Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ザルツブルクのブラームス

2020-09-14 | 
午前中はヴィーンからの中継録音を聴いた。ザルツブルクで八月末に演奏されたベルリナーフィルハーモニカーの演奏だった。例年の様に二種類のツアープログラムから最初のベルリンでのオープニング演奏会と同じプログラムが放送された。

この演奏会に行かなかったのはベルリンの翌日の当日移動でどれほどの演奏がなされるか、また音楽祭の先行きが不明だったからである。そして何よりも遠い。そして最低このプログラムは11月にはフランクフルトで聴ける。

なによりもこの放送に期待したのはミュンヘンから出かけたバイエルン放送協会での評とその触りの音がとても良かったからだ。そして、ベルリンでは不満のあったシェーンベルク作曲「浄夜」が想定通り扇型の祝祭大劇場で良く鳴る。ベルリンのフィルハーモニーはワインヤード型で音の分離は良いのだが今回の様に間隔を空けた合奏ではマイクからは頑張っているコントラバスなどが不自然に響いた。

放送でも紹介のあったようにマイクロフォンの設定も考えたようだが、何よりも舞台で綺麗に響いていなければマイクでも駄目である。一番の良さは微妙な交わりで、それに関しては嘗ての見本とされた大阪のフェスティヴァルホールに通じるものがある。音の重なりが重要で、未だに神戸で聴いた岩淵良太郎指揮のそれがイメージにあるので、今回は漸くそれに匹敵するものが聴けた。勿論シカゴ交響楽団をダニエル・バレンボイム指揮の録音とかの精度とか響きとかは別格だと思っていたが、特別な間隔でもそれに劣らない響きをライヴで聴かせたのは見事だった。そこには強調された神秘主義も恍惚感もそれほどないのだが、なによりも本来のプログラムであったヴェーベルンのパッサカリアに代わるだけの意味は明白になった。どうしてシェーンベルクが12音を使った作曲技法へと進んで行ったか、同時にそれはブラームスの四番交響曲のシェーンベルクからの視座が明白となった。恣意的なプログラミングとは大違いのまさしく演奏実践としてのそのプログラミングである。

そして愈々のブラームスだ。ミュンヘンで大変な演奏を聴いてから、ヴィーンでの似ても似つかぬ実況中継を聴いて、ベルリンでの開幕演奏会で溜飲が下りた。同時にミュンヘンの座付楽団とは異なり技術的特に管楽器などが確りと弦と合わせてくる。これだけは管楽器の一人一人の力量の差が如実に出ていてどうしようもなかった。しかし、ベルリンでは第一楽章でも上手く噛まず、三楽章でも傷もありとなっていて、格別楽器間のバランスとタイミングが難しそうだった。

その分、音響の差異を利用して若干ゆったりと指揮していて、その管と弦の受け渡しが見事だった。前日にペトレンコが珍しく自画自賛しているのを観て、ここまで翌晩には直して来るかと驚愕した。まさしくブラームスのこの交響曲にあるイデーは、新古典主義として片づけてしま得ない。そしてこの特別な条件で演奏されたことは恐らく歴史的な意味を持つと思う。

ネットで調べ物をしていて、キリル・ペトレンコに関する新たな記事を見つけた。その内容は一部知らなかったことに触れていて、とても興味深かった。その内容についても改めて紹介したい。

胸がすかすかする。明らかにコロナ症状である。なぜ急にとは思う。近辺で流行っているようだが、陽性者は少し増えて指数6になっている。季節の変わり目で咳をする人が多いが、これがコロナ症状である。一週間ほど経って徐々に回復してきているが、五月と同じように綺麗に抜けきってくれるだろうか。



参照:
衝突する伝統からの確立 2020-09-04 | 音
マスク禁止運動を展開! 2020-09-02 | 生活
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衝突する伝統からの確立

2020-09-04 | 
「清教徒」二幕三幕と通した。結論は指揮者が良ければまだまだ音楽を出来る作品だ。歌手もしっかりすれば、それだけでは終わらない。

因みにまともな指揮者がこの作品を振っているのか調べてみる。有名なところではカラスの伴奏をセラフィンが振っている。実況の悪い録音で若いムーティがフィレンツェで振っている。それ以外ではあまり見付からない。勿論サザーランドの伴奏を旦那のボニングとかパバロッティと録音している。

今話題の女流指揮者レニヴがなぜこの作品をレパートリーに入れているのかはよく分かるのだが、同じ意味でムーティがこの辺りをレパートリーにしていたのは本当に賢いと思う。フィルハーモニアでも制作録音していた。実況盤はあっても制作ものはネットになかったのでセラフィン盤を使いたい。スカラ座の制作録音だが、出だしの所だけ聴いてもその作品の価値が全く異なる。
MARIA CALLAS Bellini I PURITANI Studio 1953 integrale


だから場末の歌劇場で二流指揮者の公演を聴いても作品の片鱗に一切触れることすら儘ならないのだ。何十回経験しても作品に触れたことにはならない。だからオペラ劇場通い程無駄なことは無いのである ― 芝居の方が経済的で価値がある。年金生活者の暇つぶし以上のものでは無い。欧州に住まなければ分からなかった最大のことである。

そのことはフランクフルトで今回の「清教徒」が全く売れていないことに関係している。初日は300人も入っていない様子だ。いい席が完売しているのでプレスの招待はあったのだろう。しかしさっぱりである。他日も売れていない。一昨年の新制作時には演出へのブーは出たようだがとても成功している。だから再演に入らない理由は無い。

やはり我々の様にリニヴが同じ女流のマルヴィッツがそれ以上に直ぐにでもドイツの音楽界で重要になる存在だとは巷の人は気が付いていないのだろう。玄人筋での評価付けはある程度定まっていても、まだまだ一般の市場にまで届いていないということだ。同劇場ではデビューであるから当然かもしれない。

劇場のヴィデオが出たが、残念ながら内容は薄かった。重要な点は王党派のアルテューロと作曲家が同一視されるということで、作曲家自身の周りの女性が共和派のエルヴィラに代表されていて、作曲家の自己矛盾がこの役になっているというのだ。演出は最後に暗転させてしまうような黒ロマンになっているのは批評にもはっきりと書いてあった。

二幕などは、恋仇のリッカルドとおじさんのディアローグでシュツットガルトでは殆どコメディーになっていた。なぜそうなるかは音楽のドラマテュルギ―を丁寧に構築していないからで、単純にジンタを刻んでいれば浅草オペラにしかならないのは必然ではなかろうか。やはり、以前はフランクフルトと交互に賞を取っていたような州立劇場でもまともな支配人がいないと簡単にその水準は下がってしまう。

ベルリンのシーズンオープニングのペトレンコへのインタヴューを観た。私が言及しているように「新たなブラームス像への確信」であるが、意外に評論家諸氏はそこにまで言及していない。それはペトレンコ自身が語っているようにベルリナーフィルハーモニカーには独自のブラームス演奏の伝統があって、場合によっては相反するからそう簡単には完成しないという事だろう。私はミュンヘンでやりたい放題の演奏実践を聴いているので、またヴィーンでは更に大きな壁があったのでその事情は分かっている。

そのことをここでペトレンコ自身が語っている。恐らく翌日のザルツブルク、そして二回目のベルリンでの演奏、更に11月での再演で徐々にその真価が知られてくると思う。もう個人的にはシェーンベルク編曲のピアノ五重奏曲どころの話しではなくなっている。ペトレンコのブラームスルネッサンスになると思う。そしてバーデンバーデンでも企画してくれると思う。しかし、マイニンゲンでの初演での伝統がどのように伝授されているかの具体的な話しが無かった。フリッツ・シュタインバッハ指揮が録音されていないのは当然として、パート譜への書き込み等が保存されているという事か ― シュタインバッハの弟子のノートには言及があるが、校訂版とはどう異なるのか。それをしてベルリナーフィルハーモニカーペトレンコのブラームスの確立と言っていたが、まるで私の書いたものを読んでいるかのような物言いだ。



