☆・。.・☆写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 愛犬のハートリーと共に瀬戸内の岩国から…… 茅野 友

男の手料理

2016年12月05日 | 食事・食べ物・飲み物

 11月の中頃、時遊塾の塾生が話に来てくれた。帰り際、「お宅の庭で何か料理を作って忘年会をやりましょう」といい、他の塾生に電話をして12月4日の日曜日と決めた。「じゃあ、私がダッチオーブンを持っているので、ローストチキンを作ります」というと「それでは僕はタコ焼器を持っているので、タコ焼きをつくります」と言いながら帰っていった。

 その他の塾生に声をかけると、内の奥さんを入れて6人が参加することになった。当日は天気予報では朝から小雨が降るという予報が出ている。雨が降ってもいいように東屋のそばに大型のテントも張っておいた。 準備万端整えて迎えた日の朝9時、予報通り小雨が降り出したが、雨天決行としている。

 数日前に注文しておいた1kg強のチキンのお腹の中に、塾生の一人がタマネギとパプリカを刻み、塩コショウで炒めたものを詰め込む。それをダッチオーブンに入れ、隙間にはサツマイモ、ジャガイモ、タマネギなどの野菜を丸のまま押し込んで、塾生が持参してきたロケットストーブの上に置く。

 ロケットストーブとは、薪ストーブの一種で米国が発祥のもの。高温になった燃焼筒内に上昇気流が生まれ、勢い良く熱気を吸い上げるという簡単な構造のもの。従来の薪ストーブより燃焼効率が良く、廃材や枯れ木など、少量燃やすだけでちょっとした調理や屋外での暖房にも使えるという優れものである。潤滑油などを入れるペール缶2個と短い煙突を使って手作りしたものである。

 ダッチオーブンの蓋の上にも炭火を乗せて上からも熱を加えること約1時間で、いい匂いがし始めたら焼きあがりである。並行して奥さんは彩り鮮やかなパエリアを調理してくれた。その傍らではタコ焼き器を何と3台も使って60個のタコ焼きを作る。

 相変わらず止むことのない雨の中、缶ビールで乾杯をしながら出来上がったばかりの熱い料理を食べると、感じていた寒さも吹っ飛んだ。「おいしい、おいしい」の連発。最後はダッチオーブンの中の鶏ガラに水を加えて沸騰させると、これまたおいしいスープが完成。小雨そぼ降る冬空の下、ロケットストーブとダッチオーブンを組み合わせての男の手料理で、身も心も温まった時遊塾の大忘年会は盛会裏に終わった。早くも「次は何をしようか」と言いながら散会、来年もまたよろしく。

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輝いた時

2016年12月03日 | 生活・ニュース

 東京に住んでいるT君が、会社の同期会に参加するため岩国にやってきた。私が入社した翌年、係りは異なったが同じ課に入ってきた後輩である。翌朝、ホテルから「今日時間は空いていませんか? よければSさんがケアハウスに入っていると聞いたので、訪問してみたいと思うのですが、一緒に行ってみませんか」と電話をかけてきた。

 Sさんは私が入社した時、係りは違ったが色々とお世話になった人であるが、T君は席を並べて公私ともに面倒を見てもらった大先輩である。私が定年となった後しばらく続いていた年賀状の交換も、10年前から途絶えたままになっていた。

 Sさんは数年前に奥さんを亡くした。市内に住む娘さんの助けを受けながらひとりで生活をしている時、階段を踏み外して頭を強く打ち手足が少し不自由となって半年間リハビリ入院をした。完全復活とはいかないが、手押し車を押してゆっくり歩けるまでになったので退院し、娘夫婦の住む家のすぐ近くにあるケアハウスに入所しているとのことであった。

 早速一緒に訪問してみることにした。ナビをセットし、10km車を走らせると、郊外にある大きく立派なケアハウスに到着した。あらかじめ、娘婿に連絡をしておき、施設の玄関口で合流した。娘婿といっても、現役時代はSさんの部下であった。中に入ると丁度昼食が終わった時間で、自分の部屋で昼寝の最中であった。

