Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年11月

2007-11-30 | Weblog-Index


桜は咲いたか未だかいな [ 試飲百景 ] / 2007-11-30 TB0,COM0
正当化へのナルシズム [ 歴史・時事 ] / 2007-11-29 TB0,COM0
驕らない、慎み深い主役 [ 生活 ] / 2007-11-28 TB0,COM0
ほんま、なんてないこった [ アウトドーア・環境 ] / 2007-11-27 TB0,COM0
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26 TB0,COM0
肉体化の究極の言語化 [ 文学・思想 ] / 2007-11-25 TB0,COM2
ライフスタイルの都会文化 [ 文化一般 ] / 2007-11-24 TB0,COM0
新調パジャマの裾直し [ 生活 ] / 2007-11-23 TB0,COM4
ミシュラン詐欺の事件簿 [ 料理 ] / 2007-11-22 TB0,COM8
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21 TB0,COM4
好んで求められる選択 [ 文化一般 ] / 2007-11-20 TB0,COM0
呵責・容赦無い保守主義 [ 文学・思想 ] / 2007-11-19 TB0,COM6
芳醇なワインとラクレット [ 料理 ] / 2007-11-18 TB1,COM14
脅迫観念一杯の列車旅 [ 雑感 ] / 2007-11-17 TB0,COM6
得体の知れない石碑 [ 暦 ] / 2007-11-16 TB0,COM5
硬い皮膚感覚の世界観 [ 文学・思想 ] / 2007-11-15 TB1,COM0
頭脳ダイエットの勧め [ 女 ] / 2007-11-14 TB0,COM2
保守的な社会民主主義 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-13 TB0,COM0
蓄積に養われる直感 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-13 TB0,COM3
吹雪から冷気への三十年 [ 暦 ] / 2007-11-11 TB0,COM3
それは、なぜ難しい? [ 音 ] / 2007-11-10 TB0,COM2
親愛なるキーファー様 [ 文学・思想 ] / 2007-11-09 TB0,COM0
銅メダルの栄冠のために [ 生活 ] / 2007-11-08 TB0,COM2
観られざるドイツ文学 [ 文学・思想 ] / 2007-11-07 TB0,COM4
技術信仰における逃げ場 [ 雑感 ] / 2007-11-06 TB0,COM0
自由の弁証を呪術に解消 [ 文学・思想 ] / 2007-11-05 TB0,COM0
パフォマー心理の文化性 [ 音 ] / 2007-11-04 TB0,COM0
聖なる薄っすらと靡く霧 [ 暦 ] / 2007-11-03 TB0,COM2
エロスがめらめらと燃える [ 暦 ] / 2007-11-02 TB0,COM0
逆立ちしても無駄な努力 [ ワイン ] / 2007-11-01 TB0,COM0
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桜は咲いたか未だかいな

2007-11-30 | 試飲百景
初物を幾つも賞味した。地元2007年産プフェルツァー・ヴァインは、少なくとも初夏からは熱心に葡萄の成長と共に過ごす時間が多かったので、そのワインは格別である。まるでワイン農家のように一喜一憂したのである。

先ずは、バッサーマン・ヨルダン醸造所に立ち寄り、買えるものなどの情報を小耳に挟み、後程と辞去する。そして裏山のパラディースガルテンの畑の中に車を停め、靴を履き替えた。

先日から見晴らしの利く、地所の上部つまり森との境を歩くことを楽しんでいたので、未だ歩いていない上部を目指しミュールタールへと少し入りパラディースガルテン上部へと戻る。そこは、「騾馬の道」と呼ばれて18世紀にプファルツ候が関所を作ったことから近隣への搬送の抜け道となった歴史的な道なのである。

そこから次の谷であるゼンセンタールの方へと、名うてのグランクリュ地所ライタープファード、パラディースガルテン下部、ランゲンモルゲン、グラインヒューゲル、ラインヘーレ、ホーヘンモルゲン、カルクオッフェン、キーセルベルクの盆地状を右手に眼下に眺めながら行く。

写真などを撮り、谷からキーセルベルク、ラインヘーレ、パラディースガルテン下部を通って、車のところへ戻ると50分ほど経過していた。そこから真っ直ぐに下りダイデスハイムの町の中へと戻り、旧街道に出て、フォン・ブール醸造所に車を乗り入れる。門が自宅より狭いぐらいでいつも気を使うのである。

予定していたようにリッターワインの他、既にQBAリースリングフォンブールが売りに出ていて、軽く口を湿らしてからこの二種類を購入する。来週より売りに出るフォン・ブール・キャビネットを改めて試すこととする。

その足でバッサーマンの方に戻ると、なんと予想外のライター・プファードがヘゴットザッカーに並んで売りに出されているではないか。しかし、日常消費用のリッターヴァインは年明けからの売り出しとなる。今は未だ2006年度の棚卸である。

若いワインは、未だ少し酵母臭が残っているが、本格的には買いそびれた2006年産ライター・プファードに変わって、2007年産が飲める喜びと、やはり新鮮さの冴えるヘアゴットザッカーの風味が嬉しい。先ずは、ライター・プファードを中心にヘアゴットザッカーを自宅で吟味のため購入しようと考えていると、居合わせた若いお客さんがグランクリュワインについて尋ねる。予約していて買取されなかったイエーズイテンガルテンがあると言うのだ。それも試飲が出来るとは、願ってもない幸運である。

このイエーズイテンガルテンも二月前に購入したホーヘンモルゲンと同じく硬い蕾のように閉じたままであるが、ペトロの石油系の味の広がりに明らかに土壌の複雑さが異なると満悦する。いずれ果実や花畑の香りが広がることは分かっているので直ぐに手をつけた。こうなれば、隣の客に買い〆られては適わない。そのように言うと、隣の客も負けじと二本を購入した。売には桜が必要なのである。親父さんのためにも日常消費のワインを三ダースほど購入したその男には、少なくとも二年待ちなさいと言っておいた。

