Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2005年6月

2005-06-30 | Weblog-Index



夏時間の愉しみ方 [生活・暦] / 2005-06-29 TB0, COM2
夏の森の薬草と珍味 [料理] / 2005-06-28 TB1, COM4
2005年春の総決算 [料理] / 2005-06-27 TB1, COM5
「聖なる朝の夢」の採点簿 [文化一般] / 2005-06-26 TB0, COM3
真夏のポストモダンの夢 [生活・暦] / 2005-06-25 TB1, COM4
BLOG版「幸福の手紙」 [雑感] / 2005-06-24 TB3, COM3
お花畑に響くカウベル [音] / 2005-06-23 TB0, COM0
ミューレンからの絵葉書 [アウトドーア・環境] / 2005-06-22 TB0, COM5
花崗斑岩の摂理に向き合う [文学・思想] / 2005-06-21 TB0, COM2
乾いた汗の週末 [アウトドーア・環境] / 2005-06-20 TB0, COM3
大馬鹿者たち-試飲百景 [ワイン] / 2005-06-18 TB0, COM2
昔は良かったな [生活・暦] / 2005-06-18 TB0, COM2
近代終焉交響楽 [文化一般] / 2005-06-17 TB6, COM2
予想を裏切る期待 [雑感] / 2005-06-16 TB1, COM4
サポート無しの孤独な試み [文化一般] / 2005-06-15 TB1, COM3
ドイツワイン三昧 第二話 '05 [文化一般] / 2005-06-14 TB0, COM2
番外 ヘンデル 対 バッハ [文化一般] / 2005-06-13 TB0, COM2
疑似体験のセーラー服 [文化一般] / 2005-06-12 TB0, COM4
平平凡凡のワイン蔵 [ワイン] / 2005-06-11 TB0, COM0
手かせ、口かせ、首かせ [文化一般] / 2005-06-10 TB0, COM6
アルコールならずアレルギー [雑感] / 2005-06-09 TB0, COM2
「証拠を示せ」と迫られて [文学・思想] / 2005-06-08 TB0, COM5
BLOG 対 旧マスメディア [歴史・時事] / 2005-06-07 TB5, COM6
電子メールに偽りあり [雑感] / 2005-06-06 TB0, COM2
本物のワインと贋物のワイングラス [ワイン] / 2005-06-05 TB0, COM6
時計仕掛けのオイスター [テクニック] / 2005-06-04 TB0, COM4
ブラック・バードの歌の世界 [文化一般] / 2005-06-03 TB1, COM3
薹が立つ前に [料理] / 2005-06-02 TB3, COM12
囀りましょうか? [女] / 2005-06-01 TB1, COM2


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夏時間の愉しみ方

2005-06-29 | 生活
夏時間実施の歴史や実態については色々とネットでも見かけるが、その目的と弊害同様、賛否両論はどちらでも良い。何よりも嬉しいのは、涼しい時間に出勤出来て、暑い時間を一時間でも早く切り上げれる事だろう。その意味からするとフレックスタイムや商店の営業時間の夏編成と変わらない。

午後の早い時刻に帰宅もしくはそのまま何処かへ出かけて、シャワーを浴びるなりプ-ルなどで水に飛び込むのも良い。勤務から開放されて就寝までは、まだ十分に時間がある。リラックスがなによりもの涼である。

サイバー事務所で居ながらにして多くの事が処理出来るようになったが、まだ殆んどの職場では通勤の必要がある。夏至時の午後四時からの午後十時まで(標準時刻ならば午後三時から午後九時に相当する)のプライベートな時間が陽光のなかでゆっくりと過ぎて行くのは幸せである。

この感興は、冬には殆んど明るいプラーヴェートタイムを過ごせない不満から発している。暗闇の雪の中で、戸外で何をする事が出来よう。全く同じ時間が有っても、ひと仕事(遊び)を戸外で行えて、明るく日持ちの良い夜を戸外で過ごすのは如何ほどに素晴らしいことか。高緯度であるほど、釣る瓶落としの如く冬の暮れ時は早く、百夜の如く夏の暮れ時はゆっくり流れるからである。

午後八時ぐらいから幾分涼しくなって、それまでは無かった食欲もそろそろ出てくるだろう。出来れば野外で風に吹かれながら、気がおけない人と憩いの時を過ごしたい。その前に運動などで一汗掻いていたなら、さぞかし至福な時間が持てよう。そして、ゆっくりとした時の流れに身を任せ、ベットへと向う前に全ての緊張を解そう。

明日は明日の風が吹く。そのような止まった時間を愉しみたい。そしてなんと冷えたビールやワインそしてアイスクリームの美味いことか!
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夏の森の薬草と珍味

