Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

古典派ピアノ演奏の果て

2007-10-11 | 
ベートーヴェンの最後のピアノソナタである。その運命の調性ハ短調は、この作曲家の様々な名曲を呼び起すが、その最後の二楽章アリエッタを分析講義する情景がトーマス・マンの作品「ファウストゥス博士」にある。同じくロスに亡命中の社会学者アドルノの助言を得たその内容は、あまりにも有名である。そこで、音楽教師クレッチマーはピアニーノを弾きながら叫び出す。

ディム・ダダ、このトリルの鎖!、装飾にカデンツァ!聞こえる?ここで、因習を離れた。ここ、言語は美辞麗句を排し、その主観的支配の見かけの美辞麗句は、その見かけから、芸術から排除される。とどのつまりはです、芸術は芸術の見かけから脱するのです。ディム・ダダ…

そのハ短調と同じくして作曲された三部作である変イ長調のピアノソナタをアルフレード・ブレンデルの演奏で聞いた。このピアニストにしては、嘗てない程考え抜かれた、そして十八番のプログラムであった。

ハイドンのハ短調のソナタで始まり同じ調性のモーツァルトで終わる。それに、ベートーヴェンとシューベルトを挟んだと言う。ハイドンの20番のソナタは、手元にある1980年のザルツブルク音楽祭のエアーチェックのそれと比べると、疾風怒濤時代の同じ作品におけるメリハリがより音楽的な差異を示すような表情になっている。ピアニスト本人のこのプログラムへのコンセプトにある「黄昏の情動」や「そのドラマ性と叙情の間の揺れ」に注目していると言う通りの実践である。そして会場の大きさと空席の多さが、さらに残響を長くして、技術的な問題と共に、演奏に滲みを多く添えており、繊細さの表現とはなかなかならない。

続いて演奏されたベートーヴェンの変イ長調は、次のハ短調の作品111番とホ長調の作品109番のソナタに挟まれる形で創作されている。周知のように、三楽章の「フーガのテーマ」や二楽章のスケルツォのシューレージン地方の「滑稽な民謡」や、フーガを呼び起こす「嘆きの歌」などが動機ともども組み合わされて、主観と客観・形而上と形而下の間を動く芸術となっている。そこでも、それらの動機構造を明晰に示すような演奏やその意味を示すショパン弾きによる実践が多いが、ここではよりリスト風の和声の中での流れが重視されて、そうした動機が喩えれば滲み出るような解釈となっている。そうして、ここで最も直裁に示されるのがそこに映し出される「心理」でしかない。

それはこうしたバッハからヘンデルまでのバロック要素を古典派の中に再び取り入れた様式感の中での核となっている。例えば、第九交響曲の導入部のように始まる終楽章で、「嘆きの歌」から「フーガ主題」へ、さらに「嘆きの歌」へと戻り、もう一度「フーガ主題」へと再帰するところを、殆どピアニッシシモにおさえて目覚めさせたのは、この曲の心理的核心を突いていた。

そのような解釈実践から、フーガ主題音列のブルレスク調で始まり、明晰さの内に解放されるドラマを期待する向きには拍子抜きの感のある演奏であったが、それ故にその内的な緊張感と開放度は圧巻で、敢えて言うならばマーラーの大管弦楽に相当するような、意識不明の一瞬から蘇って、慄く動悸を誘う身に覚えのない震えを起こらせるものなのである。

休憩後の後半に演奏されたシューベルトの遺作の即興曲D935からは、ソナタ風な組み合わせとしない明確な意思を持って、名曲の第一番のと第三番のロザムンデの変奏曲が弾かれた。確か、フィリップスに移籍後のレコーディング ― この即興曲はソナタのように四楽章としてLP一面にカッティングされていた ― を以って、シューベルトを盛んに演奏した時代の日本公演でこれを聴いた覚えがある。演奏者は、「愛着のある曲だが、最近は永く演奏していなかった」と述懐している。聞き手にとっても三十年ほど前の印象が強く残っている。そして、当時はそのペダル多用への技術的批判がある一方、シューベルトのソナタを大層立派に演奏してシューベルト・リヴァイバルを起したピアニストが、その楷書を大きく崩して、むしろシューベルトらしくもあり従来のこの作曲家像に近い、幻想風の佇まいへと大きく変化させていて、その夢見心地の世界が、ここに来て初めて、その様式感を伴いつつも、回帰するところとなった印象が強い。

折りしも、同年代のピアニストフリードリッヒ・グルダの二枚目のカセットテープ集CDが発売されて話題となっているが、そのヴィーン訛りの 正 統 派 ピアニストが示した、「モーツァルト遊び」と近いものをここにみる事が出来よう。

当日最後に演奏されたモーツァルトのハ短調のK457 が、そのグルダの非公開テープでは欠落している終楽章が息子パウルによって補充されているように、ブレンデルは、これを「ピアノの大作曲家アマデウスのこれ以上もない美しい曲」として、このプログラムを際立たせて終えた。

シューベルト演奏におけるその意味は、このピアニストが後半生期やり続けていた演奏活動の価値に相当して、それがこうして輪を描くように閉じた感がある。先の初夏のオルドバラでの演奏会もニューヨークタイムスなどで話題となっていたが、ヴィーンの古典派の音楽をこうして大演奏会場で聴衆に問うと言う行為がいよいよ終わりを告げたようである。

こうして会場に集まる聴衆は、古典派の曲を下敷きとした文化行為でも古典から現代を見る芸術的な事件でもクラッシック音楽の興行的な事件でもない、今や個人的な演奏行為を好意をもって集うと言う現象となっている。それは、このピアニストの演奏会が欧州の文化的な出来事であったのは既に過去となったことを示している。

そして、こうした古典的名曲がデジタル録音制作と言う、極限の編集可能な媒体を以って初めて、そこに活き続けると言うカナダの名ピアニスト、グレン・グールドなどが示した芸術観が、ここに新世界に略約半世紀遅れて実証されたのかもしれない。

アンコールに演奏された遺作の即興曲集第二番が、至極個人的なプログラミングの最後を締め括っていたことを改めて付け加えておきたい。



参照:
想像し乍ら反芻する響き [ 文化一般 ] / 2007-10-06
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ワイン三昧 四話2007年 | トップ | 音楽教師の熱狂と分析 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