Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

METを超えたオペラ

2019-04-17 | 
承前)バーデンバーデン復活祭、前半を終えた。可成り疲れた。来年は日程的に更に厳しくなり、それが毎年続くようになる。

メータ指揮「オテロ」二回目公演を初日に続いて観た。文字通り空いていた、233ユーロの席に59ユーロから自主無料グレードアップした。来年は叶わないだろう。その差は何か?先ず演出を正面から観れることで、音楽的には一長一短かもしれない。少なくともコンサートにおける優位性はオペラでは音楽ファンには無い。オペラをその席で観るのは初めてだったので、メモしておきたい。

前列には地元のギムナジウムの生徒たちが一列陣取っていたが、希望者だけに格安で毎年出しているのだろう。これという女子生徒がいなかったので声は掛けなかったが、幾ら出しているのか興味が湧く。私が親ならば60ユーロは出してやろう ― 自分の払った額である。それ以上かというと、例えばミュンヘン劇場でその額を出せばそこそこのものが楽しめるからだ。実際に今シーズンからU30というのが半額扱いなので30ユーロで充分である。

さて一長一短は最前列ならばピットへの左右の視界が効くが、二列目以降では前の人によっては効かなくなる。音響的にも舞台上の管弦楽ほどには響かない。同様な例は、前日に一階ザイテンバルコンで話されていたように平土間でも舞台上の奥の管弦楽団後列へは同じような状況がある。

さてその舞台、初日と異なっていた。細かなことは曖昧だが、先ずは指揮者のズビン・メータが初日には歩いて出てきて間延びして拍手が割れた。改めて後ろ向きに拍手を浴びてから暗転となり幕が上がりプロジェクターの巨象の前に小象が舞台で横たわっていた。それはサイドからは舞台の上と背後のプロジェクターの差異がハッキリしなかった。しかし、今回は最初から入っていたので、ウィルソンが零しているようなざわざわ感は無く、比較的映画館のような緊張感が保たれた。これは修正点で、その他も手の動きや動作が初日よりも明白になってメリハリが付いた。少なくともサイドからでは合唱団のまるでセラーズの演出のような手の上げ下げは印象に残らなかった。私が指摘した通りに修正したのかもしれない ― 全て予の思うが儘である。

しかしそのメリハリを付けたのはドラマチュルクの仕事かもしれないが、それ以上に別人のように指示を出したのは指揮者だった。体調不良で代わりにペトレンコが入ったのかと思うほどの変わりようだった。音楽的には、ダイナミックスやテムポも遥かにコントラストが付けられても、アゴーギクでアクセントをつけるペトレンコ以上に安定していたかもしれないが、技術的に全く宗旨変えしたほど変えてきた。所謂オペラ劇場の職人的なキューを出し始めた。

逆に初日に何一つ必要なキューを出さずに棒も最小限にしか振らなかった意味は不可解であり、健康状態ではありえない豹変ぶりだった。恐らくベルリナーフィルハーモニカーを舞台で振るならばあれで通ったのだろうが、歌手の間合いなどをはかると直ぐにフライングしかねない交響楽団を甘く見たのだろう。ピットに入る交響楽団はロスぐらいで経験がありそうだが、どうなんだろう。要するに舞台上へのキューを殆ど出さなかったのが始終出すように変えてきた。また同時にピット内にも小まめに出しようになった。流石にブーを出されるようになったフィルハーモニカー側からも確認の一言があったのかもしれない。流石の同じところではフライングは無くなったが一か所だけ前のめりになりそうだった。あれは歌手の間合いを取れなかったのだ。しかしパウ、マイヤー、フックス、シュヴィンゲルトらが下手に、上手にはドールらが一生懸命に合わせようとしている、イングリッシュホルンのヴォーレンヴェバーの妙技など、必ずしも前日のオテンザムマーなどの個人の実力は評価できないのだが、また弦楽陣の鋭い表情と彼の世へと上り詰めるときの表情とともに合奏として表現しようと学ぶとき、もはやどこの座付管弦楽団も手の届かない境地へと至る。

実際には、スケルトンが完全に復調していて、恐らくこの程度でないと到底METで主役は貰えない。なるほどピッチのためか最高音では若干厳しいところもあったが、外にも練習が聞こえてたように三幕の叫びなどは上手くこなしていた。カウフマンとは異なって中音域での幅の広さが役に合っていて、最高域でさえ上手く運べば当たり役だった。少なくともトリスタンとは違うのだが、共演もバカ声のウェスブロックや素人オペラ指揮者のラトルとは違って、とても良い刺激と支援を受けていた。そのヨンチョヴァは初日では新聞に書かれていたように緊張からか喉が詰まっていたが、解消していて、一か所だけが厳しかった。それでもそもそもの技量が違って、管弦楽はこのデュオを潰さないだけの伴奏を一生懸命していた。要するに、少年少女合唱団までを含めてメリハリがついてきた。ヴィーンの合唱団も圧倒的だった。(続く)



参照:
落ち着き払ったメータ指揮 2019-04-16 | マスメディア批評
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
コメント

フランクフルトにやってくる

2019-03-09 | 
ベルリナーフィルハーモニカーのティケットを購入した。来年2月20日のアルテオパーでの公演だ。先に発表されたハノヴァーと同じプログラムのようで、ブラームスの「悲劇的序曲」から始めて、ベルント・アロイス・ツィムマーマンの「アナゴアーナ」休憩後にラフマニノフ「交響的舞曲」で〆る。上手く行けば初の国内ツアー公演なのでアンコールもあるかもしれない。比較的名曲プログラムだが、我々ペトレンコケンナーとしては可成り手強い。

今もフランクフルトのバッハの会員なのだが、それゆえにアルテオパーの催し物一斉発売の時に手を付けたことは一度もなかった。だからスクロールしていると欲しい出し物が出てくる。先ずは会主催のヘルヴェッヘ指揮のゲントのアンサムブル50周年記念公演である。これも外せない。そしてフランクフルトで行くことに価値がある。それは楽団との関係でもあり私もそこで色々と教わったからである。元々はアルフレッド・ブレンデルのリサイタルシリーズが目当てだったのだが、目ぼしいバロック奏者や歌手は一通りそこで聞けた。その間、大管弦楽団の演奏会は横目に見ていて単発でバーデンバーデンを中心に出かけていたぐらいだ。

そして今回、キリル・ペトレンコ指揮の初のツアー先として先ず手を付けた。他にどこを回るか知らないが、バーデンバーデンは無いので、近辺では精々シュトッツガルトかルクセムブルクだろう。後者の場合は音響的に考えるが、異なるプログラムでなければ前者のリーダーハレにまで出かける必要もない。有難いことである。更に入場料金も比較的お得で、音響にも全く問題が無いどころかどのように鳴り渡るかとても楽しみだ。

因みに二千人以上を開放するのはヴィーナーやベルリナーなどそしてラトル指揮ロンドン交響楽団、ユロウスキー指揮ロンドンフィル、サロネン指揮フィルハーモニアなどで、他の所謂一流下の管弦楽団はゲントのアンサムブル同様後ろを閉めて千数百人規模で公演する。ヤンソンス指揮BR放送交響楽団、フルサ指揮バムベルク、バーミンガム響、ティーレマン指揮シュターツカペレドレスデン、パパーノ指揮サンタチェチーリアなどは入らないからだ。ヤルヴィ指揮ブレーメン室内管のベートーヴェンツィクルスが大会場を四晩も抑えているのはレパートリーや企画性もある。

余分に購入したのは後任のミュンヘンの音楽監督ユロウスキー指揮のロンドンフィルハーモニで、ショスタコヴィーッチの11番とプロコフエフのピアノ協奏曲三番である。暮れのために買ったベルリンの放送管弦楽とはまた異なるものを聞いておきたかった。常連であるが前回は名曲プロで更に高価だった。今回は30ユーロでお手頃価格になっている。

ベルリンからの中継、初日を聴いた。先ず何よりもシェーンベルクがよかった。予想そのままで、コパンチンスカヤの独奏に寄り添う形がとられたが、あまりにも立派だった。手元のメモには10ヶ所くらいのポインツがリストアップしてある。殆どは肯定的な点である。二楽章の独奏も素晴らしく、カデンツァも特に三楽章のそれは聴き直さないといけないと思う。それ以外にもアダージョに入る前に思い切ったアッチェランドを掛けていて、恐らくこの曲の演奏史上最も表現が強かったと思う。

しかし何よりも声を上げてしまったのは、そのテーマが綺麗に透けて浮かび上がってくるところで、休憩時間に流れた独奏者のインタヴューではないが、本来ならば執拗に一定のテーマが聞こえてはいけないのだろうけどとはいうが、あの黄金の牛のようなメロディーなど重要なテーマは幾つかある。しかしそれが対位法の網目を通して浮かび上がると声が出てしまう。

流石にこのような網の目の浮かび上がり方はミュンヘンの座付管弦楽では難しいなと思った。それでも独奏者が語るようにペトレンコの魔法のような付け方であって、要するに彼女も驚いているのは確かだ。その一方入念に合していなかれば到底不可能な運びもあって、やはり昔の同窓生同士でよく打ち合わせが出来ている。

