Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2019年7月

2019-07-31 | Weblog-Index


クラシックな社会層 2019-07-31 | 文化一般
すわ、頂上往復か 2019-07-30 | 生活
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想 TB0,COM4
手取足取りのご指導 2019-07-27 | 音
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
ストリーミング聴視予定 2019-07-25 | 暦
TVドラマのような視点 2019-07-24 | 文化一般
無酸素で挑む運命の先 2019-07-23 | マスメディア批評
サマータイムの清涼感 2019-07-22 | 暦
夏季の"I Got Rhythm" 2019-07-20 | 雑感
一昨年振りの金鳥の夏 2019-07-19 | 生活
すっきり気持ちの良い夏 2019-07-18 | 生活
金の取れる音楽家 2019-07-17 | マスメディア批評
音楽祭中継一覧調べ 2019-07-16 | 暦
クレッヅマー風の音楽も 2019-07-15 | 雑感
少しは戻る潤い 2019-07-14 | アウトドーア・環境
破壊された壁画への観照 2019-07-13 | 文学・思想
ぼちぼち晩夏の準備 2019-07-12 | 音
オペラが引けて風呂と酒 2019-07-11 | 歴史・時事
KZ訪問が意味するもの 2019-07-10 | 音
首は飛ばずに血糊が飛んだ 2019-07-09 | 文化一般
欧州のユダヤ人感への評価 2019-07-08 | 歴史・時事
新制作「サロメ」評価の基準 2019-07-07 | マスメディア批評
Brexit前の夏のバーゲン 2019-07-06 | 生活
涼しいうちに滋養供給 2019-07-05 | ワイン
郷に入れば郷に従え 2019-07-04 | 雑感
一寸気持ちのよい夏 2019-07-03 | 生活
ある晴れた日の為に 2019-07-02 | 生活
未だ嘗て無いような合致 2019-07-01 | マスメディア批評
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クラシックな社会層

2019-07-31 | 文化一般
ヴェルビエールからの生中継を流した。今最も人気の高そうなエベーヌ四重奏団の演奏を初めて観た。既に来年のベートーヴェンマラソンの券を入手したが、まだ聴いたことも無かった。五重奏の演奏だったので、四重奏団としての実力は分からなかったが、映像だけに色々分かるところもあった。先ずはモーツェルト一楽章でチャラチャラと弾いていたので、なるほど名前の通りのアンサムブルだと思っていたら、そのあと奏法も変えてきていた。器用な人たちの様でなるほど多様に対応する柔軟性も人気の秘密なのかなと思った。しかし、後半の「フロレンスからの土産」も含めて、ベートーヴェンの四重奏曲を弾き切る四重奏団ではないと思った。共演するベルチャの方が名前からしてそれだけの表現力はあるような感じがしたが、実際のところは分からない。券が売り切れるだけの四重奏曲への入門を容易にする器量はあることを確認したが、人気程の実力でもないのも分かった。少なくとも弦楽四重奏をよく知っている層には飛びつくだけの魅力は無い。まあ、とにかく齧り付きで四曲づつ生で聴く価値はあるだろう。細かな技術的なところも判断できると思うが、ベートーヴェンの解釈に関しては端から期待しない。

マウスの電池が切れかかった。赤信号が出てからでも二三日使えている。ロジテックが保証している低エネルギー消費は証明されて、二年半ほども単三で使える。キーボードも数週間前に代えたところで、こちらは初めての交換かもしれない。否、2013年6月購入であるから、二回目とすると、三年使えることになる。その通りだ。つまり、次回の交換は2022年6月ごろとなる。マウスの方は2022年冬まで持つかどうかだ。大したものである。非接触型の発光装置の節電技術に違いない。キーボードもマウスもそれまでつまり十年近くはもちそうだ。前世紀には私たちの時代には益々科学技術的な発展が鈍化してと言われていたので、今のような工業技術の発展は予想されていなかった。しかしこの十年ほどで大きく変化している。

そのデジタルの発展の音楽的な社会影響に関して、スイスのベックメッサーことニフラー氏が新聞に記事を書いている。イタリアでのデジタル化時代のその活動の大歌劇場の将来の担当者などが集ったセミナーからの報告である。そして基本情報として、英国でのアンケートから、18歳から25歳の青少年の過半数が最も愛しているのは管弦楽団のクラシックサウンドだという驚くべき回答結果が発表されて、その背景を予想するとゲームソフトにおける音楽だというのである。それどころか14歳から34歳のメディアを利用する層では二割がクラシック音楽に興味を持っていると回答している。その多くはインスタグラムのプロダクションクリップのようである。

また送り出し側では、九割以上が何らかのデジタルライヴ制作をしていて、オンライン、TV、映画館への中継が含まれているというのが英国事情のようだ。過半数がクリップとして、五分一がライヴ配信をしているらしい。

そもそもハイカルチャーをものとしているドイツでの需要社会層は小さく、それでも百五十年前の十倍規模になっていても、社会全体の7%から10%の少数派に留まる。しかし、デジタル情報のグローバル化でその数は世界で一億人が欧州のクラシック音楽に関心を持っているという事になる。

今話題の新制作「イドメネオ」のセラーズが訴えかけているのはこうした人々に対しての制作であり、まさしくクレンツィスを使ってソニーはこの層の市場を開拓しようとした。プロジェクトの背景はそこにあり、我々ハイカルチャーに興味がある者にも同時に働掛けようとするには所詮無理がある。私はむしろ、来月ブランデンブルク門でのオープンエアーでの本物のベートーヴェンの音楽の力に期待したい。嘗てはセラーズこそが、そのもの通常よりも少し難しいところへと聴衆の意識を啓こうとしたのではないか。



参照:
無線マウス二年半の実力 2015-11-28 | 雑感
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
ドルトムントに電話する 2019-05-17 | 生活
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すわ、頂上往復か

2019-07-30 | 生活
久しぶりに頂上往復コースを走った。調べると一年ぶりのようだ。外気温も摂氏20度を超えていたので厳しかった。完走だけを目指したので大分時間が掛かっているが、先ずはやり遂げた。次へも計算可能となる。もう一度、走りたい。それでも足の疲れも残った。解しに軽く走って来よう。

