Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2019年1月

2019-01-31 | Weblog-Index


ジーンズを返品する訳 2019-01-31 | 生活
ハムブルクの夜の事 2019-01-30 | 女
州立歌劇場でアニメ鑑賞 2019-01-29 | 文化一般
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般
ミュージカル指揮の意味 2019-01-27 | マスメディア批評
週末に考えること 2019-01-26 | マスメディア批評
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
こうなるとペトレンコ頼り 2019-01-24 | 音
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
音楽芸術の啓蒙思想 2019-01-21 | 文化一般
問われる継続性の有無 2019-01-20 | 文化一般
移り行く明日への残像 2019-01-19 | 文化一般
玄人らしい嫌らしい人 2019-01-18 | 音
独に拘るシューボックス 2019-01-17 | 文化一般
そこに滲む業界の常識 2019-01-16 | 雑感
リューネブルガーハイデへ 2019-01-15 | アウトドーア・環境
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
意表を突かれた気持ち 2019-01-13 | 音
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
お見事な司会進行 2019-01-10 | 文化一般
エルブフィルハーモニーへ 2019-01-09 | 生活
指揮芸術とはこれいかに 2019-01-08 | 音
ルクセムブルクへ一走り 2019-01-07 | 生活
冷え性にならないように 2019-01-06 | 女
売り時にオファーした 2019-01-05 | 生活
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評
ヴァルツァーの躍動感 2019-01-02 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
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ジーンズを返品する訳

2019-01-31 | 生活
暫く寝かせていたジーンズを送り返すことにした。理由は色合いだ。少なくとも私のモニターで見た色と現物では差がある。私などは色合いの細かなところに無頓着な人間だが、最近は気になることが増えてきた。今回のジーンズも現在のものがそれ以前のものと異なって濃いブルーだったので夏に使い難いことに気が付いた。冬場は寒さは無いのだがそれでも軽さがあった方がよいことが多い。そこで適当な色を購入したのだが、前回のものとほとんど変わらなかった。

勿論返品にはその理由を敢えて書いてあげた。商業的にも今後の大きな参考になる筈だ。そもそも私が購入してから数ユーロも安くしているのも許せなかった。現行のもののように最安値で購入していたならばまだ諦めがつく。今回発注したのは1%ウレタン入りだったのでその手触りを見れたのは価値があった。やはり出来る限り純綿を選びたいと感じた。

朝目覚めると、部屋の中が明るい、寝坊したのかと思うと、雪が乗っていた。夜中に寝つきが悪かったのも気圧が変動したからだろう。即パン屋は断念だ、毎日走る心算で早起きの予定だったので、二度寝になった。さて明日は取り返せるか?

そろそろ週末の準備だ。先日劇場で忘れたマフラーは見つかっているようなのでフィデリオ最終日公演前に取りに行く。また新しい事務室に出入りするようになる。またまた劇場の中の様子に詳しくなる。

部屋着にしているシャツの襟元が破れてきた。洗濯をしてもしないでも結果はあまり変わらないらしい。一度洗濯してもう一度着れるかどうかぐらいだろうか?次に下ろすシャツは決まっている。二年ほど前に卸してから年初めのハムブルクまで着た。合わせるのが難しいストライプだったので十年ほど前に安く入手したが、袖を通すまでに熟成した。それだけ外出着に使うとは思っていなかったが、一度目立つとその次もと思って結構使えた。普段着に卸してまた二シーズンぐらいは使えるか。

月末である。クレディットカードの一つが落とせなかったので一時封鎖とあった。またスパムメールかと思ったら本当だった。買い物の時に間違ってそのカードを使ってしまっていたことを忘れていた。週末使う予定だったが、他のでも使えるように準備しておこう。

今夜中に纏めて準備しておかなければいけないものもある。散髪も断念して、先ずは体調を崩さないようにこの週も乗り越えたい。



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
新しいシモンのパンツ 2017-08-30 | アウトドーア・環境
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ハムブルクの夜の事

2019-01-30 | 
久しぶりに峠まで走って下りてきた。先週末に為せなかったから日にちが開いた。開くと不安になる。寒さが緩んだが、それでも山道は薄く白いものが残ったままだ。峠に近づくと雪の上を走った。それでも気温が摂氏二度まで程で低い方で安定しているため凍っていないのがよかった。ゆっくりしか走れなかったが、下りてきたら汗を掻いていた。先ずはそれでよい。週末土曜日は外出でまた走れなくなるので、その分まで走ろうと思えば毎日休みなく走ることになる。無理をする必要はないが、気持ちが上向くかどうかだけである。

先日注文したジーンズと靴ベラをようやく開けた。一週間ほどおいていた。開けてみるとネットの写真よりも青かった。返品しようかどうか考えている。中々ネットの写真と実際の色が合わない。もう一度陽の下で見てから判断しよう。

靴ベラは今までは航空会社のおまけについていたプラスティックを使っていたが、先日無理に捻じ曲げて折ってしまった。家には金物の長いものを置いてあるが車に一つ置いておかないと不便なことが多い。そのために購入した。こちらは思ったよりも大振りだったが使いやすそうだ。

先日ミュンヘンの帰りには、行きに見当をつけていた道路の名前をナヴィに入れると行きと帰りを同じ経路で街を出入りできた。具体的にはアウトバーン八号から旧市街への経路である。旧市街へは、道標もあり、問題ないのだが、帰りはいつも迂回をさせられる傾向にある。過去から何十回と旧市街に出入りしているが今回のように全く問題なく脱出出来たのははじめてだ。その道路名もヴェルディシュトラーセでピッピングシュトラーセとの交差点を目指せばそのようにナヴィが導いてくれた。まだ何回も往復しないといけないので少しでも短絡出来るのは嬉しい。

ハムブルクの夜の事を書き忘れていた。劇場に入る前から気にしていたのは食事のことだ。初日はエルプフィルハーモニーのホテル内で済ませた。二日目の劇場は、街中なのだが、引けるのが遅い。これはこれでと探してもいたが、実際に下見をしてみると適当なところが見つからなかった。そこで劇場の案内のお姉さんに聞いてみた。というのはプログラムにイタリア料理が宣伝してあってその名もフォアデアオパーとかだったので、いいのかなと思ったからだ。そして聞いてみると、イタリアならば他にも横の筋を入って行けばあるよと教えてくれた。実際に探してみると中々開いているところがなかったのだが、駐車場の方に近いところにあった。

何を食したかはなぜかもう覚えていないが、そんなに悪いものではなかった。きっとサラダ類だったと思う。ビールを飲んだ覚えがある。記憶が不鮮明になるほど飲んだわけではないが、なによりも印象に残ったのは隣の机の若い女性だったからだ。それでもオペラ公演のことを忘れていないのはメモをしていたからに他ならない。しかし帰りには僅かなアルコールゆえかホテルへの道を間違って二十分ほど余分に走ったかもしれない。

何がそんなに興奮させたかというと、隣のテーブルでこちら側を向いて座っている彼女には直ぐに気が向いた。向かい側にこちら側に背を向けて座っている女性と喋っていたのはロシア語だとは分かるのだが、ウクライナ語との差は分からない。サンクトペテルスブルクのロシア女性とは暫く一緒に行動していたことがあるので何となく感じが分かり、またウクライナ女性も現に口説いているので、なんとなくその感じの違いを推測する。

そんなことでちらちらと彼女の表情を見ていたら、彼女がこちらのことを顎で指して、背中を向けている女性に伝える。一寸こちらを向いてというのがあって、更に耳を澄ませているとドイツ男性はという愚痴になってきた。そうだろうなと思って聞いていたら、店の者に「上に行くから」と言い出した。これは余程嫌われたかなと思って、凝りもせずに「上の方が気持ちいいかな」と立ちかける彼女に声を掛けたら、「どう、あなたもいらしゃいよ」と誘われた。

そう来るとは思ってなかったので「イヤー、それはありがとう」と重い腰を上げなかった。正直上の雰囲気も分からないので躊躇した。そして階段を上っていく彼女のお足もとを下から見るとなんとあの寒いのにミニスカートなのだ。これは気が付かなかった。最初からおみ足に気が付いていたら自制心無しに着いていくところだった。なにもチャラチャラした女性ではなく、ウクライナ女性に比較的あるような一寸知的な表情のある女性だった。横に掛けてあった彼女のコートも極真っ当な感じの学生のような装いだった。そして上階も出がけに見ると、彼女が階段の上でこちらに背を向けているのは、なんでもない健康なスペースだった。急に僅かなアルコールが回ったのを感じて店を出た。



