Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2005年1月 

2005-01-31 | Weblog-Index


トマス・アクィナスとワイン [ ワイン ] / 2005-01-31 COM2, TB0
「ある若き詩人のためのレクイエム」 [ 文化一般 ] / 2005-01-30 COM4, TB3
ホロコーストへの道 [ 歴史・時事 ] / 2005-01-29 COM3, TB2
ティーチャー改め、 [ 女 ] / 2005-01-28 COM3, TB2
敬語の形式 [ 文学・思想 ] / 2005-01-27
強制収容所の現実 [ 歴史・時事 ] / 2005-01-26 COM9, TB7
鋼の如く頑丈で、革よりも [ 生活・暦 ] / 2005-01-25 COM2, TB2
「常連コメンテーター」リストについて [ Weblog ] / 2005-01-24 COM12, TB0
アルムの牛乳チーズ [ 料理 ] / 2005-01-23 COM3, TB0
試飲百景-アイラークップの古いワイン [ ワイン ] / 2005-01-22 COM4, TB1
試飲百景-前書き [ ワイン ] / 2005-01-22
実名での生活 [ 生活・暦 ] / 2005-01-21 COM0, TB1
黒い森の女のホームワーク [ 女 ] / 2005-01-20 COM5, TB0
達人アマデウスの肖像 [ 音 ] / 2005-01-19 COM11, TB8
ゲヴュルツトラミナー/Gewuerztraminer [ ワイン ] / 2005-01-18 COM4, TB0
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17
生命の起源に迫る [ 数学・自然科学 ] / 2005-01-16 COM6, TB2
81年後の初演(ベルリン、2004年12月9日) [ 音 ] / 2005-01-15 COM6, TB2
グラン・クリュのリースリング [ ワイン ] / 2005-01-14 COM2, TB0
架空のクラフトマンシップ [ テクニック ] / 2005-01-13
冬の夕焼けは珍しいか? [ 文学・思想 ] / 2005-01-12 COM9, TB6
公共堆肥から養分摂取 [ 女 ] / 2005-01-11
アトリエのアルブレヒト・デューラー/Albrecht Duerer in Gehaeus [ 文化一般 ] / 2005-01-10
アトランティックの夕焼け [ 生活・暦 ] / 2005-01-10
あの日の町の光景 [ 生活・暦 ] / 2005-01-09
旧年中の動画と文化的時差 [ 文化一般 ] / 2005-01-08 COM2, TB1
水がワインになった奇跡 [ ワイン ] / 2005-01-07 COM8, TB2
新年の門付け [ 生活・暦 ] / 2005-01-06 COM12, TB1
水車小屋のある風景 [ テクニック ] / 2005-01-05 COM2, TB0
初売り出しの行列 [ 生活・暦 ] / 2005-01-04 COM4, TB0
連帯感膨らむ穏やかな午後 [ 歴史・時事 ] / 2005-01-03 COM5, TB3
円熟した大人の文化 [ 文化一般 ] / 2005-01-02
心地よい感興 [ 音 ] / 2005-01-01 COM18, TB3
其れらしいもの [ 音 ] / 2005-01-01 COM3, TB1
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トマス・アクィナスとワイン

2005-01-31 | ワイン
2004 02/18 編集


中世神学を集大成したドミニック修道会の秀才。時は、世俗と神聖の政治力が拮抗してきた13世紀。ヘレニズム、特にアリストテレスの論理に回帰。パリに学びナポリで信仰を哲学する。天体に神の摂理を観るが如く、人間界にも神の摂理が働くことを説く。「医者が治療のために一人には水を与え、一人にはワインを与える時、患者は処方箋を知らねばこれを神の摂理とは思わぬか。」と、なんと説得力のあるお言葉。

そしてマルティン・ルター(1483-1546)の
「ビールは人間事、しかしワインは神のもの。」

Bier ist Menschenwerk,
Wein aber ist von Gott !

に対して、

ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)は、
「神は水のみを造り、人はワインを造った。」

Dieu n'avait fait que l'eau,
mais l'homme a fait le vin !
(Les Contemplations)

と結ぶ。

11世紀から16世紀後半にかけて、欧州全域でワインは収穫・消費とも伸びて盛況。パリでは最盛期一人日毎0.5から2.5リッターも消費していたという資料もある。トマス・アクィナス(1225-1274)は貴族の子息としてイタリアモンテカシノのベネディクト修道会で育った。そこでは、一日の労働にワイン0.27リットルの褒美が記されている。


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「ある若き詩人のためのレクイエム」

2005-01-30 | 文化一般
1970年8月に自殺したドイツの人気作曲家ベルント・アロイス・ツィンマーマンが1969年に完成した曲である。1918年にケルン近郊に生まれたカトリックの作曲家は、第二次大戦時従軍するが、その期間一発も弾を発射しなかったと友人に告白している。それゆえか早めに負傷している。戦前・戦中から既に作曲をしており、美しい曲が存在している。戦後、それらの完成度や特性に関わらず自らの作風に強い懸念を持ってその大部分を放棄した。しかしその後ダルムシュタットの夏期講座に参加して、一躍人気作曲家となっていく。

