Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2019年2月

2019-02-28 | Weblog-Index


どこが面白いかと言います 2019-02-28 | 歴史・時事
「デキる係長」の考え 2019-02-27 | SNS・BLOG研究
謎多い麗女が決めるもの 2019-02-26 | 女
「私のこと考えてくれて」 2019-02-25 | 女
持続する宗教的な気持ち 2019-02-24 | 文学・思想
ストリーミング週末始め 2019-02-23 | 生活
「平和を」の心は如何に? 2019-02-22 | 女
決定過程を明白にする 2019-02-21 | 女
歴史的な記録を残す 2019-02-20 | 文化一般
心より出でて、心に入らん 2019-02-19 | 文化一般
小技ばかり長けても駄目 2019-02-18 | 文化一般
待ったを掛ける俳諧 2019-02-17 | 音
テキサス親爺の来訪 2019-02-16 | 文化一般
「ミサソレムニス」な気持ち 2019-02-15 | 音
ブロムシュテットの天命 2019-02-14 | 文化一般
胡散臭さを振り払う 2019-02-13 | 文化一般
こまめなSNS生活 2019-02-12 | SNS・BLOG研究
大当たり二等170ユーロ! 2019-02-11 | 生活
一流の催し物の周辺 2019-02-10 | SNS・BLOG研究
放送管弦楽団あれこれ 2019-02-09 | 雑感
頭の悪そうな出で立ち 2019-02-08 | 生活
「ナチは出て行け」の呟き 2019-02-07 | マスメディア批評
省エネ電気使用通信簿 2019-02-06 | アウトドーア・環境
「キリルと高度に一致」 2019-02-05 | 文化一般
都市文化を再考する 2019-02-04 | 文化一般
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
疲れを残さない足跡 2019-02-02 | 暦
残り二新制作作品のみ 2019-02-01 | 雑感
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どこが面白いかと言います

2019-02-28 | 歴史・時事
天才漫談家林家三平のことを思い出した。先代か先々代かは知らないが初代と呼ばれるらしい。先月日本からの放送でハンス・ロットの交響曲演奏を聞いて思い出した。その後のネットでの評判を見ていると肝心のことを誰も書いていないことに気が付いたからだ。要するに、頭の上に手を当てて、「こうやったら笑ってください」と同じようにそれを解説している節が無いからだ。

ハンス・ロットの何が面白いか、それはパロディーとか元歌取りいう概念を通してしか通じない話として「このネタのどこがおもしろいかと言いますと」と、それを説明しなければいけないのだ。それを誰もしていないように思える。勿論出版屋さんからの資料を旅路の飛行機で目を通しながら珍しい曲を探しているような指揮者はそれを言わない。それをするのが評論家や音楽ジャーナリストと呼ばれるような人の仕事である。

既に結論は述べているが、具体的にロットの曲を今誰が見てもブラームスか誰かのように突き返して、出版屋が相手にしないのはそれは変わらない。それでも演奏する価値があるのは、グスタフ・マーラーがいて、アイヴスのような作曲家とその作品が知られるようになっているからだ。

パロディー云々で話題になるのがその時制的な前後関係だろうが、そんなことはお構いないことは少しでも科学的にものを考えれば分かるのである。我々今その曲が演奏される今日の視座からそのロットの作曲された時点を振り返れば、もはや途中で起こったマーラーやアイヴスの創造の痕跡無しには評価できないということである。これが歴史というものであって、修正主義論者のような第一次資料云々とはまた別な現実である。

つまりマーラーやアイヴスを通してしかそのロットの「駄作」が評価されるしか他にはないということである。そしてそれがもう一度俯瞰した歴史認識に繋がるところが味噌である。こうしたクラシックと呼ばれるような芸術を論じていて、時間の感覚や歴史的な意味を感じさせないような論評などは全く意味が無い。故人の吉田秀和や小林秀雄に一緒にどこかへ持って行ってもらうものだったのだ。如何に日本人がそうした未来永劫の時制の無い世界観を持っているかに相似している。

丸山真男が書くように政治学で言えば「プティングの味は食べてみなければわからない」状況と同じく、「革命」をやってみた後ではその前の状況で「創造」するのとは変わっていて、歴史は不可逆な時制の中で流れているので、戻った時点の視座では考えることが出来ないという原則がここにも当てはまる。

ここで三平さんはおでこにげんこつを当てる。評論とか何とか大袈裟なことではなく、ジャーナリストであればこのようなことは一時限目で学ぶことではないのだろうか?要するになんら教育を受けないでも、ごく普通の世界観を持っていれば誰でも分かることなのである。
【林家三平伝説】寄席に遅れて来た客をも笑いに

Hans Liberg - Toccate und Fuge in d-Moll für Orgel auf Klavier in Hamburg

林家三平(初代):四天王を斬る


参照:
市民を犠牲にやってみた 2008-09-01 | SNS・BLOG研究
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
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「デキる係長」の考え

2019-02-27 | SNS・BLOG研究
本日も暖かかった。パンツを脱いで走れた。それでも明け方は放射冷却で布団の中が寒かった。ここ暫く暖房を消している。昼の温もりを最大限利用している。ワイン街道は日差しが強いのがいい。

昨晩夕食前に指揮者ロート氏のガーディナン紙へのインタヴューの一部を引用して提示した。高級紙にしては通常の紙面らしくどんな音楽をどのように聞いているなどつまらない質問をしているが。一つだけいい質問をしていて、クラシックコンサートの改善点を一つというものだ。それに対して、「コンサートの開かれる時間と場所」と答えている。私などは彼の指揮で通常のコンサートそれも本来ならばギーレン指揮の筈が引退したのでメッツマッハーが振ったマーラーの六番のあとに無料でレートナイトを聞かせて貰ったのを思い出す。

それが付け足しの作品ではなくて二三年で最も成功した新曲としてハース作曲の数台のハーフトーンに調律されたピアノのための協奏曲となかなか手の込んだ演奏を始めたのだった。その後もレートナイトが最後だったが、確かにこの指揮者のプロジェクトでは普通のものよりもこうしたものの方が面白かった。要するにクラシックな作曲や様式ながらコンヴェンチョナルな作品ではないということになる。その点に関してはもう少しブレーンストーミングする必要があると思うが、具体的に休憩をはさむ必要もなく一時間でもよいと答えている。要するに自由自在で、今までの現代音楽コンサートを超えてということだろう。

その他では、この半世紀の作曲された最も価値のある曲としてレポーンを挙げたのは、フランス人としてブーレーズに近づいた人物としてはそれでいいのかもしれない。またタイムマシーンの目的地として20世紀初頭のなんでもありのパリを選んでいた。まあ、カラオケで歌う曲がエディットピアフの愛の賛歌で、スティングのアルバムが最初に買ったアルバムで、最後に買ったCDがブーレーズ指揮のマーラーの九番などはどちらでもよいだろうか。但しこの指揮者が今おかれている位置などがよく分かる。正直最後のフライブルクでのコンサートから暫く冷や飯を食わされるかと思ったが予想よりも早く脚光を浴びるようなところに近づいてきている。

通称「デキる係長」の風呂場の鼻歌を思い浮かべるよりも肝心な本題について頭を巡らせながら、台所に立っているとタブレットで音がするので、まさか数分のうちに反応してこないだろうとは思った。もしそうならば私よりも完全に暇人である。売れっ子の指揮者でそれはありえない。やはりそうではなかったが、起床すると夜中に一時間遅い英国からいいねが入っていた。オルドバラのスネープでの演奏会でもあったのだろう ― 私も忙しいので調べるのも面倒になっている。しかし、通常の情報ではなく恐らく係長のプロジェクトとしていつも考えていることなのだろうから一人にでも多く訴え掛けたいだろう。たとえ高級紙で話してもそれに本気で耳を傾ける興行師などはいない。精々音楽祭や、近場で言えばバーデンバーデンの新体制などで、ブーレーズの家構想ぐらいで議題に上がってくるプロジェクトである。フォロワーが二十人ほどのところで気の毒だと思った。