2005-06-28 | 料理
シュヴァルテンマーゲンは、特に地元名物と云う訳ではないが、広い地域で親しまれている。豚の煮こごりであるズルツにも似ているが、バイエルンなどでもプレスコップもしくはプレスザックと云い、中身が少し違いはっきりと区別される。トスカーナ地方にも存在するらしく、アルザスでもル・プレスコップと云うらしい。あまり役に立たない豚の頭の肉を使う事で貧しい食事とされたが、現在は細切りにして夏の食卓を飾ると、同様に拵えたソーセージ細切りサラダよりもぐっと上品である。

特に其れを名の通り胃袋に流し込んで固めたとなると、珍味となる。これを肉屋で見つけて嬉しくなって、これまた野に植生する様々な薬草の葉っぱや花に乗せてみた。

白ワインや酢で固めたゼラチンと野性味ある胃袋の皮と薬草が、白ワインに合わぬ訳が無い。次回は夏らしい細切りサラダにするとしても、先ずは珍味として味わう。なるほど 切 り 方 次 第 でこれをフランス風にテリーヌとすると俄然高級感が漂うか?



参照:夏の惣菜 [ 料理 ] / 2005-07-21
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2005年春の総決算

2005-06-27 | 料理
アスパラガスの食べ納めである。聖ヨハネ祭りを以って、2005年度の国内産の収穫は終わった。今後も、何処からか入手した物がレストラン等で出る可能性があるが、地元産は出ない。土曜日一番の市場には、前夜収穫された物が並べられた。3ユーロ90の一種類の価格で売られた物は、青みも無く真っ直ぐで、5月初めに出ていたような物に近くそれほど太くはないが、比較的良い状態であった。

実はこの前に一度食したが報告していない。その時は、地面が堅かったのか、所々曲がっている物だった。更に食事が遅くなったからと言って、暗くなってから皮むきしてはいけない。暗いと手元が良く見えないので皮が残ったままだったようである。久しぶりに苦味を感じた。素材も悪ければ、準備も十分でなくて、イタリアンソースやディジョンマスタードソースを批評したりするには、甚だ都合が悪かった。

さて、最終回はその印象に違わず満足した。気温の高い折、少し冷ましてから食したが、これがオリーブのソースに好く合った。このソースに関しては、改めてイタリア人コックに尋ねてみよう。しかしバターを使わずにオリーブオイルを使うのは理に適っている様である。白ワインのバルサミコもなぜ悪かろう。

今シーズンは、十分に勉強出来た。来シーズンも食事の温度の問題や付け合わせなどの研究課題はまだ幾多ありそうである。旬の材料の季節を名残惜しいと思う反面、スイカを同じ日に食べれて得した気持ちであった。
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「聖なる朝の夢」の採点簿

2005-06-26 | 文化一般
楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、第三帝国に政治的に利用されて最も曲解され痛めつけられた作品ではないだろうか。現在においても抽象(具象)によって非ナチ化を目指す演出か、さもなくばレトロと評される陳腐な演出が一般的である。ロマンチックな衣装と意匠を三流芸術家ヒトラー同様に喜ぶ向きもあり、マイスターの歌の規律をユダヤの戒律に当てはめたりする明らかに反ユダヤ主義的な演出も存在するが、そのような風潮がある限りこの楽劇の真価が舞台で示される事は無いだろう。

この1868年の夏至に初演されたこの楽劇は、祭り「ヨハニ」を時間軸とする構成だけでなく、ルターの精神を下敷きとして作曲当時のフォイヤーバッハやショーペンハウワーの哲学に準じている。劇中にも歌われるように親方ハンス・ザックスのハンスの名前こそが北欧のヨハニスそのものであり、この人物が人生の夏から冬へとかかる転換点にいることを忘れてはならない。聖書の「あのかたは栄え、わたしは衰えなければならない」は、財を成した職人ポーグナーの娘エファに求婚する若い騎士ヴァルターへとこの娘を宛がうハンス・ザックスの心境である。実在の靴職人にして詩人作曲家のハンス・ザックスが若い妻を娶っている事からすると、ここに楽匠リヒャルト・ヴァーグナーの真意が理解出来る。

幕初めで教会のコラールに次いでヴァルターのエファへの求愛も、この夏至の日々の「不思議」を知らないとあざとく映るに違いない。二場において、職人の歌合戦の仕来たりやバールの音楽形式が音楽でもって説明される舞台運びも見事である。しかし現代においてはドイツ語を歌える歌手が居ないので意味が皆目分からない。試しに指揮者フルトヴェングラーが君臨した第三帝国戦時下のバイロイト祝祭劇場での実況録音を聞いてみるが良い。現代においては、このようにテキストが聞き取れる事は無いので、自意識の強い歌詞も聞かずに済むのである。ヴェルディのファルスタッフの手本のような諧謔溢れる運びも素晴らしく、その明朗さで稀に見る音楽となっている。これら三代表作を知ると、ヴァーグナーほど年を経て心技ともに成長していった作曲家も少ないような気がする。

