Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2011年6月

2011-06-30 | Weblog-Index


独駐日大使からの福島報告 2011-06-29 | 雑感 TB0,COM0
日本のゴルバチョフへの条件 2011-06-28 | 文学・思想 TB0,COM0
彼らの勇気と行動を讃えよう 2011-06-27 | BLOG研究 TB0,COM0
東電との如何わしいスクラム 2011-06-26 | 歴史・時事 TB0,COM2
歯が立たないこともない 2011-06-26 | 生活 TB0,COM0
核廃棄物の無毒化の錬金術 2011-06-24 | 数学・自然科学 TB0,COM0
解体する原子炉が旨いのか 2011-06-23 | テクニック TB0,COM0
何がために不愉快な存在 2011-06-22 | 歴史・時事 TB0,COM0
バラの名前の閉じられた世界 2011-06-21 | 女 TB0,COM0
開かれた議論のない技術大国 2011-06-20 | 文化一般 TB0,COM2
一生の四分の三の暮らし方 2011-06-18 | 生活 TB0,COM0
福島原発災害への連帯 2011-06-17 | 生活 TB0,COM0
脱原発は集団ヒステリーか? 2011-06-15 | 文学・思想 TB1,COM0
ささやかな生活観を護る 2011-06-14 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
経営不安の独占企業 2011-06-13 | 歴史・時事 TB0,COM0
再生可能な環境税の導入 2011-06-11 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
それでも安物レタスを買う 2011-06-10 | 生活 TB0,COM0
女の浅知恵と間抜けな間男 2011-06-09 | 女 TB0,COM0
細野補佐官のついた嘘 2011-06-08 | テクニック TB0,COM0
ゼオライトか?、減酸か? 2011-06-08 | テクニック TB0,COM0
否定に躍起となる米報道 2011-06-07 | マスメディア批評 TB0,COM0
六月とはこれ如何に? 2011-06-07 | 試飲百景 TB0,COM0
もやしと呼ばれるカイワレ大根 2011-06-06 | 生活 TB0,COM0
市民を無視する政治社会背景 2011-06-05 | マスメディア批評 TB0,COM0
溶解したアンナのドタキャン 2011-06-04 | 女 TB0,COM0
世界的評価の高まる菅政権 2011-06-03 | 歴史・時事 TB0,COM0
誰が、福島の核物質を拾おう? 2011-06-02 | マスメディア批評 TB0,COM0
次世代にとって途轍もないこと 2011-06-01 | 歴史・時事 TB0,COM0
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独駐日大使からの福島報告

2011-06-29 | 雑感
駐日ドイツ連邦共和国大使シュタンツェル博士の福島報告会に参加した。

先ずは要点だけを箇条書きにしておく。

菅首相のただ一度のTV発表。スポークスマン枝野。

マクロマネージメントとミクロマネージメント。

邑社会と政府・天皇。

自助と差し向け。

ロボットと放射能。

ライプチッヒ四重奏団と芸大教授。

千人の核の専門家。

緑の党トリティン。


さて、一晩経って纏めると次のようになるだろうか。

先ず、駐中国大使に続いて駐日大使となったご本人の立場を宣言した。要するに、あくまでも外交官としての役人であることを明白にして、つかみに「何もかも語るが、引用はやめてくれ」と先般からの次期総理大臣候補から失脚した大臣やハイデルベルク大学での博士論文の盗用問題をそこに重ね合わせた。しかしそれは、ここでこの福島報告の視点が所謂官僚組織のそれであり、それは国が違いこそすれ日本の外務省や合衆国の国防省のパートナーと連帯の中で形成された非常に外交的な内容であることを最初から宣言していたのである。それならば特に目新しいものはなかったかといえばそれはそれなりに視覚が若干異なることからの「観察の三角投影方」で浮かび上がってくる内容があったのは間違いない。

菅首相の唯一の期待外れの緊急TV会見の発信力のなさは諸外国ではありえない事で、枝野のそれが補うことはなかったのは日本の視聴者に周知の通りである。これをそれでも態々繰り返したのは次の分析へと話を進めるためである。

つまり日本の政治家が固い官僚組織の上に乗っかってやってきたその政治システムを指して、政治家はマクロなマネージメントをするだけで将来を開いたりする必要はないということである。それに対して避難民などが、体育館でのダンボール塀や世知話やラジオ体操や無料で三食食べれる生活のその自治はミクロマネージメントであるとする。つまり、日本は世界第二の豊かな国であり、村単位での互助も素晴らしく、政治家や国はただ存在すればよいだけであると。また海外からの物質などの援助なども要らないのだが、それでは必要なものは何かと問う。

それは、菅が一度顔を見せる間三度もTVで国民に直接語りかけた天皇陛下なのだと、ある日本人が語ったというが、要するにそれは菅首相のお見舞いなどではなく、天皇陛下が避難民に示した差し向けこそが必要とされたということでなる。これに関しては報道の映像として世界中が皆納得したところである。

こうした分析に関しては、招待席を陣取ったザイフェルト教授をはじめとする日本学の専門家や国会議員などの見解も知りたいが、それはドイツ連邦共和国政府の分析の一つであり、なによりも昨今はナチの協力者として俎上に上ることの多いドイツの官僚組織にとってもっとも快い分析でもあるのだろう。(続く



参照:
「ドイツ問題」の追憶の日々 2009-04-13 | 歴史・時事
女の浅知恵と間抜けな間男 2011-06-09 | 女
外交官なんて不要か? 2010-12-21 | 文化一般
資料で読む官僚組織活動の歴史 2010-11-10 | 歴史・時事
同じ側の人と錯覚する民 2009-06-14 | マスメディア批評
美しい国は何処に? 2006-10-01 | 雑感
魔法の方陣を巡って 2005-12-25 | 数学・自然科学
ゴットフリード・W・ライプニッツ 2004-11-18 | 数学・自然科学
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日本のゴルバチョフへの条件

