Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2016年3月

2016-03-31 | Weblog-Index


まだまだインドーアライフ 2016-03-31 | 生活
復活祭の春一番が明けて 2016-03-30 | 暦
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
市場規模縮小が激しい中 2016-03-27 | マスメディア批評  TB0,COM2
原発警備強化の物的根拠 2016-03-26 | ワイン
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
現代的聴視料の集め方 2016-03-24 | マスメディア批評
知的な解決とは如何に? 2016-03-23 | 音
ベルギーの原発ティハンゲ 2016-03-22 | マスメディア批評
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
大詰めとなる「トリスタン」 2016-03-20 | 音
復活祭音楽祭ペトレンコ登場 2016-03-19 | 雑感
心地よいだけでは駄目だ 2016-03-18 | 雑感
「トリスタン」のハイライト 2016-03-17 | 音
スレート土壌女史の対決 2016-03-16 | 雑感
芸術的な感興を受ける時 2016-03-15 | 音
国政を予想させる選挙予 想2016-03-14 | 歴史・時事
2015年リースリングの出来 2016-03-13 | ワイン
My Star Singerの経済的効果 2016-03-12 | 雑感
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
第二回ユングヴァイン試飲会 2016-03-10 | 試飲百景
仏老朽原発停止への判断 2016-03-09 | アウトドーア・環境
街の代表者を選ぶ選挙 2016-03-08 | 生活
逃げ足の 速いモンサント社 2016-03-07 | BLOG研究
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
吟味したいその傾向と対策 2016-03-05 | 雑感  TB0,COM2
ギアーチェンジの円滑さ 2016-03-04 | 音
jk, ポストメルケルの中庸 2016-03-03 | 女  TB0,COM2
ハードカジュアルの靴直し 2016-03-02 | 生活
まるでとても可愛い男の子 2016-03-01 | 女
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まだまだインドーアライフ

2016-03-31 | 生活
さていよいよアウトドーアライフと思ったが、強い陽射しの合間にシャワーが続く。亜熱帯にいるようだ。夏タイヤへの交換の予約を早めに設定しておいて本当に良かった。

天候もあるが、いろいろと溜まっている情報も書き留めておかなければ忘れる。モーツァルトの「新曲」についてはサリエリとの友情関係で書いたと思うが、ヘンデルの未知の楽譜もでてきて、発見したトン・コープマンが既知の曲を補う形で録音を済ましている。指揮者コープマンといえば、バッハのマルコス受難曲の再生で有名だが、バッハのマルコス受難曲も既に四五種類の録音が出ているようである。また、ヨハネス受難曲もルネ・ヤコブスが1725年の復活祭版と1724年のニコライ教会版の二種類を同時に録音して話題となっている。それにしても復活祭が終わった後で新聞はこうしたものを記事にしていても誰も見向きもしないのではなかろうか?

先ごろ注文したCDが届いた。今回の落穂ひろいは割高になったが最近の注文の中ではかなり価値がありそうな内容となった。まだ鳴らしていないが「マイスタージンガー」は、ヘラクレスザールとバイエルン放送局の管弦楽団のホームであるステゥディオ1を使っていて、どのように使い分けているのだろうか。あり得るのは合唱が加わるかないかでの選択ではないだろうか。サヴァリッシュ監督の退任の御褒美として本人にとっても生涯で最も高価で大きな制作だったに違いない。その他のプロコフィエフも1990年代のアシュケナージのスイス録音である。デジタルソロ録音は持っていなかったのでそのピアノの音色が楽しみだ。

楽劇「マイスタージンガー」も追々と勉強しておかないといけない。先ずはフェリックス・モットル編集版の総譜をDLした。モットルといえば作曲家ブルックナーの弟子で「指輪」初演などにアシスタントとして関わっている指揮者としても有名だが、「トリスタン」を数多く演奏していて、ミュンヘンで監督としてそれの100回目の指揮中に亡くなっている。その譜面を見るとその指揮ぶりも浮かぶだろうか?少なくとも編曲は有名なようだ。

そもそもヴァークナーの楽劇は長大であることもありそれを具に観察していくには時間が掛かる。それ故に出来るだけ深入りしないでいたのだが、これまた重要な創作なので仕方がない。学べば学ぶほど音楽の勉強にはなるのだが、これまた作曲の課題も作品ごとに変わっているので中々飽きさせないために余計に厄介なのだ。

久しぶりにワークステーションのアップデートを完了させた。XPの方はアップデートが無いので早いが、LINUXは一時間ほど時間が掛かっていた。今年はどれほど使うのか、それともノートブックを上手に併用していくのかは分からない。雑音や電気代のことを考えるとノートブックを使いこなしたいのだが、さてどうなるだろうか。その為には電源アダプターをもう一つ欲しい。アダプターを毎日のように動かすのが億劫だからだ。調べると対応製品が22ユーロであった。日本でも2200円ほどなのでこれで十分だろうか。上手く使えば電気代で取り返せるかもしれない。暖かくなったといっても陽が陰ると肌寒い。この時期にこそノートブックを移動させることが多くなる。早速窓の隙間パッキングゴムと一緒に発注した。



参照:
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
楽のないマルコ受難曲評I(14.1-14.11) [ 暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評II(14.18-14.44) [ 暦 ] / 2005-03-24
楽のないマルコ受難曲評III(14.45-14.72) [ 暦 ] / 2005-03-25
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14-15.47) [ 暦 ] / 2005-03-26
ヨハネ受難曲への視点  2014-04-19 | 音
市場規模縮小が激しい中 2016-03-27 | マスメディア批評
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復活祭の春一番が明けて

2016-03-30 | 
ギーセンとデュッセルドルフ近郊で二人の逮捕者が出たとあった。ベルギーのテロ攻撃に関連する捜査である。ギーセンは少し遠いがデュセルドルフからならばベルギーと連携するには好都合である。どのような組織がどこにあるのだろうか?

バーデン・バーデンへとフランスから車を進めると町の背後の山の上には雪が残っていた。連邦共和国では雪の多い地域だから当然だろう。夏はザルツブルクカムマーのような湖水地帯も無く物足りないかもしれないが、復活祭時期はアルザス・ロレーヌ地方やアーモンドの咲くプファルツを含めて、まだ雪深いザルツブルクの湿ったところよりも遥かに快適だろう。

今年も最後の週末は日本からのグループが入っていた。音楽的には批判点もあるだろうが、ゲルハルト・リヒター展もブルダ美術館で開かれていて、フィルハーモニカ―の幾つもの音楽会を含めて、芸術的な催し物は十分だったろう。

現時点では、フランス人、ロシア人、スイス人、英米人、日本人などがインターナショナルな雰囲気を作っているが、二年後にはバイエルンや北ドイツなどから観光客が増えるのではないかと思われる。そうなってくると祝祭的雰囲気が一気に高まるのである。まだまだ夏のザルツブルクからすると足りない。

復活祭の催し物に関しては、現在のラトルの率先で子供のためやアカデミーの催し物など同時に開かれているが、次期のペトレンコになるとその辺りは不明である。少なくともオペラ絡みで演出やプロデュースなどでの梃入れが期待される。