二幕における徒弟や夕刻の景は、強く真夏のヨハニの雰囲気に立脚している。ヴァルターの青春の歌を思いつつのザックスのモノローグやエファとのディアローグの後ろに潜む楽匠の存在も見落とせない。そこに出てくる夜番の警告も22時に登場して、その後ザックスの仕事場でのベックメッサーと諍いで23時に至って、何が起こるか分からない長い夜を終える。

三幕一場のヨハニの明るい日差しが差し込むザックスの仕事場で、徒弟ダヴィットに「ヨルダンの岸辺に聖ヨハネ立ち給い、世のすべての人に洗礼を行う。」と歌わせる。ペグニッツ川のハンスとして、ルターの言葉と聖ヨハネとザックスの存在を重ね合わせる。それに続く、ザックスとヴァルターとのディアローグで、優勝の歌の「朝焼けと夕焼け」が韻を踏んで歌われる。三場の横恋慕の書記ベックメッサーとのディアローグは、この楽劇のクライマックスである四場のエロティックなエファの靴の修繕の場から洗礼の五重奏へと引き継がれる。その後の有名な徒弟の踊りや歌合戦は、恰もオペラブッファの終景のようである。

フィナーレではザックスによって、「気をつけなさい!いろいろの災いが私達を脅かしています。ドイツの民と帝國は瓦解して、民を理解しない為政者に身を委ね、まやかしやガラクタを植え付けられる。誰も本質を知らずに、ドイツマイスター魂の中に生きる事はありえないのです。」と警告が歌われる。

残念ながら、この予言は的中して、現在この楽劇を上演する事は不可能となっている。歌手はうにゃうにゃと歌詞らしきものを口走り、そしてアリアの有名な旋律のみに集中して叫ぶ。指揮者は深刻ぶって杓子定規なテンポを打ち、楽譜の頁を捲るだけである。一層のこと、イタリア語でアリアオペラ風にまたは英語でミュージカル風に歌えば如何だろうか?

ドイツ連邦共和国の五人に一人が外国を源とする移民国家となっている。プロシアによるドイツ統一の政治状況に於けるこの楽匠の張り裂けんばかりの叫びに耳を傾けてみるのも悪くない。河の向こう岸を臨むように、昼に夜を、光に影を、夏に冬を、過去に未来を、朝に晩を、強制に自由を、俗に聖を、諦観に執着をみることが出来よう。



参照:
小市民の鈍い感受性 [ 文化一般 ] / 2005-07-10
真夏のポストモダンの夢 [ 生活・暦 ] / 2005-06-25
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
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真夏のポストモダンの夢

2005-06-25 | 
本日24日は、聖ヨハネ祭である。昨晩は、そのパプテスマのヨハネの生誕の前日、キリストの生誕の場合のようにイヴであった。この真夏の夜を描いて最も有名な作品がシェークスピアの「真夏の夜の夢」である。

この祭りもそれ以前の風習が、キリスト教の名前で更に伝えられたと見るのが正しいのだろう。今でも、其々の土地で違う風習が残っているところがあるようだ。それもゲルマン、ケルトだけでなくスラブ文化にもキリスト教を超越したものが見付かる。だから地域性が強いようで、ネットでも全体像は掴みにくい。

もっとも夏至の顕著な、真夜中の太陽を迎えるようなスカンジナヴィアやバルト海沿岸では、固有の文化が継承されているようである。ケベック州がこの日を法定祝祭日にしていたりする。要するに夏の一番陽が長い日から短くなるまでの期間を記念する行事である。これは、また聖書にあるようにクリスマスの半年前のヨハネの誕生(ルカス1章)であるとともに、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると非常に喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あのかたは栄え、わたしは衰えなければならない」(ヨハネスによる福音3章29-30)と、暗闇に光るクリスマスに、光溢れる昼に極短い夜が対照する。そして当日は、詰まらない争いごとを慎重に避けねばならない。

中部ドイツでは箒を十字にしたり、アルプスでは火をつけた輪を転がす所もあるらしいが、比較的一般的なのは、結婚前の若い男女が疲れ果てるまで踊り明かす事とヨハニスクランツである。このクランツは、七草もしくは九草で編まれた花環である。この中には、極東で意味を持つヨモギも含めれる。そして、この手際良く編まれた花環が、その短い闇に焚かれた炎の中へと投げ込まれる。こうして未婚の女性によって、「全ての不幸は花環とともに去り、何一つ分かつ事の無いように」と願が賭けられる。この炎を飛び越える事は、無病息災を意味し、若い男女が手を繋ぎ飛び越えられれば婚礼は近いと言う。

