Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2006年12月

2006-12-31 | Weblog-Index



Hum-ta-tasと滑りこむ [ 暦 ] / 2006-12-31 TB0,COM2
製品への拘りと愛着 [ 生活 ] / 2006-12-30 TB0,COM0
三年振り新調のジーンズ [ 生活 ] / 2006-12-29
一欠片の幻聴の流れ [ 雑感 ] / 2006-12-28 TB0,COM6
優男とスラヴのシンデレラ [ 女 ] / 2006-12-27 TB0,COM2
中継されるミスティック[ 文学・思想 ] / 2006-12-26 TB0,COM0
ザーレ河の狭間を辿る [ 文学・思想 ] / 2006-12-25 TB0,COM2
キルヒホッフ税制の法則 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-24 TB0,COM0
ワインに温かみを添える [ 生活 ] / 2006-12-23 TB1,COM5
伝統の体の一欠片 [ 音 ] / 2006-12-22 TB0,COM2
芸術家先生の言い分 [ 文化一般 ] / 2006-12-21 TB1,COM6
待降節の断食と猶予 [ 暦 ] / 2006-12-20 TB0,COM9
ローマ人広場の待降節市 [ 暦 ] / 2006-12-19 TB0,COM0
地域性・新教・通俗性 [ 音 ] / 2006-12-18 TB0,COM0
現況証拠をつき付ける[ マスメディア批評 ] / 2006-12-17 TB0,COM0
自由システム構築の弁証 [ 雑感 ] / 2006-12-16 TB0,COM0
虚業に群がるスパム [ BLOG研究 ] / 2006-12-15 TB0,COM9
ワイン山のセレクション [ ワイン ] / 2006-12-14 TB0,COM0
極東の世襲政治の様相 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-13 TB0,COM5
煙に捲かれる地方行政 [ 生活 ] / 2006-12-12 TB0,COM2
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11 TB0,COM3
帰郷のエピローグ [ 暦 ] / 2006-12-10 TB0,COM0
世にも豊穣な持続と減衰 [ 音 ] / 2006-12-09 TB0,COM4
麻薬享受の自己責任 [ 生活 ] / 2006-12-08 TB0,COM2
ビオレック氏のワイン講座 [ ワイン ] / 2006-12-07 TB0,COM2
野蛮で偉大な時の浪費 [ 歴史・時事 ] / 2006-12-06 TB0,COM0
遺憾に思う、奴隷売買 [ 歴史・時事 ] / 2006-12-05 TB0,COM0
買物推薦リスト(音楽篇)[ マスメディア批評 ] / 2006-12-04 TB1,COM6
希望も未来も無いTV放送 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-03 TB0,COM2
臨場のデジタルステレオ [ 音 ] / 2006-12-02 [ 音 ] / 2006-12-02 TB0,COM0
それでもまだ、私は、今日 [ 生活 ] / 2006-12-01 TB0,COM2

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Hum-ta-tasと滑りこむ

2006-12-31 | 
今日あたりは町中で、皆滑りまくっている。滑ると云っても氷雪の上ではない。無事な年越を願う、GUTEN RUTSCHと云う挨拶である。発砲ワインを用意した。年越を過ぎてニューイヤーコンサートへの気分を盛り上げる。

フィルハーモニカーのコントラバス奏者ミヒャエル・ブラデラーがFAZのインタヴューに答えている。米国では馬鹿にされるプログラムを決めるのは86歳になるマイラー教授で、毎年少しづつ新曲を加えていっているが、それでも2100年まではネタが尽きないと云う。今回は、インド生まれのヴィーン子メータ氏が指揮をするが、その希望で「レモンの咲くところ」が曲目に加えられるらしい。その希望は受け入れたが、「発言権が殆どないのが事実だから」と笑う。

それでも十分に準備して 顔 出 し しない指揮者は皆無で、それとは 別 に 楽団員がニュアンスを出して演奏するのは容易くないと供述する。Hum-ta-tasと二拍目を少し前へずらして、旋律線を漂わせるエレガンスを意味する。

小沢氏が振って八百万枚を売り上げた2002年のCDを顧みて、今後はさらに早く現代的な方法で提供できる方法を考えていると、最近ドイツのアーカイヴで新発見されたクレメンス・クラウス指揮1941年初回の録音のHP公開を告げる。リンクから「常動曲」を聞くことが出る。またI-Tunesで各曲30秒の試聴が出来て購入することが出来る。