週末は幾つもの中継を見聞きした。日曜日の新制作「アグリピーナ」は圧巻だった。しかしストリーミングの調子が悪く、後半しかまともに鑑賞できなかった。それでも前半の序曲から聞き所は満載で息をつかせなかった。既に二週間限定のオンデマンドで出ているので、前半を通して見なければいけないと思っている。詳しくは改めるとして、シーンズンを通して世界で屈指のオペラ上演だと思う。特に管弦楽のベースに声楽が乗る和声の妙は、ドイツバロックの神髄のような響きを引き出していて、室内楽的に技術的に秀逸な演出と共に全く飽きさせない。

その他同時進行で録音していたロスアンジェルスからの中継録音はメータ復帰後の指揮で期待したが、あの交響楽団は音楽的に全くアイデアが無いようで、ビッグファイヴ一の給料を取っていても、その芸術的価値は完全に番外の程度だ。来週再放送されるもう一つのプログラムに期待しよう。

ヴェルビエールからの中継も試した。提供しているのはメディチTVなので無料でも一つメールアドレスのみを提供しなければいけなかった。それだけで生放送は見れた。あの山の上のコンサートホールや教会から中継される。日曜日の朝の生中継などかつては到底考えられなかった。あの坂道を放送局の車がベルンやジュネーヴから車を走らせるだけで大変なことだからだ。日曜日の朝のあの山の上の空気や陽射しを感じられる生中継はそれだけでとても気持ちのよいブランチだった。

カプソンとシフのデュオ、先ごろキャンセルの知らせを受けたシフも室内楽ならば問題なく弾いていて、想像していたのとはまた異なった。ベーゼンドルファーを弾いていたのも意外だった。

夜のコンサートの指揮者シャニはとりわけ期待が大きかったが、如何も駄目のようだ。イスラエルフィルでの断片を見たりすると、四十歳以下の世代ではピカイチの才能だと見えたが、ここでの室内楽団を指揮しても冴えない。共演のレーピンは悪くは無かった。幾らでも限られた時間でやれることはあると思うが、その痕跡が見えなかった。直さなければいけないところにメスが入っていない若しくは指揮上の工夫が無いように受け取られる。再びユダヤ系かと思ったが、キリル・ペトレンコクラスが直ぐに出てくるわけがない、明日現れるかもしれないが、二十年ほど出ないかもしれないし、一世紀待たなければいけないかもしれない。殆ど次の原発事故に大地震に備えるような、救世主を待つような塩梅である。



参照:
予想を裏切って呉れる 2018-07-12 | 文化一般
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
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無視にしか価しないもの

2019-07-29 | マスメディア批評
土曜日のザルツブルク初日の新制作「イドメネオ」の新聞評が出ている。先ずはその〆の一節。

「エートスとしてこのような脅威的徒党は無視にしか価しない」

つまり、「ザルツブルクの音楽祭でモーツァルトの音楽へのヘイトであったり、それをごみとして取り扱うことを基本コンセプトとして活動することは要注意だ」としている節に続いている。勿論これは上出来だった演出家のオープニングでの温暖化に対抗する演説内容程に上手く行かなかったその演出内容についてでもある。

そしてまた二年前にトンデモ演奏を繰り広げたクレンツィスが今回は三か所しかスペクタルな演奏を指揮できなかったことについても触れている。つまり、状況の分かっているフライブルガーバロック合奏団を同等のパートナーとしたことで、分かり易く、多面に亘り、表現を聴けるようになったことに反してとなる。合唱の大きな功績や歌手の横においてという事である。

それでも前日のSWR放送管弦楽団演奏会時の出で立ちには至らないが、その足元は明らかに議会外運動家の様相だったとされる。そして、前夜には、そのショスタコーヴィッチの「レニングラード交響曲」を振るにあたって、服装などでその指揮者を絶対判断してはいけませんよと“Don‘t judge a girl by her T-shirt“と書いてあるのと同じだとメッセージを読み取る。

そこでは、そうしたお膳立てが「特別効果」となって、ドイツ軍の封鎖前のレニングラードの平安への賛歌に最初の攻撃的な唸りで以って鞭が入れられる。一体この主題はどのように歌われていた!指揮台の独裁者ムラヴィンスキーでさえ、レニングラードフィルハーモニカーの黄金の弦楽の音色で、戦時下やテロ下でさえ音響的なヒューマニティーを決して失うことは無かったのである。

クレンツィスは、世界大戦をショーにして、その侵略の頂点で弦楽奏者を立たせる。そして、対抗させて金管楽器群、木管楽器群と、その劇場においては、もはや人はなにも聴かないことが謀られているが、体験ジャンカーにとっては更なる刺激の増大が必要とされて、過剰で刺激が麻痺する様になることが謀られる。そしてまた緩徐楽章でも彼は留まることない。なぜならば、掻き毟り、騒ぎ立てる以外に、語り、感情的に表現する技術的な手が彼には無いからだ。

演出に関しては来月の放送で確認するしかないが、少なくとも音楽的には二年前の話題性も何もかもなく、残るのは無様な足ふみを繰り返すこのカラヤン二世指揮者の無能な指揮振りだけだ。恐らくザルツブルク音楽祭史上最低のモーツァルト歌劇による初日だったと思う。あれだけ批判された同じところで上演された小澤指揮の「イドメネオ」でも音楽的には天才作曲家に寄与する指揮であった。

正直なところこのテオドール・クレンツィスと言う指揮者はその指揮だけは一流だと信じていたが、今回序曲からその始終踏み鳴らす音は、まるでルイ太陽王の宮廷楽長リュリが長い指揮棒で自身の足を突いてそれがもとで亡くなった逸話を思い出すほどの無様さだった。勿論、リュリほどの人物では無い事は分かっているのだが、なぜあそこまでやったのかを考えている。前々日のバイロイトでの指揮者ゲルギーエフの鞭入れも不自然極まりなかったが、これはそれが効果として表れるどころか、その堅いベースラインを上書きするように、とても非音楽的な情報となって、この指揮者の基本的な音楽性の程度の低さを示すだけだった。こんなに硬直したリズムしか取れない指揮者とは気が付かなかった。この様子なら精々二流の才能の指揮者で、そのペテンの仮面がこんなにも早く一挙に剥がれるとは思わなかった。なによりもブラック労働で仕込む自身の管弦楽団が無くなったのが致命傷だった。ブラック労働抜きではそれ程しか表現の出来ない指揮者、一体誰だ、あんなものを仕掛けたのは!