しかし分からないもので、フォロワーの数など以上に情報が必要なところに届けばよいので、何もマスに届く必要などは無い。実際のどのような経路でどのような人が見るかは分からないのだが、やはりその内容からターゲットへ自ずと届くというのはあるようだ。「音楽の友」のオペラ劇場ベストテンのリストが日本語しかなかったのでアドレスをリスト番号順に入れておいたら、不思議なことにドイツ語圏からばかり反応があった、元記事はトップのミュンヘンで英語で書いてあったにも拘らずである。せめて四位のコヴェントガーデンや七位のウンターデンリンデンぐらいからは来ても良いと思った。十位のチュッリッヒは不本意かも知れなかったが反応があり、二位のメトや三位のヴィーンはもっと不本意だったのだろうか。要するにミュンヘンのサイトをよく監視しているのは「チュッリッヒ」と「ゼンムパーオパー」なのかもしれない。

そのゼムパーオパーがいいねをしてから「ダンケシェーン」を書いてくるまでに数時間掛かっていた。十分に呟きをスクロールされた可能性がある。情報たっぷりだからついついリンクを読んでしまうものもある。ティーレマン関連はもはやこうした担当者はザルツブルクの方での私のコメントを目をしているだろからどこかで関連に気が付いただろう。どんでもなく危ないサイトである。寧ろ、ジルフェスタ―コンツェルトのメスト推しに気が付いて、ブロムシュテット爺の講話をついつい見てしまったのではなかろうか。

ブロムシュテットと言えば偶然にまた一つの演奏会の日程が目に入った。ハイティンク指揮のコンサート同様に行くつもりなどはなかったのだがどうしようかとカレンダーを見るようになっている。その対抗馬になっているのはケント・ナガノとロート指揮の演奏会だ。



参照:
Facing the music: François-Xavier Roth, The Guardian, Mon 30 May 2016
こまめなSNS生活 2019-02-12 | SNS・BLOG研究
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
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謎多い麗女が決めるもの

2019-02-26 | 
ネットを見ていると、アカデミー賞の話題のようだ。関心が無いので流していたら、バーデンバーデンでデズデモーナを歌うソニア・ヤンツェヴァが何かを呟いている。どうもアカデミー賞でベストドレッサー賞を貰ったようだ。映画女優でもないのでオスカーとか意味が分からないが、先日来復活祭のマガジンを見て、メトからの声を聞いて、どうなんだろうと思った。音楽の世界もやくざだが更にやくざな映画界となるとなんでもありなのかどうか?

ブルガリヤの人で個人的には彼女より幾らでも綺麗な女性を知っているが、15歳でモーツァルトのオペラに出合って、ピアノを普通に弾いていた少女がオペラに目覚めたという。それを母親が直ぐに全面協力したという馬鹿話が大きな実を結んだようで世の中分からない。ノルマとかとても厳しい声の役柄をこなしていて、自然にそれが出来ているというのが金の取れるオペラ歌手のようだ。そこに天性の直感で役作りをしてしまうというぐらいでないと、あれだけ若くして世界の頂点には立てないのだろう。

デズデモーナの役作りで、「オテロなんてか弱いよそ者よ」となる。これまた自己決定の強過ぎる女を歌うようだ。相手役のスケルトンの性格の弱さからすると完全に女性上位の舞台で、そのような音楽をメータが指揮することになる。そして、「68年後のフリーセックスから現在のMeTooを通して、謎の多い魅力的な女性が征服されたいのかそうではないのかを自己決定するもの」と言われればご尤もとなるとインタヴューは締めくくっている。

ユロウスキ―指揮のベルリン放送交響楽団の演奏会があった。初日は放送されたがアルペン交響曲の頂上で中断した。放送局の言い訳のアナウンスが如何にもドイツの小役人らしい。なんと「デジタルの時間を調整していなかったので、その通り予定の次の番組へ」とぬかした。あれは放送事故扱いにならずに、つまり予定通りの生中継だったのか?そもそも新曲が18分と長く続き、そのあとも無理に日本公演の準備に押し込んだモーツァルトの協奏曲が演奏された。休憩を入れて優に2時間15分程の演奏会となった。ジャンダルムマルクトの会場にいた人はお得だったに違いない。

次期ミュンヘンの監督になるオペラ指揮者として頂点を目指せる指揮者の日本公演が成功してくれることを望むが、日曜日の諏訪内が弾く実況録音の放送日程までが変わったことで、そこに何か疑惑を抱かせるようなことになってとても残念である。

日本公演のプログラムに関しては既に言及して、足代顎代節約のためにアルペン交響曲を持っていけないのは分かるが、更に日本で人気のありそうなアンスネスと称するピアニストを込みで売り込むのが徒になりそうだ。初日のその演奏が肝心の放送交響楽団までの足を引っ張っていそうである。実際に放送を聞くとまるで顔面を蒼白にして演奏しているようで、二種類の評が書く通り気持ち悪い感じが強い。アンコールのモンポーで何とかの意見もあるが、それもおかしな演奏だ。一寸同じ国出身の頭の悪そうなフォークトという人にも似ていて北欧風なのだろうか。繕うためにメディアはきっとお門違いのレパートリーでの出演だったのだろうと口をそろえて言う。しかしこれではランランより悪い ― 聞くところによると故障上がりという、全く同じだ。そしてこの曲を持って日本へと向かうということだから、プログラム変更のようだ。この演奏ではミュンヘンの放送交響楽団を凌駕するところではないのは明らかだ。



参照:
一流の催し物の周辺 2019-02-10 | SNS・BLOG研究
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活
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「私のこと考えてくれて」

2019-02-25 | 
三月のベルリナーフィルハーモニカーの放送予定が出ている。シェーンベルクの協奏曲のプログラムで場合によっては大きな話題になるに違いない。先ずは3月7日(木)初日にラディオ生放送である。金曜日を空けて再び最終日の土曜日に今度はDCHで放映となる。ラディオ放送があるので無理して生で見る必要はないのだが、アップロードされる時期などが確実でないと資料にならないことがある。やはり一週間券をそこで購入しよう。その一週間前のメータ指揮コンサートはその次の週ぐらいにアップされるだろうか。そろそろ復活祭の準備である。ベートーヴェンも考え直し、後期の作品群へと同時に目を向けさせてくれるのも指揮者のキリル・ペトレンコのお蔭だ。

ペトレンコの場合、それをプロジェクトとして差し出すことは無いのだが、オペラも含めて絶えず関心の矛先が明確にあって、私のように並行してお勉強するものには僅かばかりでもその環境に触れることが出来る。嘗て小澤征爾がどこかでオペラを取り上げる前に態々日本語で日本で上演していたのとは一寸違うプロセスだ。とても音楽芸術的に核心を垣間見ることになる。しかしそこに夏のプログラムのルル組曲がどのように係ってくるかはまだ分からない。またトリノで指揮する「英雄の生涯」はこのところのロート指揮のそれやユロウスキー指揮の「アルペン交響曲」のように明らかにリヒャルト・シュトラウスの作品が今漸くやっと本格的に理解されるようになってきた。ユロウスキー指揮の演奏は残念ながら中断されてしまったが、頂上前まででも多くの示唆を与えるもので、指揮者が語っていた本来のニッツェ交響曲的様相は確認できた。時間が空いた時にもう一度の放送までに楽譜を片手に詳しく検証するに値する演奏だった。

ブロムシュッテット指揮のクリーヴランドでの演奏会ライヴを録音した。なぜかスコットランド交響曲のコーダで落ちてしまっていた。余分な繰り返してもしたのだろうか?それは冗談として、その前のメトからの「ファルスタッフ」も録音失敗したので注意していたが原因は分からない。そこでロールデビューするゴルダ・シュルツ嬢は私のことを覚えてくれていたようで、寝起きに一言呉れた。どういう関係にしても「私のこと考えてくれてありがとう」と若い女性に書かれると内心穏やかではいられなくなる。スケベ心で男は皆、「俺に気があるのかな」とかいい加減なことを考えるのだ。なにも舞台で目線を貰う必要などは無い。