 十数年ぶりに見る顔であったが、まだリハビリ中とは言いながらも、スポーツマンであった昔の通りの元気な様子である。年齢を聞いてびっくりした。「まだ90歳だ」と笑い飛ばす。頭もしっかりしている。しばらく昔話をしていたとき娘婿に「ゴルフのスコアカードを出してくれ」といって引き出しを指差す。好きだったゴルフのスコアカードを束にして大事に保管している。

 「80過ぎてエイジシューターを記録した」と少し自慢そうな顔をする。 自分の年齢以下のスコアで18ホールを終了したプレーヤーのことであるが、とてつもなく難しいことで知られている。「それはすごい」と拍手をすると、小鼻を膨らませて嬉しそうな笑顔を返してくれる。

 人は皆、年をとり体が不自由になっても、自分の人生で輝いていたころを心の糧にして生きている。それを聞かせてもらう、聞いてあげることがより若い者の役割であろうと思いながら別れを告げた。大先輩を前にして、傾聴ボランティアの真似ごとをさせてもらった若輩であった。

 

 

 


 

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縫いぐるみ役

2016年12月01日 | 生活・ニュース

 子どもの頃のことは、断片的に薄っすらと覚えていることはあっても、きちんと記憶していることは非常に少ない。そんな少ない記憶の中で、今でも割とはっきりと覚えている出来事が、小学3年が終わろうとする3月にあった。担任の若い女のY先生から「明日の放課後、大応寺公園行って写真屋さんに先生と写真を撮ってもらうので、ちゃんとした服を着て学校に来て下さいね」と言われた。

 大応寺公園といえば、学校から歩いて20分くらいの所にある。大応寺というお寺の敷地の一角にある公園で、大きな池と桜並木があり、低学年の生徒にとって定番の遠足の地であった。写真を撮ってもらいに行く理由は全く分からないまま家に帰り、先生から言われたことを母に伝えた。

 翌日、洋裁を習っていた母が作ってくれていた白い丸襟を付けた学生服に半ズボン、黒い靴下に新しいゴム製のズックを履き、学生帽をかぶって登校した。日頃にない服装をしていたせいか、目端の利く女の子から「今日は何かあるの?」というような質問を執拗に受けたような気がする。

 私も幼い世間知らずらの子供である。それらしきことをむにゃむにゃと口ごもりながら話したのかもしれない。その日の授業が終わった途端、様子を察した女の子4、5人が私を取り囲み、先生と2人だけで行く道中が、なんと女の子と先生との団体行動となった。

 公園に着くと、町の写真屋さんがすでに待っていた。三脚を使い、黒い布を頭からかぶって何枚かを撮ってくれた。後日、先生から小さな2枚の写真をもらった。1枚は、先生が優しい笑顔で毛糸の手袋をした手を私の肩に置いている写真。私も僅かにはにかんだ笑顔をしている。もう1枚は、私が1人で水辺でやや斜に立ち、こちらは真面目一辺倒の固い表情をした写真である。

 4年に進級した時、担任の先生は替わり、その後間もなくY先生は結婚して退職されたのか、いなくなった。この時の写真は、今思えばきっとお見合い用のスナップ写真だったのではなかったのか。とすると、私の役割は「ぬいぐるみ」だったのか。そうは言いながら、あの時の先生に対して少しでもお役に立てたのであれば嬉しいと思っている。どうやら私は幼いころから、人の引き立て役が、ことのほか上手だったようである。

 

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観光案内

2016年11月30日 | 生活・ニュース

 2週間前には名古屋から、今日は東京から、現役時代に岩国の工場で一緒に仕事をした4年後輩のNさんと1年先輩のkさんが岩国にやってきた。それぞれ開催される会社の同期会に参加するためであった。Nさんとは会の前日に昼食をとりながら、kさんとは会の翌日である昨日の午前中に会うことが出来た。