ニューイヤーコンサートに集まる聴衆も年々国際的になって、特に日本ではプレステージな事のようだと明かされ、「券を買い集めるようなことなどはヴィーンではありえないことだ」と最後にぼつりと呟く。



追記:
GUTEN RUTSCH(グーテン・リュッチュ)が、ヘブライ語の新年祭を意味するראש השנה טוב(ローシュ・ハッシャーナー)から来ていると読むとまた驚かされる。見えない神によって隠された世界が現に存在するかのようである。
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製品への拘りと愛着

2006-12-30 | 生活
明日を最後に年末年始の休みとなる。来週は二日からなので、買出ししなければいけない。

ワインとは別に発砲ワインを買うべきかどうか?どうしても欲しいような気がする。

先日食した茸は、価格の割には味もシイタケのように強く香りもそこそこあったので、もう一度試してみるのも良い。

十年以上も履いている革靴の底の縫い糸が磨り減って、底が浮き出した。正式に直させたいところであるが、上の革も痛んで来ているので、先ずは専用の接着剤を使って応急処置をした。黒い靴紅も買わなければいけない。雨の日のお出かけなどには今しばらく使いたいと思っている。

現在では、ゴムを貼っていない革底の靴に拘る人は少数派である。そして、地下道のタイルなどでは滑りやすく、決して機能的ではない。それでも、だからこそ、その価値があると考える人がいるのである。

高級乗用車を見るが良い。数は忘れたがその溶接箇所は、尽く接着剤付けとなって来ている。確かに作業効率は良く、重労働は軽減される。しかし、そうして出来上がった製品には愛着は湧き難い。解体と資源再利用を期して採用されているテクノロジーであるが、粗末に使い捨てとなる時、その効果は期待できるのだろうか?

質の良いものに対してそれだけの投資をしようとする気持ちは、その労働と技への、その素材への敬愛である。無配慮な消費への諌めは、先日の教皇のクリスマス挨拶にもなっていたが、プロテスタントの指す宗教心を持った経済活動は果たして制御が利くのであろうか。

本日は、珍しく陽がさんさんと照り、窓を開け放って新鮮な空気を室内に入れることが出来た。その陽射しの中で、靴を眺めながらそのような事を思った。
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三年振り新調のジーンズ

2006-12-29 | 生活
昨日はジーンズを買った。三年振りぐらいであろうか?家で穿いているもう一つ古い物がなかなか破れなかったことが買い控えの理由であり、それが流石に破れて使えなくなったのが購入の理由である。それに来年から売り上げ税が三パーセント上がる。

余所行き用のものがそれほど古びなかった理由は、その洗濯方法だけでなくて、太ももが痩せてその内側が擦れなくなった事によるようだ。どうしても、其処は膝先やすそと並んで傷み易い。

そのようなことから、新しいものを試着すると、最近のデザインから裾が開いておりぶかぶかする事に気が付いた。さらにもともと、どうしても裾丈が長めであるので、長袴の様で具合が悪い。そして、さらに一サイズ小さ目を試すと無理なく穿ける事が判った。

裾は相変わらず長めであるが、これだけは致し方ない。この行きつけの店で、切らないでも穿ける商品があることだけで感謝しなければいけない。ネットで価格などを調べたが、今回の支出は標準価格よりも安いものの、どうしてもある程度の出資は仕方がない。

このブランドの創業者はバイエルンから米国へと移住したユダヤ人で、欧州向け商品は全てポーランドで生産されている。其処ではノーブランドなら25ユーロほどで女性ファッション物が買えるらしい。

今回購入した物は、単純なストーンウオッシュでなくて、下腹部に初めから折り染め斑が入っていて、縦に杉がらのようになっている色洗加工が施してある。

広めの裾に納まるブーツを新調しなければいけないが、それまではボロボロのものを磨いて誤魔化そう。カウボーイのように後ろにぎざぎざの星が付いている物はあるだろうか?
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一欠片の幻聴の流れ

2006-12-28 | 雑感
モーツァルトの手紙を聞くことが出来る。BLOG「はぐれ音楽家の食卓」のSelbstkochenさんが作曲家のある日の手紙を話題にしていたので、検索すると進行中のラジオ番組のHPが見つかった。そこでは、劇場や映画で著名なクラウス・マリア・ブランダウワーが朗読している。映画では007「ネヴァーセイ・ネヴァーアゲイン」の悪役が印象に残っている。ただの朗読では無い。分かるような分からないようなのを、そのままに読み下すのが意図で、それが大変良い。その考え方は氏がインタヴューで答えているが、謂わば「表意」でなくて「表音」なのである。実はそれに留まらない。