個人的にはこれで今年の音楽祭は最後となり、次回は一年後となる。先週末に夏時間となって今週は完全に春らしくなるので、冬篭りから開放される。

ショーツ姿で走ることが出来た。週末に一度走ったので、先週は三回走ったことになる。今週は後二回ほど走れば丁度よい感じだろう。十分に暖かければ足首の様子を見ながら、一度クライミングに出かけたいところだ。昨晩の春一番のような雷雨で森は濡れていた。



参照:
復活祭の春一番が明けて 2016-03-29 | 暦
復活祭音楽祭ペトレンコ登場 2016-03-19 | 雑感
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陰謀論を憚らない人々

2016-03-29 | 
復活祭日曜日の朝のラディオは「陰謀論」研究者の話だった。その本質は、「少なくとも欧州における陰謀論には神が存在する」ということで、陰謀論はこうした混沌としたカオスとコミュニケーションの世界で、そこに何らかの「張本人」を創る作業でしかないということだ。それは、言葉を変えると一神教における神ということになる。つまり陰謀論者は救世主を希求する人々となる。

ベートーヴェンの第九交響曲である。お隣に居合わせた戦中世代の御婦人が溢していた。合唱団の声量や管弦楽の音響ゆえに違和感を感じられたようだ。おっしゃる通りですと答えた。この交響曲を初めて体験して些か腹立たしい思いをしたのは初演の時も変わらなかったかもしれない。なるほどサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカ―は、指揮者ニキシュの時とも、フルトヴァングラーの時とも、フォン・カラヤンの時とも全く違う。そして第四楽章が管弦楽伴奏つきの合唱曲ではなくて、ここで交響曲として動機をしっかりと奏でていたことは、どの世代でも不十分であったことで、今回の成果であったろう。それは第一楽章での各々の調性の金管があり溢れる音響を奏でて、グスタフ・マーラーの交響曲に比するほどの大音響を響かせていたことにも適応する。

どうしてもマーラーの交響曲を通してしか、その手本となっている交響曲を評価できないのは仕方がないことなのであり、それが現在の大管弦楽団の宿命なのである。しかしドイツではマーラーの交響曲はそれほど人気が無い。一体何を演奏するのだろう?既に書いたように、ベートーヴェンの交響曲が最後にそれらしく響いたのは、一世紀ほど前のことであり、歴史の彼方に消え去ろうとしている。今回もコンサートマスターのスタブラーヴァのセンスの良いポルタメント風のさわりや、パウのフルートや、ファゴットの名技など事欠かなかったが、なにもベートーヴェンの交響曲でなければいけないものなどはなかった。なるほど弦楽器においては各々のセクションが、なにも有名なチェロ陣にだけではなくて ― チェロを見るといつもその奏者の一人の練習を邪魔したことをどうしても思い出してしまうが ―、コントラバスにも、ヴィオラにも、第二ヴァイオリン群にも、その合奏を堪能させてもらえるのはベートーヴェンだったからだろう。なるほどその点においてはフォン・カラヤン時代よりは成功しているだろうが、ルツェルンでの最後のアバド指揮の「エグモント」と比較すると和声の陰影ということで明らかに劣るのである。

サイモン・ラトル監督時代集大成のラストスパートとなっている。そのテムポの設定やアンサムブル芸術などこの指揮者の商標であったものが今こうして披露されている。同時にその管弦楽の整理整頓されたパレットもほぼ見つくした感は免れない。来年以降ロンドン交響楽団へと移るのだが ― 調べると同楽団へともう片足はどっぷりと浸かっている ―、そこではもう少しシャープな音響が希求されるのではなかろうか?

今年のバーデン・バーデンでは、次なる監督であるキリル・ペトレンコを希求する気持ちが膨らんだかもしれない。なるほど第九交響曲の楽譜から遥かに多くの情報を取り出して、弦楽器の和声感を弦楽四重奏のように求心的に響かせて、柔軟で機敏なテムポから正しい歌を紡ぎながら、木管、金管の色彩を対照させ音色のパレットを広げていくに違いない。ベルリナーフィルハモニカ―は、「アバドの良さとラトルの良さを合わせた」とペトレンコへの期待を上手に表現している。しかし、そこに救世主が居るとは真面な人は思わない。当然である。今年の日本ではこの曲がラトル監督最後の演奏になるらしい。我々はもう一度マーラーの六番を経験出来る。

前半に内田光子のピアノで変ホ長調のK482が演奏された。ネット放送されたものよりも上手く行っていたと思うが、聞いた座席ゆえ残念ながら美しく混ざりあった音色は得られなかった。楽器はいつものスタインウェーだったようだが、驚いたことにベッヒシュタインのように響いていた。彼女の弾くシェーンベルクの協奏曲も聞いているが、これだけ落ち着いたこしのある音を出すとは思っていなかった。最近はソロコフの教えを受けてか同じブレンデル派のキット・アームストロングなどもベッヒシュタインを弾いているのだが、内田の弾くスタインウェーならば甲乙点けがたいと思った。

いつものオリエンティーリングは、緩徐楽章におけるピアノと弦と管の各々に対する作曲区分に関しての言及だった。要するに代わり番こに出て、一緒に対抗しながら、また合わせてのロールプレーの管弦楽法での、フルートとファゴットのデュエットや、私であるピアノともう一つの弦楽の私、そして管弦楽の社会や子供じみた木管などである。モーツァルトのピアノ協奏曲の独特の在り方がこうして上手に説明されていた。

モーツァルトの大管弦楽団での演奏も問題となるところであるかもしれないが、現代的なピアノに合わせるならばという合理的な言い訳が第九交響曲のようにここにも成り立つ。これもまた来年には悲愴交響曲の前にハフナー交響曲がペトレンコ指揮で演奏されるのだが、容易に解決される問題ではなかろう。ヴィーナーフィルハーモニカーでも交響曲34番が演奏されるので、まるでザルツブルクのようなプログラムをバーデン・バーデン音楽祭も望んでいることになる。立見の出る満席の会場に前半に二つ空いていた席を見るとどうもマネージャーと内田光子の席のようだった。ちらちらと様子を見ていたが、レクチャーの映像などで観るのとは全く違ってとても柔和な表情で前席のお客さんと会話していたようだった。

世界は複雑である。到底、そこに良かろうが悪かろうが一つの意志が働いているとは捉えられないのが私たちの世界である。そこで、神の輝きを賛歌するにしても精々それはEUの賛歌でしかない。そしてEU本部も狙われるようになってきた。ドイツを含めてEU加盟国の良き市民もそこに感じているのは条件付きの平和でしかない。

「おお、友よ、こんな響きではない。もっと心地よく、声を揃えて、喜びに溢れた。」と、救世主を待ち望んでも仕方がない。まさにそこにあるのは「遠くのアウシュヴィッツ」であって、そこに生じるのは陰謀論でしかあり得ないからだ。1942年のベルリンと同じぐらいに、バーデン・バーデンのとても整頓された「合唱付き」は、紛れもなく今日の空気を反映していただろうか?