結局、グランクリュ一本とキャビネットを五本、先のフォン・ブールのものを入れて計十本、百ユーロ弱の散財であった。
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正当化へのナルシズム

2007-11-29 | 歴史・時事
シュテファン・ゲオルゲの初伝記を書いたトーマス・カーラウフがクラウス・フォン・シュタウフェンべルクについて触れている。トム・クルーズにだけ儲けさせてはおけないのかどうかはさて置いて、ハリウッドの作家による世界中の誰にも解る単純化された具象化は問題が大きい。なぜならばその対象がハリウッドにとっては複雑すぎるからである。

伝記の刊行以来、どうしてもフォン・シュタウフェンベルク兄弟関係の研究者からの反応が大きいようである。FAZ新聞には、ゲオルゲを慕い訪ねたビンゲンにて、クラウスが古城からナーヘ河方面を望んでいるように見える横顔の写真が載っている。ゲオルゲが魅了され、本人も以下のようなナルシズムに浸るような美男ではないようにも思うが、血が問題なのであろう。

„Ruhm und schönheit wenn nicht wir sie hätten / Des Staufers und Ottonen blonde erben“, dichtete Claus im November 1923

名声、美貌、もし得ていなかったとしたら ― 
シュタウファーの、オットーネンのブロンド受継いで、

クラウス 1923年11月

詩人は、16歳のクラウスと18歳になる兄ベルトルートと5月に出会って、「ドイツの秘蹟」として祭り上げたものだから、母親もゲオルゲの少年愛が心配になったのか、ハイデルベルクに詩人を訪ねた。フリードリッヒ二世の伝記を発表するカントロヴィッチュのもとに居候していた1923年6月のことである。こうして、二人の少年の運命は他の世界から切り離されたと綴られる。

1944年7月4日に二人は、「ヨーロッパの民の共同体を幸福に導くドイツの力を心得ている」と宣誓して7月15日に行動に移すが、果たせず、20日に初めてヒットラー総統の近くに置いたアタッシュケースの時限爆弾に着火する。

2007年はもう一人の反逆者で「非常時」に法廷闘争を繰り広げたフォン・モルトケの生誕百年であり、同年のフォン・シュタウフェンべルクと共に記念切手が発行された。

1933年12月、ドイツに裏切られたシュテファン・ゲオルゲの葬儀をロカルノで司った二人であるが、その後の1942年においてもヒトラー賞賛は変わらず、一方の先祖筋である軍人として、「非常事態」には少数のエリートが多数のために犠牲になる騎士としての覚悟があり、ゲオルゲのもっとも重要な教えである「行動」を守ってつき進んだとカーラウフはしている。

サイエントロジーとゲオルゲ一味を同様に扱われるのを嫌う、血のイデオロギーさえも第三帝国での「ドイツの良心」とすることで、自らを正当化したい者は少なくないようだ。



参照:
"Zu komplex für Hollywood" Interview an PETER STEINBACH(TAGESSPIEGEL)
"Den Dolch im Lorbeerstrauße tragen", Thomas Karlauf, FAZ vom 15.11.07
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驕らない、慎み深い主役

2007-11-28 | 生活
昨晩はハイデルベルクでの講演会に行くのを取り止めた。霰交じりで天候が良くなかったからである。「言葉のない会話」と題する日本文化についてのものであった。ハイデルベルク大学の旧講堂で行なわれた。しかし昨日のハイデルベルク大学の本当の主役は近くに居た。

その夜は、まさに驕らない、ノーベル医学賞受賞の時期的ではなく確立が最も高い日本人である山中伸弥教授がハイデルベルク医学部を訪問して、そこに併設しているドイツ癌センターより表彰された。

その内容については数ヶ月前の時点で一度触れたが、いよいよ次の段階に突入しているようで、赤ん坊の割礼の皮を使うようなユダヤ人達とも競争しているようだ。

そして、日本の行政のお役所仕事に怒り、一月に一週はサンフランシスコで自己スタッフと研究を続けているらしい。体力的になかなか厳しいに違いない。

「まるでレトルトベビーのように新鮮な日本人で、丁寧で慎み深い、だが成功を手中にしている。何も45歳と言う年齢や育ち盛りの二人の娘さんと鉄アレートレーニングの趣味故ではない。この極東のダイナミカーこそがいま世界のバイオ医学の核を制覇している」と新聞は賞賛している。

なぜならば、この技術こそがクローン羊ドリーの成功を影にする特に欧州の倫理観に従ってもっとも正しいバイオ研究の将来の道であるからだ。



参照:
(Shinya Yamanako) Dolly in den Schatten gestellt,
Joachim Müller-Jung, FAZ vom 27.11.2007
- Yamanako sollte Yamanaka sein!!!
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ほんま、なんてないこった

2007-11-27 | アウトドーア・環境
週末は気温が上がった。何よりも珍しく強い日差しを浴びることが出来た。しかし、突風が舞い、霧雨やはたまたあられが蒼い空から落ちてくる典型的な冬の合間であった。

陽がある内に急いで、散歩に出かけた。山沿いの葡萄地所の上辺を歩くと、薪の材料を取りに来ている農民以外にはあまり人に会わない。しかし、帰路は斜面の一つ下の道を行くと、ちらほらと人を見かける。

アイスヴァイン用の葡萄だけをを残して殺風景な葡萄畑でも、なんといっても視界が利くのが良い。これでも緑葉があると死角が多いが、今は違う。そして、当日の様に視界が遠くまで利くと、目新しい光景に出会う。

