Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2012年5月

2012-05-31 | Weblog-Index


ああ、バーデン・バーデン 2012-05-30 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
歌心のないドグマの響き 2012-05-29 | 音 TB0,COM0
胸がムカつき痛み嗚咽する 2012-05-28 | マスメディア批評 TB0,COM0
事故続きの無傷の一週間 2012-05-27 | 生活 TB0,COM2
岩峰に立つフリードリッヒ 2012-05-26 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
エコノミラートとは農業顧問官 2012-05-25 | ワイン TB0,COM0
音楽が先か、詩が先か?の回答 2012-05-24 | 音 TB0,COM2
決して侮れないネットワーク 2012-05-23 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
ブロキュパイの週末を終えて 2012-05-22 | 歴史・時事 TB0,COM0
連邦共和国文化大使の死 2012-05-21 | 文化一般 TB0,COM2
何処までもついて行くわよ 2012-05-20 | 試飲百景 TB0,COM0
とてもちぐはぐな一週間 2012-05-19 | 生活 TB0,COM0
シェーンレーバって一体? 2012-05-18 | 文学・思想 TB0,COM0
泥酔が愉快でないライフスタイル 2012-05-17 | 試飲百景 TB0,COM0
批判的に処する冷静な感覚 2012-05-16 | 雑感 TB0,COM0
香川真司の沈黙を読み取る 2012-05-15 | マスメディア批評 TB0,COM0
雑食砂岩で新しい靴を試す 2012-05-14 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
ゲーテには難しい青粘板岩 2012-05-13 | 試飲百景 TB0,COM0
アドルノ先生とすべき議論 2012-05-12 | マスメディア批評 TB0,COM0
貧相な幕府小役人の写真 2012-05-11 | 歴史・時事 TB0,COM0
政治への強硬な姿勢 2012-05-10 | ワイン TB0,COM0
第八交響曲をキャンセル 2012-05-09 | 文化一般 TB0,COM2
週末のストレス解消次第 2012-05-09 | 生活 TB0,COM0
肌理細かな高CPピノノワール 2012-05-08 | 試飲百景 TB0,COM0
割れ目を攀じ登る楽しみ 2012-05-07 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
原発零でも電気零ではない 2012-05-06 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
量子力学的跳躍の証明 2012-05-05 | 雑感 TB0,COM0
変遷しない社会の危機管理 2012-05-04 | 歴史・時事 TB0,COM0
音の鳴らし方、緊張と緩和 2012-05-03 | 音 TB0,COM2
カジュアルと手軽さのシャルドネ 2012-05-02 | ワイン TB0,COM0
ポストプライヴァシーの良識 2012-05-01 | 文学・思想 TB0,COM0
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ああ、バーデン・バーデン

2012-05-30 | アウトドーア・環境
バーデン・バーデンは一時通っていたぐらいである。南に走るときは大抵ここを通るのだが町の中に乗り入れるのは久方ぶりである。注意書きが入っていたトンネル工事の渋滞は連休の初日であるから全くなかった。ただアルザスからドイツへと渡るラインの発電所の橋が道路工事中なので工事中通行止めの表示が表れた。知らない者は遠い回りを強いられる。

工事中の箇所は信号の一方通行になっているので待たなければいけないが、二分も待たないで順調にドイツへと再入国した。ここまで自宅から一度も信号無しである。七十キロも走っていない。

祝祭劇場の駐車場へ乗り入れて一時間ほどで、フランクフルトのアルテオパーへ行くよりは距離も短く、交通状況もとても静かなものである。

祝祭劇場の周りもザルツブルクの夏のそれとは比較にならないほど静かであり、観光客も聖霊降臨祭時期であるから真夏よりは少ない。来年の第一回復活祭音楽祭の賑わいが期待されるところである。

少なくとも表玄関の旧駅舎の雰囲気などはザルツブルクの新しいそれよりは趣があるが、あのフェルゼンライトシューレなどを抱く塩岩の湿った駐車場が無いのが残念だが、バルコンからはアルテスシュロースに並んでバッタートフェルツェンが仰げる。これは見方によると、ザルツブルク祝祭劇場ののクラブハウスからの景色に比較できるかもしれない。

前回祝祭劇場に足を踏み入れたのはいつの事だったか思い出せないが、少しづつはそれらしくなってきている。残念ながらその奥で避暑をしていたブラームスはオペラを作曲していない。納税者のピエール・ブレーズや地元のヴォルフガンク・リームの創作などがこの町の雰囲気を形作るようにならない限り本格的な祝祭とはならないであろう。




参照:
復活祭への少しの思い入れ 2012-03-16 | 暦
文化ケインズ経済学の矛盾 2012-04-04 | 文化一般
文化の「博物館化」 2004-11-13 | 文化一般
歌心のないドグマの響き 2012-05-29 | 音
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歌心のないドグマの響き

2012-05-29 | 
「なにか最初おかしかったけど、まあ」と休憩中のこの言葉に鈴木のバッハの全てが表れていた。欧州で少なくともドイツで通じるようなバッハの演奏実践ではないことは分っていたのだが、評判の良い録音や日本での評価などを聞くとある面での秀逸さを期待したのだった。しかしそれは恐らく演奏旅行の疲れが影響しているのだろう肝心の合唱団にも管弦楽にも裏切られた。少なくとも千人以上は集まったかのように見えた聴衆の気持ちは同じだったと思う。

我々が期待していたのは、斉藤記念のような完璧にディテールまで磨かれ考えつくされた技術と、明晰に実践される解釈だったのだ。それは監督の鈴木のコープマン批判やその他の発言などで裏打ちされているかのような錯覚を覚えていたのに裏切られたのである。

それ以前に古楽の演奏団体として、それ以前にアンサムブルとして可也問題があったことも事実で、特にティムパニーなどの叩きには皆耳を背けるほどであって、あれは普段から余程デットな音響の場所で練習や演奏会を行っているとしか思えないようなアンサムブルで、同じようにせかせかして、響きを解放できない演奏様式は当日のバーデンバーデンの祝祭劇場に責任があるとは思えないのである。

なるほど世界中の様々なアンサムブルはおかしなバッハ演奏を繰り広げているわけだが、別な視点からするとドイツのアンサムブルでまともな今日のバッハを演奏している例も殆どないのである。それでも鈴木のそれが受け入れがたい以前の問題であることは別の問題であるように思われる。