参照:
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
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美しい世界のようなもの

2016-03-28 | 
初めての合唱交響曲体験を前に胸を膨らましている。そもそも楽聖の交響曲を最後に生で聞いたのは40年以上前のことだろうか。もしかすると英雄交響曲ぐらいはなにかの序に聞いているのかもしれないが全く記憶にない。今回以下のメディアを真面目に聞いて、また1826年のショット版並びに手書きファクシミリと比較的新しい楽譜をDLして、少々戸惑い、なるほどと思った。

結論からすると、少なくともこの交響曲は近代の管弦楽演奏の心棒になっていたのだろうと認知して、なぜ演奏されるのは特別な機会に限られるのかという疑問への回答にもなるということである。ショット社と作曲家との関係など今は顧みないが、明らかに歴史と伝統の中で育まれてきた西洋近代音楽がそこにあって、管弦楽団活動にはこうした作品が特別な意味合いを持ち続けていたことが知れる。

そして、その頂点が1942年3月のベルリンでの録音に刻まれているとしか思えない。実は昨年暮れに日本のアマゾンにて丸山真男が吉田秀和と指揮者フルトヴァングラーについて対談しているのを収めている文庫本を見つけて送らせたのだが、先日漸く届いたのだった。そこに触れられている丸山の言及する指揮者とベルリンの聴衆との繋がりや、吉田が「月並みで紋きり」と自嘲しながら書いている「偉くまじめな」ベルリナーフィルハーモニカ―のパリ登場の感想の本質は、まさしくこの録音にまざまざと記録として残っていることを発見するのである。

一般的には戦後のバイロイトでの実況録音がこの曲の決定盤の一つと推されることが多い。しかし、様々な観点からこの戦中の演奏とは比較にならない。数週間後の四月には有名なヒットラー生誕記念のコンサートがあるが、その年初にはベルリンのグリューネヴァルト貨物駅からはユダヤ人が護送されている一方、管弦楽団はまだまだ戦後のバイロイトなどよりも遥かに質が高く、充実している ― そうした意味合いは含まれないが、吉田は体験した晩年の三楽章の演奏解釈は理解できなかったと素直に書いている、さもありなんである。

ソナタ形式の鳴り響くフォームがこれほどに実感されることはないのではなかろうか。恐らく現在の日本以外の指揮者でこの交響曲を最も数多く振っていた指揮者の読みつくした譜面から楽聖の叙述法が綺麗に浮かび上がる。勿論それは動機の圧縮展開や和声進行とテムポなどが有機的に組み合わされることで初めてその全容があからさまになるのだ ― その意味合いを即物主義時代のカール・ベーム博士の指揮と比べるとどちらが正しいかは議論の余地が無い。それ故に一楽章最後のコーダのリタルタンドのオーボエからホルンへの受け渡しなども手に通るように楽聖の思考の飛翔が聞こえるのである。

また二楽章の動機の連環も素晴らしいが、三楽章のアンダンテモデラートのエスプレシーヴォの主題は殆どヴァーグナー風で始まり、二度目に出てくるときにDからGへと転調されていて、そこからさらにアダージョ主題を挟んで12拍子で軽やかなステップは晩年のピアノソナタのようでもあり、やはりそれを超えてその後の音楽に含まれるに間違いない。

後年にはこの指揮者からも聞けないものがここにあるとすれば、丸山が信じるように、決して指揮者の健康とかの問題とは異なる世界がそこにあったとするのは間違いない。勿論、丸山が言うようにナチ政権があのようなものだとはヴァイマール共和国の保守的な知識階級は分からなかったのかもしれないが、少なくともこうした合唱付交響曲が演奏されている数キロも離れていないような貨物駅からユダヤ人が「最終処分」のために輸送されて行ったことは皆知っていたのである ― これは誤魔化してはいけないところで、ユダヤ人亡命者のアドルノが語るような「遠くのアウシュヴィッツ」とは違って、ベルリンの町の中からユダヤ人が一掃されて行ったのは周知の事実であり、その先に何があるかは少なくとも権力に近いところにいた者はある程度の情報は得ていた筈である。誰も身近なベルリン近郊の強制収容所よりも快適なところとは思っていなかっただろう。二月には、ヴェルナー・ハイゼンベルクが「ウランからのエネルギー確保」を講義しており、共産党員は判決後直ぐにブランデンブルクで処刑されている。

丸山は、彼の学問的な立脚点からこうした芸術と社会主義リアリズムの芸術や社会を同距離で同じように捉えている。ヴァイマール共和国文化の仇花は第三帝国のそれであったのと同じく、戦後の東西の文化も同じように左右のイデオロギーの中に存在したというの正しいだろう。

つまり、ここではデカルトからホッブスへの科学的な知性と、この指揮者が恐れていた科学主義への懐疑との認識の混濁などが、ナチの反知性主義の土壌の一つになっていたと丸山の言及を確りと読み取りたい。そこで「1918年の『革命』と33年のナチ『革命』との理念の本質的な違いを象徴的に示して…、つまり単純化して言えば、同じく平等化といっても、文化水準の上昇要求から出た『革命』と、ルサンチマンから発するところの引っ張り下ろす『革命』という風に対照出来るでしょう。」と丸山は言い直しており、そしてこの指揮者が大切にしていた公衆共同体が大衆社会へと移行していたことに気が付いていなかったことを、その免罪符としているかのようだ ― 丸山のフルトヴァングラー擁護は贔屓の引き倒しのようなものではなくて同時代を生きた自らへの語り掛けであったとしても間違いではなかろう。余談ながら今回発見した当時のニュース映像にはヒトラー生誕式典での在ベルリン大日本帝国の外交官が舞台に居座っていて、陸軍大島浩全権大使であると思われ、更に若い外交官を引き連れて第九を聞いていたことになる。

またハイエクの「奴隷への道」を挙げて、ナチの「フライツャイトゲスタールテュング」つまり「余暇の活用」こそが ― 当然ながら時間の認知と再構成こそが作曲構造そのものだ、その自由でない社会の典型として、現在においてはマスメディアの洪水がそれに相当しているとしている。なるほどフルトヴァングラーにはある種の神秘主義への傾倒からそれを反知性主義の一つとして観察できるのだが、丸山の言及によりこの指揮者がベルリンで求めていたものが明白になる。

今回虫干しとして手元にあるメディアを一通り流した。CDは昨年購入したヴィーナーフィルハーモニカ―を最晩年にカール・ベーム博士が振ったもの、LPではフルトヴェングラー指揮の二種類、カール・ベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカー盤、フォン・カラヤン指揮のベルリナーフィルハーモニカ―の最初の全集盤、そして先日エアーチェックしたバーデンバーデンでのサイモン・ラトル指揮のものである。

その中で例えば戦前はフルトヴァングラーと変わらないエロイカの演奏をしているフォンカラヤンは、戦後にはそのアンティをモットーとして演奏していて、そのあまりにもクールでありながらスタイリッシュなそのあり方に、同世代はある種懐かしさと恥ずかしさのようなものを感じるかもしれない。要するに今からするとレニングラードやクリーヴランドなどで行われていた交響楽団活動と同じようにとても極端なイデオロギーの立場を演じていたということになる。その時代を同時代性を以って記憶がある人は、この指揮者がそこで描いている世界は二十世紀後半のビーダーマイヤー風文明の三種の神器の世界観であったと実感出来る筈だ。そこには、もはや楽聖や楽匠が生きた世界から連なる、欧州の伝統的な世界はなかったということである。



参照:
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
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市場規模縮小が激しい中