第一ホルンにリハーサル風景を見るとミュンヘンのデングラーが座っていたようで、最初に独奏者が登場してのオーボエの音合わせも含めて、大きな影響を与えていた。まさしく彼のホルンの音こそがキリル・ペトレンコが求めるベルリナーフィルハーモニカーの音だと思う。それは独歴史的伝統配置には必要不可欠なサウンドである。朝のベルリンの放送局での批評もその木管、金管のアンサムブルに言及していて、まさしく新生ベルリナーフィルハーモニカーに求められている世界クラスのアンサムブルなのである。

チャイコフスキーの五番に関してはとても名演ではあったが、確かにアゴーギクもシャープに入っていて、更にここまでやるか、根拠や何処にというのもフィナーレ前にあったが、まだボンでの名演には至らなかった。要するにまだはまっていないところがあって、手兵にはなっていないからだろう。土曜日に期待したい。



参照:
打ち鳴らされるべき音 2019-03-08 | 音
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
コメント

打ち鳴らされるべき音

2019-03-08 | 
バタバタしていると生放送まで二時間半になってしまった。書き留めておかないといけないのは譜面を見てから初めてチェックした三種類のシェーンベルク作ヴァイオリン協奏曲の録音である。

既にここで比較試聴をしているので、それについては繰り返さないが読み直さないと記憶にもない。先ずは、日本で評判の良かったヒラリー・ハーンの独奏でスェーデンの放送管弦楽団が付けたもの、次にクーベリック指揮のミュンヘンの放送交響楽団が演奏したツヴィ・ザイトリングという人が独奏したもの、そして最後にブーレーズ指揮ロンドンシムフォニカーでアモワイヤルが独奏したものである。
Pierre Boulez - Schoenberg : Concerto Pour Violon Op. 36 / Concerto Pour Piano Op. 42

Schoenberg Violin Concerto

四年前にギーレン指揮でバレンボイムの独奏で聞いた時は二番目のクーベリック盤が気に入っていて、今回もその良さも確認した。確かに独奏と管弦楽が外れないように各々正確に演奏していて、録音のディレクターの腕が垣間見れる録音になっている。つまり十二分に曲を知るための正しい演奏を心掛けていて、聞かせてくれる。その正反対がサロネンが指揮したCD録音で、よくもこれで発売OKを出したと思うが、何度テークを録り直そうが進歩する可能性が無かったのだろう。私がディレクターなら指揮者に「あなたこれで本当にいいんですか」と確認するだろう。CDを見ると予想していたSONYでなくてDGであったので更に驚いた。

さてあまり気に入らなかったブーレーズ指揮のそれを譜面を目の前に見ると最初の数小節から半拍単位でしっかり数えていて演奏させている。流石のブーレーズの指揮で譜面が無いとそれが上手く確認できなかった。要するにほかの演奏はその程度の精度もないということである。それでも肝心の例えば弦が独奏の上を弾いたりとか様々なトリックがある訳だが、独奏との重なりで奏者が音程を合わせられていない。

今夜の聴き所は、まさしくその音程関係と管弦楽団のアンサムブルで、これはそのもの二年前の悲愴交響曲の総奏で出来ていなかったベルリナーフィルハーモニカーの実力である。このプログラム自体がそうした管弦楽団のための練習曲構成になっている。

もう一つは独奏のコパンチンスカヤの演奏で、ヴァルツァーなどを上手に出してくるのは予想していても、肝心なのはこの複雑なリズム感をどれだけ正確に出してくるかであろう。ハイフェッツ流の技巧は華麗に弾くことだけが問題ではないので、しっかりと分散された音をかき鳴らして二重三重の音を抑えてこれば大丈夫だろう。そこさえ抑えておけばあとは管弦楽団の合わせる腕前である。その点ではこの曲においてもキリル・ペトレンコはいつものように協奏曲の指揮をしてくるだろうと予想する。ペトレンコの指揮に関してはもはや疑う余地が無いほど、腕の見せ所、聴かせどころ満載である。これほど彼向きの楽曲は無いのではなかろうか。動悸を感じるほどに期待が膨らむ。

序でにギーレン指揮のそれを思い出しておくと、手堅いと自身書いたように、テムポの落ち着いたもので繋ぎも上手に準備していた可能性がある。この曲のヴィヴァ―チェマンノントロッポなどは興味深いが、ブーレーズの場合も二楽章が十分に出来ていない。やはりリズムの乗りを上手に振らないといけないに違いない。ブーレーズがいつも全く興味なさそうに過ぎてしまうところである。

しかしこうやって期待ながらにこの楽曲をお勉強していくと、今回の一連の公演で最もエキサイトで素晴らしいヴァイオリン協奏曲の位置を獲得する可能性が高いと思った。そしてその内容もベートーヴェンのものと比べても遥かに重層性がある。

肉屋に寄って一寸したものを買った。いつものように僅かばかりの分量を別けて貰うと、「あんたは節約家だから」と言われた。ドイツで節約家と言われれば本望である。勿論そのようなことは本当に節約のシュヴァーベン地方では口に出さない。皆が同じだからだ。要するに節約の意味を考えている人ばかりだからである。しかしここワイン街道辺りになると気質が異なる。そうした節約があってこその経済の効用はとても爆発的で堅調となるのである。



参照:
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音
首を振って音を追う 2019-03-04 | 音
コメント

首を振って音を追う

2019-03-04 | 
夜中にボストンからの放送を録音した。深夜寝室で薄く流していたので寝不足になった。なにか立派な音楽が鳴っていた。録音は最後に手動で止めたので完璧にできた。聞き返してみると最初は前日に続いてプレヴィンのためのエニグマが演奏されていた。これを予想して二時間半枠をとっておいたが、通常通り一時間半枠で収まった。

それにしてもいつものように低音が強調されているので合唱団の声がそこに綺麗に乗り、まるでカラヤン指揮ヴィーナ-ムジークフェラインのような趣だ。この指揮者が何を目しているのかは知れないが、少なくとも音響効果としては天晴れだ。この人がオペラを演奏するとどうなるのか?ロンドンの「ローヘングリン」は悪かったが、一度聴いてみたい。

その亡くなったプレヴィンの追悼放送は三時間もあって中継録音放送は最後の一時間だけだった。無駄に流していたようでいて、ふんだんにインタヴューが流されたので面白かった。子供の時にフルトヴェングラーを聞いて熱を出した話しがあって、またハリウッドからロンドンに来ても管弦楽団が下手だったというのもよく分かる。しかしその反面、改めてプレヴィンの指揮した録音を聴くと、本人も認めるように指揮が下手である。だからレパートリーを絞っていたというが、恐らく今の時代なら通じないかもしれない。

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲をざっと目を通した。正直に書いておくことで自分の参考になると思う。何回も音楽は聴いていても譜面を見ることでとても明白になったことが幾つもある。何よりも音程関係を前から後ろへ後ろから前へ、若しくは反行させるには視覚的な把握無しには難しいということだ。

誰かが首を右から左へ動かすことで、また左から右へと動かすことで把握できる空間認識と音階のことを話していたと読んだことがあるが、まさしくそれである。有名なカデンツァからの技巧的にコーダへと進むところであるが、耳で聞くだけならは如何にも難解に感じ、不機嫌さが際立つが、ここに行くまでにその音程関係にある程度馴染んでいると聞こえ方が変わってくる可能性が強い。

要するに前から後ろに進むだけでは対位法的なルネッサンス音楽もそれだけで終わるが、そこでと同じようにやはり技巧の成果がそこに生じる。二律背反しているような話しとなるのだが、ルネッサンス音楽におけると同様にその流れを把握しておくことが重要だ。それには楽譜の視覚的な助けが大きいと気が付いた。要するに耳だけでは不可逆な方向にしか進まない。

来週ベルリンで演奏するコパチンスカヤのミュンヘンでの演奏は自由さとその艶やかさで評されていたのだが、恐らくそのような聴き方をしているとやはりこの曲は分からないと思う。しかしレイボヴィッツが主張するように、それ以上に作曲家がハイフェッツを予想していたように華麗な奏法の技術が駆使される書き方をしていて、ベートーヴェンのそれとは全く異なるというのは面白い指摘だ。先月話題にしたばかりで、声においても不自然な音階を書き綴った楽聖であるが、ここでもそれを比較対象とすることで、如何にシェーンベルクが後期ロマン風の奏法を繰り広げているかが分かる。こうして私たちは、キリル・ペトレンコが大きな弧を描いてこうしたプログラミングをしていることに気が付く。

意外に手が届くようになってきた。管弦楽はその音程関係をしっかりと支えて行かないといけないので、泣かされると思う。今回のベルリンでの演奏だけで満足する成果は示されないだろうが、可成りのところまで詰めてくるだろう。そしてその精妙な音程関係を探っていくことで新生のベルリナーフィルハーモニカーの基礎的なアンサムブルとサウンドが出来てくると思う。



参照:
アンドレアス・プリヴィン追悼 2019-03-03 | 文化一般
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音
コメント