2011-06-28 | 文学・思想
先日「脱原発は集団ヒステリーか?」で紹介した社会学者ベック氏の記事内容を読んで何を感じただろうか?党派性もなく、運動家でもない我々は、あれやこれは?と結論に近づくについてデジャヴのようなものを感じたのではないだろうか。

早速その記事への反論が殆ど同じ分量で、同じ文化欄の同じ一面の記事となっている。書いているのは作家のウルリッヒ・シャハトでその太陽エネルギーの太陽について「凍りついた太陽」と称する著作がある。東ドイツ出身で、獄中に生まれ、プロテスタントの反政府運動家として活躍して、後に社会民主党の候補としてその後無所属で政治活動をしていたようだ。

さて、氏が問題としているのは、まさに社会の安寧秩序の権力とそれに対抗する運動と革新の永遠のテーマであり、ひょっとすると共和主義と民主主義の二大政党制の議論と読み替えてもよいのかもしれない。

そこでは、政府と市民が共闘するということがそもそもルソーの「総意」ということであり、核災害の非常時にハイパーモラル政治の共闘の中で統一化されるとなる。

しかし実際には、そのような破局はドイツでも、それどころか一人も死んでいない福島でさえも起こっていないので、自然災害の津波や地震で多大な被害が出たことに比べれば原発施設の安全のスタンダード化への問いかけなどは極特殊なものだとする。

それだからベック氏がペテンを遣っている訳でなくて、議論を古典的なデマゴーグの善悪の二元論へと持ち込んでいるというのだ。つまり原子力産業は悪であり、政治的にも合理的ではなく、これらの産業や儲け主義を規制する正統性が、だからそこに存在するという意見なのだと。

それは、ウルリッヒ・ベックが90年代の共産主義の敗北によって「敵を失った民主主義」を見つけた社会学者であることを示していて、そしてその後の展開はどうだったと訝る?左右のイデオロギーの対決は本当に止揚されたのかということだろう。

それに対して、ベック氏の回答は、もはや福島や原発とは関係なく、嘗ての急進な社会革新で太陽の国への闘争をしようとしているのではないかと。つまり、それは「レーニンの強制徴用凍結」であり、「毛の大飛躍」ではないのかと。当然のことながらベックのそれでは所有者のいない太陽には「誰も権限がない」と牧歌的に誤魔化してはいるのだがと、そして自由に運動する社会と憲法によって規定されている国の共闘の幻想は詩人でもない限り危険であると訴える。

ここまで読んで、日本の今置かれている社会・政治状況を鑑みて愚考すれば、丁度こうした議論における力学が官僚組織と政治家の間にも存在していて、可能性が強まってきた菅首相の再生エネルギー解散によって、現在党首として足場を置くその党派性からソヴィエトのゴルバチョフのような政治学的に矛盾に満ちた選択をするのではないかが注目される。

当然、即時脱原発で押し通す緑の党の国政進出が、菅を日本のゴルバチョフにするかどうかの必要条件となる。そして有権者には、上で議論となったような対極化した思考態度が要求される。それがそもそも自らの置かれている環境というものを掴み取れる 必 要 最 小 限 の 方 法 であるからだ ― ウルリッヒ・ベックのインタヴューを朝日新聞が5月13日に「オピニオン 原発事故の正体」として掲載したようだが、さてそれに対する反論はどうだったか?日本の文化輸入は往々にして一つの思潮が権威として正統化されてしまうのが特徴である。議論の無いところには学問も文化も存在しない。

菅首相の二股膏薬のような決断力のない態度はそのもの日本国民の鑑であり、そのアカデミズムの未熟を表徴している。重要なのは、「物分りの良さそうな納得」ではなくて、多数決の民主主義での強い意志の表明と、それによって初めて院内で交わされる激しい議論、院外での高尚な議論の止揚から生ずる文化でしかない。

シャハト氏は、エジプトの太陽信仰が最終的には支配のシステムとなっていったことを挙げて、その代わり現代でも太陽と対峙する人類の希望や意思は、人間の作った秩序からも甚だ遠く、宇宙の次元での自然は人々の畏敬の対象でしかないと、ドイツにおける結論めいた賢明が外国からしたら如何に馬鹿げたものであるかと非難する。

まさに陽が昇り沈む往く日本の歴史的な存在価値がここに問われているのかもしれない。



参照:
Will er jetzt den Sonnengott spielen?, Ulrich Schacht, FAZ vom 28.6.2011
ホッブス、ロックの思想と、東京電力 (田村伊知朗政治学研究室)
report 23 (雨をかわす踊り)
六月も終わり (作雨作晴)
原発は引き伸ばされた原爆 (壺中山紫庵)
脱原発は集団ヒステリーか? 2011-06-15 | 文学・思想
彼らの勇気と行動を讃えよう 2011-06-27 | BLOG研究
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彼らの勇気と行動を讃えよう

2011-06-27 | SNS・BLOG研究
ライプチッヒ弦楽四重奏団が素晴らしい音楽を東北の被災地に響かせたようである。その現地からの報告がBLOGに載っているのだが、それを巡ってすねっからしのスト破り野郎としてこの四人を叩く同業者が絶えないことをFAZが伝えている。