十分なフレージングも息づかせずにまるで息を止めたような詰まるようなせかせかした調子は録音で確認済みであったが、少なくともそこでは綺麗にアタックが揃うことでまるで素晴らしいアンサムブルかのように聞こえている録音編集の技なのか実態なのかは生で確かめるしかなかったのである。それにしても古楽器をぽきぽきと重量感無く鳴らすこと自体はそれは一つの表現方法と認めるとしても ― まるでトヨタのレクサスでアウトバーンを飛ばすような感じで心地よい慣性に欠けているとしても ―、ドローンまでとは言わないが少なくとも必要最小限の通奏低音 ― 鈴木の息子さんがオルガンを弾いて、ファゴットもチェロも慣性の反対の運動性すら十分に示せていない ― を響かさないことにはまともなハーモニーも対位法も浮かび上がらないことは自明であって、全ての聴衆はこの訳の分らない音楽に度肝を抜かれた。最初の数分で出て行った人は「一を聞いて十を知った」のかもしれない。

なるほど通奏低音を歯切れ良く運動性をもって鳴らすこと自体はここでも紹介していてそれ自体はなにも特別なことではないのだが、一部始終同じ按配でそれ以外の演奏方法を拒絶するドグマがそこに存在することに追々皆が気がつく頃には会場は冷え切った。当日は幾ら教会の日と言ってもドグマに敏感な連邦共和国国民である。文化的な不理解か?ライプチッヒのバッハ賞受賞って一体なんだ?

世界中の古楽の演奏団体を数々聞いてきたが、このような演奏する団体は始めてである。延原武春の管弦楽団でもこんなおかしなことはしていなっかったように記憶する。これならば二十年以上前に本格的な古楽器で自然音階のピュアーなラッパを吹かせていたエリクソン指揮のスェーデンの楽団の方か遥かに凄かった。

宜しい、サウンドや音楽の響き方を別にして、当日の演奏前のレクチュァにあったような「Et in unum Dominum」における鏡面構造のカノンエコー効果や「Et incarnatus est」の天から地上へ降下のラメント旋律や「Crucifixus etiam pro nobis」の輪廻するパッサカリア効果などの神学的な象徴の解読が感覚的に感知できるものとしてどれだけ示されていたか?少なくとも音響的にそれが明白に示された場面を意識させたことは皆無で、寧ろモノクロな空虚を響かせ続けた。

しかし、多くは鈴木とそのアンサムブルに責任があるとは思わない。同じような問題は全ての日本の音楽家が持っている問題であり、多くの日本人が西洋音楽を奏でられない理由をそこで追及することになる。嘗て日本の演奏家などとの付き合いでドイツ語の発声法と同じで深い響きの出し方というものは楽器の場合も共通しているというのも聞いていたのだが、今回の東京からの楽団を聞いてなによりもそれを思い起こした。

因みに当日の演奏は、写真で分るように地元のSWR2が中継録音していたので、六月七日九時三十分(日本時刻同日十六時三十分)からネットでも試聴出来る。



参照:
聖霊降臨祭のミサは如何に 2012-04-19 | 音
ハレルヤ!晴れるや? 2011-12-07 | BLOG研究
フランスにおける福島の影 2011-04-24 | マスメディア批評
聖なるかな、待降節の調べ 2009-12-14 | 音
西洋音楽をどこまで「訓読」できますか? (考える葦笛)
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胸がムカつき痛み嗚咽する

2012-05-28 | マスメディア批評
吉田秀和の訃報に接した。第一報は聖霊降臨祭初日起床直後のBLOG「庭は夏の日ざかり」だった。さて、今まで散々貶してきたのでその範囲内で最後にもう一度この機会に批評を書こうかと思い、金曜日の疲れが残っているもののパンを取りに行く序に体の様子を見ながら森を歩き出した。吉田秀和について何を語ろうか書こうかと考えながら、故人の幾つかの文章などを思い出していた。欧州旅行記でも兼常清佐などの高度な文化批評とは比較にはならないなどと考えていた。

暫くすると心臓のところがむかむかして重くなるのである。これは完全に調子が悪いと思って走らないで山道を歩き出すとそれでも息が上がる。そうして足が潜る落葉で足元の悪い前半を歩いた後、その後走って峠まで出るとまだ22分しか経っていなかった。2650歩。全然遅くないペースなのである。

そして帰ってきて汗を流して幾つかの同じ訃報の記事を見た後に、夜のバーデン・バーデンでの鈴木のロ短調ミサ曲に備えて早めに食事をして、ワインを少し飲んだ。それでも食事の用意をしながら、吉田氏と言葉は交わしたことは無いのだが何度も遭遇していて、ヴァイツゼッカー元大統領のような特別な出会いでは無く、そこに平凡で凡庸な人間性を感じていただけなのを思い起こした。

食後の昼寝のベットに這入り、BLOG「TARO'S CAFE」で訃報の中に、吉田氏夫妻を見かけた丁度同じときのことがそこに記されていた。不覚にも嗚咽してしまった。朝からの胸の痞えを一気に嘔吐するかのように。予想だにしていなかったことである。

なるほどミドルティーンの一時期は吉田のエッセイーを熱心に読んでいた。ハイティーンになる頃にはもはやその内容を批判していたが、その後ドイツに移り住み最初に日本へと飛んだ節に、幾つかの山の本などと一緒に全集などは出ていない頃の吉田の単行本を全て廃棄した、一冊を除いて。手垢にも汚れていないような綺麗な本を二束三文で購入したのは専門書で有名な古本屋であった。それでも廃棄したことで凄く心が休まった気がしたのだった。

その吉田の単行本で一冊だけ手元においてあるものは新潮社「現代音楽を考える」初版でその中に「ヴァーレーズの解放したもの」がある。これは、作曲家本人のニューヨークのアパートメントを訪ねた印象などがちりばめられていて、音楽ジャーナリストとして一級の仕事で、物書きを自称するこの作家を熟知している者としても唯一無二の翻訳しても世界に通じる文章であったに違いないと確信する。