この曲は、様々な肉声録音や朗読されたテクストさらにデモ行進の騒音や電子音などを加えて大きなモンタージュが形成されている。そして舞台上のオーケストラと合唱にジャズバンド、ハモンドオルガン、歌手等のライヴ音が、スピーカーで流される上記の材料をコラージュとして包み込む。そこでは、ヴラジミール・マヤコフスキーやコンラド・マイヤーなどロシア革命時期に若くして命を絶った詩人を主体にハンス・ヘンニン・ヤーンやヴェレーズ、ダダのクルト・シュヴィッターの一節に加え、カミュの「カリグラ」、エズラ・ポンドの「伯爵」、ジョイスの「ウリシーズ・ブルームのモノローグ」、アイスキュロスの「ペルシャ人」や「プロメテウス」、ヴィットゲンシュタインの「哲学の審査・冒頭」、スターリンの「反ファシズム宣言」、毛沢東の「共産党宣言」、連邦共和国憲法「第一・二章」などのテキストが題材となる。これに加えてプラハの春のデュブチェック首相、ハンガリーのナジ首相、ヒトラーのチェコ侵攻祝辞、暗殺未遂臨時ニュース、ゲッペルスの全面戦争宣言、チェンバレンの懐柔策案、チャーチル首相、ローマ法王等の肉声の演説録音断章が散りばめられる。余りにも分野が広く文化圏も多岐に渡るため把握するにも限界がある。だから、60年代後半のデモの喧騒等に、どちらかと言えば政治的に否定的、悲観的な印象を得る。更に主要テキストは虚無感に傾いている。

しかし、ラテン語のミサに組み込まれる政治演説の挿入法や構成が気が利いているだけでなく、そのモンタージュ全体が大変巧妙に仕組まれている。特に要所を憲法条文で抑えてくるところは心憎い。音楽は、歓喜の歌、メシアン、ミヨー、ヴァーグナーの「イゾルデの愛の死」やジャズ等をコラージュするのみならず効果的に使用する。作曲家は明らかにモーツァルトのように自分の遺作と意図したようだが、白鳥の歌のような、残された人類に贈られたレクイエムとなっている。この作曲家の戦前戦中の自己への批判は承知していたが、政治的材料があまりにも雄弁に語るので芸術の本質を見失いがちになる。過去、将来への歴史認識に限らず、先ずは塊をまな板に乗せて、一旦完全に腑分けしてこそ、そこから初めて趣味好く整えていく事が出来る。複雑でグロテスクな、到底従来の美しい器に盛ることが出来ないものが、こうしてコラージュとして現代的に手際よく盛り付けられていく。フルクサスを髣髴させる。作曲家は、1921年生まれのヨゼフ・ボイスとも親交があったのだろうか。

実は、映画「MISHIMA」の録画ヴィデオを観ようとした。それに上書きされて録画されていたこのレクイエム再演のドキュメントTV番組を偶然再発見した。そしてコッポラとルーカス制作・フィリップ・グラス作曲の上手い作りの映画を一気に最後まで見終えた。1925年生まれでやはり1970年11月25日に自決した三島由紀夫とその「天人五衰」が比較される。少なくとも両遺作に共通するのは、決行を覚悟した人間独特の落ち着かない視線かもしれない。
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ホロコーストへの道

2005-01-29 | マスメディア批評
昨1月27日が制定後10回目の「国家社会主義によるユダヤ人犠牲者への追悼日」であった。新聞論評のなかで「ホロコースト」の言葉に拘ってその語源と使用の歴史を扱ったフランクフルター・アルゲマイネの政治欄の記事が逆説的で興味深かった。

問題となっているザクセン州に議席を持つネオ・ナチ党の主張に肖って、ナチスによる大量殺戮を有名なドレスデン絨毯爆撃と相対化出来るかと云う問いである。ホロコーストの概念は本来爆撃に対して使われていたが、1970年代の終わりごろからナチのユダヤ人虐殺に初めて使われるようになったと云う。1980年代には平和運動活動家によって核爆弾の使用に対してこの言葉が用いられるようになる。ユダヤ人を含む少数民族に対する事務的な抹殺計画犯罪を裁く1960年代のフランクフルト法廷では、その概念に対しての用語は未だ無かったようである。ルターの聖書訳もラテン語でヘブライ語から転じて生贄の火焙りを示すこの言葉は使われていない。物議をかもした1979年の同名のアメリカTVドラマがやはり奔りという。アウシュヴィッツのついては、1942年12月に英国の新聞がこれを用いている。その翌3月には他の英国紙は、大量のユダヤ人救出の可能性は殆んど無かったと、その時点で既に結論付けていたようだ。