小雪舞い霜が降りる日々に挟まれて、こうして暖かく雨が激しく降ると、残されている葡萄も腐るのだろうか、場所によっては凍結の収穫を断念して急いで片付けられたような区画もある。アイスヴァインには興味のない我々でも、干し葡萄のようにぶら下げられている葡萄を見ると気になるのである。

歩きながら、言語による抽象化の可能性の限界を改めて考えていると、どうしても書き言葉から離れた方言のまた文法的に正しくない言語の、社会の抽象化の意味に思い当たる。トーマス・マン「ファウストュス博士」において熱心にその方言を示唆しているのはその意図が大いにあるようだ。前回の放送分では上バイエルン方言が扱われている。

<Das ist ganz einfach>, sagt sie (nach oberbayerischer Art assimilierte sie immer das n dem f, sodaß ein m daraus wurde), <ganz eimfach und …….sie mit der Brennscher’ bei aller Müh da vorn nichts Rechts’s mehr zusammenbringt, und da verzichte tut’s auf die Welt und zieht zu die Schweigestills, das ist ganz eimfach>

方言ではnとfがアシミレートしてmとなることを示して、ミュンヘンの市民的な社交界から郊外の牧歌的な村に越してきた都会の女性を村の女に語らせる。鏡の前でその重い髪を結う、まるで「薔薇の騎士」の伯爵夫人の苦悩を村人から見たような言語表現には、作者マンのシュタルンベルガーゼー湖畔ニーダのサマーハウスでの実経験が活かされているようだ。ラジオ放送ではこれらが音声化されるのを期待されるが、現在まではそれほど顕著ではない。

しかし集合体としての社会そして文化を描く場合、20世紀後半の文化的な動きを知っている我々から見ると、こうした方言の使い方は、まるで摘み取り残された葡萄が雨に濡れ曝されているのを永遠に記憶にとどめるかのように、実体の抽象化と歴史上における固定において非常に優れたアイデアであったように思われる。
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痴漢といふ愛国行為

2007-11-26 | 雑感
最近は半世紀以上前の文学や思想を頻繁に扱っている。それどころかヘーゲル教授に直接受講している。そのせいか、どうしても感覚的に、現在の倫理は甚だ別としても、その思想からも程遠い。

エリート大学分けが進んでいる高等教育においても、軒並み精神科学の学び手どころか教師が減らされる。それに限らずマンハイムでは政治学教室が閉鎖されて、卒業生は米国のハーヴァードかどこかでタイトルを狙うかどうかしなければ居場所がなくなる。

それと同時に、マインツ司教レーマンが先日発言した「欧州の文化の歴史的基本としてカトリックが明示されるべき」だとか「妻が家庭に居る基本に対して政治的配慮が必要である」とかは通らない。また、ヘルツォーグ大統領や大蔵大臣候補であったキルヒホッフ教授の後輩である若いディ・ファビオ氏がアデナウワー時代の小市民生活をシステムの基本と据えても、多くのムスリムを抱える都市圏においてはそうした教養の土台が人口比率的に重要視されるのかは甚だ疑問である。

そうした社会の変化の波は甚だしいが、それでも未だ「精神」と「肉体」を分かつ「近代の自我」は存在する。もしそれを認めなければ、民主主義の基本は言うに及ばず、「進化論では、自意識の自動化が待っていて、人類は皆無意識の内にゾンビになる」のは将来のことであるどころか、それが市民のアシミレーション化もしくは均一化・クローン化として現存していることになり、大変不安な気持ちになる。

するとこれは、極東文化研究の上で大変有用なキーポイントとなる。以下の疑問はこれによって悉く溶解する。

一、 唯物主義者もしくは無神論者を自称する日本人は多いが、確信的なマルキストも無神論者も少ない。進歩史観もパラダイス思想も持っている者も殆どいない。
二、 知的創造物の二次利用を含めてコピー文化が盛んな文化圏において、知的活動つまり知的創造物の所有権である著作権を解さなかったりその延長に反対する文化が存在する。
三、 それらの文化圏においては個人の基本的人権が尊重されない傾向が強い。
四、 唯物史観以外の歴史認識が存在し難い。
五、 ある種のフェティシズムや物質崇拝の傾向が強く、倫理的な網を被せる儒教や教育勅語などの現世のシステム構築が必要となる。
六、 知的創造自体に価値が置かれない為、物欲による市場価値や評価が優先される。
七、 ロボット信仰は日本に存在して、汎用技術は極東で改良されて実用化される。
八、 以下略

しかし精神の独自の存在を認めないとする仮定には、意表を突かれた。なぜならばここで言う創作こそは精神的な活動であり、デュラーの語ったように五百年先でも活きていかないといけないとする近代人の意志がそこにあるからだ。しかし、「包括的で集合的な西洋的なライフスタイルを文化と呼び、その解釈されて行動様式となる生き方の枠組みでもあるものを文化とする」と、そこに創作活動はどのように存在するのか?

精神がないならば肉体に直接尋ねなければいけない。条件反射的に機能するのだろう。ゾンビのように。これも古いが日本を代表する戦後の文化勲章受章者の名言を、また昔の政治学者丸山真男の著書「日本の思想」から引用して置く:

普遍者のない国で、普遍の「意匠」を次々とはがしおわったとき、彼の前に姿をあらわしたのは「解釈」や「意見」でびくともしない事実の絶対性であった(そはただ物に行く道こそありけれ ― 宣長)。小林の強烈な個性はこの事実(物)のまえにただ黙して頭を垂れるより他なかった・・・。

「一切が疑はしい。さういう時になっても、何故疑へば疑へる様な概念の端くれや、イデオロギーのぼろ屑を信ずる様な信じない様な顔をしているのであろうか。疑はしいものは一切疑つて見よ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだろう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心というものが見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。」(神風といふ言葉について)昭和十四年*