参照:
Kein Müll auf dieser Bühne, Jan Brachmann, FAZ vom 29.07.2019
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
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輝く時へと譲るべき大人

2019-07-28 | 文学・思想
今晩はザルツブルクからの放送がある。ピーター・セラーズ演出「イドメネオ」の初日である。オープニングには初めてオーストリア首相が挨拶していた。初日にも多くのリーダーが集うのだろう。セレモニーから地球温暖化問題をセラーズが取り上げたことで、完全に政治的な催しとなっていた。そして「イドメネオ」でもそれが扱われる。

特に注目されるのが「ありのままの私」が再びここでも強調されていたことで、モーツァルトの作品から不要と思われるものを削除してある。セラーズと指揮者のクレンツィスが同意して削除したようだが、同様な改変は昨年の「ティートゥス」にもあったので驚きには当たらない。寧ろその理由の一つとしてナショナリズム的な「国のために死をも辞さない」とする"No, la morte io non pavento" をヒトラーの1936年ではないのだからとして、ごみとして、そしてヴォルフガンクをファザーコムプレックから救い出してやる作業をしたとするところが興味深い。

元々リベラルのセラーズの主張であり、次世代の為にこれからの社会への決定権を子供に更に多くとする主張は先頃日本の参議院選でれいわ新選組の主張として安富歩がアピールを繰り広げたモットーそのものである。

さて木曜日のバイロイト初日の新制作「タンホイザー」の新聞評が載っている。まさしくそのリベラリズム派にそこで描かれたアナーキズムがあり、それに対抗するものとして法があるとしている。自由と安全、革命家と巨匠ヴァークナー、アップデートされるレジーテアターと歴史的様相の歌劇とを対置させてエンターティメントにしたのがクラッツァーの演出だったとする。ルガトーショコラのフィギュア―にフォイヤーバッハならずマルクスの資本論を読む。

当日13時19分にヘリが緑の丘のバス停に降り立った。デビューを飾った指揮者ゲルギーエフである。終演には盛んにブーの洗礼を受けた。筆者は、多くはプーティン一派としてのまたは反同性愛者への抗議の一つとして理解する。その通りプーティンの義兄弟であるシュレーダー元首相が珍しく赤絨毯に五人目の奥さんと現れたのも指揮者にも招待されたからであろう。こちらも明らかに親ロシアの政治的表明でもあった。

既にペテルスブルクの白夜祭でこのドレスデン版を振って準備をしていて、「軽く、柔軟性に富み、能動的に攻撃的なスイングで、狙った通りのアクセントを付けて聴かせ、熱を放った」と全くバイエルン放送協会のコメントとは正反対の評である。要するに私に言わせると前日の記者会見でのカタリーナの談話から印象操作がされていたというのが事実だろう。なんと言っても新顔に手解きをしようとして手ぐすねを引いて待ち構えていた初代音楽監督の指導の時間をすっぽかしてしまったのだ。どんな嫌がらせがある事か。若干リテラシーの低いジャーナリズムは乗せられるのだろう。公平に見て、ここ十年にバイロイトの劇場で指揮した中では、キリル・ペトレンコは別格としても、このゲルギーエフの程度に匹敵する指揮者が思い浮かばない。あとは皆二流の指揮者ばかりだ。精々、今年から指揮するビュシュコフが指揮技術的にも上回るぐらいだろうか。

そして歌手陣に関しては、後を引く歌唱でもリリックな歌唱でもない自らの葛藤を表現したアイへを最初に挙げて全く私と同じだ。会場でも声が小さいところは無かったのだろう。少なくとも放送では十分な声が出ていた。そして主役のグールド、勿論文句は無い。個人的な印象ではまだ期間中に更にいい歌が歌えると確信する。更に会場で一番湧いていた代役のツィドコ―ヴァの安定した狙いを定めた歌唱とその晩の名人芸を披露した燃えるメゾソプラノ。同様な持ち役となる「影の無い女」の染屋の女房をハムブルクで歌い大変評判の良かったアメリカ人歌手よりも同じタイプながらこちらの方が断然良かった。そして見つけものとして挙げられるのはエリザベートを歌ったリサ・ダヴィットスンで、こちらはミュンヘンで既に予行練習をしていて評判も良かったので驚かない。ハルテロスの役だが、断然こちらが声も良く才能がある。但し放送でも批判されていたように何回か歌ってドイツ語がもう少し分かるようにならないといけないだろう、恐らくその批判が正しい。

さて、ゲルギーエフ氏、ブーを受けた公演後に再びヘリでザルツブルクに向かったようだ。まだ数回往復しながら指揮をして来年はいつものようなドイツの地方の音楽監督に指揮を譲る。バイロイトが少しだけ音楽的にも輝く時かもしれない。



参照:
Glanz und Elend der Libertinage, JAN BRACHMANN, FAZ vom 27.7.2019
ホモのチャイコフスキーは? 2013-12-24 | 文化一般
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
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手取足取りのご指導

2019-07-27 | 
日曜日に中継されるオペラ「アグリピーナ」初日の評判がとても良い。フランクフルターアルゲマイネも絶賛している。ペトレンコ体制でここまで話題になったオパーフェスト二つ目の新制作はなかった。最初の三年間はペトレンコがバイロイト音楽祭に出演して夏場に新制作を振らなかったこともあるが、今回は演出音楽共に新制作「サロメ」の陰には隠れていない。

初日の報告で流れた僅か二三秒の音で判断しただけであるが、管弦楽も驚くほど巧い。指揮者のボルトンも古楽の専門家として有名であり、スペインでも活躍していて、手元のCDでセイントジェムスバロック管弦楽団等を振っているのを聞いてもそこまでとは思っていなかった。

新聞によると多くのヘンデルファンは、以前のペーターヨーナス時代の派手な演出を期待していて、内面的な情感をバリーコスキーがスペクタクルに演出すると期待していたのではないかと書いている。結果は全く異なって、24歳の才能満ち溢れる作曲家が創作したコーミックの音楽を徹底的に演出したとある。典型がダカーポアリアであって、一回目とその繰り返しに大きな意味を齎した。またアリス・クート演じるアグリピーナが登場する仕草に、若しくはファッジョーリの演じる息子のネロの目の動かし方、手振り身振り、表情の練習が何回繰り返されたことだろうかと書いている。

勿論歌手は全員賞賛されている。そしてそれを支える通奏低音と弓を持ち替えた座付管弦楽団が歌の表現を準備する。三時間半に亘って一時も弛緩する事の無く、ヴェルベットと絹に衣文と暖かい輝きのある音楽がイヴォ―ル・ボルトンの指揮で繰り広げられるとなる。