結構彼女のこと呟いているのだが普通のあの年代の女性として、おっさんらしきが書いたものなどには興味が無い。それでも昨年彼女が出演していたBRクラシックの番組に呟いて、ホストのノイホッフ氏が反応したことがある。あれは彼女にとっては記憶に残るに十分だったと思う。やはりファンがいて番組に反応するというのは鼻が高く、局にも大きな顔をできる。その二週間後ぐらいに今度はロート氏が出ると呟いていたが、私は放置しておいた。実際番組も聞かなかった。理由はハッキリしていて、ロート氏のドイツ語ならあまり聞いて楽しいとは思わなかったり、一部で囁かれるように「出来る係長のオヤジ」には興味が無い。そもそも人の関心を引こうとしてSNS活動をしていない。兎に角贔屓目なしに彼女の出た番組は良かった。

そのようなことで私が放送を録音して何かに気が付けばコメントするべきだと思っていたのだ。そして何かを書き込む限りは、私の沽券もあり、彼女に為になることを書かなければいけなかった ― また来週二度目のチャンスがありそうだ。しかしそこまでいくとSNS活動も無料の範囲を超える。それでなくても「所属タレント」を多く抱えると彼ら彼女らを追うだけで大変なのだ。それはフィンレー氏やロート氏のように頻繁に反応してくるのは当然で、ペトレンコは隠れているだけで、とても大きなヴォランティア活動になっている。それも私などのように業界の動きが分かっていると、何が不足して何が効果があるか分かっているので無料でこうした人が助けてくれればタレントはとても助かる。所謂ファンクラブのお遊びや自己満足とは異なるところなのである。

それにしてもSNS活動は顔が見えないだけで、場合によっては結構な影響がある。一寸何かが変わったかなと思うのは、ザルツブルク復活祭への書き込みで、あれは結構業界では話題になっているのではないかと思う。初めは一般の反応が大きいかと思ったが誰も興味を以って独英の二面のサイトを見ていない。二か月経過時点で英語サイト700回で独語サイト1400回超え程度である。ざっと見積もって数百人が新演出の「マイスタージンガー」に興味を持ったぐらいである。そして三分の一ぐらいは業界人ではなかろうかと思う。ティーレマン本人の目にも入っただろう。勿論次期の支配人バッハラーも見ている。話題にならない筈がない。匿名とは言いながら、不都合なことも増えるのであまり旗色を明白にしたくはないのだが致し方が無い。



参照:
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
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持続する宗教的な気持ち

2019-02-24 | 文学・思想
金曜日の夜は、予定通り、二つの放送を同時に流していた。音楽はベルリンから、映像はミュンヘンからである。後者のハイティンク指揮の演奏風景を見ていると感動させられるものがあった。音楽は録画したものやところどころタブレットで確認しただけだが、視覚的なそれと実際の音に殆ど差異が無かった。本当に不思議なものだ。私は、まるで耳が聞こえなくなった楽聖の境地に至ったのだろうか?子供のころから楽聖と言えばこのエピソード無しにはこの作曲家のプロフィールに至らない。

しかしここに来て、ここに楽聖の音楽の核心があると思うようになった。上のハイティンク指揮の演奏をまだ吟味してはいないが、感動したのは僅か二回ほどその指揮に接して、一度は近くでそのたたずむ姿を見たからではないと思う。なるほど映像でも分かるようにこの放送交響楽団の弦楽器陣も決して優秀ではなくクーベリック監督時代からその冴えなさは変わっていない。そしてそれは音でも確かめられる。しかし、そのようなことではない、もはや私の呟きの隠れ取り巻きとなったジェラルド・フィンレーが歌う「このような音ではない」、ここに全てがある。

承前)楽聖の音楽に少しでも熱心になった者ならば誰でも、その音の設計図から打ち鳴らされる物理的な音響とは異なるところにこそ楽聖の精神が宿っていることに気が付く。音響自体はその精神を楽譜という形で書きとどめたものに過ぎないことを。

「ミサソレムニス」に戻ろう。楽聖が注文を受けてミサ曲の作曲に取り掛かる。1818年のことで構想から1819年4月には熱中した作曲へと取り掛かり、ルドルフ二世の式典には完成が間に合わなくなる。これも書簡からはっきりしていることで解説書に書いてある通りだ。その遅滞の大きな理由は規模が肥大化してしまったことも語られる。そこまで聞くとまさしく汲み尽きない創造力ゆえの事情を感じることが出来るのだが、そこからが面白い。楽聖はそこから盛んにこの楽譜を売りに出していたということだ。生活のためだが、マインツのショットに限らず、手当たり次第に十件から予約金を取って回ったらしい。しかし、つまり見本を渡して、全曲が完成しているのにも拘わらず、楽譜をコピーされてしまわないようにグロリアだけを抜いて予約を取り、表向きの完成を遅らせたというエピソードである。もう一つのエピソードは、ザンクトペテルスブルクで全曲初演された事情が、ヴィーンにおけるミサ曲の教会外での禁止から、第九交響曲と組み合されてクレドからサンクテュス、ベネディクスのミサの核心を除いた形でヴィーンで演奏された。この二つのエピソードから何を読み取るか?

なるほどグローリアだけは簡単に渡せなかったのもそれだけよく書けているからだろう。正しくこの曲を「合唱交響曲」と名付けようとした意図もそこに知れるところである。作曲技法的に、丁度後期の作品の特徴として、長短の和声法と対位法的な折衷となり、つまりその間に創作された中期の交響曲などのベートーヴェン的作曲技法のような完成度が無いともいえる。この曲が困難な事情はそうした技法的事情とそして第九のように付け足しではなく全体がミサ典礼のラテン語のテクストやフォームに縛られていることにもあるかもしれない。ところが、楽聖は友人に更に重要なことをこの曲について語っている。「歌うことにおいても、聞くことにおいても同様に宗教的な気持ちを目覚めさせる、それに持続性をもたせる」。この宗教性に関して劇場のマガジンに記載されていて、それはオーソドックスなカソリックの信仰ではなく、楽聖は多神教について言及していたという。このテーマを掘り下げると恐らく最も重要で近いヘーゲルの思索へと進むかもしれない。しかしもう一度この楽聖をプロファイルすると、全てが青年時代に即興ピアニストとして頭角を現したその前歴に浮かび上がってくる。

そもそも後世の作曲家や音楽学者はその作曲形態を理論として扱うことで分かり難くなるものが、突然見えては来ないだろうか。交響曲においても無駄の無いような進行や繰り返しそしてダイナミックスや和声的な流れを見るときに、その即興演奏の才能を思い浮かべると分かり易い。まさしくこの「ミサソレムニス」における全体の構造的な流れもそのように捉えるべきで、この合唱交響曲にはベートーヴェン的な作曲理論が通らないところでもある。勿論ミクロ構造において、しかるべきテーゼ・アンチテーゼに相当する音楽付けがあり、それがポリフォニー的に三次元に広がることも重要かもしれない。

ここまで来ると最後の疑問である唐突な軍楽隊のエピソードの謎も徐々に解けてくるかもしれない。中期の諸作の方をある枠組みに入れてしまうと、即興ピアニストベートーヴェンと後期の諸作における形態がとても上手く調和する。すると今度は「楽聖の精神」の飛翔する方向へと関心が移り、劇場のガイダンスでは「謙遜」という言葉をキーワードとした。そのままのカトリックにおけるそれから逸脱して、それどころか厭戦気分の漂う啓蒙思想の理想主義へと熱を上げたところに宿る精神とは、こうした公開演奏会の形で催されるイヴェントにこそ宿る。楽聖の音楽においての経験とは、歌うにしても聴くにしても繰り返されることでも継続的に宿るものなのである。

