Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

改訂コメンテーターリストIII

2010-01-31 | BLOG研究
承前)改訂コメンテーターリストII

2006年8月から2009年12月までの間(追加リスト)

ワイン大好き~ラブワインな日々~ ― 若いころはビールコップ一杯で赤くなっていた下戸ですが、今やとくにおいしいものならワインボトル一本あけるまで進化しました。ワインの秘密を探究していきたいです。


saarweineのワインに関してあれこれ ― このブログはドイツはモーゼル河の支流であるザール地域のワインをこよなく愛する男がワインに関して色々適当に書き込みします。


NEXT DREAM 記憶と記録 ― Ken Funahashi Blog


visionaer ― visionarの社長(柴犬・オス)とチーフたち(実務担当)の日常などをゆる~い感じで綴っています。肩の力を抜いてお楽しみ下さいませ。


あとりえ・チビッコ ― ★ ★ ★ 絵の中で遊ぼう、君はアーティスト ★ ★ ★      


Weiβwein Blog ― +++ テンカワのワイン日記 +++
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索引 2010年1月

2010-01-31 | Weblog-Index



鹿肉を食らって朝の二時まで遊ぶ 2010-01-30 | 料理 TB0,COM0
日本車に信頼性が無い理由 2010-01-29 | テクニック TB0,COM2
根雪となりそうな畝を歩く 2010-01-28 | アウトドーア・環境TB0,COM0
ネットだけでも通じて良かった 2010-01-27 | 生活 TB0,COM0
バイオウェザーではたとえ底でも 2010-01-26 | アウトドーア・環境TB0,COM3
雪中行軍で全身に汗を掻く 2010-01-25 | アウトドーア・環境TB0,COM0
なにもかもが安物臭い経団連 2010-01-24 | 文化一般 TB0,COM0
環境、ただそこにエゴがあるだけ 2010-01-23 | マスメディア批評TB0,COM4
心配になるポップコーンの臭い 2010-01-22 | 生活 TB0,COM0
それを味という、ばらつきの趣 2010-01-21 | マスメディア批評 TB0,COM0
心配になる加速する時間の環 2010-01-20 | 生活 TB0,COM0
保存資料の感情移入する名技性 2010-01-19 | 雑感 TB0,COM0
「つくる」に近い「うむ」の具象 2010-01-18 | 歴史・時事TB0,COM0
万世一系、無窮のいきほひ 2010-01-17 | 歴史・時事TB0,COM0
エコと呼ばれる遺伝子工学食品 2010-01-16 | アウトドーア・環境TB0,COM0
森の中の雪中夜間歩行訓練 2010-01-15 | アウトドーア・環境TB0,COM0
レタスに美味しいアヒルの子供 2010-01-14 | ワイン TB0,COM0
夢見心地の見える壁の中の世界 2010-01-13 | 文化一般 TB0,COM0
悪質新自由主義と戦う自由主義 2010-01-12 | 雑感 TB0,COM2
鹿の角に宿るいらいらさせるDNA 2010-01-11 | 女 TB0,COM0
外は吹雪、暖炉を背にピノノワール 2010-01-10 | 生活 TB0,COM2
権謀術数議会制民主主義の自覚 2010-01-09 | 歴史・時事TB0,COM0
横流し商品は二度注文される? 2010-01-08 | BLOG研究TB0,COM0
年末年始の倒産に巻き込まれて 2010-01-07 | マスメディア批評TB0,COM0
手蔓を手繰り寄せる経済秩序 2010-01-06 | ワイン TB0,COM0
新春に楽しい将来を夢見る 2010-01-05 | 暦 TB0,COM0
仕事初めに際して駆け込み勉強 2010-01-04 | 暦 TB0,COM0
よーみよドイツワインガイド拡大版 2010-01-03 | ワイン TB0,COM6
小動物の軌跡の先に沈む朝月 2010-01-03 | 雑感 TB0,COM0
美食家が誇るヴァルスの音色 2010-01-01 | 音TB0,COM3
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鹿肉を食らって朝の二時まで遊ぶ

2010-01-30 | 料理
木曜日の夜はお呼ばれであった。猪肉か、鹿肉かと尋ねられると、後者と即答える。前者の肉も嫌いではないが後者となるとレストランでも必ず見つかる訳では無い、特に家庭ではあまりありつけない。もちろん家庭でとなるから、ワイン選びが余計楽しくなる。やはり前者の肉よりは特徴が明確である。

その特徴とは獣臭さ以上の苦味やヤニのような香ばしさであって、それだけ挙げれば如何にピノノワールの選択に力が入るかが分かるであろう。

あとから知ったのだが、スーパーでも最後の一つが底に残っていたぐらいで殆ど季節終了だったようである。そのお蔭でフィレ肉が楽しめた。肉の部所が良かったので、ソースで中まで色がつかずに白い色が美しかった。