…中略、絶体絶命の決断を原理化した時、彼はカール・シュミットにではなくて、「葉隠」と宮本武蔵の世界に行きついたのであった。



*西暦1939年


参照:
「自意識の近代」の続き (Sweetness)
九条の会第2回全国交流集会 (アドルノ的)
豚とソクラテス、無知の知 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-14
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
ライフスタイルの都会文化 [ 文化一般 ] / 2007-11-24
エロスがめらめらと燃える [ 暦 ] / 2007-11-02
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
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肉体化の究極の言語化

2007-11-25 | 文学・思想
小市民社会、所謂プチブルジョワジービーダーマイヤー風と呼ばれるような世界の終りが、第八回放送「ファウストュス博士」の内容である。それは、ミュンヘンの社交界の二人の娘を通して、第一次世界大戦中から戦後への情景として描かれる。

妹のイネスは普通の結婚をして三人の子を儲けるが、性的な経験はいよいよ満たされない愛情へと油をを注ぐこととなる。書き手が語るように、「内面的なものを勝手に誇大して読みものにしたくはないが、こうした躊躇する心情こそが小市民的感情であって」と、ここで扱われる崩壊する市民感覚が強調されている。それは、当時流行った表現主義的な傾向よりも、むしろホフマンスタール作の徹底的にそれを虚構化した楽劇「薔薇の騎士」が大成功する社会の歪みを巧く映し出している。芸術を目指す姉女優クラリッサの死にそれがパロディー化されているとしてもよかろう。

ホフマンスタールでは時代背景のヴィーン情緒にのったノスタルジーに溢れた情感が読み手を喜ばすのに比べて、ここではイネスの内省的なディアローグに、ここ一番、作家の腕が思いのほかふるわれている。恐らく、デビュー作「ブーデンブロック家」での市民社会の描写との対照が意識されていたに違いない。そうした極限の表現が、あとに来るミュンヘンの保守的な文人サロンの描写において、主題となる。

つまり、既に登場したブライザッハーも含まれる、浮世絵などの収集家で装丁家キルトヴィースのアパートメントに集う男達の思考は、国家社会主義の知的な面を凝縮するように描かれている。しかし、そこでは、またまたラインヘッセンなどの言葉が話され、マインツやビンゲンをかすめるようにある地域性が示されていて、ミュンヘンのシュテファン・ゲオルゲグループのオカルト的なナチスの源泉の提示がここでは慎重に避けられると同時に南ドイツの正統的思想的気質がシュトラスブルクまで含めて、婉曲に触れられているのが面白い。

さて、その問題のサロンに集うのは、ミュンヘンの社交界にいたがまもなく郊外へと移るイネスのご主人インスティトリス博士、ダーヴィン進化論的には人類はとっくの昔に進化を終えたとする動物学者ウンルーエ、歴史文学者フォーグラー、デュラー研究家ホルツシューラー、戦争詩人ダニエルにネッサウ家のプリンス達などである。そしてこれらの男達は何事もヴァイマール憲章の自由主義の中に、敗戦にあわやプロレタリア独裁へと扇動した暴徒をフランス革命の教訓にしたド・トクヴィルに代表される文化の中に、自由を茶化して捉える。要するに、自由の自己の誇示は論敵を押さえ込むことに他ならない自己矛盾に、専制的な平均化と原子化の、個人がそこに解消される大衆統治を指す。

更に、十三世紀の神学における拘束と自由の関係に、可能性を拡げる研究の客観的拘束を見て、現代の非抽象的な拘束を考えて行く。文字の初等教育を例に挙げ、言語は読み書きから生まれないことから、先に進めて語彙の必要、清書の必要どころか言語の必要にすら疑問を投げ掛ける。これは先に作家が腕を振るった女性イネスの吐露の言語化に相当していて、抽象化が必要なければ言語などは無用とする結論が自然に導かれる。

まさにここに浮き上がるのが、上の男達の示す、極限のザッハリヒカイトなのである。つまりその即物主義は、これをして向野蛮主義となる。しかし、男達の知的遊戯は、そこに収まらない。そしてそこで衛生観念が虫歯治療の論理として話題に上り、感染を恐れて疑わしきは抜いてしまえとなる。これこそが強迫観念的なザウバーカイトであり、ユダヤ人や弱者やアブノーマル者のセレクションとなって行くが、徹底的なドイツ合理主義から導かれる。

一方、主人公のアードリアンは、第一次世界大戦の敗戦に近づき体調を崩しながらも、その黙示録を土台としたオラトリオ作曲に従事して行く。ダンテの煉獄やデューラーの版画などを具象化する曲は、オットー・クレンペラーの指揮で歌手カール・エルプを得てフランクフルトで初演される。そして、人妻イネスに求められるヴァイオリニスト、シュヴェルトフェーガーの体を使ったヴァイオリン協奏曲の作曲が構想され、その肉体の芸術化が始まる。

また語り手は、ミュンヘンでの蜂起に関して、プロレタリアートの暴徒の文化破壊は心配した以上のものではないとしているが、1944年の著作である事を考えれば、作者の誤認も致し方ない。こうして、原文三十二章から三十七章が必要な多くの選択省略をもって語られた。



参照:
呵責・容赦無い保守主義  [ 文学・思想 ] / 2007-11-19
ホロコーストへの道 [ マスメディア批評 ] / 2005-01-29
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ライフスタイルの都会文化

2007-11-24 | 文化一般
先日、高齢のご婦人が転倒した。その怪我は、そのときついた手のみならず、後に腰骨のひびが分かり、治療されていた。12月の天皇誕生日の会に招かれていたが、ペルー大使館の占領事件については敢えて言わないでおいた。

さてその東独出身の女性は、最近は電車の中に足を乗せる禁止図柄のピクトグラムがあるのだと、話題にした。なるほど、それは見たことがある。そして、対向席に足を伸ばす若ものは一般的である。