参照:
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
楽師さんの練習法 2020-09-03 | 生活
マスク禁止運動を展開! 2020-09-02 | 生活
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不可抗力に抗う肉感性

2020-08-28 | 
承前)ザルツブルク新制作「エレクトラ」のプログラムをさっと読んだ。中々纏まらない点に関して多くの示唆と幾つかの情報が入っていた。オペラ公演のそれに眼を通す人は殆どいないと思う。新制作の写真が載っていて、それ以外は重要な情報よりも観光旅行地の御土産みたいなものだ。だから前回のザルツブルクで観た浅利慶太演出の時のプログラムも殆ど読んでいなかった。そしてそれを捲るとその公演の演出に合わせて物語のアウトラインや文化的な背景などに触れられているが、ホフマンスタールやシュトラウスの創作には無関心だ。日本のチームがその本質に切り込んでいたとは誰も思っていない通りの上辺だけの古典上演だった。指揮のマゼールもそれで満足だったのだろう。

その点、今回のそこに書いてあるのは、分かり切った「エレクトラが中心にある」に対して、三人の女性に焦点を当てている意味合いだ。それは演出家のヴァリコフスキーの話しにも出てくる。先ずそのフェルゼンライトシューレの幅広い舞台に如何に劇場空間を、それもこのコロナ禍の後に新たに開くかという事に苦慮したとある。

その一つにプログラムに写真として使われているシチリアのマフィアにおける抗争の死体写真などを並べたレツィーリア・バターリアの写真集がある。要するに血で血を洗う抗争をこの話しへの肉付けとする。ホフマンスタールがこのギリシャ古典に注目して驚いたのもシェリーマンの考古学的な成果からで、ホメロスの世界が現実であったという事が分かるようになったことであるとされる。

オイディプスコムプレックスのフロイトの研究から、そしてこの1909年初演のリヒャルト・シュトラウス作曲「エレクトラ」を観たユングがエレクトラコムプレックスに1913年になって言及した様だ。教養のあるヴァリコフスキーは、三人の女性に注目して行く。その前にアガメノンも弟のオレストも男性陣は二人とも同じ境遇であると括ってしまって、一人目に犠牲者は生贄にされた長女のイフゲニ、二人目の犠牲が母親となる。つまりここで既にその劇中の扱いは定められてしまっているというのだ。

それに対して三人の女性陣は遥かに自由で、このオペラにおける人心を超えた巨大な暴力と神の意思に逆らい、運命と偶然に抗う非人間性を描くことで本来のギリシャ神話を描けるという構想になったとしている ― まさしく不可抗力としている。その程度の差こそあれ、既にこの基本構想に於いて浅利とは全く異なる。

ホフマンスタールのディアローグの見事さとして、エレクトラとオエストが出合う場面の其の際の会話を挙げている。そこでは復讐への執着によって性的な開花無く大人になった娘と弟の再会が描かれるのだが、今回のキャスティングの始まりだったところだろう。指揮者のヴェルサーメストの言葉を引用すれば、最近トスカとサロメを歌った歌手を探せとかあったが、まさしくここの抒情的な歌唱は今迄のエレクトラ歌いでは出せなかったキャラクターで、アウスリーネ・シュテュンディテを起用したのは、演出家と指揮者の協調作業にザルツブルクの恐らく芸術監督が正しく動いた成果だったろう。

そうすることで、これまた「子供が欲しい」と歌う三女のクリムネストラの病的な性質が際立つことになり、最後の最後までホフマンスタールが加筆したフィナーレへと続くことになる。従来の演出においても幾らかは重要な配役としてキャスティングされることは時々あるようだが、今回のアスミク・グリゴーリアンの起用はよって決して興業的な意味に収まらなかった。

既に言及されたようにエレクトラとその母クリテムネストラとのディアローグこそがこの作曲家の真骨頂でもあるのだろう。そしてここでもキャスティングも妙味があって、どうしてこの人が選ばれたかというターニャ・バウムガルトナーで、次に重要になる肉感性という事ではその役や年齢に関わらずおばさんがとても舞台を飾っていた事を先に述べておこう。

そして、この三人の女性を主役にしての肉感性がこの演出の味噌であり、それがオペラ作品の否当時のユングの流れを汲む精神分析へとその意味を問うていくことになる。大まかなアウトラインを引きだすだけでも可成りの整理が必要になるが、こうした作品を捉え、劇場で演出するとなると今更の如く二つ三つほどの博士号でも取得していないとお話しにならないという事になりそうだ。(続く)



参照:
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
フラマン人の誇り 2020-08-01 | 文化一般
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マリオネット化された啓蒙

2020-08-23 | 
懲りもせずに「コシファンテュッテ」の再放送を聴いた。今回は高品質MP3でというのもあったのだが、演出家と指揮者の話しが聴けた。特に指揮者のマルヴィッツのそれが良かった。この人は、指揮者としては結構感覚的な話し方もするのだが、その内容はいつも内容がある。話しが上手な指揮者だ。ドイツ語を母国語とする指揮者は少ないが、最近耳にする中ではトーマス・ザンデルリンクや元祖ティーレマンなどが馴染みのある中で、両者とも寝ぼけたような戯言に近いので話しが面白くない。その中では断然話しが巧い。移民のペトレンコなどと比較して語彙としてはとても大雑把感じがするのだが、少なくとも個人的には考えていることがよく分かる。恐らく素人玄人両方に語り掛ける内容を何時も語っている。

そして今回はここでも書いた「最初のスタートダッシュ」について奇しくも詳しく語っている。私が言及したのは公演の特殊事情やら劇場感覚として身に付いた判断力だと思ったが、それを作品のドラマテュルギ―としての音楽内容から、なによりもテムピ設定に重きを置いていたことが明らかにされた。

つまり序曲から一幕へと走ったのは、そもそもその後の事件が起こる前の屈託のない日常であって、その後の早いナムバーと遅いナムバー若しくは小節内で変わる変化にモーツァルトの意思が活きているというのである。「流れていれば何も起きない」と、コロナ以前と後を想起させてくれる。この指揮者が音楽の流れとその変遷にとても気を遣うのは知っているのだが、まさしくこの作品に最もその境界が激しく露出しているというのは本当だろう。
100 Jahre Salzburger Festspiele | Così fan tutte


実は番組の余白に歴史的演奏であるベーム博士傘寿のお祝い公演から「気になるところ」が抜粋で流された。今回の公演をして評論家によってはアーノンクール指揮の公演以来としていたが、私はベーム指揮と比較すべきだと考えていた。あらためて同じ放送から聴こえるのは、ベーム指揮のそれは和声の移り変わりが、外から内へと管弦楽の中でも歌のオブリガートを交えての音楽美となっていて、これまた奇しくも今晩同じく余白で流されるジュピター交響曲の美とも通じる。

興味深いのは、其処で歌うペーター・シュライヤーのフェルディナントの軌道を外れそうになる事などで、この歌手が初期にはポストを得るのに苦労したその人間性もよく表れる。今回は同じ意味ではエルサ・ドライシークが特に最初は若干攻める印象があったのだが、決して脱線までとはならなかった。上手く嵌るようになったのは二幕以降だ。

