への支持は揺ぎ無いようだ。経済に関してもマイナス金利から正常化へとソフトランディングへと向けて動いているだけで、なにも自由党がそこに必要ではないだろう。

そもそも大連立の第二党には勝目が無いのだが、それ故に新たな候補を立てて、旗手回生を狙ったようだが、SPDの長期低落傾向の中ではシュレーダー前首相程度の余程の人物が出てこないと政権は狙えないということだろう。兎に角TV討論会なども生温くと書いてあるので、結局はシュレーダー、メルケルの討論やその後のZDF攻撃などの闘争は全くないということだ。

面白いのは、極東へと向かったピアニストのイゴール・レヴィットがトランジットのバンコックまでの隣席の空いている飛行機内でも「一体誰がFDPを選択するのだ」と呟いていて、そうなると緑の党はどうしても連立に入らなければいけないということになる。FDPだけならば詰まらない政策も出てくるかもしれないが、AfDよりも弱い緑の党でもそこに入るとやはり違うだろう。AfDに対して「ナチス」と攻撃して、流石に考えたのか、その反対は、「左翼のいい人」ではなくて「普通の思慮深い人」というのを取り上げている。そもそも彼が左翼であることは了解しているが、ソヴィエト出身の人間としてはメルケル首相と同じく左翼党の支持者であるわけがない。

そして、「I Am Not Your Negro」を五回も見たとして、再びAfDに今度は静かに批判する投稿を扱って、ジェームス・ボールドウィンに言及する。勿論その背景には合衆国における時事があるのだが、私がAfDへの立場を表明したのと同じように「奴らの言動」に対する激しい気持ちがそこから浮かび上がってくる。正しく、自らが命題を述べるまでも無く、引用によってそれ以上に大きな表現が可能になるというとても芸術的な表明となっている。流石に一流のまだ若い芸術家の表現である。

I Am Not Your Negro Official Trailer 1 (2016) - James Baldwin Documentary



参照:
Twitter.com/pfaelzerwein
IfD Allensbach
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
レヴィットのルジェスキー 2017-08-29 | 音
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逃げ足の速いモンサント社

2016-03-07 | SNS・BLOG研究
住友化学の殺虫剤禍の続報である。ネット検索では、メインサイトのgooでは再び検索基準を厳しくしているのに気が付いた人がいるかもしれない。マニュアルで検索基準を弄る情報操作がサイト側で行われている証拠である。そのジカ騒動と住友の責任の学術的な証明はある程度の時間が掛かり、その情報の確かさが吟味されるのは時間が掛かるであろう。しかしそこに面白い動きがある、そしてそれを伝えておくことは情報の吟味以上に重要と考える。

その情報によると、親会社とされたモンサント社は「住友化学は子会社ではなく、只ライセンス契約を結んでいるだけだ」と説明して、件の「ピリプロキシフェンに関してはそのライセンス契約とは関係なく、住友化学独自の製品であり、モンサントは一切関与していない」との報道である。

これを聞いて、東芝やウエスティングハウス社やGE社との原発プラントの製造責任問題を思い出す人は少なくないだろう。要するに世界市場において二流の日本の大企業がどのようなことになっているか、その顛末はまさしく日本の経済力の世界での低下と合衆国との関係において落ち着くところに落ち着くという良い例示である。

このようなモンサント社の逃げ足の速さを見ると、今回のジカヴィールス騒動の顛末が余計に気になるところなのである。そして、第一報を出していない日本の報道機関は、当然ながらこうしたモンサント社の声明をも伝えることはないのである。これが今の日本の経済であり社会なのである。

そのようなことを考えるにつけ、合衆国大統領候補トラムプ氏が益々支持を得てきていることにも理解が得られやすくなる。合衆国の在り方が問われているのである。一方でここまでサンダース候補が選挙戦を戦っているのも同じような背景があるのに違いない。このような産業構造の中で、TTPなどによって日本の市場を開放しても、もはやどれほどの経済効果を一般の国民が享受できるかといえばとても疑問だからである。クリントン候補などの政策によって、その恩恵を受けることは難しいと多くの合衆国市民が感じるようになってきたからであろう。当然のことであり、トリクルダウンなどというような幻想を持てなくなってきているからである。