参照:
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般
ナイスプロポーション! 2016-06-06 | 女
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州立歌劇場でアニメ鑑賞

2019-01-29 | 文化一般
オペラ劇場嫌いが、切っ掛けで、なぜかオペラ劇場に通う。車中のラディオが夜八時からイタリア人指揮者故ジョゼッペ・シノポリのシュトッツガルトでのアーカイヴを流すと広報していた。1996年頃だからドレスデンに行く前に頻繁にSDRの管弦楽団を振っていたようだ。その時の録音である。後に同地のリーダーハーレでシュツターツカペレを指揮してマーラーの六番を振ったのを聴いたので、その前の演奏だ。三番の交響曲が放送される。そのサイトを地元放送局のSWR2に探していたら、目についたのが、カールツルーへの劇場での新制作「エレクトラ」初日の大好評だ。

「エレクトラ」で、なるほど音を聞くとはっきりしたメリハリのある音が鳴っている。指揮者は小沢の弟子筋の英国人のジャスティン・ブラウンという人でもう既に10年も音楽監督を務めている。余程次の就職先がないのかどうかは知らないが、確かに座付楽団にしてはしゃっきと鳴ってるようにも聞こえる。指揮の技術はそこそこあるのだろう。東京の現音楽監督大野氏が振っていた時にも聞きに行ったことがあるが、当時よりもメリハリがあっても、良く聞くと大雑把な感じがしていて、総合的にはそれほど変わっていないとも思う。アングロサクソン系のノットとかあのあたりの指揮者の特徴にも似ているのだろうか。謂わば東京の国立劇場とどっこいどっこいの劇場だと思うがどうだろう?

そしてガラ公演の日として同じ制作でカスリーン・フォスターがヴィースバーデンから客演するらしい。もう一人は何とアグネス・バルツァである。まだ歌っていたとは知らなかった。その意味からエディト・グルベローバまだ陽が当たるところで活躍しているだけ ― あまりにお呼びが掛からないとミュンヘンに苦情していたぐらい黙っていない ―、流石に二人の間には差がある。何か写真もブロンドに染めていて昔の面影がない。これ以上触れると侮辱になりそうだから書かないが、音程のだら下がりの歌手や昔の名前の人に余分に金を出す人がいるのだろうか?これならば市立劇場のマンハイムの方がいざとなると大物が来る。と思って見ると4月7日にはカムペが「フィデリオ」を歌うらしい。価格を見ると42から103ユーロである。交通費入れてもその金額を出すぐらいならミュンヘンに行くべきだろう。勿論宿泊費までの差額は出ない。それでもA級州立歌劇場程度とは付き合っていられない。ハムブルクは流石に違った。そしてミュンヘンの243ユーロというのは自由市場価格として正しいのだろう。

しかしカールツルーへのバーディシェシュターツオパーの方は、なんと二年前にヴィーンでしか上映されなかったユヴァ―ル・シャローンのアニメを使った「賢い女狐」を上演している。ルクセムブルクまで二時間かけて行ってクリーヴランド管弦楽団でそれのアニメ無しのコンサート形式を聴いたのだが、アニメが心残りとなっていた。反面、ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニーカー演奏とは比較にならないような上質の演奏を聴いたので、今更三流の音楽は「お耳汚し」になるだけだ。救いはドイツ語上演なのでニュアンスも大分変わり、不愉快になることはないと思う。日程などを見ていると、行けそうな日があって、調整卓の横で10ユーロの席に出かけることにした。なんといっても五十分でドアーツードアーで観れると思っていなかったアニメを体験できる。ノイズキャンセルで耳栓をしてみるわけにもいかないが、この価格なら少なくとも映画に行くつもりでと思って券を買っておいた。屋根の下で、視覚さえよければ文句がない。どれほどのワイド画面を体験可能か?音は隣で卓の空冷ファンが回っているぐらいが丁度よい。と言いながら音楽監督の腕も現在の管弦楽の程度もしかと見極めてくる。昨年のマンハイムよりもいいかどうか?
Franz Welser-Möst über Leoš Janáčeks Oper „Das schlaue Füchslein“

The Cunning Little Vixen

LA PETITE RENARDE RUSEE

DAS SCHLAUE FÜCHSLEIN - Trailer


20時になって放送を聞こうと準備していたら、アメリカの放送局からティーレマン指揮のドイツェオパーベルリンでシュトラウスの前奏曲が流れてきた。芋のごった煮のような音を出していて強弱をつけたり何かしているようなのだがガタガタになっている。座付管弦楽団だからという程度ではない。あの程度の指揮者が「影の無い女」を振ったら何が何だか分からなくなるだろう。放送局も節操のないことをする。と思ってシノポリ指揮の放送管弦楽団を聞いていたら、二重リズムどころか初めからはっきりしない。最後までそのような感じでよくあれで最後まで演奏できたと思う。同じホールでのシュターツカペレドレスデンの第六も総奏になると濁っていて、あれは楽団の限界だと思っていたが、やはり指揮者の技術的な問題だったと理解した。それにしてもひどい演奏をしていたもので、昨年のボストンでネルソンズが指揮したものとは月と鼈だ。この二十年近くで指揮の世界に何が起こったか知らないが、二十年ほど前には室内楽の感覚では決して管弦楽の演奏精度を吟味できなかったが、今は超一流クラスの指揮者が超一流管弦楽団を振れば全く精度が違ってきている。



参照:
音楽劇場の社会的な意味 2019-01-28 | 文化一般
オペラとはこうしたもの 2018-11-12 | 文化一般
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
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音楽劇場の社会的な意味

2019-01-28 | 文化一般
#好きなオペラ10選の呟きを見ていて面白いと思った。交響曲とかなんとかだとお遊びでしかないのだが、劇場ものとなると関心が広がる。最初はその意味が解らなかったのだが自身で選んで更にそのリストを見ていると気が付くことがあった。あまり恣意的ではなく気ままにリストアップしていくのに、やはり劇場でその作品に満足したという条件を付けるととても容易に選択可能となった。これが決定的条件だったと自身のリストを見た後で気が付いた。

この手のリストを見ていて、その選択根拠とか趣向とかを推測するのが身についてしまっているのだが、その撰者固有のものであったり、それを取り巻く社会的な志向であったりもする。それがまた面白いところである。しかし劇場作品以外の音楽作品の場合はどうしてもその知識や思考が反映するだけで、あまり全人格的もしくは社会環境までを感じさせない。まさしくそこが劇場作品の本質である。

オペラ劇場嫌いを自認する自身のリストを見て、直接は関係ないが選択の前提となるその作品の劇場体験が複数であろうとも、その体験を思い起こしていくと、面白いことに気が付いた。意外にもそれら作品の劇場体験の裏にオペラ指揮の下手なサイモン・ラトル指揮公演が複数にも上る。ラモーの「レボレアーデ」にしても、彼が復興初演者のガーディナーに習ってきた成果だった。そして聴体験として「パルシファル」でさえ、ブーレーズ、ペトレンコと別け合っているというから、これは凄いと思う。今でも盛んにオペラを振りたがっており、今更止めればいいのにと思うのだが、何か小さな室内歌劇団でも任してみたいと思わせる。思い浮かぶ公演の指揮者にクラウディオ・アバドも挙がり、ピエール・ブーレーズと並んでキリル・ペトレンコぐらいだから、如何にペトレンコが劇場指揮者で無いかが分かる。

演出家ではペーター・シュタインとか、意外にムスバッハーが入っていたり、文句しかつけないロバート・ウィルソンが入っていたりするのが不思議だ。それらは全てザルツブルク時代にジェラール・モルティエ支配人が設定したものだった。そしてリストアップした作品の内容を思うと、全くザルツブルク上演とは関係なしに共通点も見つかる。というか、オペラの勃興から恐らく終焉までの歴史の中で音楽劇場のその社会的な意味をそこに見る。詳しくはそれこそモルティエ氏の遺稿集を開きながら纏めたいと思うが、まさしく公的資金を投入する音楽劇場の意味をそこに見出す。やはりあの故人の情熱は特筆すべきものだった。そして当時のハイダー博士勢力に連帯して対抗した自負もある。そして彼の継承者であるであるミュンヘンの後任支配人ドルニーに期待したい。

余談ながら後任音楽監督のユロウスキーのコンサートのティケットを一枚購入しておいた。年末ベルリンに行かなければ先に聞いておく。不都合なのは、一部音楽祭の日程は出ているが、楽団のツアー日程などはまだ発表されていないことで、割高の切符は買い難い。近辺で更に安く同じものをより条件が良い場所で聞ける可能性が高いからだ。30ユーロ近い料金はベルリンの放送交響楽団には高過ぎる。同じ場所でゲヴァントハウスがブルックナーの八番で更に数ユーロ高いので、こちらは一先ず断念した。入場料金だけなら、交通費は全く異なるとしても、ルツェルンと変わらない。1400席未満としても視界が効かないのに高くはないか?

