Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

思わぬ金脈を当てた

2024-07-03 | 
ゆっくりでも一っ走りすると代謝がよくなる。肩も解れた、同時に疲れも出る。以前は後者しか感じなくて、肯定的な面は少なかったのだが、座仕事の腸の不調を解放させるのみならず、全身を解し、代謝を上げる効用がとても重要に感じるようになった。眼の疲れでさえもアウトドア―活動をしていれば感じなくなる。最近は運転でさえも遠くを見ることになるのでそれ程悪いことではないと感じる。ただそちらも運転時間と昼夜で条件が全く変わる。

朝晩の冷えはまだ雨が上がって天気が良くなってかららしい。現時点では余り身体を冷やさないようにしている。それでもとても辛かったが、運動して再び環境に合わせた。この辺りで再びステーキでも食して体調を整えたい。

ジャガイモをグリルしたらやはり美味かった。暑くなると到底自炊では叶わない。ステーキにも新ジャガイモを蒸かして付け合わせればよいだろう。薄いものなので玉ねぎを細切りにして、パプリカで煮ておけばプフェルツァ―ステーキになる。リースリングを合わせるか赤を開けるかは考えどころである。ジャガイモが足りなければ肉汁でヌードルも食せる。

バーゼルのシムフォニエッタの4月末の第五回定期公演の実況中継録音が先週放送された。気が付かなかったがオンデマンドとして聴けた。ジャズイデオムの曲のフュージョンのものだったので態々出かけなかった。それでもこうして聴いてみると結構面白い。真ん中に知らない作曲家の曲が演奏されていたが、ヒット映画「タール」と「ジョーカー」の女性作曲家であった。やはりそれは流石にエンタメ曲になっているが、そのプログラムのコンセプトがよく分かる。但し演奏としては三曲とも丁寧な同時にグルーヴさせるエンゲルの指揮は流石第一人者だなと思う。同時にやはり管弦楽団が見事であの楽団の首席指揮者になったのは良かったと思う。

そしてその放送局のサイトから楽団のオンデマンドサイトに行くと、昨年WDRで放送されながら番組では映像を使った作品の為にカットされていたステンアンデルセンの「トリオ」のフランスでの初演がそこにおいてある。これもスイスのでの放送からはカットされていたものだ。

そこから奥に入ると、以前にも入ったことがあるのだが、全てが非圧縮音源として再生出来て落とせることが分かった。先ずエンゲル関係を終えて、そこにあったチューリッヒのコレギウムノーヴス関連、その他、シェルヘン指揮のスイスロマンド、ヴィッテムバッハ、ホリガー指揮、更にポッペ指揮自作自演、また札幌で指揮をしているバーメルト指揮ピアソラなど、非圧縮ファイルとして揃っている。ここ迄の非圧縮ファイルが揃っている無料サイトは他に知らない。音楽もシェーンベルクからヒンデミート、クセナキス、ノーノ、ハース、ポッペ以外にアルデッティ四重奏団演奏、瑞西関連を中心にそれも超一流の演奏で聴ける。そこには何人もの自宅を訪ねたりもした作曲家や演奏家のお友達の名前のリストが挙がっている。CD以上の48000kz24Bitで数百枚以上の金脈を当てたとしか言いようがない。



参照:
永遠朝七時の目覚まし 2024-06-11 | 女
今後へ問いかけインタヴュー 2024-06-13 | マスメディア批評
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上海公演での指揮者評価

2024-06-29 | 
今晩はミュンヘンからの生中継だ。新制作リゲティ作「ルグランマカーブル」のラディオ放送である。ケントナガノが指揮して演出ヴァリコフスキーなのでそれほど質の低い新制作とはならないだろう。しかし初日に私は出かけていない。それが全てを語っているだろう。

要するに今晩の公演で期待されるものがそれほど高くはないとなる。同作品は現支配人のドルニーの先生のモルティエ―支配人時代に作曲者臨席の下で上演されて、作曲家がかんかんになっていたのを具に見た。問題点は指揮者のエサペッカサロネンにもあったのだが、それよりははるかに上手にやると思う。

しかし、現在のあの座付き管弦楽団の最上質の音楽をそこから引き出せるかどうかはとても疑問に思っている。コロナ期間中にオールスターガラ公演でナガノもペトレンコが形作った楽団を指揮したのを聴いていて、その出来ることは分かっているからだ。

決して悪い結果にはならないとしても、態々ミュンヘンまで出向くだけの価値がないという判断である。勿論先ずは放送を聴いてそれなりの成果を吟味したいとは思う。

ベルリナーフィルハーモニカーの上海公演第二回目のペトレンコ指揮演奏会評が出ている。ペンパイ新聞のネット版のようだが、書き手は张可驹という人でとても良い。昨秋の日本での公演でここまで書けた人は新聞以外でもあったろうか?文字数もドイツの高級紙に劣らず、ジャーナルとしての詳細だけでなく、指揮者ペトレンコの中共デビューの意味をもしっかりと行間に書き込んである。

ブラームス「悲劇的序曲」に始まり、タンホイザー、そして「英雄の生涯」のプログラムで、ペトレンコがこの歴史的な楽団と道を歩むことになったその意味が改めて語られている。その意味を目の辺りにしてショックだったと書いている。それはDCHにて知っているつもりだったものが、やはりライヴでは違ったというものだ。

そしてその歴史を重ねるということが決して守りでなく攻めだとしている。それはその聴衆にその時代に反応しての演奏活動であるということを明言している。特にそれがあまり演奏されなかったレパートリーであるよりも核のレパートリーを演奏するときにより、新たなペトレンコ時代を評価している。

その美学的な方向性が、フルトヴェングラーやカラヤンの時代への憧憬に捧げられることはなく、ペトレンコにおいては指揮者が楽団との協力者であるということだとして、つまり指揮者の意味が変わってきていることを断言している。そしてその指揮に委ねる楽団の相違がオンタイムで表され他のがその日の演奏だとしている。

まるで、私がエンゲルにおける指揮者の機能が全く異なってきていることを書き手が読んでいたかのように、ペトレンコの指揮者の立場はプロデューサーの様であるとしている。(続く)