 Nさんは3年ぶり、Kさんは8年ぶりの岩国だという。かつて2人とも10数年間岩国の社宅に住んでいて、子育てもし、充実した仕事をした仲間である。「当時とあまり変わっていない岩国で、今日は知らない場所を案内しましょう」といって短い時間、2人とも吉香公園へ連れて行き、同じコースで隠れたスポットを案内した。


 岩国に生まれ育った人でも、岩国のことをあまり知らない。当の私がそうであった。長年住んでいて、錦帯橋があることくらいは知っていたが、それ以上のことといえば、とても人様を案内できるレベルのものではなかった。これではいけないと発奮し、6年前、仲間と市民に対して岩国に関する知識を試す「岩国検定」とやらを企画・実行した。岩国のもろもろを、ごく表面的にではあるが紹介する「いわくに通になろう」という冊子も出版し好評を博した。

 その活動で培った博識ならぬ薄識を披露する絶好の機会が到来したとばかり、吉香公園へ向かった。まずはやや季節遅れとなった紅葉谷公園へ。いよいよ秘密の史跡へと向かう。「吉川家墓所」である。岩国の住民でも知らない人が多いが、一度は見ておく価値のある石造文化の史跡である。

 「国の歴代藩主・吉川家の墓所で洞泉寺域内にある。6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓51基があり、『山のお塔』と『寺谷のお塔』に分かれている。墓石の大半は五輪塔で石造文化財としての価値は高いく、山口県指定文化財となっている」(岩国検定)。


 2人ともこんな史跡があるなんて全然知らなかった。岩国のことは大抵知っていると思っていたようであるが、「どっこいまだ知らない隠れた名所はまだまだありますよ」と、少し皮肉って答えておいた。岩国検定で学んだことが、初めて活きた観光案内であった。「今度は、一杯やりながらお話しましょう」といって、しばしの別れをした。「朋あり遠方より来る、観光案内また楽しからずや」。
 

 

 

 

 

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似て非なる者

2016年11月29日 | 生活・ニュース

 定年退職をして数年がたったころ、ソウルへ旅行したときに買ったメガネのレンズに細かな傷がついて視界を妨げるようになった。フレームにも、細かな傷が付いている。そろそろ替える時となったと判断し、昨年の夏、近くにあるメガネ屋さんに行った。

 陳列台にはデザインや色や材質など異なるものが、どうだと言わんばかりに沢山並べてある。どれを選べばよいか見当がつかない。今までと同じで、レンズの枠のない軽いものを出してもらうようにお願いした。その中からあまり高価ではなく、私のセンスでこれだというものを注文して帰った。

 1週間後に受け取り、掛けてみると中々心地よい。掛けているのを忘れるくらい軽く、締めつけ感もない。それもその筈である。ツルは1本の太い棒状ではなく、弾性のあるチタン製の細い3本の針金で出来ている。

 私の持っている小物の内、時計と並んでお気に入りの一品として愛用していた。ところがつい最近、テレビを見ていて面白いことを発見した。今年のノーベル医学・生理学賞の受賞者となった東京工業大学大隅 良典栄誉教授の横顔が大写しになったときである。「あっ、私と同じメガネをかけている!」と、驚いた。

 細かな部分のデザインは少し異なるが、基本構造は同じでメガネのツルに大きな特徴があるので直ぐに分かった。「Line Art」という日本のブランドのもので、その中でも「テノール」というシリーズのものである。「安心感のあるオーソドックスなフロントスタイルと、細身でシャープな、そしてエッジをきかせたテンプルラインとの組み合わせで構成されています。軽さと清潔感のあるイメージは、ビジネスシーンにふさわしいコレクションです」と宣伝文句に書いてある。