通常の爆撃に対しての用例として、英語圏で比較的早く使われた例が、広島・長崎を視察した米進駐軍将校の言葉と云う。これは検閲の彼方と消えたが、パワーズ旅団の隊長が1945年3月の東京大空襲について「家並みから家並みへと火の手が昇り、煮え、巻き起こる炎の大海が、四方八方へと何マイルもホロコーストが足元に広がる。」と1965年の回想に記している。

この記事では、イスラエルでのショアについて、さらに各国の追悼記念日について触れている。文化欄でなく政治欄に載ったこの記事の意図は、往々にして議論となる被害規模と残虐性の「凄惨さ比べ」とそれによる事象の相対化への一つの見解である。20世紀だけでも世界中に非人道的な残虐行為の枚挙に暇がない。それをして、各々の事例へのルサンチマンへの回答とする事は出来ない。今後も繰り返され、現在も繰り返されている事例への基本姿勢を読者に問うている。ナチスの犯罪は、特異かも知れないが決して例外ではない。特質を問題にすれば文化そのものを塗り替えなければならない。ユダヤ人の中欧での歴史もシオニズムもこれ同様に特異である。

セルビア主義のミロセヴィッチ攻撃への軍事行動決断の日を生々しく思い出す。少数民族への差別の放置は、対岸の火と見て防共を考慮した嘗ての英国の過ちを再び犯すことに必ずや繋がった。それを恐れた欧州は、歴史的な利害関係を乗り越えて纏まり、これに共同して対処した。誤爆や全ての被害に責任を取るのは当然だが、決断は正しかった。過去の教訓から、武力をもってしても守らなければならないものが欧州共同体の共通理念には明確にある。
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ティーチャー改め、

2005-01-28 | 
公務員としての立場を維持しながら、専門分野を構築している小学校教諭を知っている。彼女とはかれこれ八年ぐらいの面識がある。教育実習を始めた頃から服装と雰囲気が変わり、声を掛けるようになった。代産休教師で経験を積んで正式な研修期間を既に終えている。今後も職種選択の幅を広げるのだろう。教師には様々な知識や技能が求められている。初等教育では、昔の芸術やスポーツにカウンセラー、IT技能者や図書師等が要求され、専門家の需要は今後も増える。

ドイツの初中等教育分野の三分割柱は有名である。詳細は記さないが、高等教育コースから職業教育コース、中等教育コースまでを満10歳で選択しなければいけない。これは新教の堅信礼14歳と旧教の正餐式9歳との中間の時期に当たる。救済処置があればこのシステムはそれほど大きな問題とは思わない。一部の州で既に永く成功裡に実施している総合学校が一部の州で現在議論されている。三本柱を同じ傘の下に入れる学校である。大多数の市民が反対している。「教育の寄せ鍋」、「過激な実力主義」、「教育行政の煙幕」と手厳しい。そうなればドイツにも私立学校の設置が必要になると学力の低下を憂慮する父親もいる。反対に少数の賛成派は、優劣のある成績の教育効果と早すぎる選択への代案、労働者地域からのエリートの養成を挙げる。特にデュッセルドルフ周辺の人口過密地帯では、伝統的に外国人だけでなく労働者流入が多く環境が全く揃わないという。一クラス15人程度の他所の州と較べて生徒数も大目で全ての環境が悪い。国境を隔てたベルギーやオランダとはPISAで大差を開けられている。

あるハンブルクから集団就職したあるエリート営業マンの妻で地元出身の母親は、道で子供に話しかける母親を見て、「子供には親は方言で語りかけたらいけない。学業で後れを取る。」と言った。これだけでも多くの家庭では克服するのが大変である。そして家庭環境が学力差に出るのは、半日学校で宿題が重要視されるからである。解決策は全日学校への移行である。これで幾分かの格差は埋まる。「給食」そして午後は選択自由補習システムも可能である。家庭での躾と子供の余暇の時間の欠如と給食費用等が反対理由である。

高等教育コースの伝統的なギムナジウムに進む者が増えて、女性の大学進学率が飛躍的に伸びた一方、男性はどちらかといえば将来のある職能を身に着ける。マス教育で平均レベルは落ちているようだが、ティーンエージャー時分から良く知っている女性が極普通のドイツの教育からハーバードの修士を問題なく取った事を思えば、ドイツの高等教育はそれほど悪くないのだろう。それとも米国名門の修士のレベルが低いのか、解からない。何れにせよラテン語やギリシャ語はいまや必要なくなった、英語が出来れば十分である。

家庭環境が伴わない児童を初等教育から中等教育で基礎学力をつけていく事は遥かに難しい。特に初等教育のシステムに不備がある中で、それら問題の多い児童を導くほど骨が折れる事はない。「医者、弁護士等知識階級の多い地区」なら楽だがというのは偽れざる事実であり、さもなければ教師は適当に教育施設に定年まで勤めあげるようになる。魅力ある職場でないと優秀な人材は集まらない。優秀な教師を養成するためには、良い基礎教育のシステムが必要になる。卵が先か、鶏が先かの水掛け論になっている。
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敬語の形式

