Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

本当に一番大切なもの?

2006-02-04 | 文学・思想
愛顧していた店が潰れて仕舞った。パン屋ではないが機会があればブロートヒェンを取りに行っていたケーキ屋である。パン屋にとっては貧乏神のように、贔屓にすると間違いなく潰れる。しかし、マンハイムの老舗が店仕舞いするとは、心外である。

フォン・ヴェーバー家が贔屓にしたような、居候のモーツァルトの腹に納まったような物は、姿を消す運命にある。寧ろそれらの芸術家の作品が未だに受容されている事に不審を抱かない方が不思議なのである。同様のベートーヴェンの芸術について、同時代のブロックハウス百科は次のように記している。

「目下、殆んど耳が聞こえない。ヴィーン近郊のメードリンゲンに引篭り、孤独に暮らすが、その大胆な幻想の飛躍の中に調子の良いリズムを響かせる。器楽に新しい音楽分野を拓き、その豊かな音楽情景は…感動的な力と深みを持って自然の中に自由な精神を描き出す。軽いユーモアと冗談は、愛情ある情熱を持って深められる。ハイドンのユーモアとモーツァルトの憂鬱をケルビーニのキャラクターで示すような融合が見られる。…」。

このように150年前の評価が現在と変わらないと引用するのは、現役の音楽評論家ヨアヒム・カイザーである。特にベートーヴェンのピアノ作品を含めた批評は、CD付きの「ピアニスト」シリーズのボックスとして出版されている。氏は、アドルノの推薦を受けて、戦後FAZ紙に評論家として書き始めている。そこの編集長の非ナチ化問題もあってか、1969年からミュンヘンのSZ紙へと移り、その間シュトッツガルトの音楽大学教授を務め、現在に至っている。

カイザー氏が著した「私の大切なもの」に、トーマス・マンの一節を織り込んだ「この全く、殆んど好い加減な分節法」― ベートーヴェンの教養と言語と自意識と云う章がある。この大作曲家の文章と作曲を見比べながら、またシューマンの文章力との比較を交えて、音楽学者シェーリングの試みに言及する。その試みとは、楽聖の作品を逐一文学的に解釈して行く事で、「馬鹿な試みは流石に避けられたが、示唆したものは大きい」とした結論に至る。それどころか、専門家に対してこうしたドラマトリュギーや構成に於いて「作曲家の教養や言語や自意識の言葉」を引き出すアプローチに注意を向けたいと語る。

カイザー氏が「大切にするもの」は、ここではドイツ啓蒙主義的な感化では無くて、「その見捨てられている相違」に注意を促す事にあるのだろう。近代の初めに於いて、即興演奏家から近代的作曲家に至る道のりを拓き、自主興行を成功に導いて行った、この哲学者ヘーゲルと同じ歳の自主独立作曲家ベートヴェンの強かさと、カントや同時代の文学やシュレーゲル訳等によるシャークスピアへの傾倒、クロプストック傾倒からゲーテ傾倒への変遷を通して、この大作曲家の知的限界を探る。このようなカイザー氏の立場を、もしかすると保守的と切り捨てる事は容易かもしれない。

しかしである、消え行くパン職人の技と似ていて、50年も100年以上前にホフマンスタールらが嘆いていた事が、今も繰り返されている。時の経過の間に、感覚が衰え、鈍感になって、その洗練の違いが判らなくなって来ているのだ。古き良き時代はいつも去り行くようで、年配の識者が警鐘を打ち鳴らすのは当然である。

大分以前に世を去った作曲家ベートーヴェンのピアノソナタなどが、今でも、会堂に集まった二千人近い聴衆の中で演奏される事象は、カイザー氏が身をもって守らなければいけない伝統として主張する「朗読の夕べ」の行為にも近い。何を目的としてこのようなソナタが演奏されて、音楽会が企画されて、何が楽しくて態々足を運ぶのだろう。この問いかけと回答そのものが、近代的楽器ピアノを弾いてまたその著述を以って、こうした「大切なもの」を示唆するアルフレード・ブレンデルのリサイタルの夕べなのである。その全活動の叙述法から、これが現代西欧文化を代表している音楽的な催しであると、その本質的な意味を確認する。

ベートーヴェンの弟子リースがピアノ演奏について「跳躍の失敗やミスタッチについては何も言われなかったが、繰り返して楽想の表出や定義付けが出来ていないと、知識や感受性や観察力に欠けていると言われた。先生に於いても前者の例は良く発生した。」と引用して、後者を解決するには才能を要するとこの現代のピアニストは1970年に記している。

それでも、そうした本質を失った行為は、その工業化された製品と等しく、生産の効率化によって挙げた儲けからの富を生む。その富が購買欲を以って購買対象へと向うが、― 考えてみるが良い ― そこには消費者を満足させるようなパンは金銭では買えないという状況が発生する。このような経済は決して成立しない-その本質である洗練された文化無しには。



参照:
勇気と不信の交響楽 [ 文化一般 ] / 2006-01-06
意志に支配される形態 [ 音 ] / 2006-01-05
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
多声音楽の金子織り [ 音 ] / 2005-10-20
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30
マイスターのための葬送行進曲 [ 音 ] / 2005-04-15
こんな物は要らない [ 生活・暦 ] / 2005-10-26

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2 コメント

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日本での西洋音楽受容の不思議さ (望 岳人)
2006-02-06 18:29:30
「寧ろそれらの芸術家の作品が未だに受容されている事に不審を抱かない方が不思議なのである。」

普段は意識しないのですが、このことは時折頭をよぎります。200年の時空を越えて彼の作品を東洋人の私が愛好するということの不思議さ。



同時代のブロックハウス百科のベートーヴェンについての記述は興味深いですね。ハイドンのユーモアはなるほどと思います。モーツァルトの憂鬱には同時代人の感覚とシューマンなどののギャップに驚きます。ケルビーニはベートーヴェンが尊敬した作曲家だそうですね。
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憂鬱は何を指すのでしょう? (pfaelzerwein)
2006-02-07 05:37:27
ベートーヴェンだけをとっても、その受容の歴史は興味深いです。恐らく、構造主義云々が言われる前は、合理的な構造に誰も異議を唱えなかったでしょうし、その構造は人類共通の真理とすら考えられていたのかもしれません。その後の状況は、我々の知るところです。



だからこそ、上のような作業・懐疑が必要になるのです。これは何も東西の問題ではありません。それについては演奏家と話す機会があったので、改めて記事にします。幾らかの教養があれば「理解して仕舞える」交響曲やその演奏形態が存在して、世界中に経済効果を齎したあと、今何が残されたかをじっくりと点検する事になります。「教養のある現代人」には大変難しい作業ですね。



時の話題で言えばモーツアルトの作品(特に初期)や演奏(特にヴィーン風の)は、本当に普遍的な価値があるのか?となります。



ブロックハウス百科のベートーヴェンについての記載にに関して、カイザー氏は、「その後ポピュラリティーは減少したが、権威は比類ないものになった」とコメントしています。この辺もどの様な立場の発言かが問題です。



モーツァルトの憂鬱は何を指すのでしょう?実は、ベートーヴェンの第二交響曲ニ長調についてカイザー氏は、「若きヴェルター」のようなハイリゲンシュタットの遺書の後には、「葬送行進曲」ではないハイドンの「天地創造」を引き継いだ確信があるとしています。このような精神構造を注意深く観察して、共鳴する感受性を保つのが益々難しいと言う事でしょうか。
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