2016-03-27 | マスメディア批評
四半期末が迫っている。割引の権利を逃さないために恒例のCD落穂拾いをした。前回同様に明らかに割引市場も規模縮小が甚だしい。自分自身、先日急いで「トリスタン」の音素材が欲しいときには交換サイトなどを通じて調達した。人によってはそれで購入に向かわない人が居ても不思議ではない。但し、繰り返しその制作されたメディアを楽しもうと思えばやはりディスクに勝るものはない。なによりも音質が違う。先日DLしたファイルにはCUEコードが付いていないのでCDそのままのインデックスなどはついていないのだが、もしそのままCDを再現したとしてもグラスマスターから焼き付けたCDとCDROMの音質は明らかに違う。だから音響に拘るならばDAC再生か、ディスクを購入するしかないだろう。

もし手頃なDACを入手した時、その時どのように感じるか?それは実際に使ってみなければ分からないが、予想されるのはHiFi装置に接続したりの煩雑さであって、もし全てLAN上で飛ばすならばまた事情は違ってくるかもしれない。

今回急いで発注したのは、五月の新プロダクションのお勉強に備えて楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全曲の制作録音で、最後にミュンヘンの総監督だったヴォルフガンク・サヴァリッシュが当時のアンサムブルで指揮演奏したものだ。この時期の情報には疎かったのでその存在を知らなかったものだ。フォン・カラヤンがドレスデンで録音したものの対抗盤のようであるが、さわりを聞くとなかなか上手に演奏していて、録音も上手く録れている。この指揮者のシュトラウスシリーズはデジタル録音初期前後にEMIに録音されていて、どれもこれも魅力的なものだったが、管弦楽団も放送交響楽団と座付と二種類がある。どうもこの最後の録音が当時の劇場のアンサムブルの質を記録するもののようで、現在の状態と比較するに丁度良いだろう。

もう一つは、アンサムブルセクェンツァのエディションボックスセットで、いつも買いそびれていたような中世物の詰め合わせである。ハインリッヒ・フォン・マイセンの「フラウエンロープ」や、スコラ派のフィリップ・ル・コンシエール、フォリップ・デュヴィリティ、オズヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタインなどの曲が収められている10枚組である。14.99ユーロなら資料としても助かる。

あとはフライブルクの昔からのレーベルが出しているシリーズの安売りから、フランドルの多声楽で、ルーヴァン大学で学んだヤコブス・ファート作曲のテデウムを収めた1.99ユーロの一枚である。

これだけでは十分に30ユーロの最低価格を越えなかったので、一枚だけ標準価格の7.99ユーロで、前からウィッシュリストに入っていたプロコフィエフのピアノソナタ三曲を発注する。アシュケナージのピアノが美しいデジタルサウンドで聞けそうである。

〆て、6ユーロの割引を入れて16枚、36.96ユーロと、やや高くついたが、最近はあまり買えるディスクが出てこないので、この内容ならば仕方がないであろうか。



参照:
未知との遭遇の恐怖 2015-10-24 | 雑感
お目当ての録音をDL 2015-11-17 | テクニック
コメント (2)

原発警備強化の物的根拠

2016-03-26 | ワイン
聖金曜日を前にして緑の木曜日に買い物を済ました。先ずは、溜まっている空き缶のパンドを取り返しに行った。ゴミ袋一杯溜まっていたので、幾らになるか気になっていた。何故ならばレシートを貰ったら直ぐに使い切ってしまいたいからだ。結局12ユーロを超えた。その足で八百屋に行ってから、スーパーに戻った。それ程買うものも無いので不要不急の缶詰類も序に購入した。冷凍フラムクーヘンも安売りになっていたのでレジに並べると16ユーロを超えた。丁度良かった。

昨晩はカレーの残りがあったので、ホウレンソウを入れて、残りの野菜を加えた。朝早く走ったことでもあり体が冷えたので赤ワインを探した。2007年産のクリストマン醸造所のシュペートブルグンダーを開けた。オェルベルクで、丁度季節向けである。2007年産は、2005年、2009年などに比較するとあまり赤ワイン向きの年度とは思われていない。それでも毛皮臭さなど例年にはない特徴と清潔さが気に入っていたので、最高級のイーディックも購入しているのだ。それでも2009年を飲み干す前には弱ってしまうことは分かっていたので開けたのだった。

予想通り、この醸造所の2007年産は素晴らしい。アルコールは13.5%あるのだが、2007年のリースリングにも共通する繊細さも涼しさもありながら、ブラックベリー系の味とその可憐さはブルゴーニュでもあまりない清楚さで、ベリー系がしゃしゃり出ないのが上質なのである。所謂薄旨形なのだが、美味い以上にエレガントなのだ。残念ながら力が無いので飲み頃を続かないだろうからその意味では価値が上がらないのである。要するに飲み頃に消費できればそれはそれでよい。

2013年産ゲリュンペルも空けた。昨年の二月以来で、先日モスバッハ―醸造所のヴァッヘンハイマーブントザントシュタインが黄色くなっていて、気持ちよく熟成していたので、とても期待した。なるほど2013年産の薬草風味に果実風味が膨らんできて、渋みも無く最初の頃の通好みから万人向きになっていた。黄色味もあるが全く丁度良い最初の瓶熟成である。逆にあまりにも慣れ過ぎていて軽やかで、今後どのようになるのかは見当がつかない。それでも、今までの過去のゲリュンペルの歴史の中でも秀逸な印象である。

ベルギーの原発避難関連での続報が新聞に載っている。それによると、既に伝えたように核開発研究所を含む三か所で警備体制がひかれて、犯人のアジトから10時間を超える重要な核防護に関する動画が見つかったということだ。そこには各開発研究所の役員が写っており、原発の日常が紹介されているということだ。フランスの記事では、ISが核関連施設への攻撃を計画しており、それを受けてフランスでは58の核反応器への警備強化がされたとある。昨年11月に逮捕されたモハメッド・バカリの妻の自宅から発見された中には、サラ・アデスラムの触れた自爆装置などが見つかり、本人はそこから先週金曜日に逃亡している。アデスラムはパリの事件の主犯格とされている。



参照:
ヴィンテージ大胆予想 2007-08-27 | ワイン
刺激するための方策 2015-02-14 | 生活
ベルギーの原発ティハンゲ 2016-03-22 | マスメディア批評
ヒトラー革命と総ミュンヘン 2015-11-11 | 暦
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高額であり得ぬ下手さ加減

2016-03-25 | 文化一般
来年からバーデンバーデンの祝祭劇場の席割が変わる。そして明らかに配席システムのプログラミングに間違いがあったようだ。そこで良い席よりも悪い席で倍近い料金を払う人が出る。具体的に言うとザイテンバルコンの一列目よりも二列目が高価になっている。あり得ないことである。音響も視覚も二列目には利点が無いので、恐らく問題となる筈だ。最初は席を選択できなかったので最優先の席を予約することになったが、今度は席を指定可能になったからにはお好みの席を格安で買えるようになった。