指揮者のニコラウス・アーノンクール死去のニュースが入っている。死因は書いていないが、二年以上前から引退興行を計画していたので、癌に違いないだろう。一昨年のベルリンでのサヨナラ公演の時にも回想したが、個人的にはザルツブルクでの「ポッペア」の上演に尽きる。その時に初めて古楽器でも大劇場を響かすことを経験したのだった。その意味からはパイオニアには違いないが、同じモンテヴェルディのオペラにしても既に後継のルネ・ヤコブス指揮が音楽的に評価されていたのでそれ以上の成果とはならなかった。ヴィーンに本拠を構えたこととも関係するかもしれないがどことなくローカルな印象は免れなかった。録音においてはインターナショナルな成功を収めたものの今振り返ってその成果を見るとオペラではキャシーバーベリアンとのモンテヴェルディとチューリッヒでの「イドメネオ」、そしていくつかのバロック録音以上の成功作は見当たらない。そのモーツァルトにおいても新奇性を超えて表現として卓越したところまでは至らなかったというか、最初からなにかボタンの掛け違いのようなものがあったのではないだろうか?兎に角パイオニアとして活躍したからこそのその後の成果が生まれてきたことが何よりもの芸術的な価値ではなかっただろうか。



参照:
ジカ熱被害の住友化学の責任 2016-02-17 | マスメディア批評
都合の悪い真実を窺う 2016-02-23 | 雑感
成果を挙げて摩耗する 2014-11-14 | 生活
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席次次第ではない味

2015-03-28 | SNS・BLOG研究
2013年産シャルタヴァインを開けた。久しぶりなのでその変化に驚いた。もともと酸が大変効いていながら、樽で寝かしてあったので、秋にはとてもよい感じで楽しめたリースリングだった。その分、その背後にあるミネラルや素性が見えにくかったのかもしれない。そして、ここにきて酸は決して丸くはなっていないのだが、背後で支えるようになると、とんでもなくおかしな味が出てきているのだ。所謂2013年のスパイシーさの一種で、この場合はどちらかといえば拗ねた印象であまり快適ではない。それでも2013年産の特徴の優れた酸が通っているので、しばらく寝かして瓶熟成をするようになるのが待たれる。明らかにロベルト・ヴァイル醸造所のリースリングは正しい道を歩んでいるが、これだけ味に変化があると通以外は失望するかもしれない。2013年産のスパイシーさはまさにこの特徴にあり、酸が下支えしていることでどれだけ寝かす判断が出来るかどうかが評価の鍵となる。それでもプファルツのそれでも現在明らかに谷に入りつつあるので、飲み頃が難しくなってきている。追加購入しようと思っているので、勝負どころである。2014年産よりも本格派のリースリングになるわけではないが、きっりっと輝く通向きの繊細極まりないリースリングが将来話題になるのは間違いない。

何気なくアクセス数を見ていると、大きな数が混じっていた。5267件の訪問者数で、6559の観覧数であった。通常ならば三倍ぐらいの観覧数になるのだが流石にその様にはなっていなかった。二百十四万件のGooブログの中で29番になっている。長くやっているとスロットマシーン的にこのようなことがあるのだが、流石に二桁はなかった。日蝕であれ何であれ凄い席次である。入学試験模擬試験席次ならば東大の理科三類合格有力である。考えてみればその数からすれば数年前の数分の一の数でしかないだろうから、決して天文学的な数ではない。そもそも席次などは、合理的に目指していけば行き着くところに行きつくのである。それでもやはり一桁となると可成り空気が薄くなりそうだ。



参照:
合わせものの楽しみ 2015-01-27 | 生活
胸がパクパクする運動 2014-11-24 | アウトドーア・環境
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いつものフェードアウト

2014-10-09 | SNS・BLOG研究
久しぶりに一っ走りした。これで何とか不調から抜け出せれるだろうか?先週には短い距離を走ったが立ち入り禁止で距離も時間も走ったうちに入らなかった。それでも今回は峠への中間地点まで走って、12分1975歩とまずまずの走りが出来、車まで走り降りてきたときは十分に汗ばんでいた。