その背景に、マルヴィッツの言うダポンテ劇へのドラマテユルギーの音楽、モーツァルトの天才が見え隠れする訳で、最初に走ってしまって「何も起きない」のがこのドラマジョコーソの本質となる。確かムーティなどはそれをレティタティーヴォを含めたドラマとして描いていたと思うが、ここではその作品成立まで遡ってモーツァルトの意思に迫ることになる。

まさしくその移り変わりにこそ作曲家の心情が浮かび上がる。その点でベーム博士のあまりにも音楽的に粋を尽くして、まさしく吉田秀和が書いたようにドレミの音でこのような深い心情が描かれる事への畏敬へと繋がるのだ。それはそれで素晴らしい事なのだが、更に提示される「一体、悲しいのか嬉しいのか分からない」と「魔笛」をして涙する吉田は明らかに音楽の観念に雁字搦めとなる。

これまた演出のクリストフ・ロイが語る「マリオネット化」の危機こそが、十代の時からとても気になっていた古典オペラの舞台上演の事象であって、番組でも言及されていた本来上演されるべき中劇場でのレンネルト演出にも付き纏わっていたものでは無いか。

今回の縮小に関しての話しでも、モーツァルトの創作の過程をみればそうした観念的な音楽が創造されたよりも、もう少し肉体性を伴った創作であることは他の管弦楽器楽曲を見ても合点が行く筈だ。それどころかこの作品は19世紀の啓蒙主義からすれば不完全で外れたものであったのも当然で、こうして21世紀から眺めるとやはり紛れもない啓蒙の芸術である。古楽器演奏実践とかそうしたものの本質はどうしてもそこへと導かれるものでしかない。

涼しくなった。この夏のミルカの新製品にはライスが入っている。ライスこそは清涼感のある穀物の代表である。これはとても成功した新製品で少なくとも夏は残ると思う。



参照:
表情のヴィヴラート 2020-08-16 | 女
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
ああ無常の心の距離感 2020-08-04 | 女
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バイロイトのアンデルセン

2020-08-11 | 
週末から気温が上昇した。外気温が摂氏36度を超えると室内も厳しくなる。ここ暫く暑い思いをしていなかったので加齢によるものかと思っていたぐらいだ。しかしどっこい、そこまで温度が上がると首の血管の温度が急上昇するの頭全体に過熱感がある。座っているだけでも眠くなる。

先週は旅行で走る余裕が無かったので短く急坂コースを走っただけだ。帰宅翌日の土曜日も夜明け前には起きれなかった。日曜日の朝は摂氏20度前後だったので現金も必要になって出かけた。休んでいるパン屋の近くを通って、いつもの駐車場で準備運動をしているとライヴァルのノルディックウォーキングの婆さんがやって来た。降りてくるときに抜くと、同じぐらいの早さじゃないとけしかけられる。遅いのは分かっているが、準備体操も入念にやっていたのだ。兎に角暑さに耐えるにはその前に発汗しておいて水気を摂っておくのに限ると思う。

バイロイトとザルツブルクを比較した番組があった。音楽祭の形態も何もかもが違うが、ザルツブルクがモデルにしたのはバイロイトだと最近初めて知った。

七月末にそのバイロイトの現況を伝える記事があった。手元の古新聞を探しても出て来ない。ネットだけだったのかどうか。中々意味深な事が書いてある。先ずは一時広報されていた独連邦ユース管弦楽団をティーレマンが指揮して、ショスターコーヴィッチ作交響曲13番「バビヤール」が計画された推移が書いてあって、カタリーナ、メルケル、フォンドナーニ兄、ウラハーンが話し合って決定したとある。最後の人はバイロイト議論を司っている人で、どうも音楽祭の知的監督官のような立場にある音楽学者の様である。ドナーニは元ハムブルクの市長で反逆罪で処刑された父親を持つ指揮者フォンドホナーニの兄である。

先ずこの情報から知れることは、監督官だけでなくて諮問団のようなものがあって、従来の友の会などを逸脱して存在するという事なのだろう。そして、ドナウエッシンゲンでお馴染のステンアンデルセンが音楽祭から委嘱でインストレーションを披露している。その作品自体は、空の祝祭劇場のサウンドスケープを使って歴史を描く出すというもので、企画意図からしても夏の音楽祭中止以降若しくはカタリーナ重篤の後で依頼されていることが想像可能となる。更にはハウトューメークの番組内で、イェルサレムなどの歌手にシェロー演出やブーレーズ指揮を語らせている。

そして次期「指輪」の演出を手掛けるヴァレンタイン・シュヴァルツは、その舞台の設置の為の最終調整だったのでバイロイトに滞在していて、その話しを聞いている。毎年修正をする機会が与えられてという事だ。そして聞き逃せなかったのは、ステンアンデルセンの今回の作品は無人だったが、他の指揮者同様に何回もまた次回は有人でプレゼンテ―ションするということだ。

バイロイトの劇場では第九演奏ぐらいしかなされないのだが、そこにステンアンデルセンの名前が入ってくるという事か。再び新聞記事に戻れば、祝祭劇場でのショスターコーヴィッチ中止の後でもベートーヴェン交響曲をドレスデンと同じように演奏する計画と放送が告知されたがそれらが悉く実現しなかった。又番組等でのティーレマンのインタヴューは多く撮られていて、背後に動きがあったとみられる。秋までの任期の元祖音楽監督であるが、実際にはも既に頭でっかちになっていて、人事を含めて変化があるという事には間違いない。

一方では新聞は秋にはカタリーナが復帰する前提で話しが進められている。そして2015年から一人態勢になってからの、功績は歌手の何人かの抜擢と子供ヴァークナー楽劇の展開や何よりもステンアンデルセンのようなプロジェクトがなされるほど先進したことだと結んでいる。ステンアンデルセンに作品委嘱したのは誰だったのかとの問いかけが必要となる。

来年再開がならなければ、一先ずバイロイトのヴァークナー祝祭は終止を打つとされている。その後の展開を含めての改革が背後で進んでいることは間違いない。



参照:
Der Loop des Nibelungen, JAN BRACHMANN, FAZ vom 24.07.2020
ドナウエッシンゲン祭管弦楽 2019-10-21 | 文化一般
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
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楽では無く響のカラヤン

2020-07-18 | 
なぜか話題になっている故フォンカラヤン。放送でもバイロイトの「トリスタン」とザルツブルクの「ばらの騎士」を近々観聴き出来る。後者は人気指揮者故カルロス・クライバーがその練習から学んだもののようだ。

個人的には1977年の公演にしか接していない。明らかに全盛期を超えていた。だから録音のそれをなぞるぐらいの指揮しか出来ていなかった。実際に1982年には彼の有名なクラリネット奏者のザビーネ・マイヤー事件が起きて、ベルリナーフィルハーモニカーの終身指揮者が危うくなり、また大手術の影響もあって、完全に終焉へと向かっていった。

1984年のシュピーゲル誌の記事を読んで、また2007年の生誕百年のドイチュラントフンクの元第一ヴァイオリン筆頭のシュテルン氏へのインタヴューを読むと当時の背後事情が窺えた。

先ず1984年の記事にも登場していたベルリン生まれのユダヤ系ヘルムート・シュテルンが洗いざらいカラヤンの人間性にも語っている。アメリカからイスラエルへと逃げていて故郷へと戻って来たユダヤ人であるが、カラヤンの二回に亘ナチ入党などに関しては野心の為の判断と認識していて、それどころか戦争犯罪をしたわけではないと理解している。