更に最初の疑問への答えを出しておこう。つまり演奏云々を言うのは間違いではないかという疑問である。しかし言及したように楽聖自身が宣言していて、演奏行為自体に意味があるとして、このミサ曲においてはアマチュア―の合唱団がその価値を引き継いだことになる。それが長続きする宗教的な気持ちにあたる。するともうそこに見えてくるのは第九の合唱だ。それを実現しているのは彼の極東の国ではないか。(続く)



参照:
ストリーミング週末始め 2019-02-23 | 生活
古典に取り付く島を求め 2007-10-23 | 文学・思想
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ストリーミング週末始め

2019-02-23 | 生活
金曜日は、幾つかの録音録画が相次ぐ。先ずはミュンヘンからハイティンク指揮の第九である。ベートーヴェン絡みでも参考資料になるが、ハイティンク氏が今年限りで引退してしまうと生中継を録画する機会はそれほど多くは無い。もう一度ロンドンで3月10日にブルックナーの「ロマンティック」などがYouTube中継される。夏のフェスティヴァル週間もあるだろうが、まだまだ指揮は安定しているので通常の演奏会を記録しておきたい。個人的には二回続けて行って見極めたので、今後無理して出かける必要もなく、近場で演奏することもなさそうなので、ネット配信で十分である。

それと同時にベルリンからアルペン交響曲などが放送される。これはDeutschlandKulturのストリーミングの質が低くても、最も歴史のある放送交響楽団の実力を見極めて、指揮者ユロウスキーの今後を占うためにも聞き逃せない ― 彼こそはドルニー体制のミュンヘンでオペラ指揮者として大物になると期待している。

それが終わって深夜になると、メトから「ファルスタッフ」がストリーミングされる。マエストリが主役だが、ゴルダ・シュルツもナネッタのロールデビューとして出る ― ご本人は中継のことを告知していなかったので早速書き込んでおいた。こうなるとどうしても聞かなければいかず、少なくともタイマー録音をしてみる。ご自身が紹介しているインタヴュー記事を読んだ。楽譜を開けるたびに考古学的発見があるというが、声にも合う役だという。その可能性に関してはBRのインタヴューで話していたが、遅咲きの歌手にとっては声つくりが限られるらしいが、一方で母親の言葉として「求められばこそ、困難な道も容易になるから」と語っている。

先日の「ドンジョヴァンニ」の中継はまだ良く聴いていないが明らかにマイスター指揮の冴えない程度が分かってしまった。

木曜日午前一時前にミュンヘンから帰宅して、色々としていううちに三時に近づいていた。五時にはアルテで再々放送が始まる。目覚ましを掛けて二時間弱の睡眠を貪った。結局動画の方は止まってしまって失敗したが、音声は取れた。それでも音飛びしたので、もう一度繰り返した。思ったよりも高音質で録音できた。更に動画も前番組として取り直したら使い物になるコピーとなった。オンデマンドと変わらないのかもしれないが録音方法をデジタル回路の中でしたので音質が上がったのだろう。

改めてその演奏を聞くと遠くで聴いていたよりも鮮烈な演奏だった。とても良く合っている事は知っていたが、会場ではワンのピアノが食われていた。それでもこの演奏を見聞きすると、この女流の質の良さが確認された。合わせることも上手く、室内楽も間違いなくいいと思う。インタヴューでペトレンコとの共演にも触れていて、いつも少しづつ変えてくるというが、実は彼女も変わっているのだと感じた。お互いに間合いを計っているからだ。ベルリンでの共演の時はインタヴューのオッテンザムマーに「(ペトレンコに)イスラエルで連日の共演を通じて自分のテムピを覚えて貰った」と嘯いていたが、実は上のヴィデオを観ると遥かに精密になっている ― イスラエルでの録画ともう一度比較してみたい。当然イスラエルフィルは合わせるのに躍起で、細かな音楽は出来ない、しかしベルリンは四月に続いて重ねるうちに拘って演奏してきている。そうなるとワンの方も影響を受けてきていた。奇しくもインタヴューで、「フィルハーモニカ―は極限まで追いつめてきて、若い人もいて、凄く今の現状に肯定的である」と話している。流石にカーティスで頂点の教育を受けている人らしく、
室内楽的に音楽をすることを身に着けている。

もう一つ気が付いたのは試し引きの後で指馴らしでシューマンの協奏曲を弾いていたことで、あれだけの過密な日程でも旅先でああして準備しているのかと思った。色々なところを見ていても本格的デビューからそれほど年数を経ていなくてもそのコンサート回数に比例して通常の人ならば何年もかかるような経験を積んでいることも分かった。サウンドチェックを兼ねた楽器選びで人が入った時をしっかり予想して選択していることなど、流石にプロフェッショナルだ。その割には当日上の席では管弦楽とあまりにも一体化してしまって目立たなかったのも興味深い。作曲家もそこまでは予想していなかったかもしれない。

平土間の比較的前列にレジデンスの作曲家リーム氏が居座っていて、隣の奥さんか誰かと感心して話している。これもとても興味深い。ワンへの曲の献呈もあるかなとも思った。そしてワンは、ペトレンコを称して「ミラクルな指揮者」としている。これも中々気が利いている。



参照:
小技ばかり長けても駄目 2019-02-18 | 文化一般
独墺音楽のコムパクト 2018-09-01 | マスメディア批評
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「平和を」の心は如何に?

2019-02-22 | 
「ミサソレムニス」最終日を聴いた。ガイダンスにオペラでもないのにも拘らず多くの人が集まった。比較的若い人もいた。私などが感じるのは、ミュンヘンであるから、そのミサ典礼文には馴染んでいてラテン語の知識も教育の高い人ならば楽聖以上に持っていると思う、それでもこれだけの人が何かを聞こうとしている。

音楽会について先ず手短に報告しておこう。先ず管弦楽の編成の大きさと合唱団が全員揃っていることは、情報を聞いており、更に今回の企画からして予想していた。コントラバスを並べて、大合唱団のバスを支えていた。そして歌手陣で驚かされたのはオッカ・フォン・デア・ダメロウで、最初に聞いたのがバイロイトのぶっといヴァルキューレであったが、その後重用されていて、メトでも活躍している。要するに便利ないい脇役さんぐらいにしか認識していなかった。それがどうだろう、コンサートであれだけの声量で、あれだけ細やかな歌を聞かせてくれるとは思わなかった。この分野では今トップクラスの人であると確信した。あの見映えで損をしているだけで、歌唱の実力は素晴らしい。ベルリンでも今後まだ引っ張られると思う。

ペーターセンの歌は難しい歌をこなしていて、重要な切っ掛けを作っていたが声の調子としてはもう一つではなかったか。マイスタージンガーでのダフィート役しか知らなかったブルンズも全然悪く無く、ナズミの低音も良く効いていた。

合唱は、なるほどソプラノの声質が十分に磨かれていなくて、歌劇場ではそれで通るが、大人数の合唱となると厳しいのだと分かった。考えれば分かるように殆どのオペラのソプラノは少人数の合唱が多く、ソプラノ歌手を差し置いて前に出てくることがそれほど多くは無い。その分、中域が確りしている方がいい。「タンホイザー」日本公演でも批判があったが、それはコンサート合唱団と比較すれば当然で、私がレフェレンス録音としているヘルヴェッヘ指揮のゲントの合唱団などのような特別な合唱団と比較すべきものではない。