要するに、芸大との繋がりもあり腕もありレパートリーもとても広いが、かなり芸術的には保守的なこのドイツ代表する、もはや練れて十分にベテランの四重奏団に対して、日本公演をなんとかキャンセルしたい仲間内からの嫉妬のようなものが爆発したらしい。バイエルンの歌劇団、ベルリンの交響楽団、ドレスデンのフィルハーモニーと秋から日本でスケジュールが入っている団体では、ユニオンなどが健康被害を考えて日本旅行を出来るだけ避けたいからなのである。

ベルリンのそれは既に仙台公演をキャンセルしたが、殆どの楽団や音楽家は福島どころか東北さえも訪れないのだが、彼のプリマドンナのように、かつての友人などの被曝の長い苦しみを理由として、日本行き拒否を強く宣誓したので、日本での外来は八割方がキャンセルしたといわれる。

そうした中で、五月には手筈が整わず叶わなかったが、被災地でのコンサートのために態々六月に再び出直したこの人たちはどうした人たちなのだろう?多くのものは売名行為やそのポーズで日本を訪れるが、郡山や南相馬町まで訪れるこの人たちには頭が下がる。そして彼らは、場所によればドイツの都市よりも放射能が少なかったところもあるぐらいだと、ドイツの過剰反応をヒステリーとして批判する。

なるほど、現在の空気中の放射線の強さはその程度だろうが、内部被曝も何も考えずに発言する彼らは、ちょうど今の日本人がおかれるようなところから出所した典型的な東ドイツ人なのだろうか?それは彼らの奏でる音楽の「現実の環境のない作り物」にも十分に表れているのではないだろうか?覚醒できていない芸術家など必要なのだろうか?放射能は、どんなに感覚の優れた芸術家でも感じることが出来ない現実の環境なのである。

芸術家としてはともかく、彼らが供出する最上質のミューズは、彼らのまことのヒューマニティーとともに、被災地の子供たちにも間違いなく伝わったと確信する。その芸術家としての主義主張はともかく、その連帯と行動に最大の賛辞を厭わないだろう。両親を失い何もかも失った少女が手元に残ったトラムペットに見出す希望とは、きっとそうした環境にあるのは間違いないのだ。

そして再び我々は、あの理不尽な原発事故に思いを馳せるしかないのである。少なくとも政府や東電が何もかも正直に国民に正しい情報を流すように開かれていたならば、「生き残り、逃げ遅れた被災者たち」にもこうした善意の連帯が今とは比較にならないほど示された筈だ。神戸の震災のときと比べてヴォランティアーも少ないという。その責任はこましゃくれた情報操作と管制にある。一度その情報に信用がなくなれば何も信用できなくなり、五里霧中に膨らみ解けない疑心暗鬼が放射線を浴びたガスのように漂い続ける。

エアバス社が今回の英断を援助して、東京の大使館が全面協力した。音楽家は、ハリボ社などによって用意されたお菓子や防止やバッチなどの子供たちへのお土産をいっぱい詰めたバスで福島へ、大船渡へ、渡町へ、仙台へと一路北に向かったのであった。

彼らによって、ベートヴェンの神への感謝やハイドン、そして日本で人気のドヴォルジャークの「アメリカ」などが演奏されたようだ。どんなにか素晴らしい音楽が奏でられたことだろうか。



参照:
Tag 5: Wataricho, Miyagi Prefecture,
Tag 4: Sendai, Miyagi Prefecture,
Tag 3: Kesennuma, Miyagi Prefecture,
Tag 2: Ofunato, Iwate Prefecture,
Tag 1: Kooriyama, Fukushima PrefectureLSQBlog
Musik in Trümmern, Christian Wildhagen, FAZ vom 27.6.2011
溶解したアンナのドタキャン 2011-06-04 | 女
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東電との如何わしいスクラム

2011-06-26 | 歴史・時事
IAEAの報告を受けて、ヨアヒム・ミュラーユングが一面に「自己核分裂」と称して社説を書いている。それによると、インターネットフォールムでも論争となったような、ドイツでの食中毒死に比べて福島での被曝での死者が出ていないことに関する馬鹿げた議論を挙げて、核災害が如何に悲惨なものかを問い、津波と地震のその多大な死者数から「福島」を「カタストルフ」としない主張の誤りを指摘する。

そしてそのような主張で、「福島」を歴史的に否定して仕舞うことなどは出来ないと、千キロ平米にも及ぶ地域での何時帰宅できるかもわからない何百万人もの避難民に触れる。そして、どの国と比べても、科学的な合理性の宝庫としてあまりにも無邪気な国が、その報いとして放射能へのおぼろげな不安の坩堝へと陥っているのであると述べる。こうして示すことで日本の核禍がようやく身近に感じれるようになるだろうと説く。

先週のIAEAのウィーン会議時にも古い核開発業界の構造が未だに解消されずに続いている理由を、これで理解できるかもしれないと、業界が真実を恐れて、そこから生じるものを恐れているのだと述べる。

核の専門家は、繰り返しあるがままの姿に居座り続け、安全のスタンダード化へとは合意しない。それゆえに「福島」は、自分自身の評価の不安に共鳴して、不安感に喘ぐ人々の信頼感を獲得しうる民主主義的な手順や透明性への関心を明白にしていないと批判する。

それどころか自らの事故解明の成果を自慢して法螺を吹くような巧妙なスポークスマンまでがおり、これではこの大災害を当分処理することなどは出来ないだろうとしている。危機管理の技術を最後まで弄ぼうとする限りにおいては無理な相談だというのである。

時間が経っても多くのことはまだまだ分かっていない。沈黙、逃避、歪曲が、基本姿勢として日本政府と東電との如何わしいスクラムの中で、情報戦略として罷り通っているのだと怒る。情報社会時代の特に開放が世界を進歩させると思われている時代において、それがしばしばマスメディアのヒステリーとなる時代においてさえ、なにも分かっていない戦略だと訝る。