何れにせよ、今しがた聞いた。ミュンヘンでの「イドメネオ」初演の練習に依頼主のカール・テオドール候が覗きに来る。出来上がりに満足して、以前に自らの離宮シュヴェチィンゲンの夏季アカデミーへやって来ていた成長した作曲家を褒め称える。その情景を父親へと書き綴る1780年12月27日付けの手紙である。

ドイツ語学習者が辞書を片手にこれを読もうとすると、綴りかたなどで分かり難いかも知れないが、解析すればするほど判らなくなるかもしれない。聞いていて、なんとなく雰囲気が把握出来れば良いのである。それ以上の必要が一体あるのだろか。テオドール候の故郷のプファルツの発音も意識して朗読されている。残念ながら朗読は当日の分しか聞けない。いづれCD化されるのだろう。

速読については何度も触れたが、アルファベットはやはり表音文字で、漢字の様な表意文字ではない事に改めて気が付く。何が最も違うかというと、マンガを読むときのようにページを捲るたびに動画ではなくて、かなりの音量の言葉が乱れ飛ぶことである。つまりアルファベットを速読するということは、CDを鳴らす事に似ていて、一斉に音が飛び出してくるのである。

面白いのはラジオの朗読を聞いていても、何を聞きとれて何が聞き取れていないかは、読書をしていて響き渡るこの乱れ飛ぶ音の聞き取れ方に対応している。特段、覚せい剤等を使って神経を尖らす状態を作っている訳ではないのだが、寝床においてもこうした現象が起こるのである。それもマンの「ファウスト博士」などを読んでいると、数行があっちこっちへと逃げながら進んで行く対位法になるのである。弁証法の意識の流れとは、この幻聴のような響きを指すのである。



大晦日の朝にかけてWDR3が全てを年代順に再放送するらしい。ネットラジオで聞けるだろう。

Sonntag, 31. Dezember 2006, 0.05 Uhr - 6.05 Uhr

WDR 3 Nachtprogramm
Mozart-Feuerwerk zum Jahresabschluss in WDR 3, Teil 2
Die lange Nacht der Mozartbriefe
Klaus Maria Brandauer liest Mozart-Briefe

In der Nacht vom 30. auf den 31. Dezember, von 0.05 bis 6.00 Uhr morgens strahlt WDR 3 die Lange Nacht der Mozart-Briefe aus. Gelesen von Klaus Maria Brandauer wurden die Hörerinnen und Hörer von WDR 3 täglich im Gedenkjahr mit den Mozartbriefen begleitet. Jetzt gibt das Kulturradio noch einmal die Gelegenheit, in chronologischer Folge und mit Musik illustriert, die Mozartbriefe zu genießen.

Redaktion Werner Wittersheim
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優男とスラヴのシンデレラ

2006-12-27 | 
午前中のミュンヘンドームからのミサは、殆ど見逃した。しかし、その内容は、そこの合唱団と共に珍しくなく、分かっているのでまあ良いだろう。

午後、シンデレラのチェコ版を観る。1973年の東独とチェコの合作TV制作で、しばしばTV放映されているものである。初めの部分は観なかったが、猟師のように狙い撃つお転婆の娘の様である。

三つの胡桃の数だけ希望がかなう魔法を手にいれる。そして、鳩を手なづけて、灰の中からモロコシを拾わせておいて、舞踏会へと白馬を走らせる。

王子を果敢に挑発して、骨抜きにする。見知らぬ美少女への興味から質問攻めにする主体性の無い王子を手玉に取り、三つの質問をする。直ぐに回答出来ないとみるや王子を振り切って舞踏会をあとにする。

馬で追いかける王子と娘。自宅へと押しかける王子をみるや否や画策する養母と連れ子。策に溺れ、氷の貼る池であがく母子を尻目に王子は、亭内へ戻る。王子の前へと、最期の願いの魔法で結婚衣装を調えて名乗り出て、王子の申し出を受け入れる娘が描かれる。