クリーヴランドの「トリスタン」の放送の紹介をしたら、知らない人からコメントが入って、「フロリダのナポリに向かっていて、マーラーの二番を歌って、帰りにこれを聞くんだ」と書いてあってリツイートしてくれた。彼がクリーヴランド合唱団の一員であり、楽団がマイアミツアーに出かけていて、数時間後のコンサートがそのような場所であることが分かるまで、ネットリサーチしなければ分からなかった。その前にいつものように楽団からメンションがあったのは分かったが、一体あの楽団関係者には何か基本ガイドラインがあって、効果的にSNSを使うコンセプトが存在しているかのようだ。合唱団からも入った。そして今回も声楽の人で、器楽の人に比較して練習時間を長くできないので、ソリスツに限らず合唱団までネット活動が盛んなのだろうと思った。ピアニストで盛んなイゴール・レヴィットなどは特殊なのだと思う。

お蔭で私も録音してじっくり聞くことになった。昨年放送の節はシュテムメの声を生で聞いた後だったのであのコンサート舞台などにも抵抗があって熱心に聞かなかったが、改めて聞いてみるとなかなかいい演奏をしている。合唱団員も自身が歌っていなくても名歌手の歌唱となると熱心に聞くのだなと思った。日曜日に午後から就寝まで奇しくもフロリダの現場の空気を感じていた。



参照:
音楽劇場のあれこれ 2018-03-08 | 女
ミュージカル指揮の意味 2019-01-27 | マスメディア批評


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ミュージカル指揮の意味

2019-01-27 | マスメディア批評
ミュンヘンのオパーフェストの日程を見ていた。今回は二回野外での公開ものがある。いつものオペラと野外コンサートの二本立てということで、来年はペトレンコ指揮の最後の年でどうなるのかとも思った。それよりも発表されたプログラムが示唆するものの方が興味ある。

先ず歌手は、ゴルダ・シュルツとトーマス・ハムプソンが新たに挙がっていて、曲目もガーシュインとブロードウェーミュージカルとなっている。つまりガーシュイン以外にも何かを振るということだ。コルンゴールトかも知れないしほかの何かかもしれない、不案内なので分からない。そして、上の二人を採用したのも気が利いている。私のツイッター仲間ではないか。

そして本当の関心所は違うところにある。恐らくヴァルトビューネは来年もまだ登場しないと思うが、今年のジルフェスタ―コンツェルトはミュージカルプログラムになってこの二人の登場もあり得るかもしれない。そうなれば私もベルリンまで出かける必要はなくなるが、さてどうなるのか。今迄の経験から四月の発表で、コロムブスの卵のように「何だそんなことだったのか」とそれほど捻りがないことが殆どだったので、そのまま行くかもしれない。

「フィデリオ」にもう一つ新聞評が出た。殆ど異常な再演への関心の高さである。短いながらも南ドイツ新聞が報じている。面白いと思ったのは出だしで、「僅かばかりの音で、彼は本当の指揮者だと分かった。強打、そして奈落から湧き起る弦楽の音で、舞台の一人の女の孤独を感じさせた」とまるで日本で活躍のライターが書いているようなそのものの書き様である。なるほど何が起こっているかを報じるジャーナリスト的な視線も感じられるが同時に、吉田秀和から小林秀雄へと遡れるような私小説系のコラムである。名前を見るとヘンリック・オェルディンクとなっていて日本人でも女性でもなかった。若い人かもしれない。NZZやFAZでは考えられない書きようであるが面白いと思った。続いて「クレッシェンドが男装へと着替える女性を下打ちして」と描写を試みる。

しかし次の段落からは、「この再演が容易なものではなくて、ガッティ指揮の時は音楽的に評価できるものでなく、今回も長いレオノーレ三番の序曲からプラスティック板の迷路に佇む主役の女性に付き添い演出の嫌味に翻弄されなければいけなかった」と音楽監督キリル・ペトレンコの最初のフィデリオに期待させられたとしている。「直ぐに緊張感を作り、音色とダイナミックスへの賢いセンスでもって、彼がどんなに音色の魔術師であるかを証明した」と絶賛する。

更に「ペトレンコの強みは、楽員との信頼関係でもあり、二幕の弦楽四重奏132のアダージョでの泣かせてくれて、バカバカしく駕籠に入って演奏していることも直に忘れさせてくれた」とこれまた故大木正興が書いているのかと思ってしまった。歌手の成果にも一寸触れて、最終的にはペトレンコが持って行ったと御馴染の締め方をしている。恐らくこの書き手は音楽ジャーナリストではなく普通の社会記者みたいな人かもしれない。所謂音楽オタクかもしれない。恐らく私が今まで見かけた中でドイツ語で音楽に書いてあるものの中で最も日本のそれに近いものだった。一度ご本人に会ってみたいぐらいに興味深い。広大ぐらいに留学して修士でも取っているのだろうか?

またまたフィンレー氏のいいねが付いていた。ジュリアードでのセミナー中継を紹介したからだが、中々マメで偉いと思う。オックスフォードに留学していた筈で、流石にSNSの使い方やその意味をよく分かっている証拠である。私個人としては現在オペラ劇場関係の話題を扱うことが多いのでどうしても偏るのだが、本来ならば声楽部門とはそれほど関係がなかったのでとても不思議に思う。

兎に角、自身のサポーターのような人を10人ぐらいつけていれば、利害関係なしで無料で広報してくれるのだから、こんないいことはない。そもそもキリル・ペトレンコがメディアの支援を受けずにつまり芸術的に不利になりかねない関係を断つことが可能になったのもSNSのお蔭であることは賢い者は皆認識している。更にそこに公共的な資財を利用出来るようになればもはや商業的な援助は全く必要が無くなる。

ARTEでゲヴァントハウスのブルックナーの七番が放送されるが、既にオンデマンドになっている。放送されるものはもう少し質が高いのかどうか?少なくともMP4自体はサウンドが126kBitしか出ていない。あまり音源としては使えない。



参照:
Endlich er, Kirill Petrenko dirigiert erstmals "Fidelio" an der Staatsoper, SZ vom 25.1.2019
LadyBird、天道虫の歌 2018-07-01 | 女
そこに滲む業界の常識 2019-01-16 | 雑感
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週末に考えること

2019-01-26 | マスメディア批評
この週末は幾つか片付けないといけないことがある。先ずは来週末のミュンヘンからチューリッヒを繋ぐ途上のホテルをキャンセルすること、若しくは天候などを見て判断すること。また木曜日に劇場の食堂で忘れたマフラーの紛失を届けておくこと、また「ミサソレムニス」への準備を開始することなどである。また来週頭に会計士に依頼するメールなども整えておくこと。三月は余裕が出来るが、そこまでは流してしまわないと駄目だ。

金曜日に朝寝して森を走ったが、帰宅の車中のラディオがペトレンコのアシスタントを務めていて、今度シュトッツガルトにデビューする女流指揮者のインタヴューを流していた。「サウスポール」世界初演でアシスタントを務めていたというから、現在グラーツの監督をしているリニヴの後任のフランス人ジャコーである。女流ばかりになるのだが、コンサート活動もしていて、丁度現代の音楽もクラングフォーフムで振り慣れているらしく、世界初演には役に立つ助手だったのだろう。大体どの程度のアシスタントが選ばれたかは、彼女らのその後の経歴を見ればよく分かる。どこかで見た顔だと思えば昨年の座付管弦楽団のカーネギーホール初公演の時にも同行していて、プレプログラムなどを振っていた。