要するに吉田は禄でもない文章ばかりで生計を立てていた物書きでしかなく、団鬼六にも及ばないスノビズムの作家で、その通り後に体制・翼賛新聞朝日新聞を飾っていた俗物でしかなかったのである。日本の文化どころかエロにも貢献していない物書きであったのだ。

そうしたことにミドルティーンのときに気がついて、丸山真男のフルトヴェングラーの書は知っていてもまだまだ氏の本業の論文を読むほどの知力も無く、この禄でもない文章を書く吉田は丁度反面教師のような存在であり続けていたのを思い掛けない嗚咽と胸の痛みで初めて思い知ったのだった。

九十八歳での大往生と聞く。とんでもない、それまでなにかを書いたりしながらの生活が自分に出来るのかどうか、そもそもそのような健康などは到底考えられないのである。つまらないものを散々読ませてもらったこの作家が、自分にとってこれほど大きな存在であったとは嗚咽が起こるまで気がつかなかったのだ。



参照:
勲章撫で回す自慰行為 2008-07-26 | BLOG研究
自己確立無き利己主義 2008-04-28 | 歴史・時事
十分に性的な疑似体験 2008-08-06 | 音
読者層に合わせた興奮度合い 2011-11-22 | 暦
蜉蝣のような心情文化 2008-05-14 | 文学・思想
決して民衆的でない音楽 2008-12-09 | 歴史・時事
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事故続きの無傷の一週間

2012-05-27 | 生活
事故続きである。先ずは注文したザールからのワインが近くまで来ていながら届かない。注文した翌朝早くヴォルムスに着いてそこで止まっていたのでおかしいと思ったら、割れて中身を点検したとある。濡れていて止めたのか、移し変えのときに割れたのかは分らないが、派手に割れたに違いない。着いてから液漏れしていたり事故が発覚するよりは良いのだが、未だに再発送の知らせが無いので、連休明けにしか届かない。連休中はなんとかワインを都合つけなければいけない。

輸送中の事故で考えられるのは一リッター瓶も入っているので梱包が悪く、衝撃で割れた可能性である。一昨年に送らせた時は輸出にも使える立派な梱包であったので壊れる可能性は無かったが、今回はお試しセットなので中途半端な梱包だったのかもしれない。若干その醸造所のワインの味とそうした醸造所のマネージメントやその他のことがなんとか想像できるような事件である。

金曜日は晴天に恵まれつつも午後は清々しかった。乾燥した日々が続いているからである。こうなれば石切り場に行くのは当然の行為である。電話に出ると、仲間が水曜日に事故をお起こしたと言う。トリフェルツの向かい側の岩場で昨年の登ったところなのだが、態々ロープを上から垂らしてトップロープにした所だった。なぜならば、途中に支点があまり無い上に岩質が脆く苔まではいている所だったからである。その一つ目の支点までに楔を掛けてその上から落ちて楔が吹っ飛んで地面まで落下、頭部を打った。相棒が携帯電話を持っておらず城の駐車場まで下ろすにも頭部から出血した本人の意識が朦朧として、苦労したらしい。駐車場脇の売店で偶々墜落の音を聞いていたようで、ヘリコプターが呼ばれて病院に運ばれた。

恐らくその墜落した67歳の男性は一度確保してあげたことがある人で、まさにその時のルートを当日の乾いた岩肌で登ろうとしていたのだった。実際に石切り場に行ってみると我がライヴァルがその隣を登っていて、ある程度の経験がある者は同じようなことを考えるものだと思った。彼らが登っている二つ先のルートの下に徐にザイルを置いて、狙っていたルートを攀じた。核心部はテクニックをフルに示せる場所でまだまだヴェテランのように完全に力を抜いてとは行かないながらも比較的華麗に登り、最後の最後に再び第三の核心部があることに気がついた。またもやカラビナを掛けるのに右手のアンダーホールドで突っ張って、左手で小さな穴に指を掛けて、突っ張り伸び上がった状態を保って右手でカラビナを掛けなければいけないのである。下からカラビナを銜えろと言う指示もあったのだが、なんとなく気張った拍子に落としそうである。そこで自己確保用のループにカラビナを下げて素早くそれを掛けた。

アンダーホールドのお陰で右手首をまた少し酷使してしまったようであるが鍋を洗うには問題ない程度なのでまずまずであろう。今シーズンに入ってからの課題の解決は五つ目である。自分には比較的御しやすいルートであったが困難度5.10cもしくは6bは決して悪くは無い。勿論上達度を褒められて周知となっている冬の間の練習量を言うのも嬉しいのだが、それ以上に初心者の年季の薄い者になにかを示して、やる気を起こして貰うことの方が遥かに嬉しい。クライミングの才能ある者、可也大化けしそうな者など、練習しなければいけない方向や可能性を知って貰うのがなによりも大切なのである。



参照:
岩峰に立つフリードリッヒ 2012-05-26 | アウトドーア・環境
エコノミラートとは農業顧問官 2012-05-25 | ワイン
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岩峰に立つフリードリッヒ

2012-05-26 | アウトドーア・環境
水曜日は午前中の雷雨や午後の30度になろうかととする気温上昇に拘らず早めに南プファルツの奇岩地帯へと出かけた。森の中は湿っていたが陽射しと温度と風のお陰で岩肌で手が濡れるようなことはなかった。

なによりも夕方の太陽が高い霧におぼろげな薄暮の風景はカスパーフリードリッヒのそれ以上に詩情豊かであった。誰も他のパーティーの居ない岩山の上では誰もが詩人となれた。カスパーフリードリッヒのザクセンアルプスの岩山も南プファルツの岩山も同じ砂岩で色が違うだけなのである。

相棒のザイルを率いる練習であったからノーマルルートしか登っておらず紺何度は全く無いながらも、腕に疲れを感じた。一つには全く中間確保支点が無いのにも拘らずそれ以外にもあまり十分な支点が取れないような場所があって、力が入っていたのだろう。特に二つ目の岩山への頂上岩壁はオーバーハングの上にある岩の背を登るので、手掛かりがある角に近づけば近づくほど真下の30Mの奈落が目に入るのだ。その上にまともな支点が無いのでうっかりすると奈落へと落ちてしまう。