自己核分裂は、ドイツの脱原発の一方、「福島」は避けられたかもしれないどころかあまりにもずさんな管理でもはや工業史最大の悲劇となっていて、それ自体をさらに助長する方向へと進む危険性すら与えていると現状認識が示される。

国連総長のヴィーンでの発言は、それゆえに原発賛成の者には誤ったメッセージとして受けとられたようで、その「世界が協力して当たる」ことの意味を再度考察する。チェルノブイリは工業・政治におけるソヴィエトの妄信と組織化された秘密主義における硬直した裁定を明らかにしたのだったが、「福島」は「核管理の迫り来る危機の予兆」であるのだ。

そして今回の発表を受けて、現代社会はあまりにも容易にエネルギー政策を考え過ぎていたようだと、簡単な安全政策すら疎かにしていたその安全条約の無効性を嘆き、これで東電と保安院の怠慢が明らかになったと切り捨てる。

なるほど核安全の世界の警察の必要はなり行きの結果だが、日本は三月の津波を、そして数時間内にメルトダウンが起きることを想定できたろうと考える。しかし、それが世界に知らされたのははじめて月日が経ってからなのだと当事者を責める。付け焼刃の事故対応を諌め、放射線汚染の状況は大まかに目溢しされていると。どこでどのぐらいの汚染があるかも全てはヴェールに包まれたと事実を述べる。

それどころか、あつかましくも事故は通常手段で解決できると嘯き、諸外国の援助さえ拒んだ日本が、もはや技術先進国としてこうした事態を収束できるとは思われないと非難する。同時に世界のこの業界の可能性にも疑問の種をまいたことになると手厳しい。後に残ったのは、あまりにもの自己過信のその姿だけである。これが、高級紙FAZの見解でありドイツ社会の一般的な観方だろう。

政権内では合衆国の傀儡が菅降ろしを画策して、傀儡政権への道筋が敷かれている。民主主義の確立と技術立国の精神からして、京大の小出助教が時々危険に口走るように、今こそ「政府転覆」が必要なのかもしれない。その合法的な方法は、菅首相自体が解散に打って出て政界再編するとか、ドイツ連邦政府が後押しするように緑の党の国政での定着を試みるとか、限られた方法が存在するだろう。

東電の株主総会が開かれるという。こうした独占企業を存続させるような政治姿勢は如何わしい関係以外の何物でもないので、有権者はそこを監視すれば事たる筈である。そもそもそんな政府などは不要で、災害の緊急援助対策に責任を持ち、事故対応などを厳しく国民が裁く臨時国民政府さえ存在すればよい。その他のことはイタリア共和国などと同じで民間活力で十分に機能するのである。このままでは日本の国民は傀儡政府によって遅かれ早かれ皆殺されてしまうであろう。直ちに行動を起こさなければいけないのである。



参照:
Die nukleare Selbstdemontage, Joachim Müller-Jung, FAZ vom 25.6.2011
ドイツ旅日記・1《成田からミュンヘン、ヴァッサーブルグへ》 (あとりえ・チビッコ)
原発は引き伸ばされた原爆 (壺中山紫庵)
地元茨城でとれた大豆を100%使用した納豆です。 (saarweineのワイン)
核廃棄物の無毒化の錬金術 2011-06-24 | 数学・自然科学
何がために不愉快な存在 2011-06-22 | 歴史・時事
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歯が立たないこともない

2011-06-26 | 生活
2009年の秋以来でアルザスのここを訪れるのは二度目である。フランスとドイツの国境線の岩城の壁を登りに来た。大きくはないのだが、南プファルツのそれに比べて雑食左岸が硬い。ぼろぼろしていないので、手がかりが尖っている。丁度ナイフの背が二ミリぐらい外に突き出しているような感じで角が立っているのである。

ドイツ山岳協会の指導員試験のために来週ドナウ流域でスポーツクライミングのテストがあるというので、ここを推薦して練習してもらった。ドナウは石灰で手がかりが似ていると感じたからだ。六級の三本のうちの二本をレッドポイントで登りきらなければいけないらしい。怪我をしてはいけないので私が出来るところはトップで登って、トップロープで練習してもらった。

一箇所は、フランスの標記で6bだったので歯が立たなかったが、以前トップロープで登ったところは何とか登れたので良かった。国境線とは言ってもここはフランスであるので、ボルトなどの支点が整備されていて、ドイツのそれと比べると難しいところに挑戦しやすい。最短での車の道も検討できたので、また次回の楽しみである。

前日の休日は同じようにトリフェルツ近くで岩場を登ったが、雨が降るまで三本ほどは楽しめた。一箇所ではボルトで足を擦ったのがズボンの裾が切れて足を切っていた。また見た目ではそれほど困難ではなさそうな壁は靴先の摩擦と状態の両方を酷使することになって、私だけでなくパートナーも結構堪えたようだった。

その後、ノイシュタットに帰ってきてから、ヴェークミュラー醸造所のグーツリースリングを一人半リットルほど飲んだ。恐らく蔵出しで5ユーロほどのそれの品質は高く、間違いなく、お隣のクリストマン醸造所に比べると一般的評価は大分高いに違いない。もちろん、角が立って、尚且つ深みがある方向へと上級のそれが向かっているとはなかなか思えないのだが、ギメルデリンゲン周辺の土壌からすればとても綺麗な造りである。その前に飲んだのが、ダインハートのリースリングで昔ながらの土着な味筋で、新しい体制で銘柄を二種類に分けているというが、実際にこのような農協顔負けの庶民的なリースリングを出している限り、高級リースリングは造れないだろう。醸造の技術ではなく、葡萄の手入れや収穫、さらには美的趣味の問題なのである。もしこれを飲んでいたならば悪酔いしていたに違いない。