さてワインは、ベルクシュトラーセのヴァインハイムの近くでお呼ばれであったので、いつも探し続けている嘗て楽しんだあの地方のシュペートブルグンダーの一つとして友人から推薦を受けていたゼーガー醸造所へと出かける。

前日の夜中は吹雪で荒れて、訪問も危ないかと思ったが比較的穏やかな日となった。ハイデルベルクの南にあるヴィースロッホは、自宅から見るとオーデンヴァルトの山が低くなる場所にある幾らかは馴染みのある土地であるが、醸造所に近づくにつれてハイデルベルクのセメント工場などがあって不安になるのである。そこで、試飲をして、お土産に二本、食事に一本を三種類調達した。

食事に選んだのは最も単純な2008年産で早飲みなのだが、それにしてはタンニンも強く結構手強いワインであった。黄土の変哲無い土壌からの葡萄でステンレスで作っている割りに結構良いのである。単品で飲んでいては辛いが鹿の肉の特徴に合わせると最高に繊細さも際立って強さもあり素晴らしかった。あの価格であれほどのワインならば国際競争力満点である。

食事前にMP3プレーヤーのPC接続などを手伝って、自らもはじめてそのような物を手に取って学んだ。印象は小さくて使い辛いというだけだろうか。所詮必要無い。扱い難いウインドウーズヴィスタを夜中過ぎまでいじって帰ってきたら朝の二時であった。



参照:
鹿フィレ肉のクリーミーな香り 2004-11-25 | 料理
ドナウエッシンゲン 2004-11-25 | 料理
豪快に飲みたい赤ワイン 2008-06-28 | ワイン
猪の思い出あれこれ 2006-02-08 | 雑感
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日本車に信頼性が無い理由

2010-01-29 | テクニック
トヨタ車のリコールが話題となっている。欧州にもそれが適用されそうな雰囲気であるが、技術的にはどのような問題があるのだろう。詳しい記事を読んでみたい。

現在乗っているドイツ車も足マットを敷いていて、注意書きにある固定金具を敢えてつけていない。支店のマイスターがなにかを言うかなと思ったが、ご免であった。その結果も十分に想像がついていた。それほどに危険性がないと確認できるからであり、マイスターも私のことを知っている訳で、「あれほど神経質な男が、安全管理に関して見逃している訳が無い」と思っているに違いなく、「何か起こるような状況の前に本人が十分に対処できるだろう」と思っているに違いないからである。一種の信頼関係がここに成立している。

もちろん、事故などの想定外の事象を考えれば、完全にアクセル噴射事故を防げる訳ではないが、ドイツ車と比べると特にトヨタ車などは信用おけないのも事実である。例えばBMWにおいても一度踏んだアクセルが戻らなくなった事がある。その時は偶々隣にディーゼルエンジニアが乗っていたのだが、ミッション車だったのでクラッチを踏んでからキーを廻したと記憶する。アウトバーンのサーヴィスエリアだったので大事には至らず、夜中で暗闇にも関わらず、ミニライトで原因を認定する事が出来た。

アクセルから伸びているケーブルが関節部分でささくれ立っていて引っかかっていたのだ。だからササクレを取り除いてケーブルが抵抗無く戻るように直した。帰宅後の翌日にはBMWの支店で修理させたと思う。その時のケーブルが関節で動かす燃料の絞りの機構は記憶に残っている。かなりの強さで大きなアクションを呼び起こすようになっていたように記憶する。

もう一つの経験は、トヨタ車の試乗での印象であるが、レクサス車が赤信号でなかなか止まって呉れなかったので慌てた覚えがある。その時の印象は、ブレーキがBMWのように直截に効かないこと、メルセデスのようには絞りが旨く行っていない印象と、オートマチックのギアの惰性重みのような如何にも日本車でしか聞かない踏み切り事故の雰囲気を味わえた事である。ディーラーの次ぎの角であり試乗中であったからボンネットを開けて確認するような事はなかったが、扱い難い車だと感じた。

新聞にも書かれるように品質が売りのトヨタ車であるが、適当な価格で万人向けに客観評価が高くなる品質の車と言う印象で、それ以上に素晴らしいとは未だに感じていない。上の件においても、減点法的に機械機構を薄く軽くして、如何にも運転手にメカニックさを感じさせないつくりになっている事は想像出来るのだが、それだけにこうした事故はトヨタ車自体の基本に潜む問題であって少々の修正では解決し難い問題だと考えている。