ペトレンコのアシスタントは、「全てが音楽に向けられていて、どこが良いのか駄目なのか、殆ど授業のような感じで、今でもその教えに感謝している」と話す。もともとトロンボーン奏者として楽団でも吹いていたようで、28歳の若さにしては経験豊富な感じである。力があれば直ぐにコンサート会場でも馴染みの顔になるかもしれない。

「フィデリオ」再演の批評が二種類出ている。再演としては話題だ。一つはDPAの通信社で流されたもので誰が書いているか分からない。内容は短く、簡潔としても報告を超えていて批評をしているのでなぜ匿名扱いのなるのだろう。もう一つは地元紙であり、その名前にも記憶がある。

このあまりにも厳密に行う指揮者が初めて指揮をするとなれば、十二分に考慮したと考えられるわけだが、それもこの特別な多面的な作品「フィデリオ」となればとなる。となると、この再演に当たって、特に性格的に特別でなく作品に向かうとすれば少し驚きとなるとして、レオノーレ三番が序曲におかれた導入においても、過剰に重く深刻になることなく軽妙さを失わずに、無重力なヴィヴァ―ツェと、彼のいつもの流れの早いテムポを保ったとなる。

絶えず弦を張りつめながら、管楽器の音色が輝き、「フィデリオ」のオペラ的な開始に見合う。しかしそれがこの作品の傷でもあり、喜劇的なその導入からの管弦楽の力強い叫びへと、ペトレンコの仮借なさはこの作品において限定的なあり方とされる。

また穴掘り強制の希望の無い場面からフィナーレへと暴力的にとげとげしく解放されるのではなく、ペトレンコの帰来の音楽性によって無理なく繋ぎ合わされたとしつつも、この断面が平坦化されたとも書く。

若いペアーの魅力的なミュラーとパワーを誉め、グロイスボックのベルカントのその総唱でも低音が浮かび立つほどの声はロッコ役には期待されないほどとして、ナズミの信頼置ける以上の歌と評価する。そして、カウフマンがセンセーショナルな声のコントロールで無からの不信の叫びへと歌い上げたとした。そうした最高度の歌で、パートナーのカムペの歌を望まざらず難しくして、声自体が高い領域で厳しそうなのを、賢明なフレージングと表現力豊かなセリフで部分的にのみ対抗するに至ったと書く。

コッホの不安定な低音でドンピッツァロを疲れた事務職にしてと、この再演の落ち着かない暗い要素を、声楽的にも管弦楽的にも軽くしたように思えたと、ジャーナリスト的な報告としている。恐らく当晩の公演からその満足度六点中五点を含めて、批評できることはざっとしているかと思う。詳しくは各々の読者に問うか、若しくは何回か続けて聞いてからで、早々に結論じみたことをいうというのは早急で、これぐらいが正しい纏め方だろうと思う。



参照:
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音
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飛ぶ鳥跡を濁さずの美

2019-01-25 | 
名伯楽が皆あれほど苦労する楽曲をいとも簡単に指揮してしまうペトレンコには改めて驚かされる。最終日を待って感想を纏めたいと思うが、ペトレンコのべ-ト―ヴェン解釈は基本的には変わらない。羽の生えたような軽妙さに木管楽器などの名人芸も要求されていて、中々やっていたと思う。ホルンもデングラーの横にヴィオティーが並んで四管体制の管楽器がとてもよく吹けていて、ホルンもオーボエも流石に二人ともベルリナーフィルハーモニカーで若しくは助っ人で吹いただけのことはある。座付楽団であれほど吹けていたオーボエはザルツブルクでもどこでも聞いたことが無い ― 後で写真を見て「ハフナー」と「悲愴」のためにベルリンに呼んだグヴァンツェルダッチェだと確認した。もしフィルハーモニカーで演奏したら弦の圧も異なるがそれに対抗する管も強力で、あの軽さを要求されるという超技巧を要求されることが分かった。座付管弦楽団が絶妙に演奏すればするほど私はそこにフィルハーモニカーの課題を聞く。フィルハーモニカーがこの公演を聞いたなら同じだと思う。コントラバス四本の同じ編成でバーデンバーデンで演奏したらと思うと、ルツェルンの感覚からそのダイナミックスに鳥肌が立つ。先ずは四月にランランとの二番の協奏曲でじっくり聞かして貰おう。

そしてヨーナス・カウフマンへの拍手はいつものように控えめだ。しかしその歌唱は彼の活動領域やその人気市場の広さとは裏腹にとても通向きである。そもそも彼の名前が私の目に入ったのはYouTubeで偶然見たマネ劇場での「ファウストの業罰」の名唱と名演技であって、本当はそうした分野こそが独断場だと思う。歌劇的であるよりも器楽的であり且つ名演技となる。声の質とか何かは評価すべきところが違うと思う。詳しくは、もう一度細かく確認したいと思うが、拍手を見れば分かるように、ゲルハーハーのように舞台で大向こう受けしない、そのような技能である。
La Damnation de Faust - Jonas Kaufmann


止む無きことから終演後に再び再会した他の芝居劇場の演出家の奥さんのおばさんが、「演出どうだった」と口火を切った。彼女に言わせると、「ここはモダーン過ぎてあまりにもというのが多い」となるが、明らかにこのビエイトの演出もポストモダーン風でもはや些か色褪せてしまっている。感心する人はもう殆どいないと思う。その演出についてあまり深入りはしたくはないが、それも改めて観てからとなる。「演出は感心しないが、音楽は良かったよ」と答えると、どっこい「カウフマンどうだった」と来た。

そこで「難しい二幕一場を上手にこなしていた」と答えたが、一面メディアの話題の矛先であり、一面可成り業界的な関心事であることも事実であろう。実際の音楽的なハイライトはフィナーレ前のデュエットで、カウフマン自身が「女性に有利で男性に不利な作曲になっている」というその通りのクライマックスだった。この点で実際に相手役のカムペに喝采が集まるのは当然で、それに値するだけの歌と演技と、この数年で更に緩んだ下着姿を披露した ― しかし同年輩の同僚では出来る人はあまりいないだろうという自負もあるのだろう、また実際に若い姿態で魅せてもあれに代わって歌える人がどれぐらいいるのだろうか。そのようにペトレンコが個人的な繋がりを超えてカウフマンやカムペにテコ入れするにはそれなりの意味がある。

上のおばさん、つまり教会のお写真を送って貰ったおばさんも「それでももう直ぐいなくなってしまう」とペトレンコが辞めてしまう事を嘆いていた。「バーデンバーデン」に来てくださいよとミュンヘンの人と話す度に宣伝をする私設大使の私であるが、まさしくフェードアウトの準備は着々と進んでおり、ミュンヘンでの監督時代の頂点は過ぎて、そこに「飛ぶ鳥跡を汚濁さず」の美意識と逆算の見事さを見る。

管弦楽に関して前記したように、一つ一つの演奏実践の奥に、フィルハーモニカーとの未来形もしくは彼らへのとても大きな課題を指し示す形となって、まさしく私たちの時代の管弦楽演奏の可能性の有無がとても楽天的な気分の中で問われている。



参照:
こうなるとペトレンコ頼り 2019-01-24 | 音
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活
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こうなるとペトレンコ頼り

2019-01-24 | 
安い燃料代が期待できそうだ。夕方の買い物の時に満タンにしよう。雪がついていて肌寒い。陽射しがあった時の放射冷却よりも湿気があるのか寒く感じる。それ以上に血圧のためかもう一つ気分が優れない。手足も冷える。燃料は、一年ぶりぐらいに、125セントで入れれた。一時と比べるとミュンヘン往復で10ユーロほど安い。プログラムを買ってコーヒーが飲める。今回のように再演でプログラムが要らないと、軽食しても何とかなるかもしれない。

幾つか片づけることがある。先ずは三人の女性の携帯電話番号をしっかりメモして、必要ならば自身の携帯にも幾らか金を入れとかないと使えなくなる可能性がある。調べると20ユーロを超えていたので今回は大丈夫だろう。