飲み心地も良かったことを証明してくれて、さらに「もし赤ワインだったら頭がむくむくしていた」と話してくれた。それは事実で、赤ワインは頭にきて、白ワインは腸にくる。それは、赤ワインは循環器系に、白ワインは消化器系にという嘗ての伝統的な医学的な効能に匹敵している。

そんなことを考えながら2009年産のゲオルク・モズバッハー醸造所産シュペートブルグンダーを開けた。鶏の胸肉焼きのワインソースに合わせて、一人で一本を空けてしまった。さすがに早く寝付いて、目が覚めてこれを書いている。頭もすっきり、グラスに僅か残っているそれも酸化していなくてまだ美味い。なるほど若干やわらか過ぎるが、とても高品質で、ボーヌ周辺のピノノワールと比較して、そのアルコール13.5%の酔い心地から驚くほど高品質である。
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核廃棄物の無毒化の錬金術

2011-06-24 | 数学・自然科学
核廃棄物を無毒化できないか?もし可能ならば安全な原子力発電のもとでエネルギー政策が解決するかもしれない。無毒で安全な廃棄物ならばそれほど問題もなく、一度大気中にあふれた放射性物質も無毒ならば核は環境に必ずしも悪いものとはならない。

そうした研究に一つとしてEUの「ミラ」プロジェクトで日本や白ロシア、ロシアや米国からの研究者を交えて行われるように昨年決定した内容が報告されている。なるほど無毒化までに至ってはいないが、放射性核種の安定化と半減期の短縮が可能となるかもしれない。たとえば半減期二万四千年の同位体プルトニウム239を処理すると中性子を加え、僅か二年の半減期しか持たない核分裂生成物セシウム134と安定した同位体ルテニウム104が生じるというのである。永遠に放射能を発し続けると思われていた核廃棄物が、二年ごとに半減していくとなるとまるで夢のようだ。原子炉冷却材としても同時に使われるビスマスと鉛の核子に加速された陽子を当てることで、核反応から中性子が飛ぶ出す。使用済み核廃棄物から分けられた処理されるべきアクチノイド核種の核が中性子を受け取ったり核分裂したりして、中性子の放出でより小さな同位体となる。

この工程を核変異工程と呼び既に80年代にイタリアのノーベル賞学者カルロ・ルビアによって確立されたようだが、技術的には今日に至るまで非常に複雑な課題が残っているようである。

たとえば、最初に使用済み核燃料からアクチノイドを分離する作業において現在は99.9%のレヴェルだが99.99%まで高めることが目標だとこのEUプロジェクトの中核であるカールツルーヘの核廃棄研究所のアンドレアス・ガイストは語る。

プルトニウムの変異工程は確立されているのだが、それに性質の似ているアメリシウム、キュリウム、ネプトニウムなどは困難なのだという。全核廃棄物の僅か一パーセントがアクチノイド核種なのだが、またその九割方がプルトニウムということになっている。ウランより重いアルチノイドは、内部被曝すると、細胞増殖異常の骨、腎臓、肝臓、血液系の癌を引き起こすことで猛毒と知られているものである。

またカールツルーエ核研究所の研究者であり、ヘルムホルツ協会の地区長ヨアヒム・クネーベルは、冷却体自体が250度から450度の高熱であり、それを如何に冷やせるかが鍵であると見ていて、材料工学的にも核分裂が起こるその容器の鉄のコーティングなどで劣化を避ける必要があるとしている。

ドレスデンのロッセンドルフ研究所のアルノルト・ユングハンスは、高エネルギーを持つ電子を含む冷却材の問題で、中性子の放射時間と核のエネルギー量からの実験を繰り返しているようだ。

こうした問題が解決されると2014年から試験操業が始められて、2023年には実用化が予定されている。ベルギーのSCK-CEN研究所に設置されたこの装置は十億ユーロの投資で70メガワットの出力規模がある。しかし、そうして処理されるべき核廃棄物は、世界で毎年二十六万トン排出されて、毎年その量は加速されていて、そうした全世界の深刻な社会問題を一挙に解決するものではないようだ。



参照:
Die zauberhafte Entschärfung des Atommülls, Monika Etspüler, FAZ vom 22.6.2011
解体する原子炉が旨いのか 2011-06-23 | テクニック
開かれた議論のない技術大国 2011-06-20 | 文化一般
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解体する原子炉が旨いのか

2011-06-23 | テクニック
技術欄で原発解体工程を比較的詳細に紹介している。その工程は政府統合本部やテプコが出しているようないい加減なものではない。しかし工程通り進めないといつまでたっても終わらないのは同じである。テプコの嘘吐きは、排水処理システムの進展状況の遅れ方を説明しているのだけを聞いても誰でも呆れるのである。一刻も早く解体すべきである。

さて永遠に続かに見える現状回復に二十八年掛かるその解体作業の全費用は新設費用よりも多く計上される。たとえば一千億円以上と新設の場合の三倍半以上の経費が計上されている。それでも大事故による修復作業とは全く異なり手軽な作業なのは明白である。そしてその解体工費自体が最初のことであり予想以上の解体費用が出てくると予想されている。

総重量二十五万トンの八割方コンクリートの素材の670メガワットの沸騰水型の二十四年後の1997年に停止された古い原子炉である。そのうち 僅 か 五千トンだけが保存の必要な高放射能廃棄物となる。