共産政権下の風潮を観察する事も出来るが、何よりもチェコの男女関係を如実にみるようで面白い。優男のチェコ男性としっかり者のスラヴ小娘が描かれる。王子の反応が鈍く、判断が遅いのは男性として観ていて全く笑えないのだ。
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中継されるミスティック

2006-12-26 | 
クリスマス中継を観る。バイエルン放送では、アルゴイからの中継で、ルター派の礼拝である。バッハやテレマンの音楽が、聖歌に交えられて殆ど音楽礼拝の様であるが、集まる氏子も少ない。どうもバイエルンの言葉はプロテスタント精神には、些か表情が付き過ぎる。

それに続いて、独第二放送でザルツブルクのミサが中継された。そこでの目玉は、モーツァルトイヤーに因んだ「戴冠式ミサハ長調K.317」の音楽でもあった。偶々、クレドの章からTVを観たのだが、丁度descendit de caelis「天よりお降りになり」からet incarnatus est「肉体を受けられ」へと掛かるところで音楽はアダージョとなりミスティックとなる。そこで、神父はおもむろに祭壇へと進み出て跪く。作曲家がここで何を表現しようとしているかを、これほど如実に視覚的に表すものは無い。そこからカメラは、crucifixus etiam pro nobisで十字架を映し出す。作曲家がどのように表現しているかは、該当の譜面を見れば事足りる。そしてなみなみと聖杯に純粋な白ワインが注がれる。

そして、ローマのヴァチカンへと中継は切り替わる。非常に手際の良く纏まった教皇の挨拶があり、二十六国語で挨拶が贈られる。日本からの巡礼者も湧いていた。

あとは、今年からIポット対応となった女王の挨拶をネットで観よう。多くの英国人は、そのころ既に一杯引っ掛けて眠りかけているだろう。
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ザーレ河の狭間を辿る

2006-12-25 | 文学・思想
トーマス・マンの「ファウスト博士」の第11章は、作曲家ヘンデルの故郷であるハレ市と大学を舞台としてルター派と敬虔派の争いを扱う。前者の組織化された教会とそれを再び改革しようとする所謂ロッテルダムのエラスムスの一派の流れの争いを簡単に描いている。

前者が解放後直に硬直化して行き、物乞いがパンを一欠片求めることすらなくなった状態と、後者の歴史的に啓蒙主義へと繋がる再び訪れる救世を歓迎するか、不幸の使者の常習犯とするかで意見が分かれるとするが、「マルティン・ルターが再び教会を設立しなかったならば人類は多くの血を絶え間なく流すことはなかったとするには、異議は無いであろう」とする。

そこでは、神の仲介信仰は否定される一方、神の啓示や伝統的解釈学は引き継がれ、救済と犠牲は宗教の学問となるとされる。後者の平和なヒューマニストが聖杯を引き渡すことが無かったのに比べ、宗教に理性の基礎を置くルター一派の信仰は啓蒙主義の中で力を失う。

実際ルターは、ハレのルネッサンス的人物クロトス・ルビアニスを指して、マインツの食道楽司教のヒキガエルと呼び、洗礼した悪魔の豚野郎と攻撃している。

ここでトーマス・マンは、アドリアンの友人である語り手に、しかし敬虔主義者(メソジスト)の平和主義は、宗教を人類のヒューマニズム機能として格下げして、宗教の恍惚と逆説を薄めたものだ語らせている。

こうしてこの章で描かれるのは、ルネッサンスからバロックへの流れを象徴する記述でもあり、専制君主制から啓蒙主義へと、教会からの解放から社会の中での個人の独立、主観的横暴と客観的規約、神学と信仰、教会と主権国家の論争を想起させる。そしてそれは、この文芸作品の主題である大命題を扱うに留まらない。

当然の事ながら、人生哲学・不合理主義と組み合わせられた神学は悪霊崇拝となる恐れがあり、「馴染みの無い不気味な感情」はそこでは初めから退けられることになると言うのが本題「ファウスト博士」である。

クロトスに関してネットで調べたりしていると、死去した連邦前大統領ヨハネス・ラウ氏が敬虔派の説教をしていたことが触れてあった。なるほど、氏ならば食卓でお祈りをしそうであり、他者の「不気味な感情や生活臭」に対して寛容を呼びかける信条を繰り返し公にしていたのが合点がいく。だから、そういう少数派の傲慢さであっても、寛容の心をもって受け入れる事が大切であるとなるのだろう。