あとは道中の録音を新たに準備した。YouTubeの様々な演奏で二幕一場の'Gott! welch Dunkel hier!'を比較してみた。楽譜を分析しようと思って、先ずは道中のお供にベーム指揮では駄目だと分かったので探しているうちに聞き比べになってしまった。歴史的に評価の高いクレムペラー指揮のジョンヴィッカースやフルトヴェングラー指揮とかショルティ指揮とか様々な名歌手のも聞き比べたがまともに振れている指揮者がいなくて驚いた。カウフマンの歌につけたメストがましな方だったが、最後におかしなことになって振り切れていなかった。難しさは声の器楽的な扱いをどうしても歌にするためにそれに器楽を合わすか、若しくは大きなアゴーギクとテムピ設定で誤魔化しているものが殆どだ。特に痛かったのはフルトヴェングラーが戦後にザルツブルクで振ったもので、死の直前の耳が聞こえない状態のものかと思ったら1948年のものでどんな楽譜を使っているのだと思った。フルトヴェングラーのオペラは出来不出来があるが、ベートーヴェンはいつものそれが歌と合わなくなっている。制作録音は所持しているがそんなに酷い記憶はない。しかし今更聞き直そうとは思わないのはとても細かな仕事をしないと解決しないことが多いからだ。意外に良かったのがボータが歌った小澤征爾の指揮である。なるほどリズム的な癖が出るが、それでも細かなことを手兵の座付管弦楽団にさせていて、ペトレンコと同じようにそれが天才的な指揮であることの証明を記録している。解釈だ何とか言っている次元の話ではない。
Beethoven - Fidelio - Gott! Welch' Dunkel hier! - Julius Patzak - Furtwängler (1948)

Tenore JON VICKERS - Fidelio "Gott! Welch Dunkel hier..." (1962)

Peter Hofmann; "Gott! welch', Dunkel hier"; FIDELIO Ludwig van Beethoven

Johan Botha; "Gott, welch Dunkel hier!"; Fidelio; Ludwig van Beethoven


そこで意外に上手にクリストフォンドナーニが指揮していたと思った先日聞いたCDをラッピングした。聞き返すと件のところも恐らく歴史上一番成功している様にとても細かで丁寧な指揮をしている。しかしクレッシェンドが同時にアッチェランドになるアゴーギクの扱いは同じで最後はごちゃごちゃとなる。余程実演で繰り返し練習したようで、ヴィーンの座付管弦楽団が上手に弾いている。しかしリズムの難しいところに来ると振り切れていない。しかしなぜこんなに二線級の歌手ばかりで制作録音がなされたのか、たとえ劇場の新制作がこの歌手陣であったとしても、謎である。

もうこうなるとキリル・ペトレンコに振ってもらわないとこの楽曲はまともに演奏が出来ないと思う。こんなに難しいことになっているとは全く気が付かなかった。同じように難しいのはハムマークラヴィーアソナタとか後期の楽曲にもあるが、ある意味単純な技術的な難しさを超えたものだ。勿論攻略法がはっきりしていないことには歌手が歌えない。そもそも私はカウフマンファンでもなんでもないのだが、今までの関係からペトレンコ指揮でこの課題を解決できるのはこの歌手しかいないと確信している。最終日にも再訪するので初日はここだけにでも耳を傾けたい。そこが上手く行けば、私は最後まで拍手し続けなければいけない。また帰りが遅くなるが仕方がない。
Jonas Kaufmann - Beethoven - Fidelio - 'Gott! welch Dunkel hier!'


午前11頃に初日の最後の放出があった。なんと王のロージェの一列目が四つ出た。王家が来ないということで、再演の場合は普通だが、同じ高価な243ユーロを出すなら価値があるだろう。しかし、この制作に対しての価格が法外であり、とても一人で出かけてあそこに座る気はしなかった。三ランク目の183ユーロまで出ていたが、半分ほどは一時間以内に捌けていて、一列目共々後まで残っていた。正直私の21ユーロと243ユーロで肝心のところがどれだけ違って聞こえるかは大変疑問で、視覚と艶やかな感じが異なるだけだ。不思議なことに全く手が出そうにならなかった。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
習っても出来ないこと 2018-01-17 | マスメディア批評
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ベーシックな生活信条

2019-01-23 | 生活
「フィデリオ」再演初日が近づいている。準備をしなければいけない。今回は多くの人がそうしたように、四日間の日程の中でいい券が入る日を予備として手を付けた。私などは最終日にまさかあんな席が入ると思っていなかったから、二日目を捨てることになった。初めての公式交換サイトでのオファーをした。そしてその二週間ほど前の経験が直ぐに役に立った。

自身の券を売るにも面倒だと思って顔見知りの劇場のカウンターのオヤジに話していたのだが、一年前に初日買い出しを奨められたように、交換サイト参入にも後押しされた。第三者同士のことで責任がないからと言ってもよくも簡単にとも思った。そして試してみたのだった。

そして今回は不測のことから不要になった他人の切符を捌くことになった。交換サイトでは修羅場にならないように値崩れしないように額面でしか売ってはいけない。つまりオファーはそこでは出せない。安くしないと難しいと感じたのは昨年のクリスマスから出されていた同じ列の平土間のオファーが消えていないからだ。最高額券が必ずしも捌けない訳ではないが、いくつかの条件があって、例えば初日とか最終日の同じ席ならばもう少し捌けたと思う。その次に二席並びも捌けた。理由はハッキリしていて、一人で高額席に出向く人は、全く関心の無い人かよほど関心のある人で、後者はあらゆる手段を駆使してその程度の席は入手している。今回は前者の人にまで伝わらなかった。本当は幾らでも27日の日曜日にミュンヘンに日本からの出張者はいた筈で、見本市や学会の状況は分からないが三ケタに上ると思う。日曜日の夜は出張者にとってはフリーも多い。

そこで様々な方法を考えた。一番確実な一つは交換サイトで券を探している人である。生憎高額券一枚を求めている人は皆無で、二枚は複数いた。理由はハッキリしていて、今回は再演であり、その演出もそれほど評判が良くないからだ。私自身243ユーロはどうしたのだろうと思った。オールスターキャストは認めるとしても誰が欠けるか分かったものではない、音楽監督の肩に重荷が掛かる。自信のほどをのぞかしているとなると、これまたこちらも武者震いである。

さて件の券は結局年金生活者の人の手に行った。なぜ彼が143ユーロと中途半端な座席を求めていたのか。「年金生活者だから金がないよ」というような前提にしては高額であり、少なくとも私にとっては高過ぎる。要するに私よりも金持ちだ。それでもこちらの243ユーロとは100ユーロの差額がある。143ユーロの上は183ユーロである。それどころか下の102ユーロでもよいと書いてある。到底成立しない価格差だ。だからこちらの適当な価格で出してみた。文面も若干ざっくばらんだが、受け渡しなどにも言及しておいた。出してからあの額なら結構いい買い物だと思った。そして自分も、十日ほど待つだけなら、今度やってみたいと思ったぐらいだ。疑心暗鬼でそのニックネームもなにか騙しでよほどの交換のプロかとも思った。だから、価格交渉には乗らないぐらいのつもりだったが、反対にプロなら一度会ってみてその人物像によって色々と手解きを受けてみたいとも思った。場合によっては値引きしてもよいぐらいにも思った。

しかし現実は違って、親爺が昼前に回答して来たメールには婆さんの写真までついていた。そして、「私は身体が不自由だから嫁さんに取りに行かす、お見知りおきを」と書いてあるのだ。なにも婆さんの写真などは見たくはなかったが、仕方がないので開けると、背景は教会なのである。笑ってしまった。彼、彼女らの生活信条というか、少なくとも他人に「私たちはこういう人ですよ」と語っている。彼らの信条告白だ。なにもそれに付け加える言葉が出ない、少なくとも私の住んでいる地域ではありえない風情だ。これがバイエルンの片田舎でなくて、都市部の恐らく電車で簡単に劇場を行き来できるところに住んでいる人たちだろう。

こういう人たちがあのミュンヘンの劇場のベースになっている人たちで、その芝居からオペラからいつも最新のモードやハイブローな思考にも触れているのだとも分かった。これこそが生涯教育の公的劇場の使命なのだ。その割に、上の二組とも私のように一時間も早く出かけてガイダンスを受けに行くという人でもなさそうなのだ。私もその価値があったのは一度のみで、あまり良くはないと思っているのだが、これまた只で何か参考になるものがあるとなるとどうしても貪欲になってしまうのである。彼らからみると「これまたなんと熱心な真面目な人だ」と思われているに違いない。

謎解きを忘れていた。彼が143ユーロを求めていたのは、足が不自由だから平土間に座れるそれが最低の価格だったのだ。しかしその席の割り当て48席が四つの車椅子席の間にあるだけだ。殆ど可能性はなかったと思う。それが前から四列目に思いがけずに座れる。上階にもエレヴェーターはあるのだが、座席までには階段がある。こうした需要があるとは考えたこともなかった。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
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覚醒させられるところ