さらに川を飛び越えて、来る年月の不幸を「水に流す」行事があるという。洗礼の意義を逸脱している事に気が付く。さらに花環で飾った娘が清らかな水に飛び込むというのもあるらしい。なにやらバプテストの儀式よりもカンジス川の禊を思わせ印欧文化を想像させるが、違う証言もある。ポーランドの東プロイセンでは、この花環に沢山の蝋燭をつけて川に流すという。勿論、この川はあの世とこの世を分けて、流れは時そのものを表すと、ギリシャ神話のように考えるのが普通であろう。

さて、いよいよここでゲルマンの楽匠リヒャルト・ヴァーグナーに登場して貰おう。「ニュルンベルクの名歌手」と訳される楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」であるが、これは全てこのヨハニスタークの前夜からその日にかけて描かれる情景である。この重要な「思想」への配慮が欠けるとこの作品の全容は一向に現れない。(続く)
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BLOG版「幸福の手紙」

2005-06-24 | 雑感
突然、「MUSICAL BATON」と称するBLOG版「幸福の手紙」が舞い込んで来たので、回答してみます。

1、今、コンピュータに入っている音楽ファイルの容量

この記事を書いているPCのみに限っても、厳密に内容を審査しないと容量は分かりません。メディアプレーヤーのリストでは音楽全体は206.89MBとなっていますが、これは要を得ません。実際は、ここに声によるソフトの説明やラジオ番組の録音などが含めれておりまたは音楽ヴィデオが除かれたりしているので正確ではありません。音楽だけのファイル容量を計測する事は、殆んど不可能のようです。因みにヴィデオの容量は、10.40GB です。

2、今聴いている曲

音楽はPC以外で聴きます。本日、聞いているのはヴァーグナーの楽劇「マイスタージンガー」、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」です。これについての記事は、明日アップロードします。

3、よく聞く、または特別な思い入れのある5曲

ここ二三日で聞いているのは、上の曲以外にグスタフ・マーラー「第六交響曲イ短調」、「第七交響曲、2-4楽章」、アントン・ヴェーベルン「管弦楽のための5つの小曲 作品10」、リヒャルト・シュトラウス「アルプス交響曲」、理由は前後の記事の通りです。

4、最後に買ったCD

特売品を購入してから日数が経っているので、記憶に有りませんが、未だゆっくりと聞かずに置いてあるCDは、「リゲッティ作品集」、「デュファイとコンペレ」です。

5、バトンを渡す5人

この質問に興味のある人全てにバトンを渡します。そう、今これを読んでいるあなたです。これに関する記事を書いた人がこの記事にTBを貼って、こちらからもTBを返せば、チェーンになっていくだけでなく、多種多様な回答を、基点となるサイトの読者の傾向を軸に比較出来て面白いと思います。

それでも、5人なら簡単に越えるのではないでしょうか。


MUSICAL BATON
1、今、コンピュータに入っている音楽ファイルの容量
2、今聴いている曲
3、よく聞く、または特別な思い入れのある5曲
4、最後に買ったCD
5、バトンを渡す5人


MUSICAL BATON
Total volume of music on my computer
The last CD I bought
Song playing right now
Five songs I listen to a lot, or that mean a lot to me
Five people to whom I'm passing the baton



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お花畑に響くカウベル

2005-06-23 | 
雪の残る高嶺から快調に高度を下げていくと、一面が草原の広い大きな尾根筋に出る。踏み跡の無いクッションの入ったような急斜面を草滑り宜しく飛び跳ね乍走り降りる。スキーでは味わえない豪快な二拍子歩調が嬉しい。こけると何処まで転がるのだろうか。

真っ青な空が広がり、新緑の草原に一面のお花畑である。何時までも留まりたいような、誰も居ないパラダイスの大パノラマを独り占めにする。足元を見ると、紫のエンツィアン、白や黄のアネモネや、黄色いキンパイ草、青い天の梯子草、白いヤマクンメルンなどの数え切れない種類の高山植物が一斉に咲き乱れている。

小さな沢筋を降りていくと、大きな濁流の沢へと合流する。既にそこの外気温は高い。支流の水を浴びて汗を拭う。再び草原へと出ると、羊などを見かけるようになり、下界へと近づく。谷を巻きながら涼しい林の中を降りて行くと、牧童の家族がカウベルを付けた牛の列を引いているのに行き違えた。この時期にこうして家畜を徐々に上へ上へと移動させて放牧するのである。

この山行の前夜にバーデン・バーデンで聞いた、ケント・ナガノ氏の第七交響曲の解釈を思い起こす。その第二楽章「夜に響くカウベル」を連打させて殆んど抽象的な和声音(殆んどクラスター)として扱っていた。カウベルをそのまま使った音楽作品として、グスタフ・マーラーの第六・第七交響曲やアントン・ヴェーベルンの作品10番が特に思い起こされる。