待ったを掛ける俳諧

2019-02-17 | 
楽劇「サロメ」の券が届いた。思ったよりも早く送ってきた。業務はどんどんと進んでいるのだろう。「サロメ」単独は殆ど出てしまったのかもしれないが、他の券と兼ね合せ注文はまだこれからだろう。早速公式交換サイトに「サロメ」が出ていた。売りも二枚組の私と同じ日の平土間の同じクラスが出ていた。第一希望で当たった人なのだろう。それ以外にも日にちを変えたい人は敗者復活で欲しい日が入らなかったのだろう。反対に求めている人もいるがまだ本格的ではないかもしれない。最終結果が出たらもう少し盛んになると思う。発売日初日に並んだ人で立見席から乗り換える人がいると思ったが、意外に安いものが出ていない。理由は分からない。

夜中にカーネギーホールライヴを録音しておいた。ハーディングという指揮者は、私にとってはなによりもペトレンコの試験ズル休みの代わりに入ってマーラーの六番を振った男で、子供の時にラトルとグリッペンを指揮した男で、パリ管を振りながらエアバスの操縦をしていたという男である。だから今回その指揮した演奏の放送を初めてまじめに聞いた。前回はパリ管の式典の時で映像ストリーミングで、ガラコンサートのようなものだったので、もう一つ真相が分からなかった。

今頃興味を持ったのはつい先日フランソワ・サヴィエル・ロートが指揮したプログラムを同じコンセルトヘボー管弦楽団を振ってのニューヨーク公演からの中継ということが最も大きな要素だった。ロート氏の方はその実力をある程度把握していて、弱点も分かっているつもりだが、それと比較して合奏精度が上がることなどは十分に予想できた。

前半は敢えて今触れないでおこう。ピアニストの悪口にばかり話が進みそうで、その舞台袖でのインタヴューもその陰気な声を聞いているだけでも滅入る。出来る限り無視した方が健康に良い厄病神のような雰囲気だ。

後半の「英雄の生涯」は予想通りに見通しが良くてとても上手にコントロールされて、ここここと掴み出すように歌われる。これは分かり易くて受けるだろうと思う反面、その分かり易さの行くへが気になるのもこの作曲家の作品だ。最も知られている例ではショルティーがこれでもかこれでもかと指揮すればするほどその音楽の底が見えてきてしまい、その技術的な価値が徒労に終わるように聞こえるという評価である。それゆえにこのハーディングは音楽的な良さを出そうと工夫しているのは分かるのだが、それが楽句による表現の濃淡を作り、全体としてそれだけの作品という感じがどうしてもする。なるほど嘗てのマゼール指揮ほどにはあざとくなく分析的な良さを感じるのだが、そこから先に進まない。ある意味その音楽の作り方に問題を感じる。

後任探しを続けている名門コンセルトヘボー管弦楽団で、最有力候補の指揮者とみられているが、ヤンソンスのような強引なドライヴもなく若々しさもあって推しはあっても、今まで決定しないのもそうした事情があるに違いない。少なくとも私が当事者ならば本人の才能のことも今後のキャリアのことも考えるとどうしても慎重になると思う。

するとあれでは甘いなと思っていたロート指揮の演奏のその良さが強調されることになった。なるほどハーディング指揮のようには明晰に鳴らないが、中々その歌い運びもよく、三連符やら六連符の扱いも上手で、細かなところを強調することなく鳴らしている。そして細々とまるで「影の無い女」などの鳴りが聞こえ、渋み満載な俳諧がとりわけ素晴らしい。ペトレンコの「ばらの騎士」もとても苦みがあってよかったが、四月のトリノに続いて来シーズンにでもベルリンでこれだけの指揮をできるかどうか?聞き返してみるとこのコンセルトヘボーでのロート指揮のコンサートは近年では取り分け優れたものではなかったろうかと思った。当日会場にいた親爺も言葉足らずにでもコメントしていて、指揮者もそれに返していたぐらいだったのも分かった。放送でも全体以上に個別の拍手の強さが激しく、最近なかったような可成りの熱さを感じたのには間違いなかった。この二つのコンサートを比較すれば、ハーディング推薦に待ったを掛けて、もう少しロート氏に振らせてみたくなるのは当然の判断だと思う。

ニューヨークではルーマニア人がコンサートマスターだったが、本拠地は違う人だったと思う。こちらの方がよかった。ルーマニア人も楽団のストラドの古いのを弾いているといったが、全く活きていなかった。指揮のせいとは言わないが、コンサートマスターはとても大切だ。



参照:
こまめなSNS生活 2019-02-12 | SNS・BLOG研究
リツイートされた影響 2018-05-14 | SNS・BLOG研究
コメント

「ミサソレムニス」な気持ち

2019-02-15 | 
「ミサソレムニス」の総譜を見た。独唱四つに四声の合唱にオルガンが当然の如く入っていて、絶望的な気持ちになる。一週間もない。オペラに慣れたものだから、それに比べればと思っていたら、どうもそうはいかない。そもそもオペラで合唱が出てくる場所は限られ、四重唱以上もそんなに出てこない。精々二つのフィナーレぐらいを押さえておけばよい。器楽のシステムは古典だからそこそこだけれど、例えば「マイスタージンガー」と比較しても、必ずしも容易にはいかない。楽曲が三幕ものに比べると短いのだけが救いである。訓練を積んだ者ならば、一つのシステムを見れば後は対位法的に補えるのかもしれないが、また合唱で自身のパートだけを通すならば楽かもしれないが、いちいち全ての四声部も目を通すとなると一苦労だ。

救いは、所詮ミサの典礼と歌詞の構造なので、そこにどのように音を付けているかさえ把握すれば良いことだろう。そして音資材を探してみた。手元にはバーンスタイン指揮のコンセルトヘボーでのライヴ録音があるが、あまり参考にならないのは分かっている ― ブロムシュテットはそれを称して、それでも故人の自然で天性のアプローチだと評価していた。YouTubeで調べてみると、嘗ての名録音クレムペラー指揮とかカラヤン指揮とかベーム指揮は並んでいるのだが、どうもこれもあまり参考にならないと思って、ドイツの歌手のものをとサヴァリッシュ指揮などを見ると全曲は無い。ディヴス指揮とかガーディナー指揮とか、どれも一度聴いてみようと思わせない。

更に探してみると素晴らしいロ短調ミサを指揮するヘルヴェッヘ指揮のものがあったので、流してみた。この指揮者独特のスイングなどはあるが概ねいい演奏で、これは使えると思った。古楽出身の指揮者だけに綺麗に各声部が浮かび上がり、合唱や独唱は当然のこと、管弦楽でも比較的成功している。和声的にも欠けるものが無いのはそのバッハの演奏で御馴染である。それはいいのだが、実はもっと面倒なのは、勿論和声的な繋がりとしても先日の「フィデリオ」と同じ書き方をしているところに気が付いてしまった。これは面倒だ。行ったり来たりしないといけないからである。
Ludwig van Beethoven - Missa Solemnis


なぜこの時期にキリル・ペトレンコが「フィデリオ」に続いて「ミサソレムニス」そして「第九」を指揮することにしたかは本人にとっては明白なことなのかもしれないが、こちらはとても大変なことになる。そもそも「フィデリオ」上演でこれはというところが幾つかあって、その答えが既にここで出されることになる。それも我々のような凡人が、行ったり来たりしながらここここというだけでとても面倒な作業である。しかしとどのつまり楽聖の意思を間違いなく取れればいいわけなのだが、ペトレンコは言葉でヒントを与えてくれないので、こちら側が自ら学ぶしかない。

そのほか、上の録音で改めて気が付いたのは、独唱、合唱と管弦楽のフーガなど、とてもではないが簡単に演奏できないということで、演奏実践上とても可能性があると気が付いた。楽聖の交響曲に関しては今更なにか改めてという気がしないが、こうした複雑な音楽ではまだまだなされていないものを感じた。要するにペトレンコ指揮に大変な期待が高まるのだが、恐らく今回は中継放送が無いように先ずはここで劇場の合唱団と一緒にとなり、最終的な形はベルリンで改めてとなるのだろう。

実際に調べて見ると、この二つの作品番号の123と72ほどには、創作年月が開いていないことが分かる。最終版のフィデリオ序曲が作曲されてから数年のうちに構想に入っているようだ。その年月日よりも途中で作曲された交響曲の数がとてもその距離を大きく感じさせるが、あまりにも完成した交響曲とこうした声楽の入った曲との関係は強くないかもしれない。なるほど中期の弦楽四重奏曲などには親近性も見られるが、寧ろ今回第九まで進むと見えてくるのは後期の四重奏曲ではないかと想像する。

余談だが、ブロムシュテットのインタヴュ―に晩年のトスカニーニの練習風景に裏口から忍び込んでロージェの中に隠れてとの話しもあったが、ボストンで有名なクーセヴィツッキーが譜面から音楽を読み取れない指揮者だったとあった。ピアノで弾かしてそれで理解するという話しだった。まるでバイロイト音楽祭の初代音楽監督みたいではないか。それは学究的な仕事が伴うので、大体頭の悪そうな音楽家は皆それに近いのではなかろうか。