その通り私がいつも言っているように管弦楽団も座付であれば、合唱団もアインザッツも更に遅い座付なのだ。どうしてもベルリナーフィルハーモニカーが弾いたらとか、第九はどうなるのかを考えながら聴くのだが、キリエにおいてもトレモロと対照的に必要なところはヴィヴラートを押さえ透明な響きを下敷きにして、クレドにおける情景の色付けやベネディクスなどの歌劇のようになるとこの表情が素晴らしく、あれは座付にしか出ないと思った。反面同じクレドにおいてのキリル・ペトレンコの指揮は遥かに厳しいもので、同時にそこにフォルハーモニカ―の響きを聴くと、とても物足りなかった。合唱もフーガをよくさらっていたが、歯切れのよい管弦楽にはスーパーな合唱団が必要となる。改めてペトレンコの音楽は劇場向きではないと思った。最後のアニュスディにおけるテムピのフィナーレの作り方も本格的な成果はフィルハーモニカ―との演奏を待つことになるだろう。

さてここからが本題である。そもそもこの曲を聞きに行くのに演奏者がどうだこうだという議論自体が誤りではないかという疑問がある。尤もな懐疑であるが、これは楽聖の音楽を考えるときの重要な議論となる。このミサソレムニスにおける完成までの経緯を考えれば見えてくるものがあり、予め言及していたこのミサ曲の形をとった創作が一体どのような作品であろうかという回答にも代わる。

ミサ曲として依頼を受けて、構想を練っているうちにとんでもなく規模が大きくなっていく、その創作の背景を見ていくと、例の第九の殆ど破廉恥な四楽章の意味も見えてくる。それどころかこの曲ではアニュスディに軍楽が出てきて更に平和を祈る。その意味の解説があった。それは一般的な社会情景の紹介つまりナポレオン戦争が欧州に落とした厭戦感でもある。丁度第二次大戦後の世界に似ていたという。大規模な破壊と犠牲者が出て、市民たちはもう二度とと思った社会情景である。

そこまでの説明であると、楽聖が「平和を」と書いた音楽が平和主義者のイデオロギーのための音楽としか考えられない。それならばあの唐突な感じの軍楽はあまりに幼稚ではないかとも思われかねない。第九のそれに負けないほどの馬鹿らしさになる。私はそこまで考えてヘルヴェッへ指揮の全曲を往路何回か聞いて、漸くこの曲の全体のプロポーションとその効果を把握できるようになった。正直ほっとした。つまり楽聖がここでこのような音楽をどのように挟んで次はどう、そして最後はこうといった設計図を作りながら細部の叙述法を確認していくということになる。それを裏付けするような逸話がガイダンスで出たのであった。(続く



参照:
腰を抜かすような響き 2018-12-30 | ワイン
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
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決定過程を明白にする

2019-02-21 | 
高速ネットが復旧した。電話を掛けてから数時間である。大組織もやればできるではないか。クレームの状況説明中に電話が途中で切れたものだからどうするだろうと思ったら調べてくれたらしい。先ずは助かる。こうなるとミュンヘンから午前様で帰宅しても早朝五時にはモニターの前に座って録画準備しなければいけない。それを切っ掛けで苦情したのだ。

その映像で私自身はどうかなと思ったがカメラの視角には入ってなかった。少なくともユジャワンの出番の時にはである。肝心なのは並びに座っていたフライイング拍手につられた時だが、その音は入っているに違いない。その時のペトレンコの表情は如何に。このコンサートの全編はラペリとフランツシュミットの曲で可成り芸術的価値は高い。是非全編を聴く若しくは観てみたい。

恒例のようにミュンヘン行の準備をした。先ずはヴィデオ資料と楽譜をタブレットにDLした。移動中に何回聴けるだろうか。燃料は127セントでそれほど安くはなかったが、よし。エンジンオイルも250㏄ほど足しておいた。今回のミュンヘン行で冬の市内への走行は終わり、次回は七月である。距離もあるために先ずは何とか無事に往復したい。余談だが、ルクセムブルクの帰りの記念撮影は未処理になったようだ。駐車中の車からの撮影であり、あまり綺麗に映っていな可能性が高い。数週間経ているので先ずは解決だろう。減点にはならないがブレーキの掛かりが悪かっただけで、何十ユーロか取られるだけでも腹立たしい。

今回はコンサートなので始まるのは20時だが、ガイダンスがあるので、結局早めに車庫入れする。18時から価格は夜間料金なので、そこに合わせる。そこから買い物も済まして、駐車料金も払ってから、劇場である。終演後21時半に車を出せるかどうかだ。その時間ならばなんとか居眠りにならない。

出かけるのが13時過ぎになるので、午前中は仕事も出来る。ゆっくりブランチを摂れる。問題は曲をもう一度通してみる時間があるかどうかだ。そのためには、お弁当もある程度準備しておきたい。肉屋で調達するか、さてどうしよう。

その「ミサソレムニス」の二日目にはマイクが入っていたようだ。恐らくバイエルン放送協会で批評をしていた人が確認したということで録音に踏み切ったのだろう。独立放送局といえども公的機関であり公的な資金を使うには役所的な決定過程がはっきりしていなければいけない。そもそものこのコンサートが放送対象になっていなかったのは放送楽団付の合唱団が存在するからで、なぜ他所の合唱団の演奏をとなる。だからその芸術的な価値を判断した上でしか決定できなかったのだろう。三日目も同じように録音すれば編集も可能であり、貴重な記録となる。決定過程さえ明白ならば評議委員のAfDの政治家が何と言っても問題とならない。ドイツの放送局の決定は全てそのような各政党の代表者が視聴者の代表として評議をする。

前回ミュンヘンへの途上ヴンダーリッヒの娘さんの声を車中のラディオで聞いた。彼女にお会いしたのは十五年ほど前のことだから、ピンと来なかったが、声の感じが確かにそうだった。但しあのころは娘さんで、流石に今は声が落ち着いていた。名前を聞いて気が付いたのも、フリッツ・ヴンダーリッヒ共演の録音も出てきていたからだが、番組自体はスイス出身のリサデラカーザの記念番組だった。そもそも名歌手の名前からスイスのチーズで有名なエムメンタール地域の出身とは気が付かなかった。リヒャルト・シュトラウスに直接見出されたのも知らなかった。アラベラの声はリサデラカーザだということになるらしい。ヴンダーリッヒの娘さんとお会いして話が出来たのもそもそものお里がプファルツであったことからで、確か当時はミュンヘン在住だったと思うが話しのネタがあったからだった。



参照:
ヴンダーリッヒ嬢/Frau Wunderlich 2004-11-25 | 女
指揮芸術とはこれいかに 2019-01-08 | 音

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歴史的な記録を残す

2019-02-20 | 文化一般
燃料を安く満タンに出来そうだ。それだけで差額は大きい。さて幾らになるか?ミュンヘンから帰宅した早朝にユジャ・ワンが演奏した現場にいて観れなかった番組が放送される。録音だけしたいのだ、折角だから止められているネットの苦情を出しておいた。あまり期待はできないが、放っておいては埒が明かないので苦情だけは入れておかないといけない。

キリル・ペトレンコの就任お披露目コンサートは8月25日と新聞にある。日程的におかしいなと思って、ザルツブルクの公演を見ると丁度その夜は一回目の公演だ。つまり24日土曜日が正しいのだろう。第九の演奏会で、翌日午前中に飛んでザルツブルク入りなのだろう。合唱団を含めて過密スケデュールである。若しくは土曜日をマティネーとして、その日のうちに飛んでしまうのだろうか。ただ一回の慌てた公演ということで、一寸不思議なお披露目になるのか?

新聞のネタは会場周辺の閉鎖のことについて書かれていて、南、西からやってくるものは金網沿いの不便なアクセスになっていて、シャローンヴェ-クは出来上っているのにも拘わらず、閉鎖されているのは自転車道路への認可検査が終わっていないからという。当分工事現場状態は続くようだが、上のお披露目に合わせて全てが完了する見込みらしい。

演奏会自体は、マルリス・ペーターセンも歌うルル組曲に始まって、第九で開幕となるのだが、昨年の二日目があったのに比べると若干ベルリンの人には物足りないのではなかろうか?更に初日は関係者などの招待も多く、当日の券を入手するには定期会員など何かに属していなければ難しいのだろう。演奏会自体は中継されるので ― 恐らくパブリックヴューイングでも ―、世界中で多くの人が観ることになる。しかし、このプログラムだけで、ツェッチマン支配人が語ったようなモニュメンタルなお披露目となっているかどうかは疑わしい。上の情報の不正確さも相まって、やはり何かそれ以外にあるような気がする。少なくとも公開練習とかが事前にあるのではなかろうか?