2019-01-22 | 文化一般
承前)何回目になるのだろうか、ミュンヘン詣では。今回ほど昂ぶりを感じたことはない。不思議なほどである。今までも色々と期待に胸を膨らませたり、道中でも本当に数時間後に体験するのだろかと不思議な気持ちになることはあったが、今回のような昂ぶりは無かった。

その音楽からベートーヴェンの内声がそれも赤裸々なものが聞こえてたじろぐ、そもそも中期の楽聖の音楽には珍しいことである。小澤征爾ではないがオペラにはとても捨てきれない音楽があってというのは、ここではこれほど楽聖を身近に感じる音楽がないということになる。

しかし冷静に考えれば、オペラにおける表現という、特にこの作品への批判に還ることになる。二幕の一場のフォロレスタンのアリアからしてもはやオペラ表現ではない。ヴァークナーでさえもこんなものは書いていない。これほどの心理をどのように表現して舞台にのせるか。既に触れたようにその心理をどのように解釈するか?意外なことに啓蒙思想とこの「フィデリオ」に関する論文は簡単に見つからない。ヴィーンでの公演での批評にその視点からのものがあったぐらいだ。

二場でロッコとレオノーレが地下に下りて来るときも二人の歌は殆ど違う世界に居る。アリアともデュエットとも謂いかねるもので、楽聖の主観と舞台における客観的な視点というものが交差する。因みに、手元にあったフォンドナーニ指揮のDECCAの録音を聞くと、中々細やかなニュアンスに富んでいてベーム指揮で声楽と管弦楽の出入りが多いところがとてもいいバランスで鳴っている。勿論この両者のバランスは言い換えると主観と客観ともなる。要するにこちら側の視点がどこにあるかということだ。それが顕著になるのは、フロレスタンを加えた三重唱であり、悪代官ドンピッツァロが登場してからの活劇、そして四場の「水戸黄門の印籠」が五場の再会した夫婦のデュエットを通して勧善懲悪のフィナーレへと流れ込む。

芝居的にはここら辺りでガラッと趣が変わってくるのだが、このことをMeToo指揮者のガッティが新制作に際して上手に語っている。そしてそのことが今回の再演舞台の演出のコンセプトとなっている。それによると一幕の各々はフィックスイデーに凝り固まった抜け道のない迷路であり、二幕になって徐々に解きほどかれていくという筋道である。例えば今回もフロレスタンを歌うヨーナス・カウフマンは、一場のそれが殆ど幻覚なのかどうか分からないと語る。そしてレオノーレ役のカムペが、「器楽的に書かれていて、彼!がどこまで声を考えていたのかどうか」というようにまさしく楽聖のその凝り固まり方がこの創作だ。

私の昂ぶりというのはそこにあって、交響曲や四重奏曲、器楽曲では感じない、とてもベートーヴェン的な固執そこからの解放というのがこの演出ということにもなる。しかしそのヴィデオなどではとんでもなく下らない演出制作で、あれだけの歌手を集め乍おぼろげな記憶によれば全く成功しなかった制作だと思う。その指揮がとてつもなく悪い。そして今回は全く異なる音楽になる。更に推測すると前半の固執はとんでもないところまで行きかねない。しかしあの舞台の動きを見ると自ずとそれにも限界があると思う。そして二幕の最初からカウフマンの歌は当時とは全く異なる歌唱になると確信する。カムペの歌においてもそうで、迷宮から解き放たれるとは何か?そのように考えるとこの演出でも創作の本質的な音楽に迫れると信じている。
Trailer FIDELIO at the Bavarian State Opera


まさしく私の昂ぶりというのが、迷宮入りしそうな脳にあり、殆ど「杉良さんから目線を貰った」、「私のために愛の指揮をしている」というような境地に至るもので、実際ルクセムブルク、ハムブルクと回ってそのペトレンコの指揮振りを見て、更にこの一連のべ-ト―ヴェンへの視座、更に今後メンデルスゾーンを取り上げるという姿勢に、思い込み以上の固定観念に囚われるだけの状況がある。

音楽的にどこまで詰めて来れるかは分からない。しかし、意外にこの演出が邪魔にならない可能性もある。理由は言及したように、「イデオロギー化へのアンチテーゼ」となっていることゆえにキリル・ペトレンコの演奏実践に安定した枠組みを与える可能性もあるからだ。昨年日本で議論となったカタリーナ演出はアンチイデオロギー若しくは「啓蒙の弁証法」を受けた左翼イデオロギー演出への「いちゃもんつけ」のポストモダーン的ポピュリズムで、つまりただの無批判的アレルギー反応でしかなかった。そうした白痴演出と今回再演される演出との差は如何に?



参照:
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
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音楽芸術の啓蒙思想

2019-01-21 | 文化一般
ニューヨークからの「ペレアスとメリザンド」を一部聞いた。その限りとても良かった。何よりも音色が美しく尚且つ明晰さがあった。そして幕間に流されたネゼセガンの解説が音響例示付の示唆に富んだ内容で、「パルシファル」の引用やヴァークナーの影響と拒絶など、この時点で完全に手本とするバーンスタインを超えていると思う。この指揮者は、キリル・ペトレンコが語り尽くさないことでのその先を敢えて残して置くのに対して、全てを明晰に語ることでの価値の意味を見つけたかにさえ思える。とてもクレヴァーな判断だと思う。改めて全幕を聞き直さないといけない。再演の限られた時間であそこまでもっていく実力は掛け替えがない。
Pelléas et Mélisande: Orchestral Introduction

Yannick Nézet-Séguin on Pelléas et Mélisande


「フィデリオ」の一幕を通した。参考音資料にベーム指揮の映画を使っていたが趣向を変えてバーンスタイン指揮のヴィデオを聞いてみた。序曲からして迫力があるのだが、どのような高度な判断でそのような表現になっているのか殆ど分からないことが多い。要するに音楽を学ぶための資料にはなりにくい。そこでオペラ映画に戻るが、これまた最初のホルンのドルツェからして和音の暗喩なのか何かよく分からない。それ以上に座付の管弦楽団がそれ以上の表現能力を持ち合わせていないということでしかないだろう。

Fidelio 1978-2

Beethoven "Fidelio" - Jones, King, Neidlinger ( Böhm ) - Spanish Subs


ベームがミュンヘンの座付管弦楽団を叱責するリハーサルヴィデオが残っているので、ついついそれを思い出すが、ここではお構いなしで進んでいる。一つにはヴィデオ制作なので適当に処理している可能性が強く、モーツァルト作品制作でも共通している。当時の光学録音などでの配慮がピアニッシモの演奏にも底上げ感があるのがヴェテランレコーディングアーティストのノウハウである。現実には更に細かな表現をしていた筈なのだが、ここではいい加減だ。

一幕フィナーレもリズム的な変化がどうも上手く振れていないようだ。ここはペトレンコに期待される。同じように四重唱は今回聞かせどころだと思う。ミュラー、カムペ、パワー、コッホが扱かれるところだろう。

同時に管弦楽団は序曲から細やかに和声の綾を付けて拘るところだ。ダイナミックスも細やかに付けていかないといけないとなると大変だ。ベーム指揮でも大きな枠組みの中で若しくは楽想によってテムポ設定がなされている。ノイエザッハリッヒカイトの代表的な音楽家であるが、実際はそうした計算でなっている。

一場の若い二人のデュエットから二場のマルツェリーネのアリアが初めて面白いと感じた。当時の三十過ぎのおっさんの音楽として聞くととても興味深い感情が赤裸々に歌われていて、こちらはタジタジする。そして四重唱へと続く。そのあとロッコのアリアからレオノーレ、マルチェリーネを交えての三楽章が挟まってマーチへと繋がる。

ベートーヴェンの書法が「魔笛」などを思わすところもあり、同時にそれ以前のバロックオペラの伝統を継承するとこともあるようだが、例えばベームの指揮では明らかに歌を立てることで管弦楽団が伴奏となったり、出たり入ったりの感じが否めない。それを克服するのは、声楽を器楽的に正しく歌わせることと同時に管弦楽のニュアンスを歌に寄り添わせることになると思うのだが、何かそこがこの作曲の演奏実践の難しいところのように思う。