参照:
别特连科与柏林爱乐:王牌之演,以攻为守, 张可驹, 澎湃新闻 vom 28.6.2024
我について来る認識 2024-06-28 | アウトドーア・環境
チャーター飛行の話題 2024-06-27 | 雑感
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飽和するぬるま湯環境

2024-06-19 | 
今回の旅行の目的はヘルクレスザールでのBR交響楽団であった。今迄何回も機会を狙っていたが中々都合が合わなかった。日本で取り分け人気のある同放送交響楽団は何度も聴いているが満足した演奏会は殆どない。精々コリンデーヴィス指揮の演奏会ぐらいだったか。それにしてもプログラムすらあまり記憶にないぐらいでその演奏の質が知れていいたことになる。

そして創立以来のこの楽団を育んだホールでの演奏を初めて聴いてとても多くのことが分かった。それだけでも大きな価値があった。新ホールが云々されている今日その意味をもう一度考えてみたい。

先ずホールの響きは抜群だ。しかし同時に直ぐに音が飽和しまうことが分かった。要するにサチッてしまうのである。ピアノソロぐらいなら何とかなってもバロック編成までで、大き目のピアノ協奏曲ではもう使えない。要するに放送交響楽団では使い物にならない。

そういう所で名演奏の歴史を重ねてくるとどのようになるか。それがこの交響楽団の独自のアンサムブルである。何故前任の故ヤンソンスが楽団にも聴衆にも人気があったのかの背景事情もそこにあったのだろう。

似た例では合衆国のビッグファイヴの一つクリーヴランドの楽団が指揮者セルによって育てられて唯一無二のアンサムブルを形成している背景事情に取り分け似ている。あそこのホールも直ぐにサチッてしまうようだ。だから所謂ハモることで音が飽和して仕舞って大きな編成の演奏が出来なかった。それを如何に可能にするかでその伝説のアンサムブルが可能となっていた。セル指揮のそれは今でも日本で一種のカルトとなっていて、その音楽が尊ばれているのである。

同様な現象がこのレジデンス内のホールで演奏してきた放送交響楽団にあって、そして同じように日本の音楽愛好者から専門家までが共通して評価する音楽となったのである。そこの残響の在り方は量感も時間も充分であるが美しく濁りはない。舞台上での跳ね返りのように客席では聴こえないという事象もあるようなのだが、そうした条件が音を乗せていくようなアンサムブルとなっていて、がっちりと拮抗させるような合奏とは全くなっていないのは歴史的である。

そういう合わせ方はまさしく同じレジデンス内の歌劇場で為されるべきもので、管弦楽では精々全古典派迄の音楽でしか当て嵌まらないのである。歌劇においては飽く迄も声に合わせることが最優先なのだが、管弦楽ではそれによって何かを表現しなければ全く意味がないのである。そうなるとその表現力では限界がある。

そして親方日の丸的な楽団運営で、事務方も現場もぬるま湯感が甚だしく、世代交代も順々にしか進まない。今や劇場座付き楽団でもそのようなことでは全くなくて、世界一を守る為には可也の意欲が見られる。明らかに放送交響楽団という存在が時代遅れの回顧的なものになりつつある好例である。そのような楽団には新しい音楽すら演奏は不可能だ。



参照:
ブラームスのセレナーデ 2024-03-15 | 音
陽が射すうちに一仕事 2023-10-20 | 暦
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なんじゃらほい交響楽

2024-05-19 | 
ざっとシネマプログラムをみた。ヴォーンウイリアムスの曲は全く分からない。あれだけグリーンスリーヴスとか書いている作曲家なのに、なにか可笑しな節回しで、五度、四度が強調されつまり五音階となって、まるで中国雑技団である。交響曲として使われると笑うしかなくその展開も当然のことながら違ったものになる。

お勉強にプレヴィン指揮のものを聴いたのだが全然曲を掴んでおらず、このような曲なら演奏するに及ばない。タルモがどのように指揮するのかは分からないが、作曲家がラヴェルとのところに学んだとする偽印象派風にも響かない。とても中途半端な印象だ。この曲をプログラミングした真相は体験してみないと分からない。

作曲的にも最初の映画音楽組曲「眩暈」の方が優れているぐらいで、これはまた問題だ。明らかに名演を期待したいのは「ツァラストラはかく語りき」の演奏で、映画に使われた云々を別にして立派な演奏を期待した。

手元にあった音源はEMI録音で大成功したルドルフ・ケムペ指揮シュターツカペレドレスデンの演奏で、それに針を下ろしてみた。第二部からB面になるもので、音響的には古い東独の楽団録音として成功している。選集のように売っていたのだが、その中から2枚だけ購入していた。なによりもがっかりしたのは拍子感が危うくなる指揮で、地元生まれのオーボイストでゲヴァントハウスでも1929年から吹いていたようだが、その音響は身についてはいても真面な指揮の下で演奏していなかっただろうと思わせる。要するに和声の流れの中で適当にメロディーラインを移していくだけの指揮で一流指揮者のものではない。

あまりにも酷い演奏なので耳直しにメータ指揮の堂座付き楽団のライヴ演奏を聴くと超一流の指揮だった。この座付き楽団では管弦楽的には名演を聴けることはないのだが、これは素晴らしい。嘗て1930年代にベームが世界トップクラスのブルックナーの録音を残しているのだが、流石にその老指揮者からニキシュ指輪を継承されたように、そうした歴史的な演奏を指揮している。

声部の扱い方が自由自在で、その楽譜からなるべき音を全て分かっている指揮で、その和声の響き以上にその音の繋がりが明白に読みだされている。成程メータは若いころからロスでもこの曲を録音していて、現在これに匹敵するだけの指揮をする人は殆どいないかもしれないが、映画音楽に使われようがどうであろうとも、なるべき音を鳴らしているのはスヴァロフスキー門下として音を各拍ごとに腑分けする習慣をつけているからで、そこから初めて必要な音がどの声部から響いて来るかを拍ごとに認識しているからに過ぎない。指揮者の基本の基本とも思える準備をして指揮台にあがっていたという事である。

たかがそれだけでもある。さて今回指揮のタルモはそれが指揮の技術を越えてすんなりとその通りに演奏させることが出来るかどうか。始めて客演する放送交響楽団でどこまで振り尽くせるかである。シベリウスを参考にして演奏するのかな?