こうしたマナーの話となると、その昔ドイツ国鉄に乗った時、ユーレイルチケットの一等車で旅した時、三人だけのコンパートメントで一人の男がタバコに火をつけたことを思い出した。するともう一人のご婦人が、「ここは禁煙席ですよ」とすかさず注意すると、その男性は「ありがとう、知りませんでした」と謝った。このことは今でも記憶に新しいが、そのことを上のご婦人にも語ると、すかさず「それは大変行儀がよい」と言った。

最近は、他人のことを注意する人は少なくなった。なぜなのか?68年の解放運動に係わっているようだ。服装もTPOなどとは言わなくなった。他人に限らず人の行動様式に関心がなくなったからである。どうなろうとも直接自分に火の粉が掛からなければ穏便に済ませたい。いざとなれば、自分はどこかへ脱出する。お運びの純そうな女の子が胸元を大きく開け、背中を出し腰に白いものを見せるのを、眼鏡のグラスの上半分で観察する自分がいる。注意するには忍ばない。

こうした現象は、大都会で生まれ育った我々には特に言える。隣りは何をする人ぞ、の究極の個人主義なのである。遵法である限りどちらでもよいのだ。包括的で集合的な西洋的なライフスタイルを文化と呼び、その解釈されて行動様式となる生き方の枠組みでもあるものを文化とすると*、どうしてもこの将来に悲観的にならざる得ない。

ベルリン芸術祭がニューヨークで二週間に渡って開かれた。ベルリンの「春の祭典」がマンハッタン島のスラムの子供達を得て大成功の熱狂を浴びたようだ。オペラ劇場も劇場も参加しないこれらの芸術は、ハイブロードウェー並みの成功を修めたと言う。

二百万人以上の人口を誇るベルリンは、ドイツで唯一の超大都市である。しかし、それがやはり大都会ニューヨークで示した文化が上の「春の祭典」であったことは興味深い。当地のタイムスが批評するようにサイモン・ラトルがベルリンでやれる最高の文化をこうして示しているのである。

そうして、大都会のエネルギー源の重心は、これらの旧大都市から上海などの超大都市へと文化と共に移って行っている。


* German Law Journal No. 7 (1 July 2006) - Book Review – Udo Di Fabio’s Die Kultur der Freiheit and Richard Sennett’s Die Kultur des neuen Kapitalismus by Günter Frankenberg



参照:
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
疑似体験のセーラー服 [文化一般] / 2005-06-12
皇帝怒り心頭無道曲 [ 雑感 ] / 2006-03-12
言葉の乱れ、心の乱れ [ 女 ] / 2006-10-28
兵役任意制度の存続論 [ 生活 ] / 2007-08-20
豚の煮汁に滲む滑稽味 [ 生活 ] / 2007-10-16
まともでないお尋ね者 [ 生活 ] / 2007-09-13
ドイツ語単語の履修義務 [ 女 ] / 2007-07-16
ライカ社のエルンスト二世 [ 雑感 ] / 2007-03-12
希望も未来も無いTV放送 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-03
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新調パジャマの裾直し

2007-11-23 | 生活
パジャマを新調した。夏冬二枚づつ使っているのだが、一枚の襟元が破れてきたからである。厳冬下の折、不良な寝巻きは、風邪引きの原因ともなりかねない。間違って二枚とも洗濯してしまったのが、運の尽きであった。

スイスのシーサー社の物を愛用しているのだが、生地が薄い。綿の細番手の物なので、価格も高めである。綿百パーセントは偽装であると分かっているのだが、それ以上の物がないかぎり、やはりこれに尽きる。

前回までは長年、生地が充分にあるサイズ54というXLを買い、ゆったりと着ていたのだが、最近は適正サイズにゆったりと採寸されているようで必要以上に大きいことに気がついていた。そこで今回は十年振りぐらいに一つ小さなサイズを購入した。それでも52であるので、Lには違いない。その昔Mの48を買ったこともあるので、それに比べると、それでも手足が長めでまだゆったりしている。

手元は肩で幅を取るので長過ぎないが、足元は如何せん長めなのである。長袴のように広がると邪魔になる。パジャマを着てブーツを履く訳にはいかないので、前回から足元に工夫をする事にしている。そのためには足元が折り返されていて且つ丸く織り込まれていてゴムが入るようになっていなければいけない。それはズボンの胴回りのゴムにも適用されて、縫い付けてあるものは洗濯でゴムが延びるともう二度と使えない。新たにゴムを入れれるように縫い返しがないといけないのである。

特に足元にゴムをいれるとピエロの服のように裾が盛り上がるが、これが足元に空気が溜まりなかなか快適なのだ。ゴムを入れるのに新調に穴を開けるようなことになるが、こうして初めて快適に使えるのである。そして無理がないだけ長持ちを期待している。

第一夜はクラウンの悪夢に魘されることも無く気持ち良く寝れた。
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ミシュラン詐欺の事件簿

2007-11-22 | 料理
十年以上前に観たTV事件簿の内容である。その匿名調査方法などは有名だが、それを使った詐欺が頻繁に起こっていると言う事件簿である。勿論同種のグルメ評価本はその道路観光地図の種類以上に数限りなくある。

先ず、中年のオヤジが背広を着て店にやってくる。そして、事情あり気な様子で店内を見渡せる席を譲らず、そこを選び座る。そしてきょろきょろと店内やテーブルセッティングなどを観察する。メニューを前から後ろまで吟味して、給仕を頭から足の先まで見つめながら、お奨めなどを尋ねる。