ムーティー指揮のシカゴ交響楽団が22ユーロ、ブロムシュテット指揮のヴィナーフィルハモニカ―が22ユーロ、まるで楽友協会ホールの立見席並の価格だが一列目なら可成り近く、音響も遥かに明確である。いづれ問題になるだろうが、先ずは券を否、良席を抑えておいた。なぜこのようなことになったのかは分からないが、発売前から気が付いていたが連絡はしなかった、なぜならば修正されていると思っていたからである。ムーティー指揮の演奏会も彼の日本デビューの時以来だから40年ぶりぐらいか。指揮者ブロムシュテットは名前だけ知っていてもその音楽を聞いたことが無いが、ネットでベルリンでのブルックナーを聞くと楽天家のようでとても肯定的で明るい。ルツェルン在住のようだ ― 調べると一枚だけ先日購入していたニールセンの交響曲を振った安売りCDが見つかった。

2016年で二席分しか買えない額で五席ほど購入した ― もしこれでコンセルトヘボーのコンサートがあれば世界のトップフォーを100ユーロほどで網羅出来た。配席の変更はよりよい席占有率を目指したのだろうが、さて間違いは来年以降は補正しても結果はどうなるだろうか?格安席が出ることは若い聴衆を呼び込むことには効果的だろうが、ミュンヘンの劇場などを見ると立見席は公演中に卒倒するような爺婆ばかりである。フランクフルトのアルテオパーの35ユーロのキリル・ペトレンコ指揮座付管弦楽団とのチャイコフスキー五番は直ぐに売り切れた。バーデンバーデンデビューも予想以上に高額席から売り切れている。それでも同時に格安席もよく出ているのは通の聴衆のペトレンコへの期待が徐々に高まってきていることでもあるのだろう ― 小澤征爾の四月のプログラム後半だけの指揮がフィルハーモニーで40ユーロするので高過ぎると思ったが、バーデンバーデンでは29ユーロで少なくとも2017年はフィルハーモニーの後ろの席よりは明晰に聞ける席だ。

興味本位でザルツブルクの配券状況を調べた。会員のセット券を中心にしているがバーデンバーデンよりも残券が多い。オペラの最高券は500ユーロにも上っている。これならばミュンヘンの人はゼムパーオパーを訪ねてドレスデンに通う方が安上がりではなかろうか?あとはヴィーンの人が態々シュターツカペレを楽しみにザルツブルクを訪れることになるのだろうか。

今年の「オテロ」上演はたいへん不評で、バイエルン放送局はなにを歌っているのか分かっていない歌手陣だけでなく、芸術監督ティーレマンのアイデアの無い指揮どころか、シュターツカペレの練習したとは思えない下手な演奏は、この高額の価格ではありえないと痛烈に批判している。これを機に軋みが響き出して、契約満期を待つことなく、いつものようにシュターツカペレの指揮者のポストを投げ出す事になるのだろうか。勘が良過ぎるのかいつものFAZのおばさんはバーデンバーデンからベルリンに行って、ザルツブルクの批評は辞退して同僚に任せている。



参照:
Thielemann dirigiert Verdis "Otello" in Salzburg (BR-Klassik)
知的な解決とは如何に? 2016-03-23 | 音
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
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現代的聴視料の集め方

2016-03-24 | マスメディア批評
二カ月ぶりに峠を攻めた。日曜日に初めて坂を走ってから、これならいけると考えたからだ。兎に角完走を目指して走り始めた。遅めのテムポで考え事をしていたら、峠に着いた時もとても楽だった。足も痛みは感じることはなく、違和感と蹴りの足りなさだけである。22分を切っていたので、昨今の標準20分割にはまだまだだが、一昨年辺りはこれぐらいのスピードで走っていたのだった。それからすればこの一年間で走り慣れて、足を故障していても以前のスピードぐらいは熟すようになっているという事だ。

それで下りに掛かると着地するときに痛みを感じる。足を挫かない様に注意しながら走り抜くが、結構つらい。それでも無事に降りてきて37分であるからまあまあだろう。もう一息である。ショーツだけになったら記録が出るぐらいに回復を期待したいのである。計量すると69.7KGと明らかに減量している。これが体の軽さに繋がっているようで、これでもし筋力が落ちていないとするとクライミングを再開した時にとても良い結果が出るだろう。少なくとも体幹は鍛えられている筈だ。

走りながらの考え事は聴視料のことである。問い合わせの通知が来たからである。連邦共和国の公共放送は各々独立した組織で、ARD, ZDF, DeutschlandFunk, DeutscheWelleと海外向け放送までがそこに含まれて、ARDは各地方の放送局が集まった形になっている。そして2013年からは各家庭、各事業所ごとに徴収するようになって、そこでTV受信機があるとかラディオが幾つあるかとかは関係なく徴収することになった。これはデジタルネットメディアの時代には当然で受信機のあるなしなどは全く関係ない。これによってデジタルTVの普及率は下がったかもしれないが、もはやそのようなことも顧みられないほどであろう。この辺りは合衆国や日本などのTV社会でも同じで、大きなトレンドとして誰も若い人たちはTV放送などは相手にしない。但し、車両ごとに徴収することになって、車載ラディオなどはどのような形であり強制的に徴収される。

既にすったもんだの後で個人的にすっきりした形で支払っているが、今回はさらに今まで話題になっていなかったもう一つの法人あてへの問い合わせである。これについては支払わなければいけないかなと最初から思っていたが、少なくとも追徴だけは避けなければいけない。先ずは他の法人と同じように済ましたいのだが、車両の名義などもありそれに関しては支払っても仕方ないかと考えていた。そして車両に関しての申告は既に事業所・住居として支払っているならば一台だけはそこに含ませることが出来るとなっている。先方がどのように判断するかどうかは分からないが、業務目的の使用をしていない限り車両一台分は事業所に含ませることが出来るようだ。車両を個人目的以外に使っているか使っていないかの判断はどこですればよいのかどうか、その辺りが法的にな判断すべきどころだろうか?税制上の優遇があるかどうか、必要経費として落とされているかどうか、その辺りが判断のしどころだろうか?もし聴視料を新たに収めることになればこれはまた必要経費になることは間違いない。

私自身の場合は業界から恩恵を受けているので、必ずしも多重の催促には腹立たしくはないが、なにも恩恵を受けていないと思っている人にはとても腹立たしいことかもしれない。ネットでどうしたものが転がっていようがその制作が公共放送のものであるならば正々堂々とDLして楽しめるのもこの聴視料のお蔭である。充分に支払っている自覚がある。



参照:
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
膿が出来らない限りは 2013-05-17 | 生活
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知的な解決とは如何に?