ベルリナーフィルハーモニカーが古いフルトヴェングラー指揮の放送録音のオリジナル磁気テープを新たにデジタルリマスター化して販売している。興味深い録音も少なくないようだが売値で220ユーを超えている。何枚組か知らないが箱も大きく場所も取るので到底手が伸びない。欲しいものだけを欲しい時にDLするぐらいでいい。ネット配信は嫌いであるが、こうしたものは公共の財産としてリマスターリングも何もかもできる限りヴォランティアで賄って、無料で提供すべきものである。この辺りがそもそも端から経済的に破たんしているデジタルコンサートホールの限界だと思う。こうしたもので売り上げを上げようとするのは見苦しい。

それに引き換え、音質は悪いかもしれないが、ロスアンジェルスのシェーンベルクセンターのサイトでは無料で古い録音が聞ける。これも音質的に整備すれば金が掛かるのかもしれないが、特に自作自演の歴史的録音としての価値は高い。そもそもシェーンベルクが生活のためとは言いながらこれだけ頻繁に指揮をしていたとは知らなかった。これとフルトヴェングラー指揮の録音との商業的な価値の差は大きい。

なるほどキリル・ペトレンコは1920年代台ごろのフィルハーモニカーのレパートリーに再び光を当てるためにフルトヴェングラーの演奏記録を研究しているが、精々それ以前の管弦楽の鳴りを研究するぐらいで、いざシェーンベルクなどを指揮するとなると俄然こちらの録音の方が価値が遥かに大きい。

そのグレの歌の「野鳩の歌」の方もいいが、浄夜がなぜか全く異なったニュアンスで演奏されている。この辺りもまだまだ比較的盛んに取り上げたカラヤン指揮の弊害が残っているかもしれない。ペトレンコ指揮の初期シェーンベルクにはそれほどの期待は無いが、徐々に系統的に取り上げて行ってくれれば新たな巨大な山脈がそこに聳え立つことになる。

奇しくもミサソレムニス公演を超えて、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の準備を始めたことになった。それにしてもコルニルドレの練習風景は何だ。あのヴィーン訛りのブロークンな英語かドイツ語か分からない指示は。真面目腐ってインタヴューに答えているようなものしか聞いたことが無かったが、そこに可成り強い印象を受ける。



参照:
Der Weg zur Philharmonie wird zum Parcours, DerTagesSpiegel vom 19.2.2019
心より出でて、心に入らん 2019-02-19 | 文化一般
黒い森からの今と昔の像 2018-10-21 | 文化一般
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心より出でて、心に入らん

2019-02-19 | 文化一般
Von Herzen – Möge es wieder – zu Herzen gehen

日曜日のマティーネコンサート「ミサソレムニス」評が出ている。先ずはバイエルン放送協会のものである。自分自身そこには居なかったが、夕刻に再度目を通してみて、更にコンサートの様子を聞いたので、様々なことを考えた。先ずは形式で、指摘されるようにキリエはとても纏まっていて、最後のアニュスデイで戻ってくる形になっている。三部構成でそれで安心していると、合唱交響曲同様軍楽が外から聞こえてくる。要するに楽聖における形式というのは叙述法でしかない。

その評では管弦楽は完璧だが、合唱団はそこまで至っていないとある。具体的にはソプラノパートが一体化しておらず強さが無かったとしている。実際に練習不足か何かは分からないが、パートごとに練習量がそれほど異なるのだろうか。あり得るとすれば忙し過ぎて声が出ていないということはあり得る。管弦楽に関してその割には、舞台一杯にと書くだけで全く具体的な口述が無い。日本のクラオタは何とかシステムとか数字を書き入れるが、私はそれもあまり見かけたことが無い。そしてここではなんら数字が出ていない。

上の叙述法と絡んでテキストの問題が劇場のマガジンで述べられている。それによると楽聖のラテン語力が充分でなくドイツ語訳を手元に作曲したとなっている。これも実は日曜日の夕方の思索の一つで、ラテン語に楽聖がどのように音符を宛がっていたかということにもなる。異なる言い方をすればラテン語無視に器楽的に作曲されていないかという疑惑である。当時も今も誰も活きたラテン語を使っている訳ではないから、教会の伝統のミサ典礼とそれに纏わるグレゴリオ聖歌からの膨大な音化と抑揚の伝統でしかない。要するに楽聖にとっては、ドイツ語圏の教会で使われるようなアクセントが基準であったのだろう。それが既にゲルマニズム化していたとしてもおかしくはないだろう。例えばバッハのロ短調ミサと比べてどうか?

同時に上のソプラノパートへの指摘に見られるようにフーガやフガートにおける対位法的音楽の扱いである。そこから直接後期の弦楽四重奏団へと結びつけるのは容易いが、本当に第九を挟まずにそのように短絡してよいのだろうか。同時に長短の和声構造の音楽表現と考えるとまさしく後期の作風となる。するとこれまた第九は?との疑問が生じてくる。

その一つの問いかけとして、上の双方で指摘されているベネディクスにおける主観的な表現が、人によれば劇場的とされる。ここでまた「フィデリオ」における「暗闇から光へ」の誰もが楽聖のアイコンとして挙げるものだけでなく、ドンピサロとロッコの二重唱のその音楽に言及しておきたい。それについてまだ踏み込んで書けていないのだが、ここでとても重要になってくることを確信した。つまり、教会音楽、劇音楽、コンサート作品といったジャンル別とは異なるものは?主観客観もその一つかもしれないが、それだけでは足りない。具体的には、私たちがその音楽の付け方から楽聖を本当に身近に感じる作風か、または舞台的な効果が齎されていると感じるかの相違でもある。

言葉を換えれば、態々第九でもやったように軍楽を出してきて、驚かせておきながら「平安を与えたまえ」との給う態とらしさは劇なのかイデオロギーなのか?それならば、楽譜冒頭に「心より出でて-願わくば再び-心に入らん」と手書きしてあるのは?



参照:
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
「ミサソレムニス」な気持ち 2019-02-15 | 音
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小技ばかり長けても駄目

2019-02-18 | 文化一般
新聞にパルテンキルヘンの話が載っている。そこにブラームスの友人で「パルシファル」の初演者であるヘルマン・レヴィが祀られていた。当然のことながらナチによって破壊されて、その亡骸をミュンヘンのユダヤ人墓地に移す計画が浮上していた。ブラームスの一番を初演したカールツルーへなどと同じように戦後に名誉市民として記念しようとしたようだが、忘れ去られた存在になっていたことから、様々な経過を辿って、今回整備の上に式典が開かれる。そこにミュンヘンの後任者の一人であるキリル・ペトレンコが国立管弦楽団を連れてコンサートを開くという話題である。

場所はガルミッシュパルテンキルヘンのコンサート会場でしかないだろう。三月の「パルシファル」公演前ぐらいに出かけて、「パルシファル」から数曲を演奏するのだろうか。それとも「マイスタージンガー」から数曲を合わせて演奏するのだろうか。

夜中に録音をしながら寝室ではうっすらと音が流れていた。ボストンからの中継である。気が付いたのはブルックナーの九番になってからであるが、あまり冴えない感じだった。終了時刻を待ってトイレに立つ序でに先ずは電源を下ろしに階下に行った。予定通り二時間半を録音しておけば欠けることなく最後まで録音できる。生放送時の注意である。