機械としての信頼性はないとというのが、日本車に乗らない理由である。トヨタの一株株主としては大変困るのだが、事実は事実である。



参照:
Toyota stoppt Verkauf von Autos in Amerika, FAZ vom 28.01.10
緑のシンプルライフ推奨 2007-03-04 | 女
自由や世界観の体臭 2008-04-17 | 生活
新幹線の国際的競争力 2008-05-08 | テクニック
安定と静粛の乗り比べ 2008-05-09 | 雑感
自宅よりも快適な車内 2005-02-14 | 歴史・時事
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根雪となりそうな畝を歩く

2010-01-28 | アウトドーア・環境
電話は開通した。原因はまだ分からない。少なくとも10時間以上は不通であったから日割で料金を還付してもらいたい。

今日は天気になったが、その分気温は低下して久方ぶりに摂氏マイナス二桁へと再び突入した。買物に歩くと底冷えして来た。

道路の雪は凍りついていよいよ歩き難くなってきた。今晩から二晩ほど雪が降るらしい。温度はあがるが根雪があるので、量によると本格的な積雪となるかも知れない。

天気が良いうちにと思って散歩に出かけた。ストックは持たないものの暖かい格好をして歩いた。結局、滑る足元でいつもより時間が掛かって一時間歩いた。

轍の跡は完全に凍結しているので恐ろしくて歩けないが、畝に積もった雪も日が経っているのであまり潜らない。どうしても足元が気になってワインどころではなかったが、音がするので周りを見ると丁度枝切り作業をしていた。
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ネットだけでも通じて良かった

2010-01-27 | 生活
既に数時間も電話が不通である。なぜか最初の二三分ほどはネットも通じなかった。電話はその前に掛けていたのだが、次に掛けるまでは気がつかなかった。

今までにないほど長く不通となっているので、メールで苦情をしようとしたが苦情メールは工事中で、電話しか掛けられない。アナログ回線も含めてどの回線も不通のようで、もちろん携帯電話は使えるんだが車の中に入れてあり、面倒であり有料はご免である。

そうこう二三時関経過して、今度は再びネットも不通になった。これまた不便であるが、これなら建物内だけの電話回線の不通ではないと安心した。三十分程してネットが再び通じて、電話も使えるようになったかと期待したが、それは不通のままである。

停電も数年に一度は二三時間ある。停電に関しては料金の払い戻しの覚えはないが、電話やネットは幾らか料金が割引になった事があった。

仕事次第では電話も都合がかわるので大変迷惑なのだが、掛ける方が電話局に文句を付ける場合が多い。今回は時間にしてかなり長いのでどれほどになるのだろうか。しかし、ネットが通じるだけで大分違う。

雪の量も大した事はなく、そもそも電話線が向き出しになっている事などはない。寒さにしても一時のマイナス二十度に至ろうかとする時とは異なって、零度前後なので全く関係ない筈である。兎に角、早く直して貰わないと、割引以上に困るのである。
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バイオウェザーではたとえ底でも

2010-01-26 | アウトドーア・環境
血圧が高いようだ。週末から頭痛などその傾向が感じられたから、雪の中を歩きに行ったのだが、州明けに掛けて雪が更に積もった。

しかし午前中から陽が射して、散歩に行きたい陽よりになったが、忙しくて行けず寧ろ血圧が上がった。

バイオウェザーからすると、高気圧へと向っているので最悪の時期は既に過ぎたようであるが、高い血圧で耳鳴りまではしないものの結構つらい。

色々と予定していたことも出来ずに、低アルコールの半辛口のザールヴァインでも飲んで、酢豆に豚の豆でも食して寛いで休むとする。
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雪中行軍で全身に汗を掻く

2010-01-25 | アウトドーア・環境
本日は今年初めての月例ハイキングの日であった。いつもの時刻に集合地点に出かけたが誰もおらず、他の用件で通ったらしい仲間にも声を掻けず仕舞いであった。朝から霙混じりで、温度が更に下がってくれれば良いと思ったが、一日中同じような天候で、雪が少しだけ積もった。

こちらは雪中行軍の準備が出来ていたので、パンを取りに行くついでに場所を変えていつもの道を彷徨った。今回はストックも持っていたので歩き易く、何よりも昼なので視界が効いた。極力歩幅を狭くしてピッチを上げて坂を登ると、雪と汗で眼鏡が曇って視界が曇った。

天候が悪く午前中であったので、全走行距離九キロほどには反対方向のものはあっても同じ方向への踏み跡は部分的に三人分しかなかった。

前回の樹木から落ちて落ち着いた柔らかに鳴る新雪とは異なり、クラストした古い雪に降っている雪が薄っすらと積もったもので、久しぶりに降ったスキー場を滑るようなものでゴツゴツと地面に凍りついた層が音を立てていた。