ヴェーベルンの曲において、指揮者シノポリは音のオブジェとして六拍子、三拍子、二拍子の混合のなかで如何にも其れらしく扱っているのに対して、同じく作曲家ブーレーズは極めて丹念にコトコトと鳴らす。そしてその「当たり」を同時に奏される音に干渉させる。その相違は、ネオロマンティックの作曲家でもあったシノポリ氏が、登山家ヴェーベルンに敬意を表したのでもなければ、指揮者となったセリエル音楽出身のブーレーズ氏がアルプスの音色を抽象的に解釈したからでもない。

しかしマーラーの第六交響曲に使われるその高いハ音のなどはカウベルと言うにはあまりに小さすぎる。「シープベル」と言うべきで、原名は全て(ヘルデ)グロッケンである。だから低い音のベルを教会のドグマの象徴として、高い音のベルを世捨て人の寂寥感として対照させて解説されようが、その音質の違いが大切であって、その音域は二義的なものである。

今日もアルプスのアルムでは、牛や羊が草を貪り、花をついばむ。咀嚼する度に、蝿を除ける度に、場所を移動する度に、首のグロッケンがコトコトと鳴り響く。その音に暫し耳を傾けているのは、傍で寝そべる牧童犬に違いない。



参照:第六交響曲 第三楽章 [ 音 ] / 2005-08-21
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ミューレンからの絵葉書

2005-06-22 | アウトドーア・環境
例年の如く、地元のヴァインフェストが終わりを告げると本格的な夏となる。昨日を以って、一日一日とまた夜が長くなるかと思うと鬱陶しいが、暑い昼間の疲れを少しでも多くの快適な夜に癒すのも良かろう。

三年ほど前の六月の第一週、運動不足の体を動かすために、フェスト疎開中のシュヴァルツヴァルトからベルナー・オーバーラントへと車を走らせた。007映画の舞台となった山にロープウエーで登り、そこから一気に駆け下りた。高度順応対策と足慣らしのために、標高差2500メートル程の上り下りは効果満点である。

谷は既に初夏の日差しがあったが、雪が多く残る海抜3000メートルより上は春山であった。シーズンの間隙に人影のない雪の鞍部から、午後の重い雪を経釣って、谷へと降りていくと、ガスが晴れて理想的な山岳風景が目前に広がった。

左からアイガー・メンヒ・ユングフラウへと連なる対岸の4000メートルを越える屏風は、この時期特有の新鮮さと明るさに活動的な様相を呈する。黒々とした岩肌に氷河を這わせ、淡い緑のアルムの上にそそりたつ。山肌に刻まれた谷筋には雪の縞が長く尾を引いて、深く谷へと一気に落ち込む。その深い谷を挟んで、眼下のアルムには林の上縁から夏道が伸びて、足元の日陰に雪を残す尾根筋と著しいコントラストを見せる。

雪解け水は、大きな落差を滑り落ちながら迸り、風に揺す振られて定まらない反射面に夏の光を受ける。谷向こうの懸垂氷河は、爆音を立てて滑り落ちて、長い余韻の後に再び然るべき平静を取り戻す。谷のざわめきを運ぶ上昇気流に乗って鳥たちは、雪の消えたばかりの草原の上へと軟着陸して、春の息吹を謳歌する。
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花崗斑岩の摂理に向き合う

2005-06-21 | 文学・思想
毎日のお勤めでないのに、早朝から出かけようと思うと前日にあれこれと準備するのが普通だろう。遠足の前夜に寝就かれない園児の気持ちは大人になっても変わらない。子供も未知の体験には不安があるのだろう。大人の場合も色々と考えてしまう人が多い。反対に先の事が経験からある程度予測出来ると、十分な準備をせずにうっかりする事も多い。何よりも不安と期待のうきうきした気持ちが失せる。

バーデン・バーデンのバッターフェルツェンの岩質は、花崗斑岩と呼ばれるものである。珪素の多い花崗岩のように明るくも、プァルツの砂岩のように摩擦係数も高くない。それでも角張った比較的小さな摂理は岩登りに適している。傾斜も規模も十分あり、多くは針峰状になっていて、見晴らしと満足感が得られる。

ここで攀じるのは二回目であるが、今回は昔登っていた岩場を思い起こした。その岩場は、ネットで調べると、ハーケンなどの梯子で登っていたその壁が今はフリークライミングで登られている。その岩の感じを思い出すと、バーデン・バーデンの岩の質は似ている。しかし下部の影の部分に苔などがはいていても乾燥していて登りやすい。岩が割れにくいのも違う。

クライミングを再開して三年目ほどになるが、数少ない経験でも昔の勘が戻ってきたような気がする。それまでは体力的な自信のなさがどうしても岩との対峙を邪魔していたが、現在の体力と技術的能力の調和が執れてきた。アクションを起こす前に、これから自分の体にそして外界に起こる事が予測出来なければいけない。それは、試験量で見出す事も出来れば経験から導き出す事も出来る。