そして、徐にワインリストを要求するのである。それを背にした給仕人の背後でこそこそとメモを取る。給仕人がそれに気がつくと、咳払いをしてメモを隠す。

流石に訳ありと、給仕人が尋ねると、実は匿名調査なのだと小声で漏らす。取材候補に挙がっているが、本調査のために今日のお奨めを試食させるつもりはないかと商談を持ち掛ける。オーナーもしくは兼給仕人が、唆され興味を持ちワインをも勧めると、今日は大事な下調査中だからと好意に崩した表情を引き締めつつ、ぴしゃりと音を発てリストを閉じて給仕の胸元目指して突き返す。

そうして、勘定の代わりに本調査の予約を入れて、「幸運を祈る」と言って腹を突き出しながら皆に送られて無銭飲食をするのである。

点数制度や評価本の類は、なんらかの権威のようなものが商売になるという構図において、こうした詐欺と余り変わらない。



参照:
季節間の溝の深さ [ 暦 ] / 2006-10-31
客観的評価を求めて [ 試飲百景 ] / 2007-05-03
インサイダー情報の価値 [ 試飲百景 ] / 2007-03-30
ビオレック氏のワイン講座 [ ワイン ] / 2006-12-07
平均化を避ける意識 [ ワイン ] / 2006-05-08
「証拠を示せ」と迫られて [ 文学・思想 ] / 2005-06-08
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死んだ方が良い法秩序

2007-11-21 | 歴史・時事
アフガニスタンでNATO軍ISAFに参加していたポーランド兵七人が終身刑を受けた。活動中に、女子供を含む村人六人を殺害した罪である。十八落下傘部隊の七人は、攻撃されたと反論していたが、隊の携帯電話カメラによる手榴弾と自動小銃による攻撃映像が、初めての攻撃を受ける前の蛮行の動かぬ証拠となったと言う。

ポーランド軍は、アフガニスタンには1200人、イラクには900人が活動参加している。刑を受けた家族などは言う。「死んだ方が良かった。アフガニスタンで殺されていれば、英雄となり、家族は年金を貰えたのに、今や戦争犯罪人だ」。実際二日後には、この部隊から攻撃を受けて犠牲者が出たのである。

ポーランドと良く似た極東の日本国は、一人前の国として国連の活動のもと軍隊を派遣したいようである。原理原則があっても、不慮の事故は必ず起こる。その法務大臣が言うように、怨念を重視する量刑への国民の切望から、軍法会議か陪審員制度かは知らないが、こうした大量殺人戦争犯罪にも死刑判決が支持されるのだろうか。

鳩山法務大臣の発言は法曹関係者には話題となっているのだろうが、明らかに優秀な日本法務省とのアジテート共演でありえる「友達はテロリスト」発言は、より一層興味を引く。

これにも関連するもう少し高度な話題である。それはここでも何度も取り上げているショイブレ内務大臣の対テロ対策法案とその憲法裁判判定に因む話題である。先頃、CDUの要請を受けて、憲法裁判所の第二判事ウド・ディ・ファビオが国防軍将校や外交官ならびに官僚を集めてこの問題に関してベルリンの安全保障連邦研究所にて演説した。

その内容は、「内外の事象の境が無くなった内側からの宣戦布告のないテロ攻撃の時代」における議論のあり方と内相のその時代に即した秩序維持への提言に対しての手厳しい学術的見解となった。

その時代の要請に合わせた治安維持や機能については、「グローバルなテロ活動に対する国の責務権限への要請」は無いと明確に否定して、歴史的に見てその機能の低下は背景にある常態の危険性を審査してみなければいけないとした。つまり、内外の法秩序は、其々警察機能と軍機能において、それは文明化の成果として存在していることを強調する。その例として、個人が攻撃されたにも拘らずワールドセンタービル事件にNATO軍が同盟を表明したのだが、このような場合もその二つの機能、つまり、テロ攻撃と戦闘状態は別けられているとしている。

そしてもっと辛辣に、CDUやショイブレ博士が指す、時代に合わなくなった内務機能への懐疑や推進した法的論争が、また敵への処罰の法制化自体が刑法改変学者と同じく、国機構への絶望を示しているものであって、彼らは一列に並んで大きな声で現代の国機構に対してお別れの言葉を唱えているに過ぎないと指摘する。

つまり、「テロ時代」の要請に合わせた為政者の内務権限の拡大強化の法論争は、法と倫理をもった公僕である国の為政者の自己遵守でしかないと非難している。そして、知的に非常事態を予測するのは面白かろう、とこれらの御用法学者やCDUの二人の担当大臣を痛烈に揶揄するのを忘れない。

こうした議論に口を閉ざすことは問題のタブー化とは異なり、こうした議論を検閲すると、本人の主張する「自由の文化」における市民社会の耐久度や予測可能度を基本に据えた保守主義における安然秩序を強調したようだ。

市民社会のヒステリーを諌め市民秩序を重んじる背景には、対テロ法案強化による「内なる戦線」は一般に危惧されている以上に、欧州大陸上で米軍がやったような「拷問」や「射殺」が横行する暗い時代が予想されるからであり、実際にそれだけの「テロリストの友達の輪」の情報を軍の情報局が握っていることが知られている。

「戦時下と平和時の市民の権利を峻別して」、「EU内での内外管轄権限への譲渡に道を開く」とするショイブレ内務大臣の上のような卓越した政治手腕は、こうした暗黒時代への舵取りに向けられており、「自由のための公的暴力の行使は国連憲章にそしてEUの条約に反している」とする明確な法解釈に真っ向から対決していることを指摘したこの法曹界からの反論の意味はあまりにも大きい。

門外漢でも非常事態へのカール・シュミットの解釈ぐらいは頭に浮かぶが、戦争の出来る国どころか対テロ対策の法秩序を支えられるのは、あまりにも優秀な市民と卓越したジャーナリズムやそれに狡猾で強大な権力を持った政治家や行政に違いない。