なるほど技術的には困難さは無いものの度胸もいり、更に高所恐怖症を思い起こさせてくれるので、どうしても手掛かりの悪い方へと向かってしまう。するとどんどんと難しくなるのである。つまりやはり奈落へと近づくしかない。そして、そこを超えてやっと砂時計と呼ばれる岩の窪みに出来ている細い柱に支点を掛けるのである。

全体で四回ほどザイルで懸垂下降をしなければいけなかったぐらいで、直ぐに時間が経ってしまって、その大きなオーヴァーハングは試せなかったが、やりがいを起こさせる岩頭群である。細い柱状の岩頭も確保支点が取れないので有名で度胸が要りそうだが登攀意欲を湧かせるには十分である。

相棒の医者もアルプス風の登る練習が出来たので、若干意識が変わってくるだろうか。五感を全て使ってのクライミングは、やはり石切り場やクライミングホールのそれとは違って体験の深さや大きさが異なる。兎に角、僅か六時間の中でとても素晴らしいときを過ごせたのである。


写真:向かって左の二つの岩頭を攀じ登った。話題のエッジは右の岩頭の付け根の影と夕日の角の部分である。



参照:
切手の図柄に思いを馳せる 2011-02-27 | 雑感
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エコノミラートとは農業顧問官

2012-05-25 | ワイン
「エコノミラート」と異なるレープホルツ醸造所の辛口リースリングを開ける。昨年までは雑食砂岩からのリースリングと名づけられていたが、それが無くなりグーツリースリング扱いとなった。最初の口当たりは試飲のとき以上に柔らかく、むしろ微炭酸が飲み心地を良くしていた。このシリーズのものには見られた傾向で、その価格9.80ユーロとしては寂しい。

味筋は、その後に押しの強い酸が押し寄せるようで、酸の分解も「エコノミラート」より落ちるのは明らかである。つまり酸の質が荒めなので、完全に以前の雑食砂岩からのカビネットより質が落ちているが価格は上昇している。

よって、価格差1.20ユーロは実質の価値よりも小さい。個人的には安い方ならば他の醸造所のものを買う。決して悪くはないのであるが、出来としては2009年の雑食砂岩からの方が遥かに良かった。しかし実りの年で糖を落とすと言うことはそれだけアルコールを上げると言うことで12.5%は糖が無い分軽く幸せである。

そこで「エコノミラート」に再び目をやると、アルコールが11.4%しかないのだ。やられたと思った。まるでモーゼルの辛口である。そして酸が8.1G、糖が0.4Gであり、エコ003指定葡萄を使用している。糖比重が84エクスレであったから、むしろ早摘みである。それであの肌理細やかな酸は?決して青っぽくないどころか深々として落ち着いていて、とげとげしさのない酸は?

一段落したところでザール地方のシュロースザールシュタイン醸造所のお試しセットを注文した。送料ともで大変お得なので、飲みたくない二本が入っていても料理に使っても損はないのである。

古い年度から2008年のアルテレーベンがそこに含まれているのだが、これは一年半以上前に飲み干しているが、今や絶好調の2008年産がどの程度の感じで飲めるかがとても興味深い。また、10ユーロ超えの「グラウシーファー」が強豪に太刀打ちできるか。



参照:
何処までもついて行くわよ 2012-05-20 | 試飲百景
品質向上戦線で勝ち抜くのは 2010-07-28 | ワイン
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音楽が先か、詩が先か?の回答

2012-05-24 | 
ベルリンの国立歌劇場の監督ダニエル・バレンボイムが大歌手フィッシャー・ディスカウの逝去に際して追悼文章を投稿している。短い文章ながら読み甲斐があるので紹介する。

歴史上多くの素晴らしい作曲家が存在して、その作品が音楽の歴史的発展にそれほどの影響を与えていなくとも私たちが大切にしている創作がある。幾人かの作曲家、バッハやシェーンベルク、ヴァーグナー、ベートーヴェンなどは、過去のものを集約して尚且つ同じように将来への道を指し示した作曲家で、そうした革命的な精神の秀でた例なのである。

全く同じようにクラシック音楽の演奏家においてもそうなのだ。例えばパブロ・カザルスは、一般的にチェロは綺麗なイントネーションを奏でられない楽器と見做されていたが、少なくともバッハの組曲を以ってこうした見解を変えてしまった。そして、コンサートの世界で永続性のある新機軸を創造したのである。ディートリッヒ・フィッシャーディスカウは、そうした一人の革命的な演奏家であった。24歳にて最初のリーダーアーベントを行った。それは当時としては決して普通のことではなかった。当時は、現在よりも遥かに多くの引き出しが用意されていて、歌手はオペラを歌うか、歌曲を歌うかであって、双方と言うことは珍しいことだった。フィシャーディスカウは、先ずその業界においてそうした強固な考え方を打ち破り、多くの分野において秀逸した技量を出せることを示したのである。

彼の芸術家としての最も大きな功績は、恐らくあの質問に一つの回答を与えたことだろう:「音楽が先か、詩が先か?」つまり、彼が示したのは、これは誤った質問であったということだ。フィッシャーディスカウは、彼以前にも以後にも殆ど為されていないように詩と音楽の統一を成し遂げた演奏家なのである。彼は、詩のアーティクレーションにおける新たな基準を与えたのみならず、言葉に準拠した音の響きを変えることで、その言葉を浮き出させた。そのように言葉の意味を明白化させたのみならず、其々の音節や音を合成して響かせ、ハーモニーと音色の合一化を可能とした。例えば、言葉「死」にアーティキュレーションの中で別な色合いを加味して、非日常性を意識したのみならず、この「死」と言う言葉が歌われる時、どのような音色であるべきかを意識していた。これによって、詩の理解と分別の新たな地平線を開いた。

25年間ともに音楽をしてきたフィッシャーディスカウは、ドイツ人芸術家として最初にイスラエルの地を踏み、そこで最初にドイツ語でコンサートで歌ったことはひょっとするとそれ以上に画期的なことかもしれない。なぜならば、それまでは彼の地ではベートヴェンの第九も英語で歌われていたからである。彼の特別な芸で以って、ドイツ系ユダヤ人はイスラエルで再び音楽の中でドイツ語を戴けるようになったのである。