参照:
ブロムシュテットの天命 2019-02-14 | 文化一般
MeToo指揮者に捧げる歌 2019-02-03 | 文化一般
コメント

飛ぶ鳥跡を濁さずの美

2019-01-25 | 
名伯楽が皆あれほど苦労する楽曲をいとも簡単に指揮してしまうペトレンコには改めて驚かされる。最終日を待って感想を纏めたいと思うが、ペトレンコのべ-ト―ヴェン解釈は基本的には変わらない。羽の生えたような軽妙さに木管楽器などの名人芸も要求されていて、中々やっていたと思う。ホルンもデングラーの横にヴィオティーが並んで四管体制の管楽器がとてもよく吹けていて、ホルンもオーボエも流石に二人ともベルリナーフィルハーモニカーで若しくは助っ人で吹いただけのことはある。座付楽団であれほど吹けていたオーボエはザルツブルクでもどこでも聞いたことが無い ― 後で写真を見て「ハフナー」と「悲愴」のためにベルリンに呼んだグヴァンツェルダッチェだと確認した。もしフィルハーモニカーで演奏したら弦の圧も異なるがそれに対抗する管も強力で、あの軽さを要求されるという超技巧を要求されることが分かった。座付管弦楽団が絶妙に演奏すればするほど私はそこにフィルハーモニカーの課題を聞く。フィルハーモニカーがこの公演を聞いたなら同じだと思う。コントラバス四本の同じ編成でバーデンバーデンで演奏したらと思うと、ルツェルンの感覚からそのダイナミックスに鳥肌が立つ。先ずは四月にランランとの二番の協奏曲でじっくり聞かして貰おう。

そしてヨーナス・カウフマンへの拍手はいつものように控えめだ。しかしその歌唱は彼の活動領域やその人気市場の広さとは裏腹にとても通向きである。そもそも彼の名前が私の目に入ったのはYouTubeで偶然見たマネ劇場での「ファウストの業罰」の名唱と名演技であって、本当はそうした分野こそが独断場だと思う。歌劇的であるよりも器楽的であり且つ名演技となる。声の質とか何かは評価すべきところが違うと思う。詳しくは、もう一度細かく確認したいと思うが、拍手を見れば分かるように、ゲルハーハーのように舞台で大向こう受けしない、そのような技能である。
La Damnation de Faust - Jonas Kaufmann


止む無きことから終演後に再び再会した他の芝居劇場の演出家の奥さんのおばさんが、「演出どうだった」と口火を切った。彼女に言わせると、「ここはモダーン過ぎてあまりにもというのが多い」となるが、明らかにこのビエイトの演出もポストモダーン風でもはや些か色褪せてしまっている。感心する人はもう殆どいないと思う。その演出についてあまり深入りはしたくはないが、それも改めて観てからとなる。「演出は感心しないが、音楽は良かったよ」と答えると、どっこい「カウフマンどうだった」と来た。

そこで「難しい二幕一場を上手にこなしていた」と答えたが、一面メディアの話題の矛先であり、一面可成り業界的な関心事であることも事実であろう。実際の音楽的なハイライトはフィナーレ前のデュエットで、カウフマン自身が「女性に有利で男性に不利な作曲になっている」というその通りのクライマックスだった。この点で実際に相手役のカムペに喝采が集まるのは当然で、それに値するだけの歌と演技と、この数年で更に緩んだ下着姿を披露した ― しかし同年輩の同僚では出来る人はあまりいないだろうという自負もあるのだろう、また実際に若い姿態で魅せてもあれに代わって歌える人がどれぐらいいるのだろうか。そのようにペトレンコが個人的な繋がりを超えてカウフマンやカムペにテコ入れするにはそれなりの意味がある。

上のおばさん、つまり教会のお写真を送って貰ったおばさんも「それでももう直ぐいなくなってしまう」とペトレンコが辞めてしまう事を嘆いていた。「バーデンバーデン」に来てくださいよとミュンヘンの人と話す度に宣伝をする私設大使の私であるが、まさしくフェードアウトの準備は着々と進んでおり、ミュンヘンでの監督時代の頂点は過ぎて、そこに「飛ぶ鳥跡を汚濁さず」の美意識と逆算の見事さを見る。

管弦楽に関して前記したように、一つ一つの演奏実践の奥に、フィルハーモニカーとの未来形もしくは彼らへのとても大きな課題を指し示す形となって、まさしく私たちの時代の管弦楽演奏の可能性の有無がとても楽天的な気分の中で問われている。



参照:
こうなるとペトレンコ頼り 2019-01-24 | 音
ベーシックな生活信条 2019-01-23 | 生活
コメント

こうなるとペトレンコ頼り

2019-01-24 | 
安い燃料代が期待できそうだ。夕方の買い物の時に満タンにしよう。雪がついていて肌寒い。陽射しがあった時の放射冷却よりも湿気があるのか寒く感じる。それ以上に血圧のためかもう一つ気分が優れない。手足も冷える。燃料は、一年ぶりぐらいに、125セントで入れれた。一時と比べるとミュンヘン往復で10ユーロほど安い。プログラムを買ってコーヒーが飲める。今回のように再演でプログラムが要らないと、軽食しても何とかなるかもしれない。

幾つか片づけることがある。先ずは三人の女性の携帯電話番号をしっかりメモして、必要ならば自身の携帯にも幾らか金を入れとかないと使えなくなる可能性がある。調べると20ユーロを超えていたので今回は大丈夫だろう。

あとは道中の録音を新たに準備した。YouTubeの様々な演奏で二幕一場の'Gott! welch Dunkel hier!'を比較してみた。楽譜を分析しようと思って、先ずは道中のお供にベーム指揮では駄目だと分かったので探しているうちに聞き比べになってしまった。歴史的に評価の高いクレムペラー指揮のジョンヴィッカースやフルトヴェングラー指揮とかショルティ指揮とか様々な名歌手のも聞き比べたがまともに振れている指揮者がいなくて驚いた。カウフマンの歌につけたメストがましな方だったが、最後におかしなことになって振り切れていなかった。難しさは声の器楽的な扱いをどうしても歌にするためにそれに器楽を合わすか、若しくは大きなアゴーギクとテムピ設定で誤魔化しているものが殆どだ。特に痛かったのはフルトヴェングラーが戦後にザルツブルクで振ったもので、死の直前の耳が聞こえない状態のものかと思ったら1948年のものでどんな楽譜を使っているのだと思った。フルトヴェングラーのオペラは出来不出来があるが、ベートーヴェンはいつものそれが歌と合わなくなっている。制作録音は所持しているがそんなに酷い記憶はない。しかし今更聞き直そうとは思わないのはとても細かな仕事をしないと解決しないことが多いからだ。意外に良かったのがボータが歌った小澤征爾の指揮である。なるほどリズム的な癖が出るが、それでも細かなことを手兵の座付管弦楽団にさせていて、ペトレンコと同じようにそれが天才的な指揮であることの証明を記録している。解釈だ何とか言っている次元の話ではない。
Beethoven - Fidelio - Gott! Welch' Dunkel hier! - Julius Patzak - Furtwängler (1948)

Tenore JON VICKERS - Fidelio "Gott! Welch Dunkel hier..." (1962)

Peter Hofmann; "Gott! welch', Dunkel hier"; FIDELIO Ludwig van Beethoven

Johan Botha; "Gott, welch Dunkel hier!"; Fidelio; Ludwig van Beethoven


そこで意外に上手にクリストフォンドナーニが指揮していたと思った先日聞いたCDをラッピングした。聞き返すと件のところも恐らく歴史上一番成功している様にとても細かで丁寧な指揮をしている。しかしクレッシェンドが同時にアッチェランドになるアゴーギクの扱いは同じで最後はごちゃごちゃとなる。余程実演で繰り返し練習したようで、ヴィーンの座付管弦楽団が上手に弾いている。しかしリズムの難しいところに来ると振り切れていない。しかしなぜこんなに二線級の歌手ばかりで制作録音がなされたのか、たとえ劇場の新制作がこの歌手陣であったとしても、謎である。

もうこうなるとキリル・ペトレンコに振ってもらわないとこの楽曲はまともに演奏が出来ないと思う。こんなに難しいことになっているとは全く気が付かなかった。同じように難しいのはハムマークラヴィーアソナタとか後期の楽曲にもあるが、ある意味単純な技術的な難しさを超えたものだ。勿論攻略法がはっきりしていないことには歌手が歌えない。そもそも私はカウフマンファンでもなんでもないのだが、今までの関係からペトレンコ指揮でこの課題を解決できるのはこの歌手しかいないと確信している。最終日にも再訪するので初日はここだけにでも耳を傾けたい。そこが上手く行けば、私は最後まで拍手し続けなければいけない。また帰りが遅くなるが仕方がない。
Jonas Kaufmann - Beethoven - Fidelio - 'Gott! welch Dunkel hier!'