参照:
"Selbstachtung des Rechtsstaates", Patrick Bahners, FAZ vom 29.11.2007
保守的な社会民主主義 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-13
ドイツ語単語の履修義務 [ 女 ] / 2007-07-16
キラキラ注がれる水飛沫 [ 暦 ] / 2007-06-05
推定無罪の立証責任 [ 雑感 ] / 2007-04-21
秘密の無い安全神話 [ 雑感 ] / 2007-02-11
顔のある人命と匿名 [ 歴史・時事 ] / 2007-02-01
イドメネオ検閲の生贄 [ 音 ] / 2006-09-29
自尊心満ちる軽やかさ [ ワールドカップ06 ] / 2006-07-12
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好んで求められる選択

2007-11-20 | 文化一般
北京からマルク・ジーモンスがFAZ文化欄に書いている。ドイツキリスト教民主同盟の新アジア政策は、「世界秩序への疑問を、更に大きな声で、西洋に問い質す中国」と題して北京の党機関紙で大きく扱われた。前資本主義と覇権主義を組み合わせた、北京が提示して実践する政策が発展途上国で人気のある選択肢として注目されており、欧州大西洋的秩序による世界図が衰弱して来たことに対して、保護主義でなく米国のアジア統治戦略に乗って、欧州は一丸となってアジアを安定させようとする政策である。

それは先日のダライ・ラマの扱いなどに既に外交として表れているのだが、ジーモンスは、先ずそこでチベット問題自体を統治を裏打ちする中国五千年の伝説やそこでのCIAの活動を含めて簡潔に述べ、こうしたメルケル外交に重要な指摘をする。本来ならば民族の独立への信仰の自由と同時に「政教分離を掲げる事」で、各方面に受け入れられた筈であると。

ゆえにメルケル首相のダライ・ラマ歓迎は、長期的に見ればドイツの不利益であり、これはそのものキリスト教民主同盟の政策の表れなのだが、一体、中国が西洋のシステムとも共存出来るシステムの構築を目指しているのだろうかと疑問を呈する。さらに、根気良く続けられている外交的な「人権」やら「民主化」への圧力は、効を奏していない訳で、外部からの影響に鈍感ではない部位がゆっくりとそして絶えず自己増殖しているのかどうか?などの疑問が投げ掛けられ、共産党が「最重要視する安定」の、その一党独裁体制が継続するのかどうかはそこでは語られていないと締めている。



参照:
In die Mitte aller Dinge,
Angela Merkel stellt die Systemfrage:
Ihr Treffen mit dem Dalai Lama hat das chinesische Selbstverständnis ins Herz getroffen
,
Von Mark Siemons, FAZ vom 16.November 2007
不破氏 【特別党学校】で「アメリカの力(ちから)」を論ず
(ポラリス-ある日本共産党支部のブログ)
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呵責・容赦無い保守主義

2007-11-19 | 文学・思想
「ファウストュス博士」第七回の放送は、1913年、1914年から第一次世界大戦の終わりまでである。ミュンヘンの社交場で重要な三人の登場者に光が当たる。その三人は、ブライザッハー博士、イネス・ローデ、太陽に照らされる月のように反転シルエットの描写ながらルドルフ・シュヴェルトフェーガァーの三人である。

ヴァイオリニストのシュヴェルトフェーガー自体は、主人公の懇意な男友達であり、社交界の花形として、既にここまでで詳しく扱われているが、その音楽性を逆転させた形で主人公がそのロマンティック性を反論する形で語られる。

特にここで注目したいのは、ロマンティクもしくはセンチメンタリティーを以って大衆に訴えかける所謂娯楽芸術もしくは音楽U-MUSIKが、芸術音楽E-MUSIKに対応させられる箇所である。この伏線としてブライザッハー博士の単旋律音楽から多声音楽そして調性音楽への移行への見解が既に述べられているのである。

番組前回の後半に登場していたのが、ミュンヘンの社交界における参事官の娘である二人の姉妹である。重い髪と笑窪のある手に、長い首の上のは拗ねたような口元がある、少なからず魅力的な女性イネスである。この女性の娘らしい不安定性はこの物語の中で重い意味を持つことになる。この女性にとって良い人間とは倫理観に富んだそれであり、美的なバランスに富んだものではないと語られる。彼女のその感情に留意しながらも、彼女が結婚するだろう男性への外見や清廉さについて語るとき、その理性的な基礎を信ずることが出来ないとしている。語り手は、不安で根無し草の彼女へのアドヴァイスは容易ならざると述懐する。

そして語り手は、結局は愛の無いつまり至極普通の結婚をして三人の子供を有するイネスと愛しあう若いヴァイオリニスト、シュヴェルトフェーガァーのディアローグを想像する。自らも含まれる社交の表面的な人間関係や場を批判し、不信感を募らせるイネスに、「こんなに沢山の不幸せ」とその終局を示唆する「道行き」の精神が、この架空のシーンをドイツ社会一般へと反映させる。

数限りない厭世的な芸術文化人の自害が横行していた時代精神を垣間見せる場面展開で、それをまた麻薬へと奔るこの女性の性格付けに見事に反映させている。しかしここでは、当時多く創作されたアルトュール・シュニッツラーなどの破局ものとは、理性の面で一回りも二回りも異なる次元での展開となっている。