ダニエル・バレンボイム



参照:
Gefärbte Töne, Daniel Barenboim, FAZ vom 22.05.2012
連邦共和国文化大使の死 2012-05-21 | 文化一般
週末のストレス解消次第 2012-05-09 | 生活
感受性に依存する認知 2009-01-03 | 文化一般
セクシャルな「福島」文化の本質 2011-07-24 | 文化一般
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決して侮れないネットワーク

2012-05-23 | アウトドーア・環境
北九州市の瓦礫処理阻止の実力行使は速報としてネットで流れた。早速IWJの九州CH1に繋いで中継を見た。「なにもしとらんけね」と警察に拘束されたおばさんは語る。普通の善良な市民は公権力の存在を初めて思い知ったことだろう。

なぜ実力行使が必要かは、二クラス・ルーマンが論文で語る通りであって、こうして初めて大きく報道で取り上げられるだけでなく、その一部始終はネットを通して世界中に実況中継されて、自明のこととなった。

次は、こうした運動を如何にPCや机の前に座っている人々がどのように受け止めてどのように反応するかである。

なるほど瓦礫処理から出る放射能はその灰を除けばそれほどのものではないであろう。しかし、恒常的にこうしたものを運び込み、焼却処理するということは、折角フクシマの強い汚染から逃れた遠方の人たちに苦しみを擦り付けることになるのである。所謂戦後の日本がモットーとしてきた国民の平均化であり、汚染の平均化である。平均化の行く末は人類のゾンビ化なのである。

核実験やその他の事故等で汚染された量と、今も毎日環境へと流れ出る福一からの放射能汚染の量は比較にならない。もはや狭山茶だけでなく静岡茶などは当分飲めないことは分っており、それを薩摩まで平均化してどうしようと言うのだ。既に魚をはじめとする食料は偽装されて、九州産の米なども混ぜられていて、九州の食生活も到底安全とはいえないのである。

それでも平均化を許してはいけないのである。そのようなことをすればもはや何もかも無い。

フェースブックの上場に関してのインサイダー取引が捜査の対象となっていて、顧客は集団損害賠償を求めていると土曜日のラジオニュースが伝えていた。さてユダヤ人や華僑のインサイダー取引を何処まで追及できるだろうか?世界中に広がるそのネットワークは到底見通せるものではない。本日二日目はストップ安に続いて暴落した。売り逃した人たちはもう遅い。



参照:
それでも生きていたいのか? 2012-04-09 | 文化一般
自由の勝利を自ら掴め! 2012-03-27 | マスメディア批評
市民を無視する政治社会背景 2011-06-05 | マスメディア批評
ブロキュパイの週末を終えて 2012-05-22 | 歴史・時事
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ブロキュパイの週末を終えて

2012-05-22 | 歴史・時事
ブロキュパイ運動陣営は土曜日の二万人以上を集めてのデモは成功だったとした。各地からの助っ人を含む警官の総動員で、フランクフルトの銀行街は死の町となったようだが、大きな暴力沙汰とはならなかった。デモを許可しなかった市長ロート女史を代表とする当局の責任問題とすると、緑の党や左派党は気炎を上げている。

左派のフランクフルター・ルンドシャウ紙によると、ギリシャやスペイン、フランスなどからも賛同者が次々と集まって、町の者も食事などを無料提供して支援していたと言う、一方FAZ紙がインタヴューしているオキュパイ運動家デーヴィッド・グレーバーも大西洋を越えて飛んできていた。

市内は、銀行関連の現金自動引き下ろし機などは全て閉鎖されて、市電は運行停止して、ターミナルでは活動家の荷物検査などが行われたと言う。それでも大きな事件とはならなかったのは、左派の各派やアタックなどの活動団体が所謂黒ブロックの黒装束で有名なオウトノーメンなどを説得したからだと言われる。

多くの破綻者に勇気を齎した「デット」の著者グレーバーは当日許可された唯一の講演会であったようだ。氏に言わせると、金融危機で世界中の納税者が銀行を救済したのは、歴史の終焉などではなく文化の斑気であるから、儲かる者は儲かるおかしなシステムになっているのを変えなければいけないとなる。

そもそもアナーキストには戦争をする能力は無くて、そのシステムをブロックしてしまうことで十分と言うことらしい。しかし、為政者が恐れているのは、この運動が68年の運動のように社会の変動へと盛り上がることであるとしている。

中国ではラフィト・ロトシールドなどの空き瓶が中身の入った蔵出し価格ほどで売れるそうだ。そこに赤い中国産のワインを詰めて売ることで経済が回っていると言われる。醸造所での出荷本数よりもはるかに多くの高級フランスワインが中国で販売されているそうだ。

そもそもシナ人に高級なワインの味などが分るわけが無いのだから、売る方がまっとうと言うか遥かに賢いのである。賄賂などで身につかぬ金が回る経済のバブル経済の中国であるからこその市場があるようだ。

12日付けの新聞の文化欄には、指揮者エノッヒ・ツ・グッテンベルクが自ら創立した自然保護団体ブントを脱退することを表明している。その組織的な姿勢や独立エネルギー企業の設立の金儲け主義どころか、2003年には風力発電計画に反対することで同和金を企業からせしめて金を活動費に回し、その額がミリオンユーロ単位であることを強く非難している。要するに環境圧力団体ごろつきになっていると言うのだ。前連邦大統領退陣の問題となった金子の額とは桁が違うことを強調している。

そもそもグッテンベルクの父親がキリスト教社会同盟の創始者であってバイエルンの保守の本流であり、エノッヒも保守の愛郷組織としての環境団体の理事として34年間活躍する。それゆえに、その脱退の弁の内容はとりわけ厳しい。

なによりも風力発電が気に食わないようで、その環境への影響を、美観や土地利用の観点から、また低周波による野鳥や蝙蝠などの種の減少として、厳しく批判する。

なるほど風力発電はその設備自体がたかが五十年ほどの寿命であり、殆ど一時的な代替エネルギー源でしかなく、そこには将来性が全く無いことは知られている。しかし批判はそれでは止まらずに太陽熱発電などへと事業化している部門へも矛先が伸びる。

そして、ブント自体の企画として「自然エネルギー発電」が話題となっていて、まるで素朴な日本人のように「自然エネルギー」という言葉が使われると、もはやその素朴さに失笑するしかない。