床に就いてから感じたのだが、夏と変わらないまま半袖で半パンツの寝巻きでは体調を壊すのは当然かと感じた。冬の用意をした方が早く体が馴染むかもしれない。季節の変わり目はこの体温調整などが難しくて毎年苦労しているのだ。

そして一汗掻いて、決して気温は高くないのだが午後に窓を開けて清々しい気分になった。あれはやはり一種の風邪引き状態だったのだろうか?十日間以上調子が悪かったことになる。

昔ほどそうした落ち込みの起伏は感じなくなったのであるが、やはり何らかの身体的な調子の悪さで閉じこもり気味になるのだが、客観的に見てあれだけ体調が悪ければ当然というような気もする。なにかと区別に悪い病気でも背負っているような感じである。

久しぶりに体重計ると暫くは見なかった74KG台に太ってしまっている。体調がよければ食欲も出て、食事量も増える傾向にあることを考えれば当然なのであるが、運動から減量を企てている者としてはかぐわしくないのである。

ライヴドーアのrssリーダーが終了になるという。事情は知らないが、blogのみならずsnwの事情が変わってきているのだろう。相変わらずネットでの情報収集も基本はそこに現れるようなサイトの時事ニュース報道であり、決してツィッターのようなものではない。正直ツィッターは使うことがない。その内容も今まで読む内容も殆どなかった。理由は、読みにくく、短く事情説明がなされていなくて、状況が正しく把握できないことに尽きる。

この度、終了のお知らせを受けて他のrssリーダをタブレットとwindowsで試してみた。現時点で使えるのは、前者の一つと、後者のネットヴァイブスと称するものである。前者もライヴドーアのそれよりも使いが悪く、後者も悪い。しかし、今までの使用の慣れがあるので、もう少し使い込んでみないと客観的評価は出来ないかもしれない。表示の方法や選択などの自由が利くものが最も使いよいのだが、兎に角個人のblogのみで660件ほどあるのだから、それを正しく掲示させるだけで大変なのである。

タブレットの方は場所もあるので、既にurlが存在しないものをマニュアルで消去した。既に止めてしまって久しいものもあったが、殆ど忘れているものもあり、気がつかないうちにフェードアウトしたものもあった。しかしその多くは、その投稿内容から、おそらくフェースブックで名を名乗って登場している者、まったくそうした時間がなくてなにも発信していない人、明らかに最初から続きそうになかったものなのが窺い知れた。

おちゃらけで書いていたものもとても真剣に書いていたものも両方ともなかなか続かないものであることは最初から明らかだった。書き方の手引きとして出ていたように、特定のテーマに沿って書き続けているもので残っているものはむしろ希少な存在である。原因は至極当然でどのような職業的な専門について語っても専門的な内容を深めていかない限り、同じことを繰り返すしかないのは授業のクールの作り方と同じだからだろう。



参照:
RSSリーダーを新調する 2009-07-29 | BLOG研究
少し咳き込んでの不安感 2013-02-18 | アウトドーア・環境
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一体どうなっているのか?

2014-05-15 | SNS・BLOG研究
XPを立ち上げるとまたアップデートが出てきた。一体どうなっているのか分らないが、一つはオフィース関連のKB2825635で、もう一つはアンインストール関連のKB890830であった。XPプロもホームも同じようである。いい加減安全を期して自動アップデートを停止しようと思っていたのだが、この調子ならば当分はアップデートが続きそうである。そもそも市場があれば市場にあわせた供給が為されるのが市場経済に違いない。

フクシマ鼻血「風評被害」問題でBLOGを見ていると面白い。やはり、「風評」を叫べば叫ぶほど少なくともネットでは「実害」が話題になり、恐らく広くその実態が世間に知られることになるのだろう。

福一のバイパス放水問題にしてもあまり知られていなかったことを、日本からメールを貰うことで確認する。テプコは、基準値を超えない時点で自己判断して海洋に放水するとしていたが、先日から一部で基準値を超えていたことから結果的に希釈効果で対応すると発表していた。こうした情報も多くの日本人に知らせれば、まともな知能を持った人間ならば誰でもおかしいと思うに違いないのである。しかし汚染の総量規制がない以上基準値以下の汚染は理論的に無尽蔵に出来る法体制になっているのである。