参照:
生中継留守録音の心得 2024-05-16 | テクニック
最後にシネマ交響楽 2024-03-01 | 雑感
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「愛の宣誓」の口籠り

2024-05-18 | 
久しぶりにギドン・クレメルの演奏を聴いた。四半世紀以上ぶりだ。30年前にフライブルクで聴いて以来かもしれない。ピアニストとのアファナシスとの共演で、音を出さない所の音を聴かせるシューベルトで、こういう演奏があるのかと思った。それ以来アンサムブルを形成してとかで殆どソリストとそては引退同然だったと思う。

若い時のシニトケのショスタコーヴィッチが亡くなって暫くしてのその演奏が今でも記憶に残っている。そして今回もアカデミーのアンサムブルをどのように率いるかがとても楽しみだった。結果的には完全にアンサムブルに乗っかって遊ぶような演奏だった。

一曲目のブルックナーの五重奏もよりそのアンサムブルとの乖離は激しかったのだが、マーラーのアダージョはその音楽の対位法的な特性からより興味深い演奏となっていた。その弦楽は全く若い時から変わりなかったことを改めて確認した。よりそれが力が抜けた形での演奏で、このアダージョでの音の抜け方に最適で、こういう弦楽合奏が大交響楽団で出来たら理想的な演奏だと思った。

当晩のプログラムには、この音楽会のタイトルであった「愛の宣誓」の意味が妻のアルマが既に建築家のグロピウスのところに走っていたことを説明していた。するとこうした音楽の構成もよく分かる演奏で、なにも全ての音を同じようにはっきり発音すべきではないという楽曲とその演奏の典型で、ソヴィエトでオイストラフの弟子として紹介されていたがそもそものリガの家庭環境があまりに違い過ぎて、母方の祖父はスェーデンの弦楽の教祖みたいな人らしい。兎に角、音楽の語り口があまりにも堂に入り過ぎていてあのような演奏に合わせられる人はそこいらの素人ではいまい。

休憩後は下りたので私の前の席に座ったのだが、私を見て目を丸くしていた。演奏中から気が付いていたとは思うのだが、山本耀司を着るという彼のよれよれの衣装よりも私の衣装が派手ということだろう。聴衆の一人が「どこで買ったんか」と尋ねた。また入り口で休憩後に入る時に時々検査していたお姉さんに見せると、アイリメンバーと言われ、なにを覚えているんだよと返したくなる。

ここ暫くで、靴も適当なものを新調したので、選挙候補者ではないが演奏家の衣装よりも目立つで突しようかと思っている。例えばクレメルの横に座っていたおばさんはアカデミーの講師でもあるアンティア・ヴァイトハース女史だったようでブロンド乍立ち振る舞いやクレメルとの話しかたもとても地味な人だ。調べると私の友人の仲間だったようで共通の知り合いがいたのだった。

そして後半のブラームスの演奏を聴いていて、最後のチャルダッシュのようなところで真後ろからこうした世界の頂点の人の拍子取りを見ていてとても興味深かった。女史の方もやはり分かったがやはり拍子感がちとまた違う。良く目の前に座ったりする作曲家はこちらが認識するほどには身体を動かすようなことはないのだが、やはり演奏家違うのだ。

アカデミーの生徒たちはこうした大名人に目を振れない様にアンサムブルを作っていた。例え一緒に演奏してもそういうこともあり得るのかと思った。それでいうとやはりプロのアンサムブルの演奏者は自らが細かくリズムを取って合わせている。こうしたアカデミーはソリスト志向が多いからであろうが、こうした機会があってもその程度しか活かせないのかと意外であった。



参照:
プファルツの森から挨拶 2024-05-17 | 女
重要なその視座と視点 2024-05-12 | 文化一般
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虻蜂取らずになる活動

2024-05-10 | 
承前)シュヴェツィンゲン音楽祭、アンサムブルレシエクレに関しては若干否定的に言及した。しかしその興行的な価値だけでなく創立者指揮者ロートとの活動の芸術的な価値に関しては改めて考えないといけない。

今回の二夜に亘るプログラムにおいてもいリゲティとモーツァルトを対照的において、この楽団が得意とする時代ごとに使用楽器とピッチを変えての演奏の価値である。因みにモーツァルトは430Hzが採用されていてハムマークラヴィーアが使われた。リゲティは442Hzで近代的な楽器が使われた。

その音色的な差は、特にモーツァルトということでそれ程感じさせなく、その奏法に関してもこれといった効果は示せていなかった。現在の演奏会において近代的な楽団がモーツァルトの交響曲などを演奏するのは特殊であって、それが成功する例も少ない。そしてそうした専門の楽団でもないので、取り分け音響的な期待に応えることもなく、ハフナー交響曲においてペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカー演奏と比較してなんら本来の音楽を奏でるものではなかった。

特に今回の様に青年のモーツァルトがここで学んだそれを考えれば、今回の演奏はヴァイオリン協奏曲ト長調も含めて寧ろ現代風で当時鳴り響いた音響ではないことがひしひしと感じられた。なるほどソリスツのファウストの試みで楽団もそれなりの音を創造していたのだが、まだまだ遠いという感じが否めなかった。

それはよりリゲティの作品において、その演奏法の洗練などに至らないと言及した。そして指揮者ロートの活動はここに大きく拠っている。客演で大きな楽団を振ったり、または常任としての活動もここでやるほど徹底できないということでもあろう。来年の聖霊降臨祭のプログラムも発表されていて就任するSWRを振るのだが、ブーレーズからラヴェル迄を生誕百年の「ノタシオン」を軸に形成している。二つ目のプログラムはブーレーズとブルックナーを組み合わせていて、それでツアーにも出かけるようだが、若干上のプログラミングにも似ている。

それらから予想すると2025年3月のブーレーズ生誕百年演奏会はロート氏が振るのではなくて、ベルリナーフィルハーモニカー関係者が何かを行うのだろうか。春の復活祭のブーレーズカフェーの最初を聴き逃したので不明である。