エントロピーの法則も考えずにそうした自然エネルギーなどと考えていたことが知れ亘るのである。そのようなエネルギーがそもそも存在する筈が無い。あるのは大気圏内においての持続性可能なエネルギー源でしかない。

結局代替エネルギーよりも節約のみであると言わんばかりに、電化製品のスタンバイ機能を禁止すれば連邦共和国内で56%の節電が出来るというのである。産業用もまだ16%の削減の余地があると例示する。



参照:
Wieso stellt sich das Bankenviertel tot?, David Graeber, Nils Minkmar, FAZ vom 21.5.2012
Ich trete aus, Enoch zu Guttenberg, FAZ vom 12.05.2012
Debt: The First 5000 Years (Wiki)
とてもちぐはぐな一週間 2012-05-19 | 生活
セシウムも降り注ぐマイホーム 2012-01-07 | アウトドーア・環境
責任を果たせ!然もなくば、 2011-11-08 | マスメディア批評
情報の集約を阻止する運動 2011-10-30 | 文学・思想
変遷しない社会の危機管理 2012-05-04 | 歴史・時事
ベルリン、原子力の創世と終焉 2011-07-07 | 歴史・時事
市民を無視する政治社会背景 2011-06-05 | マスメディア批評
寿限無 食う寝る処に住む処 2010-12-13 | 文化一般
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連邦共和国文化大使の死

2012-05-21 | 文化一般
ドイツ連邦共和国の最高の歌手ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウの死の反響は予想以上に大きかった。先ずはフランスのラジオでの特番の扱いはドイツのそれよりも早く以上であり、フランスでどこまでドイツ歌曲が理解されているのだろうと不思議に思ったほどである。

それは新聞の訃報記事にもあるように、先の戦争で壊滅状態となったドイツの中からそれを使命として音楽活動をしてきたこの歌手の成果に対する賞賛でもあるだろうか。

同じようにBBC3でも特集が組まれていて、まさしく連邦共和国が如何にその絶えることの無い文化ということでなんとか戦後を乗り切ってきたことを証明しているようなものである。

この歌手の録音を集めた覚えは全くないのだが、知らないうちに二桁のLPが手元に集まっている。引退してから長いオペラではフルトヴェングラー指揮「トリスタン」の名録音やベーム指揮「フィガロ」や水木しげるの妖怪辞典に出てくるようなパパゲーノ、「指輪」のギュンター、シュトラウスの「カプリッチィオ」、「アラベラ」での夫婦共演など、オラトリオではブリテン指揮「戦争レクイエム」、バーンスタイン指揮「大地の歌」など直ぐに見つかり、その中には掛買いの無い交換不可能な歌唱も多く含まれる。

ドイツ歌曲では、モーツァルトからフォン・アイネムなど数多く、アイヴスの歌曲集などと特殊なものも含まれている。その中でも貴重なのは、新ヴィーン楽派を集めたDGの一枚とその影響と称するEMIの一枚である。特に一枚目のとてもロマンティックなシェーンベルクの演奏は「リア王」の作曲家アリベルト・ライマンのピアノと相俟って、シェーンベルクの作曲がドイツ音楽の頂点にあることを実証している。

今後古い録音などが再発売されるかもしれないが、安売り物で狙いたいのは「リア王」やヘンツェなどのオペラなどの歴史的な録音であろうか。



参照:
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの逝去を悼む (日々雑録 または 魔法の竪琴)
フィッシャー=ディースカウ逝く (TARO'S CAFE)
フィッシャー=ディスカウ追悼企画、マーラー作曲、「さすらう若人の歌」 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞とお天気写真)
追悼:ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウ (時空を超えて Beyond Time and Space)
さようならフィッシャー=ディースカウ (庭は夏の日ざかり)
Das Genie der hohen Deklamation, Gerhard Rohde, FAZ vom 19.5.2012
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何処までもついて行くわよ

2012-05-20 | 試飲百景
殆ど禁断症状であった。レープホルツ醸造所のカビネットが切れて長い。昨年の夏には雑食砂岩からのリースリングカビネットが無くなり、補給しようと思うとシュペートレーゼクラスしか残っていなかった。そのSは寝かさないと本当の凄みは出ず、素晴らしく開花していた2008年産も続けて飲むのは惜しい。

だから九ヶ月ほどは切れていたのである。2010年産のそれが決して良かった訳ではないが、除酸や酸の強さで苦労している各醸造所の中にあって上手に造ってはいたのだが、生産量も少なく夏には売り切れていた。

そこでこちらも気合が入るのである。なるほど2011年は収穫量も十分で更にもう一つ上のカビネットが出ることはそれとなく奥さんから聞いていたのだが、それでもやはり飲んでみるまでは分らない。

酸の穏やかなジルファーナーや酸っぱいリッターワイン、そして酸の立った雑食砂岩リースリングに続いて、お披露目の「エコノミラート」である。

2009年に出ていた「ナテューウーアシュプルング」の後釜であるが、価格も上昇している。雑食砂岩がスクリューキャップになって、そもそもその質の違いは2009年にあったのだから当然であろう。

石灰の混ざらないミネラル質の透明性と逆に立たない酸が興味深く。残糖0.4Gまで落としていることから、逆にアミノ酸のような甘みすら感じるのである。「ティピカルなレープホルツワインの提示」に基本コンセプトがあったようだが、どうしてもう一つ突き進めてしまっている。完全に病気である。酸も8.1Gと決して少なくないのであるが、分解が進んでいるのかシュペートレーゼ的な深みがあるのだ。

親仁さんは完全にいってしまっているが、これを味わうと何処までもついていくよとなってしまうのだ。こんなに危険なワインは知らない。そしてこの後味、塩気に混ざって、長く尾を引く懐かしいあの味は何だ?その後味が糖が無いだけに水のように喉を流れ風味だけが残るのだ!