午前11頃に初日の最後の放出があった。なんと王のロージェの一列目が四つ出た。王家が来ないということで、再演の場合は普通だが、同じ高価な243ユーロを出すなら価値があるだろう。しかし、この制作に対しての価格が法外であり、とても一人で出かけてあそこに座る気はしなかった。三ランク目の183ユーロまで出ていたが、半分ほどは一時間以内に捌けていて、一列目共々後まで残っていた。正直私の21ユーロと243ユーロで肝心のところがどれだけ違って聞こえるかは大変疑問で、視覚と艶やかな感じが異なるだけだ。不思議なことに全く手が出そうにならなかった。



参照:
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
習っても出来ないこと 2018-01-17 | マスメディア批評
コメント

玄人らしい嫌らしい人

2019-01-18 | 
チューリッヒからの帰りに「フィデリオ」を殆ど流した。走行時間は往路3時間30分を超えていたのに、帰路は22時に車を出して、帰宅は24時35分頃だった。冬タイヤの最高速での巡航運転が可成り続いた。ミュンヘンと比較して距離として10㎞ほど近いだけだが、何日か通ったことがあるように近い感じがするのは、道路状況や地形によると思う。山を上り下りしないでいいのが意外にもスイス往復である。走りやすい。特に帰路はライン河を下る感じになるので燃費良く気持ちよく飛ばせる。高性能の新車になればもっと楽だと思う。但し最大のネックは国境検問で、往路にも前々車までが停められて、お蔭で人手がいないところを通過した。帰路もドイツ側で頑張っていたが帰宅は普通はフリーパスである。

さて、燃料代は安くなったといっても往復11時間半ほどのショートジャーニーの価値があったかどうか?恐らく今後管弦楽団演奏を評価する場合に活きてくると思う、様々なことが感じられた演奏会だった。昨年の五月にあれ程の成果を聞かせてくれた指揮者パーヴォ・ヤルヴィを初めて生で聞いて色々と示唆を受けることがあった。往路の車中でもそのブレーメンでの演奏ヴィデオやパリで演奏を聞いていたが、期待よりも疑心暗鬼が広がるばかりだった。
European Concert 2018 Bayreuth BPO Paavo Jarvi MP4

Olivier Messiaen Les offrandes oubliées .

Beethoven: Symphony No.1; Jarvi, DKB


その通り、前半で終わっていたらとても厳しい評価に終わったと思う。明け方4時前に呟いていた共演者のヤンソンのヴァイオリンも先輩格のクーレンなどの教授タイプとは異なったが、その分物足りないところも沢山あった。フランクフルトの我々の会にも若い時分に登場していたが生で聞くのは初めてだった。前々列の爺さんがプロフィールの写真を掲げて実物と比べていたが、オランダ女性らしい感じで、外見上もその演奏によく合っていた。クーレンやチュマチェンコのようなタイプでないということは、其の侭その音楽性の限界でもあるということなのだろう。そしてモーツァルトを合わせる方も、N響でやるものよりも悪かったかもしれない。装飾音とまではならないまでの細かな音楽表現にまではとても至らなかった。その前のメシアンの楽曲にしてもパリ管のような魅力的な響きも出せなく、ダイナミックスも十二分に出せていなかった。

モーツァルトなどでもハイティンクが指揮した会の方が上手に運んでいたので、明らかに指揮者の責任だ。そのように、また予めの疑惑の目でその指揮振りを見ていると、丁寧さもなくてアインザッツの強拍しか振れていないような感じが視覚でもそのままだった。更に慣れていない筈の伝統的ドイツ配置なので、アンサムブルが難しそうだ。平土間に居れば間違いなく楽員を捕まえてそれに関して質したと思う。アウフタクト以前の問題で十分に深く拍が取れない様であり、あの指揮ならなるほど今の経歴がお似合いである。同世代のメストとの差はその地位の差でもあるが、月とすっぱんだ。どちらがスッポンのような顔だろうか?なるほど「これではビックファイヴの頭にはなれず、精々と」と思っていた。だから前半のメモ以上に、どこをどう直したらもう少し上手く行くだろうかと考えていた。ユース管弦楽団でもペトレンコの指揮には音楽的な表現があり、楽員にはなんとかしようとの気持ちが溢れていたが、それに比べるのもあまりにも気の毒になってくるような演奏だった。

向かい側の画廊でのガイダンスで話していた人が、プログラムにもプログラムコンセプトとして指揮者に質問していて、そのメシアンプログラムの録音にも言及されている。しかし、あの一曲目の演奏ではお話しにならない。

それが後半になると、そのメシアンの若書きの指揮者モンテューによって初演された「光る墓」はとても充実した鳴りで、最後のチェロの件からヴィオラから第二ヴァイオリンへと抜けるところは、まさしくこの楽器配置の聞かせどころで、お見事な選曲と演奏だった。車中で聞いていたチョンの演奏とは全く異なる名演だ。なによりも前半とは異なりしっかりと管弦楽を制御して細やかに振っていた。やれば振れるじゃないかという印象と、それなら前半は手抜きをしていたのかという疑惑が新たに浮かび上がる。恐らく、限られた時間のリハーサルでその成果が分かるので、時間配分して、保留分は手抜き若しくは安全運転をするということなのだろう。これほどまでにあからさまに思えるのは、ペトレンコの指揮振りを見慣れていて、その全身全霊に少なくとも感じるものが基準化されてしまったからかもしれない。

その意味からも最後のベートーヴェンの交響曲一番は編成を大きくしたままで、第一ヴァイオリン6プルトだから、始まる前から若しくはプログラムミング上から話しはついていた。バイロイトでやった方向での演奏が期待された。その通り、アウフタクトも深く取られて、「地団駄踏み」ながら合わせていた。指揮技術上の不利有利は想像するしかないのだが、ペトレンコのように後拍からも音楽を作るようなことまでは無いが、少なくともアインザッツ以上の指揮になって、テムピ設定にも満足した。

こうなるとこの指揮者が世界各地からお座敷が掛かるのも理解できる。ある意味の経済性であり、無理なことはせずに、先ずは初日には後半だけでもものにしてくる、ある意味プロフェッショナルのノウハウでもあり、いやらしさを感じさせる指揮者だ。こうなるとこの管弦楽も流石で、まだもう一つ独配置でのアンサムブルを追及できていないようだが、各パートがやれることをやる能動的な様子が顕著で今後が俄然期待される。付け加えておかなければいけないのは、それでも交響楽団としても音の出方がまるでアメリカの楽団のようでいながら、ユース管弦楽団の瞬発力には至らないことだ。同じようにこの指揮者にはオペラ指揮者のあの呼吸がないことは追記しておかなければ片手落ちになる。更には新聞評も出たようなので、それを読んでから改めて書き加えよう。



参照:
独に拘るシューボックス 2019-01-17 | 文化一般
「副指揮者」の語学力 2018-05-02 | 暦
元号廃止などと昔話 2018-05-04 | 文化一般
コメント

一級のオペラ指揮者の仕事

2019-01-14 | 
承前)二幕の始まりでもナガノは楽団を立たすが、まあまあの拍手である。半分ほどの入場者数にしては出ていた方ともいえるが喝采までいかないのは仕方がない。しかし、管弦楽もそれに伴って歌唱も引き締まり、つまり会場も熱が入ってきたのは最初の皇帝の独唱からである。それもチェロのソロとアンサムブルとなるところからで、ミュンヘンでのあのフランス系の首席の弾くそれよりもここの女性のソロがとても素晴らしかった。ここでこの晩の上演のスイッチが入ったといってもよい。

すると指揮の各システム間の不協和などの鋭い対抗や、若しくは多層的に動いたりのシュトラウスの恐らく最もこの作曲家が書いた価値のある小節の数々が構築的な音空間を作り始める。特に立体舞台に対応した対位法の音化などは見事であった。ここはキリル・ペトレンコとの読みと最も異なるところで、ペトレンコの飽く迄も原理原則をモットーとしたあらゆる資料などを研究した上での更なる抑制と、ナガノにおける思い切った管弦楽的・劇場的感覚による読み込みと最も異なるところだ。

その差異が更にはっきりするのは三幕であって、まさしくガイダンスで示唆されたオペラ的なものつまりフランクフルト学派のアドルノの美学からするとあまりにも雑多で雑魚煮的な批判の対象であるものがナガノではオペラ指揮者の長年の経験と感覚として開放される。いつものように繰り返すが、ペトレンコが決してオペラ指揮者でない傍証はこれを比較対象とすれば十分なのだ ― その一方で、南ドイツ新聞などは「この楽劇のその一部で指揮が何をなしたかが将来語られる」としているように、とても好都合な試料であることには間違いない。

つまり、染物屋夫婦の人間的成長に留まらず、最後には皇帝までがオペラ的信条を歌い込む。そうした舞台構造を与えたクリーゲンブルクの演出の勝利でもあるが、どこまでも音楽的な美意識の中で歌い込ませるナガノの腕は第一級だった。指揮者としてはペトレンコとは完全に異なるクラスに属するのだが、オペラ劇場というのはこうしたものなのである。第一級のオペラ指揮者による卓越した演出をオペラ劇場での現実として体験すると、改めてなぜあれほどまでにオペラ通がペトレンコをオペラ指揮者としてそこまで評価するのかが分からない。その効果のヴェクトルが全く異なるのである。

言い方を変えると、もしこのクリーゲンブルクの演出でペトレンコが指揮をしたとしたら、その演出のあまりにものポストモダーンで単純化されたものにミュンヘンではブーイングが飛んだと思う。謂わば、ミュンヘンの劇場はハムブルクのそれよりもハイブローなのだ。
Die Frau ohne Schatten - Richard Strauss