演奏会前のレクチャーで、リゲティのことも話していたのだが、嘗てのレートナイトなどでの話しの様にそれ程まとまった印象を受けない。ドイツ語があまり出来ないことがその理由かと思っていたのだが、どうもそうではなさそうで、フランス語でのそれも聞いてみないと判断できないのだが、若干の不明瞭さが付きまとう。

まさしくこの指揮者がブーレーズのその任の跡を継ぎたいと思ってもそのようには指揮出来ないのはなにもあのリズムの精密さや明瞭さの技術的な問題だけでなくて、音楽的な思考に準拠するものだと理解した。こちらもほぼ面が割れて仕舞って、評価に注目されるとなるとその活動にもより慎重にしかし重要な点を指摘していかないといけないと思っている。



参照:
主役を担うのは歌える歌手 2022-12-22 | 文化一般
マフィア連中の試み 2021-04-06 | マスメディア批評
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成功する為の秘密

2024-05-07 | 
走行距離往復100kmなかった。やはり倍のバーデンバーデンに出かけるよりも時間的に楽だ。それでも帰宅が21時を過ぎていたのは、中継実況から省かれていたピアノのバッハアンコールがあったからで正味2時間を休憩を入れて裕に過ぎていた。二人のソリスツを入れるコンサートは結構稀である。

この指揮者ロートが率いる楽団レシェクレの演奏会は二日続けて、モーツェルトとリゲティを合わせて、ヴァイオリンのピアノの協奏曲を二曲づつ演奏した。毎日通うのも面倒で二日目だけに出かけた。

ヴァイオリンのイザベレ・ファウストはとても日本で人気のあるドイツのヴァイオリニストで、今回初めて聴く。初日はリゲティの協奏曲を弾いて、二日目はモーツァルトのト長調の協奏曲だけだった。それでもその人気の秘密も実力もよく分かった。

シュトッツガルトの人で地元の応援もあるのだが、此処まで一流舞台で活躍するようになるだけの努力をしている。それは古楽器奏法であるとかやはりやれることをやり尽くしているので、指揮者ロートがレクチャーで語っていた様に、古い音楽も新しい音楽もガット弦で弾いてしまう珍しい奏者で、いつも練習をしているので尋ねると恐ろしいと語っているというのだ。

そうした努力は演奏に表れていて、一寸した弓やアーティキュレーションを完成させるのにとても時間を掛けているのがよく分かる。特に一楽章のそれ等はとても上手くいっていて、それをやはり古楽器奏法も売りにしているこの楽団の演奏をとても喚起していた。

言い方を変えるとそれぐらいに喚起されないとこの楽団はそこ迄やれないこともよく分かった。一つは指揮者の責任でもあるのだろうが、楽団の弦楽陣もそこまでやり尽くせるアンサムブルには達していなかった。

それは、リゲティなどでは顕著で13楽器の為の協奏曲はソリスト的な要素も必要とするが、勿論この楽団よりも遥かに慣れていて上手に弾く楽団もあり、モーツェルトはこれまた近代的な超一級の室内楽団からバロックの専門楽団迄の数多い演奏形態と頂点の演奏を繰り広げる団体も少なくない。そういう中で興業的に成功しているのがなによりもの成果だろう。

全く同様にヴァイオリニストのファウストもそうした市場の中で独自の立場を築いてきていて、同時にそれを維持するための努力が手に取る様にとても見えるという事である。そうした意味合いからも親近感もその姿勢にも共感する聴衆も少なくないのだろうと思う。

アンコールで弾いたピーゼンデルのソナタは誰の曲かは知らなかったのだが、テレマンやバッハと同時代の作曲家でバイエンルのアンスバッハの楽団の小僧からトレッルリなどに習い、ドレスデンのカペレのマイスターをしていた人である。こうした選曲にも演奏者としての個性が感じられる。よくやっているというしかない。(続く



参照:
清々するセンスのなさ 2024-02-17 | 文化一般
胸が高鳴るほどの期待 2024-03-29 | 音
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オーディオ的考察の叩き台

2024-04-27 | 
土曜日の午後から暖かくなる。零度近くから二桁を一挙に通り越して摂氏二十度に至りそうだ。陽射しが出たら走っておきたい。洗濯日和になるだろうか。

音のことをもう少し考えてみたい。車両の走行のそれを防音グラスで遮断するとどうしてもマスキングされてノイズキャンセラーのような不思議な音になると書いた。その件をもう少し考察する。先ずは、高級自動車メーカーが音作りをしているというのは一般的に認知されていると思うが、するとこの場合まず最初に風切り音とタイヤの走行音とエンジン音を下げる一方絶対留意しているのは緊急車両のサイレン等への配慮に違いない。その領域で聞き落とさない周波数域は通るようにしている筈だ。

周波数域で360Hzから630Hzの嬰へから嬰レ間の基音が大切なのだろう。風切り音は高く4kHzから16kHzとして、車のエンジンの回転は分で1200から6000のようなとすると秒で20Hzから100Hzが基音になる。タイヤは7Hzから35Hz。

これだけ見れば、サイレンの域を空けるとやはりエンジン音の倍音成分は可也出そうである。

今回試乗した車の防音グラス仕様には4Dシステムというオーディオセットが使われていて、運転席の椅子の中にも振動を出すスピーカが埋め込まれているらしい。印象としてはやはり上には綺麗に抜けないオーディオだと感じた。理由はやはり風切り音を抑えるための変調があるのではないかと思った。

マイバッハなどの上級機種では室内のつまり外界からの騒音をそこにマスキングをかけるように逆位相の音を流せばそれで相殺されるように所謂ノイズリダクションになっている様だ。

このシステムはまだまだ総合的な完成への一コマになっているのだろう。騒音だけでなく楽音自体も弄らなけならないとなると可也難しい。

なるほど窓を閉めた車を走行中に小鳥の鳴き声などを取り分け聞いているのではないが、自然の外界の環境音は窓で遮断された中での作られた環境を作っている。そこから窓を開けた状態で、自車の路面からの走行音やエンジン音などが混ざる音には慣れていて、窓を閉めてのそれもそれほど違和感がないのと、ある周波数域を抑えた室内音との差は大きい。