なんたることだ!なんでもない、酸を綺麗に分解して、糖が無くなるまで醸造すれば良いのである。24時間の葡萄付けした果汁を素にして。

これ以上付け加えることはないのだが、記録として、雑食砂岩Sは酸が少ない分若干弱弱しく、まだまだ樽試飲的な出来上がりである。九月に再度試飲するしかない。貝殻石灰Sはバランスが良く、万人向けであろう。さて、ロートリーゲンスSであるが、先日のシェーンレーバーと比較して明晰さで秀でているが、それが甘みとして感じるところは代わらず、少し物足りない。しかし引っ掛かりが無い分、今年のカスターニエンブッシュは、良いかもしれない。

その他ブルグンダーでは、いつもながらの糖を残した造りで一般向けである。ゲヴュルツトラミナーなどはゲオルク・モスバッハー醸造所のそれよりも甘く、些か商業戦略をここに見る思いだ。それでも、メロンパンのようなムスカテラーの透明感や、ソーヴィニオン・ブランの緑のピーマン臭さは流石である。

そしていよいよ恒例のレープホルツ講話の時間である。今年はリースリングの古いものが次々と出された。先ずは2.08G残糖の1983年もの、私はブルグンダーと判断して恥をかいたが、やはり完全に逝っていた。

二つ目は、エコノミラートで、その将来性を考える。

三つ目は、雑食砂岩カビネット2001年物である。2001年は私のペッヒシュタインなどの絶好調のリースリングと比較すると、お話にならない。糖が無いということは経年変化の可能性をなくしているとことでしかない。それでもまだ飲めることを主張するレーブホルツ氏の悩みはそこにあるのだ。

更に対照的なふくやかな2002年のロートリーゲンデスのシュペートレーゼである。なるほどその差は分るのだが、私の2002年のペッヒシュタインの豊穣さとは比較の仕様が無い。

五つ目は、1991年のムスカテラーである。これはゲヴュルツトラミナーではないかとの声が出たが、そのようにそれらしさがなくなっていた。

六つ目が1991年のゲヴュルツトラミナーで、これはまさにレヴァーなどの食事にあわせられる。

それと現在のゲヴュルツトラミナーを比較する。

八つ目が、2011年のシュペートブルグンダーのロゼで、最後は6.8Gの酸の1991年のロゼで酸だけの味だった。

レープホルツのティピカルなワインを理解している家庭は世界に三桁もいないだろう。そして、その瓶熟成の可能性もグローセスゲヴェックスの経験がまだ足りないので、実証的証明不可能なディレンマがある。それはある意味正直な態度であって、彼のビュルクリン・ヴォルフ醸造所でさえ未だに2001年産の将来に掛かっているのである。そこでも精々十年の可能性を証明しているに過ぎない。

しかし、ドイツのリースリング批評において顧客としてオピニオンリーダになりつつある私としては、それほど気にすることは無いと言いたい。五年経った時に完熟していればそれで良しなのだ。むしろ、彼らに示したようにSの飲み頃や、食事とのあわせ方に醸造所内で十分な議論がなされる方が重要なのである ― これに関しては顧客からのフィードバックが大切であることを醸造所にそれとなく指導している。九月にはクリストマン氏とヴィットマン氏を迎えてお披露目をするようだが、招待状がこれば考える。

帰りに最後まで居残っていた、「二日続けて来る」と言うとレープホルツ親爺に「明日も同じワインしかない」と言われていた馴染みの夫婦づれと情報交換をした。ベッカーのベーシックなピノノワールとゼーガーのセメント味のピノノワールやバーデンのフーバーに関してである。

それにしてもレープホルツ親仁やそのおじいさんの言うことが私の言い草に近い。つまり、幾ら飲んでも飲んでも飲み飽きない、飲めるワインが日常消費の良いワインであり、勿論酔い心地が良いことである。同時に食事に合うワインとは感覚を鋭くして、その食事の味を引き立て、食事がワインを引き立てる感覚的な遊びなのである。その意味からも「エコノミラート」は凄い。




参照:
六月とはこれ如何に? 2011-06-07 | 試飲百景
辺境の伝統の塩味ピーマン 2009-05-26 | 試飲百景
偏屈者の国際市場戦略 2008-05-28 | 試飲百景
良酒に休肝日など要らない 2009-05-08 | ワイン
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とてもちぐはぐな一週間

2012-05-19 | 生活
水曜日にはオキュパイ運動のドイツの拠点フランクフルトの銀行街のテントなどが強制撤去された。何もかもブロックしてしまう運動ブロキュパイ運動は本日大デモンストレーションを開催する。千人以上の参加が見込まれている。

水曜日はシュヴァルツヴァルトでは雪が積もり夏タイヤで閉じ込められたようである。それほど寒く雨がぱらついていたので石切り場などに行くつもりは無かったのだが、またまた相棒の医者がどうしても行きたがるので、練習台になってお相手した。オーヴァーハングはあまり湿り気に関係ないのでやっつけ仕事ととした。それ以外には、相棒にトップで登る練習をして貰った。困難度五級をどこでも確実に登れるようになるのが今シーズンの彼の達成レヴェルであろうか。七級の場所に挑戦するよりも習うことが多いのだが、まだそこが十分に理解出来ていないようである。

寒さの中で八時過ぎまで登っていたので殆ど風邪を引きそうになった。金曜日も気温は上がったが今ひとつはっきりしない湿った気象であったので、思い切ってレープホルツ醸造所の試飲会に速めに参加した。

その前に内履きを買う必要があったからだ。本来ならば岩登りの序によるのだが、全てがちぐはぐで、醸造所へ向かう前にその先へと車を進めた。昨年購入した夏用の内履きが履き心地も良かったので冬も使っていたこともあってか殆ど壊れてしまった。紐が切れる寸前である。

一年しかもたなかった。ポルトガル製である。全く駄目である。購入した翌日に金具が外れて修理したぐらいであるから、今もそれが18ユーロほどで売られているのには驚いた。

それを横目に見て、ドイツ製のシリーズを見つけた。ローデと称するブランドである。少なくとも先の靴で壊れた場所はしっかりしていそうである。履き心地も材料が良いので悪くない。価格は倍になるが、最低二年以上はもってくれると思っている。

さて前日のアルコールを抜いて、寒さによって浮かび出た障害を解消するために一走りする。パンを購入してから、駐車場から峠までのルートである。途中経過時間は変わらず、最初に飛ばした分後まで堪えたが、20分しかし3000歩を切っていたので、一割ほどピッチが伸びていることを語っている。最初の走りによるのだろうか?



参照:
足の指の具合に合わせて 2009-09-14 | 生活
雑食砂岩で新しい靴を試す 2012-05-14 | アウトドーア・環境
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シェーンレーバって一体?