そこでガイダンスを思い出そう。その内容には全くキリスト教的な視点が示されていなかった。寧ろメルヘンのヘレニズムやイスラムを示唆していた - 極東でないことに注意。つまり、なるほど一神教的な視野がその上からの視線となるのかもしれないが、それはミュンヘンでは中々得られない感覚かもしれない。クリーゲンブルクの思考をそこに改めて発見して、なるほどあのミュンヘンでの「指輪」がとなる。嘗てのハムブルクの「影の無い女」との、またそれ以上にヴァリコフスキー演出との最大の相違のように感じた。

プログラムを見ると、それゆえにか頻繁にハムブルクで「影の無い女」が手軽に上演されている。前回は2007年でシモ-ネ・ヤング指揮、そして私の東京で観た1984年フォン・ドホナーニ指揮ホーレス演出は1977年に初日で、なんとルネ・コロ、イヴ・マントン、ドナルド・マッキンタイヤー、ブリギッテ・ニルソンの二組のペアーで上演されている。
Die Frau Ohne Schatten Von Dohnanyi Rysanek Dernesch ― 客席からのアナログテープ盗録の様でピッチコントロール要。


そして不思議なことに管弦楽団のメムバー表は載っていても、歌手プロフィールが一切載っていない。不思議な歌劇場である。それでも不調をアナウンスされたエミリー・マジーの皇后もそんなに悪くなく、会場が小さめのこともあるが声はよく出ていて、一番人気の染物屋のリゼ・リンドシュトロームのヴィヴラートが気になった以外は、ミュンヘンのそれより良かった。1984年はリザネックが歌ったのを聞いたようで、あれはあれでヴィヴラートの芸術だった。その声との合わせ方がこれまたケント・ナガノのオペラ指揮であり、その山を準備している ― しかしなぜまたハムブルクではプロムプターまでが隠れて指揮をするのだ。それらこそがオペラ劇場感覚であって、少々アルコールが入っているような聴衆でも酔わしてくれるのである。それでももはやコッホなどになるとそこには乗ってこなかった。「ペトレンコを唯一の天才」と仰ぐこのベルカント歌手にとってはもはや聞かせどころが変わってきたのだろう。
"O Glück über mir" from DIE FRAU OHNE SCHATTEN - Conductor: Kirill Petrenko


そのやり方は、原理原則からすれば、過剰でありオペラティックとなってアドルノが責めるところとなる。ペトレンコの指揮を聞けばアドルノは賞賛したのは間違いないが、シュトラウスはペトレンコの読譜を評価しつつ、「劇場なんてそんなものだよ」と言うのか言わないのか、これはこの楽劇がそれほど一般的に理解されていないことにも関係しているだろう。しかし三幕でのドライに弾かせるところはペトレンコ並みで、シャープさも加わり、その辺りの安物趣味とは一線を画していて知性的で流石だった。

それにしても戦後民主的な座席配置のあの席ならばミュンヘンならば間違いなく十倍の価格である。そのようにご奉仕価格でも一杯にならないのがハムブルクの大きな問題で、勿論音楽ジャーナリズムの支援が弱く、それだけの気風がない土地柄なのかもしれない。まるで社会民主党の低落を見るようなオペラ公演の現状だった。金があるのかないのか分からないようなハムブルクである。

そのような環境であるがケント・ナガノ指揮のある意味「音楽意訳」的な解釈によって、崩壊の音楽やそのフィナーレまでが大きな弧を描いて演奏される効果は絶大で、音楽劇場はこうあるべきだという姿を示したと思う。コンサートも同じぐらいに指揮できる今や世界でも数少ないオペラ指揮者の一人だと思うが、批判に負けじとコツコツとやることでもう一山ハムブルクで為すとか若しくはキャリアー上でも最後のステップアップがあるのか、ここは腐らずにやって欲しいと願うばかりである。カーテンの隙間から見えた会話する表情は明るかったが、もう少しプロフィールの写真の蒼白の顔色の修正や細かなバックアップをして欲しいと思う ― 一体何処の事務所だ。嘗ての若杉などにも似ている感じがするが、より知的で精緻な読譜も確認された。充実した仕事ぶりに相当する指揮者への喝采としては、そうした一寸したイメージ作りで違うのである。総譜に書き込まれた赤はキューの要チェックだと思うが、ペトレンコのように黄色は無かった。
Krzysztof Warlikowski - Die Frau ohne Schatten - Bayerische Staatsoper München (live/November 2013)





参照:
バラの月曜日の想い 2018-02-16 | 暦
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
遊園地のようなラムぺ 2017-04-28 | 生活
コメント

意表を突かれた気持ち

2019-01-13 | 
エリブフィルハモニーでの演奏会のことも書き留めておこう。これは翌日ベルリンのフィルハーモニーから中継されたので、それがアーカイヴに上がってそれを観てから総括したいと思うが、ある程度予想がついていたので、その視点から書き留めておく。

先ず座席に着くと、予想していたよりも大分指揮台に近く、ルクセムブルクでの距離感とは異なるものの寧ろ管弦楽の最終列への視界はそれほど変わらなかった。最前列でもなく二列目でも、全く問題はなかった。そして何よりも二席買った一席の方は最初から分かっていたが角ベンチになっているので、前列の人は二人で他人同士が座っていた。だから私は三人分を独り占めするというまるで相撲の桟敷の独占のような感じだった。二人分で僅か20ユーロだった。流石シュピーゲル社の本社屋が波止場の根元に佇み、SPDの牙城のようなハムブルクはなんと労働者にも優しいことか。

音合わせからしてルクセムブルクとは発音が明晰だった。これは会場の音響そのものの差でしかないが、それでも楽員の方も自身の音が粒だって跳ね返ってくるとそのフィードバックから自信をもって音を出せるのだろう。これは風呂場効果とはまた違って悪い面が一切ないだろう。

キリル・ペトレンコが出てくるのが遅かった。一度上手から出かけたようで拍手が聞こえたが再び引っこんだのかもしれない。ペトレンコの場合はどちらかというと間を延ばしてという傾向はなく、ルツェルンでも若干遅れていたがあれはユジャワンが遅らせていたと思った。兎に角出てきて期待感が萎まないうちに早く始める。

最初から指揮振りが自由になっていて、ルクセムブルクでは楽譜に落とされ続けた視線が楽員の方に向けられるようになっていて驚いた。そしてその指揮振りも遥かに自由になっていて、明らかに両者に繋がりが生じていた。まさしくNDRの記者が私と同じように初日から同行していたような書き方をしている。

つまり予想していたように初日には勧進帳のように一人一人の腕試しを兼ねて楽譜にその一部始終を記憶していったのだと思う。ドルトムントではどうだったのか?少なくともここではその音響も影響してか、特に「ウエストサイドストーリー」でフルートソロなどが出てくると明白に且つゆったりと深く歌わせていた。演奏者本人の自信でもあるだろうが、指揮者がそれを認識して振っているともいえる。始まりからして自由度と許容度が拡大して、「共に演奏するというムジツェイーレンのモットー」に近づいてきていて、ペトレンコがプロフェッショナルな楽団でものにする時の在り様そのままなのである。中一日のこの量子的跳躍には驚かされた。明らかにペトレンコが最初から立てた流れ通りとしか思えない。余談であるが、このツアーが始まるときに合わせるかのようにバーデンバーデンではガティの代わりの他の指揮者が指名された。もしやペトレンコとかメータが代わりを務めるかとも思ったが、なにか判断がそこにあったのかなとも邪推させた。勿論バーデンバーデンは大きく期待したであろう。

そうした影響で、ダイナミックスにおける幅が格段に広まった。まだまだ弱音で音楽が出来るだけの抑制は効いていないが、少なくとも楽員として如何に小さく音を通らすことが出来るか、その為にはお互いに聞きながら合わせないと話しにならないことが実感できたのではなかろうか。開演前のサウンドチェックでもこの方向へと練習が向かったことは予想可能だ。それから比べれば初日は勢いの音を強く出す勝負のようなところがあって、全く逆方向へと意識が進んでいた。

それによってバーンスタインの音楽の体臭が初日よりも強く出ていて、いい演奏になっていた。同時にサムバやマムボのリズム的な軽快さが冴えていた ー ペトレンコもルクセムブルクでは歌っていなかったが声がよく出ていたようだ。こうした特徴が次のティムパニー協奏曲で活きない訳がない。弦楽の奏法も余裕をもって正確に丁寧に鳴らされるようになって、一体初日はなにだったのだろうと思わせた。二楽章の嘆きも深く呼吸をして聞かせた。

ソリストのヴェンツェルがアンコールに応えて練習曲を演奏した。ばちを持ち替え引き換え好演していたが、この人の最大の問題は弱音のコントロールだと近くで見ていてよく分かった。ベルリナーフィルハーモニカーの奏者のようだが、もう少し精進してもらいたいというのが正直な感想だ。世界中の一流管弦楽団には沢山の名手がいる。

「春の祭典」は、精度が上がると同時に、ここでもテムポとその拍取りの深さに気付いた。つまり初日にはどんどんと進めていったものが、十分に歌えているところが増えて、イントロダクションも木管楽器に合わせたテムポ設定というよりも拍取りをしていて、それこそ顔を見ながら合わせていた。初日には全くしていなかったことである。装飾音等も綺麗に決まり、同時にそれが音楽的な緊張になるのは流石だった。新聞評にあるように、フィナーレでも体を固くして固く振り若しくはコムパクトに振っていて、初日の技巧よりも更に上の指揮をしていた。そのテムポ運びや音楽づくりは一部の終曲でも秀逸で、ペトレンコのストラヴィンスキーの見事さを改めて思い知らされた。フィナーレの見事なテムポ運びも同様で初日よりも落ち着いている分その迫力は減少したが、「春の祭典」がこんなに音楽的に面白いと思わせたことは未だ嘗てなかった。