断片を聞いて、この批評を読むと、やはりこれは音楽監督キリル・ペトレンコの仕事ぶりが実を結んだものだと思う。もともと、ヘンデルフェストのカールスルーへなどとは楽団の程度が全く違うが、それでもドレスデンの音色やベルリンの巧さには追い付かなかった。しかし、こうした古楽の弓に持ち替えての演奏を先日のフランクフルトの座付楽団などとは全く次元の違うところでこなす楽団を見ると、日頃の鍛錬が実ったとしか思われない。チェロやヴィオラ陣などでもペトレンコ指揮では本当に真剣に音楽をしているからだ。

バイロイト祝祭初日演奏について一言。演出に関してはよく観ていないので雰囲気しか分からない。しかし中継の響きは美しかった。あの音響ならば再びペトレンコに振って貰いたいと思わせる。カタリーナ・ヴァークナーがバイエルンの勲章をもらったところでなんだが、慰労賞として早めに受け渡して貰いたい。今年はメルケルらも来る予定があったので極力スキャンダルを避けて、機嫌の良い記者会見としたが、地雷は隠されていた。それはデビューのゲルギーエフの練習を二回もサボった情報を面白おかしく説明したことだ。中々精妙な印象操作だったと思う。そもそも時間も無く飛び回っている指揮者に所定通りの練習を約束しての契約だったのだろうが、それすらも使わなかったことで、肝心の初代音楽監督の手取足取りのご指導が儘ならなかった。もしかするとそれを避けて出かけなかったことさえあり得る。

そうなると最早この「標準よりは上のオペラ指揮者」とBRに生中継された指揮者を手懐けることもならず、印象操作で如何に駄目かという方へと評価を推し進めた。確かにあのリズム取りや「ペトレンコなら百倍の巧さの指揮」の職人的技能まで指摘されることとなった。これも歌手の視線を見ていると「おかしな爪楊枝での指揮」の問題点も明らかだった。

しかしそれでもインタヴューで話していた「バイロイトの音響が楽音を歌声にする」という言及のままに、合奏が乱れてアマルガウになる反面、綺麗な音も出しており、初代音楽監督のバランスでは聞けない美しさがあった。なるほど最近この奈落で振っている指揮者の中ではやはり才能は有るのだろうが、どうしてあんなと思わせる指揮をして、練習をしないことで、細部を磨く指揮からそれを言い訳として逃れている。

まさしく彼が思い描いていたのはインタヴューにもあったクナッパーツブッシュの指揮のような練習をしないことでの緊張感みたいなものだったのかもしれない。今時そうした所で自分の実力を誇示しようとする姿勢は珍しい。それだけ中々上手くやっているなと言うところも少なくは無かった。



参照:
見かけとその裏 2019-06-19 | 音
欧州のユダヤ人感への評価 2019-07-08 | 歴史・時事
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真夏の朝の騒がしさ

2019-07-26 | アウトドーア・環境
朝のうちに何とか走れた。銀行に立ち寄る用事があったので、いつものコースを走っても良かったが、パン屋が開くまでまだ十日ほどあるので、久しぶりに近所の葡萄山の上に出かけた。遅くなったので陽射しは充分だったが、谷筋は風が抜けるのか日陰で比較的条件は良かった。それでも外気温は摂氏24度であり、殆ど限界域である。

夏の朝の山道は騒がしい。地面にはハエが集って真っ黒になっていて、森の中も獣や鳥が動き回っている。走っていても羽音が、自身の足音よりも大きく、そこら中から聞こえる。そのものヤナーチェック作曲の「賢い女狐」に出てくる音形である。近づいたり遠のいたりとこれがまた騒がしい。前夜にはイナゴが部屋の中に飛んで入ってきていた。最近のニュースによれば欧州大陸は以前からすると千キロメートル南の気候と同じになっているとあった。ここからすれば丁度北イタリアの地中海沿岸のジェノヴァ辺りになるだろうか。

暑いからと言って涼しい室内に一日中座り込んでいると腰がやられる。このままでは病気になると思って、山登りコースの最初の急坂だけでも試しに走った。久しぶりに走ると勾配が少し緩く感じた。足取りは遅いかもしれないが、この条件下での試走としては満足だった。これで頂上への動機付けが整った。戻って来て体重を量ると75㎏を切っていて安心した。

車中のラディオは、前日のバイロイトでの記者会見の話しだった。初日の練習を二回しかしなかったことなど、指揮者のいい加減さの話しとその指揮者がプーティンの手下である問題点が言及される。同時にそれをフモーアとしていた。更にバイエルンの勲章をカタリーナ・ヴァークナーが得たことで近々の退陣は無いであろうという事と、話題となっている残券についての言い訳が支配人からなされた。それによると、不必要になった券を積極的に買い取ることで、ブラックマーケットに寄与しないようにしているという説明である。これは事実であり、実際に実質的に翌年の初日のものに交換して貰ったこともある。つまり今に始まったことではないのに、これを理由としているのはやはり真実ではないのだろう。基本的にはその価値が下がり不要になる入場券が増えているという事でしかないだろう。

そして来年の幕開けの指揮者となるインキネンについても若干触れて、バイエルンの放送局では2020年の新制作への関心に更に焦点を当てていた。要するに未知の指揮者ではないがあまり知られていない若いフィンランドの指揮者インキネンのプロフィールである。メルボルンでの「指輪」以上に東京での「指輪」ツィクルスがその顔になっていた。ザールブルッケン・カイザースラウテルン程度の放送管弦楽団の指揮者としての活動よりも訳の分からない東京での活躍の方がプロフィールになりやすいという事である。

そして最も意外だったことは、カタリーナが三人のブリュンヒルデについて、はっきりとその練習スケデュールの為だと言及していたことで、話しが通じないのは「慣れていないブリュンヒルデが長く準備できる」という説明だ。逆ではないか。これを纏めると三日間歌えるようなブリュンヒルデは居なかったという事になる。恐らくそれが事実だろうが、やはり若い演出家は何かを考えているに違いない。兎に角、ずぶの素人とまでは言わないが大江のように一年目で駄目になる可能性も高い。まさしく、大きな賭けと書かれるが、一体これで何が得られるか?ハイリターンが考え難い。

そして2021年に女性の指揮者が登場するらしい。その名前は公表されていない通常ならば活躍しているシモーネ・ヤングが挙がるところだが、恐らくヨアナ・マルヴィッツで間違いないだろう。話題性もあり、少なくともヤングよりも期待が大きい。

バイロイトからの中継を観ていて、シュレーダーが一番新しい奥さんと現れたので驚いた。それほど頻繁に訪問していない筈だが、チマチョゴリの奥さんをエスコートしていた。その手のことに関心が無いので初めてその韓国女性を見た。正式には五人目の奥さんらしい。