起床後に録音を鳴らしてみた。最初も比較的正確に始まっていた。ワンのインタヴューに続いてざっと流してみて、思ったよりもシューマンの協奏曲がよかった。それもワンのピアノにホロヴィッツとか恐らく知らないがワッツとかのアメリカのピアニズムの伝統を聞く。だからボストンでアルゲリッチの代わりに飛び入りしてスターダムに上がった女流であるが、その手本を完全に超えていると思った。アルゲリッチの協奏曲もギーレン指揮のチャイコフスキーをフライブルクの音大で聞いたことがあるが、ワンのように立派なピアノは弾かない。ワンは昨年の夏にルツェルンでプロコフィエフの三番を聞いて、アンコールが付いただけだったが、プロコフィエフよりもシューマンの方がよいかもしれない。なるほど今後メインストリームのレパートリーが増えてくるのだろうが準備期間さえ十分にとれば直ぐに天下をとってしまいそうな勢いである。

ネルソンズ指揮のボストン響もテムポ設定など従前に打ち合わせて上手に付けていて見事だと思うが、一方で物足りなさもある。それは後半のブルックナーでより明白になる。一言で言えばもたもたしている演奏で、いまどき求められていない演奏だ。この指揮者はゲヴァントハウスでもバスの量感や流し方に留意して、全体のバランスをとる意識をしている。恐らく自身が管弦楽団でトラムペットを吹いていたのでそれとのバランスをとる十分な量感が欠かせないのだろう。それは構わないのだが、放送などでも顕著になるのは若干ブヨブヨさせてしまっていることで、キリル・ペトレンコなどが奈落においてさえも徹底的に音価を守って締めてくるのとは正反対である。

残念ながらボストン響はベルリンのフィルハーモニカーとは異なって徹底的に押しつけがましくバスに上乗せしてくる弦が無い。ベルリンでそれを推し進めていくとカラヤンサウンドに近づいてくる。ペトレンコの場合はアンチカラヤンが先に有って締めてくるようにとられないのは、全てにおいて締めて来ているからで、一つ筋が通っている。それによって新生フィルハーモニカーでは徹底的に引き締まったバスが高弦に負けないほどの鋼のような低音を響かすことになっている。現時点ではそれに相応するだけのハーモニーを木管や金管が築けていない。

ネルソンズ指揮のこうしたブルックナー演奏ではどうしてもエピソード的なものをことさら強調する形でしか表現できずに、他の楽曲に比べても殊更感が鼻につく。特に楽員のソリスト的な音楽性を尊重しようとすればするほどチグハグ感が高まる。前夜のハーディング指揮にも共通するが、特にブルックナーでは小器用な指揮が徒になるようだ。クナッパーツブッシュまでを出す必要はないが、ブロムシュテットでもラトルでもそんな小器用な指揮はしない。ティーレマン指揮でもブルックナー演奏が全然よくないのは出来もしないのに要らないことをやってくるからである。まるで宇野功芳のようになってしまった。

ここまで言ったなら序でに吉田秀和調で、お相撲のお話しにしよう。ネルゾンズにはそのゲヴァントハウス管弦楽団とともに期待しているが、上のような演奏実践で正しく関脇なら許されるとったりとか足取りの業に似ていることをするのである。なるほどその番付で金星をとるには必要かもしれないが、あまり感心される技ではない。大関昇進を望むならばぐっと我慢して凌ぐことも必要である。客演指揮の数を落としても結局メディア産業の録音プロジェクトに乗せられると、つまらない小技ばかりに長けて綱を掴めなくなる典型である。



参照:
待ったを掛ける俳諧 2019-02-17 | 音
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
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待ったを掛ける俳諧

2019-02-17 | 
楽劇「サロメ」の券が届いた。思ったよりも早く送ってきた。業務はどんどんと進んでいるのだろう。「サロメ」単独は殆ど出てしまったのかもしれないが、他の券と兼ね合せ注文はまだこれからだろう。早速公式交換サイトに「サロメ」が出ていた。売りも二枚組の私と同じ日の平土間の同じクラスが出ていた。第一希望で当たった人なのだろう。それ以外にも日にちを変えたい人は敗者復活で欲しい日が入らなかったのだろう。反対に求めている人もいるがまだ本格的ではないかもしれない。最終結果が出たらもう少し盛んになると思う。発売日初日に並んだ人で立見席から乗り換える人がいると思ったが、意外に安いものが出ていない。理由は分からない。

夜中にカーネギーホールライヴを録音しておいた。ハーディングという指揮者は、私にとってはなによりもペトレンコの試験ズル休みの代わりに入ってマーラーの六番を振った男で、子供の時にラトルとグリッペンを指揮した男で、パリ管を振りながらエアバスの操縦をしていたという男である。だから今回その指揮した演奏の放送を初めてまじめに聞いた。前回はパリ管の式典の時で映像ストリーミングで、ガラコンサートのようなものだったので、もう一つ真相が分からなかった。

今頃興味を持ったのはつい先日フランソワ・サヴィエル・ロートが指揮したプログラムを同じコンセルトヘボー管弦楽団を振ってのニューヨーク公演からの中継ということが最も大きな要素だった。ロート氏の方はその実力をある程度把握していて、弱点も分かっているつもりだが、それと比較して合奏精度が上がることなどは十分に予想できた。

前半は敢えて今触れないでおこう。ピアニストの悪口にばかり話が進みそうで、その舞台袖でのインタヴューもその陰気な声を聞いているだけでも滅入る。出来る限り無視した方が健康に良い厄病神のような雰囲気だ。

後半の「英雄の生涯」は予想通りに見通しが良くてとても上手にコントロールされて、ここここと掴み出すように歌われる。これは分かり易くて受けるだろうと思う反面、その分かり易さの行くへが気になるのもこの作曲家の作品だ。最も知られている例ではショルティーがこれでもかこれでもかと指揮すればするほどその音楽の底が見えてきてしまい、その技術的な価値が徒労に終わるように聞こえるという評価である。それゆえにこのハーディングは音楽的な良さを出そうと工夫しているのは分かるのだが、それが楽句による表現の濃淡を作り、全体としてそれだけの作品という感じがどうしてもする。なるほど嘗てのマゼール指揮ほどにはあざとくなく分析的な良さを感じるのだが、そこから先に進まない。ある意味その音楽の作り方に問題を感じる。

後任探しを続けている名門コンセルトヘボー管弦楽団で、最有力候補の指揮者とみられているが、ヤンソンスのような強引なドライヴもなく若々しさもあって推しはあっても、今まで決定しないのもそうした事情があるに違いない。少なくとも私が当事者ならば本人の才能のことも今後のキャリアのことも考えるとどうしても慎重になると思う。

するとあれでは甘いなと思っていたロート指揮の演奏のその良さが強調されることになった。なるほどハーディング指揮のようには明晰に鳴らないが、中々その歌い運びもよく、三連符やら六連符の扱いも上手で、細かなところを強調することなく鳴らしている。そして細々とまるで「影の無い女」などの鳴りが聞こえ、渋み満載な俳諧がとりわけ素晴らしい。ペトレンコの「ばらの騎士」もとても苦みがあってよかったが、四月のトリノに続いて来シーズンにでもベルリンでこれだけの指揮をできるかどうか?聞き返してみるとこのコンセルトヘボーでのロート指揮のコンサートは近年では取り分け優れたものではなかったろうかと思った。当日会場にいた親爺も言葉足らずにでもコメントしていて、指揮者もそれに返していたぐらいだったのも分かった。放送でも全体以上に個別の拍手の強さが激しく、最近なかったような可成りの熱さを感じたのには間違いなかった。この二つのコンサートを比較すれば、ハーディング推薦に待ったを掛けて、もう少しロート氏に振らせてみたくなるのは当然の判断だと思う。

ニューヨークではルーマニア人がコンサートマスターだったが、本拠地は違う人だったと思う。こちらの方がよかった。ルーマニア人も楽団のストラドの古いのを弾いているといったが、全く活きていなかった。指揮のせいとは言わないが、コンサートマスターはとても大切だ。