2005-01-27 | 文学・思想
先ごろ紹介したレッシングの詩*で、文法で言う二人称複数の使用から多くを学んだ。英語で言えば、単数THOUに対する複数YOUである。前者はシェークスピアなどの古典で馴染みがある。後者の複数形を単数形としても我々は一般的に使っている。ドイツ語は此れと反対に二人称複数形の二種類、敬称SIEと親称IHRを今日使うのは同時に多数に語りかけるときに限られる。これは英国とドイツの社会文化の大きな相違を示唆する。

以前から気になっていたのは、英語で王に語りかけるYOUR MAJESTY!に対応するドイツ語のEURER HOHEIT!であった。この場合の二人称の主体は民であろうが、それは二人称の複数親称IHRの所有格として表される。複数親称が使われて「己等の」を示し君主と民の関係が明白になる。一人称複数のOURやUNSERは直接なので失礼となる。まして一人称単数のMYやMEINERを使うなかれ、それは恋人だけでよい。

今回初めて解かったのだが、昔はドイツの家庭でも子供は親に対して直接には語りかけずこのような敬語を使っていた。この傾向が何時ごろから変わってきたかは解からない。少なくとも1960年代の社会運動の時期にはこれは既に問題となっていないようなので、第一次大戦後の1918年11月革命によるプロイセン皇帝の退位の影響が推測される。この話からある近所の歯科医が年長者の患者に向かって敬語を使って気持ちが悪いという噂を聞いた。彼はワイン醸造所の子息らしいが、是非親御さんともども会って見たいものである。

形式とはいいながら、社会の中で貴賎や上下があるのは良くない。人格の貴賎は別なのである。近代西洋型社会においては、法の下の平等が謳われている。幸い60年の運動の成果は大きく、権威主義は地に落ちた。最も素晴らしいのは服装の自由で、形式に拘ることなく目的のみを考えればよい。それでも男性の場合は、従来通りのスーツやジャケットにタイが最も無難な解決法である事には変わりがない。それを外してコーディネートするとなると知恵と創造力が要求される。人格を映す趣味の良さが必要とされる。

レッシングの啓蒙主義の詩が謳う「熟成ワイン」に、如何ほどの価値を見出し、何をそこから導き出すかは各々の人格に関わっている。何はともあれ、その含蓄をじっくりと味わうのが肝心である。


* 試飲百景-アイラークップの古いワイン [ ワイン ] / 2005-01-22
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強制収容所の現実

2005-01-26 | 歴史・時事
60年前の赤軍による解放を祝う式典がUNOで執り行われたようである。一月に入ってから、フランスの放送局などはアウシュヴィッツ修学旅行の様子などを伝えていた。加害者のドイツにとって解放を祝うと云う事はありえない。外務大臣フィシャーの「ありとあらゆる反ユダヤ主義、人種主義、排他主義、非妥協の追放と駆逐」に願いが集約する。

少し遅れて4月にヴァイマールのブッヘンヴァルトの強制収容所が「解放」されている。1945年にアメリカ軍が侵攻、摂取してその後ソヴィエト軍が管轄した。この収容所も上の規模には劣るが、ガス室を除いて全てが完備していた。ここでプロトタイプとして考案され駆動した焼却炉が上でも使われた。今も残る焼却棟の一階は、検死ならびに金歯や皮革の採取場となっており現在も綺麗な形で保存されている。そこから地下へ落とされて死体は処理された。屠殺場然としたその地下では、婦人・子供を含めて1000人以上がそこのホックに吊るされて殺害されている。この収容所の特徴として、親衛隊基地設置に続き1938年以降ユダヤ人以外に自国のみならず欧州中の共産主義者を含む政治犯から活動家、宗教家、同性愛者、精神障害者までが、また軍属捕虜が収容されていた。後年は、ダッハウからここへ、もしくは東部戦線撤退準備に備えてアウシュヴィッツからここへとジプシーならびにユダヤ人が送り込まれた。フランス政府関係者やヒトラー暗殺計画の家族などもVIP用の邸宅が与えられ拘禁された。

ハリウッドの撮影班を従えたアメリカ軍は、町からそれほど離れていないこの収容所にヴァイマールの市民を掻き出した。男性には死体処理をさせ、老若の女性には全てを凝視させた。現実を直視させるためである。この欧州有数の文化都市と収容所の繋がりは改めて記すとするが、余りにも皮肉に満ちている。進駐軍は、ナチスからのドイツ国民の解放どころか祖国ドイツの占領とみなされ、各地でドイツ市民の抵抗や戦犯の逃亡が増える。そこでここにソビエトの管轄による第二次収容所が1950年まで再び設置される。

本日、独仏共同文化放送局から「ハリウッドとホロコースト」の特集番組が流された。ナチスとの関係を配慮したユニヴァーサルと、政治色を出して対抗したワーナーなどさらにMGMなど其々であったようだ。チャップリンの「独裁者」後も様々な映像化が試みられる。しかしハリウッド関係者による現場の目撃は、娯楽を作る事を困難にしていく。