これは結構重要な見解で、楽団の中ではカラヤンと良く喋った方で、またシュヴァルべなどの直ぐ後ろで指揮者と身近にいたとしているので、カラヤンのその人間性について客観的な証言にもなっているだろう。勿論戦後のベルリンで戦争犯罪に近いと思われた者は非ナチ化裁判の結果に寄らず然るべき立場には推挙されなかったという事でもあろう。

音楽的にとても興味深いのは、カラヤンは音楽を作ったのではなくサウンドを作って行ったとする見識で、カラヤンへの氏の最初の印象は、故郷に戻れて更にフィルハーモニカーとして音楽が出来ての喜び同様に、カラヤンにおいても特にその偉大な練習でとても幸福だったという。無駄な練習を一度もさせたことも無く、天晴れだったという。

その音楽解釈や音化に優れているのではなく先にも後にもサウンドで、なによりもフランス音楽でヴァークナーもシュトラウスも悪くはなく、ロマン派のチャイコフスキーなどは素晴らしかったと、そしてそれは彼にはサウンドしかなかったと繰り返す。それはなんにでもヴァニラソースをかけたようなものだと表現する

そのヴァニラってどんな味と尋ねられて、マーラーを指揮しないことをマーラールネッサンスの60年代初めにカラヤンに質したという。すると何時もどこかに酷いところがあってと、トラムペットの軍楽などのパッセージへの理解を示さなかったことで、それを理解出来なく、しようともしなかったと、古いヴィーンのそれだと解析する。マーラーが子供の時の軍楽隊などのあらゆるものを音楽的に伝えたかったものに統合したものであると解説。

1930年代に「トリスタン」を指揮して既に「カラヤン奇跡」とされ、天才とされたが、それは全くの誤りで自己演出だったとする。その必要性を含めてカラヤンにはカリスマ性があったというのがシュテルン氏の評価である。

マイヤー事件に関しては、彼女がクラリネットのソロとして通常に1982年秋にテスト期間に採用されて、その期間が終わるときに決まり通り、クラリネット陣の推薦を以って全団員の三分の二の支持を得て決定される必要があったと、そこでそれに至らなかったことからカラヤンが干渉したとする。そこで、終身契約が危うくなったが、カラヤンと楽団は決裂することなく、カラヤンが折れたことで最後までその任に当たった。

1984年のシュピーゲル誌の内容は、この話しとは異なり、我々が当時から知っていたように、82年の仮採用から両者が険悪になってというもので大分事情が異なる。上の話しからは仮採用にはカラヤンは関わっていなかったとなる。そして84年に辞める支配人がその間のスポークスマンになっていたという事だろう。

そしてメディア契約を盾にカラヤンが楽団を脅したというので、背後にはメディアの思惑が係っていたことは明らかだろう。シュテルン氏はそれとは関係なく、ソニーの盛田との関係にも触れて、二年ごとの日本公演度に新たな技術的なものが試されてカラヤンも喜んでいたが、そもそもカラヤンは録音には関心が無かったとまで発言している。これは特別興味深く大変矛盾する話しでもある。しかし同様のことは同じシュピーゲル誌にカラヤン自身がインタヴューに答えて話していて、何回も同じものを技術が変わるから録音するだけで、金の為ではないと弁明している。



参照:
四苦八苦している内実 2020-07-17 | 雑感
音楽祭百周年記念番組 2020-07-13 | 文化一般



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至福の楽興のとき

2020-07-01 | 
ミュンヘンからの中継を観た。入券に並んだ演奏会だ。とてもよかった。指揮のキリル・ペトレンコにとっては私が聴いたアルテオパー公演、そしてドレスデンでの演奏会以来の本番だった。そうした先入観なくともとても気の入った指揮だった。どこが無人の演奏会と違うかはまさにその背を向けている会場が肩越しに感じられた。恐らく視覚的にも何かが違う。どう違うかは私のような眼では鑑別出来ないが、専門家が観ると違う筈だ。なんとなく首筋と肩への力の掛かり方が違うように思う。

一曲目は、忘れていたのだが、アカデミーの人たちの演奏だった。見慣れぬ顔と映ったと同時にヴァイオリンの女性はどこかで観ている。昨年のオープンエアーの時かどうかは思い出せない。シェーンベルクの室内交響楽団一番は実演では一度ぐらいブーレーズ指揮で体験していると思うが、録音はそのブーレーズやシノポリなど比較的な限られたものしか聴いていない。しかしなぜか手もとに総譜がある。印象としては矢張り隅々まで行き届いていて、可成り明白な表現となっていた。又若い人が準備をしているだけでなくてよく食らい付いていた。

なによりもその楽器配置もあるが、久しぶりの充実した響きで驚いた。これだけは舞台の前の広げられ押し上げられた奈落で演奏したので、新シーズンへの大きなチェックとなった。マイクで捉える音はとても素晴らしい。「ファルスタッフ」やら「ヴォツェック」が上手く配置できるのかどうかは知らないが、大分切り込むのだろう。その分演奏の精度は更に上がることが予想される。

その意味からも次の曲は今迄の板の上での演奏で「プルチネッラ」組曲だった。これまた小澤がケルンにヴィーナーフィルハーモニカーを連れてやって来たときの中継映像が印象深い。そしてそこの楽団との違いもこの演奏ではよく出ていて、なによりも打てば響くような指揮と演奏との関係が素晴らしく、まだこの域にはベルリンでは至っていないと改めて感じさせた。ムジツィーレンという喜びがあればまさにこの指揮者と奏者間で織り成すこれだ。距離が開いているために管楽器同士も視覚での窺うように直にコムボをしていて、この曲のバロック的な抒情に思わず感が極まる。

なるほどベルリンでも同じように普段はこうした一人一人と指揮者の関係もそれほど強くないが、ある期間のお付き合いがあって去って行く人とのコムボはとても印象深いものだった。人選も重ならないように徹底的に色々な人が顔を出して来て、それでも限られた人だけが登場した。編成の大きさもさることながら、会場がフィルハーモニーでは無くて混じりあいが多く、とても充実した音響だった。こうした条件を聴くとやはりまたフランクフルトの放送ホールでの音響とはまた違っていて本当に素晴らしいと思った。平素の大編成のそれよりも濁らないのでいいと思った。

三曲目は人気テノールのヨーナス・カウフマンが出て来たが、その見栄えからしてなにか上手くいかないと感じた通りだった。シェンベルク編曲のマーラーの同じ曲はペトレンコは三年ほど前にボーデンゼーで指揮していて、これは編成も異なるがテムポ設定がまた全く異なった。協奏曲でと同じように歌手に合わせただけだと思うが、やればやるほど技術的に破綻しそうで落ち着いて聴いていられなかったので台所に立ったぐらいだ。そう言えばあのハムブルクのエルブフィルハーモニーで、「聞こえないぞ」となじられた理由も分かるような歌いっぷりで、技術やコンデション以前に彼自身のコンセプト自体が上手くいっていないのではないか。

終曲の「商人貴族」は、嘗て先輩のヴォルガンク・ザヴァリッシュが得意にしていた組曲だ。その印象からすると遥かにオペラのここそこや交響詩の一節のその意味合いなどを思い出させて、とても立体的な演奏実践だった。それにしてもこうしたリヒャルト・シュトラウスの作品を演奏させると右に出る楽団は他にない。ヴィーナヴァルツァーなどもパロディーであることが重要なのだ。何でもない事なのだが節々に息吹がある。可能ならば秋にでも実演で聴いてみたいと思う。