 私は買ったとき、ブランド名もシリーズ名も何も知らずに、値段が手ごろで、デザインが気に入ったから買ったものである。それが偶然にも、何とノーベル賞の受賞者と同じメーカーで同じシリーズのメガネだったとは、単純に嬉しい気持ちになった。

 このことを良いように解釈して強引に表現すれば、「こと私のメガネ選びに関しての感性は、ノーベル賞受賞者と同じであった」と言っておこう。「だからどうなんだ」と言われても、笑っているしかない話ではあるけれど…… すみません。まっ、それだけのことです。

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貸したもの

2016年11月28日 | 生活・ニュース

 他人に自分が持っているものを貸すことは時にある。私が最近貸したものとしては、電気ドリルや電動ノコなどのDIY道具、大口のスパナやモンキーなどの工具類、庭木剪定の電動バリカンやチェーンソー、高圧洗浄機、読み終えた小説や趣味の本、あとは私が持っているちょっとしたリフォームの技術と腕くらい。

 少額とはいってもお金の貸し借りは厳に慎みたいが、うっかり財布を忘て出かけたようなときには、頭を下げて拝借することはある。こんな時には直ぐに返しておかないと忘れるばかりか、忘れたときには人格を疑われかねないので注意を要する。

 本は繰り返し読むことがあまりないので、貸したことさえ忘れてそのままとなっていることもある。借りた方に悪意はなく、すっかり忘れているので、時間が経ち過ぎると催促することさえはばかれる。

 
 スパナやペンチなどのちょっとした工具は、少々手荒に使っても簡単に壊れたり消耗したりしないので「貸して下さい」「ああいいよ」と、一つ返事、ではなく二つ返事で気持ちよく貸し出すことはよくある。貸した工具が中々戻って来ないようなとき、必要に迫られて催促の電話をすることもある。使い減りなどしないそんなカナヅチであるが、借りに行ったときの面白い話が落語にある。

 商店の内壁に釘を打つことになり、主人が丁稚に、隣の家からカナヅチを借りてくるよう命じるが、丁稚は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、金釘だと答えると、「金と金がぶつかるとカナヅチが擦り減る」と言って貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使おう」と言ったという。

 いくらケチだといっても、自分が持っているものを、借りに行くというほどケチな人はいないが、そんなことを言いながら机の上を見ると、買った覚えのない本が数冊置いてある。いつ誰から借りたものか全く覚えがない。借りたら返す、返さなければ泥棒と同じこと。むかし、子供に言って聞かせたことを、物忘れがひどくなってきた自分に向かって言い聞かせている。



 

 

                         

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それは先生

2016年11月25日 | 生活・ニュース

 テレビで「あいつ、今なにしてる?」という番組を見ていた。有名人が子どものころ、仲が良かったり、部活で共に頑張ったり、はたまた恋心を抱いたりした人の現在の姿を紹介して、その人からのメッセージを有名人に伝えるという番組であった。人はそれぞれ、幼いころ胸に刻んだ懐かしい思い出を糧にして、今を頑張っていることを知った。

 このテレビを見ていた時、私の幼いころの思い出が蘇ってきた。あれは何年前のことか? 数えるために折る指が痛くなるほど昔の出来事である。小学1年の多分2学期のことであった。担任の先生に子どもが生まれることになり、Fという若い女の先生がやってきた。

 戦後3年しかたっていない時である。目がぱっちりとして色の浅黒い優しい先生であったくらいしか覚えていない。半年が過ぎ、1学年が終わる時、F先生が早くも転任していくことを聞かされた。

 転任先は、岩徳線で当時岩国駅から5つ目にあった米川駅がある村の小学校だという。その村には先生の家があった。わずか半年余りの短い間教えてもらっただけの先生であったが、クラスの雑用係をやっていた関係で、先生とは他の生徒より少し深い付き合いをしていた。