2016-03-23 | 
スーパーに出かける時にラディオではバーデンバーデンの初日の観劇評が話されていた。どうも早朝の番組でトリスタンの新演出に関しては散々批判されていたようで、それについては聞かずに済んだ ― そもそもオペラの演出などについてなんだかんだと言わなければいけないなどとてもお気の毒である。せめて演劇評論する方が知的である。

オペラ歌手についてとやかく言うのも少々音楽を分かっている者なら同様に馬鹿らしいが、今回のイゾルデの歌手のヴィブラートがイゾルデには向かないというのは当然のことで、最後の「愛の死」は実際興醒めだった。レオニー・レザネックなどのベテランのおばさんが技を披露するならばそれはそれで芸があるのだが、若い歌手があれだけ声を揺らしてどうする。半音で決まってしまう音楽でありそれは四分音ふらつくだけでも不都合である。歌手などはそうしたものだと言っても、昨年の上演のためにバイロイトのオーデェションでそこの音楽監督に蹴られたらしく、結局アニヤ・カムプに決まり、それがまたキャンセルすることになったのだった。

サイモン・ラトルのお気に入りの歌手でそのようなエンディングになったとしても、そうしたことはミュンヘンのペトレンコ指揮の「神々の黄昏」でも昨年暮れにあった訳で、そこはやはり指揮者が上手く歌わせて収めなければいけないのだろう。なるほど歌手にとって愛される指揮者とそうでないのとの差は大きく、同じ実力でもそれなりに上手に囀らせることがオペラ指揮者の腕なのだろう。

室内楽的な奈落の大管弦楽団が、バイロイトでと同じように響いたというのはもう一つ理解できなかったが、声とのバランスは少なくとも招待席ではよかったというのは理解できる。それに関しては、そもそもステファン・ミリングだけがそれに価する声を持っていただけで、また歌わせる場所に問題があっただけで、管弦楽団は十分に制御していただろう。ゲネプロの録音が一部流れていた。

SWR2のHPを探していると、次のプログラムの合唱交響曲の生中継に気が付いていつものようにハイレゾナンス録音を試みた。生中継の音質はDLするオンデマンドものより良さそうで、CD基準にはなるのではなかろうか。前日のヨーヨーマの弾く協奏曲のVIDEOもDLする。フランス人指揮者がキャンセルしていて、代役がなんと悲愴交響曲を振っている。すると来年のペトレンコ指揮のプログラムは指揮者のどうしてもの要望ということになるのだろう。

合唱交響曲の演奏は可成り良さそうで楽しみだが、内田光子とのモ-ツァルトの協奏曲は上手くあっていなかった。次はもう少し上手に弾いてもらいたい。それにしても、フィルハーモニカ―はアバド時代よりも良くなっているようで、少なくとも弦の柔軟性は未だかつてないことであり、昨年ベルリオーズで示したセンシティーヴな響きも出せるようになっている。ラトル監督ではテュッティーとなるとどうしてもサウンドが広がらないのだが、次期ペトレンコ監督となれば、遅かれ早かれ、ダイナミックスが解放されてそれだけでなくバスからの和声の重なりが綺麗に響くようになるであろう。合唱交響曲の演奏実践についてはもう二三日勉強してみないと何とも言えないが、想像していたよりも上手に解決しているようだ。これならばここに来て初めて、ベルリナーフィルハーモニカ―の券がムーティー指揮のシカゴのそれよりも高価になってきたのも納得できる。



参照:
Mitsuko Uchida und Beethovens Neunte im Video-Livestream (SWR/ARTE)
声楽付き楽劇「トリスタン」  2016-03-22 | 音
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
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ベルギーの原発ティハンゲ

2016-03-22 | マスメディア批評
14時8分発テロ情報、アーヘンから70KM離れたベルギーの原発ティハンゲで避難が始まったとある。

通信社BELGAの第一報で、同地警察所長の通報。

https://de.wikipedia.org/wiki/Kernkraftwerk_Tihange


http://www.focus.de/politik/ausland/70-kilometer-von-aachen-belgisches-atomkraftwerk-tihange-wird-nach-anschlaegen-evakuiert_id_5378098.html

第二報、電力会社エレクトラベル社は、不要不急の従事員を家庭に返しただけだというが、詳細・意味不明。

14時37分、空港とEU本部の間にあるNATO本部は警戒態勢を最高とする。

Extra veiligheidsmaatregelen op nucleaire sites, 22 maart 2016 | 15:38

ベルギーの放送局rtvによると、テロを受けて原発で特別警備されたことは事実のようだ。

ライヴニュースhttp://www.tvl.be
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声楽付き楽劇「トリスタン」

2016-03-22 | 
開演前のオリエンティールングの内容はとても過激なものだった。楽劇「トリスタンとイゾルテ」は、決して初期のオペラのようなものではなくてベートーヴェンの合唱交響曲を発展させた声楽付きの楽曲で、管弦楽の荒波に乗って適当にオペラが演じられている音楽劇であるということだった。

既にお勉強で書いたことと同じことでもあり、当日のプログラムにも冒頭の「船乗りの歌」の「狩りの歌」から「愛の二重唱」、「牧童の歌」への変容とその動機的なべートーヴェン的展開、そして「マルケ王の問い」の扱いと、管弦楽の荒波とショーペンハウワーの「切望の意思」の相関に触れられており、実際この楽劇の価値はそこにある。それ故に、この楽劇を理解しないヴァークナー愛好家は、たいへん多く、そうした聴衆は、必ず「マイスタージンガー」の豪快さを賛美する、彼らは典型的なオペラ愛好家で、音楽や芸術を理解しない人種なのだ。

そこでサイモン・ラトル監督の指揮の演奏は、予想通り声楽が付いた管弦楽作品だったのだが ― 舞台を覗いていた時間は全四時間の中で四半時間ほども無かっただろう、第一幕で特に邪魔になったのは演出で高み歌わされた歌手の声の音響効果でもとても悪い影響しか齎さなかった。これならば舞台など要らない、といってもコンサート形式でオペラ歌手が器楽的に歌えるわけでもない。その分、管弦楽団は密度の高い弦楽器で雄弁に語るのだが、それはまさしく荒れ狂う展開部のようで、追々どうしようもなく劇的な世界から離れ続ける。漸く愛の妙薬の第五場への経過で音楽は変わってくる。そしてそこにおけるフランス印象派風の響きはとても見事であり、そこから長いクライマックスを築いていた。若干帳尻合わせのような気もしないがその効果は圧倒的だった。

二幕では、なによりも管弦楽が、例えば他の指揮者では精々グスタフ・マーラーのアダージョ風に響かすぐらいなのだが、流石にこの交響楽団は正しい音程で音の織物を弾き分けるので、十分にシェーベルク作曲「グレリーダー」ばりの和声進行を響かせて素晴らしい。歌手陣はそれを邪魔することも無く、愛の二重唱の絶頂ではイゾルデの前打音なども綺麗に拘って歌われていて、これもとても新鮮だった ― この節度は流石に英国人でもあり、カルロス・クライバー座のポルノとは至らないのがないのが楽匠の筆であり、この亡命ドイツ人家庭の指揮者の品の無い疎ましさでもある。その反面、マルケ王の叙唱に続いて、歌となると突然にアリア風に響いて驚かされる。決してそのように作曲されている訳ではなさそうなのだが、声とのバランスの関係もあり今後の勉強の課題だ ― 因みにマルケを歌うのは昨年のバイロイトの「指輪」のハーゲンを歌ったステファン・ミリングである。しかし三幕となると、残念ながら舞台に足を引っ張られて、また最後の愛の死の歌唱も含めて失望させられる。これならば、カルロス・クライバーの成果には至らない。楽譜の読みの問題もあるが、総合的にサイモン・ラトルの音楽の限界も見えて来る。

音楽監督交代はバーデンバーデンにとってもぎりぎりの選択だったと感じた。このままサイモン・ラトルが音楽監督の立場にいて、オペラ公演を主体として続けていたならば再びバーデンバーデンの祝祭劇場にとっては厳しい状況になりかねなかった。券の価格の問題もあったが、初日で八割の入りは、オペラ指揮者として及第点を与えられず、そして十分な歌手を呼び込めなかった音楽監督の責任に帰されても仕方がない。