これら全て驚くほどにスムーズな生中継放送となった。二回の大きな舞台転換には新シーズンの新制作のトレーラがふんだんに流れた。あの拡張された奈落での音響には最早疑問の余地が無く、前回のバロック曲での試演と合わせて大した判断だったと思う。あとはその管弦楽団の刈り込み方と会場の席数の問題となる。評論家だけでなく当夜の訪問者が既にマスクの問題とそのポピュリズムの知事に苦情しているように、馬鹿なことは止せと抗議行動をしなければいけないと思う。せめて署名運動は良いのではなかろうか。



参照:
あまりにも壊れ易い世界 2020-02-23 | 音
大規模催し物の評価と対策 2020-04-16 | 文化一般
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アラテデスコの響き

2020-06-25 | 
承前)ベルチャ四重奏団の大フーガ付きが聴衆に意外に受けなかった。その理由を探るためにアルテミス四重奏曲の録音を聴いてみる。その演奏はキリル・ペトレンコなどのそれに共通する正確さがあるのだが、既に言及していたように深いリズム取りが出来ないのでせかせかした感じになったり、技術的な限界が多々見える。違った意味でラサール四重奏団自体にも技術的な問題があった。

ベルチャのヴァイオリンはその点創造的な飛翔もあり、殆ど幻想的と言えるような弾きっぷりなのだが、そこには違和感を覚えない所ギリギリのアーティキュレーションがあり、それは音響として解決される。比較的近い例はやはりガダニーニを弾いていたギドン・クレメルでこれまたシニトケでもバッハでも同じように音響の中で解決されていた ― シューベルトなどは最早発音していなかった。ベルチャの三楽章のアルペッジオなども殆ど即興的な風合いがあってすこぶる見事だった。そしてそれを受ける面々が合奏として音楽をどんどんと広げて行く。なにもジャズのコンボではなくても、同じ楽想を綴って語り合って行くという事はそういう事なのである。

比較対象に改めてアルバンベルクの録音を鳴らしてそのアーティキュレーションを確かめる。前者の大フーガ付きはザルツブルクでも聴いた記憶があるのだが、こうして最初の録音を聴き比べると、先ずピヒラーの第一ヴァイオリンを思い出して、流石にキュッヒルのように下品ではないが安定さに欠いていたのを思い出した。そしてベルチャが如何に明白に動機を弾き切るか、そして可成り限界まで挑戦すると必ずヴィオラなどがサポートにすっと入る。やはりとても室内楽として見事だった。

聴者数が入っていないホールの響きはもう一つのエベーヌ四重奏団が弾くと残響過多になって同時に奏者がサウンドチェックで経験からしっかりと合わせて来ないと駄目なものだった。方向としては大阪のザシムフォニーホールのそれにしっかりと中域が出るもので、チェロも過不足なく発声される。まさしくこの二つの四重奏団の経験の差が顕著なところで、ベルチャがその環境に合わせてしっかり鳴らしきったのは見事としか言えない。

なるほどそのヴァイオリンの楽想の描き方は明白で意味づけがとことんなされていて、これだけの歌い口は他に知らないが、違和感へと進む前に合わせが来るという、まさしく楽聖が狙ったその四重奏曲の構図が語られる。四楽章のアラテデスコのヴァルツァーもとてもいい乗りで、続くカヴァティーナも優れていた。敢えて言えばそこが音響として解決されてしまう事が正しいのかどうかという音楽的な美学的な疑問は生じる。言うなればハムマークラヴィーアゾナータにしろ決して意味づけが容易では無いのでそれを其の侭というような演奏実践が通らない一方、楽想の受け渡しとしてその展開のヴェクトルが問われることになる。それが和声的な流れとしても必ずしも音響的に解決され得ないという事になる。

そうした感慨が大フーガになれば解決されるという構造も存在していて、そのことが認知されるという事ではベルチャ四重奏団の大フーガ付きは一つの回答かも知れない。あのごつごつの密なフーガが有りの儘に音楽されるというのは矢張り圧倒的だ。実は先月まではその演奏はArteにあがっていてダウンロードも出来たのだがあまり関心が無かったので観逃してしまった。ヴィーナーコンツェルトハウスの映像で出来たら再確認してみたい。(続く)



参照:
落ちてくる音楽素材 2020-06-20 | アウトドーア・環境
スイスイと滑るように 2020-06-19 | 雑感
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実績を踏まえての期待

2020-05-24 | 
土曜日の夜から幾つかの中継を観聴きした。先ずはベルリンのフィルハーモニーからのDCH生中継だ。キリル・ペトレンコ指揮ではメーデーのオイロ―パコンツェルトから三回放送されて、二回目である。三回目はモーツァルトとドヴォルザークのセレナードとなる。グランパルティータと弦楽セレナードだろうか。

前半から後半への間にキリル・ペトレンコのインタヴューが流された。冒頭から、ヴィースバーデンモデルのことで動いているのだろう、観客をそれほどでなくても入れたいと話した。フィードバックが期待されると、まさしくヴィースバーデンでの百五十人未満の拍手とされるものを知らされると確信した筈だ。そして最後に秋には大きな編成で演奏したいと抱負も語った。

何事も一つ一つ実績を踏まえていくことは意味があって、それを碑にして先へと進んでいける。ベルリンのこの計画は、メーデーの時に突然で驚かされてよく分からなかったが、最初から一回限りのプロジェクトでは無かったのも窺える。結局今回後半の「浄夜」も弦の最低の増強に留まった。

もう一つ興味を引いたのはペトレンコがパユの事をエマニュエルと呼んでいたことで、このフルートの名人がペトレンコ体制作りへの木管の要にもなっていたことはよく分かっていたが、今回はマラルメの詩に関しても意見を交換したということである。

日曜日の午前中に再放送されたデュカの歴史的名演奏もあるがフランス音楽をペトレンコ体制でどのように扱っていくかなどの点も興味深い。まさしく先日フォンカラヤンの指揮としてフランス音楽の扱い方の例としてその録画をペトレンコ自身が紹介したその背景はここにあった。

管楽器ではクラリネットのバーダーがヒンデミットでもよく吹いていて、アバド指揮の制作CDは所持しているが、この生中継でよくやっていると思った。矢張りそれは2018年のルツェルン音楽祭での実況中継録画の映像作品を観れば、ライヴ中継でよくもここまでのものが制作されたなと思わない訳にはいかない。

こうした大編成の成果を観て、また最後の2月の国内ツアーの交響的舞踊の演奏を思い出すときに、やはりどうしてもそうしたものが再開できないといけないと思い、まさしく秋には何が可能になるだろうかということになる。現実的な問題として間隔の規定がある限り容易ではない。

しかし一方でテューリンゲン州では6月6日からマスクの義務と接触の禁止を解こうとしている。夏場になるとマスクは公共交通機関のみならず店内などでも不健康なものとなりかねない。マスクの効果が限定的なものである限り義務化を廃止する方向は合理的だ。しかし接触と距離を考えた場合に、中々そこに楔を入れるものが無い。接触を禁止しながらなんとか距離を縮められないだろうかと思うのは舞台の上を考えるからでしかない。



参照:
ヴィースバーデンモデル 2020-05-22 | 文化一般
モニターの前の評論家 2020-05-04 | 文化一般







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ニューヨークタイムズの報道

2020-05-20 | 
(承前)ギュンター・グロイスボェックは先月末にフランクフルターアルゲマイネ新聞のインタヴューで面白いことを語っていた。除けておいた古新聞のその記事に初めて目を通す。ZDFが3SATの為に劇場前でインタヴューしていて、少し離れて耳にしたのが、バイロイトに関する質問だった。要するにあそこは条件が違うと話していた。そのことを新聞でも語っていて、「新しい客席コンセプトにはバイロイトの劇場は余地があまりない」としていて、実際にカタリーナ・ヴァークナーがキャンセルに際して、「音楽において、(大規模雪崩災害に続きスキー場感染で再び悪名を馳せた)イシュグルになりたくない」と語り、自分もそう思ったとしている。