道を失ったお蔭で未だに走破していなかった一部に巡り合う事になって、これまた新たな課題が増えた。しかし、新しい踏み跡がなくてもマウンテンバイクが通っている場所もあり、彼らのヤル気が分かってまた興味が出て来た。本来なら免停中のこの冬場にそれを試す予定であったが、また改めて資金に余裕が出来たら買いたいものである。

裁判費用の件も既に払い込みが済み全てが終わったのが嬉しく、坂道を走りながら色々と考えた昨年の夏の事が懐かしい。

道に迷った挙句遠回りをして目的の経路に戻ってきて、楽しみにしていたスロープを掛け降りたが、夏に考えていたようにスキーが出来る斜面などは全然なかった。あと三十センチほど積もっても、その場所では林が狭すぎて一気に林間スキーをすることなど出来ないと納得した。まだこれから降るだろう春に何処で滑れるか検討をつけたいのである。

二時間以上熱心に歩きまわって、予定していた例会よりも距離は短くてもよりハードな運動となった。明日は全身に筋肉痛が残るだろう。
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なにもかもが安物臭い経団連

2010-01-24 | 文化一般
日本の会社が作ったカレンダーを貰った。住友化学が配った物で、BASFにあるものが五十部ほど廻ってきたものである。

黒谷友香、星野真里、有村実樹とかの着物姿が二月毎六枚に写ったものである。どの方も知らないが、日本の方に聞くと有名な売れっ子のようである。どの方も最近の日本人の顔つきで「弾けた顔つき」なのだが、その美女達にこの着物が似合うのかどうかはさっぱり分からない。

嘗ては着物美人とか、着物が似合う女優さんなどが存在して居た様に思うが、今でもそうなのだろうか?なるほどこの美女達には洋服よりも着物が似合うのかなと、これが日本女性なのかなとか思って観るのだが、どうもシックリと来ない。異文化に対する違和感のみである。なぜなのだろう?

先ずは、その色合いが奇抜であって、しっとりとした色合いが風情が全くないカレンダーに気がついた。そこに観られるのは、小沢何某が日本との再統一を望んでいる朝鮮半島のチマチョゴリの伝統でしかない。さらには、忙しいスケジュールをぬっての撮影なのだろう、填め込み合成がみっともない。そして、独日協会の面々に、この旧財閥系の化学工業は世界からすれば小さな化学会社だが決してけちな会社ではないと説明するにつけ ― 谷崎の美の世界との差異を指摘しながら、この珍奇なカレンダーはあまりにも安物臭い。

なにもかもが安物臭いのである。三菱化学などはもう一寸マシなものを提供しているかと思うが、昨今のご時世からするとこれらの会社が提供する物などこんなものだろう。そんなものを大量にドイツに送りつけてきても誰も喜んで持っていかないに違いない。

そんな事を言いながら家に一部を持ち帰り、文句たらたらと眺めている。
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環境、ただそこにエゴがあるだけ

2010-01-23 | マスメディア批評
映画「ナンガ・パルバット」を観た。新聞評が今一つだったので期待していなかったのだが、大変素晴らしい作品であった。その評価の違いにこそ本質があるに違いない。先ずは観劇後の感想を手短に纏めると次のようになる。

ドロミテの風景から始まり、ナンガパルバットの巨大な壁とパキスタンのディアミール谷の風景に感嘆するのみであった。そこに散りばめられたドラマは、読書では些か物足りないティロルの山の人の生活感や家庭、そして共同体が程よく肉付けされる。そこに映し出される社会が有名人メスナーのそれであろうとなかろうと、それはどうでも良いのである。我々はそこにリアリティーを感じればこの社会ドラマは既に成功している。そしてそれを取り囲む環境は偽り無く我々の視線で映し出されている。

その社会ドラマには遠征隊の隊長である医者のヘアリックコッファー博士が素晴らしく描かれている。それは、その役を演じたカール・マルコヴィッチス(人気シリーズ・コミッサー・レックスで御馴染み)の迫真の名演技も光るが、この山に七回も遠征を率いて、伝説的ソロ登山家ヘルマン・ブールの初登頂を含め、また実の半弟の死なども含めて、1934年から24人もの犠牲者を出した執拗なドイツ隊の「社会心理」がそこに結集しているからである。新聞が語るように白鯨アーブ船長 ― 予告トレーラーにあった映画こそが反捕鯨を掲げたそれであり、調査捕鯨を隠れ蓑とする日本の商業捕鯨の無様さを見せつける ― と比較される戦いのミトースをこの役が体現する。