批評は一通り出たようだ。何をどのように伝えるか、どのように評価するかなどはジャーナリストにとってもなかなか難しいと思う。それは、可成り技術的それも指揮技術的なことへの造詣を問われるからでもある。更に楽団の特徴からその腕を見極める必要もあるからだ。それをもとに一体何を読者に伝えるかという腕が問われるからである。

いつものように写真を撮っていたら隣近所が湧きだしたのでどうしたのかと思ったら、ペトレンコが楽員をこちらに向かせた。意表を突かれた感じになった。いつも出来る限り見られないタイミングで秘かに撮影するのだが、見つかってしまったか。アンコールの「マクベス夫人」にこそ一番プロとのそれもミュンヘンの座付楽団との差を最も強く感じた。



参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
指揮芸術とはこれいかに 2019-01-08 | 音
コメント

指揮芸術とはこれいかに

2019-01-08 | 
とても面白かった。もう少し指揮技術が分かるとさらに興味深いと思う。登場した楽器編成やアメリカン配置などを見ていると、その楽団の作り方の方針が分かった。つまりした拵えは指導の指揮者がしっかり準備していてツアー前の練習で演奏を練るということらしい。

それが感じられたのは、予想していたようなアイコンタクトではなく、寧ろ通常以上にペトレンコの目線が楽譜に落とされていた。キューは普通に出しているが、あまり奏者を睨みつけないようにしていた。つまり奏者それぞれがどの程度出来るか把握しきれておらず、奏者が緊張してしまうリスクを避けるためだろう。ユース向けの対応であるとともになにか指揮経験というよりもこの人物のシャイと称される人間関係の作り方を垣間見た感じで面白かった。

それでも「春の祭典」で指立てもパーカショニストに向けられ、いいところは誉めていた。勿論「ウエストサイド」で吹き続けたフルートにより添ったり、「春の祭典」で支えたアルトフルートなども喝采で特別に賞賛された。ファゴットなども一通り立たせており、その辺りも上手にツアーの先を考えていたようだ。しかしこの指揮者のいいところはラトルのようにおべんちゃらをしないところで、オーボエなどは立たせた覚えがない。

予想通り、イントロダクションではそのオーボエも吹かしてしまっていたが、何事もなく先へと進めていて、停滞するようなことはなかった。フルートが二つ目の鳥の囀りを上手くこなしていた。それどころか「ウエストサイド」でも大きく管弦楽が息つくような方向へともって来ていて、何よりも車中で聞いていた自作自演のニューヨークフィルハーモニカーよりもこなれていたところもあった。自作自演のようにアフタービートで何かをやってくるかと思ったら断然西欧的な味付けでとてもバランスが取れていた。この辺の趣味のよさこそが彼をただのユダヤ人音楽家から超越させて、シェーンベルクの言う「ドイツ音楽の超越」の護持者としている。

なるほどユース楽団であるから音は揃わなく、粒だった音は出ないが、指揮の振り下ろしとその反射神経は年長者のそれとはまったく異なる。ラトル指揮ではないが、ペトレンコもまさにスポーツカーの運転のように遊びなく尚且つためを作って指揮していた。それが例えばクラフトのティムパニ協奏曲でもとても活きていた。あれぐらいの反応でないとティムパニーと合わせるのも難しく、中々上手く行っていたと思う。

「春の祭典」の終楽章も快速過ぎて、フルートなど管はとてもついて行けてなかった。あのテムポならばベルリナーフィルハーモニカーでも楽団側がためを作らないと揃わないと思う - まさしくヴィーナーのやり方に近づく。逆にアインザッツも「ウェストサイドストーリー」では活きていて、スイングしていたのは素晴らしかった。とてもいい指揮であった。

テムピは安定した繋がりにして、事故を防ぐ一方、拍子の変化を見るも見事に解決していた。要するにティーンエイジャーならではの演奏になっていて、ペトレンコがシカゴなどビッグファイヴの常任になっていたならばとかを彷彿させた。あれは職人的技術を超えて指揮芸術だと思った。間の取り方や、なにか懐からすっと三拍子が出てくるのにも鮮やか過ぎて目を見張った - なるほど誰かが千手観音と重ねて呟いていた筈だ。指揮技術がもう少し解れば、何が習えば出来るものなのか出来ないものなのかを峻別可能だと思う。何度も指揮を見ていても気が付かなかったような今まで見たことが無いような指揮ぶりだ。飽く迄も演奏者を立てながらもスタンディングオヴェーションになるにはそれなりの理由がある。

帰路にラムシュタインのベースに下りるところで速度制限に気が付いたがブレーキが足りずに記念撮影となった。全く眠気もなく、ラディオから流れる「ラインの黄金」で帰ってきていたが不覚だった。勿論正気であるから、最低の速度違反で最低の送金だけで片が付く点数が残らない駐車違反程度のものだ。それにしても誰のヴォ―タンかなと思った。フィンレーにも聞こえたがフィッシャーディスカウで、管弦楽も下手だなと思ったらカラヤン指揮の制作ものだった。あれならばペトレンコ指揮の生演奏の方が上手い。カラヤンのいい加減な譜読みは今更ではないが、この前夜祭に対するいい加減な指揮は、その復活祭を「ヴァルキューレ」から開幕したように殆どどうでもいい前夜祭だったのだな理解した。一つ一つとこの指揮者の残したメディアの価値が崩れ去っていく。高度成長期のように殆どが無駄な浪費制作に費やしたエネルギーだったことが明らかになり戦慄する。



参照:
冷え性にならないように 2019-01-06 | 女
ルクセムブルクへ一走り 2019-01-07 | 生活
コメント

出た!192kHzの高密度

2018-12-29 | 
ベルリンのデジタルコンサートのファイルを聞いた。ハイレゾリューションのファイル群である。以前からシューマンの交響曲全集は重宝していたが、シベリウスも、アーノンクールのシューベルトもあることは知らなかった。一方そうしたファイル類を販売していたことは知っていた。ディスクと一緒に購入可能だ。しかしこうしてネットでアクセス可能とは思わなかった。

理由があって、日本語以外ではリンクが張っていないようだからだ。分からなかった筈だ。勿論プライムシートなどの日本限定のハイレゾ音源提供も知っていた。しかしそれはネットの関係上流すことすら難しい。そこで今回教えて貰ったのは通常にDCHに入ってそこで聞けることだった。但し一楽章づつ除いてあって、通常の一回券では全部は聞けない ー その後全て聞けることが判明した。全て聞こうと思えば購入しなければいけない。当然だろうと思う。兎に角、試してみて購入する価値があるかどうかを自身で判断すればよい。

今まで使っていたシューマンのファイルは96kHzしか出ていなかったので、今回のシベリウスの192kHzはとても良い参考資料になる。そして今回初めてその速度でDACから出力した。初めてではないかと思う。理由は殆ど無線で送り出していたので、キャストとDACの接続の上限が96kHzと定まってそれ以上の信号を送ってもDACに入力不可だったからだ。

もう一つは、DACに有線でLINUXを接続したことから、LINUX経由でDACを制御できるようになり、PCMはそのままDSD変換することなくアナログ出力可能となった。つまりピュア192kHzPCMファイルを楽しめる。DSD処理すると奥行きが増えたりと変化がある。詳しくはマイクのセッティングなどを想像しながら聞かないとどちらがどうとは言えないかもしれない。

改めて感じるのはデジタル録音再生というのは、嘗ての用語であるHiFiつまりハイフェデリティーの原音再生であり、密度を上げればそれだけ原音に近づく意味でしかない。つまりその印象は、凄い音が出るとかではなく、より親密にやわらかな肌触り感が増すということでしかないのである。つまり原音がどのようなものであるかをある程度分かっていれば、密度が上がれば上がるほどズームイン可能にはなるのだが、ざっとした印象はそれほど変わらなく、ハイレゾになればなるほど、ライヴの音はそうだったと再確認するだけのことである。謂わば幾らその密度を上げてもそれはそれで「ああそうそう」と記憶や感覚との比較でしかないということだ。当然である、そこで原音が鳴らない限りはそれが仮想音空間であることには変わらない。そもそも大管弦楽を小さな室内で鳴らすことなどは不可能なのだ。

DCHのコンテンツには最初から飽きているのでこれはとても良かった。今回のペトレンコ二枚DVDにハイレゾ音源を付けていれば考えたかもしれない。少なくともルツェルンの録画が欲しかった。



参照:
なんと、96kHzのキャスト! 2016-10-13 | テクニック
新たに分ったことなど 2018-10-25 | 雑感
コメント

先に、劇か歌かの回答

2018-12-18 | 
月曜日病である。日曜日の夜にストレスなどを考えて、週明けの処理事項を考えていたら案の定身体が拒絶してしまった。更に天気が悪いとなると手の施しようがない。狸寝入りである。それに、どうでもよいことなのだが、先日の新制作「オテロ」上演の四幕の最後までまだ跡を辿れていない。毎度のことながら最終幕はメモも取れないために、本当は最も印象に残っている筈なのだが、帰路の車の中で反芻するということもあまりない。なぜなのだろうか?