参照:
Digitalisierung ändert Alles!? 2017-09-08 | SNS・BLOG研究
州立歌劇場でアニメ鑑賞 2019-01-29 | 文化一般
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ストリーミング聴視予定

2019-07-25 | 
ベルリンからデジタルコンサートホール新シーズンの予定表が届いた。一週間無料券が付いているので欠かせない。更にネットではなくてプログラムをカレンダーに沿って吟味しやすい。同時に、一割引きの年間予約券への誘いである。

年間定期券が割引で134.10ユーロ、週券が9.90ユーロ、つまり只券を除いても13回分の価格に相当する。そしてプログラムを見ていく。

先ず、オープニングはラディオで聴きながらも映像も早く見たい。ルツェルンに出かけるまでに見たい。生で見るという事だ。翌日の二回目放映のブランデンブルク門での公演はTV放送で見る。三回目はジルフェスタ―コンツェルトはARTEが放送する筈だ。四回目は1月11日のスークプロ、五回目は同26日のマ―ラーの六番、六回目は2月15日のラフマニノフ国内ツアープログラム、七回目は4月19日のコンサート「フィデリオ」、八回目が5月1日のテルアヴィヴからの中継以上。

この中から二回は要らないので、六回しか必要ない。その間に途中のネゼサガン指揮とかロート指揮のヴァーレーズとかはアーカイヴで見れる。更に無料券一週間で全七週間は59.40ユーロで見れる。こうなると流石に倍以上は出さない。年間見れる時間も限られていて、来来シーズンでペトレンコが更に多く振るようになっても10週間は超えないのではないか?アンケートにも書いたように、ハイレゾ音源を定期会員には配給して呉れると言うのなら考えても良い。しかし今のままでは一週間券で充分なのだ。

SACDに付いていた無料券を忘れていた。これを足すと、あと五枚しか必要ない。つまり年間49.50ユーロ支払えば事足りる。妥当な金額だと思う。



参照:
伴う技術的な興味も 2019-05-09 | 雑感
居眠り防止をどうするか 2018-07-30 | 生活
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TVドラマのような視点

2019-07-24 | 文化一般
来年の「フィデリオ」新演出に関心を持ちだした。先日のバーデンバーデンからの冊子に演出に関して言及してあったからで、未知の演出家マテヤ・コルゼニックが気になる。このザルツブルクでもゴーリキ作「夏の客人たち」を演出することになっていたが五月頃に辞退した。理由は分からないが表向きは56歳のスロヴァキア女性の健康上の理由となっている。本当に健康の問題ならば気になるが、しかし月末に他所でシュニッツラー作「孤独な道」が再演されているようでもある。結構面倒なおばさんではないかとも思う。

彼女のホームページからそれらの演出のトレーラーを見ると可成りいい。何よりも気が付くのは人と人の間に強い緊張感や関係性が舞台で築かれることである。そして映像感覚が嘗ての丁度彼女が慣れ親しんだヴァルシャワパケットの中での映画やTVドラマ風の色合いを作っている。それによって生じる効果は我々の知るアメリカの影響を受けたその画面とは違う。SECAMで映された東側の室内の調度の雰囲気とか色合いである。シックと言うよりもくすんだ感じが何を表現するのか?

それを「フィデリオ」のそれも冊子にあったブルーの背景に収めて見ると、やはり独特の緊張感がそこに生じる。例えばフィデリオとヤキーノの関係から一寸家庭劇みたいな延長でそれが描かれることになろう。現行のミュンヘンの「オテロ」におけるもう少し心理描写的なものよりも明らかにTVカメラが撮っているような視点もそこに存在するかもしれない。

また彼女の演出の特徴は、長い作品でも凝縮して切り取ってしまうことのようだ。その割には、「オテロ」のニールマイヤ演出のような場の気分をあまり感じない。寧ろ登場人物の発する場を感じる。オペラ初演出でとても気になっているところが歌を歌う身体の向きとか動かしかたであるが、そのこと自体が彼女の演出の核にあるようだ。つまり、声楽上の技術的なアドヴァイスを受ければ形を作れるのかもしれない。しかしどう見てもその佇まい自体がTVドラマ的で、広いオペラ舞台ではどのようになるのか。

ここまで演出を想定して、キャスティングのマルリス・ペータセンを思い浮かべると、更にバーデン・バーデンの奈落と舞台の関係そしてあの音響を想い描くと、可成りインティームな「フィデリオ」になるのではなかろうか。それはそれでフィルハーモニカーには小さい音で大劇場に通る音が要求されるだろう。

こうして考えていくと、キリル・ペトレンコの演出への指向も分かると同時に、その音楽性との関係も明らかになってくる。当然のことながらそこまで音を絞るとダイナミックスレンジが巨大になって、一体どのようなレオノーレ序曲が演奏されるのだろうかと思う。やはり三幕での三番になるのだろうか?思い描くだけで、鳥肌が立ちそうで、ぞくぞくしてする。



参照:
すっきり気持ちの良い夏 2019-07-18 | 生活
「キリルと高度に一致」 2019-02-05 | 文化一般

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無酸素で挑む運命の先

2019-07-23 | マスメディア批評
日曜日夜中のスイスからの放送は観れなかった。中継サーヴァーが弱かったようだ。生放送も問題なく流す方法は習得した筈だが入れなかった。結局オンデマンドを観た。ルツェルンの音楽祭を振り返る番組で、アバド死後の2015年にネルソンズが振った時のマーラーの五番である。最後まで飛ばすと客席に今年最後の登場を控えるハイティンク氏がどうも奥さんと一緒に居て、拍手していた。
Andris Nelsons, Lucerne Festival Orchestra - Lucerne Festival 2015 - Gustav Mahler


同じようにミュンヘンの劇場からの中継で地域ブロックの掛かっているアジア向けオープンエアー中継録画再放送が観れなかった。こちらも重すぎたようで入れなかった。入れたのは終わるころだった。それでもDLを試みたが転送速度が遅過ぎた。生放送と異なって無駄な時間が無かったので、色々やってみる時間が無かった。放送されたのはMP4で結局オンデマンドの質と変わらないことを確認した。そこでなにゆえにオンデマンドとしなかったか?やはり著作権の切れていない曲が絡んでいるのかもしれない。