2012-05-18 | 文学・思想
アルテュール・シュニッツラーの夢日記が初刊行された。世紀末のヴィーンの作家で現在でも多くの読者を持ち、戯曲化されて舞台にも掛かることが多い。絵画や音楽などの芸術と同じく人気の絶えない時代の文学の一つである。

どの一冊でも一度手に取れば、他の作品においてもどのように話が展開していくのかが推測できる。その無常と無益な環境の大波に揺られ続けるのである。そうした作家であるから、当然のことながらフロイト博士はその作家を称えて二重人格と診断している。

待合室で待っていると、シェーンレーバさんと呼ばれるのである。何のことか分らず、それは精神分析では無くて、フロイトの事だった。アメリカのことではなくて、コロムブスだったのだ。

この作家が寝起きに夢日記で記録したのは、その感情的な機微機構であったようで、まさにそこに不安などが正確に細やかに描かれることになるのだろう。

そして正夢も記録されていて、娘リリが自殺をしようとしてそれを止めることが出来なかった夢は、そのまま現実となってファシストの旦那アーノルト・カペリーニの銃で実行される。作品のようにまるで避けられぬ機構のようである。



参照:
Träume, Das Traumtagebuch 1975 – 1931 von Arthur Schnitzler
Im Wartezimmer von Sigmund Freud, Von Wolfgang Schneider, FAZ vom 15.5.2012
ゲーテには難しい青粘板岩 2012-05-13 | 試飲百景
明治の叶わなかった正夢 2012-02-07 | アウトドーア・環境
夢ではない、目を覚ませ! 2011-10-26 | マスメディア批評
反照の音楽ジャーナリズム 2012-02-27 | 音
呵責・容赦無い保守主義 2007-11-19 | 文学・思想
鹿フィレ肉のクリーミーな香り 2004-11-25 | 料理
甘酸っぱい野いちごの風味 2010-09-01 | 文化一般
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
微睡の楽園の響き 2005-02-22 | 文学・思想
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泥酔が愉快でないライフスタイル

2012-05-17 | 試飲百景
承前)それに引き換え軒ならず地下蔵を貸したバッサーマン・ヨルダン醸造所のワインは、三月から比べるとずっと出来上がっていた。甘みも抑えてあり、概ね上出来で、2010年のような除酸の苦労もすることなく、2008年のような嫌味な酸もない。

それならばどれほど安く、良いリースリングが飲めるかと期待するが、それはあまり適わない。先ず、グーツリースリングは悪くは無いが、風味などで魅力は少ないだろう。価格7.90ユーロをどのように見るか?

ラーゲンヴァインでは、ライタープファードからヘアゴットザッカーと悪くは無いが、10ユーロを超える価値があるかとすると、競争力は可也低い。辛うじてキーセルベルクの10.50ユーロが勝負どころである。この価格でこれ以上に魅力あるリースリングは何処で見つかるか?

その他は、ウンゲホイヤーやアウフデアマウワーなど一連のものは悉く競争力を失っている。但し、安心して楽しめる白ワインであることには変わりない。

そこでブルグンダー種を評価すると、ピノブラン、ピノグリの後者は酸が多い年のものの方が楽しめる。同様にシャルドネも上手に醸造していてソーヴィニオンブランなどは新鮮でよい。ムスカテラーもそつが無い。

甘口においてはイエズイーテンガルテンがその土壌の個性を発揮していて良かったが、2011年は甘口の年ではない。

結局、こちらの消費者としての態度如何である。BGM代わりの音楽鑑賞と同じで食事に自動的にワインを開けるライフスタイルとすれば、なにも考えることなく適当に瓶を開けて、グラスに注いで食事を流し込めばよいのである。そうした需要には、7ユーロ程度で飲み応えもあって、尚且つ飲み飽きしないリースリングがあれば十分なのである。そのような目的にはグーツリースリングが適当である。

しかしである、個人的に、最近は晩酌でストレスを解消するという生活から身体を使ってのリラックスと覚めた状態での身体の緊張と緩和でスポーツ能力を高めようとしているので、アルコールに酔うのがあまり愉快でなくなってきている。

要するに晩酌で開放という生活から、食前酒で食欲を刺激して、食事との相性を楽しむワインとなってきていて、そこでは酔い潰れる感覚から程遠くなってきている。身体の運動量やその他神経系の作用に違いない。

そこで必要なワインであり、薬膳のように薬酌となるワインは特別なワインが選ばれるのである。そこではもはや量ではなくて質が問題となる。なるほどリッターワインは安いが、飲み飽きするばかりでなく、パーティーぐらいでないと残りの不味い気の抜けたワインを飲む無駄が生じるのである。

要するに口が贅沢になったのである。そして特別なワインはところ構わず集められるのだが、どうしてもその発見の頻度からしてドイツのリースリングが多くなるのである。若しブルゴーニュに住んでいたならば全く異なる食生活をしているだろう。

青スレートの研ぎ澄まされた薬草香味のリースリング、玄武岩の肌理の細かな酸と静かな熟成、千枚岩の構築感のある透明感、雑食砂岩の厚かましいまでのゴツゴツ感など、こうしたものを食事毎に愉しめたらどんなにか幸せだろう。

そうしたリースリングを毎年探すのが一苦労であり、価格も嵩む。平素の食事に幾らまでの予算が計上可能か?7ユーロを年間180本開けるところを120本以下と削減すると、平均10ユーロ以上まで質を上げることが可能である。それならばシェーンレーバー醸造所のグーツリースリングなど安くて興味深いものを含めて、上限も上がるので予算を超えない。

ドイツのリースリングは今や価格が高く、私が探して食指を動かすようなものは到底市場には乗らず、あったとしても大変高価な商品となる。エリートのワインであるという意味は、その価格ではなく、吟味や取得、保存、飲み頃の推測などと、とんでもなく難しいからである。私自身も、上手に蔵を回すことで、いつも欠乏状態の在庫からその日の一本を選び出す、殆ど綱渡りのような遣り繰りをしているのである。良いワインなどは箱に余って在庫処理なんてことはありえない。(終わり)



参照:
ゲーテには難しい青粘板岩 2012-05-13 | 試飲百景
二分咲き帰りには四分咲き 2012-03-18 | 試飲百景
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