組織立った殺戮と遺体処理の方法に今も根強く生きるドイツ合理精神をみて、その旨をヴァイマール出身の友人に語った事がある。しかし、戦況が悪化するにつれ、初めは骨壷まで準備していたのが灰となった骸を森の石切り場の穴に捨てに行くようになる。アウシュヴィッツの方では、チクロンB利用によるその特別処理数の急上昇から遺体の焼却が儘ならなくなる。帝国鉄道がユダヤ人輸送に格安料金を設置するなど全面的な協力体制が敷かれたが、工業化された大殺戮計画は破綻していく。好戦的で排他的なナチスが当初から崩壊への道を歩んでいたとしても、このような野蛮とグロテスクは、宣伝省ゲッベレスの演出に見る整然と計算された第三帝国などは所詮幻想である事を証明している。



参照:
ヴァイマールからの伝言 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-03
IDの危機と確立の好機 [ 文学・思想 ] / 2005-04-20
ヒロシマの生き残り [ 生活・暦 ] / 2005-08-06
北の地で血を吸った大斧 [ 文化一般 ] / 2005-10-27
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鋼の如く頑丈で、革よりも

2005-01-25 | 生活
強靭で、犬のように機敏に、と云うのがナチス・ドイツのエリート学校「ナポラ」の合言葉であった。現在上映中のナチ・コスチューム映画は、1933年のヒトラーの誕生日の祝いに設置されたこの幼年学校を描く。軍国少年育成機関の奔りであるようだ。

「このような男性の神話が現実において持ちこたえた事は未だ嘗てない」というのがここで既に紹介した地元男性専門医の主張である。男性の更年期は、女性に比較すると顕著でなくそれゆえに自信喪失や無気力感、将来悲観などを生み中高年の自殺の原因となっているという。男性の更年期は副腎機能ホルモンの関係に帰着するようである。

バルティモアの40年間に渡る長期エージング調査によると、男性の加齢は個人差が大きく従来のユニセックスな医療では対応出来ないと主張する。そもそも男性専門医として存在する分野は、前立腺、睾丸周辺の泌尿器科の担当となっている。それでは全く男性特有の「倦怠」、「無気力」、「関節筋肉痛」、「集中力低下」、「性欲低下」などの症状は、誰が対応するのかという質問をこの男性専門医は呈する。ここで「インデアンは嘘つかない。」ならず「インデアンは痛みを知らない。」という言葉が挙がる。これは、男性は幼少から痛みを堪えるように躾けられているという事を意味する。こうして、思春期から少女は常に婦人科のアドヴァイスを受けるのに比べ、少年から死に至るまでの配慮の欠如を平均寿命の相違に関連させる。そして男性は女性以上にストレスに曝されて、抵抗力もない。

医学部において現在は40以上の(臨床?)専門分野があり、50年前までは例えば外科において、緊急と一般外科の二つにしか分かれていなかったことを挙げる。故に今後男性専門医を名乗るには、内分泌、泌尿器、心理学を学び、更にスポーツ医学、栄養学、行動学の知識が無ければいけないだろうと提言する。医療保険についても、近々治療費にではなく予防医療費に支払われるようになると推測する。

最近は、災害に対しての保障や援助よりも被害の予防に対して予算が組まれる傾向がある。経済的効果は、同金額でも成功すれば十二分に回収出来る。こういう先行投資がポスト工業化時代の高齢化社会に向けての妙薬となるのだろうか。



参照:素裸が雄弁に語らないもの [ 文化一般 ] / 2005-04-21
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「常連コメンテーター」リストについて

2005-01-24 | SNS・BLOG研究
ブックマークの項に、複数回以上コメントを頂いたブロガーさんのサイトリンクを付け加えた。予てからこの機能の利用法を考えていたが、先ずはベストの解決法と思う。厳密にはコメントだけでなく、各々の仕方に応じてTBやリンクも考慮した。対象は2004年11月から2005年1月までの間のログとなる。厳密な集計ではないので誤りや抜け落ちも有り得るが、期間限定の過去形であり進行形で考えればあまり支障はないと想像する。反面これらのサイトが「お気に入り」を示す訳ではなく-一般に真実であっても-、専らこの期間通常以上に交流があったという事を意味する。実際にはこのリストにはないサイトも定期的に巡回しているが、コメントは有用な反響であると共にそのコメンテーターのサイトへの否応ない注意を喚起する。しかしこうして無作為に選んでも、幸いにも否定的で無意味な交流は存在しなかった。

ここに掲載出来る数に制限があり、実際の定期的訪問者の数と較べると著しく少ない。所謂声無き衆と云われるアクティヴではないパッシヴな訪問者の声には、寧ろより以上に敏感になる。自身、コメントを残さずに定期的に訪問するサイトもある。記事の内容について余りにも門外漢である時や、反対に立場上あまり語りたくない時などの両方である。何れの場合も大きな関心がありながら、コメントし難い。余りに受け入れがたい論調や論法から、無用で無駄な議論を避けるために素通りする事もある。しかしそのような場合は、記事内容に不理解や無関心の場合と同様、定期的訪問者とはならない。