その一方、見通しの効かないオペラにおける再開は、彼自身のようにフリーでありながらもトップクラスのギャラを取る人間にとっても決して不安が無いわけではなく、他所では眠れぬ夜もあったとしている。それでも現在テッシンに住んでそもそもそれ程の贅沢をする訳でもないので、つまり通常の病欠での30%減ぐらいは考えているが200%減は想定外という。そこでオーストリアでは公開文章が出されてたらしい。つまり業界の個人的に付き合いのある人間の半数は半年この状況が続けば経済的に生き延びれられないと語っている。

そう言うことで、ヘッセンの劇場がドイツの他の劇場に先駆けて再開したのだが、そのオーガナイズなどにも興味があった。詳しくは3Satでインタヴューの内容を知ることになるかと思うが、百四十人の為でもどのように椅子を別けるのかなど興味もあり、又初めての劇場なので充分に時間的余裕をもって出かけた。だから駐車場の夜間料金が始まる18時を待って駐車したが、結局現在は夜間料金は無かったので9ユーロ50ととても高くついた。これが今回のただ一つ不満なところだった。その分最低料金に近い105セントで燃料を入れられたので、高くついた分は取り返せた。その他プログラムもA4一枚で無料で、飲み食いしなかったので一銭も使わずに済んだ。

「希望」の朗読に続いてゲーテの詞による「プロメテウス」のピアノの前奏に続いてレチタティ―ヴとなる。ピアノの響きもそのアーティキュレーションも全く感心しなかったが、このプログラムイングの流れでのそれはそのオペラでの技能を示していて、やはりその方での活躍に違わないものだ。

グロイスボェックのオペラは、何度か生で経験しているが、どちらかというと抑制のきいた舞台と歌で、ツェッペンフェルトなどよりの華が無い。その音楽的な特徴はここでもあって、もう一つ食い足りなさを感じさせるのはピアノの責任だけではないだろう。昨年は、「フィデリオ」でのロッコと「パルジファル」のグルネマンツを其々ミュンヘンとバイロイトで聴いた。後者のそれはヴェテランのルネ・パーペのようにテクニカルに抑えてくるというようなことは全くなかった。自然に楽に声を出しているという稀なバス歌手なのかもしれない。

その分力動的な歌は歌詞の力以上に声の強さと豊かさなどが大きな渦巻きとなるので、船乗りへの歌にかけてのドラマの作りが上手く嵌った。無理をせずにも低音もしっかり抑えることが出来て、上へも伸びて歌えるというのは、やはり世界中で引っ張りだこになっている筈だ。それでも今回の騒動で2025年まで決まっていた契約の一部が破棄されたり、まるで通信簿のような味気ない「当分は出番がありません」というような通知を有名劇場から受けたという。それに比べれば、METのゲルブ支配人が書いたものとかカタリーナ・ヴァークナーからの直々の電話は有り難かったというのも分からぬではない。そのようか、昨年のバイロイトとの関係もあって今回支配人のラウフェンブルクとのプログラムの打ち合わせが結実したという事らしい。

ニューヨークタイムズの報道によると、今回の欧州初の偉業の背景で支配人ラウフェンブルクの活動がAfDに呼応しているとされている。要するにコロナペギーダと呼ばれる現象で各地でコロナ対策反対運動に陰謀論が重ねられてネオナチ化しているという話題に共通している。そもそもあの下らない演出がバイロイトで採用されたというのもカタリーナ・ヴァークナーのエゾテーリックな面で共通していて、典型的な無教養や教育程度の低さとして、トラムプや安倍政権やその身辺に共通している所謂無知主義的な運動でもある。(続く)



参照:
延期になったバイロイトの声 2020-05-19 | 音
指揮科教授のバイロイト 2019-08-19 | 音 
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延期になったバイロイトの声

2020-05-19 | 
アンコールは、バイロイトで夏に演奏される予定だったそのものを披露した。どうして歌手のギュンター・グロイスボェックがそのピアニストを選んだが分からなかった。個人的な付き合いなのかどうかとか思っていたが、決して舞台で近づくこともなかった。しかし最後のそこで分かった。

グロイスボェックはこの夏新制作「指輪」でのヴォ―タンで話題の中心となる筈だった。その時の付帯プログラムでそのピアニストとこの「惜別の歌」を披露する予定だったらしい。周りでそのように呟いている人もおり、本人もバイロイトの彼女とのプロジェクトだったと紹介していた。

ピアノ編曲はリストのものか誰のものかは分からなかったが、その為にこのピアニストと会を開いたようなもので、レコーディングで聴かれるようなフーバーの伴奏とは大きな差が出るのは致し方が無い。特にシューベルトの歌曲ではそれなりの流儀があるだけでなく、リズム的な精査でも大分損をしていた。まあ、ヴィースバーデンのヴァークナー協会の連中ぐらいはシューベルトの良さなどはどうでもよいのだろう。到底150人に満たないと思われないほどのブラヴォーが飛んでいた。

という訳で天井桟敷の人々はそういう地元の劇場常連さんが顔を揃えていたようで、ヴァークナー協会ヴィースバーデン支部と化していた。確かに予想外で挟まれていたレーヴェの三曲も全然悪くはなかった。つまりHPにあったプログラムに支配人のラウフェンベルクに朗読をさせて、19時半から22時前まで、満席にならないでもそれ以上の公演内容にしていた。休憩を一度挟んでいたが、全く長さを感じさせない公演内容で充実していた。

但し、このバス歌手をリート歌手としてしまうとやはり歌詞の明瞭性やその芸風としてはまだ物足りない。バイロイトのプログラムに言及していた隣の老夫婦が「まだ若いからね」というのを耳にすると、まあ必ずしも見当違いの講評でもないとも言える。

出かける前にバスバリトンのクヴァストッフの録音も幾つか聴いたが、この人も音楽づくりという事では楽譜を拾う以上の歌は歌えていない。あそこまで集中してレパートリーを積み上げている人だからもう少し歌えるのかと思っていた。やはり早めに引退してしまうのはなにも体調の問題だけではなかったろう。その意味からすれば「若いから」というのも事実で同時にオペラ歌手のリートであることは間違いない。

なるほどそうなるとマティアス・ゲルネの歌唱を考えるが、こちらはオペラ歌手として成功しておらず、そのオペラティックな表現でも声が出ない分をピアノで表現を作るような努力をしている。しかしそれが全てでダイナミックスで歌詞に語らせる力が無い。その点では深々とした声があることで全ては容易に働く。

やはり一流のオペラ歌手はレティタティーヴの扱い方やそのオペラティックな表現が巧い。「ヴォ―タンの惜別」だが、これは今年歌っていたならばあのヴォルフガンク・コッホのベルカントの軽く明るい声との好対照で、低く重めに響く。ヴォ―タンというとどうしてもテオ・アダムを思い出してしまうのだが、後年の歌は酷いものであり、グロイスボェックのような声は全くなかった。なるほど、終幕のフィナーレでどれほどの声が出せるかはまた異なるかもしれないが、いい指揮者と組めば大いに期待される歌唱である。生憎、後奏の所で喉からゴホゴホと出てしまった。ハンカチで抑え込んでいたが中々抑えきれなかった。