そして、1970年当時の登山界の状況は、多くはティロルの山で撮影された本格的登山シーンの装備などに忠実に描かれていて、これはいつぞやの「ノルトヴァント」と称したドイツ製ハリウッドパロディー映画とは甚だ異なる。そのリアリズムの核心を行くドラマ表現として、アポロ計画で使われたメタルのビヴァークシートやザレワの12本爪アイゼン、フィンランド製の毛の手袋、ウッドの引っ張り登攀に使うピッケル、カラビナ、登山靴、スパッツ、アルミ製アブミ、ミレーのサックなど、我々が当時愛用していた装備そのものによるシュタイクアイゼンを履いた登攀風景は、決して強調される事はなく真実の当時の登山風景そのものなのである。

「ヒマラヤの雪の原を歩くことには興味がない」と当時の我々が皆唱えていたそのものが、丁度ドロミテでスポーツクライミングを切り拓いていたメスナーの著書「第七級」のその気質こそが、大スクリーンに映し出される大自然に強く投影されている。そして、初めて経験する七千メートルを越えて始まる死の世界への登攀となってクライマックスを迎える。

さてここで映画館から帰ってきてから初めて、軽く流し読みしてあったFAZの批評記事をじっくりと再び読み返す。読み進むうちに殆ど怒りを覚えたのだが、最初に宣言した通り冷静にこの核心を突くためにも、その怒りを抑えて読み続ける。見解の違いというのはどのような批評にも当然なのだがこの違和感からの反発こそがここで書き明かしたかった主題である。

記者は書く、「一体メスナー氏はドラマそれも映画というファンタジーの世界でどのような真実を語ろうとしたのだろうか、理解できない」と。一体この記者は、メスナー氏本人のアドヴァイスによって制作された劇場映画に ど の よ う な 真 実 を嗅ぎ取ろうとしたのだろうか?ラインホルト・メスナーの生い立ちをその自著よりも一層冷徹に描き、記者の言う「人生ドラマにしたゆえに失われる真実」とは何だろう。控えめでありながら殆ど台詞のない母親のその表情に、教会の神父や、父親との何の変哲もない何処にでもあるアルプスでの生活感に、この二人の兄弟の社会と環境を見てはいけないのか。脚色であろうがなかろうが、それはどうでもよい!

墓場の塀の壁を攀じる二人の子供の姿を、頂上の絶頂で見てはいけないのだろうか?弟の無事の帰宅を兄に約束させた母親の表情に二人の兄弟の関係をひっそりと暗示してはいけないのか?父親の表情や態度を隊長のカールに重ね合わされてはいけないのか?

70歳を越える監督フィルスマイヤーは、そのような事をまるでお子様に語るようにハリウッド映画がそうするようには一切説明をしない。なぜならば、メスナー自身もヘアリックコッファー博士自身もそのような事は説明していないからである。しかし、監督は全ての社会を、環境を大自然の中に写し込もうとしている。

現地での撮影が無駄に終わったと言うが、あのアイガー北壁を三つも重ねた規模のルッパール壁を、そして巨大な雪原が流れ落ちるディアミールの渓谷を航空撮影して ― そこの谷の生活にアフガンゲリラたちのそれを重ね合わすかも知れない、そしてアルプスの谷の生活との相似をそこに見つけて愕然とする ― 、ベースキャンプを描いて、ドロミテの山々とかわらないほど画面に描ききった映像は、一時たりとも息をもつかせなかった。この映画を見て退屈する者は、「作りもの」を見ておけば良い。現実は彼らの陳腐で安物の想像を越えたところから始っている。それは丁度海抜7000メートルを越えた領域と同じようにである。

シュピーゲル誌には、当時遠征隊に参加していて、前進キャンプで最後に行方不明になった弟ギュウンターと最後の夜を過ごし、喉を痛めて下山した隊員の生き残りにインタヴューしている。彼は言う、「メスナーサイドには意見を聞いて、此方サイドには事情聴取しに来ていない」と。そして、「素晴らしい映像もあったが、現地ロケした割にはあまりに少な過ぎる」と、しかし、「メスナーの故郷の風景はこの映画の最高の場面だ」と。

ラインホルト・メスナーは、成功者でありメディアの覇者である ― だからこそこの映画では慎重に英雄化が避けられている。だから、より発言力のない者にインタヴューを求めて、それを質す姿勢はジャーナリズムの機能の一つかも知れない。しかし、このドラマ映画を観て、そのような事を突っ込むのは全く検討外れである。なぜそうなるのか?