そして、このようなイマジネーションで確信を持って得られる心理状態は、岩・自然との調和である。十代のころと体力・身軽さでは比較しようがないが、このような安定した親密感は得がたかった。嘗て気がつかなかった主観・客観の審査を思う。つまり岩の摂理は身体の動きに対応しているわけでなく、登攀者がそれに合わせたアクションを執る。これは、選択の余地があるとは言うものの、どちらかと言えば客観的な判断に由るのである。

何故か昔は主観的に捻じ伏せようとしていたきらいがあり、如何しても合理性から遠く離れていって足掻いた。フリークライミングの歴史を振り返ると、自然保護などの重要な概念と並行するが、近代西洋の鉄の時代を経て東洋的な調和の精神が省みられた1950年代へと遡る事が出来る。自身がその中にいるとスポーツ的な現象にのみ目を奪われがちで、活動精神の本質に目が届かずに重要な視点を欠いてしまう。

経験する事によって初めて達する事が出来る、十代の時分に越えられなかった心境を不思議に思い、その汗を掻かない登攀態度を通して、人の営みに迫る事が出来る。



参照:
乾いた汗の週末 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-06-20
主体を含む環境の相違 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-04-18
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乾いた汗の週末

2005-06-20 | アウトドーア・環境
焼け付く陽の中を、バーデン・バーデンから帰ってきた。そこの古い城が建つ岩場で二日間に亘って、山岳協会支部のクライミングコースが催された。その城とエバーシュタインブルクの町の間の自然公園内に岩壁郡が横たわる。ここの病院は、高名な指揮者フルトヴェングラーが半世紀前に息を引き取ったとして知られている。夜は、シュヴェーベン側のムルク渓谷へと降りて、そこの山中の美しいキャンプ場で過ごした。横では子供が室外プールに飛び込む叫び声が響き、川の流れとともに涼しげであった。

その晩、三杯の(1,5L) ヴァイツェンビーアなどで水分補給しながらテラスで夕食を摂っていると、室内から突然声が上がった。タイマーで録画の準備をしてきたドイツ対チュニジアの試合で一点目を挙げた時だった。弱点を衝くだけでなく、一気呵成に襲い掛かるのはいつもの事なので、これはあまり実力を測る参考にはならない。本当の王者の自信は、決して弱者相手には築かれない。

泊まり組は男所帯であったが、何人かは食事前にシャワーを浴びる。しかし乾燥しており、その必要もなく、手に汗を握っても、殆んど体には汗を掻く事もなく運動出来るのは驚きであった。日焼け止めのクリームが肌の乾燥を防ぐ。キャンプ場横のスポーツ施設のレストランとはいえ、殆んどがキャンプ客である。それでも、菜食主義者の一人を除いて全員が襟付きの服に着替えてディナーに出かけた。それ程、皆が里では見せられぬ格好をしているという事でもある。

その後、バーデンの辛口リースリングを飲んだりしていると、隣の客が「プァルツの言葉は分からん」というのが耳に入る。なるほど、他の土地の人には難しい発音である。スイスドイツ語の方がアルマン語に含めれて遥かに素直で、他国語とミックスした単語を除くと解かり易い。テント場に戻って来てから、またわいわいとやったが、平均年齢も高いせいかあまり騒ぐ者もいないので苦情は出なかった。クラフィーアで「連談」した。そう静かに、ピアノ!しかし、このようなキャンプの月夜は、何十年ぶりだろう?

翌日は、流石にビールの炭酸で腹が張って動きは悪かったが、日陰を選って動いていたので息があがる事もなかった。前日以上の猛暑だったがやはり汗を掻かない。シャンペンを打ち上げに飲み、近所のカフェーでビールを飲んでも砂漠にこぼすようにすっと吸い込まれていく。全ては、滞りなく進展した。

夕刻6時30分前に戻って来てから、早速日本対ギリシャの試合を前半途中からTV観戦する。この暑さは、乾燥しているのでギリシャに近いのかもしれない。それでも地の利を生かせなかったようである。最も詰まらない試合と言われた日本対メキシコ戦とは全く違い、今回は魅せる試合であった。しかし日本のスター選手が、「精彩がなくなっても貯金通帳は増え続ける」、「ポップスター気取りでライヴ放送を持っている」だのと酷く批判される。そして彼がゴール前でPKの危険を冒して足を引っかけると不器用なプレーとして嫌悪感までが示される。些か厳しすぎるようにも響くが、コマーシャリズムの批判として、システムの破綻として、他人事でも放って置けないのだろう。それと反比例するように動きの良い注目の10番は、欧州では大分評価が定まってきたようである。