会の最初にラウフェンブルク支配人が舞台に出て来て、マスクを取って貰っても構いませんとなった。そして帰るときはまた来たときと逆にやって貰うようにと、シラーの「希望」の朗読前に挨拶があった。(続く



参照:
中々売れない高額席 2020-05-17 | 文化一般
シューベルトでの歌唱力 2020-05-18 | 雑感
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2023年以降の計画の発表

2020-04-25 | 
バーデンバーデンの復活祭の2023年以降の計画が発表された。2022年に延長されることが契約されたようだ。2021年まで大枠計画がキリル・ペトレンコの口から発表されたことで驚いていたが、チャイコフスキーに続いてその次の二年のドイツ音楽の一年目がリヒャルト・シュトラウスと一日於いて発表された。

背後には、今回中止になった「フィデリオ」以降のまた秋の公演に関しての計画推進の中でこの計画の発表同意となったようだ。既に2023年についてもドイツ音楽とペトレンコが示唆していたことで、それも二年目の一年目は有名曲か二年目が珍しい曲かとの疑問もあった。

そしてバーデンバーデンの祝祭劇場がこれでどれほど助かったかというと、先ず私のような人間は数は少なくともこれで完全に2020年分の購入金額を精々秋の分を引いたぐらいで寄付することに躊躇が無くなった。既に宣言していた通りで、復活祭の見通しさえつけばそれなりに協力する。実質的に復活祭パトロンである。なにもパトロンシートもサロンも要らない。流動資金で少なくとも「フィデリオ」での損失は埋められればいいだろう。何回も繰り返すが、一番いいのは秋に米国ツアーが無くなり何回か「フィデリオ」が上演できれば取り返せる。倍から三倍ぐらいは払うのではなかろうか?

先ずリヒャルト・シュトラウスで有名曲ならば「ばらの騎士」、「エレクトラ」がペトレンコ指揮で新制作を期待される。ミュンヘンでも再演は「アドリアネ」であったが、ペトレンコが得意にしているのは「エレクトラ」ではない二曲になる。但し「ばらの騎士」はラトルが復活祭で振っていているのでどうだろうか?それ以前にはティーレマン指揮の上演も映像化されている ― 気になる情報として、マルリス・ペーターセンがマルシャリンを新たなレパートリーに入れるという事実である。一番評判を集めやすいのは歌手さえ見つかれば「エレクトラ」ではないかと思われる。どうしてもまたアスミク・グリゴーリアンが気になるところだが、まだ早い。

しかし本当に関心があるのは、もし2023年が珍しいシュトラウスであったとしたら、「カプリツィオ」か「無口の女」ぐらいでしかないので、先ずは2024年が珍しい曲でシェーンベルク作曲「モーゼとアロン」を期待したいのだ。

反対に秋の公演の発表が遅れているという事を示している。こちらも5月中旬までに分かればよい。アメリカ公演向けのプログラム一つは演奏されるだろう。もう一つはフランクフルトで演奏するので必要はない。11月までにどのように進展しているだろうか。

兎に角、メーデーのイスラエル演奏旅行も飛んでしまったのだから、これらはコロナ騒動が収まった後に繰り返されることになる。また、オリムピック前の日本での公演も来年への延期が無くなったと発表された。これは既に月曜日のベルリナーフィルハーモニカーの計画で分かっていた。

一方ザルツブルク州は、今と同じように大変な時代に創立されたザルツブルク音楽祭を他と特別扱いすることなく何らかの形での開催に知事の言葉として言及した。オペラ上演などは難しいだろうがホーフで行う「イェーダーマン」などの開催が五月中旬の決定を受けて具体化する。

LPのジャケットを振ると昔のチラシが出て来た。何かと思うとムラヴィンスキー指揮のレニングラードのフィルハーモニカーの1977年の大阪公演のそれだった。価格は一万円上限なので安くはないが行こうと思えば行けた筈だ。しかしその前のチャイコフスキーの二曲で満足してしまったようで、ドイツプロと「くるみ割り人形」組曲に入っていない。当時からドイツ物など駄目だと思っていたのだろう。CD化されている公演のようだが、組曲だけは聴いておけばよかったと今思う。「オベロン」も古い録音で知っているが、又その後小澤指揮のユンゲドィツェも1986年にアルテオパーで聴いていて、彼の「ルスランとリュドミラ」ほどではなかったであろう。この年にあのショルティ指揮のシカゴ交響楽団を聴いていたのかと思う。丁度大管弦楽文化が歴史的な頂点に達していた時だったのだ。二日もあった公演のどちらも聴いていないというのがとても贅沢な選択だった。懐かしいというよりも、もはや歴史的な記憶である。

八百屋に行った。マスク無しの最後の機会だ。パーソナルも客も誰もしていなかった。まだ月曜日からの事であるが、誰もしたくはないのだと確認したに過ぎない。やはりスーパーに訪れる客とは客層が違うのだろう。



参照:
光闇、強弱のコントラスト 2019-05-22 | 文化一般
ペトレンコの唯一無二の祝祭 2019-11-23 | 文化一般

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無価値なストリーミング

2020-04-21 | 
新聞にライヴストリーミング関してのインタヴューが載っていた。インタヴューをされているのはドルトムントの高等専門学校の教授でタクトワンというネット配信の創立メムバーのノルツェという人だ。その話しによるとコロナ騒動でメディチTVなどの大手だけでなくてとても需要が高まっていて、今後も重要になるだろうという。その一方で、陳腐な配信の質の低いものは何の解決にもならないとしている。レヴィットのそれを指しているようだが、直ぐに関心が薄れるだろうと予測している。

そしてドルトムントのコンサートホールの内容を其の侭配信していたことで意味があったが、コロナ騒動でそれが無くなると今度は提供する中味が無くなると話している。しかしシモーネ・ケルメスのように宣伝広告として無料で歌ってくれる人もいるらしい。

音楽とメディアが専門のようだが、この話しでは最も重要な知見に欠けている。一つはライヴ公演の中継であるからこそ価値があるということで、それはこの教授が言うように態々出かけなくても家で観れるという程度の認識での価値である。実際には無観客のライヴ演奏中継は全くライヴ演奏ではない。通常の場合はインターアクティヴな舞台と客席との掛け合いを窓から覗かしてもらっていることに過ぎない。要するにデジタルストリーミングでも技術的には可能であってもその場に参加することが出来ないという最大の欠点には言及しない。家で時間が余っているから、オンデマンドよりもライブストリーミングとか以上にこの視点が芸術的には最も重要な点である。

だからこの教授が主張するように技術的云々に関しても、ライヴストリーミングには既に大きな損失があって、素人の下手なストリーミングと芸術的な価値としてはそれほど変わらない欠落があるのだ。その一方ミュンヘンでの月曜日コンサートにも言及していて、ごった煮であったと評している。しかし、そこで企画してもこの程度の認識では新たな可能性は発信できないに違いない。また成功したペトレンコの寄付金にも言及していて、そうした資金を欲しそうにしているが、会員数以上には集まらないのが最大の問題点なのだ。そもそもオペラなら兎も角コンサートの映像中継などには大きな意味合いはない。

ベルリンでの来シーズンのプログラム発表が録画ヴィデオで紹介された。キリル・ペトレンコとツェッチマン支配人の二つのヴィデオである。後者ではどうなるか分からないがプログラムの実現を期待したいとして、その中でも最初のオープニングツアーと11月の二週間の東海岸旅行がとしている。二月の九月に続く新たなベルリンでのビエンナーレの音楽祭について、そのテーマ「黄金の1920年代」について語っていた。丁度スペイン風邪の終息から始まる十年間であった。全体のテーマは世紀末。