承前)オペラの幕切れは、芝居の幕切れとどこか異なるのか?それとも変わらないのか?音楽の場合はその素材に縛られる。つまり終幕に来て新たな素材を出してきたのでは収まらない、文学以上に限られはしないか。そのように考えると、デズデモーナの「アヴェマリア」はいいとしてもシェークスピアの「柳の歌」がここに入ってくる。

今回の公演のプログラムにはこの件に関しては言及がないが、一幕の愛の二重唱、つまりシェークスピアの原作にはない「ジークリンデとジークムント」と比較される音楽に関して、その調からの逸脱や和声の流れの心理描写への言及がなされている。しかしここでは寧ろそこへ向かうまでの叙唱部分から上手に導かれていて、唐突さを感じさせない。それゆえにか名曲としてあまりにも定まってしまっていて、若干耳にタコ状態になっている。しかし今回の公演では、少なくともデズデモーナの歌としては最も説得力のあったところでもあった。

何よりも言及したその冒頭からの繋がりがとても丁寧に彫塑されていて、なり勝ちなセンティメンタルとは程遠い歌唱が繰り広げられる。丁度一年前の「ジャンニスキッキ」の娘の歌のように何か物足りないと思っていた人ももしかするといるかもしれない ― 管弦楽共々それほど丁寧な歌い込である。そしてデズデモーナの歌に付きまとうドルツェシーモの歌から、「お休み」と来て皆が分かるようなデズデモーナの最後の鶴の一声のような叫びが周到に準備される。だから誰もがそこで構える。場内はひっそりと息を飲む。そして楽譜には珍しくfしかついていない、体を固くしながらその一声を待っているので条件反射的に体が震える。まさしく一撃の棒が下ろされるのだ。

ハルテロスのその声も鋭くこれ以上にはないものだったが、その一撃に敢えて言及しざるを得ないのには、いくつかの理由がある。リコルディ出版に出した手書き楽譜には七つのpまであったという執拗にその音楽的な内容を伝える努力をした作曲家はここでは最高音Aisにfと書き込んでいるに過ぎない。勿論その前に同じように繰り返していて、最上級へと上がっていく準備がされているのだ。

もう一つの側面は、その準備というのが小さな枠の中で二面性を保有しているので、丁度小さなメロドラマ形式にもなっていると気が付く。ドルツェがドルチェッシモになると同時に、二面性が交互に現れる形にもなっている。

そこまで来ると、素材的に収まりの良い「アヴェマリア」から、もはやオテロの登場への音楽を待たないでも予定調和的に劇が先へと進む。要するにシェークスピアの名作に音楽を付けるのであるから、そこを如何に上手に運ぶかが腕の見せ所だったのだろう。

カウフマンのオテロは演技歌共に申し分なかったのだが、声も三日目のストリームイングの時のようには出ておらず、三幕におけるほどの出来ではなかった。正直なもので、幕切れの拍手のタイミングや湧き方も三日目よりは弱く、初日よりは反応が大分良かったぐらいだろうか。意外に一声一動作の存在感がイアーゴのフィンレイにあって、三幕四幕と裏に隠れていたので逆に注意を引いた。

今回の「オテロ」二度目の体験は素晴らしいもので、ドミンゴとクライバー指揮のそれと比較して、優れた点も多く、多くの点で勉強になった。だからと言ってドミンゴの歌などが完全に上塗りされることもなかったというのが正直なところだ。同時に来年の復活祭へのお勉強の傾向と対策をとてもはっきりと与えてくれた。今回以上の舞台や歌が期待できる訳ではないのだが、より細かなヴェルディのダイナミックスを含む筆使いに注目したい。

しかしなによりも満足できたのは、当時体験したストラーレル演出「シモンボッカネグラ」上演において、ヴェルディの上演がとても難しいと感じていた疑問全てに対してのペトレンコ指揮の回答だった。例えばたとえ初期のそれと後期のそれは異なるとしても劇におけるミレッラ・フレーニを代表とする大歌手などが朗々と歌うときの劇性の問題であり、ヴェルディ後期の創作での解決であると同時に、上演のアンサムブルの精度を上げることでの解決と、まさしく第四幕の音楽的な精査が齎した上演実践の秀逸であった。(終わり)



参照:
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
コメント

やはりライヴに来て

2018-12-11 | 
やはり生でなければ分からないことがある。これはメディアを幾らかは知っている者にとってはとても考えさせられる。ミュンヘンで11月23日に初日だった新制作オペラ「オテロ」を生放送で聞き、録音して、更に12月2日の第三回公演を映像を含めてストリーミングで見てDLした録画を道中流していた。そして第五回公演を訪ねて改めて経験した。ミュンヘンでの初日シリーズをストリーミングの後で出かけるのは初めてかもしれないが、その影響があったのかどうかはよく分からない。なるほど録画したその映像も流していただけなので、正しいメディア需要ではない、それでも明らかにそこに欠落していたものがあったと思う。言い訳をさせてもらえば、その欠落の存在を初めから何となく感じていた。

今回の制作は、「アイーダ」や「椿姫」作曲で有名なジョゼッペ・ヴェルディの晩年の作品「オテロ」であり、そのシェークスピアの「オセロ」との関係にも公演前のガイダンスで若干触れられていた。因みに今回の講者はオペラ劇場のドラマトュルギーを担当しているマルテ・カースティング博士である。ペトレンコ指揮制作の重要なスタッフである。ガイダンスは何度か訪れたがいつもあまりに哲学的に抽象的で全く価値がなかったが、流石にカースティング博士の場合は音楽と演出の双方のドラマを司っているためにとても具体性が話の裏に感じられた。

この制作の価値を測る場合に、その創作の依頼やその工程にまで言及するのはとても重要だった。要するに一度は筆をおこうとした作曲家の再びの創作意欲や動機をそこに想像しないといけないからだ。音楽的に詳しくは来年の復活祭のバーデンバーデンでの準備まで時間があるのでゆっくりやっていく、しかしそうした詳細な作曲技術的なアナリーゼよりも後期のヴェルディ作品を読み込むときにはやはりその「オペラ事情」を考えるべきだ。

簡略すれば、影響を与えたリヒャルト・ヴァークナーはバイロイトにおいて理想を音楽劇場として創作した。それならばヴェルディは、ただそうした音楽的な方法を利用しただけで、ただイタリアの「オペラ」を創作しただけなのか?これが問いかけとなる。

音楽の詳細には一挙には触れないが、キリル・ペトレンコと管弦楽団が劇の土台を形作ったとするような論評は正しかった。これも具体的には分かりにくい表現なのだが、例えば指揮に対して楽団が敏感に判断して出来上がるドラマとは、ヴァークナーではあるのか、それならばヴェルディではと考えるとこれはとても音楽的に深入りすることになる。前日に客演したヴィーンでは全てが無視されているような演奏だったが、流石にここではベルリナーフィルハーモニカーが羨む六年目の関係は只者ではない。指揮に食らいついてくるだけでなく、それ以上に敏感に音楽的な反応がなされる。まさしくペトレンコが理想とする「共にムジツィーレン」がそこにある。

ミュンヘンの座付管弦楽団が、その各奏者が真面目に準備してとかの心構えの問題ではなく、私自身が学ぶことばかりなのでお勉強をして準備するのと同じように、残された機会に如何に多くの音楽を学べるかと貪欲になっているからだ。

具体的には、一幕におけるとてもシャープな不協和とヴァイオリンのピアニッシシモのダイナミックスと音色の相違も甚だしく、予想以上に声が通ったカウフマンのオテロの第一声も決してドミンゴの第一声に引けを取らなかった。その背後にはとても制御された管弦楽があるのだが、その自然な流れ、二幕へと更に淀みなく、自由度とその劇的効果は初日、三日目を上回っていた。その二回との比較すれば、やはりその間にフィッシュ指揮の公演が挟まった影響もあるかもしれない。なにか自由に指揮棒に反応するような見事なもので、楽員の各々が自らの表現意思のようなものを発散させていた。このような指揮者と管弦楽団との関係は今まで知らない。

二幕はとりわけ素晴らしく、ショスタコーヴィッチの「レディ―マクベス」での引用を感じさせる一幕以上に、古典的なイタリアオペラ劇の造形美を堪能した。ヴェルディの扱いは三幕の大掛かりな対位法のみならずに、初期からのそのオペラ劇場的な骨子が音楽的に嵌められていて、シェークスピア劇へと最後の「ファルスタッフ」への道程がはっきりする。批判されていたデズデモーナのハルテロスもその点を留意していて更に修正していたのは確認されたが、それどころか舞台の印象もコケットさをもう少し落としたような感じで、恐らく歌声で留意した分デズデモーナの推定年齢が下がったような印象だった。ただ一つクライバー指揮のスカラ座の上演と比較して至らなかったとすれば合唱団の若干暗い歌声で、やはりイタリア語文化圏の中での声は輝かしさが違う。それは逆も真であるのは当然だ。(続く



参照:
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評
コメント