そこで気がつくのが所謂閾値と言う概念で、最終的には科学的であるよりも認知の概念であるのだろうが、それが社会通念というよりも似非科学が関与した洗脳に類するものだと感じさせるのが、低放射線被曝のそれである。そのことはフクシマの鼻血の原因解明の科学的な見地以上に興味深く思った。

永遠の時を把握しないでも - 永遠の垂れ流しのように - その場限りで処理していくことで自らの役目を全うしていると感じるこうした日本人の精神構造や、同じような認知の共同体で生きることで生を全うしていると感じる日本人の精神構造がそのまま日本社会の特異性を示している。

なぜか不思議なことに、米国の主導する核の世界が、こうした日本人の精神構造に適合することになっている。広島・長崎を楯にとって自らの正当性を主張しているとも言われる日本人であるが、その人体実験を含む研究成果の結果を自らの認知として享受していることの不思議さをフクシマ禍に考えずにはいられない。

このように振り返って眺めると、フクシマ禍に関して、新たに気がつくこともある。その一例は、明仁天皇の避難民へのオファーで、「那須の御用邸」を解放しようとしたことである。今そのことを考えれば、宮中においても「那須の無視できない汚染」が共通認識として語られていなかった傍証となっていることである。外交筋とも親密な交流のある宮中においても世界中で知られていた汚染状況すらが共通認識となっていなかった状況をどのように説明すればよいのだろうか?歴史的にもとても興味深い事象であるとともに、それを取り巻く権力の中枢内部を含めて、そこになにか日本の精神構造が反映されているように見えるのである。



参照:
原発の安全神話こそ最大の風評被害 (猫のひとりごと)
世にも奇妙な鼻血の社会 2014-05-13 | 雑感
活性化とは被曝すること 2014-05-11 | アウトドーア・環境
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
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最も著名なブロガーの人格

2013-03-14 | SNS・BLOG研究
先日ラディオ番組でドイツで最も成功しているブロッガーが出演していた。日本などでは衰退が激しいようだが、フェースブックへの拒絶反応があり、そもそも短いツイッターを中途半端と思う向きには今でも根付いているに違いない。

興味深く思ったのは、我々と同じようになにも実名を隠すでもなくブログ上のキャラクターとして存在することの意味を語っていることだった。例えば政治的意見などに対しても、職業や社会的な立場を持った実名の発言ではあまりにその影響が大き過ぎたり、ネットでの発言がそのまま公式な発言として受けとめられる危険性を指摘していた。

これはとても大切な視点であって、社会的な枠組みで発言できないようなことを書き綴れるからこその意味がブログにはあって、もし実名ならばとても慎重にならざるを得ないのは誰にとってもそれほど変わらないであろう。

反面、ポストプライヴァシー社会と言う概念で、ほとんど性的なライフスタイルまでをあからさまにしていくことは、まさしく情報管理された社会におけるネットの活用の重要な意味合いを持ち得るのは明らかなのである。

少し考えてみればわかることであるが、個人情報を一部の為政者に握られたり、フェースブックに代表されるように権力掌握として握られたりするよりも、自らの日常としての情報を公にすることで、そうした個人情報との釣り合いをとる行為となるのだろうか?

その実際例が、公式見解としては出せないような感興や想いなども、そうした管理されて個人情報像を補うどころかそれを超越する人格の全体像ともなりえる訳である。こうして書き綴っていることも、例え社会的な影響などは殆ど無くとも、公式な見解としてならば何一つとして提示できないのであるが、様々な分野において重要な視点を含有しているのみならず、人格像として普段対面している人に示すよりも多くのことを語り掛けていることも自覚しているのである。



参照:
心を揺さぶる貴く強い振る舞い 2011-05-11 | 雑感
環境の一部である全人格的な行い 2011-01-16 | 文化一般
ライカ社のエルンスト二世 2007-03-12 | 雑感
天皇陛下のための硫黄島 2007-02-23 | マスメディア批評
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
敬語の形式 2005-01-27 | 文学・思想
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ジャーナリズムのエコ視線とは