それにしても、ミュンヘンで新演出上演に幾つも通う内に、ザルツブルクやバイロイトでは経験できない超一流劇場の上演の質に慣れてしまうと、下らない歌芝居では愛想をつかされる。キャスティングやアンサムブルの問題だけでなく、演出を含む総合的なプロデュース能力やその経済的な規模など全く人材も何もかもが比較可能な水準ではないのだ。今回がこれでラトル指揮のオペラ上演に接するのはの最後になるだろう。祝祭が始まってから、「魔笛」、「ばらの騎士」と「トリスタンとイゾルデ」そしてザルツブルクでの「レ・ボレアーデ」であった。

今回の演奏でもマイスタージンガーの作曲書法でもあるタクトに揃う多声の叩きはやはり大したもので、そうした特徴がバロックやモーツァルトでは比較的成功しており、またマルケ王に伴なう楽想の鳴らし方など劇場的にも並々ならぬ特性はあるのだが、如何せん劇場空間のマネージメントはまたまた違ったものである。それにしてもイングリッシュホルンもオーボエもホルン陣もよく吹いていた。管弦楽団としてはとてもよくトレーニングされていて、その意味では天晴だ。

なぜ、楽劇「トリスタンとイゾルデ」の上演は初演以来完璧な演奏が達成されていないのか?これは特別興味深い疑問である。キリル・ペトレンコが完成した音楽を披露するまではその全貌を見せることが無いということであろうか?



参照:
Simon Rattle dirigiert "Tristan und Isolde" in Baden-Baden (BR Klassik)
大詰めとなる「トリスタン」 2016-03-20 | 音
これからの予定に備えて 2016-01-28 | 生活
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
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反知性主義のマス高等教育

2016-03-21 | 歴史・時事
夜中零時半に帰宅した。バーデンバーデンの復活祭音楽祭初日だった。いつものように往路のフランスで購入したパイを温めて、ビールを引っかけて床に就いた。ミュンヘンから帰ってくるよりもちょっと疲れた感じがしたのは何故だろうか?翌朝の寝起きも悪く、天気も悪かったが、パン屋が日曜日再開になったので、必要なパンを買いに行った。そして裏山を走った。今週三度目で一月以来のことだ。左足の怪我も大分よくなってきたが、坂道を走るのは六週間ぶりぐらいだろう。短くも完走を目標に走った。

いつものスーパーでは、新鮮な魚介のエビは売り切れていた。詰めかけたドイツ人家庭が買い占めてしまったのだろう。ワイン売り場では、2013年物が多かったが、2011年物もいくらかはあった。同じような価格帯で2009年物のサントネーのプリミエクリュを23ユーロで購入した。そろそろ飲み頃だろうから楽しみだ。

思っていたよりも痛みなどは感じずに上り始めることが出来た。それでも十分に蹴ることは出来ないので、歩幅が伸びない。遅い、それでも心肺系にも負担が掛かる。下りでも何とか着地できるようになってきている。まだまだ力強くとはいかないが、足を捻らない限り、気を付けながら走る土台は出来てきている。通常15分のところで17分掛かっている。上りで倒木が二本あったとしてもまだまだ遅い、まだまだ辛い。それでももう一息だと希望が持てる。

バーデン・ヴュルテムベルクでの緑の党との連立政権にバイエルンなどのキリスト教社会同盟などの政党が賛意を示した。首班のクレチィマー氏の指導力とその一期目の政権を評価したということである。これで再び自由党無しで経済に強い州政府が成立する。ここラインラント・プファルツでは、少数与党でも辞さないと緑の党は大会で表明したようだ。こちらの方は先行き不透明である。

新聞には、影の首相と呼ばれたローター・シュペート元州首相の死亡記事が出ている ― 高等教育を受けていない名誉博士号の専門家としても有名だ。現在のバーデン・ヴュルテムベルク州の経済の強さを築いた政治家には違いない。そして、バーデンバーデンの祝祭劇場計画には無くてはならない政治家だった。そして今やっとその花が咲こうとしている。

同じ新聞のトップ記事は、自由党の元党首でメルケル政権の副首相ヴェスターヴェレの死亡記事が出ている。享年55歳だった。一昨日2013年のバイロイト祝祭の初日に旦那と一緒に並んで赤絨毯を進む姿が写っていた。てっきりエイズかと思ったら、白血病だったということである。

新聞にはAfDの新党公約について触れてあった。それをみると、二つの公共放送局網を民営化すると同時に国営放送局を設置するとあった。なぜこのような政党が一割以上の支持を集めているのだろうか。世界中で同じようなポピュリズムへの支持が話題になっている。トラムプ、大阪維新の党その他非常によく似ている ― 序ながら書き加えてくと、こうした連中が高等教育無償化とするのは、中共や北鮮のようにイデオロギー審査に通った者にしか教育を受けさせないということである。どうしてこのような権力集中の政治をどのような有権者が支持するのか?とても興味深い。恐らく共通しているのは、高等教育の大衆化と教養の無い高学歴者の輩出ということではなかろうか?こうした社会層は、教養に欠けるためにそうしたものを育む文化を否定することで、自らを正当化しようとする社会運動を必要としているのだろう。要するに反知性主義というものだろうか。



参照:
万世一系、無窮のいきほひ 2010-01-17 | 歴史・時事
スレート土壌女史の対決 2016-03-16 | 雑感
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大詰めとなる「トリスタン」

2016-03-20 | 
承前)楽劇「トリスタンとイゾルデ」のお勉強もいよいよ大詰めに近づいている。三幕第一場のトリスタンの悲嘆や第二場の夢もサウンド素材であるLPからは十分に情報として取り出せなかった。以前触れたフルトヴェングラー指揮「ニーベルンゲンの指輪」でもそうであったように、ところどころ例えば同音進行の連符などのト書き風音楽を充分にダイナミックなどに配慮せずに流してしまうことから、まさしくト書きになってしまって、要するにその情景がまるで紙芝居のようになってしまうのである。恐らく多くのフルトヴェングラーの音楽の愛好家は、彼のヴァークナーは小宇宙を形作っているような誤解をしているかもしれないが、実はとても箱庭的な劇場作品となってしまっているのである。逆にこのLPが成功したのもそうした効果ゆえなのかもしれない。

問題点を論っても仕方がないので、更なる題材を求めてYOUTUBEなどを探す。面白かったのは、カルロス・クライバー指揮のバイロイトでの演奏の劣悪なVIDEO映像で、音も歪むが、それでも愛の二重唱と愛の死が楽しめる。流石に人気の指揮者だけあって、数少ないレパートリーとして指揮したトリスタンは楽譜の隅々までに目が行き届いている。音質が悪くてもその楽譜が裏まで見渡せるように響いているので、これなどを聞くと録音などではなくて演奏、それ以前に指揮者がしっかりと楽譜を読んでいるかどうかに掛かっていることが実感されるのである。

その他、有名なベーム指揮の実況録音も比較したが、大成功した「指輪」に比較すると意外にもこちらの方が上手く行っている様子だ。またバーンスタイン指揮の録音前後のヘラクレスザールでの演奏会での映像も観れるが、そのテムポも殆どマーラーか自作のような指揮ぶりでなによりもイゾルデ役のベーレンスの特別な歌声に改めて驚き、ブランゲーネ役のミントンの安定した声も少し聞ける。