人物名やその交差する信仰の記述は、事情通でないと分かり難いが、現在のネットサーチ機能を使うと、著者がおそらく時間をかけて確認した事項を容易に辿る事が出来る。過去に訪れたか若しくは地元通から取材をした中欧ドイツを流れるザーレ河畔の嘗ての敬虔派の牙城ハレ市が前後の章でも描かれている。
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キルヒホッフ税制の法則

2006-12-24 | マスメディア批評
先日、公認会計士と話していると、米国経済の問題が一部で盛んに述べられているのが知れた。また、先日のFAZ新聞は、日本の一般消費についても触れており、その伸び悩みと、稀有の財政赤字に苦しむ東京政府の思惑が述べていた。

国家財政となると、最近あのハイデルブルクの税法の専門家キルヒホッフ教授の話題が再び取り上げられていて、氏の学術的意見は重要な指針となることが間接的ながら示されている。

メルケル首相の懐刀として、その足を引っ張り、尻尾切りにあった教授であるが、その言動や実行者として指名された事がそもそも間違いで、担ぎ出されて悪乗りしてその不適正を示していた。

教授の意見は、その国家観として、カール・シュミット、カール・マルクスやミルトン・フリードマンを思い起こすことが必要になるという。例えば、小さな国家と云われるものの中には、議会制度も含まれるようで、代議士数の半減と無給化が含まれている。それは、現在のロビイスト政治への批判であって、この三十年ほどの間に三倍にも増えた国政への正式な圧力団体の数が挙がる。それは、量の問題だけで無くして、現在進行しているような健康行政においても、代議士がなにも十分に理解出来ていない質の問題として、また専門行政官僚の肥大化と専門化が挙げられる。さらに、かれらは、ロビイストとの協調作業者であって、有権者の二パーセントにも見たらない党派性に比べて、行政担当者である官僚の八割が党派性を有している歪な構造を指摘する。

その解決方法として、おそらく市井の専門知識を有した代議士がそのままロビイストとなり、圧力団体の代表が代議士となる議会構造が契機される。強固な地方分権が確立した連邦政府システムの中では、国民投票を組み合わせる事で可能なように思えるがどうであろうか。

問題となった腐敗肉の規制処置などに関しても、行政の介入は費用を投資するだけの結果となるとする。また、憲法裁判所以外に誰が行政権を監視できるのかと代議士自体が疑惑をもっている行政権限制限の必要性を、現状をもって語られる。

これらの言及で語られるリベラリズム自体は大変結構なものであり、自ら不透明さを増す国家権力構造とその行政権を把握するためにも、また今後の指針とするにも、少なくとも税制の専門家には、氏の著書は読む価値の十分にあるものであるようだ。

しかし、総選挙当時恐れられ、毛嫌いされた氏のニューリベラリズム傾向は、こうして読むと、明らかに経済上での対案が欠けている事から生まれた結果であった。消費社会を肯定的に扱う経済システムでは、氏の主張する無駄の無い、効率を回復できる、見通しの利いた簡素な社会システムは不可能なようにしか思えない。

消費生活とグローバリズムの体質は、生活の質の低下を招き、文化の質的肥大現象であるとするのが、ここでの一貫した意見でもあり、小子化現象のように、その消費はある転換点を持つのが自然の秩序であると思われる。
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ワインに温かみを添える

2006-12-23 | 生活
本日の日記を記して置く。特別なことはないが、クリスマスの祭日が、日曜に続いて月曜日から火曜日と繋がるので、平常の週末よりも長くなる。多くの人は、週半ばから準備をしているので、明日土曜日は平常よりも後片付けの雰囲気が強くなるだろう。

そのような訳で多くの人が本日金曜日に出来るだけの用事を済ますので、本日は朝から町はなんとなく騒がしかった。ご多分に漏れずに、土曜日には売切れてしまうようなものを中心に買物を済まして、出来る限り火曜日までの蓄えをしたつもりである。

ポーランドやイタリア人などの出稼ぎ者の多くは、里帰りとなる。クリスマスプレゼントとなるようなものをスーパーなどで物色する姿も見られた。多くのそうした出稼ぎ者たちは、故郷の家庭で親族が集まって、クリスマスを祝い、新年を迎えて、エピファニーになると仕事場であるドイツへと戻ってくる。