週末にノイエズルヒャー新聞がペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の正式お目見えについて、ブロムシュテット伝を纏めたユリア・シノポラ女史が書いている。彼女のジャーナリストとしていいところは、インタヴューが取れないならば、その映像からでもしっかり文字起こししてその内容を吟味しているところである。ジャーナリズムも科学的でないとその伝えるものが何の意味も持たない。

既にプログラムお披露目で聞いている内容であるが、こうして文字にして「(合唱交響曲は)あまりに保守的なプログラム」でと謝りながらと綴るとその意味が出てくる。全人類の表現となると勿論我々は途轍もないその表現内容を否応なく期待してしまう。ハードルを上げているのはまさしくキリル・ペトレンコ自身であるから、大変な自信である。本人の言葉を借りれば「無装備でエヴェレストに挑む」人の言葉となる。

それに劣らずチャイコフスキーの解釈に関しても、その解釈は、自発性があり、息づいて、直截な響きと、間違ってはいけないのは、その自発性は、学究的な分析によって意味の明白化に寄与しているとする。そして月並みなマンネリズムに抗う練習を厳格に行ったと宣言している。

しかし続いてそれが決して楽譜尊重主義へと陥るのではなくペトレンコにとってのチャイコフスキーの全人格的なメッセージとなっていて、それがダイレクトに聴衆の心を鷲掴みにするとしている。この部分は若干不明確で、どこからどのようにメッセージを引き出しているかが楽譜だけではないとしても、それ以上に学究的な話になる。楽譜尊重とは異なっても結局文献尊重となる。要するに指揮者の知的な水準が問われ、科学的な判断が避けられないところである。

運命の動機のことに関して、そのプログラム化、イデーフィックスについての言及に続いて、その音楽が示す、如何に人は運命と共存するか、それは「意志の強さなのか、民衆の身近に於いてか、それとも自然の中に於いてか、それとも舞踏へ、踊りへ、ヴァルツァーへの逃避で以てか」。こうして考えて行くと、更に前半のシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲との音楽的なプログラミング上での繋がりへと思考が進んで行く。勿論キリル・ペトレンコの中ではこの二曲はそれなりの意味的な繋がりがあって、バーデンバーデンでのプログラムにもその糸口を見つけようとする文章が載っていたが、シェーンベルクはマーラーとは異なるので答え合わせはそれほど容易ではない。



参照:
Auf den Mount Everest ohne Ausrüstung: Kirill Petrenko und die Berliner Philharmoniker, Julia Spinola, NZZ vom 20.7.2019
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
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サマータイムの清涼感

2019-07-22 | 
森の中は朝から摂氏20度を超えていた。夜中も20度を割らなかったようだ。久しぶりの夏らしい夜だったが、それでも窓を閉めて就寝した。その差は昼間の陽射しの弱さで、周りがあまり温まっていなかったという事だろう。明日にはまた少し冷える。その分週明けから陽射しが照って暑くなる。今度こそ最後の暑さとなるだろう。

月曜日から二週間、パン屋が夏休みに入る。再開は8月5日の月曜日である。その間の運動を考える。今までの動機付けが無いから、上手く走って、場合によってはボールダーか何かで身体を動かさないと運動不足になる。二回ぐらいは涼しい時に山登りコースを走りたい。しかし涼しい時間が訪れるか?

土曜日のミュンヘンのオープンエアー中継を観た。最初は中継も安定せずに音質など不満があったが、流しているうちに細かなところまで楽しめた。楽器編成もあり、粗削りなところもあったが、それはベルリンのフィルハーモニカークラスでないと解決不可能な点もあったと思う。楽器配置もアメリカ配置を使っていて、キリル・ペトレンコが如何に配置と音響に拘っているかがよく分かる一例だった。楽団もいつものソロトラムペットがロータリー式ではなくピストン式を吹いていたが、結局は音を外すのは同じだった。音楽監督ももう一シーズンであるから全ての遺産も借金も後任者に継がれる。

注目のゴルダ・シュルツは南独新聞が書くように、一曲目の「サマータイム」は会場のガサガサで出だしとしては条件が厳しかったにも拘らず、正確にセンチメンタルにならない歌はとても好評で、尻上がりに会場が乗って来た。PAの音響もとても自然で良かったが、モニターの位置をもう少し上げた方が良かったという事だ。しかしストリーミングでの会場の雰囲気はとても良くて、最初からいい感じに思った。子供連れが多くても中継で気が付くほどには邪魔にならなかったらしい。

ハムプソンの声はやはり会場を唸らせるものだったが、逆にそれが続くと若干だるくなってきた。その点、固く狭いヴィヴラートと書かれるシュルツの歌がとても清潔感があるもので、ポピュラー曲を歌う場合の一つの方法として評価したい。そのままベルリンのヴァルトビューネで繰り返して欲しいと書き込んだが、今年の南仏出身のクラバッセの歌唱よりもいいと思った。同じザルツブルクの舞台での出演でもシュルツの方がよかった。因縁の競争である。実現すればよいと思う。

もう一つ、キリル・ペトレンコがヴァルトビューネで振って何の価値があるだろうかと思っていたが、とても音楽的でありながら、やはリ才能が今年そこで振ったボリショイ劇場監督などとは全く違う。音楽的に正しくやればやるほどその音楽の性格を聴衆に伝える。同じ様なプログラムでサイモン・ラトルの指揮との比較がこれまた前任者の欠点を浮かび上がらせることになる。正直、あれだけ阿吽の呼吸の座付楽団ながら、棒について行くには上の力量が要求されていたのは明らかで、ああしたポピュラー曲が演奏技術的にも侮れない曲になっていた。そのムジツィーレンはやはり見ものだ。ここでまた唸らせる。



参照:
夏季の"I Got Rhythm" 2019-07-20 | 雑感
未だ嘗て無いような合致 2019-07-01 | マスメディア批評
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夏季の"I Got Rhythm"

2019-07-20 | 雑感
ベルリンの定期会員について情報を貰った。早速見たがそれほどいい席は残っていなかった。三泊の宿を予約してあって、一般前売りの11月を待っていた。しかし、この間にほかの情報も入って、冷静に考えると、来年のオープニングのプログラムと二つ目のツアープログラムもほぼ明らかになった。それで、予約していた期間にどうもベルリンに行く必要は無くなった。

来シーズンにキリル・ペトレンコがべルリナーフィルハーモニカー以外のみで指揮する曲目は、オペラを除くと、イスラエルで振る「ティル」、モーツァルト協奏曲K491、ブラームス三番、ユーゲント管弦楽団との「運命交響曲」、ミュンヘンでの「我が祖国」全曲、「千人の交響曲」以外に無い。つまりこの中からとベルリン以前にツアーで振るマーラープログラムと「ミサソレムニス」以外には無い。必ず大きなプログラムは予行演習するからである。