 そんなF先生は、私の家の近くを走っている岩徳線の汽車に乗って通っていた。転任していく最後の日の夕方、私はひとり踏み切りに立ち、蒸気を吐きなが走って来る先生の乗っている汽車の窓に向かって、通り過ぎるまで大きく手を振り続けた。先生の姿を見つけることはできなかった。

 それから1年が経った頃、先生から手紙が来た。「○月○日、先生は日直なので、学校に遊びに来て下さい」と書いてある。その日、汽車に乗りいそいそと出かけて行ったが、どんな話をし、何をして過ごしたか全く記憶にない。数年して先生は結婚して下関に行ったことまでは知っていたが、その後、音信は途絶えた。

 通っていた小学校のそばを通る時、グラウンドで生徒を前にした若い女教師の姿を見ると、幼い私が胸を焦がし慕い続けた人の名は、森昌子が歌った歌詩と同じ「それは先生」であったことを懐かしく思い出す。若くきれいな女の人を見ると直ぐ好きになる性格は、今もなお健在である。

 

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旗 日

2016年11月23日 | 生活・ニュース

 今日11月23日は、国民の祝日「勤労感謝の日」であった。古い言い方をすれば「旗日」ということで、各家の玄関先に国旗の日の丸を掲げて国を挙げて祝う日である。ところが最近では、個人の家で国旗を掲げている風景を見ることは極めて少なくなっている。新築の家を見ても玄関先に国旗を掲げるための支持金具が取り付けられている家は殆んど見当たらない。

 国の祝日といっても、国旗を掲げる意識は乏しくなっている。アメリカやヨーロッパの諸国のように、街中を歩いていると、祝日でもないのに到るところで国旗を掲げている景色を多く見るが、日本ではそんなことは甚だ少ない。

 改めて「勤労感謝の日」とは何なのか調べてみた。 「勤労を尊び生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨のもと、戦後間もなくの1948年に国民の祝日として制定されたという。実は11月23日という日はもともと「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれる祭日であった。

 新嘗祭とは、天皇が日本国民を代表し、秋の実りを神に感謝を捧げるための宮中祭祀が行なわれる日であった。つまり日本の収穫祭、言いかえれば日本版「ハロウィン」である。敗戦直後、連合軍の総司令部は、天皇と国民が一体であった新嘗祭を宮中のみに限定し、国民からは完全に切り離して「勤労感謝の日」という本来の意義とは全く関係のない内容の祝日に変えたものである。

 この頃では、祝日といっても「成人の日」や「海の日」「敬老の日」「体育の日」などのように、○月の第○月曜日などというように、ただ単に3連休を作るために休日とし、その日が由緒ある特定の日というわけではない祝日がある。

 かつては初代天皇である神武天皇即位を祝う「紀元節」、明治天皇の誕生日の「明治節」、昭和天皇の誕生日の「天皇誕生日」を、それぞれ「建国記念の日」「文化の日」「昭和の日」と名を変えて祝日としているが、時には由緒ある休みであったことを思い起こし、久しぶりに国旗を掲げてみると、心なしか背筋が真っすぐ伸びたように感じた。

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弁当のおかず

2016年11月21日 | 生活・ニュース

 昔むかしの話である。小学4年生の頃であった。戦後5、6年は経っているので学校給食はあったように記憶しているが、毎日あるわけではなく、弁当を持って行く日もあった。そんなある日、学校の都合であろう、午前中で授業は終わり弁当は食べずに下校することになった。

 近所に住む男の子のRちゃんとは同じクラスであった。登校時はいつも誘いに来てくれ一緒に行った。身体の大きな優しい子であった。その日も一緒に下校したが、我が家で弁当を食べることにした。家に着くとまず新聞紙に包んだ弁当箱を取り出して向かい合って食べ始めた。

 Rちゃんの弁当箱は、力仕事をしていたお父さんのお下がりであろうか、嵩の高い大人用の弁当箱であった。中にはご飯がびっしりと入っていた。身体も大きかったが大食漢でもあった。その日のおかずは小魚を煮つけたものが何匹か入っている。ご飯は大きな塊で頬張っているが、尾頭付きの小魚を食べる時には、1匹ずつ頭の方から前歯で刻むようにして少しずつ口の中に入れている。