2013-02-01 | SNS・BLOG研究
シーズン33日目は、日曜日のアイスクライミングが呼び水になったのか、冬の間休んでいたアルパイン協会の若手の指導者が顔を見せた。彼は、クライミング専門ではないので試験では六級を合格しているに過ぎない。だから室内練習場でもそれほど登れるわけではないが、休み明けで体が閉まっていなくて、四週間で戻すという。まだまだ若いので可能かもしれないが、我々になると体を締めるのに何シーズンか必要になる。

我々は六級上からが課題だが、身体ならしにまだ登っていなかった六級マイナスを汗掻いて登った。気温が急上昇して、摂氏二ケタ台に登ると寒気を入れるためにドアー開けっ放しにして外気を入れていたが、それでも汗を掻いた。流石に若いパートナーもトップロープながら綺麗にこなして見せた。

その次に上部二分かれしていて未知の左の庇の六級上を登った。二股の分岐点の精査とオヴァーハング越でザイルを掛けるところがポインツであった。天井に辿り着くと、左へと降り気味になるので、ついつい天井桟敷を握ってしまったが、技術的には全く問題なかった。要点はザイルを如何に掛けるかのポジション取りであった。

さて、若い彼はトップロープで何をしたかというと、四つ目のぐらいのカラビナのところでザイルを外せなくなって降りてきた。要するにポジション取りが出来なかったのである。勿論本人の言う通り、リードする場合とフォローする場合ではタイミングが異なるのは当然であるが、ポジションが決まれば全く同じ筈である。

その次は勢いで、三人で技術的な面を試したくて、七級マイナスへと駒を進めた。案の定核心部は。上手にザイルを掛けることができずに、先にかけて試してみた。全部で二か所同じような困難があり、もう少し腰を落としてクラウチング姿勢をとるなりしないと安定しない。技術的な練習が必要である。決して腕力の問題でないことを、御多分に洩れず若い彼も十分に実感していないようだった。だから両方とも完登出来ないのだ。

一晩で三ルートも新規のものをやって、平均の難度も六級を超えているのは素晴らしい。いつもの顔見知りの他所のおやじさん方が、我々の登った後で同じように挑戦をしているのを見るのは愉快だ。競争心を燃え立たせるに十分な登りを見せつけたということになる。こちらは、出来る限り相手にしないような顔をしておきながら、最終的には彼らおやじグループの先を越せたら面白いなとひそかに思っているのだ。

車中のラジオからフラッキング問題などの専門家を集めての座談会が流れていた。内容は十分に聞けなかったが、まさしくこうした文化波の質の高さこそがジャーナリズムの本質であり、民主主義の基本であることを思わざるをえない。特にエコや環境保護などというと、一方ではマルキズムの延長のようなイデオロギーとしか思われず、一方では「専門家」の見解やアングロサクソン諸国の見解を追従した経済戦略を纏めた官公庁のやり方にしか正統性を見いだせない日本の社会のようなところでは、こうした議論の意味が知られていない。

身近な例として、BLOG「NEXT DREAM 記憶と記録」における至近のコメントで寄せられた意見「氷瀑を壊すのはやめてほしい」がとても面白い。六甲山におけるアイスクライミングの対象となっている滝で「氷を壊すな」とのお叱りのコメントである。私見はその反論となんら変わることがないので繰り返さないが、これなどもとても必要な議論の必要不可欠な他者の視座の提示としてとても価値がある勇気あるコメントであり、その行為には敬意を表したい。

勿論我々からすると、思いもつかなかったような視点であり虚をつかれた感じがする。それだからこそ、虚心坦懐に意見を交換してこそ初めて分かる客観像であり ― これを環境認識というのだろう ―、まさしくそこに民主主義の根幹があるだけでなく、所謂科学的な思考というものはそうしたブレーンストリーミングなしには存在しないものなのである。明治維新後に日本人が構築してきた社会や社会観は殆どシナの天下思想とも変わらない既成権益者の権益の安定化にこそはむけられていても、科学的な発展や学術的な構築からは遠く離れていたに過ぎないことは改めて述べるまでもなかろう。