そのあたりは、本格的に二日から仕事が始まるドイツ社会とは異なり、年末年始をゆっくり過ごす向きが多いようである。来週も水曜日には平常となるが、直ぐに年末となる。

ワイン醸造所なども今日・明日が仕事仕舞いの場所も多く。町中の駐車場なども帰省で空っぽになる場所も見られる。

何れにせよ、クリスマスを家庭で過ごすのが通常である。 帰省と云うものを近くで見る事はあっても自らは経験した事が無いので、その帰巣本能のような感覚は皆目分からない。生活場所が最も良いか、最も良いところへと移動していくと帰省と云うのはもともと意味を持たない。

買物のついでにクリスマスプレゼントにと、ワイン街道から持ち帰ると喜ばれるであろうワインを取りにいって、帰省する者に持たせた。そのワインが、帰省先の故郷で話題となって、クリスマスイヴの食卓を楽しく飾ってくれるのを想像するのが何よりも楽しい。
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伝統の体の一欠片

2006-12-22 | 
先日から機会ある毎に触れた内容に関する論文がネットに見つかった。「16世紀・17世紀における五声のコラール」に関するものであるが、宗教改革の音楽の流れとヒューマニズムの芸術と解放の芸術を見て行く際参考になる論文である。

388ページに上る大部であるので、目を通せていないが、先日触れた待降節カンタータの例を見つけたので、それだけでも先ずは紹介しておく。バッハの曲として有名なこの曲は、讃美歌147として有名なテキストである。その旋律と詩は、フィリップ・ニコライによって1599年に創作されたとある。

このコラールは、マタイによる福音の25章1-13「十人の乙女」のたとえ話に因む内容として知られている。それを音節で区切って、さらにその音節毎に中線を引いていくと次のようになる。

Wachtet auf, ruft uns die Stimme  
der Wächter sehr hoch auf der Zinne,
Wach auf, du Stadt Jerusalem
Mitternacht heißt diese Stunde,
sie rufen uns mit hellem Munde:
Wo seid ihr klugen Jungfrauen?
Wohlauf der Bräutgam kömmt,   
steht auf die Lampen nehmt!  
Halleluja!                   
Macht euch bereit zu der Hochzeit,
ihr müsset ihm entgegengehn.       

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そして、下の中線で描いた図を見て欲しい。聖杯に見えるだろうか?これは、バロック詩に良くある音節の手法である。そして、バッハのカンターターでは、„Zion hört die Wächter singen“のアリアへと繋がっていくのである。

こうした手法のあり方や受け継がれた宗教改革の隠された伝統は、それが集大成されたバッハの音楽において、我々は馴染んでいる。


聴き比べ - Wachet auf, ruft uns die Stimme - Cantata BWV 140:
Bach Ensemble, Joshua Rifkin
Münchner Bach, Karl Richter
Thomanerchor Leipzig, Hans-Joachim Rotzsch
Stuttgart Bach Collegium, Helmuth Rilling
Monteverdi Choir, J.E.Gardiner
BWV 140 Wachet auf, ruft uns die Stimme (PDF楽譜 2905kb)
Evangelisches Gesangbuch 147
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芸術家先生の言い分

2006-12-21 | 文化一般
一昨日の「イドメネオ」の再演の評が掲載されている。最後に纏めておく。赤絨毯でVIPたちが語り合い、招待に応じた一部のモスリム文化人のばかばかしい反応が描かれている。

ある社会学者は、「印象的でした。愛をセンシブルに描き、古代宗教の生贄を批判するときです」とコメントする。まるでどこかの首相のオペラ批評のようである。挙句の果てに「なぜモーゼの首が無い」と言う輩まで登場して、まるでイスラム長屋の花見風景である。

常連の音楽批評家は、モーツァルトの音楽さえ良ければ救われたのだがと、「大胆に、オペラセリアの遺物に憑かれたような作曲の息使いは、ここのオーケストラから僅かなりとも聞くことは出来ず」、総歌手陣も失望させるものであったとして、臨席しなかったハンス・ノイフェルスの演出を、「ごつごつと場面から場面へと、練習不足とか十分に練習したとかよりも、 つ ま ら な い と極評する。

VIP臨席の政治家達は、「いやー、素晴らしい音楽ですなー、保守的な演出で変化に富んでいて宜しいですな」、「スキャンダルにならなかったら、まあこうしてここには居なかったでしょうが」と語る。