ブラジル対メキシコのブラジルの敗北に、名手にも誤りがあることを確認出来て面白い。水曜日には、真剣勝負を見れるだけでも楽しみである。辛口批評のニッツァー氏に言わせると、日本は「重要なところでのパスの精度が劣る」、「シュートでキーパーを恐れている」と技術面よりも経験や精神面での弱点を示唆する。前ワールドカップ時のフィニッシュ不足への「勉強する必要がある」、「鬩ぎ合いを更に経験しろ」からすると今回の「ジーコ監督の下で更に発展途上中」の評価は、明らかに変わって来ている。月並みなだが、スポーツにおける精神的な面を見ていくと、ある種の倫理観や美意識に繋がっていくので興味深い。



参照:花崗斑岩の摂理に向き合う[ 文学・思想 ] / 2005-06-21
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大馬鹿者たち-試飲百景

2005-06-18 | 試飲百景
先日、ドイツワイン街道の南の外れで珍しいワイン作りをしている町シュヴァイゲンを訪れて、そこの陽当たりの良いワイン畑の斜面を歩いた。フランスとの国境にあるこの町は、小さな丘に古城が並ぶ山並みの南東の端にある。土地は、その土壌も相まって、温度が上がりやすく比重の高い葡萄ジュースが収穫されるらしい。その特徴を生かして、リースリング以外の葡萄品種も盛んに耕作されている。よって、繊細なワインは無くとも、面白いワインが見付かるかもしれない。

ここの町にあるワイン街道の凱旋門は、1936年にアルザスへと向けられて建てられて現在もバスで訪れる観光名所となっている。折からの豊作とユダヤ人ワイン商を追放したので、滞りがちなワインの消費と流通を促すためにプロパガンダとして建てられる。その年の三月には、ナチは非武装化されていたプァルツへと既に侵攻している。歴史家でもあった名門ワイン醸造所主フリードリッヒ・フォン・バッサーマンの「ドイツワイン街道」のアイデアが、こうしてナチの郡長によって実現されたと、ゲーテ・インスティテュートの説明にある。

そして、この町で飲まして貰ったワインがアルコール度17度あると聞いて呆れる。それでも飲み心地に丸みがあって強いアルコールを全く感じさせない。その感想を、小さく太った伍長のような親方に告げると、我が意を得たりと満面の笑みで喜ぶ。このようなものを作る方も飲む方も大馬鹿者である。そう言えば、ラインガウのあるワイン農家に、人を頻繁に連れて行った時期がある。安くて強くて美味かったからである。そこの親爺は、「俺はガイゼンハイム(凱旋ハイム?)の高等専門学校で学んだから」と自慢をしていた。その親爺に「もっと力強いのは無いのか」と嗾けると、「強いだけがね良いとはいえないのだが」と躊躇しながらも負けられぬとばかりに、次から次へと「強いワイン」を開けていった。当時は、実際にこちらも強いワインを求めていて、平素からカロリー摂取量も高かったので長身でもないのに体重は軽く90KGを越えていた。その親方は、昨今どんなワインを作っているのだろう?久しぶりに、運転手をつけて試飲に行ってみたいと思う今日この頃である。
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昔は良かったな

2005-06-18 | 
我が家の肉屋が明日限りで店仕舞いする。その店舗のある建物が殆んど廃墟化して、オーナーが修理出来ずに、その建物を売り払ってしまうからだ。ここに住み着いてからと言うもの15年以上も先代の肉屋から含めて、この店舗は何時も生活の中心にあった。

先代の肉屋で名物料理のザウマーゲンを買って、お土産に海外へ持ち出し、調理の仕方が分からないので時差を考えながらお店に電話して教えを請うた事があった。肉屋の奥さんは、ピープトーンがしたので、何時か娘が米国から掛けた電話を受け取った経験から海外からだとは分かったと後で語ってくれた。思いかけずに海外からザウマーゲンの調理法を聞かれてさぞかし驚いただろう。

今の肉屋が店舗を引き継いでから十年になる。肉屋の若い大将は代替の店舗が見付からないので、肉屋に勤めると言う。一人一人のお客さんは、お別れの挨拶をして今後の健闘を祈る。地元密着型の店舗が一件減れば、地すべり的に町の全ての商業活動は崩壊へと大きく傾く。今後、お年よりは毎水曜日の移動マーケットを待つしかない。若い人は、今まで以上に週末に車でスーパーで纏め買いをして、勤め帰りに郊外型新興商業地で忘れ物を買い足す。

世界は、こうして新しい歴史を刻んでいく。小さな町からは郵便局もなくなり、私たちの生活の質は下がる。公共活動は民営化されて、商業活動はグローバル化に進む。安くて質の良いものが提供されればそれでよいのだが、消費志向と言うのは必ずしも合理的とは言えない。社会は平均化して、人間的な個性は薄れていく。複雑な社会の変化は難しすぎて理解出来ない。

マクロの動きが理解出来ないと不安が募る。こうして現状維持を訴える。EU憲法への否定は、この保守志向の表出であろう。生活が変わることは仕方ない。柔軟に対応しなければならない。時の流れを感じて、昔日を懐かしむのは老人の感傷である。時の流れを止める事は誰にも出来ない。