さて滝観の件に関して、それ以前にもコメントしたように、マスメディアがこうした都会近郊にある身近な「冬の風物詩」を社会面記事として出す場合、なぜ見学者に注意を呼びかける必要があるかということを先ず考えて頂きたい。要するに、どのような歴史的社会的な背景がそこにあるにせよ、こうした風物詩の背景にはやはり自然が存在していて、決して町履きで容易に見学できるような観光名所でもないということであり、マスメディアがそれを風物詩として報じるには、少なくとも装備を調えてカメラを携えて見物に訪れる滝観のハイカーと同じように、スポーツアイスクライミングのそれを同時に風物詩として報じなければいけないということでもある。それがそこの現実であり、ジャーナリズムとしての必要最低限の視線であるからだ。

そして、カメラを携えて美しい滝の様子を捉えたいと思うならば少なくとも新聞記者などと同じように朝起きして本気でそこを訪れるか、さもなくば本格的に登山して未知の滝を探さなければいけないのである。そうした努力など失くして何かを得られるという方がおかしく、アイスクライマーにしても朝起きして平日に出かけるほどの努力がなければ目的が叶わない状況は全く変わらない。日本人にはいつまでも馬鹿でいてほしいからこそ、ジャーナリズムを敢えて不在にしているのである。



参照:
1月29日 『関西TVス-パ-ニュ-ス・アンカ-・スポ-ツ・コ-ナ-』七曲滝にて撮影活動
1月23日の『講習企画』 産経新聞社・同行ガイド取材『夕刊記事』 追加情報(1) (NEXT DREAM)
氷瀑を登るアイスクライミングってどう思います? (猫のひとりごと)
壁があるから登るんだ 2012-07-16 | アウトドーア・環境
諸悪の根源ジャーナリズム不在 2013-01-21 | マスメディア批評
全日空不時着のフラッキング 2013-01-17 | テクニック
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容易な人種主義の程度

2012-09-26 | SNS・BLOG研究
BLOG「あるホルン吹きによる音楽の部屋」で面白い話題の記事が紹介されていた。「ドイツの管弦楽団と人種差別」と題するヴェルト紙の記事である。その内容自体は特別に新しいものではないが、今またこうしたことが繰り返し記事になる状況が興味を引いた。

管弦楽楽団員の市場は小さくなるばかりで、その芸術的な意味も益々限定的に縮小して行く社会状況の中で、アジア人と呼ばれる極東からの楽師予備隊の進攻が止まらないからの記事であろう。嘗ては日本人に混じって僅かばかりの極東からの訪問者だったのが、今は音楽際などでも日本人が中心とは限らない様にである。

ベルリンのヴィオラ奏者土屋氏が「余り日本人の顔が増えるのは喜ばれない」と、彼の同僚に日本人が増えるのを危惧していた発言をNHKでしていたのは1970年前半のことだったろうか?それからコンツェルトマイスターも日本人になって、更に朝鮮人などの団員の顔が目立つようになり、そのような穿った見方は否定されてしまったのである。

カーテンの向こうでのオーディションなどの状況を様々に聞き、間近でも優秀な日本の音楽家はそうした壁を軽々と越えて行くのを何件も見ている者にとっては今更何事をとは思わないでも無い。職人的な技能的な能力と俗に言われる音楽性というのは容易に峻別出来るものではないのであるが、そういう文化的な背景を背負っているものがあるからこその文化であり、万が一個人的に知っているようなドレスデンの若い弦楽奏者とシナから来て数年間無料でドイツの音楽学校で修行したものとの差が無いぐらいならば、そのような文化は即破棄してしまった方が良いぐらいである。

非常に微妙な事柄であるのは承知のうえで放言してしまうならば、そうした文化的な価値を含めてずばぬけていることが求められるわけで、自らの文化的な背景をもそこに投影させることが出来ないぐらいものは芸術と呼ぶのもおこがましい。現に放送交響楽団のクスマウル門下の欧州出身の若い女性コンツェルトマイスターリンを辞退した実力は身近でみていても大したものなのである。