つまり、組み合わせは「千人」と「アスラエル交響曲」の組み合わせでのオープニングツアーか、「我が祖国」と「アスラエル交響曲」若しくは「ミサソレムニス」と「アスラエル交響曲」しかない。最後のミサソレムニスは「何時かベルリンで」と態々約束することを言及したぐらいであるから、同じ年にはあり得ない。二番目の組み合わせも先ず無いだろう。マーラーの六番はツアーに掛けれるが既にヴィーンなど欧州ツアーで演奏しているので、ザルツブルクやルツェルンには持って行けない。先ず最初の組み合わせで決まりである。記念年のべ―トーヴェンもバレンボイムのピアノで演奏されるので全く問題が無い。狙いは「アスラエル交響曲」である。

さて今晩のミュンヘンのマールスタール広場でのオープンエアーは暮れのジルフェスタ―コンツェルトの予行演習となる。曲目は「パリのアメリカ人」など一部重なる。そこでの「ウエストサイドストーリー」などはこの年始にユーゲント管弦楽団を指揮していた。その他リジャー・ハーマンシュタインのヒットナムバー。

注目は、トーマス・ハムプソンと並んで、「サマータイム」などを歌うゴルダ・シュルツの歌である。普段からヒップホップ系の乗りを求めての彼女であるから、否応にも期待が高まる。いづれペトレンコのヴァルトビューネ初登場の時には出演して欲しいと思わせる出来となるかどうか?

ネット生中継に続いて、日曜日に再放送としてアジア向けに無料で流される(日本時間19時より)


プログラム:
"Cuban Overture"
"An American in Paris"
"Summertime"
"I Got Rhythm"
"Three Dance Episodes"
"Lonely Town" aus "On the Town"
"Somewhere", "Tonight" aus der "West Side Story"
Rodgers & Hammerstein:
"My Fair Lady"
"Gay Divorce"
"Paris"
"A Little Night Music" & "Cinderella"



参照:
「私のこと考えてくれて」 2019-02-25 | 女
ミュージカル指揮の意味 2019-01-27 | マスメディア批評
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一昨年振りの金鳥の夏

2019-07-19 | 生活
眠い、気候が良くなると睡魔との闘いである。事務仕事は一つ一つ片づけて行かないと埒が明かない。単純労働になるとまた余計に眠くなる。中々手元が捗らない。椅子に座っているのか、椅子と一体化しまって分からなくなる時がある。エコノミー症候群にならないように水分の補給をしないと、室内は涼しいほど乾燥度が分からなくて危険である。

お湿りがあったので、一昨年振りに金鳥を燻した。チクッと来て黒いものが飛んでいたからだ、更にさされる前に火を点けた。久しぶりの使用で分量が分からなかった。古いものを使い切って、可成り強く喉に来た。更に翌日も部屋が匂っていた。強力である。体感温度の差が厳しいので若干体調が優れない。

BBC3で四月のベルリンでの定期演奏会の中継録音を聞いた。先日NHKで放送があったばかりの同じ音源である。アンコールの間合いも同じだったので提供されたのは綺麗に切ってある音源らしい。放送を聞いていた時はハッキリしなかったがハイレゾで録音したものを再生すると、中域の艶っぽさに反して高域の倍音成分が伸びていない。これは知られているMP3の音ではないかと思った。そう言えばこの局も放送直後のみならず放送中から巻き戻して聞くことが出来る。つまり何らかの形態でオンデマンドされているという事になる。残念ながらBBC3の音質はあまり役に立たないとなる。

途中経過を纏めると、中継放送で最も良い音質のストリーミングを提供しているのは、サラウンド放送を出していない放送局で、更にMP3などのオンデマンドや時差再生機能を提供していない放送局となる。概ね合衆国の放送局は良くて、オンデマンドがあっても別枠で明らかに劣化したMP3を提供しているので分かり易い。生放送と録音放送の音質の差以上にストリーミングの規格がその音質を定める。今までは生放送で録音して、音質の良い放送局の再放送をあまり重視していなかったため結果間違っていた。身近ではSWR2とかHR2のこの条件に当てはまり生中継も録音もPCでも素晴らしい。TV局も同様でオンデマンドと変わらない音声を流している番組もある。

放送のアナウンスで興味深かったのは、ヨハネス・デングラーをホルンファンの皆様に紹介していたことで、勿論ドールのそれとは全く異なることが話題になるので、先に情報を流していたという事だろう。バーデンバーデンでの再演は二回ともドールで、勿論夏のツアーもその筈だ。但し一回目は良かったが、二回目は出過ぎていた。あれだけの名人であるから、幾らでも合わせれる筈だと思うが、どうしても上に出てしまう。デングラーのベルリン行き再考もあるのだろうか?

フォンカラヤン没後三十年でその録音について挙がっていたので、自分も手元にあるLPをざっと頭に描いた。嘗ては結構集めていて、CDこそ最後の録音とかムターとのデジタル録音とかしか限られたものしかない。しかし結構重要な録音と思われるものも沢山ある。しかし、キリル・ペトレンコ指揮の演奏をつぶさに観察する様になってから、資料音源として今後も使えるような代物は皆無と理解した。いい加減な指揮しかしていないからである。それで結局代表的なLPとして挙げたいのは三枚の第一家庭電器のオリジナル45回転LPである。これはHiFiチェック用に販促の一環として東芝EMIの協力で出していたものだ。タンホイザー序曲とかまだいくつかのカラヤン盤もあるのだが手元には三枚。これで丁度いい感じだ。「パリのカラヤン」と題したLPも宇野功芳曰く「命を掛けない」一生懸命な演奏で、まさしく本領発揮と言うようなLPである。この三枚だけで決して皮肉では無しにフォン・カラヤンの芸術を代表させられると思う。



参照:
ぼちぼち晩夏の準備 2019-07-12 | 音
特異日「七人の眠る兄弟の日」 2017-06-28 | アウトドーア・環境
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すっきり気持ちの良い夏

2019-07-18 | 生活
今年は昨年の轍を踏まなかった。それでも床屋の前に立つまで自信が無かった。おかげさまで最後のサマーカットを成し遂げた。これで次の際は涼しく標準的になっていると思う。ルツェルンでの音楽祭が終わるまでは通せるのではなかろうか。昨年は一歩遅れた。だから夏休み明けの8月9日を待った。一番暑い時に暑い思いをした。