一方、何を嫌ったのか、臨席しなかった演出家は、先月末にインタヴューに答えて居る。コンピューターゲームの規制処置を聞かれ、そのエロ・グロ一元論と芸術の「美と醜悪」との二元論の相違を語る。どうも、この芸術家にとっては、自らも言うようにキルケゴール的発想の飛躍が大事そうな。つまり、イドメネオにおいても「その絶望の経験と回帰とのバランスが大切なのだ」とする。

「イドメネオの凶暴性を回復させるには、最後のあれが大切なのです。最後の最後で、一寸もう一度脳を開いてみる。するとですね、ほら、キリスト教の旧世界にもです、芸術が再び戻ってくるんですね。絶頂のレズメーですよ。こうした現象こそが、しばしば我々が説明を探しているものです。なぜ起こったのか?なぜにまたそれが起きえたのかとね」。

そして、「芸術を楽しむ事などは出来ません。メッセージと同じで、突然の認識の出現を齎すものなのです。そこから、カタルシスとして名づけるものが生まれるのです」としてギリシャ悲劇を例とする。

しかしギリシャの民主主義が誤って捉えられているとして、現在では「誰でもが、ネットで写真や詩を発表するような風潮は危険です」と言う。

こうした芸術家先生を税金が育てる事を我々は、認知しなければいけない。そして、こうした芸術・文化政策と社会構造を上のような政治家の手に任せる事が出来るのだろうか?

「イドメネオ」のミュンヘンでの初演に備えて、創作者の父レオポルドは息子に向けて、1780年12月11日に手紙を認めている。「音楽通だけでなくそうでない者を考えて作曲しなさい。10人の 耳 利 き に対して100人の 素 人 が居るのです。ポピュラリティーを忘れてはいけませんよ」と、いやに妥協なく作曲に打ち込む24歳のアマデウスに対して、また支払いに応じて曲から曲へと小出しに仕事を進めるようにと、ステージパパ振りを示している。
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待降節の断食と猶予

2006-12-20 | 
クリスマス市で魚を売っている。確かに、謝肉祭が始まる11月11日11時11分から新年のエピファニーまでの間が断食週間である事から来ているようである。断食と云えば魚である。

フェリエンログのBUBUさんは、丸焼きの魚を報告している。フランクフルトの屋台は、揚げたやはり丸ごとの魚であった。

謝肉祭の最後に訪れる復活祭の四旬節の断食に比べると、待降節における断食はあまり取り上げられることがない。それは、どうも週末の断食の停止の影響かもしれない。

しかし、クリスマスケーキの風習を考えると、若しくは待降節の毎週末のご馳走を考えると、その断食は影絵のように浮き彫りになる。特にクリスマスに纏わるケーキ類は、現在でもカトリック圏でイヴの晩餐や当日の朝食にケーキ類を食べる習慣があることで、その意味が良く示されている。

ドイツにおいても様々な種類のこの時期特有のケーキ類があることは良く知られている。何もシュトレーンと呼ばれるようなドレスデン地方のローカルな風習ではない。

上の写真に高く聳えるのは、神聖ローマ帝国の選定戴冠式の行われたドームである。モーツァルトも商売にあやかろうと戴冠式潜入を試みる。先日はミサが開かれており、何時ものようにそこのオルガンの重低音が静かに空気を変調していた。この塔にアルプスの少女ハイジが健気にも故郷を望もうとして登った。下の写真は、焼きマロンの夜店。
追記:クリスマスイヴには魚を食べる風習も少なくない様である。
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ローマ人広場の待降節市

2006-12-19 | 
フランクフルトの都心ではクリスマス市が催されている。先日初めて覗いたが、随分と整然としていて驚いた。もちろんクリスマス市なので、ワインフェストのような雑然とした雰囲気は無いにしても、あまりにアッペルヴァインもまわっていないようで不思議であった。

しかし、人の流れは多く大変歩き易いのは、普段から流石に人ごみに慣れている大都会フランクルトの住人と感じ入った。大体、ワイン街道ならばあの人手では割れたグラスが路上に散乱して、道端で蹲り救急車で運ばれる者が続出である。お行儀良く飼いならされた都会人を久方ぶりに拝見した。