それでは安全な解体廃棄物とは何か?掃除してきれいにぬぐって表面上が綺麗になってもまだ駄目なのである。酸やイオン化処置をしてからコバルト60で、キログラムあたり100ベクレルになったものが始めて通常の廃棄物として扱われる。日本の食糧のそれの三分の一ほどの汚染の鉄材などである。日本人はこれなら鉄分補強のためにでも解体した原発をゴリゴリ齧った方が安全なのかもしれない。

建築は僅か二年間、解体は二十八年間なのである。健全なウランやMOX燃料を完璧に取り出して、事故なしに解体してもこれだけの金と手間がかかるのである。一企業が福島のような事故を起こしても、特別な政治的な裏がない限り、解体されない訳が無いのである。



参照:Abshalten und wegschließen, Georg Küffner, FAZ vom 14.6.2011
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何がために不愉快な存在

2011-06-22 | 歴史・時事
メルケル首相がヴァイツゼッカ-大統領に続いて初めて国賓としてホワイトハウスに招かれた。世界的に最も権威のある民主主義勲章を譲与された。それを伝えた米国の報道は殆んどないのでドイツ国外では殆んど知られていない。脱原発を決定したドイツ連邦共和国は合衆国の核政策にとってもますます不愉快な存在となってきたのである。

琉球大学名誉教授矢ヶ崎克馬が語るように、晩発性の内部被曝はそもそもICRPによってつまり合衆国ではその核戦略として認めたくないものなのである。劣化ウランでの米兵の問題を思い出す者もいるかもしれない。それはIAEAでもWHOでも基本的には同じであることはその存在理由を知っている者なら誰でも一目瞭然である。

氏は、そこで長崎広島での駐留軍による人体実験の証拠とその成果を紹介して、広瀬隆が指摘する「NHKの山崎記者が示していた距離の二乗に反比例する」どころかその紙をも通さないアルファーやベーター線が大問題となる内部被曝とその詳しい仕組みを説明している。

番組を見れば多くのことが分かる。脱原発運動は嘗てはイデオロギーによって動かされていたが、今は誰もそんな大それたことは考えてもいない。しかし、原爆開発から今までの戦勝国などの政治姿勢やその学術的見解を見ると、如何に原発の平和利用というものが特定のイデオロギーによって推進されてきたかが浮き彫りにされるのだ。

反米親中で失脚した小沢何某先生までが「原発は過渡的なエネルギー」と発言しているという。決してそのようなことを宣言してはいけないのである。発送分離を身を掛けて阻止する電力会社や労働団体さらに経団連までが反対するからか?それとも?

総理大臣の首まで替えてしまおうとするその政治的圧力は、必ずしも既得権を貪る政界や買収されたマスメディアによって誘導された世論によるものではない。それともグリーン政策を進めようとしたオバマ政権だろうか、日本のありとあらゆる傀儡の組織や個人を後押ししてそうした巨大な圧力をかけ続けているのは抑止核政策を掌るさらに大きな世界の覇権構造なのである。

今も福島では、文部科学省と合衆国が共同で人体実験の資料を集めている。福島の処理と平行して合衆国は核の超大国としての数度にわたる日本での人体実験の結果を牛耳りたいのである。だから到底福島の被害者には今後ともそうした貴重な環境データーや疾病のそれは知らされることはないのであろう。

サルコジ大統領がメルケル首相を訪ねた。統一後これほどまでに独仏がよそよそしくなったことはなかった。アレヴァのシステムなどは核燃料のアマルガウまでは到底扱えない。そんなことが出来るなら、核開発など近所のメッキ工場でも出来るのだ。



参照:
矢ヶ崎克馬氏:依然として最大の脅威は内部被曝のリスク (YOUTUBE)
6月20日 「浜岡原発停止を言ってきたが事故は福島で起きた。私の判断は間違っていた」 小出裕章(MBS) (小出裕章 (京大助教) 非公式まとめ)
開かれた議論のない技術大国 2011-06-20 | 文化一般
バラの名前の閉じられた世界 2011-06-21 | 女
計画通りにならない核分裂 2011-04-11 | 雑感
心を揺さぶる貴く強い振る舞い 2011-05-11 | 雑感
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バラの名前の閉じられた世界

2011-06-21 | 
先の短いメルケル首相のことを挙げた。さすがに首相としては女性の口の巧さだけでは用を足さないので、如何せん重要な発言は保守党政治家に通じる修辞法の巧みさとして表現される。とは言ってもそれほど複雑なものではなく、精々ドイツ語の初学者が基本文法として習うほどの構文なのだが、その内容は義務教育を受けたものから高等な教育を受けた専門家までに一様に伝わる類のものである。

要するに修辞法のその論理がはっきりしているのである。それを前提としてはじめて高度な修辞がはじめて可能となる。

ウムベルト・エーコの小説「バラの名前」の映画の撮影の地を再び訪れた。案内にエバーバッハ修道所を訪れ、そこで試飲してきた。この一年で三回目の訪問である。州立の醸造所がここを個人対面販売の拠点としている。山の上にあるので一寸離れているが、平日の人の少ないときは態々訪れるにふさわしい場所である。

2010年産は、減酸してもまだ強い酸が特徴であるが、その質が問われる。試飲して例年に増して素晴らしかったのはシュタインベルクである。壁に囲まれた一時は甘口の生産地と知られたその区画の土壌とミクロ気象が大変活きていて、それがQbaクラスでもっとも功を奏している。上級のものが今ひとつバランスが悪い理由は分からないが、そこの地下の新設醸造システムを使った成果がこれに最も表れていて、今後とも注目の歴史的地所の名前である。そうした継承された技術や知識の発展や革新こそが科学技術であり、批判的な経験の積み重ねの中に文明がある。