更に電気モーターには歩行者保護の為に音が付けられて、そしてエンジン音との間で廻り方にも千差万別の相違がある。

最大の問題としてサンルーフの風切り音が取り分け喧しく感じたのもまさしくそうした特別な音響条件の影響があったからだろう。同時にオットーエンジンの排気音にはスポーツ音というのが記されていて、要するに遮音はただ空気を密閉するというだけに留まらない。音響工学的な考察においてもとても奥が深いテクノロジーである。



参照:
空気羽根で床を上げる 2024-04-25 | テクニック
祭りの喧噪もなんのその 2018-06-10 | 音
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時代の耳への観想

2024-04-20 | 
承前)テクノによるリズムやその感覚が述べられて、その時代のそれへの観想がある。つまり古楽においてのその奏法の研究は重要だとして、それでも作曲家が望んでいたその響きは実際に今日の耳に正しく響くかという問いかけである。これは音楽のドラマテュルギーとしてのクライマックスやアンチクライマックスのその弧の描き方等への俯瞰的な認識とも繋がる。

その実例として最近ベルリンのフィルハーモニーで演奏された「ドイツェスレクイエム」が原典主義で演奏されたのを聴いてのエンゲルの感想は、如何に演奏実践的に立派でもその演奏はその大きな空間には全く不十分だったと語っている。調べるとバルターザー楽団の演奏会のようで。同じモルティエ―門下であるが、恐らく正当な批判なのだろう。ヘンゲルブロックはフランクフルトで最初からよく知っている指揮者であり、そのやり方はよく分かっている

エンゲル自身は言及していないのだが、そこで音楽劇場のドラマテュルギーがこれまた大きな指針となるという重要なファクターがその脳裏にあったに違いない。それゆえにハース作三部作が人類の遺産ともなるという我々の主張もなり立つ。

それに関連してマイニンゲン版のブラームスツィクルスの成功から、もし会えるとしたらブラームスに質問したいとして、ルバートの使い方とヴィヴラートの掛け方をヨアヒムのそれを以って教えて貰いたいと話す。ブラームスの演奏実践に方々から関心がもたれているのはなにも偶然ではない。同時に教養もあって分かっているヨアヒムとはブラームスの協奏曲で共演したいと、ブラームスの録音を研究した結果からも語る。

ブラームス交響曲四番は上海でペトレンコ指揮で再び演奏されるが、5月にはエンゲル指揮でクラングフォールムヴィーンが新しい音楽を北京の音楽院で披露するようだ。それもこれも歴史の中での考察と実践であることに変わりない。

また知られざる作品として、2014年にフランクフルトで大成功したご当地作曲家テレマン作「オルフェリウス」の通奏低音の現代的な書き換えを自身で行ったそのテクノ的推進力、また「マスケラーデ」が好評ブルーレイ化されたニールセンの交響曲、ヴェバーでも「オベロン」など、またアルノ・リュッカー著250人の女性作曲家から新たな出合いなどを語る。

今回のインタヴューで何故エンゲル指揮の音楽劇場はバカ受けしてや演奏会も広い層へと一様に訴えかけるかの秘密が明かされたような気がする。幸いにも指揮者はホームワークで勉強する時間が持てて、素晴らしい家族と一緒にいる時間があり、東海へとヨットで水路を抜けて出れるベルリンでの生活を語り、スイスではないので冬のスキーだけが出来ないとそのライフスタイルを明かす。

年齢からしてここ十年程の活躍が今後の全てであるだろうから、やれることを全てやっておいて欲しい。ペルゴレージの名も出てきているのでまた何かやってくれそうで、クラシックなコンサートも面白そうなものが期待できる。(終わり)



参照:
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
歴史的に優位な音楽語法 2022-07-07 | 音
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ブーレーズの死へグルーヴ

2024-04-18 | 
承前)新しい音楽への認識を問われ、具体的な例が挙げられる。指揮者エンゲルの学生時の論文として、同時代の音楽と新しい音楽へのテーマもあったようで、自然な音楽「小さな夜の音楽」として、メシアンでの例からそもそもは天井と地上を結ぶ使者の鳥の歌自体が抑々調性音楽ではなくて、オーヴァートーンなどの自然がそもそもの人類の音楽だったと考える。

バーゼルでは首席指揮者として、最初の四年間の計画として1950年以前の音楽は取り上げないとした。その背景には、アドルノなどの軍楽のアンチとしてそうした明晰さが疎まれたその戦後の反動期を排除するとなる。

しかし同時に昨今の特にアメリカなどで作曲されているネオロマンやネオクラシックなどをやるぐらいならブルックナーやそのものバロックを聴いていればいいのだと言明。これを聴くと流石に僕のお友達だと嬉しくなる。

そして音楽市場での興行のふがいなさを嘆く。つまりエンゲル自身が指揮してシュトッツガルトの「アシジの聖フランシスコ」で街中を巻き込んでの公演などは新制作「魔弾の射手」ではあり得ないことで、ベルリンのテムペルホーフでの「メデューサの筏」での追加公演など、真面に上演する時のその興行的な価値を証明しているとぶちあげる。

それでもベルリンなどではユロウスキーが興味深いプログラムを放送交響楽団で行っていたりと各々にはあるのだが、まだまだ駄目だと批判。ユロウスキーも熱心にエンゲル指揮の公演に来てアシスタントに講釈しているぐらいなので、もう一つの手兵放送交響楽団に客演で呼んで欲しいものだ。

そこで、20世紀の新しい音楽への持論を展開する。つまり、その世紀はリズム的な魅力的な展開があまりなかったとするのである。ストラヴィンスキーにはそれがあったが、その後の12音楽でも更にトータルセリアルになると最早音色にしか興味がなかったとなる。ブーレーズは死んだである。

しかしその後のポップスの展開に見るようにリズム的な否パルスによるドライヴがグルーヴ感こそが大きな魅力になる為に、どうしても音楽が堅苦しく感じられるようになったというのである。