実は、その前にきついプフェルツ方言で大演説をするブライザッハー博士の独善が描写されている。それは、なんと俗物主義の蔓延る社交会の人気なのある。語り手は、その洗練されたプファルツ人らしいお人好し振りは、文学サークル分野では殆ど話題ともならなかったものであろうが、その多岐に渡る教養にはみるべきものがあったと語る。相手が文化を「終焉へ向う」としない限りは、必ずや敵を攻撃する文化哲学者であり、軽蔑を込めて放たれる「進歩」こそが、彼をサロンに喜んで受け入れさせる保守主義としている。例えば、遠近法を無視した抽象絵画は、彼によって進歩の平板な「野蛮」とこき下ろされる。また音楽調性の発展もローマから離れた英国やフランスの野蛮の中から生まれるとする。そして、その終焉にアイゼナッハの大バッハが関与するとして、その平均率の発明者でもない作曲家がその意味も分からずに異名同音性を理解したのだと言う。

更に挑発的な発言が続き、本人のユダヤ民族としての本元にある旧約聖書へ至り、いよいよ辛辣な保守主義と相成る。終焉と黄昏と喪失の感情は、必ずやそこここに存在して、夢見ることを許さない。そしてソロモン王を宗教的本質を語る。本物の儀式と現実のカルトは抽象的には決して一致しないと説く。勘違いから大きな不幸を導くと、ハープに現を抜かしたダヴィデ王の誤りから輸送中の人身交通事故で「契約の箱」にウザを触れさせてしまい*と、サミュエル記二部に描かれる。その神の怒りによる病弊や死によるダイナミック民族人口統計**の怖さを知り得なかったことから、「民族とは、一部が全体となるような、そうした機構的なシステムを決して持つことが出来ない」との民族の「業」の結論へと導かれる。

その「罪業」と「刑罰」は、神学的には未だに倫理的な原因からのみ生じて、そこでは事故や誤りの原因こそが問題となるのである。倫理が宗教と並べられるのは、先ず最初に終焉が提示されるときであり、「あらゆる倫理は、儀式への純粋な精神的不理解である」と結論付けられる。要するに、「祈り」は「物乞い」であり、「嘆願」でしかありえないと、仮借容赦ない。

二十八章から三十一章へかけてのミュンヘンの社交界を含む人物や社会情景は、実際にその渦中にいたトーマス・マンならではの描写で、人物描写を含めてその内容の凝縮度は、ここに極まっているようだ。

* 2.Samuel.6
**2.Samuel.24



参照:
硬い皮膚感覚の世界観 [ 文学・思想 ] / 2007-11-15
微睡の楽園の響き [ 文学・思想 ] / 2005-02-22
脅迫観念一杯の列車旅 [ 雑感 ] / 2007-11-17
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芳醇なワインとラクレット

2007-11-18 | 料理
スーパーで安売りしているデンマーク産のチーズ、ホェーレンケーゼを使う。キロ10ユーロ少々の価格なので、二ユーロほどで充分な量がある。通常は、これを普通に楽しむのだが、先日ラクレットに好適と書いてあるのをはじめて知った。

それで、皮付きジャガイモを茹でて、皮を剥き、うす切りしたこれをのせてオーヴンにかけた。何も観光地のレストランで出しているようなラクレットセットなどは必要ない。

更に、残り物の白菜をパンに敷く。余熱に時間が掛かるだけで、ものの数分で出来上がる。そして、チーズで汚れるどころか、何一つパンを汚さないのに感動する。

さてワインは1998年もののブルジョワークラスのオーメドックを開ける。実際は熟した白ワインでも単純なボジョレ・ヌーヴォーなどでも良いのだろうが、外気も冷えてきた折、芳醇なボルドー赤ワインで温まる。

勿論、ピクルスなどを添えるのを忘れない。
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脅迫観念一杯の列車旅

2007-11-17 | 雑感
夢を見た。パニックものである。直ぐに目を覚ましたので、克明に覚えている。妙なあと味の悪さを残した。

それほど混んでいない列車の中である。なぜか都心部で地下へ潜るらしく、かなりの坂を深い奈落に向って下りて行くのである。ゆっくりしたスピードながら、機関車が引く推進力は衰えない。

乗っていると、トンネルに入っているのと変わらないのだが、自動的にブレーキが掛かっているのか、それが重々しい音を発て、客者の床を比較的大きなストロークで振動させるのである。丁度、乗客の頬を揺らすぐらいに体に響く、ブレーキドラムの摩擦は熱を帯びていく。振動音は、より低くなり、地を揺らすような響きとなって客車を包む。

尋常ならざる事態を予想させたが、通路を行き交う乗客は何一つ気にしていない。乗務員に危険を知らせようとする内に、車両の壁にある赤い非常停止装置のレバーの箇所から、煙が昇って来た。トンネル内の列車火災の危機を感じ、急いで前方車両へと避難誘導するが捗らない。

その内に何時の間にか地上へと昇る方向へと向きを変え、更に何時の間にか高架になった線路を走っている。前と同じように強くブレーキは効きっ放しで、一向に速度は出ないが、相変わらず機関車の推進力は、制御が効かないかのように、強く遅い規則正しいリズムを刻み続ける。決して停めることができないかのようである。すると急に体が浮き出し、列車は先頭車両から落下して行くのであった。

ここで、しまったと思い、夢の続きは再び地上に出たところへとテイクバックする。そして、今度は第三の視線をもって、落下する前のゆっくり進む客車のデッキから、並走する対向車線の線路上を目掛けて飛び降りるのである。そして、飛び降りた見慣れたその場所から、高架した場所を地上へと落ちて犠牲となる、車窓に映る乗客たちを哀悼の意を込めて見送るのである。

ベルイマン映画にもありそうな死の恐怖を伴う悪夢であるが、自身が誰かを引き連れて危機を逃れる姑息さが11月のレクイエム精神に満ちている。

前後するかのように見た同じ列車ものは、近隣の駅へと慣れぬ鉄道を使い、何人かの仲間と移動したり落ち合ったりする夢である。チグハグに行ったり来たりしながら思い掛けない発見をするその情景は、最近も慣れぬ列車に乗った体験などが体に残っているからだろう。
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