今年も出遅れそうになった原因にはパン屋が夏休みに入っていないからだろう。こちらの方もまだ尋ねてはいないが来週ぐらいに重なるのではなかろうか。するとクヴァークもここで拵えておかないと来週からはパンが不味くなる。

洗濯屋でシャツも回収してきたので、これも先ず準備は終えた。あとは車両のことぐらいで、一番問題が多い。

散髪は今のおばさんが二回目になったのでこちらの伸び方を見て、専門家としての腕の見せ所だと思った。一度目は伸び方も分からず、人の切ったものから切るので自身のイメージの中では仕事が出来ない筈だ。今回の散髪で以前いた女性程度の腕を発揮するかどうか?バリカンで散々切った割には散髪直後といては今までで一番良いぐらいだ。ワインと同じで最初から酸が悪ければ後々まで駄目だろう。ルツェルン訪問頃の伸び具合が楽しみである。

バーデンバーデンから新支配人スタムパの名前で新シーズンのアレンジメントの案内が来ている。売れ残りの多い第二クラスの二晩分と最高級ホテル三泊と付随プログラムを合わせたオファーである。興味を持ったのは「フィデリオ」初日の前夜に入って、翌日午前中にワークショップで舞台の作る方見る方のロールプレーなどをして理解を深めるというのもある。当日だからドラマテュルギか演出家も出てくるのだろうか?いずれにしても演出についてのレクチャーとなるようだ。

音楽的にはいつもの調子でやれるが、今までは演出に関してのガイダンスは無かった。この辺りも新支配人の試みとして注目したい。翌日は絵画を見てから夜は展覧会の絵らしい。私は丁度午後の一回目のパウの出る室内楽コンサートに行くのである。

どのような人が申し込むかを考えれば、カールツルーエやフライブルクなどからもバスが出ているので、運転が出来ないでもタクシーでホテルに入れば、何もしないでも三日間おじいちゃんおばちゃんを喜んでどっかに行かすという事になるだろうか。一人1500ユーロぐらいなら、ある意味安いともいえる。バリアフリーについてはどうなのか知らないが、飲み物も料金に含まれているという事で、対象者が分かるような気がする。

そこに乗っている舞台枠の写真が気になった。フィデリオのそれと言うことは無いと思うが一概に否定できない。枠を作ってしまわないと細かな道具や衣裳も作れないとすると一年前ぐらいには大道具は用意しておいてもおかしくは無い。収容スペースもアーカイヴするようなレパートリー劇場でない限りそれほど必要ないのかもしれない。

兎に角、マルリス・ペーターセンとマティウ・ポーレンザーニに合わせた演出となるととても細やかなタッチになる筈で、あの大会場で何処までそのような芝居が出来るのだろう。歌に関しては、「サロメ」での絞り方から全く不安は無くなった。ベルリナーフィルハーモニカーが極まる演奏をしてくれるだろう。個人的にはアバドが振った最後のエグモント全曲でのあのオールスター楽団の名人技が基準となる。



参照:
聴衆との盛んな応酬 2019-04-25 | 文化一般
真剣に音楽を分かち合う 2019-03-17 | 文化一般
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金の取れる音楽家

2019-07-17 | マスメディア批評
DLしたヴィデオを流してみた。スカラ座でのガラコンサートであるが、また指揮者デュダメルとヴィーナーフィルハーモニカーの三流の演奏を聞かされる。どうしてこうも上手く行かないのか?ワンのシューマンの音を聞いていればあんなチンドン屋みたいな音は出せない筈だ。耳が聞こえないのだろうか?カーネギーホールでのアンサムブルの酷さにはこの半世紀で一番下手だと思ったが、どうもこの組み合わせではいつもこの程度の演奏をしているらしい。コンサートマスターも出来る人が入っているのにブロムシュテット指揮のドヴォルザークの時より悪いぐらいだ。これならばアダム・フィッシャーに何もかも振らせておいた方が丸く収まる。フィッシャーも忙しいからその代わりに振らせているぐらいにしか思えないのが、ティーレマンとかデュダメルで、そこにジョルダンが入ってくるのだろうか?恐らく楽団も練習しなければ指揮者も何も要求しないのだろう。

その後出てくるのが指揮者ドミンゴで、歌手が耳にして合わせる音に注意してキュウを送っているような指揮だろうか。やはりデズデモーナとオテロの愛の二重唱が見ものだ。ヨンチェヴァとカウフマンの双方を別のパートナーでこのシーズン中に各々聴いたが、やはりハルテロスとスケルトン各々との差は大きい。この二人を劇場で聴くことは無いと思うが、ドミンゴには比較できないとしてもやはりカウフマンも聴かせる。どんなにドミンゴの指揮が悪くても声で聴かせてしまうのをこの指揮者ほど知っている人は居ない。デュダメルの指揮で完全消去しようと思ったがこうした金を取れる歌手が出て歌うと判断が鈍ってしまう。

ルールのピアノフェスとでの演奏会評を読むと、エフゲニー・キーシンのベートーヴェンリサイタルがとても賞賛されている。カオスに近づく限界まで行くとされても、その前で寸止めされているのはコントロールがとても効いている演奏だと読み取れた。ペダルもその中で効果的に使われて、三連符も其々に弾き分けるとされるからとんでもなくテクニックがあることが見て取れる。子供の時からその技量はよく知られていたが、如何せんどこに向けられているか分からなかったので、際物扱いもされていた。しかしこうして大人になって、表現されるとなると、それがとても気になるようになってきた。

近場での公演を探してみると、バーデンバーデンではフレミングとのジョイントリサイタルになっていて訳が分からない。更に安い席は売り切れている。そもそも金を出してまで試してみるつもりは無いので、他のコンサートを試してみることにする。ランランとは氏素性が異なるだけだと思っていたが、こうして天才少年がものになってきているとなるととても興味深い。ランランの現状を見ればその差は甚だしい。

同時に批評されている日本の滑川真希と言う人のリサイタルも勝ると劣らず好評だ。メモしておかないといけない。こちらはカールツルーヘで教えているので遠くないうちに聞けるであろう。ミニマルなどをプログラムに上げている。



参照:
Kreativer Wahnsinn, Malte Hemmerich, FAZ vom 6.7.2019
生理学的に完熟するとは 2008-12-07 | 暦
グランクリュ解禁の秋の旅 2009-09-13 | 暦
帰郷で清濁併せ飲む 2013-12-10 | 雑感
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