参照:
マイスターのための葬送行進曲 [ 音 ] / 2005-04-15
BLOG 対 旧マスメディア [ 歴史・時事 ] / 2005-06-07
典型的なザウマーゲン [ 料理 ] / 2005-12-27
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近代終焉交響楽

2005-06-17 | 文化一般
公共放送を巡る音楽文化政策のスキャンダルを屡取上げなければならないのは甚だ遺憾である。

今回も交響楽団がらみである。ケント・ナガノ氏が音楽監督をするベルリンの放送交響楽団のことである。官僚主義を貫く公共放送の幹部からは、決して解散や放棄の声は上がらないが、伝えられる事はそれと変わらない。だから、その事に気が付く音楽愛好家も少ない。非経済的でグロテスクな組織を形成する交響楽団は、母体である放送局の経営の健全化の大きな改革要素となっている。具体的な経済状況は知らないが、既にプログラムの自己制作断念へと傾く公共放送局にとって、このような資産を維持する口実は消えた。何処も彼処の民営化の風潮に経済性を求めるならばさっさと分割統合すべきである。

さて、今回の処方は、先ずは人気のない目立たぬ現代管弦楽曲のシリーズを中止して、事実上この高価な楽器の首(頭)を真綿で閉めて息の根(粋の音)を止めるようなものだ。実際このシリーズでの初演は、2000年の新曲が最後であったから作曲家アリベルト・リーマンが言うように、既に他の交響楽団活動同様に創造的な意味合いも芸術的な価値も朽ちていた。アシュケナージ氏が去り、ナガノ氏によるツアー優先の戦略にこれが呼応する。これまでリゲッティのチェロ協奏曲やシュトックハウゼンの「星の響き」、リームのビオラ協奏曲、リーマンの「イナーネ」のみならず多くの価値のある、さらには棒にも箸にも引っかからぬ失敗作までが初演されて楽団生存への養分となって来た。

時代の推移や趣味を語る前に、このような初演曲が無ければ大交響楽団という形態が終わりを迎えることを明白にしなければならない。現在のシカゴ交響楽団が半世紀ほど前の曲を見事に演奏するのとヴィーナー・フィルハーモニカーが一世紀程前の曲を主要レパートリーとしている事にそれが示されている。それよりも速いペースで時代は推移して、レパートリーの枯渇は免れない。交響楽の歴史の終焉である。

それを示すかのように、代わりに新しい予算を計上してミュンヘンのそれを真似て、電子音楽などのフェスティヴァルを開くと言う。決してこの処方箋は間違っていないのだろうだが、民営化で近所の郵便局が無くなり不便になるほどにも誰にも気づかれない内にひっそりと事は進められる。既に黄昏を過ぎて、終末にある証拠である。

本日、育ち過ごしたチロルのボルツァーノで埋葬されたアプリ地方出身の指揮者カルロ・マリア・ジュリーニは、イタリアオペラの世界から脱出して独墺の調的交響の世界で生きた。享年91歳であった。世界中で愛された好事家音楽家の存在自体が既にこの交響楽文化の「過去」を示しており、その指揮活動の思い出とともに感慨深い。それでも、やはり先日亡くなって戦後ドイツ音楽界における存在を再確認された「モダーンなチェリスト」のジーグフリード・パルム氏よりは遥かに有名であった。
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予想を裏切る期待

2005-06-16 | 雑感
昨晩は小さな集まりがあったのだが、コンフェデレーションズカップのTV観戦とした。本番までの最後の真剣勝負となるドイツチームの実力を測りたい。ここで決勝まで残るどころか、準決勝まで進めないとなると大事件となる。引き戻る事の出来ない崖っぷちまで来ている世界ランキング21位の名門は、そのランキングからすれば参加八カ国中の下から三番目である。

ドイツでは、従来この大会を只のお遊びとしてしか受け取っていなかったが今回は違う。予選を免除されたワールドカップ開催国の一年後の本番に向けての唯一無二の試金石となる。

結局は、順当にオーストラリアに辛勝したが、守りの弱さと中盤の想像力不足が指摘された。ブンデスリーガーのフィジカルの弱さやスピードの無さと動きの悪さが批判されていると言うが、帰化人を多数入れたナショナルチームでさえこの程度であるから、選手層は薄い。

ケルンのチュニジアとアルゼンチンの試合から、杮落としたフランクフルトのスタジアムへと一時間以内で駆けつけた、ベッケンバウワー氏が臨席して初日の試合を終了した。ドイツチームは、その世界ランキング通りで、監督クリンツマンは若いチームは未だ育つと言うが、それ相当の期待しか出来ないと言う事だろう。毎度の事ながら、この調子なら来年の本番も「予想を裏切って」、幾らか勝ち進むというのを皆が期待するのだろう。
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