本質的な意味で、先ずは自らを鏡でじっくりと見つめるべきなのである。なるほど、一流の芸術家と楽師とはその文化の意味が異なるのかもしれないが、求められているのは芸術性であることに他ならない。

寧ろ、我々納税者にとって気になるのは、そうした無駄な教育システムへの予算の投資と、芸術活動への投資である。管弦楽団などは経済的に全く重要な労働市場ではないので、本当は傭兵のように外国人がその任を負っていてもなんら社会的な影響はない筈である。しかし、管弦楽団とは言えども芸術文化的な継承の意味合いがあるからこそそこに慎重な議論が欠かせないのである。

記事にも出てくるように、「アジア人の予備隊が本気でプロの楽師になる覚悟が出来ているとは思われない」とする意見は正論であり、そもそもこの記事のように人種主義を出せば人の目を引くと思われるような新聞編集の程度が低い。



参照:
Deutsche Orchester und ihr Rassismus-Problem (Die Welt)
文化的な話題と三面記事 2012-06-16 | 文化一般
つまらないには短過ぎる人生 2012-03-19 | 雑感
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フクシマ後の現状認識研究

2012-08-22 | SNS・BLOG研究
独日協会経由で回ってきたアンケートに答えてみよう。フクシマ後の現状認識を研究しているライプツッヒ大学日本学科の学生の研究資料である。

全部で18問あって、ドイツに在住していて日本となんらかの関係のある者に配られているようだ。しかしその基本は質問者のブログ読者となっている。よって誰でも答えられるので、詳しく紹介する。

1. 性別
2. 年齢
3. 国籍

4. どのように日本の原発政策の現状について情報を得ていますか?(複数の会等可)― 新聞ラディオ・TV(ネット配信を含む)・ブログ・公的機関(消費者センターなど)・NPO(グリーンピースなど)・専門書・友人や親戚・情報を取らない

5. フクシマの大惨事は今も変わらず私の身の回りの話題である。― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならない・全く話にならない

6. 原発事故に拘らず日本への旅行は考えられる。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

7. 日本に滞在する場合福島原発に近いので、大都市東京は避ける。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

8. 日本に滞在のとき、友人や家族は健康上の危険性を警告する。 ― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならない・全く話にならない

9. 日本滞在の場合、食料品の出所に注意する。 ― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならない・全く話にならない

10. 日本滞在での健康上の危険は、現在今日フクシマ以前のそれと全く変わらない。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

11. 原子力に纏わるドイツの政治経済関係者による取り巻きは、日本よりも安全だ。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

12. 日本の政府やメディアによる原子力政策に関する情報はあてになる。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

13. 放射能汚染の危険は、福島の管理地域を越えて及んでいる。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

14. 福島第一原発の危険はもはやないのは確実である。 ― 全くその通りである・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

15. 福島原発ゆえに日本の将来を不安に思う。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

16. 福島原発事故は、チェルノブイリのそれよりも過酷なものである。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

17. チェルノブイリの事故で、食料品の購入にその出所に注意を払った。 ― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならなかった・全く話にならない

18. 経験したチェルノブイリや福島で起こった事故については、ドイツの原発はあたらない。 ― 全くその通りである・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない


テプコが、極度に汚染された魚の発見を、会見で語った。河口から一キロほど沖らしい。原因は分っている。汚染の進みが既に検証されている河川に集められた核物質が最終的に河口に流れ込んで、海流で薄まった福一からの直接の汚染と交じり合ったものに違いない。残念ながら川の流れがここでは拡散よりも収斂へと働いたことは確かであり、更に植物連鎖の影響があるとすれば、今後三十年間ほどはとんでもなく汚染された食料品が市場で捌かれるに違いないのである。一年半ほど経ってこうして抜き打ち的な汚染が確認されるのだが、日本国民が皆知っているように、規制や報道などは事後処置としてしか表向きにされないのである。「ピーターと狼」状態は更に加速している。

上の質問者のBLOGに書き込んだ。「あなたは知らなかったのか、311以降日本で信用できる情報源は、IWJを代表とするネットメディアの中継でしかないことを?」と、回答の設定自体が間違っていることを質した。