ペトレンコは私が欲していた事を語ってくれた。バーデンバーデンでの復活祭のビエンナーレは正しくは二年続けてのチャイコフスキーであって、2022年には、ロシアオペラにおける現在最高の歌手で上演される2021年の「マゼッパ」新制作に続いて、「スペードの女王」が上演されると語った。私が2021年に期待していたアスミク・グリゴーリアンがいよいよリザとしてバーデンバーデンデビューだろうか。調べてみると2021年五月六月にパリでバーデンバーデンの「マゼッパ」の演出に続いて「スペードの女王」をチェルニアコフが新制作する。指揮はバレンボイムとサブにペトレンコの一番弟子のオクサーナ・リニヴが入っていて、グリゴーリアンが登場する。先ず間違いないだろう。

リニヴがバレンボイムに代わって指揮することは増えそうであるが、十一月には2021年にバーデンバーデンで新制作されるモーツァルトの「ツァイーデ」を指揮する。まだ分からないがその準備に続いてバーデンバーデンでも彼女が指揮するとなるととても話題になるだろう。ベルリンの次期音楽監督に一番近いところにいるのが彼女である。

この先どうなるかまだ分からない。予定通り実現したとしてフランクフルトでブラームスプロを演奏してそこから飛ぶ合衆国からベルリナーフィルハーモニカーがニューヨークから戻ってくるのは11月21日(土)としてその足でバーデンバーデンに立ち寄って、22日(日)に「英雄の生涯」のコンサートか?ニナ・シュテムメが歌うかどうか?次の定期が28日(土)からなので、23日(月)にマーラーの六番も可能だろうか。一層の事アメリカ旅行が吹っ飛んで呉れるといい。



参照:
二年越しの重点課題 2020-04-06 | 文化一般
芸術的に配慮したarte新動画 2017-08-03 | マスメディア批評

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演奏会の今後の解決課題

2020-04-18 | 
オーストリアが6月1日からオペラの稽古を始めるらしい。それまでは出来ないということだろう。そして男と女が近づくような演出は禁止である。それはまだ演出で可能だと思われるが、一座席の為に20平米が確保されないといけないとなっている。ざっと五人五人並べるとそれだけで25m四方に25人。百人入れようと思うと百メートル四方の広さが必要になる。僅か百人である。

この数字はオーストリアの商店での入場制限の基準になっている。だから催し物の体積などとは合わない。最低の距離二メートルほどを取ることは大切だが、この基準をホールや乗り物などには当て嵌められない。そこで来週からの小売店開店でのラインラントプファルツの基準は一人の客辺りに10平米となっている。これならば話しになる。

1500人のシューボックス型コンサート大ホールをざっと50mx20mと考えればよい。その内舞台は17m奥行き。平土間ならば44mつまり880平米、つまり88人、ざっと150人ぐらいは収容可能となる。舞台の上は340平米、この間隔で行けば34人。充分に室内管弦楽演奏会は可能になる。実際には最初の感覚を保ちながらの収容とすれば375人の聴衆、恐らく管弦楽団は60人ほどは全く問題が無いだろう。

更に近郊交通機関の原則をマスク着用としても、その乗車時間を反映させて、三十分程毎の休憩は必要になる。場合によっては三部構成になるだろうか。少なくとも室内楽演奏会は全く問題が無い。収益性は、現行の入場料の倍額位ならばお互いの痛み分けで何とかなるだろうか。

オペラに関しては複雑なので改めるとして、少なくともコンサートに関しては現実的な開催方法は幾らでもある。この制限が芸術的な課題が開く可能性があるので極力開催に尽力すべきである。ここでなにも試みないということはあり得ない。

金曜日はとてもすごい咳になって、久しぶりに咳き込んだ。目にも来ていたので花粉だと思うが、今は紛らわしい。そして神経系にも関わるので私のようなコロナの達人でも原因が分からなくなる。胸の痛みは神経痛で、これもコロナのそれとは少し異なる。クシャミまで出て今まで抑えられたものが一気に出た。それどころか前日には下痢気味になった。

土曜日の朝は少し早めに出たお蔭で、パン屋も店内に一人、肉屋も店内に一人だけで並ばずに早く済ませられた。僅か十分ほどで大きな違いだ。十分遅く出ていたら帰ってくるのは三十分ほど遅くなっていたと思う。峠道を走り乍、コンサートホールのことなどを考えていたのだ。



参照:
投げ入れるワイン瓶 2020-04-17 | 生活
ドルトムントに電話する 2019-05-17 | 生活
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見出す乗り越える路

2020-04-08 | 
日本の緊急事態が宣言された。どうもあまり効果がなさそうだ。恐らく世界で最も何もしない危機管理となりそうだ。やはり日本人は全てを受け入れるしかないのだろう。どこの国でも何かをしたのだが、日本は独自の自粛ということで感染させる儘に感染させて集団免疫化へと進む。英国のボリス・ジョンソンが目していたものを本気でやるようだ。壮大な試みで、一体どれほどの人が亡くなるのかと心配になる。感染速度を下げる処置と言葉で言っても、日本の予想される行動様式では到底人との距離などとることが出来ないのではないか。人が動けば動くほど感染が広がる。

悪い話しばかりではない。僅かばかりの寄付をしたフリーランサー向けのキャムペーンが予定通りの金額百万ユーロ(約一億二千万円)が集まり、予定通りに復活祭前に二千五百人の申請者に対して400ユーロづつ支払われた。公的な資金ではないからこれで生活は出来ないが、それでも繋ぎにはなる。流石に文化相とキリル・ペトレンコが顔になっただけのことはある。支払額の方が多いのはそれ以前に管弦楽団協会が各楽団から集めていた資金を足したものだろう。一般公募になってからも幾つかの楽団が寄付したのは載っていた。兎に角、価値があった。まだ千人ほどの申込者がいるので募金活動を続ける様だ。

ラインラントプファルツ州の陽性者増加が前日比3.4%と半分になりつつある。しかし重症者が死亡して26.5%増加で43人となった。最終的には100人以上が亡くなるのだろう。バーデンヴュルテムベルクが、老人ホームなどの外出だけでなく接触を厳しく規制する方へと動きつつある。これはいづれ第一のヤマを越えた時の議論の土台になるだろう。ある程度感染が広まって仕舞えば、保護される方が閉じ籠もる必要があるからだ。

マンハイムでは図書館を利用の人にはメールの注文で配送するというサーヴィスを大学との共同で始めたようだ。またシュトッツガルトの教会は温かい食事を配るためにテークアウトとして聖週間には提供するらしい。こういう時だからこそ何かをやらないといけないのだろう。

カールツルーヘとバーデンバーデンの間のラシュタットのアイス屋がトイレットペーパーアイストルテを注文に応じて提供したという。イタリア人はこういう時に巧い。これ程簡単に広告してしまう。前回もバーデンバーデン市内のピッツァ屋が無料で病院に運んでいたが、次は何が出るのだろうか?

先日のキリル・ペトレンコのインタヴューで大切なことを書き忘れた。チャイコフスキーの運命交響曲第五番について語った部分である。彼は言う、「会場の聴衆がこの交響曲を最後まで聴いて、それが少し不安であったり、恐れであったり、慰めであっても、解決であっても、日々の生活から先へと乗り越える路をそこに見出してくれればいい。」。

この大切な言葉を見逃していた。なぜDCHがこの機会にこの第五交響曲を流して、特別なインタヴューとしたか。今頃その意味が分かった。



参照:
芸術ゲマインシャフト 2019-04-22 | 文化一般
コンツェルトマイスター 2019-09-01 | 音
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