そのような文明の見通しが利くかどうかで核開発や遺伝子工学利用への市民の理解が得られるわけであって、なんら想像できないもしくは情報も与えられていなくては一方的な安全神話が構築されてしまっていて当然なのである。ゆえに開かれた批判的な議論が文明には欠かせないのである。
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開かれた議論のない技術大国

2011-06-20 | 文化一般
ドイツ連邦共和国は十一年後には全ての原子力発電所を止める。その後のことを考察するためか近過去の経験を振り返っている。あまり知られていなかった東ドイツでの原発処理の話である。つまり1989年に停止されたソヴィエト製の原子力発電所の処理を振り返っている。

端的に言えば被曝する労働者が必要で、二十年以上かけて一つ一つの部品を除洗して胴切りにして格納するしかないのである。目も眩むような気の長い作業なのである。そして今も続いている。

独第二放送が福島について報道していたようだ。帰るに帰れない老人が紹介されていたが、生きているうちには戻れないならどうせ老い先短いので無理してでも帰るというのだ。

こうした問題を解決しなければいけないことは小出助教が政府がバックアップしなければいけない事例として繰り返しあげていた。今後爆発的な事故がないという未だ釈然としない前提では、同心円状の避難地域にはあまり意味がないので、少なくとも現時点での汚染の実際に即した避難地図やホットスポッツの明示こそが必要になるのだろう。

子供の疎開や事後避難などの議論が盛んなようであるが、今からでも被曝からの回復や障害の低減に役立つという合理性があるならば、海外を含めて子供たちの受け入れは十分に大規模な展開が可能であり、交換児童留学などの枠組みを拡大すれば全く問題がない。

中部大教授武田邦彦への国会での発言をみた。福島の現地での被曝者への気遣いを見せたその講演風景は印象に残っていたが、技術屋としての発言内容やその思考は「脱原発運動家」のそれではないのでこれまた興味深い。たとえば原発の外部汚染濃度上限の底上げを、生産におけるレギュレーション問題として扱っている。要するに年間20ミリシーベルトと上げてしまうと、その技術的苦心もその規制値からの技術的向上や市場も破壊してしまうということなのである。適当に危ない原子力発電が欲しいだけならば、なにも高価な技術や材料によって製造されるプラントなどは必要ないということになる。この点においてEUが明白な戦略を確保していることはいつも述べている通りである。

核開発の将来や未来への指針を考察する場合、危険性は伴っても研究や実験は必要となる。しかし高速増殖炉「もんじゅ」などは実用化への疑念が叫ばれている。これに関しては鳩山グループの会合での広瀬隆の講演でも扱われている。かなり初歩的なプラントや機械の設計ミスのように見受けられる。日本の基礎工学的な能力の限界をそこに見るようでもあり、工業製品輸出超大国となれなかった日本の実力なのであろう。汎用技術の洗練や低価格化はなされてもなかなかパイオニアにはなれない技術力であり、日本の工業製品を観察すれば一目瞭然なのである。科学や工業技術といっても基本は「開かれた情報と議論」であることに他ならなく、その社会が成長しない限りこうした高度の先端技術を押し進めることは不可能であろう。「開かれた情報や議論」は、政治や社会のことだけでは全くないのである。

なぜ菅首相の「再生エネルギー構想へのすり替え」がいけないかといえば、まさにこの点であり、先ずは「便所のないマンション」である原子力発電の非合理性から、その限界と現在における「過渡的な発電方式」として認知することが何よりも重要だからなのである。少なくとも同じ物理を学んだ学徒であるメルケル首相は、福島前からこれを公言していたのであった。なぜそれが出来ないのか。そうした過程こそが、科学技術への正しい論理的な取り組み方なのである。屁理屈やまやかしでなくしっかりした修辞法を使うべきなのである。



参照:
原発廃止後のエネルギー貯蓄 2011-04-10 | テクニック
脱原発は集団ヒステリーか? 2011-06-15 | 文学・思想
再生可能な環境税の導入 2011-06-11 | アウトドーア・環境
瑞西の交通規制行動 2006-02-09 | アウトドーア・環境
太地イルカ猟とKorus 2008-10-23 | 文化一般
緑への細やかな手順 2009-01-29 | アウトドーア・環境
これで結構真剣勝負なのですよ 2010-04-11 | 試飲百景
議論出来ない情報社会問題 2009-11-30 | 歴史・時事
前近代に生きる日本の自己欺瞞 2011-04-03 | 文化一般
近代物理教の使徒の死 2007-05-02 | 文化一般
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一生の四分の三の暮らし方

2011-06-18 | 生活
菅首相が国会らしきところで扇子を仰いでいる写真が掲載されている。その上には大きく暗くした電気屋の光景が写っている。あんなに暗くした電気屋で物を購入する人など居るのだろうか?真っ暗なところで過ごしていると思われているドイツでさえ、デパートなどは十分に明るく、商品の色目などが良く分かるように照明が施されている。少なくとも偏光しないような照明は商業道徳上必要である。

店内を暗くするようならば、休店すればよいだけなのである。そもそも週七日間二十四時間も店を開けているのが罪作りなのである。日曜は休業して、夕方で閉店してこそまともな人間の生活なのである。

日本の夏は暑いのでこれからが大変であるとコロンコ女史は書いているが、そんなことは初めから分かっている。日本の夏は暑く、仕事にならず、生きている価値が無いからこちらは移住したのである。日本や東南アジアに住んでいる限り、毎年三ヶ月、つまり一生の四分の一は無駄に過ごすことになるのである。