参照:
Umfrage zur Wahrnehmung der Katastrophe von Fukushima (Fukushima 24/7)
福島の蛸とか大阪の盛り上がり  2012-08-04 | マスメディア批評
目が黒いうちに食いてぇ秋刀魚  2011-09-05 | 歴史・時事
セシウムか、カリウムか?  2011-12-12 | アウトドーア・環境
情報の隠蔽も未必の故意  2011-07-01 | マスメディア批評
Fuck you, everybody!  2011-12-06 | マスメディア批評
秋へのスパートが楽しみ  2012-08-12 | アウトドーア・環境
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日隅一雄のジャーナリズム

2012-01-16 | SNS・BLOG研究
どれほど多くの人がBLOG「情報流通促進計画」を訪問したか知らない。ここ暫く所謂ペインコントロールの闘病生活が語られている。個人的に知己のない我々でも東電・統合記者会見での日隅氏の活躍を知らずには居られまい。そして、麻薬投与を始めてからのBLOGでの報告は、そうした既存の情報が少ないとしてプロフェッショナルなジャーナリズム的な決断で急遽行われている。

その飽く迄も理性と冷静さを失わない客観的な視点は、ややもするとそれまでの氏のBLOG訪問者にとっては鼻持ちならないような一種の唯物論的な視点と映ったに違いないのである。少なくとは個人的にはそのように感じていた。

しかしここに至ってのその現状報告は、痛みをこらえ、麻薬で薄らいだ意識などを全く感じさせないとても強い表現意志となっている。最新の報告には、「マスメディアを批判してきた私の渾身の一枚」として称して、癌によってやつれて肋骨が浮き、癌によって膨れた腹部の自画像が掲載されている。なんと意志に満ち溢れた強い表現だろう。

末期癌の本人のBLOGなどは少なくないが、正しく日隅氏が確信したように十分なこうした冷静な視点での情報は皆無に違いない。要するにそこにあるのはジャーナリストを超えての表現者の意志なのである ― そうした意志が個人の肉体が消滅した後も受け継がれることを我々は文化と呼ぶ。

一昨年に肺癌で死去した舞台映像表現家シュリンゲンジーフなども同年輩であり、最後まで自らの闘病を含めての生を表現の対象ともしたが、これほどまでにザッハリッヒであり何処までも冷静で客観的な表現は知らない。恐らく、そのこと自体が法学を学んだ日隅氏にとってのジャーナリズムの本質なのであろう。

なるほど受け手によっては、その内容の感じ取り方は異なるかもしれない。その写真を観て、皮肉にも殆ど逆説的に世紀の芸術家が渾身の力を振り絞って表現したまるでイエスキリストの受難のそれを思い浮かべるかもしれない。勿論、受ける人其々であるが、そうした表現の強い意志をそこに感じさせることだけで十分なのである。

自由報道協会は社団法人となり公共性を増すと共に、ジャーナリストへの賞を授けることになるようである。その賞は既に日隅氏の名を冠すると内定されているようである。こうした何処までも理性的で客観的でありながら意志に満ち溢れた表現の出来るジャーナリズムにその賞が授けられるとなれば、それはとても素晴らしい。

生物であるから万人に訪れる死であり、経験談すら聞けないために未だに最大の人類の未知でもあるが、哲学や宗教を含む芸術とか表現とかは ― どのような文化的な背景があろうとも ― その前提を無視しては一切表現できないのである。特に文学の一形態でもあるジャーナリズムが、そうした根源的な表現意志もないままにマスメディアを形成していては本当のジャーナリズムにはならないのである。

もう一度繰り返すが、この自画像を観て、受け手が何を読み取るか、何を感じるか、何を考えるかが大切なのである。



参照:
反社会的犯罪組織を解体せよ 2011-08-01 | マスメディア批評
セシウムも降り注ぐマイホーム 2012-01-07 | アウトドーア・環境
文学としてのジャーナリズム 2012-01-04 | マスメディア批評
最も同時代的な芸術家の死 2010-08-24 | 文化一般
甘酸っぱい野いちごの風味 2010-09-01 | 文化一般
希望という自己選択の自由 2009-06-19 | 文化一般
若き芸術家の癌病闘日記 2009-06-07 | 文化一般
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