当然のことながらバーゼルでの10年にかけて育って来た良質の定期会員層へ広い帯域でのプログラムを提供する一方なにも大衆を動員するという意味ではなく、難しい音楽つまり新たな音への耳を拓く音楽を提供する。態々遠くから駆けつけてくれる人がいる - 私のことでしょうか。

上の理由からヴェルトミュラーの作品などは素晴らしいと語る。そうした音楽の推進力で以って、手応えのある音楽も受ける可能性があるのだという。それを作曲家にも幾らかは考えて欲しいという言い方をしている。確かにあそこまでの初演魔になって仕舞うとそこまで言う資格はある。(続く



参照:
音楽劇場的な熱狂とは 2023-06-29 | 音
長短調性システムの解放 2023-09-23 | 音
エントロピー制御の作曲 2023-12-26 | 音
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退屈だった古典曲カセット

2024-04-17 | 
ティテュス・エンゲルがインスタグラムを出していた。音楽誌ロンドでのインタヴュ―の紹介である。

家庭で音楽が流されることが多く、父親が沢山のカセットを持っていて、ヴィーナークラシック音楽が流れていた。車中でもモーツァルトが流されていて、退屈に感じて新しい音楽に向かったのだが、この間に真面目に勉強するようになると、決して単純ではなく天才的な音楽で、寧ろ新しい音楽に多くの気の振れただけの無意味な作品でしかないかというのを認識したと語る。

ローランド・ヘルマンが階下に住んでいて、チューリッヒのオペラで歌っていたことから音楽への誘いとなり、ヴァイオリンを習う。彼と合わせて音楽をやったり劇場に連れて行ってもらうようになり、音楽へと傾倒。しかし何よりもの切っ掛けになったのはクルタークの演奏会で新しい音楽との遭遇。

子供の頃からのヴァイオリンがコントラバスへと変わり、そしてフリージャズへと関心が向かっていったのだが、学生管弦楽団を指揮したりしていて、中等教育終了指揮でメシアンの「アンスリエール」をテーマにして、未亡人のロリオのところまで行ってインタヴューをした。

そこから音楽学校に行かなかったのは、指揮者になる為のピアノを始めたのが遅かったことからもう少し練習時間の必要性があったゆえと、ギムナジウムでは場所柄経済に向かう人が多かった中で、哲学への関心からそちらに向かったから。音楽学を学ぶことで、その後の実践で大きな力。そして東ドイツの経験豊かな劇場指揮者クルティックに習うことで、学生楽団とは違う当時はまだ沢山残っていたプロ楽団を振る機会が多かったことが非常に良い実践となった。学生として最初にペリナー交響楽団を振ったのはベートーヴェンの五番と六番でのデビュー。

ツェーナでイリア・イムジンのマスターコースで習ったのは制限された動作で下から上へのピックアップドサウンドの指揮で中和して繊細な美しい柔らかな響きを、ドレスデンでサーデーヴィスの自由な絵描き超絶指揮棒術も経験して練習よりも息を合わせて演奏させることを、今でもそのやり方はいいと思うことが少なくない。先ごろ亡くなったエトヴェシュには新しい音楽を習い正確な指揮で大人だった。指揮者は生涯勉強で、今日も音楽会に行って同僚のそれを観て、過去の歴史的な映像もみて学ぶ。

最初にアシスタントに申し出たのはドイツェオパーでの制作時にマルク・アルブレヒト指揮の「アシシの聖フランシスコ」でとてもいい経験をした。ペーター・ルンデルとは新しい音楽を、またカンブ ルランとは、モルティエ―との関係にもなって、マドリッドでのデビューとなった。

新しい音楽への誘いは、先ずは自分自身も興味津々の人間であったことがあるが、新しい音楽自体は前述したように様々で、現在バーゼルのユニークな管弦楽団で、例えばミニマルの今迄制作に関わったグラスやアダムスなど全く難しい音楽ではない。そうした認識にはアドルノなどのナチ政策への反動が背景にあったと語る。和声音楽自体が西洋音楽の核にあったとしても、ここ数百年のもので、ハースのオーヴァ―トーンなどを考えれば、そうした伝統的なものは全体の中で捉えるべきだとの認識を示す。(続く



参照:
ミンガス作演奏の第一人者 2022-09-21 | 文化一般
痛みを分かち合う芸術 2022-05-27 | 音
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小澤征爾による杮落とし

2024-04-15 | 
1986年10月30日のサントリーホール杮落とし公演中継映像を観た。ベルリナーフィルハーモニカーがカラヤン以外で初めて外国公演で振った時だった。個人的には二日前の初日のブラームスを聴きに行った。

この生中継はラディオは録音をしたが、映像を観た記憶はなかった。会場の雰囲気が面白い。音楽評論家らも座っているのだが、一般の招待客らしきはいかにもカラヤンではないので不満な表情が隠せない。若い皇太子が来ているがその程度のものだったのだろう。小澤はそれぐらいにしか扱われていなかった。しかしその指揮は立派で、現在でも客演でこれだけ振れる人はいないだろう。

八艇のコントラバスの大編成でのシューベルトは当時のカラヤンサウンドを彷彿させる。それでもお客さんのウケは今一つだ。後半は昨年のペトレンコ指揮による初ツアー時と同様に「英雄の生涯」が演奏された。これに関しては当時の放送から違和感があった。今回、旧年中にペトレンコ指揮を1979年のカラヤン指揮に続いて聴いたこともあって、その問題はよく把握できた。

先ずは冒頭の「英雄の主題」の出し方からして問題があった。これはどのようなテムポを取ろうがとても勢い感が重要なのだが、三連符を三拍四拍で二分音符へのリズム取りが悪い。これが全てで、小澤に限らず如何に斎藤がシステム化しようともこれを上手に振れないのだろう。要するに律動によって音楽が流れないに尽きる。斎藤秀雄がこの曲に全てがあるといったのはそれをも含んでいたのかもしれない。