よってピッツァロとロッコのデュオそれに続くレオノーレのアリアなども様式と音楽内容の葛藤のようなものも感じたが、もう少し調べないと分からない。如何にも啓蒙思想的な心情などや俳諧のようなものも表現としての面白さか。更に丁寧な音楽表現が要求されている。(続く



参照:
少しだけでも良い明日に! 2018-09-16 | 文化一般
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事
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問われる継続性の有無

2019-01-20 | 文化一般
森の中は寒かった。街道沿いでも霜が降りた。水溜りが凍っていてが、陽射しが強かったので何とかなった。それでも寒い。暫く怠けていたものだから直腸の辺りが調子悪く、解しているのだが、腰の不都合に繋がってきていて、ここで強制的に直してしまわないと疾患になる。あまりに冷えたところの下り坂を駆け下りるのは更に悪いが、何とか解れただろうか。湯船にでも浸かるべきかもしれない。

帰りの車中でいま日本で話題のウラルの楽団に唯一の古楽奏者として迎えられて、その交渉当事者となっているブロックフルートのマルティン・ザンドホーフが客として呼ばれて話していた。ソニーとの交渉なども上手く行ったことから移住して仕事をしているようだが、年齢もあっていつまで続くか分からないと話していた。ムジカアテルナの今回の日本公演の成否に係っているのではなかろうか、成功すれば金も入りロシア語が出来ないでも金をごっそりと稼げる。そもそも食えるかどうか分からないようなとこから始めたものだから、腹が満たされば用を満たすということだろう。

面白いのはこの人の経歴でケルンのコンツェルトムジークスに居たというからこれまた商売合奏団だ。アンティクスなどのイメージを上手に使って、実際に正式にゲーベルなどがケルンで教職を取ったのはのちのことというから、これまたケルンに集った連中の商売上手である。そこに同じように商売をしようとしたシュトッツガルトの放送管弦楽団が乗ったことになる。

しかし、氏の話しや今回の話題の扱い方はとても微妙で、楽師さん仲間でもカラヤン二世の指揮がショービズかどうかで大きな議論になっているとして、結局は金の力で靡くという印象を強く与えた。そしてここに来て日本公演となるので、盛んなソニーの広報活動が実るのかどうか?結局は世界中にあるクラッシックラディオとかの聴衆層がメインターゲットなので ― 所謂イージーリスニングの軽クラシックというジャンルである ―、そこがどれほどの反応をするかでしかない。しかしそれだけでは足りないので ― 特に権威がものをいう国民性の中では ―、ある程度影響力を持つオピニオンリーダーに裏金を渡してでも所謂核になる層に絶対的な支持を受けないことには継続しない。

まさしく継続可能かどうかがこのインタヴューにおける最大のポイントだった。やはりクレンツィスの活動の中心にいる者がどうも難しいと思っていて、これまでの成功にも驚いているということになる。昨年のツアーにおいてもサウンドチェックから三時間の練習を毎回やらなければいけなかったことから、まさしくブラック労働になっているようで、継続には更なる成功しかないという悪循環に陥っているようだ。嘗てならば成功から成功でメディアの録音録画での複製市場が膨らんで有効な経済というものが確立されて、皆がポルシェを買えるようなご身分になったわけだが、カラヤン以降そのようなビジネスモデルは再興されていない。カラヤン二世の才能に賭けたのだろうが、思ったほど市場が沸いていないという印象は今回の番組を聞いても免れない。

金が動くことは結構なことで誰もそれを嫌がる人などは居らず、大なり小なりお零れを与かろうとしている。但し今回の企画はそもそも人件費の節減をロシアで行って、国外で高めに売ろうという経済であり、働けば働くほど厳しくなってくる一方、そこまでの高値の商売は出来ない基本構造がある。精々ルツェルンでの公演などでスイスフランの力やそこでの金のキープを含めての興味からなっているのだろうが、本当にスイスに口座を作って出来れば移住というようなところまでの富となるのか。指揮者のカラヤン二世には興味ある話しかもしれないが、他のパルムの楽師さんには殆ど関係ないだろう。日本での反応が更に関連してシュトッツガルトでの今後にも影響するかもしれない。

それにしても、指揮者クレンティスを称して、そのオカルト的な特徴しか語れず、「学んだ者」にとってはその音楽の根拠も肯定不可な際物でしかないことを、その活動の中心にいる音楽家に語らせる今回の企画自体がその成り行きを十二分に予感させた。ソニー以外の誰も損をしないなら誰も文句は言わない。そう言えば、歌手のシェファーを仕事上アバドと奪い合ったとあったから、やはりこの人はフィクサーなのだと後ほど分かった。

今晩のメトからの中継が楽しみだ。ドビュシー作曲「ペレアスとメリザンド」はとても上演が難しいとの印象があるが、少なくとも新音楽監督ネゼサガンの指揮の演奏にはとても期待が大きい。暮れにフィラデルフィアからの放送で演奏されたショーソンもよかったが、「ローマの泉」もよかった。本当にこの人は、その男性女性趣味は分からないが、本当に趣味がよい。カラヤン二世に勝るとも劣らない才能があって、メディアも上手に使いながらのバランス感覚もなかなか優れている。



参照:
「軍隊は殺人者」の罪 2018-09-12 | 歴史・時事
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
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移り行く明日への残像

2019-01-19 | 文化一般
「フィデリオ」がまだ頭に入っていない。週末には一通り流せるだろうか。なんといっても尺もそれほどないので楽で、フロレスタンを歌うヨーナス・カウフマンかが言っていたように器楽的に歌を作曲してあるので、ある意味頭に入りやすいだろう。オペラや楽劇などが分かり難いのは叙唱とかそこから音楽へと変わっていったところが頭に入り難い。歌手もプロンプターにお世話になるのはそうしたところとかアリアの繰り返しリフレーンとかなのだろう。重要な長い語りなどはしっかり頭に入るに違いない。管弦楽の伴奏とも間違いようがない。ベートーヴェンの書法は、逆に言葉の繋ぎの経過音などが少なく、そこに言葉が乗るので歌い難くなっているのか?

木曜日に出かけるので、心積もりをして計画をして時間を空けなければいけない。公演前には翌日曜日のティケットを手渡すための最終打ち合わせを劇場に引き取りに来るおばさんとしなければいけない。立見席なので、今回はその前後にスキーに出かける余裕はないが、普段着で出かけようとしている。これがまた色々と考える。先日安売り購入したシャツは先日下ろした。チェックが年寄りくさいので、つまりチャールズ皇太子愛用柄で、実際以前は同じメーカーのものを愛用していた筈だが、今は生地と縫製によって二段階に分けたので、安物の方つまりメードインイングランドで無い方はもう使っていないかもしれない。私が入手したのも50ポンドだから、優に十回以上は余所行きとして洗濯屋に出せるのでお手軽価格である。

但しそのピンクの色合いや柄を見るとあの皇太子のキャラクターがよく表れている。先ず色自体が俗に言われるマザーコムクレックスのピンクで、なぜそう思うかというと、指揮者ティーレマンの愛用のトレーナーの色だからだ。そのように新聞に書かれていて、片手落ちにならないようにキリル・ペトレンコの事も書かれていた。両者とも母親と近く未婚という共通点で、なるほどペトレンコの衣装などを見ると、母親の趣味かなとの印象がある。少なくともアニヤ・カムペからのプレゼントとは若干違うなというのが最近の観測である。逆にティーレマンの場合はそんなトレーナーは流石に母親も宛がわないであろう。要するに皇太子にも共通している。

シャツはそれでいいのだが、タイもせずにジーンズで出かけようかということだ。想定外に同時発注したタイが凄く良かった。ヴィオレットなのだが間に入っている糸がピンク系で、ネットで購入した時はまさかこれほどシャツに合うとは考えていなかった。寧ろ次に購入する心算のヴィオレット系に合すぐらいの予定だったのだ。だからもう少しこの組み合わせで出かけたいのだが、立ち席では要らぬ皺も行くので惜しく、身体も辛い。

水曜日のコンサート評がノイエズルヒャー新聞に載っている。内容は老舗新聞の割にはそれほど優れたものではないが、丁度私と反対側からものを見ているので面白いと思った。当然のことながら、現実に私とは反対側のプレス用の席に座ってこちらを見ていた訳だ。つまり、一曲目のメシアンが上手く行かなかったことを、私は「指揮が出来ていなかった」そして「練習不足を録音のために安全運転した」と評したが、新聞は「些か試し試しで制御し過ぎているようで、二曲目のモーツァルトへ移った」としている。地元紙であり間違いなく楽員にも懇意な裏取り先があるに違いないが、そうなると楽員がそのように感じたということにもなる。制御し過ぎと指揮が出来ていないのその狭間が面白いと思った。同じことの裏表ではないか?