この間の訪問と支援に改めて御礼申し上げます。そしてこのようなリストアップが全てのブロガーさんにとって心理的圧力にならない事を希望します。ブログにおいては新たな遭遇は、継続的な交流以上に重要と考えるからです。掲載方法もしくは採択等に不都合があればご指摘ください。
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アルムの牛乳チーズ

2005-01-23 | 料理
ベルクケーゼ(山のチーズ)というアルプスの山岳地帯で作られるチーズがある。イタリアのドロミテ、オーストリーのチロル地方からドイツのアルゴイ地方を越えてスイスのグラウブンデン地方からフランス国境まで更にサボア地方から地中海へと向かうローヌ地方の山岳地帯のアルムと云われる牧草地帯では、夏の期間かなり高地まで牛を放牧する。つまりアルプス全域でお馴染みの光景である。こうして野外で自由に新鮮なハーブ類を食べた牛は美味しい牛乳を供給する。その場で取れた牛乳は冷たい清流に缶ごと冷やして、急いで谷に運ぶかチーズに加工する。これを乳牛の生産力が落ちる越冬の食料とした事が知られている。この新鮮な原料を用いて作った工業化しないチーズを、圏外の者は昔からベルクケーゼもしくはアルプケーゼとして貴重がった。

これらのチーズの特徴は、固く身が詰まっている。味も原材料の牛乳が凝縮している。しかしカビの種類によって、それほど強い臭みを伴う事は少ない。寧ろプロセスチーズの味を特別美味にしたような傾向である。現在、市場に出回っている商品は、比重が重いだけに更に高価である。だが実際は、それらの多くの生産は工業化されている。

夏や冬に山小屋で食事を採る機会があると、場合によっては本物のベルクケーゼにありつける。それらは、言うまでもないがその味の素朴さと香ばしさで格段と際立っている。
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試飲百景-アイラークップの古いワイン

2005-01-22 | 試飲百景
モーゼル・ザール・ルーバーを始めて尋ねた。目指すは、モーゼルを除いたザールとルーバーの両流域であった。トリアー経由の土曜午後の遠足である。当時モーゼルワインには偏見を持っていたので、この両流域に専念して調べた。1993年2月の事なので事前調査にネットは使っていなかった。新しく購入したポケットジョンソンでアイラークップの地所を見つけ興味を持った。車を二時間少し走らせ、いかにも源流や支流らしい急な谷へと降りていく。そのアイルに着いて小さな村中を徐行しながらお目当ての醸造所の一つを見つけた。ホテル経営している向かいの広場に駐車する。車を降りると川を挟んで恰も「クップ」とする丸い丘が薄日の差す空の下に確認できた。隣の車を見ると、カバーを外して同じ黒い表紙のポケットブックがダッシュボードの上に置いてあった様に記憶する。

午後の閑散としたレストランから試飲のスペースへ通され、当家の奥さんから説明を受ける。当時は一つ覚えで繰り返していたように、同じ葡萄のジュースを醸造後に混ぜて味を調える方法の可否を尋ねた。初っ端からそこの醸造の基本姿勢を正すためだ。否定的な回答とともに、そこでは一年間に渡るリースリングとしては長期のオーク樽での熟成が謳われた。地質から来るどちらかといえば淡白な味の印象に、その熟成がトーンを加えていたと記憶する。この淡白さは初めての経験であったが、今から考えるとそれはミネラル風味と推測する。手元の資料によると、1991年の樽一番のカビネットや1992年の遅摘などを三種類の樽からダース箱に合わせて6本筒全18本購入している。1991年は、そこでも春先の霜の被害が酷く、収穫量が限られて糖比重が上がったと報告されている。同行者も6本以上は買ったと記憶する。価格は決して安くなく当時の高級の価格設定であった。

こうして、無料試飲で選択も出来て双方ともに満足な売買成立である。そこで、試しに提供された十五年以上物の半辛口ワインを見て驚いた。色が黄金に透き通って「特別な水」のように見えたからだ。飲んでみるとやはり蒸留水のように咽喉を通った。それでいてアルコールが効いている正真正銘のワインであった。このような非売品を飲めた事に感謝した。飲んで少し賢者になったような気がした。次なる目的地、山向こうのザール源流の谷の小さな農家を紹介してもらって、暗くなりかけたルーバーの谷を後にした。


Der alte und der junge Wein
- Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781

Ihr Alten trinkt, euch jung und froh zu trinken:
Drum mag der junge Wein
Für euch, ihr Alten, sein.

Der Jüngling trinkt, sich alt und klug zu trinken:
Drum muß der alte Wein
Für mich, den Jüngling, sein.