 「どうしてそんな食べ方をするの?」と聞いてみた。それにはある理由があった。前日のことである、私とRちゃんは2人で、近くの小川に行ってミミズを餌にして魚を釣って遊んだ。そのころの小川は今とは違って水もきれいで、フナやドジョウやゴリ、時には石垣の奥にウナギなども潜んでいることもあった。その日、Rちゃんは数匹のゴリを釣りあげ持って帰っていた。

 弁当のおかずとなっていたのは、自らが釣ったそのゴリであったようだが、Rちゃんにとって、パクっと一口で食べることが出来ない訳があった。「この中のどれかに、釣り針を飲み込んだのがいる」というではないか。釣りあげた時に針が折れたか糸から外れたのであろう。魚の体内に釣り針が残っていないかどうかを確かめながら食べていたのであった。

 親に話してはいなかったのか、そのまま煮魚として弁当箱に入っている。食べている時に釣り針が出てきたという記憶はない。そうであれば家族の誰かが食べたかもしれないという、少し怖い遠い昔の出来事である。そんなRちゃんは今も元気で、道ですれ違う時「最近は何をしている?」と聞くと必ず「酒を飲んでいるよ」と、あの時の後遺症もなく無邪気に笑って答えてくれる幼なじみが近くにいる。

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2016年11月19日 | 生活・ニュース

 先日、1人で家にいたとき、食卓の横の壁に取り付けているインターホンが鳴った。液晶画面を見ると若い男が立っていた。玄関のドアを半開きにして伺うと、名刺を出した。広島からやって来た家のリフォームをする会社の社員で、我が家の外壁の塗装をしつこく勧める。

 まだその気のない旨を言うと「いま、特別ご奉仕期間なので格安でやらせていただきます」とかなんとかいって、簡単には引き下がらない。まだ20歳過ぎくらいにしか見えないが、いくら断っても執拗に迫ってくる。日頃穏やかな私であるが、さすがに苛立ってきた。

 「今する気は全くないので帰って下さい」と言いながら、私の右手の甲で若者の二の腕辺りで、追い払うような仕草をした時、ほんの少し指先が相手の袖に触れた。その時、若者はいかにも強く押されたかのように一瞬よろめく姿勢となり、さも痛そうに指が触れた辺りを手でさすりながら出ていった。

 カメラ付きのインターホンを備えていながら、用件を確認することなく玄関ドアを開けてしまった軽率な行動をしたことで、とんでもない押し付け販売の男に遭う羽目となった。今思うと、相手の身体に触れたか触れなかったか分からないほどの接触を盾に、「腕が痛くなった」などと付け入られるようなことにならなくてよかった。

 これを機に、高齢者の留守番体制の強化に、ちょっとした対策を講じることにした。まずは、インターホンできちんと用件を確認して玄関を開けるかどうかを決めることが第一であるが、その前に、玄関のアプローチを通って入ってくる訪問者に、家の人が対応可能な状態であるかどうかを判断できるようにしておくことが必要である。 

 そのための一計とは、玄関のアプローチに置いている手製の額縁プランターの下に「closed」と書いたプレートをぶら下げておくことにした。レストランなどが休みの日や準備中の時に掲げているあのプレートである。訪問者がこれを見ると「あっ、今は駄目なんだな」と思ってくれれば正解だが、「休憩中なんだ」と思った人は、やっぱりインターホンを押すかもしれない。そうはいっても、こんなことで居留守が使いやすくなればと思っているが、手練手管の押し売り撃退となるかどうかは今後のお楽しみである。

 そうそう、訪問販売以外の方は、「closed」と掲げていても、どうぞインターホンを押して下さい。満面の作り笑顔でお迎えいたしますので。

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