日本の朝日新聞の一つの御手本である左右対決時の社会派シュピーゲル誌がそれをこうして取り上げるのは仕方ないのだが、ドイツの最高級紙FAZの文化欄でこのような頓珍漢な批評がされるのは、所謂TVを含む映像文化というものに責任があるように思われる。結局、あまりにもホリウッドの娯楽化が商業映画の中心となって仕舞った為に、映像で描き出すべき本質に迫れなくなっている事情がそこにあるに違いない。

未だに、映画はニュース映画か、娯楽映画しか商業映画劇場には掛からないのだろう。映像表現や音響効果を駆使して描かれるべきものは、本当に劇場空間で演じられる芝居以下のものでしかないだろうか?文学作品にも劇場にも、普遍的な真実と思わせるものが存在するからこそ我々はそこに大切なものを確認するのである。しかし、映画にはそれが前提となっていないようだ。

私達は、四十年も前に「死の領域」で起こった事実を追体験などする必要などないのである。私達は、その事件に、こうした冒険に、そうした営みに、なにかを見出すことが出来ればそれで事足りる。ドラマには真実が存在してこそ初めて、スクリーンを抜け出して、劇場の空間を突き破って初めて社会に環境に様々に作用する。

その意味から、この映像作品は第一級の映像芸術であり、最高の山岳映画の一つに間違いない。少なくともアルピニズムが文化・社会的にどのようなものであったかは、この映画を観れば理解出来る筈だ。そして、本当の表現はDVD再生して家庭で観てはいけないのである。ドルビーサラウンドと大画面の表現を家庭で体験するなどというのは只の娯楽でしかない。

映画館では、ニューヨークからのメトロポリタン歌劇場のライヴヴューがシリーズで催されているようである。それはまさに、オペラ劇上演というものが、エンターティメントでしかないことを如実に表している現象に他ならない。

今日に生きていない者は真実に触れることなどは叶わないのである。環境とは、ただそこにエゴがあるだけなのである。



参照:
Gespenster am Weißen Wal, Freddy Langer, FAZ vom 16.01.2010
Das ist nicht die Wahrheit, Spiegel-Online vom 17.01.2010
HP "Nanga Parbat"
映画『NANGA PARBAT』最新予告編公開
真実の行方 映画『NANGA PARBAT』公開の波紋 (月山で2時間もたない男とはつきあうな!)
判定出来ない動機つけ 2007-01-30 | 雑感
遊び心のエゴイズム賛 2007-03-08 | アウトドーア・環境
精神錯乱狂想の神の座 2006-10-25 | アウトドーア・環境
文化的土壌の唯一性 2008-01-03 | マスメディア批評
人里遠く離れるとは 2009-08-22 | アウトドーア・環境
情報巡廻で歴史化不覚 2008-10-27 | アウトドーア・環境
シネマよりもテアタァーだー 2009-04-26 | マスメディア批評
素朴さ炸裂のトムちゃん 2009-01-25 | マスメディア批評
開かれた平凡な日常に 2005-12-30 | 文学・思想
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心配になるポップコーンの臭い

2010-01-22 | 生活
独日協会の会合があったので、マンハイム市内で用事を済ませた。一つは先日洗浄水を入れるときにボンネットを閉めると点かなくなった駐車ランプを購入に行く事で、もう一つは映画を観て来る事だった。

駐車ランプの方はそのタンクの前に腕が一本は入るかどうかの狭い所の蓋を開けないといけないので、結構苦労して切れた球を取り出しておいた。嘗てはあまり複雑な機構がついていなかった車で、エンジンを丁度良い位置に小さくコンパクトに纏めるだけで、ハンドルの切れも良くなったのだが、最近はさらに複雑になってしまっている。

マンハイムの支店に行って部品を6ユーロで購入できた。なかなか他では売っていない壊れたものはフィリップス社の商品であり、結局は自分で直すのだが、やはりメーカーから純正品を購入しておくと安心である。明るい所で、汚れても構わない服を来てゆっくりと作業をしなければいけない。

そこから町中の映画館までは遠くはないので寄り道しているうちに三十分前を狙って急いで駐車場に車を入れる。思っていたようにそこから直接映画館には入れると思ったのだが、高等音楽学校を廻りこんで映画館に入るとお目当ての映画はやっておらずその劇場の姉妹劇場であった。

急いで情報を聞き出すと駐車場も違う所に入れていたようで、そこから上映映画館まで少なくとも五分以上かかる。これは不味いと思って先ずは車を入れ替えるのに十分ほどを費やす。不幸中の幸い、最初の十分ぐらいは科料されなかった。車を映画館の地下に入れて町の中央の方へと急ぐ、あまり覚えがないので道を聞きながら急ぐ。到着した時は既に上演開始時間であったが、窓口は空いていた。

時間がないと急いで駆け上がり汗を拭きながら椅子に座っていると、いつものように長い前宣伝である。映画館の駐車場に停めたので、この無駄な時間も三十分50セントとあまり腹がたたない。それでも、任天堂の宣伝のあとに、反捕鯨映画の予告などを見ていると、本当に正しいホールに入場したのだろうかと心配になるのである。
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それを味という、ばらつきの趣