そこで急いでクライバー指揮のドレスデンシュターツカペレの録音をDLする。それほど評判は良くないのかもしれないが、楽譜を一通り読み込むためには間違いなく役に立つと思ったからだ。上の劣悪な映像からも、楽譜にあるダイナミックスやその他の情報を読み落とすことなく音として再現できているのだから、ドレスデンの座付管弦楽団にも限界があるとしても制作録音であるから、少なくともバイロイトでの奈落での実況以上には細部まで繊細に演奏されていることであろう。

そこで再度一幕から三幕まで流すことになる。前奏曲の最初のppからかなりのダイナミックスを準備している。そして幕開きのクルヴァナール役のフィッシャーディースカウの叙唱も凝ったことをしている。また、高い音域でのチェロに合わせたトリスタン役のルネ・コロの軽い歌声など、またブランゲーネ役でファスベンダーが歌うなど管弦楽団と同時に面白企画にはなっている。それでも一幕を通すころになると、なるほど楽譜を読み込んで教会での録音に挑んでいるのだが、問題となるテムポ変化にはいつも同じようなダイナミックが付け加えられ、その活き活きとした楽節の連続の割にはいささかワンパターンな音楽運びとなっている。必ずしも楽譜はそのようにはなっていないのだ。ある意味アマチュア―精神に満ち足りた指揮者で、その才能も特別に評価されて格別であるが、これを詳しく聞くと、なるほど少なくともこの録音に関しての批判は十分に湧き出ることになる。それでも最後まで聞かざるを得ない特別な質のものだ。

続いて二幕と三幕である。音素材となっているカルロス・クライバー指揮のお蔭で大分楽譜が耳に、その構造が頭に入るようになってきた。例えば二幕の第二場でトリスタンが登場するまでのテムポの運びと、いつものようなアゴーギクなどに若干の違和感もあるが、全体として二幕はとても上手く行っている。軽い声のルネ・コロの音色がとても良いところが多く、イゾルデの高いハのO Wonne der Seeleに対抗するのみならず、明らかに「ジークフリート」と双子の「トリスタン」としてとても上手く嵌まっている。第二場が始まって愛の二重唱、そして恍惚の頂点へと、あまりにもの演奏がここではなされている ― こうして聞くとカルロス・クライバーが喜歌劇「こうもり」や「ばらの騎士」のようなタカラズカ的な歌劇で成功していたのがよく分かる。幾らでも批判は可能であるが、こうした舞台が大成功していたのは事実で当然かもしれない。バイロイト祝祭劇場での録画が二幕のその部分を中心として残っているのも納得できるのだ。

二幕でもそうだが、各所で高弦を主体に対位法が構成される時は、殆どグスタフ・マーラーの交響曲のように、つまり二幕では第五交響曲のアダ―ジェントさながらに響き、三幕の夢への流れでも、これまた同音進行がマンガの吹き出しのような効果を示す。そして第三場の愛の死のフィナーレへと充実した音楽がまるで永遠の時のように続く。

なるほどクライバー指揮のこの録音には多くの批判が可能であり、実際にまるで先ほど逝去したニコラウス・アーノンクールの遣り過ぎの感の独りよがりの強引な解釈の部分とあまりにも丁寧さを欠いた荒っぽい演奏実践を売り物としているところが多くみられるのだが、そうした欠点を補うだけの絶対的な効果も挙げている。こうした演奏録音を聞くと、歌手の実力やキャスティングの問題もあるが、このような曲においては後にも先にも真面に指揮者が楽譜を読み込んでいるかどうかでその芸術的な価値が決まってしまうことを改めて思い知るのだ。(終わり)



参照:
バーデンバーデン復活祭まで 2016-02-18 | 暦
嵐過ぎ去って、その後 2015-04-02 | 音 
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復活祭音楽祭ペトレンコ登場

2016-03-19 | 雑感
2017年の復活祭の座席を確保した。バーデン・バーデンの音楽祭でサイモン・ラトルが監督として最後の年になり、次期音楽監督キリル・ペトレンコがゲストとしてデビューする。引き繋ぎの年となる。2018年以降の公演の音響視察や計画の子細な打ち合わせも兼ねるのだろう。

キリル・ペトレンコに関しては、2017年秋に手兵のミュンヘンの歌劇場と共に日本旅行が決まっていて、「マイスタージンガー」と「サウスポール」と、もう一つもしかすると「影の無い女」が引っ越し上演されるのではなかろうか。なぜならば、「マイスタージンガー」も驚くことに同一キャストで再演され、「サウスポール」は来年一月にも世界初演キャストでの再演が予定されているからだ。

本年一月に臨席した世界初演の実況録画を週末にDLすることが出来た。どうやらフランスでTV放送から録画したようでDVD基準であった。音質に関しては限界があるが、ARTE自身がネットで上げていたものよりも品質が高く、あの精妙なアンサムブルも聞ける。

さてサイモン・ラトル監督の最後のオペラは期待していた「ペレアスとメリザンド」ではなくて、「トスカ」である。まだまだフランスものでは印象の薄い後任者がフランスものを取り上げるまでには時間が掛かるかもしれないが、「トスカ」ならどちらでもよいと思った。それでも最後にコンサートでマーラーの第六交響曲一曲を披露してくれる ― 後任者が一昨年ずる休みしてキャンセルした曲目である。

キリル・ペトレンコのコンサートもチャイコフスキーの悲愴交響曲とハフナー交響曲となっていて、今秋のミュンヘンの座付管弦楽団の第五交響曲での欧州公演よりは少しマシなぐらいだろうか。悲愴交響曲は、若い音楽監督としてフルトヴェングラーもフォン・カラヤンも独自のレパートリーとして取り上げていたもので、その伝統にも則っているかも知れない。しかしそれ以上に、これらの曲のプログラムならば管弦楽団をトレーニングする前でもあまり問題なく客演で演奏できると考えたからだろうか。現在のフィルハーモニカ―はクラウディ・アバドが任を得た時とは異なって遥かに柔軟で機能的な管弦楽団にはなっているが、それでも限界があることは現監督が充分に認知している通りである。

先日改めてミュンヘンの歌劇場のネット予約を試してみたが、中々負荷に強い。それに比べるまでもなくバーデン・バーデン祝祭劇場の電話回線もネットも甚だしく負荷に弱い。昨年も感じていたが、忘れていた。兎に角、電話も掛からず、ホームページもダウン状態が続くのである。それでも一寸した裏口から入ると、予約まで入れた。しかし券の不安定な動きを抑えるためか、座席は選択は不可だった。自動選択で価格別に良い席から配券されている。だから、あれだけ混んでいても最初から二つ目ぐらいの席を入手出来たのではなかろうか。そして今年から価格毎の配席が変わっている。昨年までは高価過ぎたためだろう、割安の二列目が新設されて、予約が遅くなってもそれなりの格安券が買えることにもなる。

座席の視覚に関して検索があった。バーデン・バーデン祝祭劇場は近代的な劇場で音響はどこも悪くはないが、サイドのバルコンの第二列目とあまり舞台に近い前方は舞台が全部見れない。最上部の階上席はかなり高いので舞台奥は見えないが、コンサートでは高みから乗り出せば問題が無い。



参照:
出合いまでの想定をする 2016-01-09 | 雑感
音が鳴り響く環境の考査 2015-04-01 | 音
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