参照:
Japan legt die Krawatte ab, Petra Kolonko, FAZ vom 17.6.2011
ニコゴリの取り持つ絶妙 2007-06-15 | 料理
そのもののために輝く 2006-11-13 | 生活
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福島原発災害への連帯

2011-06-17 | 生活
ダイデスハイムの目抜きに日章旗が揚がっていた。EU旗と市のそれと並んでいた。偶々ダイデスハイマーホーフに用事があったので、「日本からやってくるVIP」は誰かと訊ねた。分からなかった。

そこで斜め前の市長の事務所を訪れた。そこでも承知していなかったので、方々に電話をかけて調べて貰った。「一昨日、歴史的なガイスボックの競りがあったからか」などとも話が出たが、日本人がそれを買い付けたとは思わなかった。

ツーリストインフォメーションからの情報によると、「福島災害への連帯と、ブール醸造所に日本からお客さんが来ているから」と言うことになった。



参照:
典型的なザウマーゲン 2005-12-27 | 料理
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
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脱原発は集団ヒステリーか?

2011-06-15 | 文学・思想
脱原発現象は庶民の集団ヒステリーかどうかについてFAZ新聞の文化欄で社会学者ウルリッヒ・ベックが考察している。

「一匹狼のドイツ人」と、環境保護運動家シュテュワート・バーンドに散々貶されたのであるが、イタリア人も続いた。もしかすると日本人も続くかもしれない。

「一人も死者も出ていない福島のおかげで、原子力発電の価値に確信を持った」と語る英国の運動家ジョージ・モンビ-ト流の試練と実験を乗り越えての近代化への道が拓かれた - 経験による危険性の免疫化 - 十九世紀の前近代と、二十一世紀の原子力の現状を取り違えてはいけないと警告している。

それは、その科学技術的な現象であると同時に人文社会学的な事実であって、具体的には当然ながら政治・経済へと広がる特定のイデオロギーがその背後を支えていることを浮き彫りにする。

たとえば自由主義国アメリカ合衆国が原子力災害に採用している補償限度制度などは、私企業が儲けるのに対して国がその限度を超える賠償に関しては補償するという社会主義思想である矛盾を指摘している。

これは、超司法処置体制を取れないような政府は原発を保持するべきではないとする西尾幹二らの言にも一致しており、第二次世界大戦の敗北国つまり核兵器を放棄した国々にとっては原子力の平和利用などは到底あわないということなのである。

さらに再生利用エネルギーへと視野を広げているのだが、化石燃料の地主の権益どころかそれを奪い取ろうとしたコロニズムやポストコロニズムの社会を脱皮して、誰もが自由に利用できる太陽光線や風を使うことで、原子力におけるウランの奪い合いからの脱皮から大きく民主主義へと足を踏み出すというのである。

ジョン・デュウィーの1927年の「The public and its’ Problems」によれば、「共同体構築への力である、国を超えた公共とは、政治的な意思決定ではなく、生存の問題としての決断の帰結として、市民の文化的認知の中にある」となる。

そして本来ならばお互いに無関係なものどおしのコムニケーションをすべからず促すのが、公共としての「危険の認識」に他ならなく、「原子力の危険に過剰反応するヒステリー」として揶揄されるものこそが、生きるために重要な一歩であり、民主主義の変換としてのエネルギーシフトなのであるとする。

国と市民の運動は、正統性の根源と交渉の可能性を浮かび上がらせるので、こうした原子力破局において強化されて、同時に原子力産業は弱体化される。それを経て、今ドイツで注目されているような国と市民運動の新たな協調の好機となっている。

だから、合衆国やフランス、英国というような民主主義を代表する国がこれに無関心なのが解せないと書く。それは同時に市民運動家出身の首相である菅直人にとっては、再生可能エネルギーの実現よりも「脱原発による民主主義の実現」こそが天命なのである。新聞は、日本での6.11の脱原発パレードを写真つきで大きく報じている。諦めるべきではないだろう。決して一人ぼっちではないのである。



参照:
Der Irrtum der Raupe, Ulrich Beck,
Widerstand gegen Atomenergie in Japan wächst, FAZ vom 14.6.2011
死ぬも地獄、生きるも地獄 2011-04-16 | 文学・思想
福島なんて取るに足りない事故 2011-04-12 | アウトドーア・環境
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ささやかな生活観を護る

2011-06-14 | アウトドーア・環境
福島によって緑の党が躍進したとは誰も思っていない。その実際を高級紙FAZが考察している。福島直後のメルケル首相の決断などが世界中に報じられているが、実際には緑の党はお家芸である脱原発をかっぱられた訳ではなく、もはや脱原発などは自明のことであり、寧ろ緑の党を国民政党へと押し上げたのには、中間層の新たな社会層があるからだとする見解である。

たとえばフランクフルトで、嘗てならば市内に住むか郊外の緑の中に一戸建てに住んだような社会層が、その購買力でその中間にある地帯の歴史的に場末な地域にアパートメントを好んで購入するようになった。

そうした社会層は、仕事場へと自転車で通うことも出来る反面、気持ちの良い緑の豊富な街角の環境に満足して生活するのである。彼らが護ろうとするのはそうした快適な環境なのである。放射能に汚染されていない清々しい緑の下で空気の中でぺダルを踏めるようななんでもない穏やかで気持ちの良い営みである。

庶民は、誰でも自分は庶民ではないと思っている。使い切れないような富も、権力も必要とせずに、シムプルライフを目指す人達。購買力は特に十分ではないということで社会主義者や左翼の主張にも興味を持っている庶民である。要するに、大多数の市民なのである。

彼らは、巨大な権力者に圧力をかけるだけの十分な社会的権利を行使する。それによって護るのはそうしたささやかな満足感なのである。
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