なるほど大編成での多層に渡る音情報を取り出すのは管弦楽団指揮技術の極地なのかもしれなく、実際に音響のプレゼンスを第一に演奏させている。同時にカラヤンの影響を受けてか、テムポルバートなどの歌い込みで、そしてそのフレージングを活かすために余計に拍子感が鈍ってくる。流石にカラヤンはそこがその芸術だったのだ。無関心なお客さんも知らずにその差を感じ取ったに違いない。そこが一般的に日本で謂われる「小澤指揮は内容がない」の内容なのである。

曲間に当時のカラヤン追っかけのおばさんと楽団員やマネージャーへのインタヴューなどがあるが、そこで「小澤は20年来の楽団の友達のようなもの」としていて、その友好関係の中で日本の指揮者へのそして独管弦楽団への称賛を期待したい。」と語っている。このことはペトレンコが執拗に繰り返し発言している昨秋の「英雄の生涯」のツアーでの成功と事前に語っていた「(ダイシンを)日本人が誇りに思う。」との発言に対応していて、この映像を確認していた可能性がととても強い。因みにコンサートマスターの安永は取り分けここではソロの準備をしていた様で上手に弾いていた。

急遽のツアープログラムだったからか、オーボエも前半は若手に任せていて後半だけロータ―・コッホが吹いている。そして、楽屋に戻ると誰を立たせるかマネージャーに確認している。下げた指揮台に楽譜を置きながら全く見ない格好をつけているのもカラヤン譲りで、更に劇場でも振っていない当時の新進指揮者にありがちなお馬鹿な態度を貫いていたからだ。

これは、新たに編集されて楽団のメディアとの共同制作となっているので、いずれハイレゾでDCHにアーカイヴ化されるだろうか。但しテープヒスの入ったアナログ録音で、映像もあまり良くないようだ。しかしサントリーホールは反射板の改修前は跳ね返りがなくて演奏はし難かったのだろうが、マイク乗りは良くとても素直に響いている。
Seiji Ozawa & Berliner Philharmoniker 1986 at Suntory Hall / Schubert: "Unfinished" Symphony

R.Strauss: Ein Heldenleben / Ozawa · Berliner Philharmoniker




参照:
カーニヴァル前に棚卸 2024-02-12 | 雑感
現代的過ぎた小澤征爾 2024-02-11 | マスメディア批評
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実行のプログラミング

2024-04-14 | 
承前)ブラームスの「ハムマークラヴィーアソナタ」が弾かれた。この曲をプロフェッショナルな演奏で生で聴くのは初めてだったと思う。このプログラムのモットーであった青年の息吹は今回の演奏だったからこそ全身に浴びれた。何故この曲がそれほど演奏されていなく、リヒテルなどの録音で聴かれていたかが明らかになる。

そういう演奏は本当に楽譜からその音楽を読み起こしていないと叶わない。要するにコンセプト通りに弾こうと思っても発想が現実に音としてならない。このピアニストが必ずしもブラームを得意としている訳でもなく、そのピアニズムに合致したわけでもないだろう。但しはっきりしているのは、ペトレンコ指揮でブラームスが演奏される時の様に余りにも浪漫的な響きというものを求めることなく、和声的な支配関係にも極力留意することで、その漸くブラームスの音楽が洗練されて響くことになる。

そうした浪漫性というのが、前半ではラプソディ―一曲に絞った訳だが、そのハンガリーのリトネロであるロンド形式のロ短調の作品79-1は情熱が燃え上がる訳なのだが、こういう曲は実際には後年の作品として事始めの曲でシューマンがブラームス自身が軽やかな技巧で弾いたとされたように、中々そのオスティナートの扱いなどよりその作曲家自身の演奏が聞こえる様でなければいけないやはり通も楽曲実践が要求される。
Brahms | Rhapsodie en si mineur op. 79 n° 1 par Alexandre Kantorow


そして、そこからのリストの二曲がこれまたそのクライマックスへの持って行き方やその浪漫性の形式としての実践は、例えば自由自在のトリフォノフなどの演奏に比較する迄もなく、よりその創作におけるその環境を実感させる。

そうした演奏実践がどこから来ているかというと、どこかで習ったとかということではなくてしっかりと最初から譜読みをして創作をつぶさに見ているということで、決してステレオタイプな演奏とはならないことに証明される。まさしくアルフレード・ブレンデルなどがベートーヴェンのソナタを自らの楽器を使って端から洗い出したような作業にも似ている。

つまりこうした本格的な演奏家にとっては、バッハでもモーツァルトでもリストでもブラームスでも、バルトークでもそこに最初から歴史の中にあるのではなく、再創造という知的で尚且つ職人的な作業が為されているということに過ぎない。

その点からもリストの演奏は、アラウのロ短調ソナタからポゴレリッチそしてブレンデルなども聴いているのだが、改めて見えてくる背景があってとても興味深い。それはトリフォノフが素晴らしい演奏をするのとはまた意味が異なる。要するによく考えられていて巧い。そして何よりも昨今のピアニストの様に音を割ることが全くない。それは大ホールでも変わらないだろう。

そこにそうした歴史的視座を踏まえたバルトークのラプソディ―がとても知的なリズム的な描き分けで演奏されるとなればそれだけで超一流のリサイタルである。この優れた一部修正されたプログラミングが実行される時がライヴなのである。



参照:
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
とても革新的な響き 2021-01-16 | 音
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声が聞こえる大きな手

2024-04-13 | 
隣に座ったおばさんが真央ちゃんのことを褒めた。小さな手でという称賛だった。恐らくとても感嘆を受けたのだろう。その時の優勝がカントルフだったんだというので知っているよと答えた。

カントルフは、勿論手も大きいだろう、そしてトリフォノフのように自由自在に弾ける人でもない、だからみっちりとレパートリーを作っていく人のようでその点ではブレンデルなどにも似て本格派である。そのピアニズムは全く違うのだが、その時にリサイタルで弾いてくる作品から十分に創作者の意思は伝わる。

先ず冒頭にヴァイヴのような棒を持って現れたのでなにかと思うとそのマイクを握って独語で出来ないからと断ってから英語でちょっとしたプログラム変更を伝えた。先ずこれで少し驚いた。その態度や喋り方がとても率直でそしてとても自然な感じで好感を皆に与えただろう。中ホールのインティームな感じも功を奏しているのかも知れないが、やはりその人の実物大の人間性だろう。芸術家というよりも職人的な誠実さがそこにはあった。