新しいワインと古いワイン
- ゴットホルト・エフライム・レッシンク

ご老体は、飲んで愉快に若々しくなる。
故に新鮮なワインは、あなた方ご老体のものでしょう。

青年は、飲んで賢く老練になる。
故に熟成ワインは、若い私のものに違いない。

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試飲百景-前書き

2005-01-22 | 試飲百景
ワインを知るには試飲が重要だと改めて気が付いた。試飲をヴァイン・プローベとかデグスタチオンとかワイン・テースティングとか利き酒とか呼ぶが、これは何を示すのだろうか。味見をするだけならば、瓶毎買って来て一人で家で堪能すれば良い。最も違うのは、醸造元、販売者、ソムリエ、コーディネーターなどの他者との意見交換と情報収集である。何もそれらが専門家の専門的なものでなくとも一向に構わない。

今までに各国の醸造元で度重なる試飲を遂行してきた。そこで覚えたものがワインの知識の骨組みになっている。本や活字から覚えたものはそこに肉をつけ、自ら飲み干したワインが血となった。

試飲百景として、主にドイツの醸造元での経験を任意に回想して、最終的に試飲の手引きとなるものを綴っていきたい。心掛けや学び方は、どのような試飲の場合も同じであり、広範なワイン好きの参考になるものと思う。しかしここに綴る試飲はあくまでもワイン愛好家の個人的な買い付けのためで、商業的買い付けや文化セミナーや催し物として企画されたものではない。これは重要な前提である。

実は、これらの経験を語る意思は以前からあったが全ての記憶が雲集霧散しているので系統的に綴っていく事は困難と考えた。故に手引きといっても、随想に有意義な助言を盛り込んでいく形式となる。先ずは、参照などの注意を敢えて入れない。読者もその場で一緒に試飲しているような、要点が印象に残るような表現を目指したい。だから傍観者も も ら い 飲みには注意して普遍的な情報に留意して欲しい。コメントなども利用して、現在進行形で情報の補充や追加も出来るかもしれない。しかし、そのような資料や記憶に頼った古い情報や限定的で仔細な情報などは本当はどうでも良い。記憶から呼び起こした試飲風景が行間に定着して、そこから何を学んだかが伝われば本望である。


Das Leben ist viel zu kurz, um schlechten Wein zu trinken.
(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832)


つまらないワインを飲むには、人生はあまりにも短すぎる。
(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)

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実名での生活

2005-01-21 | 生活
昨日、行きつけの郊外型スーパーでレジのところに何かを取りに来た従業員にXXXさんと名を呼ばれた。彼女の顔は、勿論レジで見た覚えがあるが、特に近所の娘とか主婦でもない。何か「特別な関係」を思い出せなかった。訊ねると「支払いのカード」から覚えたという。通常以上の親近感を抱いてくれているので礼を言った。このスーパーはレジ数が10列を超えるので決して小さくはないのだが、ここは田舎である。都会の生活か、郊外の生活かの議論を、嘗て語学学校で盛んに遣らされた。永遠の話題である。

偶々、ネットで興味ある話題を見つけた。都会には、郊外以上に多くの種が住んでいるという動物学者の研究成果だ。郊外の6倍の種類の蝶類が都市に住む。人工的な隙間のある煙突や工場の裏側や通気孔、天井裏などの人が近づけない空間が恰好の住処となる。熱と食料は豊富である。狐、アライグマ、カラス、ハイタカ、テンに混じって外国からの移住者、例えば蜥蜴類などが住んでいる。普通なら自然に存在しない環境を都会は提供している。自然にはない手軽な栄養補給源なども魅力だ。つまり都会では、余所者も初めから問題なく住処を見つけ生活する事が出来る。その分、住み着くとテリトリーの縮小などを我慢しなければならないことがある。

往々にして中欧を旅行するとテリトリーは広がる。だから千キロ先でも場所によれば顔を覚えられている事が良くある。さてそれでは人に顔を覚えられる事は、得か損か。都会の匿名性に慣れていると、初めは抵抗があるかも知れないが、個人の尊重と共同体との関係を考えると実名性は至極当然な状態である事が分かる。沽券に関わるので、信条に反した好い加減な事が迂闊に出来ないということだ。
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黒い森の女のホームワーク

2005-01-20 | 


粗二十年ほど知己の女性がいる。黒い森の親しい家族の主婦である。村の若い衆もその家族の先代をだんだんと知らなくなってきている。その先代の息子、つまり当代の主人の妻がこの小母さんである。昔から親しくさせて頂いている。ご主人が腰を痛めて都合が悪い時には、本人だけでなく姑の婆さんまでを車で送り向かいさせて頂いたので、村の衆の話題ともなった。彼女の運転でフライブルクの町へと彼女の娘、息子を連れて買出しに付き合った。彼女が殆んど走らないアウトバーンを後ろを向いて話し込みながらハンドルを握り、路面電車の通る都市交通にパニックを起こして万歳をしてと、その不慣れな運転に途中で変わざるを得なかった。要するに山向こうから嫁に来た田舎者なのである。しかしあの周辺のナンバープレートの車のたどたどしい運転は、フライブルク市を含めて共通している。