2010-01-21 | マスメディア批評
有機煎茶を飲み干した。昨年秋に入手した100G入りの袋なので開けてから三週間ももたなかった。その分十分に楽しんだ。

宇治の南山城町と和束町で農薬や化学肥料を極力押さえて栽培されたようだ。味筋としては、そのせいか茶葉にばらつきがあるのか、通常の上級商品のような集中した味覚と纏まりは少ない。逆に、従来の商品が農産品であるのに拘らず、味を纏めて毎年同じように供給出来ていることの方が不思議なのである。

その意味から食に関して、あれが美味い、これが不味いとか言う評価自体がいかに珍奇なものであるかが分かるだろう。もしそうした評価に興味がある向きがにば、マクドナルドに丸、牛丼に丸をつけて措きなさいと言いたい。

茶葉の栽培は知らないが、結局ワインと同じで、有機栽培を心掛ければ心掛けるほど商品の粒は疎らになるので、どうしても最終商品の味のばらつきも大きくなる。するとますます、通常の流通ルートに乗せるための評価というものも怪しくなってくる。

そうしたばらつきをして、そこに風味や趣を感じるかどうかだけなのである。それを味と呼ぶことぐらいは皆さんご承知なのだ。
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心配になる加速する時間の環

2010-01-20 | 生活
部屋の掃除のために片付けをした。毎度の事なので、特に大掛かりな事ではないが、新年となると、昨年中の書類などを整理する事もある。税務関係は既に処理してあるものもあるのだが、まだ残りも少なくはない。

ワインの資料も2009年中に集めたものはファイルからアーカイヴの方へと廻した。ワインの場合は2009年産がこれから出て来るので、新年を区切りに変わる訳ではないのだが、新資料がもう直ぐ送りつけられてくるかと思うと片付けるのは今しかないのである。

昨年のクリスマスカードの挨拶も終えていないぐらい、全く新年の区切りがつかずに連続している感じは変わらない。一体、こうした連続して回転の早くなる時の流れに何時かブレーキを掛ける事が出来るのだろうかと心配になっている。
コメント

保存資料の感情移入する名技性

2010-01-19 | 雑感
CDの無料配達の案内が入っていたので注文した。木曜日に注文して土曜日には届いた。合わせてCD三枚で十ユーロほどカードで支払った。

いつもの如くバーゲン製品から選り繕ったのだが、もう少しで重なる商品を注文するところだった。CD購入は基本的にはレパートリーの手薄なエポックから保存資料として手元においておく商品を選択するので、その中でも中世の音楽となると曲名などは全く覚えていない場合が多い。

精々、どのような写本によってどの時代の曲が集められて再現されているかぐらいの知識でしかそうしたものを選択していない。もちろんそのような作業をして立派な実践をしている演奏団体や研究者音楽家の制作は限られているので、直ぐにどの制作の録音かは思い出すのだが、商品として違うタイトルやジャケットなどが添えられていたら殆どお手上げである。

一般的にこうした分野では制作CDのタイトルを変えること少ないのだが、廉価二枚組みのCDの一枚のタイトルは見落としてしまうことが多々ある。そうした一枚がまた他の一枚と変えて組み合わされているとなると殆どその内容は思いつかなくなる。その通り、興味を持って籠に入れたものは既に所有していたのである。当然の事ながらその三枚全てを十分には聞いておらず、先に購入したものに引かれて安売りで追加購入しておいた商品でしかないのだ。

そうした「難しい」選択に比べると、通常レパートリーの人気オペラなどは安いと一気に売りきれてしまうようである。ドレスデンのシュターツオパーがハイティンクの指揮で演奏した「バラの騎士」の三枚組八ユーロはデジタル録音であり籠に入れておいたら直ぐに消えていた。

購入した一つの二枚組みは、こちらはバロック初期にルネッサンスの頂点を極めた所謂フランドル楽派の多声音楽に対して、歌詞の音律などを基本にその音楽を形成して行くとするセコンダ・プルラティカ様式にあたる音楽を書いた未知の作曲家四人のアルバムである。その音楽は、その様式の代表格となるモンテヴェルディを髣髴させるもので、オペラではないのでそこから歌詞を取り去り、当時ソロ楽器と発展し始めたヴァイオリンの名人芸などを頼りに、その感情移入された音楽を器楽で表現している。要するに、この様式の代表者をモンテヴェルディとする場合、それに対応する器楽でのそれはこうしたモノディー様式と呼ばれる表現に他ならない。丁度二十世紀になってアルザスの作曲家ケックランがそれを遣ったように楽器が語る音楽となる。

その意味からは、プリマ・プラティカからバロックへと移行する過程において、ラッソーやパレストリーナなどの旧主派や後進地の作曲家の復古的な仕事振りが ― 要するに彼らには嘗てのような全幅の信頼感に基づいた確信に代わって殆ど魂胆のようなドグマが生じて、それが感情移入を可能とする芸術表現となっている ―、大きく影響しているのが実感できる。もう一つ購入したCDは、スペインのヴィクトリアの多声音楽であって、丁度その後者にあたる。