モーツァルトに関しては私のように厳しい見方をしておらず、ルーティンにならず独奏者とのテレパシーの交換となるとやはりその精度が問われる。そもそもソロが荒ければその程度のお相手しかできないとなるが、独配置の合わせる難しさがそこにあると思う。恐らく最終日にはもう少しよくなっただろう。新聞でも一般的に芸術的不満があった昨日はとうとう過去に、そして今丁度これからとなったとしている。正式就任は秋からなのでそうした言い方がなされる。導入にはトーマス・マンの言葉を借りて「ドロップアップする学生の新学期が始まる前の自由でふわふわした気持ちに溢れた開放感」をそこに重ねている。

そして何よりも前に持ってきて大きく報じられたのは、ベートーヴェンの演奏である。楽団の公式同様にジンメン時代の世界的な名声をその頂点としているが、その前に前任者時代からの大きな跳躍に触れていて、同じ楽団とは思えない積極性や合奏に関して絶賛している。同時に当代一のベートーヴェンを伝統楽器で歴史的奏法を兼ねて演奏させる指揮者として評価している。まさに、まだ移行期というのに期待が高まるということでしかないだろう。

インタヴューにもあるように管弦楽団に合わせたプログラム作りをモットーとするならば、このような方向で精度を高めていかなければいけないだろう。もう一つ気になったのは、精度とも係るのだが、ダイナミックスの小ささは、会場ゆえに上を押さえていることよりも下へと延びていないからだと思う。ピアニッシモがしっかり出るかどうかでもう一つ上のクラス分けに引っかかると思う。



参照:
Ja, ist das überhaupt noch dasselbe Orchester?, Christian Wildhagen, NZZ vom 17.1.2019
仕事納めのその準備 2018-12-28 | 生活
玄人らしい嫌らしい人 2019-01-18 | 音
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玄人らしい嫌らしい人

2019-01-18 | 
チューリッヒからの帰りに「フィデリオ」を殆ど流した。走行時間は往路3時間30分を超えていたのに、帰路は22時に車を出して、帰宅は24時35分頃だった。冬タイヤの最高速での巡航運転が可成り続いた。ミュンヘンと比較して距離として10㎞ほど近いだけだが、何日か通ったことがあるように近い感じがするのは、道路状況や地形によると思う。山を上り下りしないでいいのが意外にもスイス往復である。走りやすい。特に帰路はライン河を下る感じになるので燃費良く気持ちよく飛ばせる。高性能の新車になればもっと楽だと思う。但し最大のネックは国境検問で、往路にも前々車までが停められて、お蔭で人手がいないところを通過した。帰路もドイツ側で頑張っていたが帰宅は普通はフリーパスである。

さて、燃料代は安くなったといっても往復11時間半ほどのショートジャーニーの価値があったかどうか?恐らく今後管弦楽団演奏を評価する場合に活きてくると思う、様々なことが感じられた演奏会だった。昨年の五月にあれ程の成果を聞かせてくれた指揮者パーヴォ・ヤルヴィを初めて生で聞いて色々と示唆を受けることがあった。往路の車中でもそのブレーメンでの演奏ヴィデオやパリで演奏を聞いていたが、期待よりも疑心暗鬼が広がるばかりだった。
European Concert 2018 Bayreuth BPO Paavo Jarvi MP4

Olivier Messiaen Les offrandes oubliées .

Beethoven: Symphony No.1; Jarvi, DKB


その通り、前半で終わっていたらとても厳しい評価に終わったと思う。明け方4時前に呟いていた共演者のヤンソンのヴァイオリンも先輩格のクーレンなどの教授タイプとは異なったが、その分物足りないところも沢山あった。フランクフルトの我々の会にも若い時分に登場していたが生で聞くのは初めてだった。前々列の爺さんがプロフィールの写真を掲げて実物と比べていたが、オランダ女性らしい感じで、外見上もその演奏によく合っていた。クーレンやチュマチェンコのようなタイプでないということは、其の侭その音楽性の限界でもあるということなのだろう。そしてモーツァルトを合わせる方も、N響でやるものよりも悪かったかもしれない。装飾音とまではならないまでの細かな音楽表現にまではとても至らなかった。その前のメシアンの楽曲にしてもパリ管のような魅力的な響きも出せなく、ダイナミックスも十二分に出せていなかった。

モーツァルトなどでもハイティンクが指揮した会の方が上手に運んでいたので、明らかに指揮者の責任だ。そのように、また予めの疑惑の目でその指揮振りを見ていると、丁寧さもなくてアインザッツの強拍しか振れていないような感じが視覚でもそのままだった。更に慣れていない筈の伝統的ドイツ配置なので、アンサムブルが難しそうだ。平土間に居れば間違いなく楽員を捕まえてそれに関して質したと思う。アウフタクト以前の問題で十分に深く拍が取れない様であり、あの指揮ならなるほど今の経歴がお似合いである。同世代のメストとの差はその地位の差でもあるが、月とすっぱんだ。どちらがスッポンのような顔だろうか?なるほど「これではビックファイヴの頭にはなれず、精々と」と思っていた。だから前半のメモ以上に、どこをどう直したらもう少し上手く行くだろうかと考えていた。ユース管弦楽団でもペトレンコの指揮には音楽的な表現があり、楽員にはなんとかしようとの気持ちが溢れていたが、それに比べるのもあまりにも気の毒になってくるような演奏だった。

向かい側の画廊でのガイダンスで話していた人が、プログラムにもプログラムコンセプトとして指揮者に質問していて、そのメシアンプログラムの録音にも言及されている。しかし、あの一曲目の演奏ではお話しにならない。

それが後半になると、そのメシアンの若書きの指揮者モンテューによって初演された「光る墓」はとても充実した鳴りで、最後のチェロの件からヴィオラから第二ヴァイオリンへと抜けるところは、まさしくこの楽器配置の聞かせどころで、お見事な選曲と演奏だった。車中で聞いていたチョンの演奏とは全く異なる名演だ。なによりも前半とは異なりしっかりと管弦楽を制御して細やかに振っていた。やれば振れるじゃないかという印象と、それなら前半は手抜きをしていたのかという疑惑が新たに浮かび上がる。恐らく、限られた時間のリハーサルでその成果が分かるので、時間配分して、保留分は手抜き若しくは安全運転をするということなのだろう。これほどまでにあからさまに思えるのは、ペトレンコの指揮振りを見慣れていて、その全身全霊に少なくとも感じるものが基準化されてしまったからかもしれない。

その意味からも最後のベートーヴェンの交響曲一番は編成を大きくしたままで、第一ヴァイオリン6プルトだから、始まる前から若しくはプログラムミング上から話しはついていた。バイロイトでやった方向での演奏が期待された。その通り、アウフタクトも深く取られて、「地団駄踏み」ながら合わせていた。指揮技術上の不利有利は想像するしかないのだが、ペトレンコのように後拍からも音楽を作るようなことまでは無いが、少なくともアインザッツ以上の指揮になって、テムピ設定にも満足した。

こうなるとこの指揮者が世界各地からお座敷が掛かるのも理解できる。ある意味の経済性であり、無理なことはせずに、先ずは初日には後半だけでもものにしてくる、ある意味プロフェッショナルのノウハウでもあり、いやらしさを感じさせる指揮者だ。こうなるとこの管弦楽も流石で、まだもう一つ独配置でのアンサムブルを追及できていないようだが、各パートがやれることをやる能動的な様子が顕著で今後が俄然期待される。付け加えておかなければいけないのは、それでも交響楽団としても音の出方がまるでアメリカの楽団のようでいながら、ユース管弦楽団の瞬発力には至らないことだ。同じようにこの指揮者にはオペラ指揮者のあの呼吸がないことは追記しておかなければ片手落ちになる。更には新聞評も出たようなので、それを読んでから改めて書き加えよう。



参照:
独に拘るシューボックス 2019-01-17 | 文化一般
「副指揮者」の語学力 2018-05-02 | 暦
元号廃止などと昔話 2018-05-04 | 文化一般
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