ある日の午後、彼女の息子がバーデン州では一般的な半日学校から帰って来て宿題をやっていた。彼は、その時10歳位だったと思う。だから上級学校へそのまま進むかギムナジウムへ進むかは既に選別されていたかもしれない。その算数の問題は、幾何でピタゴラスの定理の最も有名な証明の変形で四角を三角形に分けて底辺と高さの違いで較べてそれを足して、面積の大小を較べさせる、章節の後の方にある応用問題だと記憶している。何故覚えているかといえば解き方を教えてやろうとしたのだが、如何せん当時は教育的語学力が欠けていた。

母親が付いて悪戦苦闘して小さなマスを数えて変な事を試みている。これも四角形を分割、三角形を相似させれば意義があった。暫し傍観を楽しんでいたのだが、それからが大変だった。問題の解けない苛々は絶頂に達し、子供はどうして良いか分からずウロウロしだし、彼女は終に泣きながら村の大学出の父兄のところに電話をして教えを請いに出かけた。勿論子供もべそを掻いてしまった。

この午後の事は、今でも印象に残っている。彼女の情けない気持ちだとか無力感故ではない。家庭環境とか教育レベルに依存した教育システムの問題をこの目で如実に見たからである。この話を「教育の貧困」という昔のプロレタリア文学風に纏める事は出来るが、その先の教育の均等化に生まれるものを我々は知っている。ものを知らない事は決して恥ではない。しかし彼女は、そもそも何を知らないかが解らなかった。教育程度や家庭環境を恥じたのか、それとも彼女自身の思考の限界を感じたのか。その全てが混ざり合っていたのであろう。

謎解きをすれば、知識として必要なものは三角形の相似とか面積の出し方だけであったが、大人でも問題の意図を理解していないとなかなか要点をつけない。ピタゴラスの定理の沢山の証明などもその幾つかをうろ覚えしているとかえって結論に近づけないのと同じである。この応用問題の出題者は、どんな教育的効果を期待したのだろうか?回答と方法が始めにあっての問題作成なので解法が豊富で複雑になるほど、想像力とか直観力というものからますます遠ざかって阿弥陀籤に近くなる。そのような「風が吹けば桶屋が儲かる」式の複雑な思考作業は、その任に専心してこそ始めて合点が行き必要になる。それでもこれは、最小の知識からの試行錯誤を問う良く出来た問題であった。黒い森の「樵の倅」から第二のケプラーを探し出すのが目的だったかもしれないが、それは期待過剰である。教師はこれを宿題にするべきではなかった。
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達人アマデウスの肖像

2005-01-19 | 
モーツァルトの新しい肖像画が、ベルリンの絵画ギャラリーで先日公表された。天才作曲家を破天荒に描いた映画「アマデウス」のディオニソス的側面を補填するというが、どうだろうか。

ヨハン・ゲオルク・エドリンガーによって1790年の作曲家最後のミュンヘン滞在中に描かれたという。それが今回ボローニャにある無名の写し絵とコンピューター照合されて発表となった。確かに我々が知っているヨゼフ・ランゲの未完成の絵は多くの夢想がちな文化人や芸術家の想像力を駆り立てた。音楽自体にデモーニッシュといわれる要素が欠けていた訳では決してないが、ロマンティック時代を通してそれらがチリのように積もっていく様子は興味深い。

この年の10月に、皇帝レオポルド二世の戴冠式がフランクフルトで開かれている。作曲家はこれに参加してそこからの帰途ミュンヘンで、カウフィンガー・シュトラーセの宿に滞在している。そして、嘗てシュトルム・トランクの作風で高名を成していた画家に、このポートレートを描かせたようである。

それではこの絵が物語るものは何か?少し浮腫みがちの頬や丸い眼窩の下に垂れる肉は、同年34歳の中年の疲れを見せる。最近の研究では腎臓障害が約一年後の死因となっているようである。それは早期教育と旅芸人修行を通して神童が幼くして大人の世界に暮らした疲れである。そうしてこの音楽の神童は、知識や流行や趣味を吸収していくだけでなく、人の機微を窺う術を会得していったようだ。家族思いの彼の数々の有名な手紙を挙げるまでのことはない。

天才の発想の展開をその音楽の一瞬に何も神がかりとして見出だす必要はない。寧ろそこには欧州中を旅行した長年の経験から鋭く貪欲に吸収した文化がある。この作曲家の代表的なオペラを観て聴いて、最も驚かされるのはダ・ポンテなどのテキストを越えた的確な表現意欲である。あらゆる制約の中で明確な目標に向けて大ベテランの筆が冴える。そのシャープな焦点こそが、大人の社会に育った早熟早世の天才の為せるものなのであろう。自問してみるが良い、誰が生後30年にして例えば「フィガロの結婚」の登場人物の心情を隈なく表現出来るだろうか。そしてそれを時代様式に沿って表現出来るだけの技巧と音楽的才能を十二分に身につけていた。

これを天才と呼ばずに、なんと言おうか。この絵に描かれているのは間違いなくそのような芸術家である。
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