購入CDs:
Giovanni Battista Fontana: Sonaten Nr. 1-18
Tomas Louis de Victoria: Tenebrae Responsories
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「つくる」に近い「うむ」の具象

2010-01-18 | 歴史・時事
吾身者成成不成合處一處在 故以此吾身成餘處 刺塞汝身不成合處而 爲生成國土 生奈何 (国宝 真福寺本古事記

昨日に続いて、神話と歴史の関係を考えている。丸山真男は、古事記と日本書紀の相違からこの関係を論じている。興味があるのは、その学術的考察でも古事記でもない。先週出掛けたスキタイ人の事に関心を持っているのである。そもそもスキタイの黄金に関心持っていた訳ではなく、二年前に入手したホメローの「イリアス」を巡る推測の内容が今一つ実感出来ないので、当時の状況を少しでも実感したくて出かけたのであった。

黄金細工は、工作性が良いとしても驚くほど見事なものばかりで、中には宝石まで入れていた。その多くはエルミタージュやウクライナの美術館所有のもので特に後者の国における価値は途轍もないものだろう。ウクライナ南部から中国までの遥か広大に跨る埋葬跡からこうしたものが副葬品として出てきたようだが、その黄金は砂金として収穫されたとしても場所などは特定出来ないようである。

意匠には遊牧狩猟民族らしく鹿を中心とするものが多かった。さらに加工品は酒杯や急須を含めて多岐に渡っている。しかし何といっても二百点の展示の大半は、後年に交易のあったギリシャ人式の武具に並んで馬具につける金細工であった。

現在の感覚から大量の金を馬具に費やす事は如何なる億万長者でも殆どありえないだろうが、遊牧民族にとっては峻馬は如何なる財産よりも価値があったようだ。現在で言えば、金のロールスロイス以上に金の戦車となるであろうか。更に背の高い馬車のうえにテントを張って生活していた事を考えれば、金のキャンピングカーとなるだろうか?これなら現在でもそれに何千万円も支払う人がいるので分かり易いであろう。

スキタイ人について何か分かったかと言えば、少なくとも印欧族の膝下の長い彫りの深い鼻の長い部族であると女性の顔の意匠などから分かった。それ以外に、肝心の「イリアス」に一行ほど記されている通り、馬の乳を使って乳製品を重要な食料として加工する技術を持っていた事である。さらに上の急須には蜂蜜を入れて飲み物としていたようである。

現存する資料はギリシャ歴史家ヘロドトスのものが殆どであるが、女性の部族内での地位などアマゾン族等とも混同されることがあるようで、家も無く文字も持たないまでも軍事力を含めてかなり高度な文化を所持していた事は間違いない。武具や家庭用品などにおいても硬いものには鉄を使い、それほどでもないものには銅を使い ― 銅鏡の磨かれ方の素晴らしさは今日から使いたいほどである、またそれらを合金しながらもしくは皮細工に仕込んでいて、他のものは金を使っていたぐらいで、細かな細工と合わせてその豊かさの片鱗が垣間見える。

そして、葬礼にはテントの中で大麻の種で「炙り」をして、そこへ潜りこんでは恍惚の叫びを上げていたと、ヘロドトスはIVで報告している。

さて、展示の中で最も目を引いたのは、鳥のように手を広げた裸の男がペニスを勃起させて、四方八方へと広がる幹の上に立っている像である。その幹には果実のようなもしくはヘブライの鈴のようなものがぶら下がっているだけでなくて、鹿などがそこに張り付いていた。「おとおちゃん、いがったね」と、東北の鄙びた温泉街にある秘蔵館から出てきた浴衣掛けの夫婦連れのような事しか言えないのだが、初めてみる意匠でもあって、こうして考古学に吸い寄されるのである。

ギリシャ神話のグロテスクであるそれらに比べると、ここにはアニミズムにおける大らかさだけでなくて、やはり一神教へと繋がる明白な「つくる」に接近している「うむ」があると、冒頭の古事記の「なる」に近い「うむ」との相違を確認したのであった。



参照:
鹿の角に宿るいらいらさせるDNA 2010-01-11 | 女
万世一系、無窮のいきほひ 2010-01-17 | 歴史・時事
多極性文化土壌を求めて 2008-09-23 | 文学・思想
欠けて補われる存在 2008-09-28 | 文学・思想
想像力を働かせろ! 2008-07-07 | 文学・思想
出稼ぎ文化コメディー映画 2008-02-14 | アウトドーア・環境
序 トロージャンの不思議 2005-03-17 | 数学・自然科学
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