ブラームスの「ラプソディ―」の二曲目の代わりにリストの「オーバーマンの谷」ということで勿論三曲目に演奏する予定だった「雪かき」に続けた。するとそれにバルト―クの「ラプソディ―」作品一番が続くことになる。とても興味深い。聴者によっては様々な把握となるのだろうが、少なくともジャーナルを書く人にはとても多くの材料を与える。

可也拘りを見せる演奏でもあるのだが、自由自在に演奏する代わりに如何に本道を示すかの演奏で、そのピアニズムの基礎にはやはり中域の安定があって、そこから上下にずらして音を作っていくという事はしない。それによっての歌の安定感は抜群で、なるほどチャイコフスキーのコンクールなどではこういう演奏が尊ばれるのだろう。

それによって何がなされるかというとやはり楽器が満遍なく鳴ることで、まさしく今回最短距離で聴いた理由はそこにあった。色々なピアニストの身近で聴くことはあっても今回のような頂点に立つ人が弾く楽器が大振動するのを眼で身体で感じたのは初めてだった ― 要するにその当たりの世界的著名コンクールの優勝者程度とは意味が違う。それに一番近い振動では嘗てのブルーノレオナルドゲルバーというブラームス演奏でドイツで持て囃されたピアニストは小児麻痺の足でペダルを踏みっぱなしにするその時以来だ。それを殆ど使わないピアノで為していた。そして振動のストップが常時が決まっていた。

そのフォルテシモの入り方もペダルを踏む代わりにシークレットブーツの足踏みでがっつり入り、そしてしなやかに右手は被せたりとどこまでも透明感を失わずに一方中域部の歌の波が絶えないだけでなくて、リズム的な弛緩もない。そして後半は印刷されたプログラムの順番を入れ替えて、ブラームスのソナタ一番ハ長調を前に出して、「シャコンヌ」を待っていた耳を驚かせるのだが、彼の父親のヴァイオリンの様にとても骨子のある音がとても中庸で良い。祖父の代にロシアから南仏へと渡ったユダヤ人家庭だということなのだが、その音楽は全然悪くはない。リヒテルが演奏したブラームスが如何にも一面的な演奏実践であったことを考えると、独墺圏で拒絶される質のものでは全くなく、これ以上に二楽章のドイツ語の歌を弾ける独墺圏ピアニストがいるのだろうか?三楽章の若い息吹に終楽章の歌に魅了されるファンは少なくない筈だ。(続く)
ブラームスの作品一番ハ長調
И. Брамс, Соната для фортепиано №1 – Александр Канторов (Париж, 2023)




参照:
何ごとにも事始め 2024-04-12 | 文化一般
流しに網を掛ける 2024-04-09 | 雑感
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舞台に合わせた音楽演奏

2024-04-07 | 
週末に発注したニールセン作曲「マスカラーデ」のブルーレイが届いた。ミュンヘンのペトレンコ体制での最も成功した制作「死の都」以来二枚目のディスクである。それ以外の初日を観た「ルル」などもネットに落ちていたコピーしか持っていない・

ざっと流してみての印象は映像も綺麗でフランクフルトの劇場制作映像としては秀逸かもしれない。録音もハイレゾでしっかりとあの新しい劇場のドライで余り美感の無い音が綺麗にとらえられている。

その公演は初日と楽日に出かけていて、最後の時にはカメラが入っていた。だから終演後の拍手などがチグハグデいま一つ分からなかった。一番空いていそうな夜のそれが入っている感じがする。楽日迄撮っておいて何故もう少し盛り上がりのあるものが編集されて繋がれていないのか。廉く仕上げただけならナクソスクワリティーだ。

映像で初めて気が付いたのは二幕で、HiFi装置から流す時にはブルーレイ無料ソフトの関係でウィンドーズPCからキャストで飛ばすので映像がずれる。殆ど音だけを聴きながら作業していると、今一つ指揮の音楽の出方が冴えない。それを時差の無い映像をモニターし乍ら聴くと、その差が明らかだった。つまり指揮者のエンゲルはこちらが考えていたよりも遥かに舞台と音楽をシンクロさせていることが分かった。無声映画に合わせるのと殆ど変わりがない。それと違うのは舞台を練習の間に音楽にも完璧に合わせてきている事だろう。

なるほどペトレンコと賞を別けた「ボリス」において、舞台がなかったら引用したネヴスキーの新曲を全然違うように振るといったのはこれだと分かった。なるほどペトレンコも演出に合わせて指揮を変えると話していたが、飽く迄もその音楽を守る為に事故があっても処理してくる。

つまりエンゲルにおいては舞台に合わせることから映像が合わないと違和感があるような音楽になることもあるのがよく分かった。ペトレンコは事故処理でどこ迄も音楽の価値を失わない手当てをする。

一幕、三幕は本人が語っていたようにリズミックなドライヴで進行するので、どんな指揮者でも動きとのちぐはぐはあり得ない。しかし二回も観ておきながらそこまでは認知できなかったのは、エンゲル指揮を二十年ぶり以上で観ることで判断する要素があまりの多すぎたからだと思う。

当然のことながらどのような音楽作品をどのようなコンセプトでどのように演出するかで演技と音楽のシンクロの細かさも全く異なる。演出に口を出さないというが、実際に稽古となると音楽的に合わない所は議論で合意を得るのだろう。抑々あまり音楽的な配慮の無い演出家ではとんでもないことになるか、音楽に合わせて舞台進行演技指導を修正出来ない事にはお話しにならない。

その点、このクラッツァーの演出はコンセプトととしてもとても立派であり、昨年のテムペルホーフの「メデューサの筏」に指揮者との協調作業として成功に導いたのは間違いない。
Trailer zu »Maskerade« von Carl Nielsen | Oper Frankfurt

Teaser zu »Maskerade« von Carl Nielsen | Oper Frankfurt




参照:
言葉不要の高度な表現 2021-11-16 | 音
スポーティな仕事とは 2024-03-05 | 音
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