参照:
こまめなSNS生活 2019-02-12 | SNS・BLOG研究
リツイートされた影響 2018-05-14 | SNS・BLOG研究
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テキサス親爺の来訪

2019-02-16 | 文化一般
バーデンバーデンから最新のマガジンが届いた。復活祭の情報が主になっている。一番ページ数が多いのは「オテロ」のデズデモーナを歌うヨンツェヴァで数時間のインタヴューフォトセッションをベルリンでこなしている。バーデンバーデンではグノーのマルガリータで喝采を浴びたようだ。更にメータとムーティの二人の指揮者について、またベルリナーフィルハーモニカーのメーリンというヴァイオリニストについてのインタヴュー記事が載っている。それらを後にして最も先に読んだのは、演出家のロバート・ウィルソンのインタヴュー記事である。既にバーデンバーデンへと飛んできて舞台を調整している。

メータに関しては一月にアメリカでキャンセルしていたので、来週のフィレンツェでの出番まで心配である。するとその次にどうしても気になるのは「オテロ」の演出である。ウィルソン演出は今まで何度か経験しているが満足したことが無い。だからその語るところが気になって仕方がない。先ず知らなかったのはテキサスの親爺であって、その演出はハムバーガのトッピングのようにアメリカ的かと聞かれて、アジア的だと話し出す。それも日本的なようだ。全く気が付かなかった。演出家として14年目にして初めて日本を訪問して、能を鑑賞してから変わったという。もともと建築を学んでいて、幸運なことに建築と光から授業が始まったのが全てだったという。これを読むまでは絵画専攻かと思っていた。

そして能に最も影響されたのが、なんでもない話に殆ど内容と言葉と音楽にシンクロしない動きを知って、その現代性に打たれた。その動きの独立性に、そしてその深い情感に打たれたという。その後のウィルソンの演出は、自ら語るように音楽と芝居、美術と動きの間の緊張関係を活かした演出となる。なるほど光に関しては、その舞台を描く手段としての光の当て方であるとすれば、ウィルソンで有名な色彩的な舞台を思い浮かべれる。しかし、そこまでの緊張やシンクロ関係を壊した面白さは今まで感じたことが無い。記憶に残るのはその動きとアンバランスなジェシー・ノーマンのクマのようなステップだけだ。あれはシェーンベルクの「期待」だったが、なにか舞台を揺すっての「気迫」のようなものしか感じなかった。

演出に関してはミュンヘンのものが良く出来ていたので、それを超えるのは難しいと思う。やはりこの人の演出は美術的でどれだけ細やかな仕事をしてくるのか懐疑的だ。歌手もアンサムブルとして整わないだろうから、メータの指揮とベルリナーフィルハーモニカーの表現力に頼るのみである。恐らく少なくとも一晩はペトレンコも見に来るだろうが、どこまで纏めてこれるだろうか。

今回のマガジンでは一番売れていないシェーンベルクの晩のことには詳しく触れずに、オペラから売って行こうという戦略のようだ。次の直前の案内に広報されるのだろう。勿論その時は2020年のペトレンコ指揮のオペラが扱われている。



参照:
興業師からのご挨拶 2018-12-21 | 文化一般
一流の催し物の周辺 2019-02-10 | SNS・BLOG研究
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「ミサソレムニス」な気持ち

2019-02-15 | 
「ミサソレムニス」の総譜を見た。独唱四つに四声の合唱にオルガンが当然の如く入っていて、絶望的な気持ちになる。一週間もない。オペラに慣れたものだから、それに比べればと思っていたら、どうもそうはいかない。そもそもオペラで合唱が出てくる場所は限られ、四重唱以上もそんなに出てこない。精々二つのフィナーレぐらいを押さえておけばよい。器楽のシステムは古典だからそこそこだけれど、例えば「マイスタージンガー」と比較しても、必ずしも容易にはいかない。楽曲が三幕ものに比べると短いのだけが救いである。訓練を積んだ者ならば、一つのシステムを見れば後は対位法的に補えるのかもしれないが、また合唱で自身のパートだけを通すならば楽かもしれないが、いちいち全ての四声部も目を通すとなると一苦労だ。

救いは、所詮ミサの典礼と歌詞の構造なので、そこにどのように音を付けているかさえ把握すれば良いことだろう。そして音資材を探してみた。手元にはバーンスタイン指揮のコンセルトヘボーでのライヴ録音があるが、あまり参考にならないのは分かっている ― ブロムシュテットはそれを称して、それでも故人の自然で天性のアプローチだと評価していた。YouTubeで調べてみると、嘗ての名録音クレムペラー指揮とかカラヤン指揮とかベーム指揮は並んでいるのだが、どうもこれもあまり参考にならないと思って、ドイツの歌手のものをとサヴァリッシュ指揮などを見ると全曲は無い。ディヴス指揮とかガーディナー指揮とか、どれも一度聴いてみようと思わせない。

更に探してみると素晴らしいロ短調ミサを指揮するヘルヴェッヘ指揮のものがあったので、流してみた。この指揮者独特のスイングなどはあるが概ねいい演奏で、これは使えると思った。古楽出身の指揮者だけに綺麗に各声部が浮かび上がり、合唱や独唱は当然のこと、管弦楽でも比較的成功している。和声的にも欠けるものが無いのはそのバッハの演奏で御馴染である。それはいいのだが、実はもっと面倒なのは、勿論和声的な繋がりとしても先日の「フィデリオ」と同じ書き方をしているところに気が付いてしまった。これは面倒だ。行ったり来たりしないといけないからである。
Ludwig van Beethoven - Missa Solemnis


なぜこの時期にキリル・ペトレンコが「フィデリオ」に続いて「ミサソレムニス」そして「第九」を指揮することにしたかは本人にとっては明白なことなのかもしれないが、こちらはとても大変なことになる。そもそも「フィデリオ」上演でこれはというところが幾つかあって、その答えが既にここで出されることになる。それも我々のような凡人が、行ったり来たりしながらここここというだけでとても面倒な作業である。しかしとどのつまり楽聖の意思を間違いなく取れればいいわけなのだが、ペトレンコは言葉でヒントを与えてくれないので、こちら側が自ら学ぶしかない。

そのほか、上の録音で改めて気が付いたのは、独唱、合唱と管弦楽のフーガなど、とてもではないが簡単に演奏できないということで、演奏実践上とても可能性があると気が付いた。楽聖の交響曲に関しては今更なにか改めてという気がしないが、こうした複雑な音楽ではまだまだなされていないものを感じた。要するにペトレンコ指揮に大変な期待が高まるのだが、恐らく今回は中継放送が無いように先ずはここで劇場の合唱団と一緒にとなり、最終的な形はベルリンで改めてとなるのだろう。

実際に調べて見ると、この二つの作品番号の123と72ほどには、創作年月が開いていないことが分かる。最終版のフィデリオ序曲が作曲されてから数年のうちに構想に入っているようだ。その年月日よりも途中で作曲された交響曲の数がとてもその距離を大きく感じさせるが、あまりにも完成した交響曲とこうした声楽の入った曲との関係は強くないかもしれない。なるほど中期の弦楽四重奏曲などには親近性も見られるが、寧ろ今回第九まで進むと見えてくるのは後期の四重奏曲ではないかと想像する。

余談だが、ブロムシュテットのインタヴュ―に晩年のトスカニーニの練習風景に裏口から忍び込んでロージェの中に隠れてとの話しもあったが、ボストンで有名なクーセヴィツッキーが譜面から音楽を読み取れない指揮者だったとあった。ピアノで弾かしてそれで理解するという話しだった。まるでバイロイト音楽祭の初代音楽監督みたいではないか。それは学究的な仕事が伴うので、大体頭の悪そうな音楽家は皆それに近いのではなかろうか。



参照:
ブロムシュテットの天命 2019-02-14 | 文化一般
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
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