それでもローマ時代からのレーマー広場にあるプロテスタント旧ニコライ教会の屋根の上からコラールが吹き鳴らされて、なかなか良い光景であった。その斜向かいに建っているのがパウルス教会で、そこでバッハのクリスマスカンタータの会があったのだ。その教会こそが、1848年の三月革命の折りに始めてドイツ統一議会が置かれた場所であった。
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地域性・新教・通俗性

2006-12-18 | 
バッハのクリスマスに纏わるカンタータの会がフランクフルトのパウルス教会であった。英国人の団体による演奏は、改めてバッハの真価を発見する契機であった。

単刀直入に云えば、そのようなバッハ解釈では三位は一体化しない。会場の多くの人が、技術は別とすると、バッハ演奏会会員の自らの方が遥かにその真価を良く知っていると思ったことだろう。

その団体と指揮者は、受難オラトリオなどで馴染みがあるが、比較的初期のバッハのカンタータからローカルな色合いを切り捨てる事は出来ない。

例えば、あまりにも有名なリフレーンが繰り返される「心と口と行ないと営みと、BWV147」の一部と二部の終曲合唱の„Wohl mir, dass ich Jesum habe“と、„Jesu bleibet meine Freude“, „Jesus wehret allem Leide“の各々の最後のシラブルの歌わせ方にその違いが顕著に出る。二拍目がリフレーンに ― 永続する騙し絵の如く ― 巧妙に付き添われるのだが、その始まりは終わりとなりつまりアルファとオメガとなり、それは音楽的にも宗教的にもその全曲構成の意味するものを伴って解釈出来る。しかし、そこでなんと云っても気がつくのがその一曲目前節の„habe“ のアクセントであり、拍子感ではないだろうか。要するに、その部分のニュアンスの処理は言語からすると明白であって、不自然であって良い筈がないと誰もが考える。

複文の中の動詞が最後を占めるのはドイツ語の特徴であるが、その言葉の表情を考えると、このフレーズの終わりとリフレーンの始まりは大変目立つ。つまり、この気になる箇所が上手に処理出来るかどうかは重要である。嘗てバルテーザー合唱団がアンコールで演奏したのものは秀逸であった。もちろん、今回はそれと比べるまでもないが、意識して表現していただけにアプローチの誤りのようなものであった。ハンブルクでの活動歴もあり後輩のラトル氏より流暢なドイツ語で曲順変更をアナウンスしていた指揮者だが、その思惑の違いは埋め合わせようがない。

まさにこれはバッハの音楽が、ドイツ語圏で「福音」となってきた証拠のような現象である。そして同様にバッハのヴァイマール・ライプチッヒ時代の名曲として数知れず編曲されて有名な曲「目覚めよと、呼ぶ声あり、BWV140」が演奏された。

その中の終曲„Gloria sei dir gesungen“などは非常に一般的な教会コラールで、プロテスタントのドイツ人にとっては体に染み付いている歌い回しと云うほかないであろう。力強く強起で始まるこれほど単純な音楽もない。これも、高尚な芸術だけでなく宗教改革の音楽要素を受け入れて現場で苦心した、バッハの教会音楽師としての側面である。だからこそ、中途半端に会衆の前で芸術を示してもあまり意味を成さない。

その前にソプラノとバスのかけあいの二曲に挟まれるように„Zion hört die Wächter singen“がテノールで歌われるが、特に今回はこの曲のあり方には注意を向けられた。なぜならば、今回は六人ほどの小合唱でこのアリアが歌われたからである。そこで「魔笛」や「パルシファル」やメンデルスゾーンを思い浮かべても不思議ではない。バッハがドイツ近代ホモフォニー音楽の祖となった一面である。

我々は、そこからストコフスキーの編曲を思い出して、また三曲目に演奏された「いざ来たれ、異教徒の救い主よ、BWV61」に心を奪われて、それらを口ずさみながら、店仕舞いしている小雨のクリスマス市を横切って駐車場へと向かうのである。

どのような思惑であってもそれがドグマとして映らない限りは、暖かく迎え入れる素地はある。「目覚めよ、祈り、つねに備えよ、BWV70」で始まった会は、その間眠る事もなく、随分と冷静な聴衆の反応をもって終わった。

そしてなによりも、こうして調べると、旧教の賛歌に因むカンタータが演奏されたクリスマスの催しとして、忘れていた最も素晴らしいものを思い起こさせてくれた。



参照:
J.S. Bach's Church Cantatas
世にも豊穣な持続と減衰 [ 音 ] / 2006-12-09
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04
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